「2017年あなたは良いもので満たされます —パート22— 
「再建」主のみ手が動く時

2017年9月24(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ネヘミヤ 2 章17-18節

『それから、私は彼らに言った。「あなたがたは、私たちの当面している困難を見ている。エルサレムは廃墟となり、その門は火で焼き払われたままである。さあ、エルサレムの城壁を建て直し、もうこれ以上そしりを受けないようにしよう。」そして、私に恵みを下さった私の神の御手のことと、また、王が私に話したことばを、彼らに告げた。そこで彼らは、「さあ、再建に取りかかろう」と言って、この良い仕事に着手した。

 国を越えて言葉を越えて、主をほめたたえることのできる恵みを感謝します。今日のメッセージタイトルは、「再建・主の御手が動くとき」と付けさせていただきました。このほど、チェ先生がCDを出したのですが、そのタイトルが「再建」です。
 聖書には、「再建」とか「回復」というテーマがあります。主は、一度壊れたものを回復してくださるお方です。時々、人生が壊れて、どうにもならない時があるかもしれません。しかし主は、再建し、回復してくださるのです。

 聖書とは、何か百科事典のように、必要な時に開いて、そこから答えを見つけ出すような読み方が長年、続いていたのですが、最近、聖書は一冊の壮大な物語であることが、さまざまな研究の結果分かってきたのです。
 ドクター山崎からも習っていますが、聖書は大きく分けて六つの章に分かれていると言われます。第一章は「世界の創造」から始まります。初めに神が天と地を創造したという宣言から始まるのですが、その後、人が造られ、万物の管理人として任命されましたが、「罪を犯して堕落」するわけです。しかしその管理人をもう一度回復して、被造物全体を回復するために、神は「イスラエル」という民族を選んで、旧約聖書は、「イスラエルの物語」です。
 その中から誰がお生まれになるかというと、「救い主イエス様」です。新約聖書、福音書は実に、「イエス・キリストの物語」です。
 イエス様は十字架にかかり死なれましたが、三日目によみがえられました。死の力を打ち破って、勝利してくださったのです。その次に始まる物語が、「教会の物語」です。
 私たちは今、聖書のどの単元に、どの章に生きているのかというと、第五章、教会の物語の中に生かされているのです。天地創造から続いている、神の壮大な計画を実現するために、ここにいるのです。

 そして聖書の最終的結論は何かというと、「新しい世界の到来」です。聖書とは、「天地創造から、新しい天と新しい地の創造への、壮大なストーリー」と言ってもいいと思います。
 各時代を生きた、神から任された仕事を忠実に行った人たちによって、今があるわけです。そして現在、教会の物語を生きる者として、この時代の使命を果たさなければいけないわけです。
 ヨハネの黙示録二十一章二節、

『私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。』

 このような幻をヨハネは見せられました。昨日も結婚式がありました。結婚式には、特別な感動があります。

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 私は、義人君が現れた時、どこのレストランのボーイさんが出て来たのかな?と思いましたが、そのあと、りえさんが花嫁として、バージンロードに現れた時には、たいへん感動しました。花婿が出て来る時にはあまり感動しませんでしたが、花嫁が出て来る時は感動です。ヨハネもそんな光景を見ました。
 聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来たというのです。
 みなさん、天国はどこに現れるのでしょうか。それは遠い空のかなたではなく、この地に下ってくるのです。この地が、なんと天国になる日が来るわけです。新しい天と地の創造、私たちは、その日に向かって進んでいるわけです。そして、旧約聖書の中で、イスラエルの物語は、やがて新しいエルサレムが下りて来るひな形、サンプルのようなストーリーだと思われます。
 特に、エルサレムの回復、再建は、私たちが新しいエルサレムに向かって行くための、歴史の中から学ばなければならない、様々な知恵とアイディアが満ちていると思われます。

