「本当に大切なもの」

2017年11月5(日)
新城教会牧師 四元雅也
第二コリント人への手紙4章18節

『私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』

 ハレルヤ!おはようございます。今日もこうして礼拝でみなさんの前でみ言葉を取り次ぐ素晴らしい時が与えられましたことを感謝します。菊池さんの歌も素晴らしく、あんなふうに自分が持っている信仰とか思いを、歌にできるってすごいなあと思います。開先生もそうです。開先生は上から降ってくるとおっしゃいます。僕も一曲くらい作れたらいいのに、と思いますが、なかなかそうもいきません。
菊池さんは来週の日曜日に「豊橋音祭り」という、これは一般の街が企画するイベントですが、そちらに出演することが決まっているみたいで、彼女はよくそういう一般の場所に出て行って彼女の歌を歌うことをされていますので、みなさんもお祈りしてあげていただければと思います。
 石塚兄弟が豊橋でやっているゴスペルクワイヤーも、そこで歌うことになっているそうです。そのようにいろいろな賜物を持った方が、教会の中で共に信仰を守ることができることを感謝しています。

 今日は、先週から沖縄リバイバルミッションが続いています。先ほど開先生もおっしゃっていましたが、今日が縦断ミッションとしては最終日です。前の金曜からは毎日二回ずつ集会をやっており、今日で三日目ですので、疲れもあるかもしれないので、ぜひ祈っていただきたいと思います。今日は糸満シーサイドチャペル、沖縄ベタニヤチャーチと、二回集会が行われます。

 また、週報の報告欄に載っていますが、先週はこの教会の中澤利春兄弟、唯紀子姉妹のお母様である中澤いち子姉妹が天に召されました。先週水曜日に召天式が行われました。家族葬という形で行われまして、この場所でみなさんに報告させていただきたいと思います。中澤家のために慰めと祝福があるようにお祈りしてください。中澤兄弟のお母様が召されたのですが、お父様も少し体調が悪くて入院なさっているということですので、守りがあるようにも是非覚えて祈っていただきたいと思います。

 それから、先週の日曜日には、週報に、青年キャンプがありますと書かれていました。昨日、一昨日と行われました。今回は少し足を伸ばして、和歌山県に行きました。ちょっと写真があります。

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 青年たち十九人でマイクロバスに乗って行きました。

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 後ろにパンダが寝そべっていますが、南紀白浜の「アドベンチャーワールド」という所に行ってきました。一泊二日でいろいろ綺麗な所を見たりしながら行ってきましたが、祈っていただきまして、無事に帰って来ることができました。連休中で渋滞もあって、バスの移動時間が長くかかったのですが、守られました。バスの中でもいっぱい賛美し、み言葉も学んで有意義な時を過ごすことができまして、大変祝福されましたことを感謝します。

 最近は礼拝の中でも、被造物すべてが福音を聞き救われる、その必要があるということを、重ねて深く掘り下げ、お話がされている今日この頃です。福音を宣言する対象が人間だけにとどまらず、「被造物全体」へと拡大し、私たちクリスチャン、いやクリスチャンというよりも、人間が創造された目的が、被造物全体を管理する者として神様によって造られたと。
 そして、私たちクリスチャンは、悪魔に取られてうめいている、そのような状態の自然「被造物」を、悪魔の手から取り返す役割を担っている。ということが語られています。
そんな中で、礼拝で語られるメッセージで、いろんな証しが語られるようになりました。
夏に林の中で賛美したら蝉が一緒に鳴き出しただとか、池の前で賛美をしたら、魚が賛美に合わせて飛び跳ねた。また被造物について教えられて祈るようになったある教会では、礼拝で賛美していたら鳥たちが集まってきて一緒にさえずったとか、そんなふうに被造物の救いという概念が開かれてから、おもしろいことがたくさん起きているわけです。
 そんなふうにして、私たちの中にも少しずつ、「あぁ、私たちは被造物の管理人なんだなぁ。」また、被造物の中にあって、神様の福音を宣言することは素晴らしい意義のあることなんだなぁということを、体験させられ、学ばされているわけですね。私たちはそのようにして、神様が創造された被造物全体のバランスを取るように、管理するために造られたのです。

 もう一ヶ月くらい前の話になります。毎月一回名古屋で家庭集会があり、私が担当させていただいています。午前中から出かけて、名古屋で集会して、夕方に教会に戻ってくるわけですが、その日は夜にもざわめきの新城大会があったので、戻ってすぐに家に帰って食事し、夜の集会に備えようと思っていました。ところが名古屋から帰ってきて事務所に入ると、事務所のテーブルの上に普段はないような、変わったものが置いてありました。
 それは、虫かごでした。なんだろうなと思って、中を見ると、カマキリがいました。

