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New Year カウントダウン メッセージ集

2017年12月31(日)
滝元開・岡本信弘・公畑フェルナンド・四元雅也・上條実

滝元開牧師

 ハレルヤ!感謝します。この年の終わりに、こうして健康でみなさんの前に立つことができて、本当に心から感謝します。今の映像にあったように、この年も本当にめまぐるしい一年でしたが、神様が守ってくださって、すばらしい大きな祝福と恵みの中の一年であったことを心から感謝いたします。
 特に今年は、新城教会に聖霊が注がれて二十五年目の年ということで、すごく大きな期待と共にこの一年が始まりましたが、その期待通りの神様の大きな祝福があった一年であったことを覚えて、本当に感謝しています。

 個人的にも、今年の一月からすごく期待を持って始め、神様が何をしてくださるのかという気持ちからスタートしたのですが、一月五日に一つの事件から始まりました。それは、以前礼拝においてもお話ししたのですが、我家の庭の物干し竿に、額をボコッとぶつけてしまい、何とこの額に三日月型の傷ができました。月光仮面と言われましたが、そんなことから始まり、月光仮面のように、いい人のようになってあちこちで歌おうと思ったのですが、色々な場所で歌うことができました。数え切れないほどの恵みもありましたが、怪我もしましたし、骨も折りましたし、台風にも見舞われましたし、今までにないすごい一年だったなぁと思いつつも、でもこれらすべてを含めて、神様の中で一年間勝利と祝福だったなぁと思っています。

 今も映像の中に紹介していただきましたが、今年二月には「Hiraku & Noriko」のCDのレコーディングをすることができました。昨年の今頃は、ロサンジェルスでレコーディングすることになるとは少しも思っていませんでした。神様が突然扉を開いてくださって、レコーディングがなされて、すばらしい神様の恵みが一つ形になったことを心から感謝しています。

 そして、話し出すといろんな事件がたくさんありました。四月はザワメキでハワイに行きましたが、さぁハワイに行くぞという寸前に事件は起きました。私たちが度々利用していた旅行会社が「てるみくらぶ」という会社でして、何と、その会社が倒産してしまいました。これはまずいということで電話したら、あなたたちのチケットは予約されていないぞということで、急遽、新たにチケットを購入してハワイ向かいました。チケット代金、ほとんど返金されないということが決定されて、戻って来ても千何百円が来るか来ないかということだったのが、後々奇跡が起こりまして、何と購入手続きに使用したカード会社によって全額返って来るという奇跡がありました。本当に奇跡に奇跡が重なったハワイのツアーでありましたが、すごく大きな恵みでした。

 そしてハワイから帰国して次の日でした。私は足を骨折しました。ジョンズ骨折というやつでしたが、本当に今までにないことでした。周りのみなさん、口を揃えて、「医者に行け。病院に行け。」と言われましたが、屈強に病院には行かずに、今に至っておりますが、ここにこう立っていられること、本当に心から感謝します。
 その後、すぐにスペインツアーがあり、手負いのスペインツアーとなりました。帰路では危うくモスクワに置いて行かれそうになりましたが、でも本当にこうして無事に帰って来られましたし、いろんなことがありました。
 ザワメキでは毎年、八月十五日に同刻プレイズを開催させていただいておりますが、今までずっと野外で歌い続けて来て、毎回天候が守られ晴れて来たのです。でも、今年のその日は豪雨となり洪水警報が発令され、そういった中から準備が始まりました。結局本番前には雨があがってすばらしい集会となりました。さらに、九月は台風二十一号と二十二号が、私たちザワメキが行く所にやって来ました。直撃でした。そんな中での集会で、でも守られました。
 そんな最中、さらにザワメキ至上初めての事件が起こりました。台風二十一号上陸寸前、岡山に車で行きました。岡山市内に入り、間もなく到着するところで、赤信号で停まっていたら、突如、後ろからバーンとぶつけられてしまいました。でも大事には至らなかったので感謝でした。二年前、父が天に召されてまもなく、順牧師がぼそっとこう言ったのです。「親父さんの効力は二年だな。」と言ったのです。何をしてその二年と言ったのか分からないですが、誰かが「どうして順先生はそう言ったんですかね?」と言っていましたが、きっと長男の勘っていうやつじゃないかな。とか言っていましたが、その祈りの効力があったのかないのか分からないですが、父が天に帰って二年後くらいから、台風には見舞われるは、車にもぶつけられて、なんかいろんなことがあって散々だったのですが、でもそんな中でも本当に神様は共にいてくださって、その中にある本当の勝利というのを体験させていただきました。
 つい先日は、ドイツにも行かせていただきましたが、神様が一歩一歩導いて、その都度、その都度、み言葉を持って導いてくださいました。特にスペインに行った時に、「あなたの地境を広げる」というみ言葉が与えられて、リバイバルの地境が広がるなと思ったのですが、まさかドイツに導かれるとは本当に思っていませんでした。でも今回のドイツの旅も本当に祝福されて、神様の大きな恵みの時であったことを覚えて、本当に心から感謝しています。

