「2017年あなたは良いもので満たされます。―パート26―
The Blessing 祝福!」

2017年10月29(日)
新城教会主任牧師 滝元順
創世記1章24節~28節

『神は仰せられた。「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」そのようになった。神は、種類にしたがって野の獣を、種類にしたがって家畜を、種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神はそれを見て良しとされた。神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』

 ハレルヤ!おはようございます。信先生も、だいぶ目が悪くなったみたいです。「空の魚」と読み間違えておられましたが、今の石塚さんの歌、本当にすごかったでしょう。

 今週は、石塚さんと井草さん、そして家内と私の四人で、「日本縦断リバイバルミッション」の為に沖縄で奉仕をさせていただきます。是非とも、お祈りに加えていただきたいと思います。
 沖縄は大変美しい所で、観光地で、ハワイと似ているのですが、霊的には本当に重い場所です。歴史的に、最も深い傷を受けた場所です。沖縄の教会で奉仕をするのは、なかなかセンシティブで、言葉も振る舞いも気を付けなければなりません。是非とも祈っていただきたいと思っています。

 今日も台風22号が近づいています。私たちは「悪天候」と呼ぶのですが、私は、悪天候と呼ぶのをやめようと思います。人間にとっては悪天候かもしれませんが、植物や他の生物にとっては恵みの雨だと思います。私たちはこのような天候の日には文句を言うわけですが、聖書は台風を「み言葉を行う嵐よ」と呼んでいます。
 先週も台風でしたね。私は台風21号に、「み言葉を行う嵐よ!主の御心を成し遂げろ!主をほめたたえろ!」と、外に出て宣言してみました。私は実験が好きです。
 すると先週、ちょっと不思議なことが起こったと思いませんか?この付近は台風が直撃みたいな地域だったのですが、ほとんど雨が降りませんでした。風もそんなに強くありませんでした。三重県の方には申し訳ないですが、ものすごい雨が降って、レーダーで見ると雲は真っ赤かでしたが、愛知県に雲が入ると、すっと薄い雲になって、申し訳ないけれど静岡県に入ると、再び赤くなって雨を降らしていました。実験成功かな?と思いました。三重県の方々も静岡県の方々も、台風の時には、「台風よ、主をほめたたえろ!」と宣言したら、台風も喜んで主を賛美するのではないかと思います。
 救いは人だけでなく、被造物全体のものであると近頃、学んでいますが、そのような視点を持ちますと全てが変わると信じます。

 今日は午後から、すばらしいプログラムがあります。山崎ランサム和彦先生による新シリーズ「ルカが語る福音の物語」です。是非ともサンデースクールにお出かけください。いつも話しておりますが、山崎先生を甘くみてはいけません。彼は世界的な神学者です。彼からの講義を受けることができるのは、本当に光栄であり、感謝です。是非ともご参加いただきたいと思います。

 また、ネパール宣教の準備も進んでいるのですが、なんと、今日から来年のネパール宣教に向けて、「ネパール語講座」が始まります。すごいでしょう。講師はだれでしょうか。
 どうりで~!と思うかもしれないですね。でも誤解しないでください。彼は日本人です。大学でヒンディ語を専攻しました。お昼の時間に神学校の小講義室で基本的なことを学びます。少しでも言葉ができると楽しいですから、是非とも勉強していただきたいと思います。若い方々、よろしくお願いします。コミュニケーションが少しでも出来ると、宣教の領域が広がります。ぜひ勉強して世界に目を向けていきたいと思います。

 今日は「二〇一七年あなたは良いもので満たされます。―パート二十六― 」です。もう二〇一七年も残り少なくなりました。今週から十一月です。信じられないですが、今日は十月最後の礼拝です。「The Blessing 祝福」という副題で学んでいきたいと思います。