 今日読んだ聖書箇所も、エルサレムの回復が述べられています。
 イスラエルの歴史は途中で、北イスラエルと南ユダに分かれます。イエス様は南ユダ側からお生まれになられたわけですが、南ユダは、バビロニア帝国の捕虜となり、七十年に渡って苦しめられたわけです。しかしその後、エルサレムに帰って来るわけです。
 ペルシャの王、クロスがユダヤ人に帰還命令を出して、彼らは帰ることを許されたのです。彼らは帰って最初、何をしたのかと言うと、神の宮をもう一度再建したのです。聖書を歴史的に、だいたい掴んでおくといいと思うのですが、年代についても、資料によって違うことがありますが、ユダヤ人たちの帰還が許されたのが、紀元前五百三十八年、紀元前六世紀頃の事です。
 そして神殿がエルサレムに再建されたのは、紀元前五百十六年頃だといわれます。ダビデ、ソロモンの時代には、荘厳な神の宮がエルサレムに建っていたのですが、それがバビロニア帝国によって破壊され、第二神殿と呼ばれる宮が、エルサレムに再建されたのです。
 その後、エズラが来て、エルサレムにリバイバルが起きます。それが、紀元前四百五十八年頃ではないかと言われます。

 しかし、エルサレムに、神の宮は建ったのですが、なぜか、街の城壁は再建されなかったのです。古代の街は、城壁があってこそ、街として機能しました。城壁がなかったら、敵が容易に侵入し、破壊されてしまうからです。本来は、街を再建する時には、最初に城壁を修理し、それから神の宮を造れば良かったと思われます。しかしユダヤ人たちは、そのような順序で街を再建しませんでした。
 まず最初に、神を礼拝する場所を再建したのです。彼らはバビロンから帰ってきて、すぐに、神を礼拝する場所を建て直したのです。

 人生も同じだと思われます。時々、問題で人生がぼろぼろになって、もう駄目だ!という時、どこから回復したらいいのか、途方に暮れます。しかしそれは、神の宮から建て直さなければいけないのです。神殿とは、神と自分との関係をしっかりと保つ場所です。現代においては、私たち自身が神の宮ですから、私たちが主を礼拝する神の宮として、回復される時、全体の再建へとつながるのです。

 しかしながら、城壁が再建されたのは、実に、エルサレムにユダヤ人たちが帰還して、九十三年後でした。そんな長い期間がかかったのです。九十三年間、第二神殿は、破壊されたエルサレムの真ん中にあり、敵は出入り自由でした。
 しかし九十三年後、ネヘミヤという預言者が遣わされ、あっという間にエルサレムの城壁は再建されて、街が再建されたのです。

 神の宮が再建され、城壁が完成するまでのストーリーは、やがてイエス様がこの地上に帰って来らる、新しい天と新しい地の創造に向けての、教会の働きに対応するものと考えられます。
 教会は敵のただ中で、主を礼拝する存在です。しかし、これだけでは天のエルサレムを地上に招くには、欠けがあります。それは、城壁を再建し直さなければならないということです。

 神様は、呼べど暮らせど、全く反応がないように感じる時もあるのですが、ある日突然、御手が動き始めるのです。九十三年間、回復不可能だったエルサレムの城壁は、半年も経たないうちに、五十二日で建て直され、二度と敵が侵入できない、堅固な街となったのです。神の回復、再建のスピードは、始まったら、実に早いものです。
 時々、私たちは様々な問題で苦しみ、どうしたら良いのかと、途方に暮れることがあるかもしれないけれど、主は、時を支配しておられて、時が満ちる時、一瞬にしてすべてが回復していくことを、ここから学ぶことが出来ます。

 同時にネヘミヤが城壁を再建する時、何を行ったかを知る時に、人間側で満たさなければならない条件を見いだすのです。ネヘミヤ記二章十一節〜十五節、

『こうして、私はエルサレムにやって来て、そこに三日間とどまった。あるとき、私は夜中に起きた。ほかに数人の者もいっしょにいた。しかし、私の神が、私の心を動かしてエルサレムのためにさせようとされることを、私はだれにも告げなかった。また、私が乗った獣のほかには、一頭の獣も連れて行かなかった。私は夜、谷の門を通って竜の泉のほう、糞の門のところに出て行き、エルサレムの城壁を調べると、それはくずされ、その門は火で焼け尽きていた。さらに、私は泉の門と王の池のほうへ進んで行ったが、私の乗っている獣の通れる所がなかった。そこで、私は夜のうちに流れを上って行き、城壁を調べた。そしてまた引き返し、谷の門を通って戻って来た。』

 ネヘミヤは、エルサレムに戻ったわけですが、第一に何をしたのかというと、まず、彼は夜中に起きて、街をくまなく「調査」したみたいです。特に、城壁がどうなっているのかを詳細に、調査したみたいです。
 十一節から十五節の中に、「城壁を調べる」という言葉が、二回も出て来ます。彼は夜、そっと出て行って、城壁のどこが壊れているのか、つぶさに調べました。破壊された箇所を突き止めた後に、城壁の再建を始めたわけです。その時、あっという間に、城壁は再建したのです。
 先日もお話をさせていただいたのですが、第一テモテ六章十九節、