 今日は二十分間ということですけれども、時間が過ぎてしまいますので、み言葉にいきたいと思います。

マタイ五章十四節〜十六節、

『あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。』

 このみ言葉が来年に向けて与えられた一つのみ言葉です。あなたがたは世界の光です。私たちひとりひとりは世界の光なのです。神様は二十五年前の聖霊様の訪れと共に、霊的戦いという大きな剣を与えてくださいました。これからこの世界を切り開くという剣が確かに神様によって与えられていると思います。
 そして、光というのは隠れることができないのです。このみ言葉の中にありますが、「山の上にある町は隠れる事ができない。」それと同じ存在が私たちひとりひとりだと言うのです。これから神様はリバイバルを成し遂げようとされている時に、私たちひとりひとりが選ばれて、み言葉の剣をいただいて、さぁこれから神様は事を成そう!とされているわけですが、そんな中で、私たちひとりひとりの存在、決して隠れる事ができない存在だと神様はおっしゃっておられます。ですから私たちが行くそれぞれの場所で、隠れようが隠れまいが、イエス様を信じてイエス様が心にいらっしゃるということは、もう輝いているわけですね。自分が強いとか、弱いとか、それは別として、神様が共にいてくださる私たちの人生というのは、神様ご自身が輝いてくださるので私たちは隠れようがないのです。だから、私たちの存在そのものが光であって、その上、霊的戦いの剣を手にした私たちは、これからのリバイバルのために、世界を照らす大きな力となると信じています。

 今年、新城教会に神様がみ言葉の真理を開いてくださったというのはすごく大きなことで、今までの歴史の中にこんなことがあったのかなと本当に思うほどの、驚きのみ言葉の真理の解き明かしの連続でした。福音の真理というのが解き放たれて語られたことが、被造物すべてが神様を賛美するようにということでした。すばらしい恵みだなと思います。
 そして究極は、悪霊どもまでが神様を賛美する。そのことが起こされるようにと、私たちはそのみ言葉の剣をいただいたので、私たちがそのみ言葉の剣を受け取ってこの地に立つということは、光以外なにものでもないと思います。
 ですから、その世界の光としての役割をこの二〇一八年は、果たさせていただきたいなと本当に心から思っています。

ルカの福音書十一章十八節に、

『サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができましょう。』

とありますが、悪霊どもが神様を賛美し出したら、すごいことが起こって来ると思います。この霊的な世界の中で、もう仲間割れどころじゃなくて、その国そのものが立ち行かない。それは悪霊の組織そのものが揺れ動いて、やがてはバサッと崩れ落ちるようなことを、神様はこの終わりの時代にされていると、そのような中で私たちひとりひとりが選ばれているということを信じて、そのみ言葉の剣をかかげて進んで行きたいと思います。

 実はもう一つ、私はみ言葉が与えられて、このみ言葉を紹介するの、少しだけためらいました。エゼキエル書三十八章七節〜九節、

『備えをせよ。あなたも、あなたのところに集められた全集団も備えをせよ。あなたは彼らを監督せよ。多くの日が過ぎて、あなたは命令を受け、終わりの年に、一つの国に侵入する。その国は剣の災害から立ち直り、その民は多くの国々の民の中から集められ、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる。その民は国々の民の中から連れ出され、彼らはみな安心して住んでいる。あなたは、あらしのように攻め上り、あなたと、あなたの全部隊、それに、あなたにつく多くの国々の民は、地をおおう雲のようになる。』

 このみ言葉が一ヶ月ほど前に与えられました。備えをせよ!と与えられて、そして、あなたとあらしのように攻め上るという、こういったみ言葉でした。
 実はこの九節のみ言葉は、今から二十年ほど前に私は与えられて、神様がこれからリバイバルのためにあらしのように攻め上るようなことを、この霊的戦いという働きをするんだなということをすごく教えられて、このみ言葉をいただいたのですが、ただこの前後を見ると、このみ言葉、どういった中で語られているかというと、敵に対して語っている言葉なのです。だからこれをどう受け止めていいのかって、すごく悩みまして、ただ神様が事を成される時というのは、主のみ言葉そのものを前後関係とは関係なくどんっとくださる時もあるんじゃないかなと思って、そんなふうに受け止めました。
 ですからリバイバルの大きな動きがこれから始まろうとする時に、あなたは備えをしなさい!それが前後関係から見ると、敵に対して語っているんですけど、主は私自身にも語っておられるのかなと、そんなことを思います。
 かつても、一九九三年の甲子園ミッションの時に、よく歌った歌がありました。それはザワメキの歌ではなくて、「聖戦をふれよ」という歌があります。「聖戦をふれよ、鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ!」あの賛美もよくしましたが、あのみ言葉も実は敵に対して言っているのです。そしてまた甲子園ミッションが終わって、これから全日本リバイバルミッションとして始まる!という時に掲げられたみ言葉が、「火を取れ!火をまき散らせ!」という、そのみ言葉でしたが、あれも裁きの火だったりするわけですが、神様は時として、不思議な方法で聖書のみ言葉を用いられるのだろかと、そんなふうに思っていますが、これからのリバイバルのために、私たちは備えをしていかなかったらいけないなと、そのようなことを思っています。

 マタイの福音書二十四章四十四節、

『だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。』

 私たち本当に備えをするべき時が来ていて、用心しなければいけない時が今のこの時代であるということをもう一度心に留めなかったらいけないかなぁと思っています。

 そしてまたこれからの戦いのために必要なのは、やっぱり人間の力ではどうしようもないので、サタンとの戦いで、この戦いを人間的な力、人間的な努力だったり、また経験で乗り切ることができるかと言ったら、決してできる働きではないので、これは聖霊様の油注ぎ以外にないと思います。
 そんな時に、神様はやっぱり私たちひとりひとりに「備えをしなさい。そして油を絶やしてはならない。」と、神様はおっしゃっておられるのではないかなと思います。