 「祝福」って本当にいい言葉ですね。祝福の反対は「呪い」ですが、祝福とは、「幸福を祝う」という意味ですから、基本的に幸せがあって、それを祝うのが祝福の日本語的意味かと思います。教会に来ますと、「あなたを祝福します」と言って、お互いに祝福できるのは嬉しいですね。
 世の中はお互いにライバルですから、学校に行っても祝福しますなんてなかなか言えないです。暗に呪ってやるというような社会に私たちは生きていますが、教会は祝福をテーマとして成り立っている場所です。私たちは互いに祝福し合うことができるわけです。お隣の方に、「あなたを祝福します!」と声をかけてあげてください。いいですね。素晴らしい言葉ですね。

 先ほど読んでいただきました聖書の箇所は、天地創造の場面です。神様は六日間で天と地、宇宙、すべてを造られました。六日間という記述が、一日二十四時間なのか、それとも一つの単位なのかは論議が分かれる所ですが、私は「夕があって朝があった」と、太陽ができる前から述べられていますから、もしかしたら、もっと長い単位だったのかとも思うし、もしかしたら、神様は瞬間的に造られたのかもしれないし、はっきりはしません。しかし、人間は地球環境が全て整った上で、六日目に創られたわけです。
 一章二十八節には、こんなふうに語られています。

『神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』

 神が人に最初にかけられた言葉は、「起きろ!起きろ!」と言ったわけではないのです。「神は彼らを祝福された」というのです。
 人類の原点に神の祝福があるということは、本当に素晴らしいです。
 祝福が消えてしまったような世界に住んでいますが、神が人を造られた原点に祝福を置かれたという事実は、大変重要なテーマだと思います。私たちが教会に来て、祝福を受けるとか、回復するのは当然なことです。なぜなら神は、人を祝福の言葉と共に造られたのですから。
「私なんか祝福を受けることはできない」とか、ひねくれないでいただきたいです。
 人類が祝福の言葉と共に生まれたことを知る時、誰でも祝福を共有出来ることが分かります。

 でも、聖書の祝福って、分かるようで分からないですよね。辞書で引いてみても、「祝福:神の恵み」なんて書いてあります。では、神の恵みってなんだ?となります。キリスト教用語って漠然としていて、分かりづらいのですが、祝福、恵みなど、定義付けが難しい面もあるのですが、続いて出ている言葉が鍵となると思います。それは、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」です。
「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」すなわち祝福って、「増えること」だと思われます。減ることじゃなく、増えるのが祝福です。
 今日、あなたは増えるために来ているのです。

 先週私は経済についてお話しさせていただきました。経済も減るより増えたほうがいいですよね。知識も減るよりも、増えたほうがいいです。記憶も減っていくより増えたほうがいいです。なんでも増えたほうがいいわけです。悩みは少なくなるほうがいいです。それは幸せが増えることにつながりますから。私たちの神様は減らすのではなくて、増やしてくださるお方です。

 しかしそこには原則があって、人間的原則の中で増えるのではなくて、神の国の原則の中で増えるということです。経済についても話しましたが、この世の原則ではなくて、神の国の原則で、不正の富を勝ち取って神のために使う為に増やされるならば祝福です。
 健康が少ない方がおられたら、健康度が増し加わることを主は願っておられます。今日、病気の方がおられたら、神様はそのまま放っておかれるのではなく、健康度がアップすることを願われています。

 また祝福とは、神が私たちに関心を持っていてくださることにもつながります。天地・宇宙を造られた神が、私たちに関心を払ってくださるなんて、すごいと思います。
 私は先週、詩篇百三十九篇を読み、ちょっと感動しました。家に帰ったら、是非読んでいただきたいと思います。一節~十七節を、読ませていただきたいと思います。
 心を落ち着けて、あなたを祝福される主の心を知って下さい。主は私に、こういう思いで接して下さっているんだと知ると、雨の中、礼拝に来てよかったなということになると思います。

詩篇百三十九篇一節~十七節、

『主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。
そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。
私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。
たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。
私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。
たとい私が「おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ」と言っても、
あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。
それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。
私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。
神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。』