『また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。』

 未来に備えて良い基礎を造れとは、「現代の基礎が未来を決定づけるなら、過去の基礎が現在を支配している」と話しました。過去に崩されていた破れ口から敵が侵入してしまうケースが多いのです。
 イエス様が帰られる道を用意するためには、どの時点で、どの場所が壊れているのかを、個人的にも、教会的にも、国家的にも、歴史的にも、調査しなければならないのです。あっ!この場所が崩れている!と、壊れた箇所を発見して、修理する時、街の機能は回復するのです。
 調査の後、何が行われたかというと、ネヘミヤ記三章一節〜三節。

『こうして、大祭司エルヤシブは、その兄弟の祭司たちと、羊の門の再建に取りかかった。彼らはそれを聖別して、とびらを取りつけた。彼らはメアのやぐらまで聖別し、ハナヌエルのやぐらにまで及んだ。彼の次にエリコの人々が建て、その次にイムリの子ザクルが建てた。魚の門はセナアの子らが建てた。彼らは梁を置き、とびら、かんぬき、横木を取りつけた。』

 三章の近辺を読んでいただきますと、ネヘミヤが城壁の破れた箇所を調査した後、エルサレムにいた人たち全員が協力して、一気に、破れを修理した事が分かります。
 住民たちは一致して、それぞれの得意分野において、修理しなければならないところを修理したのです。
 この箇所を読みますと、家族ぐるみで修理したとか、熱心に働いたとか、さぼっていた人のことも記されています。しかし、いろんな人が協力して、破れを繕ったことを見ることができます。これは現代においても、同じではないかと思います。
 第一コリント十二章二十七節に、こんな言葉があります。

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』

 今日ここにお集まりの一人一人は、キリストのからだに属していて、各器官です。
 ネヘミヤが破れを見つけ出し、その後は、そこに住む民が、総出で破れを繕ったのと同じように、教会に属している者たちは、それぞれ神から与えられた役割を果たし、過去に悪魔・悪霊どもに破られた進入路を塞ぐ働きをする時、神の国は再建されるのです。
 同時に再建作業には、様々な妨害や敵の介入があったことも知らされます。それはただ単なる、見える敵ではなく、「霊的戦い」でした。

 以前に何度もお話しさせていただいていますから、詳しくは話しませんが、すでに神殿を建て直す時点から霊的戦いがありました。神殿を建て直そうとした時、すぐに川向こうから敵が来て、「誰から許可を得て、神殿を建て直そうとしているんだ!」と妨害があったのです。
 しかし、そんな中で、ゼカリヤという預言者が幻を見たことを、以前に、お話させていただきました。
 ゼカリヤ書三章一節〜五節、

『主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。主はサタンに仰せられた。「サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。」ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」すると彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、彼に服を着せた。そのとき、主の使いはそばに立っていた。』

 エズラ記とゼカリヤ書を対比して読んでみると、現実の世界と、目に見えない世界がシンクロして何かが起こっていたのです。
 エズラ記五章一節から五節では、ゼカリヤとかヨシュアは、神殿の再建工事現場のただ中にいました。すると、川向こうから敵が来て、「仕事やめてしまえ!」と、妨害したのです。
 けれども同時刻、同じ場所で、ゼカリヤが見せられた幻が、今読んだ箇所です。

 大祭司ヨシュアも、ゼカリヤも、工事現場にいたはずですが、工事現場は、同時に天での訴えの場でもあったわけです。サタンが来て、ヨシュアの衣の汚れを訴えていたのです。「おまえの衣が汚い!」と訴えた同じ時刻に、地上では敵が来て、工事を中止させられそうになっていたと、以前にお話しさせていただきました。エルサレムの街の再建は、まさに「霊的戦い」であったのです。
 しかし戦いの中、それぞれ役割を任された人たちが、自分たちの持ち場をしっかりと果たした時、勝利が現わされたことを見ることができます。これは、現代を生きる教会にも、大変参考になる記事だと信じます。