 マタイの福音書二十五章一節〜四節に、賢い花嫁と愚かな花嫁のことが書かれていて、賢い花嫁は、「さぁまもなく花婿が来る!」と聞き、ともしびに油をいっぱいにして備えていたのです。しかし愚かな花嫁たちは、「そのうち来るだろう。だから、来そうになったら、なんとかしたらいいかな」と、そんなふうにしていたのです。そうこうしていると、花婿が帰って来て、「さぁ花婿が帰って来た!」という時に、愚かな花嫁たちは買い物に出かけるのです。「さぁ、花婿さんが来るから油を買いに行かなきゃ!」と言って、買いに行って、帰って来た時には扉が閉じられてしまっているということが、この二十五章の所に書かれていますが、私たち、決して油を絶やす者ではなく、絶えずともしびに油を満たして、これからの戦いに備えをさせていただいて、そして主がくださった、このリバイバルという大きな戦いを戦い抜く、そのようなものでありたいと本当に心から願っています。

 神様がこれからしようとされること、きっと私たちの思いを遙かに超えた大きな働きをしてくださると信じます。なぜなら今までの歴史の中でも見たこともないような、まさに歴史を貫くみ言葉の真理が解き放たれているということは、これからのリバイバルというのは、私たちが見たことも聞いたこともないような、そのような働きかなとすごく強く思います。

先月、北海道に行きました。北海道、猛吹雪でした。十一月だったので、綺麗な紅葉の中を車で走るのかなと思いきや、突然の猛吹雪で、猛吹雪の中を二時間くらい峠を越えました。もちろん雪で、道路の右側も左側も見えない、そして前も見えない猛吹雪だったので、十メートルくらい前に走っている車のみが見えるのです。ですから、前を走る車を頼りに、ずっと見ながら追いかけて走るのですが、ただ右も左も前も見えない、センターラインも、サイドラインも見えないし、見えるのは前の車だけなのです。だから、そこをめがけてずっと走るのですが、しかしある所に来たら、その車が左折してしまいました。そうしたら、前方が見えないのです。見えるのは、上のほうに、「ここが真ん中だよ」という矢印だけで、左に行きすぎたら落ちるし、右に行ったら対向車にぶつかるしという、すごく大変な運転でした。
 その時に家内と話しました。「いや〜先駆者ってこういう働きかな。前が見えない。でも進まなきゃいけない。」いや、リバイバルっていう戦いは、ある意味、私たち今まで経験したことのないような、このまま行ってどうなるんだろうか、大丈夫なのかと、忍耐のいる戦いなのです。でも結局、私たちその猛吹雪の中のドライブを経てたどり着いた教会が、薪ストーブを焚いて、本当に暖かな中で待っていてくださって、神様の手の中の安らぎってこういったものだなと思ったのですが、これからの戦い、ひょっとして前が見えないような戦いなのかもしれないですが、でも確実に神様は導いてくださって、これが道だ、これに歩めと、導き続けてくださいます。その事を信じて、私たちに与えられている光、この霊的戦いという剣、歴史を貫いて私たちに手渡された剣、それは、誰も隠すことができないものを、主は私たちひとりひとりに、すでに与えてくださっているので、その光を輝かし続ける一年でありたいと心から願っています。
 ここまで主が守ってくださったことを心から感謝して、私のメッセージに返させていただきます。ハレルヤ!


「キリストにある一致」

岡本信弘牧師

 ハレルヤ! 主の御名を賛美します。
毎年、歳を重ねるごとに一年が早く感じるような気がしますが、今年も健康でこの場所に立つことができたことを、まず心から感謝します。
 今日の礼拝後に、ネパール宣教のために餃子を六百個ほど焼きましたが、明日の二十四時間PPHでも焼くことになっています。また、刺身やローストビーフも切らなくてはいけないのでかなり大変ですが、楽しんでやらせていただきます。

この二〇一七年、教会全体に『あなたは良いもので満たされます』と語られてきましたが、自分自身を振り返ると、忙しい中にもいつも神様の恵みがあり、御言葉どおり、良いもので満たされ、充実した一年であったことを感謝します。
 先ほど映像にも出ましたが、娘が三月に結婚しました。娘が家から離れて、また家内と二人きりの生活だと思っていたのですが、結婚当初は、毎日のように家にご飯を食べに来ていました。時には、「今日は、この残ったものを食べよう」と思って家に戻ると、「あれ? 確かここ(冷蔵庫)に入れてあったのに・・・」というようなことがあって、どこの盗人が来たかというような感じでした(笑)。今は彼らの生活も落ち着いてきて、さすがにわが家に来ることも少なくなり、やっと「嫁に行ったんだ」という感じになりました。娘は四日市の教会へ通っているので、日曜日に皆さんにお会いすることはできませんが、元気にやっています。
 また、十月には十数年ぶりに一週間の休暇を取りました。家内の妹がアメリカに住んでおり、ずっと前から「ぜひ遊びに来て」と言われていて、やっと行ってくることができました。仕事に追われている身には、こんなにのんびりしていていいのかと、ちょっと罪悪感を覚える、居心地の悪いようなところもありましたが、いろいろなところに連れて行ってもらい、日常から離れた楽しい時を過ごすことができました。

