「みことばを宣言しましょう!」

2017年8月27(日)
新城教会牧師 上條実
ヨハネ1章1節~5節

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。』

 ハレルヤ!今日こうして皆さんとともに礼拝をささげることができます事を、心から感謝します。
 
 早速今読んで頂きましたヨハネによる福音書一章一節から五節からより「みことばを宣言しましょう!」というタイトルで聖書を学んで行きたいと思います。先週一週間、このヨハネによる福音書一章一節から五節のみことばが、一週間私の心の中で離れず、神様が語りかけ続けて下さいました。特に一節

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』

とあります。私たちの目ではイエスキリストを見ることはできません。しかし聖書は『ことばは神であった。』とありますから、聖書を読むことによって、神を見ることができるというのです。そしてこの聖書は今も生きている神のことばです。

 ヨハネ十五章十六節に、こんなみことばがあります。有名なみことばです。

『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。』

 私たちは様々なきっかけで教会に来るようになりました。聖書は

『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。』

とありますが、自分で考えて教会に来て、自分でイエスキリストをで信じた様に思いますが、神様のほうが私たちを選んで、教会に導いてくださったと言っています。また出エジプト三十三章十七節には、

『主はモーセに仰せられた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから。」』

 このことばはモーセについて言っていますが、私たちにも語って下さっています。神は、あなたを選び、あなたの名前を名指しして選んで下さったとあります。なんという素晴らしい愛でしょう。神はあなたを愛しておられ、神が名指しで選びだして下さったのです。

今世界に、七十四億数千万人の方々が住んでおられるという統計があります。そんな多くの中から、私一人を、またみなさん一人一人を愛して下さっている。それも名指しで選んで下さいました。皆さんは神に選ばれて、この教会に集うように導いて下さいました。神はなぜあなたを、この教会に導かれたでしょうか?聖書の中には「教会」というのは建物を指しているのではなく、キリストが頭、そして私たちは各器官だと言っています。第一コリント十二章二十二節~二十七節を読みますと、

『それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』

というみことばがあります。あなたがを愛し、あなたの名前を名指しして、この教会の一つの器官をなしなさいと、神の選びの中で導かれました。あなたはこの教会の器官として必要であったため選ばれたのです。

人間のからだは、二百個ほどの骨、また約400種類の筋肉、循環器や消化器と呼ばれる十個の内臓、呼吸器や感覚器と呼ばれる表面の器官などから成り立っています。骨はカルシュウムから、筋肉はたんぱく質から出来ています。からだの各器官は、みんな違ったもので出来ており、違った形をし、違った働きをします。しかしからだは一つです。そこには、一致があり、調和があります。なぜでしょうか。各器官が、お互いに一致できるよう努力したり、譲りあったりしているからでしょうか?そうではありません。それぞれの器官は、それぞれ自分の役割を果たしているだけです。しかし、からだには一致があり、見事な調和があります。キリストのからだに属する人々が、懸命に努力してやっと一致や調和を生み出すしていません。キリストのからだに属する者たちは、自分たちで一致や調和を造り出すのではなく、キリストによって与えられた一致と調和を保っていくのです。キリストが頭であり、私たちは一器官として召されたのです。それぞれの器官は、それぞれ自分の役割を果たしているだけです。キリストのからだの各器官が、ひとつの命、キリストのいのちによって生み出されたものならば、そこにはもとから一致があり、調和があります。

あなたはこの教会の一つの器官を、主から担われています。エペソ五章一節には

『ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。』

とあります。あなたは神にならう者となって教会の一つ器官として、役割をはたす者でなくてはいけません。その為にも各器官である私たち一人一人が「ことばは神であった。」とある神のことば聖書を読み、学び、実行する必要があります。

私たちの教会はメッセージする聖書箇所や写真、動画なども映像が写し出されます。昔は聖書と聖歌と讃美歌を礼拝に持参し、賛美の時は聖歌や賛美歌の番号を開いて、開いて賛美し、メッセンジャーが「どこどこを開いてください。」と言うと、聖書を開いていました。子どもの頃は、新約なか旧約なかも分からず、開いていたら間に合わず、メッセージが先に進み、又違う聖書箇所を開きましょうと言われたりしていました。今は聖書も開かずにメッセージを聞くことが出ますし、賛美も顔をあげて賛美することができるようになりました。しかし聖書を手にすることがなくなり、知らずと日々聖書を開かない。読まなくなってしまっていませんでしょうか?今はスマートホンでも聖書を読むことができますので簡単に読むことができるのに、ゲームや検索などはしますが、聖書は開かずに終わってしまうときがあります。