 エルサレムの回復は、やがて新しい天のエルサレムが、地上に降りてくる教会の戦いそのものに対応していると言えます。

 今から百年くらい前、「東洋のエルサレム」と呼ばれた場所があったのを、みなさんは、ご存じでしょうか?この東洋に、「エルサレムのようだ!」と言われた場所があったのです。それがどこかというと、今や、世界で一番恐ろしい男が住んでいると言われているこの場所です。

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 現在の北朝鮮の平壌に、一九〇七年、大リバイバルが起きました。それは悔い改め、祈り、伝道のリバイバルでした。人々はアルコール中毒から抜け出し、麻薬から解放され、罪と不義から、平壌は東洋のエルサレムとまで呼ばれるほどに変わり、多くの奇跡が起こったというのです。
 今では信じられませんが、今や世界中の人たちが、平壌を恐れています。私は、あまり恐れないほうがいいと思っていますが、今から百十年くらい前は、平壌は、東洋のエルサレムと呼ばれた場所でした。
 それは未だかつてないほどの、大きなリバイバルだったそうです。クリスチャンでない人たちも、その様子を見て、この働きが広がって行ったら、やがて朝鮮半島はおろか、アジア全体が変わるのではないかと期待を寄せたほど、大きなリバイバルだったそうです。

 しかし、すぐに敵の攻撃にさらされて、リバイバルの火は消えて行きました。どのようにして、リバイバルの火が消えたかご存じでしょうか。その最も大きな原因を担ったのが、日本でした。
 日本は、一九一〇年、朝鮮半島に侵入し、日本では日韓併合と呼んでいますが、植民地政策を実行したのです。その結果、リバイバルの火は消えていきました。日本は神社を、今分かっているだけで千五百くらい建て、牧師たちを捕らえ、迫害し、神社崇拝を強要しました。
 日本では負の歴史は隠されますから、あんまり学ぶ機会はないのですが、これは、日本の教会が悔い改めなければならない、過去の大きな城壁の破れではないかと思われます。日本のクリスチャンたちが、その事実を知り、悔い改めを祈らないといけないのです。少なくとも平壌が東洋のエルサレムとまで、称された時代があったのです。しかし今、世界で最も恐れられている街になっているのは、ただ単に、政治的、軍事的な問題として捉えるのではなく、エルサレムでも霊的戦いであったのと同様に、神の民が集結して、破れを繕っていく働きをしなければならないのです。特に、世界が平壌から発せられる情報によって、右往左往しているこの時期に、日本の霊的役割は、結構大きいのではないかと思っています。
 今週もいろいろニュースが飛び交うかもしれません。ミサイルが飛び交うかどうかは知りませんが、是非、祈っていただきたいと思います。

 実はキリストのからだは、不思議だと思うのですが、とりなしをするための必要情報が、結構揃っているのです。牧師をやりながら感じるのは、教会に集まって来られる方々は、絶対に偶然じゃないと思います。それぞれ、様々な背景を持ちながら教会に来るのは、ただ、「救ってあげたよ」という個人的なことではなく、主が帰って来られる道を用意するために、それぞれ役割を背負わされて、教会に遣わされていると思います。それをネヘミヤのようにまとめて、城壁を修理しなければならないと私は思っています。

 数年前から、この教会に属する一人の女性が私の所に来て、「韓国に行ってとりなしの祈りをしたいのですが」と言われました。「いいですよ、一緒に行く誰かを紹介しますよ」という感じでした。
 先週は、その方たちが、主から示されて、三名で韓国にとりなしの祈りに行かれました。三人とも日本人ですが、この三人、それぞれ背景が違うのです。ただ友達関係で韓国に行ったように見えるのですが、主が用意した絶妙なチームであったことに、後から気づくのです。
 私が八月に行ったDMZに行って、北朝鮮が見える場所で祈りたいと言われました。だから私も協力させていただき、チェ先生に、ちょっと手伝ってくれますか?とお電話しましたら、快く引き受けてくれました。その三人がこの方々です。

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 この方々は皆、今は日本人ですが、背景を知ると、神様って不思議だなぁと思います。

 先ほども触れたのですが、一九〇七年で平壌でリバイバルが起こったのですが、一九一〇年、日本が朝鮮半島に侵入したわけです。日韓併合と呼んで、日本は朝鮮半島を植民地にしたのです。
 日本が入って行った事により、朝鮮半島に大きな変化が起こりました。日本軍に追われて、今の北朝鮮付近に住んでいた人たちは、中国とかロシアに離散して行きました。特に中国北部に、「朝鮮族」という名前で多く人たちが残されました。
 南のほうの人たちは、日本が侵入したことにより、日本に強制的に連れて来られ、軍事工場や建設工事等の労働力となりました。こういう事が、日本の侵入と共に朝鮮半島に起こったのです。日本は国家神道でしたから、当時、平壌に起こった大リバイバルの火は、日本によって消えていったわけです。