 一方、プレイズ出版では、新規事業を始めて三年目となりましたが、四十名近いスタッフの献身的な働きによって軌道に乗りつつあり、ここに感謝の報告ができることは大きな恵みです。
 みんなから「社長! 社長!」と呼ばれていますが、社長といっても便利屋のようなものです。「トイレが詰まったから来てください」とか、「ブレーカーが飛んだから来てください」とか、「オーブンが壊れたから」とか、何か困ったことが起きる度に「社長を呼べ! 社長を呼んだらなんとかなるから」と、あっちこっちからお呼びがかかります。それでも私はいつもスタッフに、「呼ばれるうちが花だよ。呼ばれなくなったら終わりだからね」と言って、喜んで呼ばれていきます(時には面倒くさいと思うこともありますが・・・(笑))。それができるということは、私にとって感謝なことです。
 新規事業が軌道に乗ったといっても、まだまだ試行錯誤の状態にありますが、ある人からは、「次は○○の事業をやってくださいよ」とか、「○○のことを考えていただけませんか」とか言われることがあり、まだこのままでは終われないと私も思って考えを巡らせていますので、よき知恵が与えられ、御心の働きが導かれていくよう、さらにお祈りいただけたらと思います。

 さて、私が二〇一七年に目標としてきた御言葉は、エペソ一章十一〜十二節から、「神の栄光をほめたたえる者となる」ということでしたが、来る二〇一八年に向けて与えられた御言葉は、エペソ四章十一〜十三節です。テーマは、「キリストにある一致」です。

『こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。』

教会にはさまざまな働きがあります。牧師やスタッフが働いただけでは成り立ちませんし、皆さんお一人おひとり、教会のために何かしたいと思っておられることと思いますが、一人だけでできることは限られています。そんな中で、一致して働くことの重要性を、あらためて教えられています。

会社や組織は、大きな働きをするとき、プロジェクトを組みます。プロジェクトにはいろいろな意味がありますが、「ある目標を達成するための計画をして実行すること」という意味もあり、大きなプロジェクトを進めるにあたっては、それぞれの分野から卓越した技術を持つ、数十人、数百人のスタッフが集められます。
 ある本に、プロジェクト成功の条件についてこんなことが書いてありました。
一つめは、「一人ひとりが自分の役割を認識すること」。何人もいるから、一人くらい何もしなくても関係ないと自分の役割を怠ったらプロジェクトは成り立たない。二つめは、「同じ目的意識をもって前進すること」、三つめは、「皆が成長して目的を達成すること」だ、とありました。
このことは、「キリストのからだを建て上げるためのプロジェクト達成のため」にも通じるところがあります。エペソ四章の御言葉から、そのために必要な三つのことをお伝えしようと思います。

 まず、一つは、神様が「あなたを選び、役割を与えた」ということです。
会社経営でいちばん重要なことは、有能な人材を育成することです。会社では入社試験を行い、選んだ新入社員一人ひとりの特性を考慮し、それぞれの部署へと配置します。同様に、キリストのからだを建て上げるための働きに召されている私たちに神様は賜物を与え、一人ひとりにふさわしい役割を下さっています。

『こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。』(十一節)

 会社においては、それぞれの場所に配置された人たちが期待どおりの働きをするとは限りません。私たちクリスチャンも、神様に選ばれたといっても、その選びにふさわしい働きをしなければ神様の計画に狂いが生じます。
皆さんの中には、「私のような何も役に立たない者がなぜ選ばれたの?」と思っておられる方がおられるかもしれません。しかし、御言葉に、次のようにあります。

『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。』(ヨハネ十五章十六節)

私たちが神様を選んだのではなく、神様が私たちを選んでくださったと書かれています。人間社会においては人選を間違えることも多々ありますが、神様の選びに間違いはありません。神様は、私たち一人ひとりを、神の国の働きのために選び、召してくださったのです。

 私が献身してから三十年以上たちましたが、牧師になったとき、「神様は、何で私のような話すことが下手で、頭の悪い者を選ばれたのかな?」と思いました。
 一九九三年十一月の全日本甲子園ミッション開催のために、一年以上前から準備が始まりました。私はそのときまだ三十代半ばでしたが、財務を任されました。最初の準備委員会が西宮で行われることとなり、そうそうたるメンバーの先生方が集まっておられるところに、私は滝元明先生に連れて行かれました。そして明先生は、「今度の甲子園ミッションの財務・運営を、この岡本に任せます」と皆さんの前で言ったのです。私は昔のことはあまり覚えていないのですが、そのときのことはよく覚えています。先生方が「こんな三十そこそこの若造に何ができるか」とでもいうかのように、にらみつけるような白い目で一斉に私のほうを向きました。しかし私は、その反応に不満を持つどころか、かえって「まったくそうだ。明先生は経験もない私を、よくここに連れて来たなぁ」と思ったほどでした。
 そんな始まりではありましたが、多くの人たちが協力してくださり、甲子園ミッションは大変祝福されました。ここにはすでに甲子園ミッションのことを知らない方々も多くなりましたが、時々にその証しを聞いてこられたと思います。
エペソ四章十二節には『聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり』とありますが、私がこれをしたい、あれをしたい、これができる、あれができるということではなく、足りない者ながらいろいろと経験させていただき、神様に与えられたポジションで、神様が整えてくださり、ここまできました。キリストのからだを建て上げていくために、神様が確かに私を選んでくださったということを確信して、今この働きをさせていただいていることを、本当に心から感謝しています。