 神様って、私たちのすべてをご存じです。私はメッセージを語りながら、次に何を語ろうかと考えています。しかし、私たちの主は、私たちが話す前に、すでに何を語るのか知っておられるのです。面接とかの時、何を話そうか、ビジネスでどう交渉しようかとか、時々、難しいかもしれませんが、私たちが語る前から、主はご存じだというわけです。
 この百三十九篇十六節~十七節、すごいと思いませんか?『あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。』なんて、遺伝子のことじゃないですか。現代の情報から見れば、人間は生まれる時にすでに、自分の書物を持っています。情報を持って生まれてくるのです。胎児の時に情報が書き込まれて、人生はスタートするわけです。そのことを暗示しているかのような記述ですね。

 「私のために造られた日々」というわけです。書物の中に私のために造られた日々の全てが書き込まれているわけです。そしてすでにそこに祝福があるわけですから、最初に人が神からいただいた情報は、祝福に満ちたもののはずです。
 もしもその情報の中に、悪魔が悪いことを書き込んだら、削除だってできるはずです。クリスチャンになるとは、神の祝福を共有できるものです。

 神は六日間かけて、天と地を創造されたのですが、見える領域においては、大きく分ければ三つの領域です。それは、「海と空と陸」です。
 「天」は複数形になっていますから、高次元も含んでいると私は思っているのですが、私たちが実際に見える神の創造は、海と空と陸です。私たちは六日目に陸に造られたわけです。空と海は、人類は一応、飛ぶこともできるし、海を移動することも出来ますが、生身の人間は空を飛ぶことはできません。空を自由に飛ぶことができたらいいのになと思います。明後日から私は沖縄に行くのですが、飛行機で行きます。リバイバルミッションはいつも、LCCと言って沖縄まで、安い時は、片道五千円位で行ける飛行機を予約します。ちょっと不安ですけどね。

 しかし、今読んだ箇所を見ると、主は天にもおられるし、海のどん底にもおられるのです。生身では手に負えない空にも、海にも主はおられて、全てを準備してくださっていると考えたら勇気が出ます。
 時々、私たちは恐怖に襲われる時があります。未知との遭遇は、結構怖いものです。そんな中でも、百三十九篇のみ言葉を読んだら、勇気が湧いてきます。
 私たちの神様は私たちを祝福して恵みを与え、私たちの力の及ばない領域、天の高い所から地のどん底まで支えていて下さるのです。

「私たちがよみに床を設けても」とは「死後の世界」のことです。死後の世界に行っても主はちゃんと支えてくださるのです。
 この教会から、かつて一緒に礼拝していた多くの兄弟姉妹が、主の元に帰って行かれました。死後の世界に入って行きましたが、今彼らはどうなったのかな?と心配しなくてもいいわけです。よみの床にも主はおられるからです。

 神の祝福は、ただ身のまわりだけではなくて、私たちの力の及ばない領域にまで及んでいます。
 私たちは祝福された者たちなのです。お隣の方にもう一度、「あなたは祝福された方です!」と宣言してあげて下さい。

 しかし聖書の祝福を受け取るためには、やはり原則の理解が必要です。祝福の前提をしっかり理解しないと、真の祝福は受け取ることができないと思うのです。
 創世記一章は、天地創造の場面です。もしもこの前提が間違っていたら、他でどんな良いことを語っても、聖書は成り立たなくなります。「初めに神が天と地を創造した。」という一文が、「全ては偶然で、進化してきた!」と書き換えられたら、全てが崩れます。聖書の他の部分に、いくら良いことが書かれていも、前提が間違っていたら、全てだめになってしまいます。

 中国に「景教」という宗教があります。景教は、キリスト教なのです。キリスト教が古代に中国に伝わって来たんだ!と感動します。キリスト教が、古代に入って来たのだと思います。しかし、古代の中国人たちは、せっかく福音を聞いたのに、その前提を変えてしまったのです。景教の聖書を見ると、最初にどう書いてあるのかというと、「初めに神が天と地を創造された。」という一文を「初めに二気ありき」と変えたのです。「二気」とは、陰と陽の気、二気がすべてを創造したという所から景教の聖書は始まるのです。これは、陰陽五行です。せっかく福音が入って来たのに、前提を変えたら全てが崩れます。物事の前提ってすごく重要です。