 今回、韓国にとりなしに行かれた三人ですが、左は、Aさんですが、彼女は在日韓国人三世です。今は日本国籍になっておられます。そして、真ん中のIさん、この人は日本人中の日本人みたいな人です。右側のMさんは、中国人ですが、朝鮮族の方なのです。こういう不思議な器たちを、教会に備えて下さったわけです。
 Aさんは、おじいちゃんの世代に日本に来ましたから、韓国に重荷があって、なんとか現地に行って祈りたい!という気持ちがあったわけです。
 またMさんは、中国に住んでいたけれど、朝鮮族は、日本によって追われた子孫です。彼女の両親の時代に日本が侵入し、ご両親は中国のハルピン付近まで逃げたそうです。彼女は中国で生まれ、育ったけれど、朝鮮族だから、中国語も、韓国語も、日本語も、三河弁もできるのです。すごいなと思います。この歴史を背負っている二人が行きました。日本がかつて犯した罪を、このような方々が、今では日本人に帰化されて、朝鮮半島に行って、このような有事にとりなし、祈らなければいけない!と主から示されました。破れた城壁を繕わなければならない!ということで、先週は祈って下さいました。霊的な世界では、結構大きなことではなかったかと思われます。

 そして、真ん中のIさん。見くびってはいけません。この方の背景を知る時、「ははー!お姫様!」と、ひれ伏してしまいそうな家系の方なのです。
 実はこの方は、旧姓は「菊池」でした。どういう菊池さんかというと、本にもなっているのですが、「風雲・菊池一族」とタイトルの本です。菊池一族は、日本が蒙古に攻められたとき、その侵入を食い止めた、勇敢な一族です。菊池一族が戦ってくれなければ、今頃、日本人は騎馬民族の奴隷となり、流浪の民となっていたかもしれません。

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 そして彼女は、父方だけでなく、母方も捨てたもんじゃないというか、恐ろしいというか、すごいのです。みなさん、この五千円札知っていますか?

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 この頃、あまり見かけなくなったけれど、「新渡戸稲造」という人の肖像が描かれています。なんと、Iさん、何を隠そう母方は、新渡戸さんの親族です。全くそんな気配はありませんが、いや、やはり気品が漂っておられます。こういう家系の方なのです。
 今は、新城教会で、今回のとりなしツアーに付き添って行ったのですが、何気なく、「あんた行っておいで」という感じでしたが、大きな意味があったのです。新渡戸という人は、クリスチャンだったのです。かなり世界的に有名人で、「武士道」という本を書いて、世界に、日本が知らしめた人だったのですが、実は一九一〇年に日本が朝鮮半島に入って行った時に、日本の帝国主義と一緒に協力したのが、日本のキリスト教会の牧師でした。

 当時、平壌では一九〇七年に大リバイバルが起こっており、地域には多くの教会あったわけです。日本は神道ですから、そこで何をしたかというと、日本の有名な牧師たちを総動員して、朝鮮半島、中国、台湾に遣わして、「神社を拝むことは、偶像礼拝ではありません。大丈夫です」と、ふれまわったのです。「神社を一緒に拝みましょう!私も一緒に拝みますから!」と言って、日本の有名な牧師たちが行ったのです。なんと、その一人が、新渡戸稲造でした。

 新城教会には、いろんな人たちがおられるものだと思います。先週はこの三人が韓国に行って、悔い改めの祈りをして、崩れた霊的城壁が、もう一度再建されるように祈ったのは、霊的エルサレム回復のための、大きな働きではなかったかと思います。
 それと共に、チェ先生や韓国の兄弟姉妹が一緒になって、一致して、元東洋のエルサレムと呼ばれた場所が再建されるように祈りました。
 それは同時に、イエス様が帰って来られて、イスラエルにあるエルサレムも再建され、天のエルサレムが下りて来るために、でこぼこ道が平らとなり、山が崩されて谷が埋められる為の重要な働きであるということです。
 偶然に集っているようだけれど、主が深い摂理の中で送ってくださっていると思います。これはこの三人だけではなく、全員に言えることです。それぞれ、修理しなければならない箇所があるわけです。その箇所を主から示していただいて、修復していくとき、短期間に城壁は修理され、街の機能が回復する、すなわち、天のエルサレムが降りてくる日が近づくのです。