次に、「一致して前進する」ことです。
 家を建てるには、建てる人の要望を聞き、希望に沿った家が建ち上がるように設計図をつくらなければならないし、どんなに素晴らしい設計図があっても、その設計図どおりに建てることのできる技術を持った人がいなければ、家を完成させることはできません。一致してその働きに向かわなければならないのです。 
「一致」という言葉は、世の中でもよく使われます。一般社会では、同じ趣味や同じ学校・部活、同年代、同郷といったことがきっかけでグループをつくります。共通のものがあれば一致しやすいのですが、教会というところは、年齢、職業など、さまざまな違いを持つ人が集いますから、普通で考えると一致は難しいと思われます。しかし、教会は大きな神の家族です。家族には、信頼と愛情があり、それによって一致しやすい集まりといえます。
現在、新城教会には七百名以上の教会員がいます。感謝なことに、この教会には幼い子どもからお年寄りまで、年代も幅広く、バライティーに富んだ人たちが集まっていますが、最近は高齢化で、平均年齢が七十歳を超える教会も少なくないと言われています。あと十年、二十年したら教会が半減してしまうのではないか危惧する声も聞かれますので、ぜひお祈りください。

一致するには信頼が不可欠であり、憎しみ合っている者が一致することは不可能です。  
パウロは、エペソ四章三節において『平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい』と教えています。クリスチャン同士には御霊の一致があります。それは、時に家族以上の絆であったりします。しかし、御霊の一致が難しいときもあります。
 先ほど証しした甲子園ミッションがスタートした時、多くの人が協力してくれましたが、同時に多くの人に反対され、それは御霊の一致とはほど遠いものでした。
 先日、全日本ミッションが新しい体制に変わることもあって、共に甲子園ミッションを戦ってきた先生方が集まる機会がありました。甲子園ミッションの話で盛り上がったのですが、ある先生が、「あのときは、多くの先生方が何故あんなにむきになって反対したんでしょうね」と言われました。それには色々な理由があるわけですが、ひとつには人間的なねたみや、派閥争いがありました。ある人からは、「甲子園球場には百人とか二百人入る、会議室があったかしら?」とイヤミを言われたこともあったそうです。
このエペソ四章十三節前半に、『ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、・・・』とあります。信仰の一致とは、ただひとりの神様、イエス・キリストから目を離さないことです。そして、知識の一致とは、ただ知識を蓄えることではなく、祈りや御言葉を通してイエス様をもっと知ることです。
 甲子園ミッションは、「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致」を第一に求め、人間的な一致とか、人間的な策略ではなく、いつもイエス様から目を離さないで祈り、御言葉に従ったことにより、さまざまな反対や罵声を乗り越えて、組織や血のつながり以上の一致した神の働きが進められたことを体験したのです。
 
そして、三つめは、「キリストに似た者となる」ことです。エペソ四章十三節の後半に、

『完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。』

とあります。クリスチャンとは、「キリスト者」、「キリストに似た者」という意味がありますが、イエス様に似た者となるといっても、イエス様がどんな方かを知らなければキリストに似た者になることはできないでしょう。
では、イエス様の持っておられる性質とは何でしょう。ガラテヤ五章二十二〜二十三節には、『御霊の実』が書かれています。

『しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制です。』

 これがイエス・キリストのご性質そのものだということです。
 私たちにとってキリストに似た者となることは、かなりハードルが高いことかもしれません。しかし、ヨハネ第一の手紙四章十二節〜十三節にはこうあります。

『いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。』

 またもう一つ、ヨハネ十五章十六節後半には、

『それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。』

とあるように、神様ご自身が私たちのうちにおられ、私たちに御霊を与えてくださっていることがわかります。そして、神様に選ばれた者として、その役割を果たして御霊の実を一つずつ実らせていくなら、あなたが望んでいる以上に、主は私たちに与えてくださるという素晴らしい約束があるのです。
 そのために、私たちは一致して互いに愛し合い、御霊の実を実らせ、変えられていくなら、「あの人こそ本物のクリスチャンだ」、「あの人のような人になりたい」と言ってもらえるのではないでしょうか。それこそ、キリストに似た者になるということだと思います。

 新しい年、一人ひとりが神の前に祈り、自分に託されたものが何であるかを悟り、神の計画であるキリストのからだを建て上げるという壮大なプロジェクトの一員として選ばれたことをまず自覚し、それぞれが与えられた持ち場で御霊の実を実らせるために働くと同時に、他の人の働きを理解し、一致して互いに愛し合って、キリストに似た者とされ、キリストの満ち満ちた身たけにまで成長し、勝利を勝ち取る者とさせていただきましょう。


「神の川の中で」

公畑フェルナンド牧師

 ハレルヤ!感謝します。去年ですが、この二〇一七年に対していただいたみ言葉が、自分の目標を立てなさいというものでした。そのみ言葉から、個人的な目標を書き留めました。そして幻を見ました。そして信じました。その多くは、神様によって現実になりました。みなさんの目標はどうなったでしょうか。
 しかし、人間が自分自身で目標を設定する時もあるのですが、神様は別の目標を持っておられる時もあります。二〇一七年に一つ、感謝したいことは、新城教会での奉仕以外でもブラジル人教会の牧師先生との交流があったことや、スペイン語を話す教会とのつながりがあったことでした。
 しかし今年、二〇一七年にはフィリピン人教会とのつながりも持たせてくださいました。そのつながりによって、この教会にフィリピン人の賛美チームが来てくださり、奉仕をしてくださいました。八月の集会と十一月のカフェコンサートの時に彼らにコンサートをしてもらうことができました。
 神様は時に、私たちが全く計画していないことをくださって、私たちを驚かせてくださいます。そして、神様が私たちのために持ってくださっているものを喜んで受け取る準備をしていきましょう。さてそれでは今日のメッセージを始めたいと思います。