 前回も、「福音」とはなんであるかに関して、その前提が人だけなのか、すべての被造物なのかで、その後が決まるというお話をさせていただきました。祝福を受けるためには、その前提となる事柄が重要だと思います。祝福についても、「神は人類を祝福された」と、心から感謝するわけです。

 しかし、創世記一章を落ち着いて読むと、人間より先に祝福された生物がいたことがわかります。「えっ?そんな存在がいるの?」と驚くのですが、なんと人より先に、神からの祝福を受けた存在がいるのです。そのことを理解してから、人類の祝福も取り扱っていかなければいけないと思います。

 さて、神様は、六日間で天と地を造られたのですが、四日目までは地球環境を整備して、生き物が生息できるように植物等を創造されました。その翌日、第五日目に、地球上、最初の生物が創られています。
創世記一章二十節~二十二節、

『神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」』

 意外にも意外。私も見落としていましたが、神は人類にも祝福の言葉をかけられたのですが、それ以前に、同じ言葉が、なんと「鳥と魚」にかけられています。
 私たち人間はいつも全ての中心だと思っていますから、人間は祝福されても他の生物は違う、という立場に立ってしまうのですが、人類以前に鳥と魚など、水生生物がすでに神の祝福を受けて、「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」と、人間と同じような祝福の言葉を受けていたなんて、ちょっと意外じゃないですか?
 聖書は、私たちの理解に応じて、その後、書かれていることが実現するか否かが決まります。

 イエス様が二千年前に、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったのですが、それを知らなかった時、私たちは滅びに向かっていました。救いは二千年前に完成していたけれど、そのことを理解した時に救われたわけです。理解とはものすごく大切だと思うのです。祝福というと、人間だけの祝福かのように考えてしまうのですが、神は人間以外の被造物もすべて考慮に入れておられるのです。

 二十四節~二十八節まで、動物と人の創造の所を読んだのですが、人間以外の動物たちは、神様から直接の祝福の言葉は、受け取っていません。しかし、人間に語られているということは、人間が他の動物たちの代表的な存在と言えるのではないかと思います。
 なぜなら神は人類に、「すべての生き物を支配しなさい」と命じられたからです。「支配」という言葉は、強制力があるイメージなので、「管理する」と訳したほうがいいと言われますが、人類がすべての被造物を管理する立場に立つと、その結果、動物たちも祝福を受けるわけです。

 空と海という、人間が力の及ばない領域に、神は命を与えて、人は海の底で生きることはできないけれど、そこにも命を与えて、人が恐怖を感じる場所を先に祝福されたのです。

創世記一章二十七節~二十九節、

『神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』

「支配せよ」という言葉よりも、「管理せよ」という言葉に置き換えたいと思うのですが、私たちが造られる以前に、鳥たちと魚たちは祝福を受けていたわけです。その後、動物ができて、人類が創造され、人にすべての生き物を管理しなさいと命じられました。
 ということは、人間にすべての祝福があるわけではなく、私たちが管理人として、彼らを管理することにより、彼らが持っている祝福も人類に加えられて、本物の祝福を受け取ることができる、ということではないでしょうか。

 案外、私たちは人間中心主義的に聖書を読むので、祝福が人間だけに集中しているかのように受け取るのですが、そうではなくて、祝福はある意味で、二つに分けられて置かれているのです。そして、人が被造物を管理する時、やっと手が届く祝福があるのです。

 考えてみれば、ノアの洪水の時、すべての生き物は死に絶えたのですが、洪水の時に全く影響がなかった生物がいるのです。神の裁きの対象外の生物です。それが何かと言ったら、魚たちとか、海に住む生物だったと思われます。

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 人間や動物にとっては最悪の出来事が、海に住む生物にとっては最高の時だったはずです。彼らが泳ぎ回ることのできる領域が、ぐんっと広がったからです。山の頂上などで、貝や魚の化石が出たりしますが、ノアの洪水の時に水かさが増えて、山も覆われたのかもしれません。普通、魚は山に登ることはできませんが、ノアの洪水の時には彼らも、山にも登ることができたはずです。もしかしたら魚のほうが祝福されているのではないでしょうか。ちょっと視点を変えてみると、いろんなものが見えて来ます。

