「2017年あなたは良いもので満たされます。—パート27—
 前もって準備された『善い業』を取り戻そう!」

2017年11月12(日)
新城教会主任牧師 滝元順
エペソ人への手紙 2章10節

『私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。』

 みなさん、おはようございます!今、後藤さんの素晴らしい演奏を聴かせていただきましたが、私の伝道生涯の中で、最も短い時間で主を受け入れ、クリスチャンになったのは、後藤さおりさんです。岡崎の神社の鳥居の前で、五秒くらいでイエス様を信じたのですが、これからそういうことが頻繁に起こるといいなぁ、と思っています。

 お祈りに支えられまして、沖縄での「日本縦断リバイバルミッション」、一週間くらい行かせていただきましたが、本当に恵まれた集会を連日持たせていただき、祈っていただいた結果が沖縄で現されたことを、心から感謝申し上げます。

 沖縄は、観光地のように今は考えられているのですが、日本の歴史の中で最も辛い歴史を今もなお、引きずっている地域ではないかと思います。
 私は今回、名護に行きまして、名護には辺野古という地域があります。よくテレビにも出るのでご存じだと思いますが、辺野古付近に新しく米軍基地が出来るということで、街が真っ二つに分かれているのです。地域にとっては本当にセンシティブな問題で、名護の教会に行きましたら、「辺野古の事だけは絶対に話さないでくださいね。」と言われました。教会の中にも、基地建設反対派、賛成派があって、争っているわけです。
 私たちも辺野古にとりなしの祈りに行き、早く問題が解決するように祈って来ました。

 太平洋戦争において、二十万人くらいの人々が、その多くが民間人だったと言われますが、殺されたのです。それも、アメリカから攻撃を受けたり、爆撃で殺され死んだ人たちも多いのですが、それと共に、日本軍によって殺された人たちが多いのです。
 そのようなセンシティブな歴史を抱えている場所で、ミッションを行わせていただきました。しかし、そのような傷深い地にこそ、主が最も強く働かれることも感じています。
 イエス様がこの地上に来てくださったのは、心の傷を癒やすためだと、イザヤ書では述べられていますが、日本の歴史の中で最も傷深い地に、主が目を向け、業を始めておられると思います。

 日本のキリスト教人口は一パーセント弱と言われ、実際に礼拝に出ているプロテスタント人口は約〇・二パーセント、二十数万人だと言われます。
 しかし、沖縄におきましては、その率がもっと高いのです。教会も多いですし、教会には、本土の教会よりもずっと多くの方々が集っておられます。
 沖縄はゆったりした所で、集会が、七時半から始まるとなっていても、教会に「すいません。今日の七時半からの集会、何時から始まりますか?」という電話が昔はよくあったのですが、この頃はなくなりました。七時半と言ったら、ぴたり始まるのです。だいぶ政府に支配されたところもあるのですが、どこに行っても、すばらしい集会でした。

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 私と井草聖二君、彼も牧師の息子ですが、彼はアコースティックギターの名手で、すばらしい演奏を聞かせてくれました。

 先ほど読みました聖書の箇所は、大変有名な箇所です。エペソ二章十節のみ言葉ですが、タイトルは、新改訳聖書からではなくて、新共同訳から付けさせていただきました。エペソ人への手紙二章十節(新共同訳)は、こうなっています。

『なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。』

 「良い行い」というと、電車の中でおばあちゃんに席を代わってあげたとか、お友達に親切にしてあげたとか、これも良い行いですが、そのくらいのレベルで理解してしまいがちですが、「良い行い」という言葉は、「善い業」と訳したほうがいいと思います。「良い」とは、「有能、優良な」と訳せますし、「行い」とは、「仕事、労働」と訳せます。ですから、「善い業」としたほうが適切ではないかと思います。
 神様は私たち一人一人にしかできない、有能な、善良な仕事を用意してくださっているのです。それが前もって用意されているから、それを行うのが人生だというわけです。

 聖書の基本は、人に備えられたすべては、「良いもの」というのが前提です。神が創造したものに、「悪いものは何一つない」ということです。原点においては、すべて良いものであるということです。

 私はよく話すのですが、はじめの人間、アダムとエバにも遺伝子があったはずです。そして彼らは、死ぬことがない存在でした。死ぬことがないということは、遺伝子がエラーフリーであったということです。遺伝子の中に、何一つエラーがなかったということです。原点の情報の中に、エラーがあったとしたら、私たちは神によって創造されたと言えないのかもしれません。宇宙には知的な存在がいて、宇宙人かなにかに造られたのかもしれません。しかし人が不死の存在として、全くエラーなしに造られたという事は、神が人を造ったといって間違いないです。
 先ほど読んだ聖書の箇所に、「良い行いをするためにキリスト・イエスによって造られた」とあります。私たちは、イエス様によって創造された存在です。イエス様は、天地宇宙を造られた、神ご自身です。