 二〇一八年、私が神様からいただいたメッセージのタイトルは、「神の川の中で」というメッセージです。詩篇四十六篇四節〜五節をお読みします。

『川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。』

 聖書は『川がある』といっています。詩篇の作者はそれについて触れ、また預言者ダニエルはその川を見ました。それは神のみ前にある火の川でした。預言者エゼキエルも、その川を見ました。それは力強い命の川でした。またヨハネは黙示録でその川を見ました。そして、またイエス様も私たちにその川を約束してくださり、それは今この場所に流れています。
 誰が私たちをその川に導いてくれるのでしょうか?詩編二十三篇一節〜二節、

『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。』

 主が私たちを導いてくださるのです。このみ言葉の中の、「いこいの水」という意味は、オリジナルの聖書の言葉で言うと、「マジン」と言いますが、「川」という意味であり、「休息の流れ」という意味です。主が、私をその川に導き、共に行かれるという意味です。

 イエス様はその川について言及しています。それをサマリヤの女に語りました。『わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』と言われました。
 そこで、今日皆さんにお伝えしたいことは、ここに神の川が流れているということです。この川について最もよく描写しているのが、預言者エゼキエルと黙示録のヨハネです。
 二人とも聖霊によって導かれ、この川を見ました。詩篇の作者は神の都を喜ばせる川があることだけに言明しました。ダビデはこの川が私たちを栄えさせ、前進させ、何倍にも増やすと宣言しました。しかしエゼキエルは四十七章の中で、一つの幻を見たのです。多くの木が川の両岸にあるのを見ました。その川は神の家から出て、アラバに流れ込んでいました。その流れに入るものは生きるようになり、多くの魚がいるようなり、川の両岸にある木は、一年中実をつけるようになると書いてあります。それがエゼキエルの見た幻です。
 そしてヨハネは黙示録で、その木の葉は諸国の民をいやすと言っています。
ちなみにスペイン語の聖書では、その木の葉は諸国の薬となると書いてあります。
 そのようにエゼキエルが見た幻の川というのは、悪臭のする水で、すなわちアラバのことですが、それは今死海と言われる所でした。
 しかし一つの幻があり、神の玉座から水が出て、それが川になるという幻でした。ですからエゼキエルは、対極をなすものを見ました。一つは死の水、悪臭のする水と、もう一つは神の神殿から流れる水です。そこで、彼はそこに川があると言いました。

 エゼキエル四十七章の幻は、その水が下っていき、死の水の中へ入っていきます。すると力強い奇跡の業が起こっていき、また変化が起こり始めることをエゼキエルは記録しています。エゼキエル書四十七章八節〜九節、

『彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。』

 その水が入る所ではすべてのものが生きます。その水が入る所では何倍にも増えます。その水が入る所では多くの魚が住むようになります。その水が入る所ではよみがえりがあります。その水が入る所ではいやしと奇跡があります。
 詩篇の作者が、その川は神の都を喜ばせ、再び活気を取り戻させ、豊かにすると書いています。それは死んでいるものをいやし、腐敗したもの変え、生きるものに変えます。それは何倍にも増やし、変えます。この川がまさにここに流れています。その川の名前は聖霊です。

 イエス様は、こう言われました。『渇いている者はわたしの所に来て飲みなさい。わたしの与える水は、その人のうちで生ける水の川となって流れる』と言われました。これは私たちに訪れる聖霊様のことを言ったのです。
 そしてこの川は私たちの中に流れています。ですから二〇一八年は、この川の中を泳ぐ必要があります。そこから一秒も出てはなりません。なぜならそれは神の川であり、聖霊様は、あなたにいやしを与えたいと思っています。奇跡を与えたいと願っています。繁栄を与えたいと願っています。あなたの人生に変化を与えたいと願っておられるからです。 
 そのために私たちに必要なことは、その川の中にとどまることです。そしてその川にとどまり続けるために、三つのことをしなければなりません。
 それを今から分かち合いたいと思います。

 一番目に、「ペディパテオ」です。これはガラテヤ書五章に出てくるギリシャ語で、「聖霊によって歩みなさい」という時に出てきます。もし、その川にとどまっていたいなら、「ペディパテオ」、御霊によって歩みなさい。御霊によって歩む人は、最初にお読みした詩篇四十六篇が現実になります。「神の都を喜ばせる川が流れている」人になるのです。
 神がアダムを創った時、神と交流できるものとして創りました。神の友として創られました。創世記にはとてもおもしろいことが書いてあります。創世記三章八節前半をお読みします。

『そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。』

 この個所から推測すると、神である主は毎日エデン園をアダムとともに歩き回っていたと思われます。その意味が分かりますか?聖霊の栄光のもとに歩み、歩き回るということです。