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これは何をしているかというと、メスのカマキリがオスを食べているところでした。

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 ちょうど事務所に入ったらそれが置いてあって、私はそれに釘付けになってしまいました。
 みなさんご存じかと思うのですが、これはカマキリの世界で、オスとメスが交尾をした後にしばしば起こる現象で、メスがオスを食べてしまうことが多いことで知られています。よく美談にされがちな話です、「オスが自ら犠牲になって、たくさん良い卵が産めるようにとメスに身を捧げる」みたいな。
 でも、本当はそういう話ではないみたいです。カマキリは肉食の習性で、動くものは何でも餌だと思ってしまう、ということらしいのです。交尾の相手であっても動いていると餌だと思って食べてしまうらしいです。だから、うまく逃げおおせて生き残るオスもいるそうです。でも、メスがオスを食べることで生まれる卵の数が増えるそうで、子孫を残していくという意味では、メスのオス食いも有意義なことらしいです。

 私は、もう家に帰らなきゃと思っていたのですが、このカマキリの姿が気になって、どうしてもその場所から離れられなくなってしまい、とうとう一時間くらいずっと観察していました。
その間何度か、メスが動きを止め、こちらをじっと見る瞬間がありましたが、三十秒くらいすると再び、本当に休むことなくひたすら食べ続けていました。まさに壮絶でありました。むさぼり食うというのはこのことだと思いました。両方の鎌でオスを掴んで羽交い締めにし、上半身と下半身の間の節の辺りから食べ始めました。そして下半身、後ろ足と食べ進み、胴体が二つに離れても、オスはまだ最後の抵抗を試みるものですから、メスもこんどは頭からかぶりついて、オスの息の根をとめて、そして一心に食したわけです。その食いっぷりが、とにかく息するのも忘れているのではないかと思うくらいに一心不乱に食い続けました。みるみるうちにオスの肢体はメスの腹の中に飲み込まれていきました。

 一時間くらい経って、かなりお食事が進んでいったとき、とうとうザワメキの時間になってしまい、私は後ろ髪をひかれる思いで去って行ったのです。
ところで、この虫かごは誰が持って来たかというと、鈴木陽介スタッフのところの息子さんでした。
 彼らも後から集会に来られていましたので、集会が終って、私は彼を呼んで事務所まで連れて行きました。ところが、もうすでにお食事が終了しておりまして、メスはじっと葉っぱの上で休息していました。やっぱり全身全霊での食事で、まる一匹食べたのですから疲れるんでしょうね。さも満足げに葉っぱの上に留まっていました。
 残念ながら食べるところを見せることはできなかったのですが、彼は私が見なかった交尾の瞬間を観察していました。「さっきまで交尾していた」と話しました。
彼はまだ子ども園に通っているような幼い子どもなのですが、「交尾」なんて生物学的な言葉を知っていたので感心しました。さすがは鈴木家の子どもだなと。
 私も長い人生でカマキリの食事風景、初めて見させていただいたので、興味深かったです

 私はこういう類いのがあると興味をそそられ、ついつい見入ってしまうんです。「好きじゃない。見ていられない」という方もおられると思いますが。しかし、人間って、おもしろいですよね。虫かごに虫を入れて、何するかと言えば、「カマキリが子どもを生んで増えたら食べてやろう」とは考えないのです。人間が生きることに関していえば実利はないのに、小さな子どもでも、カマキリがどんな形の虫か、どのように歩く、飛ぶ、食事する、交尾する、卵を産むか、そういうことに関心があるわけです。カマキリは鎌がどんな形をしているのかとか、どんなふうに動くのかな、餌をどんなふうに食べるのかなと。それを観察するために虫かごはあるわけです。
人間は本能的に他の生き物の「生態」に興味を持つのです。それで子どもたちは喜んで虫を虫かごで飼い、観察するわけです。
 青年たちが和歌山までわざわざ動物園を見に行ったのですが、ある動物が観察のために他の動物を檻に入れて飼う、そんなことはないのです。人間だけです。そのことを考えても、人間に被造物を管理する賜物が与えられているというのは、頷ける話だなぁと思うわけです。
 話は変わりますが、神様はいるか?いないか?ということを、一般の方々に問いかけたら、いろんな返事が返って来ると思います。特に日本人は神様がいるかいないか、ということに関して、とても曖昧な考え方を持っている国民ではないかと思います。