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』

そして

『ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。』

と先ほどみことばをお読みしましたが、みことばに触れることが少なくなり、神にならう者からかけ離れた生活を送ってしまっている人がいるかも知れません。

 エペソ六章十一節~十七節には

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を 身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。』

とあります。十一節に

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。』

とあります。悪魔は私たちに策略を巡らせてきます。その中で、一番簡単な策略であり、且つ悪魔側にしたら、一番効果的な策略は何かというと、みことばを読まなくさせる。みことばからクリスチャンを離す事です。何故かと言うと、エペソ六章十七節には、有名なみことばですが、

『救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。』

とあります。クリスチャンが武器であるみことば。みことばの剣を持つことがなくなれば、やられずに済むからです。みなさん是非聖書を読んで、みことばの剣を持って戦う勇士に成って欲しいのです。
 あなたは毎日同じ服ばかりを着ていますか?そんなことはないと思います。毎朝着替える時、今日は何を着ようか考え、着替えをします。しかしなぜ私たちは日々新しいみことばの剣を手に持たないのでしょうか?伝道者の書三章一節には

『天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。』

とあります。すべてに時がある言っています。すべて神の時があります。私は思うのですが、今日は今日のみことばの剣があると思います。包丁でも、野菜を切る包丁。肉を包丁。魚を切る包丁などあります。魚でも大きい部位を切る包丁。三枚おろしなどに使う包丁。お刺身に使う包丁。その都度取り替えて使います。みことばの剣もそうだと思うのです。見当違いの剣。古いさびたような剣ではなく、今日必要な、今必要なみことばの剣があると思います。イザヤ三十章二十一節

『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。』

とあります。これが道だ。これに歩め言うことばを聞く必要があると思います。毎日時がありますから、聖書を通読して行く中でも、これが道だ。これに歩め言うことばを主は語っていると思います。私たちは毎日受け取らなくてはいけないと思います。

 しかし私たちはのんきな者で、受け取れずに生活してしまっています。自分の生活が優先してしまう。まんまと悪魔の策略に引っかかってしまいます。

私たちは神に選ばれて、名指しで呼ばれ、選ばれた者です。十字架という大きな犠牲の中で、ローマ人への手紙八章三十七節

『しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。』


圧倒的な勝利を私たちに与えてくださる神を信じています。圧倒的な勝利です。しかし悪魔はそれがどんな大変なことを知っていて、イエス様を愛する信仰生活を軽く考え、みことばの剣を忘れさせる。みことばを読まない。持たせない策略を仕掛けてきます。みことばを忘れさせて、ある面悪魔はやり放題しているこの世の中だと思います。一週間のうち一日だけ、しかも礼拝の時だけ。新城教会では十時半から十二時の一時間半だけ神に目を向けます。しかしあとの六日と二十二時間半は、クリスチャンがみことばを剣を持たせないようにして来ています。今日悪魔の策略を打ち砕き、毎時みことばの剣を持って生活して欲しいと願います。イエス様が公生涯に入る時マタイ四章三節~十一節を読んでみましょう。

『すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。』

とあります。これはもう四十日間の断食を終えたイエス様が悪魔との対決したときのことが描かれています。悪魔はイエス様に対して断食後の一番欲しいと思っている物で対決してきています。悪魔は私たちが今何が必要かを知って戦ってきます。

『すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石が パンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」』

とあります。断食後一番必要な所をついて策略を巡らせてきます。石をパンにしなさいと言いました。私たちが一番傷を受けやすいところ、弱い所を狙ってきます。

 またこのヨハネ四章四節の所では、高い頂に立たせて、「ここから飛び降りてみなさい。」と悪魔は言いました。その時に、マタイ四章六節に、こんなみことばがあります。

『「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」』

 悪魔は神のみことばも知っていたのです。イエスを馬鹿にして、「飛び降りろ。そしたら助けてくれると書いてあるじゃないか。飛び降りてみろ。」と言うのです。みことばを試させようとしてきています。七節には、

『イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」』

と言って、悪魔に立ち向かいました。そして八節、九節、十一節のみことば、

『イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」』

とあります。最後に悪魔はこの世のすべての国々とその栄華を見せて、

『「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。』

とあります。「俺を拝んだら全部やる。」と言いました。しかしイエス・キリストは、『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』その後になんと書いてあるかというと、『すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。』とあります。

 みことばを宣言して、勝利しました。

『初めに、ことばがあった。ことばは神であった。』

 私たちは毎週のようにメッセージにおいて、霊的戦いの事が語られるので、暗闇の力はこの教会の各器官が、それぞれ自分の役割を果たせないように、みことばを忘れさせます。。キリストのからだの各器官が、ひとつの命、キリストのいのちによって生み出さないように、

『初めに、ことばがあった。ことばは神であった。』

みことばを読まない。みことばをないがしろにさせる。それがイコール神をないがしろにさせてくるのです。今日ここで真理の帯をしっかりと締めて、私たちは主の勇士であることを認め、神のことばである聖書のみことばをいつも読み、常にみことばの剣を持つクリスチャンになりましょう。エペソ四章二十七節には、こんなみことばがあります。

『悪魔に機会を与えないようにしなさい。』

 私たちは機会を与え過ぎていると思います。第一ペテロ五章八節~九節(リビングバイブル)、

『最大の敵である悪魔の攻撃に備えて、くれぐれも警戒しなさい。 悪魔は、飢えて、ほえたけるライオンのように、引き裂くべき獲物を求めて、うろつき回っているのです。主を信じ、悪魔の攻撃に立ち向かいなさい。そして、世界中のクリスチャンが、同じ苦しみを通って来たことを、忘れないようにしなさい。』

とあります。特に八節のみことば、もう飢えたライオンが何か食べ物がないかとうろついているようにとあります。私たちはこのみことばで、いつも理解はしてはいるのですが、目に見えるところだけに目をとどめさせて、目に見えないもの。大切な霊的部分を軽んじてしまいます。知らない間にほえたける獅子に、やられてしまいます。祝福を奪い取られてしまっています。

 今年は詩篇一〇三篇一節から五節のみことばから「二〇一七年 あなたは良いもので満たされます!」というタイトルでメッセージが語られています。先週でパート十九でした。

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。』

今年、私たちの教会、また私たちに、「良いもので満たす!」と語って下さっています。しかしなかなか私たちの手に、その祝福を頂く事ができません。私は今回のメッセージを語るにあたって教えられた事は、聖書のことば、みことばをあなたがどれだけ重視するか。そしてそのみことばを宣言することが祝福を頂く鍵だと教えられました。

 ヘブル十一章一節に、私の大好きなみことばなのですが、

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

 良いみことばですよね。私たちが「こうしてほしい」と、神様に願ったことは、必ずなるというみことばです。

 そしてヤコブ二章十四節~十七節を読むと、

『私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。』

 私たちは信仰が必要です。そしてヤコブの手紙は、行いの書と言われています。信仰があると言っても、その人に行いがないならなんの役に立つかと言っています。着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。とあります。私たちは実行できる器になっていきたいと思います。

 話は全く変わりますが、二ヶ月程前の事ですが、近くのドラッグストアで千円以上買い物をすると、スクラッチくじを下さる催しをしており、「これ入れておきますね。」と、店員の方が買い物袋にスクラッチくじを入れて下さいました。私は全く忘れていましが、後日朝の食事を用意している時に、そのスクラッチくじが目に入ったので削ってみました。どうせ当たらないだろうと思って削った所

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 なんと「商品券六千五百円分」とありました。私は驚いてしまいました。しかしこの当たったスクラッチくじをゴミ箱に捨てると思いますか?私は捨てませんでした。すぐにドラックストアーに行って、商品券をもらう事ができました。そしてわが家の子どもたちにも分けてあげました。もらいに行って、そして後日その商品券で買い物しました。

 先週の水曜日、八月二十三日にアメリカのマサチューセッツ州の小売店で医療機関に勤務するメービス・ワンジクさん。53才が「パワーボール」というアメリカの宝くじを買いました。