 しかし今はどうでしょうか。人類の中で、「私は完璧だ!」なんて言える人は、誰一人いないわけです。誰でも歳が来れば、だんだん弱ってくるし、皆、死ななければなりません。
 時々、私たちは病気になったりすると、「神様!なぜ、私にこんな病気を与えるんですか!」と文句を言うことがあるのですが、文句は言えないと思います。なぜかというと、病気は基本的には罪によって引き起こされるからです。「病気は罪から来ます!」と言ったら、ドキっとして、「俺が何をしたというの」と言うわけですが、罪とは、個人というよりも、「共同体の罪」のほうが、個人的な罪よりも、深くて重いのではないかと思います。

 ヨム・キプール、大贖罪の日に、祭司たちは、山羊の頭に手を置いて、共同体の罪を悔い改め、荒野に放ったのです。案外、「罪」というと、個人的な罪を意識しますが、実際、問題の原因となるのは個人の罪というより、人類全体の共同体の罪が強く関わっていると思うわけです。
 人類は神から離れて、人間の知恵で生きるようになったわけです。原子力発電所なども、壊れた時に修理する技術がなくても、とりあえずエネルギーを取り出すことができるということで、人類の全体の意思で作り出してしまったわけです。

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 しかし原発が壊れたことによって、放射線が飛び出して、放射線は微少な弾丸みたいなものですから、遺伝子の鎖を打ち抜いて、神がせっかく完璧な遺伝子をくれたのにも関わらず、欠損して病気にもなります。
 罪の悔い改めも、個人的な罪は悔い改めるのですが、共同体の罪は意識しないのです。私たちは個人というよりも、人類全体の共同体的な罪によって苦しめられているといっても過言ではありません。それがまた、個人の人生にも大きな影響を与えるということです。

 沖縄の方々って、明るい方々ばかりです。人なつっこいし、誰にでも話しかけることができるような、社会に雰囲気があります。この辺だと、知らない人とはあまり話をしませんが、沖縄だと、知らない人に道を聞いたり、店に入って店員と話したりとか、自由な雰囲気があります。「みなさん明るいですね〜。」というわけです。

 しかし、不思議と、沖縄では精神的疾患率が本土の倍だというのです。どうして、こんなにも明るい性格の方々が、精神的に病むのだろうかと、精神医学の領域においても理解できないというわけです。
 私は沖縄戦が関わって、遺伝子が変化したのではないかと思っています。自分の罪というよりも、自分の周りの環境というよりも、過去から引きずっているものが、引き起こしていると思うわけです。精神的な病いは、脳の中の物質などが関わりますから、やはり病です。しかし同時に、どの分類にも当てはまらないような、精神疾患も数多く存在するというのです。
 今回も、現場で働いておられる方とお話しさせていただいたのですが、病院は大変ですと話されていました。
 実はマルコの福音書に、現代ならば、病院行きの人物が出て来ます。
 私はここからよく話しますから、ご存じの箇所だと思いますが、マルコの福音書五章一節~四節、

『こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである。』

 この男は、墓場に住んでいて、夜となく昼となく、大騒ぎして、ゲラサの街に住む人たちを苦しめていました。時々、街の強い人たち総出で、彼を捕らえて、鎖につないだり、足かせを付けたけれど、それも引きちぎってしまうほど、大きな力があって、「誰も彼を押さえるだけの力がなかった」というわけです。
 現代社会にこういう人がいたら、薬かなんかで眠らせて、頑丈な檻の中に入れて、治療するかもしれません。しかし、ここでこの男を苦しめていたのが、どういう存在だったかというと、純粋な病ではなくて、「レギオン」という、悪霊どもの軍団だった!ということです。悪霊どもが彼を苦しめていたわけです。イエス様がゲラサに行かれたことによって、初めて、街の人たちはそのことがわかったのです。

 しかし、この墓場に住んでいた男も、神が最初に創造された原点においては、こんな混乱した男ではなかったはずです。「良いもの」として創造されたはずです。しかし、どこかで良いものを奪われて、悪いものに置き換えられてしまったわけです。
 その原因を突き止めなければ、人類に明日はありません。これがゲラサの男が住んでいた家、墓場です。