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 これは、神の存在、死後の世界に対する見方の統計グラフです。インターネットから拾ったのですが、「電通総研・日本リサーチセンター調べ」の二〇〇〇年のデータということです。いろんな国々が下の段に書かれています。グラフ上の黒い線は「神は存在すると思う」と答えた人の割合、赤線は「神は存在しないと思う」と答えた人の割合、黄色は、「わからない」と答えたラインです。
 グラフ一番左はエジプトと書いてあります。エジプトでは、ほぼ百%、神様はいると信じている、ということです。対して一番右のベトナムは、信じないという人が八割くらいにのぼります。エジプトはイスラムの国であり、ベトナムはご存じのように共産主義国です。
日本はどこかというと、右から三番目です。この黒と赤と黄色がだいたい三割くらいで拮抗しているということは、全体として、神様は「いる」とも言えないし、「いない」とも言えない。わからない。そういった感じになるでしょう。
 次のグラフも見てみましょう。

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 これは、死後の世界があるかどうか?という問いに対する各国民の答えの統計ですが、同じような結果です。一番左のエジプトは、「死後の世界がある」という人がほぼ百%。一番右のベトナムは、「死後の世界はない」という人がほぼ八十%。そして日本はグラフ右側の青い丸の所ですね。存在するかもしれないし、しないかもしれない、分からない。

 こうしてみると日本人って世界的に見ても独特なのです。神様の存在について世界標準で見ると、日本人は最も曖昧な意見しか持たない国民、という結果になるわけです。

 もう一つのデータを見てみます。

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 これ、ちょっとよく分からないデータなのですが、二〇〇八年にISSPという非営利調査団体が作ったデータで、「四十ヶ国に占める日本の構成比の順位」ということで、この四十ヶ国がどこかというのがよく分からないのでちょっと難ありですが、参考までに見てみたいと思います。
 日本が青い棒グラフ、そして黄色が世界四十ヶ国の平均です。一番左は、「神の存在を信じません」という問いで、世界四十ヶ国の中で、日本は二十位。ちょうど中間です。ここでも、信じないような信じるような、という曖昧な感じです。一番右側は、「私は実際に神が存在することを知っており、神の存在に何の疑いも持っていない」ということに対しては、最下位の四十位。神の存在についての確信は、どの国よりも自信がない、ということです。ここだけ見ると、神の存在を信じていないのが日本人です。だけど、真ん中の所、「神の存在を信じる時もあるし、信じない時もある」という問いに当てはまるのは、日本が一位となっています。
これらを見ると、とにかく日本人は神様の存在について、曖昧路線を突き進んでいると見ることができると思います。

 私も牧師家業をさせていただいておりまして、いろんな人とお話しさせていただく機会があるのですが、お話をして見て感じるのは、人生において、社会的に大きな責任を伴い、結果を求められる立場に置かれた人ほど、神に頼る人が多いのです。受験を控えた学生であれば真剣に勉強し、少しでも上に上がれるように努力します。それでもプラスアルファ何かが欲しくなる。やっぱり神様に頼りたくなって、この時ばかりは神様に拝んで、願をかけてみたり、験を担いでみたりします。
 あるいは、社会の中で、ある分野のトップランナーと呼ばれるような人たちは、結構信心深かったりするわけです。プロ野球の人たちでも、キャンプインの前には必ず全員で神社参拝をする光景が毎年報道されます。あるいは一国の総理大臣であっても、今の阿部首相もそうですが、正月になれば伊勢神宮に必ず参拝に行く。そういうことをやるわけです。公私にわたって、神様に頼るのです。

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 これは豊田市の猿投神社の境内の一角です。これは左鎌という絵馬のようなもので、この神社で祀られている祭神が使っていたと神話に語られる「鎌」が神聖視されて、そのモチーフを絵馬にしたものです。その神様が左利きだったので、絵馬も「左鎌」というのが特徴的です。鎌が鉄から作られるところから、この神様は金物に霊験あらたか、となりまして、金属を大量に扱うトヨタ自動車、トヨタ自動車体、トヨタ鉄鋼、トヨタの製造ラインとか、工場とか、トヨタグループ系列会社がいっぱい、必ず毎年奉納するみたいです。

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 こんなふうに、守られたい、目標を達成したい、そういった願いを人間は持つのですが、自分の努力だけでは足りずに、何かプラスアルファが欲しいので、神社で願い事を書いて絵馬をかける。でも、実際に神様がいるの?いないの?と言われると、「わからん・・」という感じになるわけです。

 歴史を通じて、人間は神様の存在について様々なことを考え、いるかいないか結論を出そうと努めてきました。しかし、今日に至るまで、いるともいないとも証明できていないのが現実です。
 