 そして聖書を見ると、鳥とか魚を意識しながら、イエス様はメッセージを語っておられることがわかります。
 まずはイエス様がバプテスマを受けられた時に、どんなことが起こったか、それは聖霊が「鳩」のように下って来たと記されていますよね。ルカ三章二十一節~二十二節、

『さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」』

聖霊ご自身が鳩の形で現れたのは、偶然ではないと思います。聖霊様は、私たちの手が届かない領域を助けてくださるお方だからです。鳥は、私たちに手が届かない大空を自由に駆け巡る存在です。そのような形として、聖霊様が来てくださったのは、本当にすばらしいと思います。

 実は昨日はバプテスマ式がありました。イエス様がバプテスマを受けられた時に、聖霊が鳩のように降ったということですが、昨日、子どもたち三人がバプテスマを受けました。原さんのきずく君と、さくらこちゃんと、しんのすけ君の三人がバプテスマを受けました。昨日のバプテスマは、新城教会の史上初のすごいバプテスマでした。私には全く概念がなかったことだったのですが、しんのすけ君が最初にバプテスマを受けたのですが、バプテスマは、イエス様の十字架の死とよみがりを表しています。子ども会のスタッフがバプテスマについて説明して準備しました。バプテスマは水の中に入った途端に出るからと言うと、彼は、「俺は瞬間ではなくて、十秒間水の中に止まりたい!」と言うのです。十秒間死んでから、よみがえりたいというわけです。
 聖書の中には、バプテスマの時に何秒水に浸けろとかありませんから、個人の自由だと思います。だから昨日は何秒間つけてほしいか希望を取りました。しんのすけは十秒!と言いました。お姉ちゃんはちょっと控えめで、五秒!、お兄ちゃんも十秒!と言いました。それで、彼は十秒間、水の中に沈んでよみがえってきたのです。

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 見てください。横でストップウォッチで計っている存在まで現れて、「はい、五秒!」とか言って前代未聞の光景でした。私も一分くらい浸けてもらっていたら、もっと聖められた生活ができたのかもしれないなと思うわけですが、本当に楽しい、聖霊が鳩のように下って来た感じがしました。
 鳥というテーマで聖書を見ると、結構イエス様も鳥について語っています。マタイ十章二十九節、

『二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。』

マタイ六章二十六節、

『空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。』

人間と鳥と、どっちが幸せかと考える時に、人間よりも、もしかしたら鳥のほうが自由じゃないかなぁと感じます。自由に空を飛ぶことができるし、すずめは、「すずめの学校」という、学校があるようですが、学校も見かけないし、自由に空を飛んでいるし、彼ら、食糧のことなんて全く気にかけていないみたいです。明日に対する、全き信仰が神の前にあるのではないでしょうか。被造物全体から見るならば、鳥って本当に祝福されているなぁと思います。
 彼らが持っているような自由と祝福を私たちももらえたら、もっと自由に生きることができると思います。そのために必要なのは、私たちが鳥たちの管理人になることです。
どのようにして、管理人になるのですか?まずは「彼らに主の名をほめたたえさせろ」ということです。私たちが、鳥たちが鳴いている場所に行って、「鳥たちよ。主をほめたたえなさい!賛美しなさい!」と宣言すると、彼らは元々、主をほめたたえるために造られていますから、賛美するようになるのではないかと思います。