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 私がゲラサに行って撮って来た写真ですが、この横穴は、古代の墓場です。この穴の一つに、この男は住んでいたのではないかと思うわけです。ゲラサの街が右側のほうにあって、ガリラヤ湖が見えて、街の郊外に墓場があるというシチュエーション、マルコ五章の記述と合わせると、よく合致しています。
 ここで、注目するのは、墓の穴の前に広場があることです。この広場は何のための広場かと言いますと、ゲラサは、古代ヘレニズム時代に造られた街で、ギリシャの文化で街は成り立っていました。古代ギリシャ系の人たちは、毎月、先祖の命日に墓の前に集まって酒盛りや食事会をして、先祖の霊を招く事を行っていました。
 これは「先祖崇拝」の為の広場でした。巨大なレギオンという勢力が、なぜ、男に関わったのか、良いものが奪われたのか、それは祖先崇拝です。その現実を、ここからも見ることができます。

 日本人は祖先崇拝を真剣に行いますが、祖先崇拝は、先祖に対する愛着心とか、思い出が原点にはあると思われますが、先祖の霊は、この地上には存在しません。人は死んだら神の手にゆだねられます。ゆえに、先祖の霊と称して出現するのは、先祖ではなくて、オレオレ詐欺と同じ「オレオレ先祖」が関わってくるわけです。それは悪霊どもです。悪霊どもが、人生に関わり、良いものを奪い去るのです。
 日本で、祖先崇拝を最も真剣にやる地域、それはこの地域も真剣ですが、沖縄が一番です。沖縄の祖先崇拝は、日本一かもしれません。沖縄には、この近所とは違った風習があります。これをご存じでしょうか。

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 これは、みんなが集まって食事をしている光景ですが、後ろに見える穴は、墓です。先祖の墓の前で、盆には一族が集まって、先祖の霊と共に食事会をするわけです。これを、「シーミー」と言います。沖縄の人たちは、クリスチャンでなければ、皆、やるわけです。ゲラサの墓の穴の前の広場で、食事会をやるのと全く同じ習慣です。これは沖縄独自の文化だ、習慣だと言いますが、世界の文化で、完全に独自のものなどありません。世界の文化、習慣も、バベルの塔から流れて定着したものですから、どこかに共通性があるわけです。
 沖縄で、精神的疾患を持っている方々が、一番荒れるのがいつかというと、シーミーの季節です。墓場の前で食事会をする時、混乱するというのです。だからその時期になると、病院も臨戦態勢で構えるそうです。先祖が来るのに、なぜ、そんなふうになるのか、おかしいじゃないですか。これは先祖の霊ではなくて、先祖のふりをしたオレオレ先祖の証拠です。今回も、そのことを沖縄でお話しさせていただいたのですが、誰の手にも負えない男に対して地域住民は、「こんな男は早く死んでほしい、早く消えてほしい、この人さえいなくなれば幸せになる」と考えていたことでしょう。

 しかし、人間の視点と、悪魔の視点は違うのです。同時に、悪魔の視点と神様の視点は、同じ方向から物事を見ています。残念ながら、人間は真逆の方向から物事を見ます。「この人はいないほうがいい!」という人は、神の目から見たら最も大切な人なわけです。そして、悪魔の視点から見たら、神様が最も大切だと考えている人物ですから、先回りして、そのような人々を縛り付けて、大きな問題を起こす存在に仕立て上げるのです。

 時々、この人さえいなければ幸せだけど…というような人物に出くわしますが、視点を変えなければいけないと思います。霊的な問題が介入しているとしたら、問題を持っている人たちは、皆、重要な「善い業」を託された人たちです。しかし、それがサタンに奪われているがゆえに、混乱の中心となっているのです。

 ゲラサにおいても、まさにそうでした。この男が解放された時、何が起こったのかが、マルコの福音書五章二十節に記されています。

『そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。』

 この一人の男の癒やしと解放が、なんと、ゲラサだけでなくて、デカポリスとは、十の街が連合を組んでいたのですが、十の街の人たちに福音を伝える鍵となったのです。この男がやばい男だということは、すでに十の街に知れ渡っていたと思われます。しかし彼が癒やされた時、なんと、十の街の人たちが、イエス様に関心を持ち、向きを変えさせる存在として用いられたのです。元々、彼はそのような善き業のために、創造されていたのでしょう。しかしその鍵をサタンに奪い取られていたわけです。彼に委ねられていた鍵が、良いほうに使われれば、地域全体に福音が広がるし、悪いほうに使われれば、地域全体が閉ざされるということです。
 ということは、私たちの人生の中で、様々な戦いは何を中心軸として起こるのかというと、「あらかじめ備えられた賜物」です。「あなたはこの仕事をしてください!」と、神から与えられた特別な能力を中心軸に、起こるのです。悪魔も賜物を必死になって盗み、悪魔の王国拡大の為に使おうとします。また神様も、その人を豊かに用いたいと願っておられるのです。
 ゆえに、人生に起る問題は、神から与えられた能力を中心軸として起こってくる、と言えると思われます。