 例えば、殺人事件で容疑者が検挙されて、裁判にかけられる場面を考えましょう。
検察官は、裁判の中で、訴えている容疑者が事件の犯人であることを証明しなければなりません。例えば事件を目撃した人がいる、あるいは容疑者が自分で「自分がやりました」と自白をするとかです。目撃者もおらず、容疑者も罪を認めない場合は、別の証拠、例えば遺留品があればそれを容疑者と結びつけようとします。殺人の凶器とされるものが出れば、そこに指紋が付いているかどうかとか、どこかに犯人の痕跡が残っているかどうかを検証します。指紋が残っていれば、指紋の持ち主が犯人ということになるわけです。そういった証拠を「直接証拠」と言います。
 直接証拠がない場合、検察側は「間接証拠」を用意します。直接その人を特定するような証拠ではないのですが、城を外堀から埋めていくように、だんだんと容疑者にフォーカスが絞られて、「事件を起こせたのはこの人しかいない!」と客観的に示す証拠です。
 例えば、事件当日の容疑者の行動から、殺人が可能であったかどうか、いわゆる「アリバイ」を調べる。また被害者に対して敵意や憎しみを持っていたかなど容疑者に動機があったかどうか。凶器と同型のものを事件前に購入していたなど。
「状況証拠」とも言うのですが、周りを固めていき、それらの条件を満たす人物はこの容疑者なので、確率的に見てこの人しか犯人はいない!と立証しようとするわけです。
 実際、日本の刑事裁判の中でも、本人も自白せず直接証拠もない。だけど状況証拠のみによって、犯人だと認定されて有罪判決が出た、というケースは沢山あります。

 神様がいたら、物事がうまく回っていく。神様がいた方が都合がいい、という事実はたくさんあります。そういったことは歴史を通じて様々な人たちが語って来ました。
神様がいるかどうか、という点で「状況証拠」といえるものはたくさんあります。
 例えば、この宇宙と地球の成り立ちが、あまりにも巧く出来過ぎていて、神のような知的存在が造ったとしか考えられない、というのも一つの状況証拠です。あるいは、私たちがなぜ存在しているのか、なぜ生きているのかということを掘り下げて考えていくと、目的を持って私たちを造られた神様が存在することに行き着き、一つの状況証拠になります。
 また、私たちの心の中にある善悪、「良い悪い」と判断をする心。これも、善悪の判断の根源たる存在、絶対的に善なる存在がいなければならない、となり神様の存在を示唆します。
 そういった「状況証拠」のようなものは、世の中に沢山あるのですが、神様を指し示す直接的な証拠、例えば、人類が誰しも神様を実際に見たとか、神様の声が全人類に分かるように放たれたとか、誰がどう見ても、神様がいる以外にない!という直接的な証拠というのは見つかっていないのです。誰も反論ができないような証拠はないのです。

 神様がいるとしたら、なぜそのように直接的な証拠がないのか。誰にも反論できないような、ぐうの音も出ず「神様はいます!」ということのできるような証拠、ちょうど、エリヤが祈った時に火が「ドカーン」と下って、そこにいたイスラエルの民全員が有無も言わさずに「主こそ神です!」と言ったような圧倒的な証拠が、全人類に分かるように示されたら助かります。もちろん世の終わりにはそうなると聖書に書いてありますが、神様が今、そういうふうにしてくれたら伝道する手間が省けていいと思うのに、そういうふうにならないのです。
 それはなぜか?その答えは聖書にこう書いてあります。ヨハネの福音書三章十六節、

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

 「御子を信じる者が」とあります。「御子を見た者は」、「御子を頭で理解できた者は」ではなくて、「御子を信じる者」です。
 そして、ヨハネの福音書二十章二十九節、

『イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」』

 これはイエスさまがトマスに語られた言葉ですが、トマスは、よみがえりのイエスさまに実際に出会って、「あぁ!この方は神様だった!」ということに気づいたのです。我々からしたら「羨ましいなぁ、私もよみがえられたイエスさまに直接出会えたら良いのに」と思うのですが、イエスさまの見方は違っていて、見てから信じるのではなくて、見ないで信じるほうがもっと幸いなんだというのです。「見て信じる」ことを神様は願っておられないのです。「あ!目で見た、頭で分かった!神様!あなたがいることを認めます!」ではなくて、「神様がいらっしゃることを、私は信じる。だから私は神様を認めます!」という方を、神様は喜ばれるということですね。第一コリント一章二十一節、

『事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。』

 人間が何を言おうと、神様がそう定めたわけですから、文句を言うことはできません。「なんで神様は私の前に現れてくれないんですか!」とか、「もっと分かりやすく教えてくれればいいのに!」とか、そういうふうに言ってはいけないのです。見なくても、また頭で理解できなくても「信じなさい!」と、神様は言われるのです。「あなたが信じるなら、あなたは幸いです」と。