 近頃、「福音とは何か」について、語らせていただいているのですが、コロサイ書一章六節、

『この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。』

 福音は、初代教会の人たちが「本当に理解した時」、「急速に広がった」というのです。これは、裏を返せば、福音の全容をしっかり理解していなかった時は、伝達に時間がかかった事を意味しているのではないかと思います。
 しかし、福音とは何か、についてほんとうに理解した時、急速に拡大していったわけです。
 そして、福音とは何かに関して、コロサイ書一章二十節〜二十三節、

『その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。』

 ここに、福音とは何かの全容が示されています。イエス様の十字架の血がどういうものかについて、記されているわけですが、パウロの福音理解まとめると、十字架の血によって平和が訪れた結果、「万物を御子のために和解させてくださった」というのです。イエス様の十字架は、ただ人間のためだけではなく、「被造物全体」のためだったのです。
 その次に記されているいるのが、「あなたがたをご自分と和解させてくださった」という流れです。
 「すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまれ!」と励ましています。
 そして、「この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられている」と、再度、告げて、福音は、人間だけでなく、「天の下のすべての造られたもの」に対してであり、「パウロはそれに仕える者となった」というのです。
 コロサイ一章二十節を、ある注解書はこのように註解していました。

“キリスト教の救済論は、ほとんどこの一節に要約されている。万物すなわち地上天上のすべてのもの、人間も動物も植物も無生物も、個人も社会も国家もキリストによって神と和らがしむることが神の欲し給う処であり、悦び給う処であった。”

 福音とは、万物に対して、すなわち、天上・地上のすべてのものに対してのものなのです。人間も動物も植物も無生物も、個人も社会も国家も、すべて神と和らぎ平和を得るという、被造物全体に対するものだと、パウロは理解していたのです。この福音に、彼は仕える者となったと語っているのです。
 コロサイ人への手紙は、「この事をほんとうに理解した時、福音は急速に広がった」と告げています。これまさに、「城壁の修復」と同じではないかと思います。調査をして、どこが破れているかを明らかにして、みんなで一緒に城壁を建て直しに行った時、あっという間に城壁が再建したのと同じです。
 私たちも福音の全容を理解して働き始める時、あっという間に、神の国は訪れるということではないでしょうか。

 先日、私は詩篇百四十八篇から、人類に与えられている役割について話しました。これは、天にあるものも、地にあるものすべてに、「主の名を賛美させる」という働きだ!と語りました。私たちがすべての被造物の所に行って、「主を賛美しなさい!」と、命ずる役割があると話しました。
 今日、ここに花があります。新城教会は花より団子教会で、花がある時は、前日にイベントがあった証拠です。しかし、このような花に対しても、「主を賛美しなさい!」と命じなければいけないのです。

 実は、ある大学の研究結果が六月に発表されたのですが、「植物には脳がある」という研究結果です。それも二つあるそうです。それぞれ二つの脳が独自に、気象条件や様々なテータを集めて、お互いに話し合うそうです。いつ発芽したらいいか、いつ花を咲かせたらいいかを話し合い、二つの脳の意見が一致した最適な時期に咲かせるというのです。もしかしたら、人間よりもずっと賢く、すごい機能が備わっているのではないかというのです。
 私はすべてに賛美させるということで、神学校で宿題を出しました。ある人がこんなレポートを寄せてくれました。中学生の時、サボテンを育てていて、白い花が咲いて綺麗だったそうです。あるとき、その花がしぼんで血豆のようになったので、シャープペンの先で、「気持ち悪いね!」と、ちょっとつついたというのです。
 そうしたら、次の日になったら、くぼんで、一週間でサボテンは姿を消したというのです。病気とはとても考えられない、私の言葉を聞いていたんじゃないかと思って、ぞっとしたというのです。ちょっと実験してみます?そんなことはしなくてもいいと思いますが、脳があるとしたら、耳だってあるかもしれないです。
 案外、私たち、自分たちこそ、唯一の高等生物だと考えていますが、間違っているかもしれないです。