 マイケル・ジャクソンという、歌がうまくて、踊りもうまい青年がいましたが、彼は歌がうまく、踊りがうまかったから、大金を儲けることができたわけです。しかし、あまりにも能力があったがゆえに、自分をコントロールすることが出来ず、薬に頼って、死ぬはめになったわけです。もしも歌が下手で、踊りがうまくなかったら、彼は、今でも生きていると思います。しかし、あまりにも能力が高かったから、その能力が悪魔に取られて、あのような結末になったのではないかと思います。
 問題が起きるのは、神が人に与えた賜物を中心軸に起こってくるのだと思います。ですから、それを取り戻すのは、大変重要なことです。原点においては、良いものを創造してくださったわけですから、現在、良いと言えないとしたら、サタンによって奪われている!ということです。
 ということは、絶対に、取り戻さなければならない、取り戻してこそ、神の栄光が現されるということではないでしょうか。
 教会とは、奪われた賜物をサタンから取り戻すために存在しているのです。賜物中心軸で問題が起こって、教会に来られた方が、結構多いかもしれません。それが勝ち取られて、現在、群れを形成しているということは、さらにこの働きを前進させ、悪魔に奪われた良いものを、二倍にして、取り戻すために働くのです。

 またこの「善い仕事」は、ただ個人だけでなく、ゲラサの例からも分かるように、地域、街、国、国々、やがては全被造物にまで及ぶのです。その事実を、聖書全体から見ることが出来ます。
 「善い業」とは、ただ単に、個人だけに与えられているのではなくて、ある特定の街に住む人たち全体が共有している善い業もあり、国に与えられている使命もあり、国々、いや、被造物全体に委ねられている使命を知る必要があるわけです。
 福音とは、決して人間のためだけではなく、被造物全体の回復に及ぶということを、最近、私たちは学んでいて、この事を知った時、私にも革命的変化が起こって来た気がします。

 先日、台風二十一号と二十二号が来ました。こっちに向かっていました。いつも私は、「台風よ。あっちに行け!」と追っ払う祈りをしていたのですが、今回はそうではなくて、嵐も神が必要として造られ、遣わされていると考えて、嵐は詩篇百四十八篇によれば、「み言葉を行う嵐よ」と述べられていますから、台風も敵ではなく、味方として扱ってみました。
 「台風よ。み言葉を行え!主を賛美しろ!」と宣言してみました。台風二十一号と二十二号の時に、台風を嫌がるのではなくて、み言葉を行う、共に働く同労者として、受け入れて命じてみました。
 自然界と人類は敵対している、という考えがあるのですが、聖書を見ると、自然界と人類は、元々は敵対関係ではなく、良い契約関係にあったというわけです。
 しかし、人が罪を犯したことによって、人類と自然界、被造物の間に壁ができて、敵対関係になってしまったのです。しかしイエス様の十字架の勝利によって、敵対関係が解消されて、和解できたのです。

 台風二十一号と二十二号に、「主をほめたたえろ!」と宣言したら、この近所、風があまり吹かなかった、と話したじゃないですか。それは気のせいだ!うちは風が吹いたぞ!と言うかもしれませんが、先日、こういうニュースが流れていたのを、ご存じですか?

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 ある人がこれを送ってくれたのですが、「超大型で広い暴風域を持つ、台風二十一号によって、経路上の各県において、全域に渡る暴風警報が発令された。ただし暴風警報が発令されなかった地域は、以下の二つのエリアのみだ。」というのです。それが「西三河北東部と、東三河北部。共に愛知県。」というのです。

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 観測が間違っているんじゃないか!という意見も出たというのです。東三河北部って、新城です!
 ちょっと効果ありかもしれません!聖書のみ言葉って、そんな馬鹿な!と考えるのですが、実際に実行してみるべきですね。台風も敵じゃなくて、あっちに行け!じゃなくて、「主のみ言葉を成し遂げろ!」とか、「主を賛美しろ!」と宣言すると、今まで敵対関係にあった存在が、変わってくるかもしれないですね。
 地震なども怖がるんじゃなくて、「主の御心を現せ!」と宣言したら、悪い影響を与えないかもしれないです。
 私はこのニュース、知らなかったのですが、ある方が送ってくれました。ちょっと、鳥肌ものだったのです。やっぱり新城市には、新城教会がありますから、他の地域で起こるとメリハリがつかないので、今回は、新城市がある東三河北部を中心に、主が働いてくださったと思うのですが、これを、みんなが理解したら、同じ事がどこでも起こるのではないでしょうか。
 良き業は、人間だけではなく、台風にだって与えられていると思います。時々、車が汚れた時、洗車機に入れます。私は三百円の一番安いのでやりますが、そのまま車の中に乗っていると、周りはすごい暴風雨、嵐みたいになるわけです。しかし、出て来ると車は綺麗になっています。ある意味、台風って、大型の洗車機ではないかと思います。自然が汚れたのを、綺麗に洗うために、神が用意した洗車機みたいな存在だけれども、案外、私たちは敵視していたところがあるのではないかと思うのです。神の被造物全体と人類はシンクロしている、同期しているというのが、聖書が教えているところです。土地と人も同期しているわけです。