 神様が存在するか否かは証明できない。というのは、どういうことかと言うと、人は「神様がいることを証明できません」しかし、「神様がいないことも証明できない」ということなのです。神様がいないことを学問で証明することはできません。科学で証明することはできません。
 ということは、どういうことでしょうか。神様がいるかいないかは、人間の頭の範囲を超えたものだ、ということなのです。人間の頭で完全に理解し得るものではない、ということです。だからこそ、私たちが生きていく上でどちらかに決めなければいけないとしたら、そこには信仰しか方法がないのです。信仰によって「いると決める」か、「いないと決める」か。そして、決めたように生きていくしか人間にはないということです。
 神様を知るということは、神様を信じることに他ならないということです。

 日本人が、何故こんなにも神様に対して曖昧な答えしか持っていないのかというと、そこには日本人の持つ、神様についての混乱した価値観や捉え方があると思います。日本には神様と呼ばれるものが溢れかえっています。「〇〇の神様」とか、ちょっとしたことでも神になってしまいます。昨日日本シリーズが終わりました。DNAの「守護神」山崎康晃がホームランを打たれ、目の前の勝利が消えてしまったわけでありますが、守護神でも打たれて負け投手になることもあるのです。あるいは、「神対応」と言われたりしますが、ちょっと優れたものに、すぐに神の称号を与えちゃったりするわけです。あまりにも簡単に「神様」が生み出されていく。そのため、神様という言葉の持つ意味も相当幅広くまた弱いのです。聖書のいう神様は、日本人のいう神とは全く違います。創造神、絶対者、唯一、そういった考え方は日本人のいう神様という言葉の中にはないと思います。

 日本の神様は、善と悪の性質を持ち合わせる存在です。紀元前、中国の春秋時代に陰陽道というのが産まれて、それが日本にも入って来て、日本の神様に対する価値観も作り上げていると言われています。

 話は変わるのですが、先日ある方が教会を訪れ私が応対させていただきました。その方は私と同年代の方で、初めて教会に来たとおっしゃっていました。
その方は悩んでおられて、クリスチャンの友達が教会に行って祈ってもらうといいよとアドバイスされ、それで来られました。家庭の問題で苦しんで、「家族がバラバラになってしまった」と深刻に悩んでおられました。いろいろとお話を聞いてみると、本当にかわいそうだと感じました。
 聞いてみると、家族がバラバラになっているのが、何故なのか納得いかない、理不尽な感じで、これは人間的な方法で解決できるような問題ではないんじゃないか、霊的な何かが関わって起きている問題なのではないかと感じさせられました。

 神様がいるように、聖書の中には、私たちを苦しめる存在である悪魔悪霊のことについても述べています。悪魔悪霊についても目には見えませんし、そのことを理解するにしても、信じるか信じないかという問題になってくると思うのですが、聖書の中では、私たち人間をなんとか滅びの子にしてやろう、人生も破壊してやろうと、そのように志し、日々暗躍している存在であると教えています。
 そして、その悪魔悪霊が働いている時には、見えないような形で、透明人間のように、例えば家族だったら家族の中に、その存在を隠してお互いが反目しバラバラになって家庭が崩壊するようにと働いてくるわけです。私はそういったことを彼にお話しさせていただきました。
そして「ところで、あなたにお尋ねしたいのですが、小さい時から霊的な現状で苦しんだような経験はありませんか?」と聞いたら、その方はまじめな顔をされて、もう四十代で、自分で事業をなさっているような立派な方なのですが、こうおっしゃいました。「実は私は子どもの頃から霊体験満載のような人生を歩んでいるんです」と。いつから始まったのかというと、小学三年生の頃だそうです。
その時、彼は家族と居間にいてくつろいでいたそうです。窓にカーテンがかかっていたそうですが、その時カーテンの向こう側に、人影がいたというのです。こんな感じでしょうか。

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 他の家族は誰も分からない。その人だけしか見えないというのです。本当に恐ろしかったそうです。
その時以来、金縛りが始まったのです。それも、毎晩のようにあったというのです。一度起こると二時間、三時間も動けないというのです。金縛りに遭われたことのある方が、皆さんの中にもおられるかもしれませんが、二時間、三時間動けないという方はいらっしゃいますか?時計を見ることができたということだったと思うのですが、動けなかったそうです。ある意味で日常的になったので「慣れて」しまったというのです。解ける瞬間も分かるというのです。自分でも恐ろしかったので、お祓いを受けたそうです。そうしたら少しおさまったそうです。
 でも中学生時代のある日、ひとりで家で勉強していたそうです。その時、その部屋には彼以外は誰もいないのに、部屋の中で人の息づかいがしたのです。
その方の家の隣は、夜になると灯りがつくらしいです。駐車場の灯りか何か知りませんが、窓からその明かりが入って来るそうです。しかし、その日に限って、その明かりの色が違うのです。普段は白っぽいんだけど、その日だけは赤っぽくて、彼は思いきって思って窓を開けてみたそうです。そうしたら、これがあったそうです。