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 この黒い服を着た眼鏡の人がメービスさんですが、なんと高額当選をしました。いくら当たったかというと、七億五千八百七十万ドル。なんと日本金にすると、八百三十億円だそうです。勤務していた医療機関をその日に退職して、「これからはゆっくり過ごします。」とインタビューに答えたそうです。換金してこの人は、八百三十億円を手に入れたそうです。当たり宝くじを換金したから大金を手に入れることが出来ました。

 また日本では先週の日曜日に、サマージャンボの番号が発表されました。

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買われた方いらっしゃいますか?私は買いませんでしたが、このサマージャンボ、なんと前後合わせて七億円です。一等が五億、そして前後賞が一億円ずつで七億円です。当選番号を写真で出します。

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七十五組一五九一四九番が五億円でした。その前後合わせて七億円です。もしあなたがもし七十五組一五九一四九番の当たりクジを持っていたらどうしますか?どこかにずっと隠しておきますか?有効期限は一年だそうです。一年過ぎるとただの紙切れになるそうです。ここでお聞きます。あなたなら一年以上放っておきますか?私なら絶対に、すぐ銀行へ行って換金します。当たったらうれしいですよねぇ。換金するために銀行に出かけて行き、手続きに乗っ取って換金します。七億円は非常に大金です。

ではどうでしょう、先ほど今年私たちの教会に与えられてみことばが「主は良いもので満たしてくださる」と語りました。私たちはみことばを聞きます。メッセージを聞いて「恵まれた」「良いもので満たして下る」と言うことは理解できます。しかしなぜそれ以上に進まないのでしょうか?それは、私が教えられたのは、みことばを実行していないからです。今年何度も戦いましょう。賛美しましょうなど語られています。しかし聞いているだけで、実行していないのです。みことばを聞いていながらも、私たちはそれを受け取ることができずに、そして使うこともできないのです。

 先ほども読みましたように、みことばというのは剣です。みことばの剣は敵を打ち砕くアイテムです。暗やみの支配者達が祝福を阻止しようと、お腹を空かせたライオンが私たちの周りを歩き回っています。その暗やみの支配者に向かって、みことばを宣言すれば、みことばは剣となって打ち砕いて下さいます。すばらしい約束、あなたを良いもので満たしてくださるというみことばが現実のものとなります。聞いてはいても、そのままにしてしまっているところはありませんか?策略にまんまとはまり、どうせ祈っても無理だとか、仕事が忙しくてそれどころじゃない。また趣味や遊びの方が楽しいからと、目の先の快楽に目を向けてしまっている方もいると思います。みことばを聞くだけで終わってしまうのではなく、みことばの剣、聖書のことばを宣言しなくてはなりません。

詩篇百三篇一節から五節
『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ 忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、なたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』

ということしのみことばが必ず成就します。みことばの剣をしっかりと持って、神が一生を良いもので満たしてくださるという約束ですから、みことばを実行しましょう。みことばを宣言しましょう。あなたがみことばの剣を持って使うとき、悪しき力が打ち砕かれます。

 以前シオンタイムの皆さまとは分かちあったのですが、お年寄りになってくると、自分は年寄りで、目も、耳も衰えて何もできないと考えてしまいがちです。神様のために働けと言われても、何もできない!と告白してしまいます。しかしみことばの剣、聖書は何と言っているでしょうか?コリント十二章二十二節

『それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。』

神の目から見たら、弱いと見られる器官がなくてはならない大切な器官です。ぜひ信じて宣言しましょう。あなたが足や腰が痛くて動けなくたって、目が見えにくい状態であっても、あなたがみことばの剣である神のことばを宣言するとき、大きな勝利。圧倒的な勝利をもたらすことが出来ると信じます。イザヤ四十六章四節

『あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。』

とあります。私たちが大変な時は主が背負って下さるとあります。また詩篇三十七篇二十五節から二十六節、

『私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。その人はいつも情け深く人に貸す。その子孫は祝福を得る。』

とあります。年を取っても見捨てられることなく、あなたが宣言するとき、子孫は祝福されます。また詩篇七十一篇十八節、

『年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。』

 また詩篇九十二篇十四節、

『彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。』

とあります。年を取っても実を結び、祝福をもたらす器です。自分は年だからとか、考えないで下さい。今日本の教会の中に二千三十年問題があると言われています。今クリスチャンが高齢化してしまい、後、十数年で日本の教会には誰もいなくなってしまうと危惧されています。しかし今こそ日本のお年寄りの皆さんが祈り、暗やみの力に対抗して、みことばの剣を持って、みことばを宣言するとき、勝利を頂く事が出来ます。弱いと見なされる器官が、なくてはならない存在です。お年の皆さん。宣言して下さい。主の管理人として宣言して下さい。