 実は、沖縄で様々な問題が今でも起きるのは、土地に大量の血が流されたという過去があるからだと思われます。土地に血が流されるのは、聖書から見ると、結構恐ろしいとこの頃思うのですが、民数記三十五章三十三節にこんな言葉があります。

『あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血についてその土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない。』

 土地に血が流されると、土地が汚されて、カインとアベルの例でも分かるように、土地から呪いを受ける、重大な罪だというわけです。沖縄戦で、二十万人もの血が流されたとは、相当、沖縄の土地が傷んでいるわけです。
 これを贖うためにはどうしたらいいのかというと、土地に血を流させた者の血による以外はない、というわけです。沖縄を贖うためには、沖縄に爆弾を落としたアメリカ兵全員を連れて来て、皆殺しにしたら贖われるということになるわけです。日本兵全員を連れてきて、全員、その地で殺さないといけないことになるわけです。そんなこと、無理です。しかしイエス様の十字架の血は、万物との和解ですから、永遠にサタンに復讐を宣言してくださったイエス様の十字架の血を宣言するのは、土地の回復につながるわけです。
 設楽原は、日本で最初の大量殺戮が起こった場所です。地が汚れている場所ですが、ここから霊的戦いを始められたのは、まさしく、「善き業の回復」そのものです。
 人類は自然界を罪によって敵に回していましたが、イエス様によって、その壁が取りのけられて、和解出来たのです。それはすばらしいことであり、善き業とは、ただ単に人だけにもたらされたものではなく、神が造られた被造物全体に及んでいるのです。

 マルコの十一章を見ると、たいへん興味深い記述があります。マルコの福音書十一章十二節~十四節、

『翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。』

 続く、マルコの福音書十一章十九節~二十一節を見ると、

『夕方になると、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た。朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」』

 これみなさん、どう思います?前半の部分、イエス様が空腹を覚えられたとあります。イエス様も腹が減ったのか!俺たちと一緒じゃないか!神であったけれど、完璧な人になられたわけですね。空腹の時があったら、イエス様もこの感覚を覚えられたんだなと考えると、ちょっと楽しくなると思います。空腹のイエス様が通りがかると、いちじくの木があったのです。実がありはしないかと思って、行ってみたら、なんと葉は茂っていても、実はなかったというのです。
 しかし、福音書の記者は、「いちじくのなる季節ではなかったからです。」と記しています。だから、これ、当然ですよね。いちじくの実がないのは当然です。
 しかしですよ、イエス様、自分が腹が減ったので、いちじくの木に行ったら、実のなる季節ではなかったのにも関わらず、頭が来たのか、八つ当たりですよね。ご自分に神から委ねられた権威を使って、「枯れてしまえ!」なんて、いちじくの木をのろったわけです。そうしたら、かわいそうに、いちじくの木は枯れちゃったわけです。
 イエス様がすべてを創造されたという見地から、これ本当に、被造物を良いものとして造られたのかどうか、疑問になります。イエス様は地上に来たら、八つ当たりも甚だしいというか、腹が減ればかっかするのは私もよく分かりますが、いちじくの木を枯らしちゃったというのは、神の子として、これいかにという感じですよね。ひどい腹いせだな!という感じです。

 これ、どう理解しますか?ちょっと福音が、すべての被造物に及ぶって、信じられんなって、思っちゃいますよね?

 でも、この記事って、十二節から十九節の間に、ハンバーガーのように、挟まれているストーリーがあるのです。中の具の部分が何かというと、マルコの福音書十一章十五節~十七節、

『それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」』

 それは、先日ご一緒に学んだ、「宮きよめ」の場面です。イエス様は宮の中に入って、両替人たちの台をひっくり返すは、いけにえを売っている人たちを蹴散らすは、大暴れしました。なぜ、イエス様は大暴れされたのでしょうか?
 「腹が減っていたから」じゃないでしょうか。そのように思っちゃいますよね。
 でも、聖書を全体的に読むと、そうじゃないことが分かります。いちじくの実をたべようとしてイエス様は行ったけれど、実はなかった。それから宮で大暴れして、その後、いちじくの木が枯れています。
 聖書は、読者に伝えたいテーマがあるわけです。マルコも読者に伝えたいことがあるわけです。ただランダムに、適当に記事を組んでいるのではなく、言いたいこと、伝えたい事があるわけです。