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 ひとだまでした。それで窓をバッと閉めて、布団の中に潜り込んだそうです。そうしたら誰かが上に乗って来て・・。もう本当に恐怖で恐怖でたまらなくて、それ依頼、勉強が手につかなくなってしまい、全然できなくなって、結局学校にも行けなくなって、しばらく不登校の状態になってしまって、それで成績もオール1で、「もう進学できません」と先生に言われるようになってしまったそうです。
それで、豊川にある有名な稲荷を祀る寺社にお祓いを受けに行ったそうです。そうしたら、お祓いをする人から、「あなたには狐が憑いている」と言われたそうです。狐を神様に祀っているところなのに、あなたが困っているのは狐が憑いているからだと言われたそうです。それで、お祓いを受けて、そうしたらすこし良くなったそうです。成績もオール3くらいになって、高校にも無事進むことができたということです。でも、金縛りは今まで止むことはないのだそうです。
 大人になって結婚もされて、家族ができて、子どもができて、良いと思っていたのに、今は家族の問題で、本人もどうしたらいいか分からない。苦しんでおられるのです。私は「イエス様に頼りましょう、イエス様を信じて悪魔に立ち向かっていきましょう」と話しました。
 本物の神様は、普段は神様のような顔をして、ある時は人に憑いてみたり、先祖のふりをしてある時は祟ってみたり、拝み方が悪い!とか言う、そういう方ではありませんよと言いました。神様と呼べる方は良い方です。み言葉の中にも、ローマ人への手紙八章十五節、

『あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。』

 神様と呼べるのは、よい方だけなのです。ご機嫌を取らないといけない。神様を喜ばせ、何かを捧げなければ幸せを下さらない。神様を喜ばせなければ仕打ちが下る。祟りが来る。そんな神様は神様じゃない!と、聖書ははっきり言っています。
 先月も秋祭りのシーズンで、神社などで祭りが行われましたが、地域で行われる祭りというのは、その地域の鎮守と呼ばれる守護神を祭る祭りなのです。地域とのつながりの中で動くということです。拝むことで五穀豊穣がもたらされ、拝まないことで天変地異がもたらされる、という考え方です。
 また、日本では先祖崇拝をよくしますが、先祖崇拝は個人・家との繋がりで働きます。拝むことで家内安全・無病息災がもたらされ、拝まないことで問題や病気がもたらされると信じられています。何か悪いことがあって霊能者の所に行くと、「なになにが憑いてますよ」とか、「なになにの祟りですよ」と言うわけです。

 ここでも話したことがあるかもしれませんが、隣の街で毎年行われる有名な祭りがあります。「天下の奇祭」なんて言われていますが、「鬼祭り」と呼ばれる祭りです。
 私はその祭りで行われることに、とっても違和感を感じます。写真をご覧いただきたいと思いますが、名前のごとく鬼がでてきます。

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 手前にいるのは修験者と呼ばれる霊能者です。見て分かるように、天狗の面をかぶっています。この祭りのストーリーはこうです。

たびたび街に出て来ては、悪さをし人々を苦しめる「鬼」がいました。ある日そこに正義のヒーロー、「修験者」がやってきて、鬼退治をすることになりました。
それで祭りの中では、神社の境内で両者対峙し「からかい」と呼ばれる対決をします。鬼と修験者が互いに秘術をかけて相手を呪い打ち負かそうとするのです。しかし、互いの力が拮抗していて勝負が付きません。
 そうこうしているうちに、お互い相手の能力に感心し惹かれていきます。そして最期にはお互いの力を称え合うようになるのです。両者は意気投合して仲直りします。そうするとどうなるかというと、鬼が、こんなすがすがしいことはないと、気分が良くなって、今度は街に繰り出して、白い粉を町中にまきはじめるのです。そうすると街の住民達はこぞって我先にと鬼めがけて突進して、粉を身に浴びようと集まってくるのです。

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 さっきまで荒ぶる鬼を恐れて修験者に退治をお願いしていたのに、今度は鬼が通って行った後には、幼子から年寄りまで真っ白になった人だかりが付いて回るのです。粉をあびるとどうなるかというと、無病息災、病気にかからないで過ごすことができる。一年に一回これをやると病気にかかりません、というのが、この祭りの売り文句なのです。