 私は今年、そのことを教えられて、先日、セミの所に行って、「主を賛美しろ!」と命じて一緒に賛美をしたら恵まれたという話をしました。
 でも、私がこういうメッセージを語る時、だいたい二、三名は疑っているのです。「順先生が言っていることは、???じゃないかな」って。しかし、それでいいのです。疑いの心とか、すごく大事です。全てを信用してはいけませんよ〜。

 私のメッセージを聞きながら、新城教会ではだれても知っている有名な人が疑ったそうです。しかし私、宿題を出したでしょう。「今週はどこかで、被造物に賛美させるように命じてください」と言いました。するとその人、「魚」という声が聞こえたそうです。昔、魚屋さんをやっていたのかどうか知りませんが、その方、魚がたくさん住んでいる池に行って賛美してみたというのです。「魚たちよ、主をほめたたえろ」と宣言したそうです。でも、池はシーンとしていて、全然反応はなかったというのです。
 しかし、「ハレルヤ〜天において〜♪」と、賛美し始めた途端、こんな感じだったのでしょうか。

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 ここまでではなかったかもしれませんが、魚が跳ね始めたそうです。びっくりしたと言うのです。みなさんも試してみてください。私たちには、いろんな役割があると思います。

 私は最近、これらの事を示されてから、少し生態系に対しての理解が変わりました。私は毎日ウォーキングしているのですが、私ちょっと痩せたでしょう。四キロくらい、がんばって痩せたのですが、この季節、私は嫌いなものがあるのです。それは何かというと、こいつです。

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 「彼岸花」。すでに名前から悪いです。昨日は秋分の日でしたが、新城の彼岸花、設楽原に多く咲くのです。設楽原に流された血を吸い取って赤くなったような気がして、気持ち悪くて、嫌な花だなといつも思って、竹竿でピシピシッと倒していました。でも考えてみたら、これも主が造られた花じゃないかな?と思ったのです。
 それで私は、彼岸花に、もう少し近寄って、今朝も写真を撮ってみたら、すごく綺麗なのです。もしかしたら、この花は、汚れた血で彩られた設楽原に、イエス様の十字架の血潮の賛美をするために備えられて、毎年、毎年、咲いているのかもしれないと考えました。しかし私は、彼岸花にピシピシピシッなんて、これはまずかったなと思って、悔い改めて、もしもこのような赤い花として咲くのに意味があったら、「この設楽原に流された、悪しき血の呪いを打ち破るために、十字架の血潮を賛美する存在にしてください!」と、今朝も祈って来ました。何か彼岸花たちが、喜んでいるような気がしました。すべての被造物は、神の子たちが現れるのを待っています。一人一人には、様々な役割があります。歴史を繕うような、今日紹介したような領域で用いられる人もいれば、誰も目にとまらないようなところを再建する人たちもいます。様々な役割があると思います。

 私は前にも紹介しましたが、このみ言葉が大好きです。伝道者の書九章十四節〜十五節、

『わずかな人々が住む小さな町があった。そこに大王が攻めて来て、これを包囲し、これに対して大きなとりでを築いた。ところが、その町に、貧しいひとりの知恵ある者がいて、自分の知恵を用いてその町を解放した。しかし、だれもこの貧しい人を記憶しなかった。』

 主が帰って来られるまでに、城壁を修理したいものです。どこに破れがあるのか、調査し、主から教えていただいて、主から命じられた所に行って、主の御名を宣言して、そこを勝ち取る祈りをする者にさせていただきたいと願っています。
 特に今の時代、それが大変重要ではないかと、この頃、示されています。今週も様々な領域に出て行って、主の名を宣言して、破れを繕う者になっていただきたいと願います。
 最後に一言お祈りして、聖餐式に移っていきたいと思います。祈ります。

 ハレルヤ、天の父なる神様。感謝をいたします。あなたが、私たちを救ってくださったことを心から感謝します。それはただ単に、地獄の火から救い出すためだけではなく、私たちを使って、破れた城壁を繕わせ、主が帰って来る道を用意させるために、選んでくださったことを、心から感謝します。主よ、今週も、私たちが果たすべき役割を果たすことができますように。
 今日は韓国の先生方と、日本が一つとなって祈ります。日本が一九一〇年から犯した罪を、教会として悔い改めます。もう一度建て直されますように。私たちが一致して、イエス様が帰って来られる道を整える者となることができますように。尊きイエス様の御名によって、祈りをお捧げいたします。アーメン。