 実は、いちじくとは、古代イスラエルにおいては、国樹のような存在であったわけです。いちじくの木は、イスラエルそのものを表していたわけです。
 イエス様は、葉っぱが茂っていて、いちじくの季節じゃないのにも関わらず、いちじくの「実を求めた」というのですが、ここにまた深いことが関わっています。いちじくの実が本来ならばならない季節に実を結ぶ、「バーグ」と呼ばれる「初なりのいちじく」が、本来ならば実をつけていたはずなのです。
 この初なりのいちじくは、実は小さいのですが、最初に実をつけ、その後、本なりになるわけです。ユダヤ人たちは、初なりのいちじくをどう呼んでいたのかというと、エレミヤ書二十四章一節~二節、

『主は私に示された。見ると、主の宮の前に、二かごのいちじくが置かれている。一つのかごのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないものである。』

 実は、このバーグと呼ばれる初なりのいちじくは、「良いもの」の代名詞として使われていたわけです。イエス様は、この初なりのいちじくを求めたけれど、「良いもの」が実を結んでいなかった、という事実が隠されているのです。
 いちじくの木は国樹で、イスラエルと繋がっているのです。特にイスラエルの中心地である「エルサレム」と繋がっていたわけです。
 エルサレムという街には、大きな使命があって、街の真ん中には神の宮が建てられていて、そこでエルサレムの人たちが主を礼拝し、主に祈りを捧げると、「わたしの家はすべての民の祈りの家と呼ばれる」とありますが、エルサレムの神の宮で主を求めると、すべての民が祝福され、良いものがすべての人々に及ぶという、街全体に、街に住む人たちに、「善い業」が予め用意されていたわけです。
 しかしエルサレムの住民たちは、善い業を悪いものに変えてしまっていたわけです。神の宮を「強盗の巣」にしてしまっていたわけです。(この件に関しては、以前お話しさせていただきましたので、インターネットにメッセージが出ていますからお読み下さい)。
 神の宮とは、そこで神を礼拝し、祈ることにより、すべての国民が祝福される中心地であるべき存在でしたが、強盗の巣となっていたのです。それとシンクロして、国の木、いちじくの木が枯れたのです。いちじくの木の枯れたのは、同時に、エルサレムの滅亡とシンクロしていました。こういうところを見ると、ちょっと怖くなりますよね。
 ただ単に人間だけの罪でなくて、被造物もシンクロしていて、人が罪を犯せば被造物も悪くなるし、逆に被造物が回復されれば、人も良くなるというような、互いの関係がある事に気づかされます。
 まさしく、エルサレムに住む人たちと神の宮が、万民の祈りの家でなかったらいけないのに、強盗の巣、すなわち悪霊どもの住処となっていたのです。ゆえに、植物ものろわれ、初なりの実は結ばれなかったのです。同時に、住民たちものろわれて、最終的にエルサレムも枯れて行ったのです。

 イエス様の十字架により、被造物と和解が成立している現在、教会には大きな責任があるのです。主を信じる者たちが、「祈りの家」としての機能を果たさなければならないのです。また、私たちがどのような視点で、人々と関わるのか、国々と関わるのか、被造物と関わるかで、それらは世界に大きな影響を及ぼすということです。
 イエス様は十字架を通して、ユダヤ人と異邦人との間にあった、隔ての壁を取り去ってくださったのです。イエス様の善い業、その最も大きな働きが十字架でした。エペソ二章の先ほどの「良い行い」に続いて記されていることが、エペソ人への手紙二章十四節~十六節、

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。』

とあるように、イエス様の十字架により、今までは、ユダヤ人だけに特化されていた祝福が、主を信じる者たち全体に共有されるようになったのです。同じ善き業を行う特権が与えられたのです。
 しかし、それは裏を返せば、教会に大きな責任が課せられたことになります。エルサレムの民が神の宮で行っていた働きが、教会に共有されたからです。神の宮の働きが、自然界に対しても、世界の国々に対しても影響を及ぼすならば、主を信じる者たちにその善き業が分け与えられた今日、私たちは責任を持って、人々にも、被造物にも、福音を宣言することが重要な使命です。神が造られた被造物は、互いに連携し、シンクロしていることを、よく理解する必要があるわけです。

 また十字架の勝利は、ユダヤ人と異邦人の壁だけでなく、コロサイ人への手紙一章二十節は、

『その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。』

 なんと、万物との和解、被造物全体との和解のつとめ、これが私たちに託されているのです!クリスチャンたち、教会に託された「善い働き」、それは神と全被造物の和解、人類と全被造物の和解の務めです。教会が、ただ人だけの救いに特化するのではなく、人が救われたら、続いて、被造物全体に対して責任を果たすために働いていくことが重要です。