 今、私が説明しましたように、一方では悪い鬼であったとしても、うまくいけばその力を引き出し人間にとって良いことをしてくれるという、神だか悪魔だか分からないような存在を、祭り立てて喜ばせることで、良いものを得ましょう、という主旨があるのです。

 こういったことを「オカルト」というのですが、物を使って霊的なパワーを引き出そうとすることです。白い粉で健康を勝ち取ってやろう!他にもアイテムを通し霊的な力を自分に呼び込んで、そして自分の目的を達成しようという考え方です。これは偶像礼拝と同じで、聖書が固く禁じているものであります。
第一ペテロ五章八節〜九節、

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。』

 先ほどお話ししました、教会に悩みを持って来られた方のように、ある時は良い顔をして、ある時は悪い顔をして、結局のところ、人生の中で大切なものが失われていくというような、悲惨な人生が私たちの中に時々訪れるとしたならば、ここに書かれているように、悪魔が、食い尽くすべきものがいないかと探し求めながら歩き回っている。だからこの見えない敵である悪魔に立ち向かうのは、人間の知恵や力ではなく、信仰によって戦うのです。
ヤコブの手紙四章七節、

『ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。』

 彼と一緒にこのみ言葉も開いて、一生懸命祈りました。彼も涙を流しながら私の後について祈ってくださいました。本当の神様の恵みが注がれるのを感じました。
引き続き彼が目に見えない敵に勝利して、神様につながっていくように、私も祈っていきたいと思っているのですが、ぜひみなさんも祈っていただけたらと思います。
 メッセージの最初にお話ししたみ言葉、第二コリント四章十八節、

『私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』

聖書は「見えるものじゃなくて見えないものにこそ、重要なものがあるんですよ。」と、このみ言葉から私たちに指し示しているのですが、神様であり、信仰であり、また敵である悪魔の勢力も目に見えないわけです。

 この世界では、近代から現代に至る社会の中で、学問が発展してきました。以前にもお話ししましたが、学問の世界では立証できないもの、証明できないものは、「ない」と見なします。誰が見ても明らかでなければ、「ある」ことを認めません。学問の中で取られてきた手法は、物事をバラバラにし数値化して見えるように、分かりやすく納得できるようにする、という手法が今日までとられています。
 先日選挙が行われましたが、あれは分かりやすいですよね。得票数・得票率が評価を決定します。この世の中のいろんな現象を見るのでも、一つの事柄を理解するために、私たちはよく数値を用います。例えばこの事柄に対して経済効果はいくらで・・とか。そうやって示されると私たちは「あぁ、そんなにすごいのか」と納得しやすいです。そういったことを私たちは小さい時から勉強の中でたたき込まれております。なので、世の中を見る目も、ついついそういう目で、数値化して見てしまうのです。
 でも、学問では神様について分かりません。神様に関するものは数値で計れるものではないです。信仰もグラフがあって、今五十六パーセント信じました!あと四十四パーセント足りません!そんなふうにはならないのです。信仰が強いか、弱いか、足りているか、足りていないか、そういう価値観は信仰の世界にはないのです。
 神様に形があって、大きさがあって、これが神様でございますと分かればいいのですが、そうではないのです。

私が教会に来始めた時に、楽しい良い所だと思ったのですが、一つわからなかったことは「恵まれました」という言葉でした。
「恵み」って、「受ける価値のない者に与えられる良きもの」と、辞書には書いてありますが、自分は神様の前に罪人で、良いものを受けるのには値しない。にもかかわらず神様の恵みによって様々な良いものをいただくことができます。それが「恵み」です。
生活が守られ、健康も守られ、ということもあると思いますが、クリスチャン生活を歩んでいく中で、「恵み」の他の一面が、もっと分かってきたと思います。
 「恵み」にも、目に見える私たちの身のまわりで判断できる、そういったものもあるかもしれませんが、目に見えない心の内側にあるものが大きいです。問題の嵐にも流されない「平安」とか、何もなくても内側から沸き上がる「喜び」とか、敵をも愛する「愛」とか。そういったものも私たちは恵みとして受け取っています。
 分かりやすく言えば、みなさんがこうやって、週一回何も言われなくても自分から進んで教会に来て、こうやって座席に座っていることも、ざっくり言えば、恵みを求めて来ているわけです。教会に来る事の恵みは、案外目に見えず、来たからといって「若返りました」とか「お金が儲かりました」とか、そういうことはありません。いつもと変わらない一週間があるわけです。でも、教会に都合で来れなかった週、私も今年はインフルエンザになって来れなかった時がありましたが、そういう時はその一週間が、なにか忘れ物をしたような、なにかもの足りない一週間になってしまう、というのがあるんです。礼拝に来られたら「あぁまた礼拝に来れて嬉しいな!」礼拝に参加して、カレーを食べて、みんなと交わりをして、というのも、当然のようになっていますが、大きな恵みであります。