また助けが必要な時が人生の中で多々あります。そんなときはこのみことばを宣言しましょう。イザヤ四十一章八節から十節

『しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。』

宣言しましょう。また神の愛が必要な時もあります。その時はイザヤ書四十三章一節から四節

『だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、【主】はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、【主】はこう仰せられる。「恐れるな。 わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、【主】、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』

とても有名なみことばです。また様々な時みことばを宣言しましょう。みことばを読んでも剣とせずに、道徳的なことば、慰めのことばに聖書が成り下がってしまっています。しかし聖書はみことばの剣です。今も生きていて成就することばです。メッセージを聞いて「良いメッセージだった!」とそれで終わらないで下さい。毎週この教会に必要なみことばが語られています。みことばの剣として宣言して下さい。みことばを実行して下さい。今日もあなたに、「みことばの剣を受け取り、実行しなさい」と、語っておられると信じます。みことばを実行する者になってください。みことばの剣をふるってください。祈る時、宣言するとき問題が動き始めます。
 是非毎日神のことばである聖書をお読み下さい。主はあなたに今日必要な剣を下さいます。あなたを名指しして愛してくださった主は、今日はあなたの名を呼んで「この剣を持ちなさい」と語って下さいます。子どもからお年寄りまで、全ての方が。キリストが頭で私たちは器官です。全ての器官が動き始めるとき、一致して動き始めます。あなたが家庭で、職場で、学校で、主がお示し下さった場所で宣言するとき、圧倒的な勝利が始まります。

 みことばは生きています。そして、聖書は諸刃の剣よりも強いと書いてあります。これは、暗やみの力、悪魔悪霊を打ち砕くことができますが、気を付けなければいけないのは、諸刃の剣です。自分にも返ってくるのです。今から聖餐式を行いますが、自分自身を吟味して聖餐に預かりましょう。イエスキリストが十字架にかかり、葬られ、三日目に甦られた事を信じ、私たちが主との関係をしっかり持って、主にならう者となって、みことばの剣を宣言してください。今週一週間、みことばを宣言する一週間にしましょう。戦ってくださるのは主です。悪魔の攻撃から守られるだけでなく、今まで開かなかった所に、みことばの剣がさし込まれるのです。関節と骨髄さえもさし込むことのできる剣です。今まで入らない隙間のような場所にも、主のことばは有効です。あなたに良いもので満たしてくださいます。最後に皆さんでご一緒にお祈りしたいと思います。一同お立ちくださいますか。そして、詩篇百三篇の一節から五節を、暗やみの力に対して、宣言しましょう。体である教会として宣言したいと思います。またあなたがどうしても解決して頂きたい事を思い浮かべながら、宣言しましょう。また被造物の管理人として天と地を繋ぐためにも宣言しましょう。「あなたの一生は良いもので満たされる!」このみことばは生きていて、今も私たちの中で働きます。みことばの剣を悪魔に投げ込んでいきたいと思います。今から、詩篇百三篇一節から五節をご一緒に声を出してお読みしましょう。これが宣言です。

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』

 今、みことばを宣言したことが現実の世界で起こされることを感謝し、信じて、主に大きな拍手を送りましょう!お祈り致します。

愛する天の父なる神さま。私たちはみことばの剣を使わず、みことばを宣言せずに過ごしてきました。お赦しください。今週は一同がみことばを宣言するものとさせて下さい。みことばの剣をとおして、悪魔悪霊を打ち砕く一週間とさせて下さいますように。毎日必要なみことばの剣を持たせて下さい。宝の持ち腐れとなりませんように。皆がみことばを宣言して、あなたが愛しておられるこの地を暗やみの力から勝ち取る時となりますように。今から聖餐を頂きます。私のために十字架にかかって下さったイエスキリストを覚え、感謝しつつ聖餐を頂きます。この聖算式を豊かに祝福して下さい。主イエスキリストのみ名によってお祈りします。  アーメン