 最後に一つの証しをしたいと思います。今回、沖縄の名護という街に行ったのですが、その街にある教会の牧師先生が、「近頃、教会で本当にすごいことがあったんですよ!」と興奮して話し始められました。その教会に八十代のおばあちゃんが来ておられるそうですが、沖縄は祖先崇拝が強く、家族の中で誰か一人がクリスチャンになると、「ご先祖様に申し訳ない」と言って、迫害されるのです。この近所もそうだと思いますが、この近所以上に、迫害されるのです。それもおばあちゃんがクリスチャンになったのですからたいへんです。娘夫婦に強く迫害されて、おばあちゃんは家の一階に住んでいて、娘夫婦は二階に住んでいるらしいのですが、あまり構ってもくれないというのです。

 ある日、おばあちゃんはよろけて、固い石畳の上に倒れ、頭を強打したというのです。おばあちゃんは、頭を強打した瞬間、「あっ、これで私の人生は終わった・・・」と思ったそうです。本当に終わったらしいです。おばあちゃんは死んだのです。でもこういう話をするのは、おばあちゃんは生き返った、ということなんですが、時々、臨死体験って聞きますが、おばあちゃんはこのとき、臨死体験をしたそうです。
 死んだ瞬間、魂がふっと体から出たら、なんか温かいカプセルみたいな物体に包まれたというのです。そして、気がついたら死後の世界に移っていたそうです。おばあちゃんは、見たこともない綺麗な花園に立っていたというのです。
 死ぬのは怖くないですね。天国とは、やがてこの地上に現れるものですから、死後の世界は、天国待合所みたいな所です。しかしこの地上よりは、ずっとすばらしいみたいです。
 おばあちゃん、花が大好きで、自分が見たこともない花園に立っていたものだから、「これはどんな種類の花なんだろう?この花はなんだろう」と、周りの花を真剣に観察していたそうです。
 そうしたら、誰かが近づいて来たというのです。死んだ後は、誰かが近づいて来た時、「どなたですか?」と言わなくても、誰か分かるそうです。すごい能力が与えられるんでしょうね。死んだ時のお楽しみでございますが、なんとおばあちゃん一生懸命花を見ていたら、ある人が来たそうです。でも、すぐにそれが誰か分かったそうです。「イエス様だ!」と分かったそうです。イエス様の顔を見たら、本当に優しい顔をしていて神々しい顔だったというのです。
 するとイエス様が、「おばあちゃん、よく来たね!これからここでゆっくりしてね!」と言うかと思ったら、「おばあちゃん、あんたにはまだ地上でやり残したことがあるから、地上に戻ってくれ!」と言ったそうです。
 そうしたらおばあちゃん、花園があまりにも気に入って、「嫌だよ!戻りたくない!戻りたくない!」とイエス様にだだ捏ねたというのです。
 すると、「やり残したことがあるから、地上に戻します。」と言って、イエス様に抱きかかえられて、倒れている自分の体の所にボンと置かれたというのです。そうしたら、意識が戻ったそうです。なんと、倒れてから二時間が経過していたそうです。家の人は、誰も、倒れているおばあちゃんに気づかなかったらしいです。頭を相当強打したから、血が出てひどいことになっていると思って、おそるおそる、体に力を入れたら、すっと立ち上がれたというのです。
 どこも悪くなかったというのです。でも、二時間も倒れていたから、二階に住んでいる娘夫婦に伝えたら、びっくりして、すぐに病院に運んで検査したけど、全く悪いところがなかったというのです。
 でも、その牧師が「八十過ぎのおばあちゃんに、やり残した使命って何でしょうね?」と言うわけです。
 そうしたら、続いてこう話されました。

 おばあちゃんは、また自分の花壇に戻ることができたというのです。天国の花畑とはちょっと違うなぁと思いつつ、花を育てていたそうです。おばあちゃんは、すごく花を育てるのがうまくて、綺麗に咲かせるんだけど、一つの花だけ咲いてなくて、枯れかけていたというのです。
 するとおばあちゃん、その咲いていない花にこう言ったそうです。「おまえも枯れてないで、ちゃんと花を咲かせて、神様の栄光を現しなさい!」と命じたそうです。そうしたら、枯れて、しょぼくれていた花が、短時間で花を咲かせたというのです。もうすっごくびっくりして、教会に来て話したそうです。