 そして、二番目に、「コイノニア」です。それは聖書が命じていることです。すべての人が聖霊様との交わりを持つことです。それは友達になることであり、互いに気持ちを共有するということです。しかしコイノニアにはまた、聖霊様との親密な関係という意味もあるのです。そして神様はそのような親密な関係を私たち一人一人と持ちたいと望んでおられるのです。
 例えば、神様はアブラハムと友情を深めたいと思われたときには、ソドムにさばきを下そうとしている日に、神はこうご自分で言われました。『わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。』他の言葉で言い換えるなら、神様は友には隠し事をなさらないということです。
 預言者アモスは、『神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。』と言っています。神はあなたに何も隠されません。あなたがコイノニアを保っている間は。イエス様が言われることを注意して見ていただきたいと思います。ヨハネ十五章十五節、

『わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。』

 言い換えるなら、神とコイノニアを保っているなら、秘密がないということです。もしあなたが神とコイノニアを保っているなら、あなたの中に「神の都を喜ばせる川が流れている」と言うことができます。

 三番目に、「信頼」です。あなたが神様と歩むとき、神様を知るようになります。そして、神様の友情を体験するようになります。そして次に神様は、あなたが神に信頼するように求めます。
 このエゼキエル書の所で、人間の力をあらわす預言者の腰に水が達するということは、聖書は軍隊によらず、人の力によらず、神の力によりと教えています。ですから神に信頼することが必要です。
 神様に信頼しているとき、あなたは川の水位まで達することができるのです。それはきっとあなたの商売でも、あなたの家族の中でも、あなたの決断でも、始めようとしていることについても、すべて始めようとする時に、神様の助言を聞き入れましょう。ペディパテオ、聖霊によって歩み、コイノニア、聖霊と親しい交わりをし、信頼、神様の中で休みましょう。神様は言われます。わたしがそれを成し遂げると。

 神様の川は祝福の川です。悪臭のする水を変えます。癒しの川です。繁栄の川です。いのちの川です。そして、国々を癒す川です。あなたのために準備された神の川がこの二〇一八年に流れます。ですから聖霊の川にとっぷりと浸かっていきましょう。そうすればあなたの中で「神の都を喜ばせる川が流れている」と言うことができます。

 ハレルヤ!


神の御手を動かす捧げ物

四元雅也牧師

 ハレルヤ!新城教会においては、多分岡本信弘先生の次の「なんでも屋」でございます私です。この場所に今年も、こうして立たせていただき感謝します。

 メッセージするにあたり、二〇一七年に主日礼拝で僕が語ったメッセージのテキストを読み返しました。そうしたら、ひとつショックなことがありました。メッセージした回数を数えたら六回だったのです。水曜礼拝では八回話していました。自分としてはもっといっぱいやっているだろうと思っていたのですが、案外少ないものだなぁと。順先生やフェルナンド先生は、毎週のようにメッセージを語っておられます。僕なんかメッセージを一つひねり出すのに大変苦労しているので、先生方はすごいなあと思います。一年間苦労していた印象の割に回数が少なかったのでショックだったわけですが、み言葉を語る者として、自分もさらに整えられていきたいなぁと願います。同時に、新城教会には多くの先生方がメッセージを語る役割を担ってくださっているので、感謝している次第であります。

 み言葉を一箇所読みたいと思います。二〇一八年にむけて僕の心に留まっているみ言葉は、黙示録八章一節〜六節です。

『小羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。』

 ヨハネの黙示録は、神のみ子が、私たちの世界に人としてお生まれになって、その救い主イエスさまが、全世界の罪をあがなうため、十字架を通り、死んで三日目によみがえられた。そして、天にあげられた後、再びこの世界に帰ってこられる時のことが書かれています。すなわち主の「再臨」を最大のテーマにしています。
一番大きいテーマとして、御子イエスさま、救い主イエスさまが再び帰って来られますよと。
黙示録の締めくくりの言葉を見ますと、黙示録二十二章二十節、

『これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。』

と書かれています。
このように、「イエス様の再臨」を最大のテーマに黙示録は書かれており、ということは、今まだ起きていない、これから起こるであろう事柄について書き記されているのです。

 黙示録を読みますと、特に、主なる神様から教会やクリスチャンに対する叱責の記事や、再臨の前に起こる神の御手による裁きについて描かれています。また最期の審判についても書かれています。すると、ときどきクリスチャンであっても、読むことに恐れを感じることがあるかもしれません。でも実際はそうではありません。
 なぜならば、「再臨」とは私たちクリスチャンにとって一番待ち望んでいることであります。「アーメン!主イエスよ、来てください!」と書いてあります。私たちは毎日の信仰生活の歩みの中でも、いつもイエス様を仰ぎ、またイエス様を待ち望んで、礼拝の中でも、「主イエスよ、来てください!」と、心からイエス様を恋い慕う、そういった態度を持ちながら歩んでいます。
イエスさまが再び来られることをテーマにしている黙示録でありますから、この書簡は決して恐い書簡ではなく、クリスチャンにとってむしろ希望の書簡なのです。

 この黙示録を、「再臨」というキーワードで分解してみると、前半の四章〜十八章では、「キリストの再臨に至るまで」が書かれています。そして、十九章では、いよいよ「キリストの再臨」について書かれています。そして二十章には、その後で起こる「千年王国」といわれる時代について書かれています。そして二十一章〜二十二章には、永遠の国、「新天新地」について書かれています。

 こういったものをひとくくりに、神学的には「終末論」と言われるわけです。「終末」に関して、黙示録を見る時、様々な情報を私たちは受け取ることができるのですが、そのことについて、いくつかの解釈ができます。