 先週は二日間、「霊的戦い専門課程」がありました。先週は台風で多くの方が参加できなくて、ちょっと少なめだったのですが、素晴らしい専門課程になりました。専門課程の中では、参加してくださっている牧師先生方が、日頃の様子を発表して下さる時間があるのですが、ある一人の牧師先生がこんな発表をされました。
 専門課程に来て、救いが人間だけではなく、すべての被造物に対するものだ、人間の救いは、被造世界の救いのきっかけだということを理解されたそうです。また「彼らに主の名をほめたたえさせよ!」という詩篇百四十八篇を理解してすごく励まされたというのです。
 日本の教会は、地方に行けば、あまり大きい教会はありません。少ない人数で礼拝を守っている教会が多いです。
 沖縄も教会数は多いですけれど、人数は多くありません。新城教会は恵みによって、このように多くの方々が集まってくださっているのですが、例えば、二十人くらいしか集まっていない教会で、台風があったり、また、いろんな用事で、五人とかお休みするとすごく寂しい感じになるのです。
 その先生は田舎で伝道をされていて、先月の専門課程が終わった後の礼拝は、教会員の方々が用事があって、礼拝出席がすごく少なかったというのです。だから寂しかったというのです。
 でも、田舎の教会で、秋だから窓を開けて賛美したというのです。すると、教会の周りの小鳥たちが、窓辺に集まって来たというのです。そして、小鳥たちが一緒に賛美したというのです。会衆が賛美すると、子鳥たちも賛美して、賛美が終わると鳴くのをやめて、賛美し始めると一緒に鳴いて賛美して、賛美の時間中一緒に賛美したというのです。それで、ものすごく励まされたと話されました。しかしメッセージの時間になったら、小鳥たちはお帰りになったそうです。メッセージは聞きたくなかったのか知りませんが、なんか帰ったみたいです。礼拝は賛美ですから、私は「これから週報の礼拝出席人数に人何名・小鳥何羽って書いてもいいじゃないですか?」と言ったのですが、田舎の教会だって、悲観することないですよね。被造物全体を礼拝させるのが私たちの役割ならば、鳥たちも教会にやってきて一緒に賛美するなんて、すごいと思います。

 八月に、セミと一緒に賛美したという話をしましたが、鳥というヘブル語は、「昆虫」とも訳すことができるのです。それも「羽のある昆虫」です。羽のあるもの、昆虫も含めて、神から特別な祝福を受けていたかもしれないです。
 そして魚もです。ヨハネの福音書二十一章を見ると、イエス様が十字架につけられた後、弟子たちはちょっと失望して、彼らは元の職業に戻りました。イエス様の弟子たちの多くは漁師でした。魚を捕る者たちでした。元々、「人間を捕る漁師にしてあげる」と、人を魚になぞらえてイエス様は、彼らを招かれたわけです。
 しかしイエス様が十字架後、よみがえっても失望して、ガリラヤに戻ってまた漁に出たわけです。ちょっと勘が狂っていたのかどうか知りませんが、夜通し働いたけれど、魚が捕れなかったのです。
しかし夜明け頃、岸に誰かが立たれて、「おーい!子どもたちよ!魚は捕れたかい?」と、どこかで聞いたことのあるような声が聞こえたわけです。そして、その岸に立っている人が言いました。「沖に出て網を舟の右側に下ろしてごらんなさい。魚が捕れますよ!」と言われたから、網を下ろしてみたわけです。
 そうしたら、なんと魚がいないはずだった所に、大量の魚が発生して、百五十三匹の大きな魚でいっぱいになったとレポートされています。
その後、あれは主だ!と気付いてイエス様の所に行ったら、ヨハネの福音書二十一章九節、

『こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。』

なんと、よみがえりのイエス様が、弟子たちのために、朝食を用意しておられたのです。パンと魚を焼いていたというのです。日本風に言うならば、七輪の上に秋刀魚かなんかを焼いているイメージです。

 実は、初代教会は、聖餐式をパンと魚でやっていた時期があったそうです。なぜならばイエス様がよみがえった時に、弟子たちにパンと魚を下さったからです。新城教会でも一度やってみますか。パンと煮干しでやったら、なんとなく雰囲気が悪いかもしれませんが、初代教会はやっていたのです。魚とは祝福の原点です。パンは天から下って来たパン、イエス様ご自身です。

 そして、何よりも私たちが管理人として、すべての被造物を管理する中で、鳥と魚に置かれた祝福さえも、共有出来るということではないでしょうか。
 鳥は空、魚は海、いずれも生身の人間は手の出せない領域です。どう羽ばたいたって、人は飛ぶことはできないし、隣のスポーツセンターに行って息長く潜る練習をしても、魚のように水の中で過ごすことは出来ません。しかし、鳥も魚も人が手出しできない領域の祝福を持っていますから、私たちが管理人となる時、それらを共有できるのではないでしょうか。
 創世記一章二十七節~二十八節をもう一度読んでみたいと思います。