 すると、おばあちゃんの家の前の電線にカラスがいつも止まって、ぐわーぐわー鳴いてたいへんうるさいと言うのです。そうしたらおばあちゃん、ガラッと戸を開けて、「おいカラス!そんな汚い声で騒いでいないで、私と一緒に主を賛美しなさい!」と言って賛美し始めたら、あの悪い声のカラスの声が綺麗になって、主を賛美するようになったというのです。おばあちゃんが歌っている時は、カラスも綺麗な声で主を賛美するというのです。そして賛美をやめると、カラスもやめて、去って行くようになったというのです。
 すると翌日、仲間を連れて来て、ばあちゃんを呼ぶようになったというのです。「ばあちゃん、一緒に賛美しよう!わーわー」と、カラスが呼ぶもんだから、外に出て、「じゃぁ一緒に賛美しようか」と言うと、カラスが一緒に綺麗な声で賛美して、おばあちゃんの賛美が終わると帰って行くというのです。そして次の日、もっと多くの仲間を連れて来て、「ぐわーぐわーばあちゃん賛美しよう」ということが続くようになったというのです。
 その牧師先生、私が最近語っているメッセージは知らないのです。それなのに、「不思議なことが教会で起こっている。」と話されました。
 それで、その日の集会で、被造物全体が主を賛美することを話しました。集会が終わると先生は、「おばあちゃんがやり残したことって、そのことだったんですね!」と興奮しておられました。そして、「今日のメッセージを聞いて、私自身の体験も理解できました!」というのです。

 その方は牧師と同時に、日頃は公立学校の先生もやっておられます。公立学校ですから、宗教活動は出来ません。沖縄は草がよく伸びるものだから、草刈りの仕事も教員の仕事だというのです。草刈りの時は、草刈り機の大きな音がしているから、賛美していても、他の先生方に聞こえないから、いつも賛美して草を刈るそうです。
 その時、詩篇百四十八篇から作られた、「ハレルヤ天において」というザワメキの賛美を歌いながらやるというのです。「ハレルヤ〜天に〜ブンブンブンブン〜おいて〜、主を〜ほめたたえよ〜ブンブンブンブン」とね。そうやっていたら、毎回その賛美を歌う時に限って、綺麗な鳥が来て、一緒に歌うというのです。
 沖縄で鳥がついてくるというのはあまりいい意味ではないんですね。いやがるんです。追い払おうとするのですが、草刈り機の大きい音がしていても、鳥が付いて来て、自分が賛美している間は、その鳥が一緒に歌うというのです。まさしく歌っている感じだったというのです。
 偶然かなと思っていたけど、毎回、ザワメキの百四十八篇の賛美をすると、同じ鳥が来て、一緒に歌うようになったというのです。不思議だな〜って、ずっと思っていたというのです。
 それで今回、私が被造物の賛美について話したら、「あの鳥は私と共に賛美するために来たんだ!ということが分かった!」というのです。

 案外、私たち、人間中心的に物事を考えていますから、善い業といっても、人だけに限定されることが多いのですが、やり残したこと、教会がやり残していること、クリスチャンがやり残していることというのは、神が造られた被造物全体に主をほめたたえさせること、海の巨獣、悪魔・悪霊にさえも、主をほめたたえさせることが重要ではないでしょうか。
 ゲラサにイエス様が行かれた時、レギオンに取り憑かれた男が主を礼拝しました。これはギリシャ語においては、「プロスクネオ、礼拝する」という言葉が使われていますが、これはレギオンさえも主をほめたたえる、被造物全体に主をほめたたえさせる「善き業」です。
 今回私は、沖縄に行って証しを聞いてたいへん励まされました。

 主は、世界中でそのような働きをされるんだなぁと、感動しました。セミが歌ったとか、魚がはねたとか、不思議な事がありましたが、それも善き業の一つと理解しないといけないですね。
 イスラエルが初なりのいちじく、バーグを失っていたのと同じように、私たちも主からいただいた初なりの良いものを失っている事が、結構多いかもしれません。
 それを取り戻して、主に仕えていくことが重要です。

 今から聖餐式を行いたいと思いますが、イエス様の十字架の血潮は、ユダヤ人と異邦人との間にある壁が崩され、続いて、被造物全体の和解です。私たちは善い業を取り戻したいと願っています。最後にお祈りして、終わりにさせていただきます。

 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて、心から感謝します。今日私たちにゆだねられた善い業をもう一度取り戻したいと願っています。今回、沖縄においても、主が不思議なことをしてくださいました。ありがとうございます。イエス様の流してくださった十字架の血潮によって、この土地も勝ち取られ、被造物全体も勝ち取られ、被造物全体への和解の使者として、遣わして下さい。
 今週、私たちは様々な場所で働きますが、和解の使者として用いてください。今ここに備えられました、パンとぶどうのジュース、み言葉と聖霊によって、イエス様と一つになる時であることを宣言して、聖餐式を始めます。イエス様の御名を通して、祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。