 先月の八日、九日と、二十五時間連鎖賛美がありましたね。あの連鎖賛美も、言い方がおかしいかもしれませんが、時間とともに恵みが積み重なっていくような感じで、最後はボカーンと弾けるような恵みに、みんなが喜びにあふれて、走り回ったり、踊り回ったりということがありました。
 あの時に最後の時間、開先生がこんなリードをしていました。指名した人をみんなの前に出して、前に出た人が曲に合わせて踊り、みんなその人に合わせて踊りながら賛美する、「踊リーダー」と呼んでいるのですが、そういうことをやりました。
いつも何人か踊リーダーが出て踊り、振り付けが面白くて楽しいひとときですが、私はいつもそんな時間に一緒に踊ったりするのがはばかられて、苦手なのです。踊っている人をよそに、自分は歌うだけの時がほとんどです。もちろん否定したり批判したりはしませんが、周りがそれで喜んでいても、「みなさん恵まれて良いですね~」と言いつつ自分は冷静にしているタイプです。
 ところが、いよいよ最後の時間、これで終わるという時、あと一人誰か出てください!と開先生が言い「そうだ!雅也先生!」となったのです。そのとき僕は後ろでPA操作をやっていたので、機材を指さして「これやっているからダメ!」とアピールしたのです。そうしたら、こう言っては悪いですが、そういうときに限って日吉伸也兄弟がニコニコしながら近寄って来て、「先生、ここは私が代わりにやらせていだきますので。心置きなく前に出て行ってらっしゃい!」と言うのです。それで「くそ〜」と思いながら、仕方なく前に出たわけです。
こう言っちゃ悪いですが「嫌だな〜」と思いながら躍りました。またこの時に限って、開先生が曲を二回半も歌うのです。一回で終わってくれればいいのに。「もうどうしよう!」と思いながら、一番最後の時間でもあるし、必死でやりました。嫌だなぁ、恥ずかしい、と思う自分があるのです。みなさんはどうでしょうか。
 しかし、一方で、やはり神様の前に躍るのは恵まれるんですね、不思議なことに。やっているときは、いっぱいいっぱいで何か感じる余裕はないのですが、終わってから振り返ると、「人前に出て踊るのは嫌だ」と「神様の前に出て主をほめたたえ踊るのは素晴らしい」とが半々で複雑な気持ちでした。終わってみてから自分のその気持ちを振り返って、不思議な充実感に浸りました。「恵み」っていうのはこういうものかと、改めて体験したわけです。
神様の恵みは目に見えないのですが、でもしっかりと私たちの信仰の励ましになって、後ろからぐっと私たちを持ち上げてくれるような、そういうものです。
 
神様は目に見えない。そして目に見えないものにこそ目を留めるということを、神様は私たちに望んでいます。
 この世のものに望みを置かずに、もっと大切なものに目を留めていきましょう!というわけです。ですから、私たちは、今日、イエス様の恵みをもう一度考えながら、この恵みに本当にしっかりと根を下ろして一週間歩んでいきたいと思います。見えない神様を信じ、そして信頼して歩んでいく、ということを私たちは日々しています。そのことを再確認しながら、また神様の恵みを心から感謝しながら、今週一週間も喜びつつ、主の前に歩んでいきたいと思っています。神様を信じ見上げる時に、心のくもりは溶けて、晴れ間が広がって、本当に喜び、平安、希望が与えられます。
 今日、もし「神様を信じていないかなぁ、信じているのかなぁ」と曖昧な気持ちの方がおられたら、今日是非決めてください。これはあなたが決めるかどうかです。信じますと決めるか、信じませんというか、どちらかしかありません。お祈りします。

 イエス様。今日の礼拝の中で目に見えない神様について学びました。恵みについて学びました。大切なものこそ目に見えないのだと学びました。どうか私がイエス様を信じ、イエス様にある恵みの中で生きることができますように、これからも導いてください。また目に見えない敵である悪魔とその力からも守られて、また私にあなたが与えてくださる良きもので人生を満たし、また私に与えてくださった良き働きを全うできますように導いてください。神様の霊である聖霊様が私の人生を照らし、導いてください。イエス様の御名によって信じてお祈りします。アーメン。