『神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』

ここで、海の魚と空の鳥を支配しなさい!管理しなさい!と語られています。そして一章二十一節~二十三節、

『神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。 神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」夕があり、朝があった。第五日。』

 私たちは六日目に造られた存在です。五日は、六日目から見たら昨日です。人類は昨日を取り戻すことが出来ません。「昨日、ああしておけば!あの祝福を手に入れることができたのに!」と思っても無理です。しかし、五日目に祝福を受けた海の魚と空の鳥、彼らを正しく管理していく時に、人類の手が届かないような領域の祝福も、受け取ることが出来るのではないでしょうか。

 今週は、自分が救われてそれで良し!と考えるのではなく、私たちはすべての被造物の管理人であるということを意識して、過ごしたいと願っています。
先週読んだ記事にこんな事が書いてありました。

「キリスト教は魂の救いだけを言っていると勘違いする人が多いが、魂の救いは被造世界の救いのワンステップである。魂の救いを得た人々は、被造物の救いに乗り出すべきである。我々が神の目的と計画に従って、各自の使命を実行する時、その手の業は救いの中に入って来る。」

 「信じて告白してバプテスマを受ける。すべて個人の救いから始まり、個人の救いに終わってしまいがちなのである。そうあってはならない。神は、地域教会、家庭、国家までが最終的に救われることを約束している。すべての国々が神の御名を賛美するようになることが黙示録にも書いてある。それは、人間の救いだけに終わるものでもない。地球全体、被造物全体が救われる、そのような広い世界観を持って生活を送らなければならない。」

 「世界を回復する働きは、クリスチャンにしかできない。クリスチャンが世界から手を引けば、世界は汚れたままである。せっかく洗濯機の中に入れて準備万端なのに、スイッチを押さないでいつまでも汚れている洗濯物と同じである。クリスチャンは、世界の回復をゆだねられている唯一の者であることを自覚して、積極的に被造社会に働きかけるべきである。」

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 私たちは、スイッチをオンにする係だというのです。私たちがスイッチをオンにしたら被造世界にスイッチが入るけれど、オンにしなかったら、向こう側にある祝福も受け取ることができないのです。

 元々神が万物を創造した時は、「神も人間も被造物も互いに祝福の契約関係」にあったのです。それをサタンに取られたわけです。しかしイエス様の十字架の血潮によって、万物との和解が成立して、和解を全被造物に分け与える係として選ばれたのが、私たち人間であるわけです。

 「元々神がアダムとエバに与えた命令の意味は、アダムが地球全体を正しく管理して、神が与えてくださった可能性を実現させるために働くことであった。それは地球全体を庭園のような大都市にすることである。つまり地球全体がよく管理されたエデンの園のような、美しい庭園になるはずだった。」

 「人間は神に従って、被造世界を支配する者として創造されたのであり、世界との緊張関係を持つものとして創造されたわけでもないし、世界と対立するように創造されたのでも、全くないのである。人間は神の似姿として被造物を管理する存在であるというのが聖書の教えである。」

 「聖書というのは人類と被造物全体の救いを約束するがゆえに、望みを与える書物なのである。」

と結んでいました。私たちが、神様からいただいたスイッチをオンにする使命、役割を果たしていきたいと願っています。

 最後にみなさんとご一緒に、被造物全体に対して責任を持つ決意と共に、今日はパンとぶどうのジュースですが、聖餐式を始めたいと思います。では、一言お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝をいたします。私たちは祝福を受け継ぐものであることを心から感謝します。しかし、私たちは自己中心的に祝福について理解していたことを赦してください。
主よ、あなたが、被造物全体に分けておられる祝福を共有できますように。
 今日私たちはあなたが流された十字架の血潮、裂かれた肉を記念して、聖餐にあずかります。これは被造物全体の和解でしたから、心から感謝します。私たちは被造物の管理人である事を宣言します。どうか鳥や魚の世界に置かれた、自由な祝福を共有することができますように。尊きイエス様の御名によって、祈りをお捧げいたします。アーメン。