 新城教会で三・四年前に行われた「サンデースクール」で、山﨑ランサム先生がこれらのことを解説しておられました。主の再臨に関して、大きく四つの解釈があるそうです。それぞれの解釈はいずれも聖書信仰に立ち、み言葉に根拠を置いた解釈であって、私たちはどれかを「これが正しい。他のは全部間違っている。」というような考え方ではなくて、これから起こることでありますし、我々には真実は隠されている。神様だけが知っている事柄ですので、一つに固執したような考えではなくて、どれかが当てはまるのかもしれないし、神様はもっと違ったことを計画しておられるのかもしれない、という考えを持つべきでありましょう、ということを先生が語っておられました。
ちょっとスライドで簡単に紹介したいと思います。

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 これは私が山崎ランサム先生が造られた資料を元に、図に表したものであります。ですから詳しいことは私より、山崎ランサム先生からお話しされた方がよいと思いますが、少し説明いたします。なお先生は三月までで新城から引っ越されてしまうので、今日疑問を持たれた方は、ぜひ先生に早めに聞いてくださったらいいかと思います。

 一つ目は、「1.千年期前再臨説」という考え方でありまして、その中に二つの説があります。「1a.患難期前携挙説」「1b.患難期後携挙説」ということです。
 この、「1.千年期前再臨説」というのは、簡単にいうと、再臨が二回あるという考え方です。一つ目の再臨のことを「携挙」とか、「空中再臨」と言います。
イエス様が空中に来られて、イエス様を信じた者が一気に空中に引き上げられ主と合う、というみ言葉もありますが、主と出会って共に天に携え挙げられるということです。1aと1bの違いは、「患難時代」と呼ばれる、黙示録にも出て来る時代があり、携挙がその前にあるのか後にあるのか、ということが二つの説の違いです。そしてその後に本当の再臨が来、千年王国を経て最後の審判、最後に永遠の新天新地が訪れる、という考え方です。

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 次は、二番目と三番目と分かれていますが、二番目は「2.千年期後再臨説」、これには携挙がない、ということです。その代わりに、世界の改心、その後に千年王国が起こる。それが実は「教会の時代」と描かれています。その後イエス様が再臨されて、最後の審判、そしてキリストによる永遠の支配ということになります。
 そして、「3.無千年期説」、これは千年王国というのが霊的な象徴であって、現実の世界の中で見られるものではない。その後イエス様の再臨・最後の審判があって、キリストによる永遠の支配がある。

 我々は1aのように患難期を経験せずに携挙で携え上げられたらいいなぁと考えたりするのですが、山崎ランサム先生が教えられた中で、これら四つのすべてが聖書的にしっかりとした根拠があって起こりうる形だというわけです。

 これらの説で共通していることは、「主イエスは再臨される」ということ、これは確かなものとして共通しています。そして、「肉体の復活と最期の審判がある」ということ。そして最終は、「クリスチャンが主イエスとともに永遠に支配する」こと、新天新地がこの地に現れて、そこにおいて私たちはイエス様と共に治めるものになると、こういうふうに言われていることであります。

 こういった前提のもとで、今日お読みしましたヨハネの黙示録八章一節からのみ言葉を学んでいきたいと思います。三節に、

『また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。』

ここに金の香炉で御座におられる神に香をささげる、といった場面が出て来ます。その「香」が「聖徒の祈り」と深い関連があると書かれています。

 「香炉」は、旧約聖書の中、出エジプトの三十章では大祭司アロンが幕屋の中で、神の前で香をささげるため、「金の香炉」として紹介されています。古代のイスラエルでは主に仕える祭司が、この香炉で、朝ごと夕ごとに神の前に香を焚きました。そして年に一回の「贖罪の日」に、香炉を持って至聖所の中、神様の契約の箱の前まで出て、民のためにとりなしをする、ということが書かれています。全体的に見て、この香の壇とそこから立ち上る香の香りは、「聖徒たちの祈り」と関係しているというのです。
 これが旧約聖書の中に出て来る幕屋のイメージです。

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 イラストで奥にあります幕で覆われた建物の中に聖所と至聖所があるのです。

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これが平面図です。東側に入口がって、中心にある建物が幕屋です。その中に備えのパンの机、金の燭台、契約の箱などがあるのですが、真ん中にあるのが香の壇ということであります。
 この「パンを供える机」「燭台」「香壇」はすべて密接な関連性を持っていると考えられます。「パンが置いてある机」は、天から降られた真の神、イエス様を表している。「燭台」はやみの世界に神のご計画を照らし出す天からの光、そして「香壇」は、神のご計画を実現するための聖徒の祈りを象徴しています。

 この「香壇」から立ち上る煙が象徴している聖徒たちの祈りとは、一般的に私たちが祈る「イエス様〇〇をしてください。」というような願い事の祈りではなくて、神のご計画の実現にかかわる、神の御旨とその目的に深くかかわる「祈り」と言えます。

 黙示録五章八節の所に、八章の今お読みしたみ言葉の中に出て来る香の壇、そして聖徒たちの祈りと共に神の前に立ち上ったということが同じように説明されているのですが、黙示録五章八節、

『彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。』

この祈りは、どのような祈りであるのか、使徒パウロは、ローマ人への手紙八章二十六節~二十七節で次のように述べています。

『御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。』

 ここに、聖徒たちの祈りを聖霊様ご自身が深いうめきを持ってとりなされることが書かれています。これが御心を地の上に実行させる聖徒の祈り、聖霊のうめきによって聖徒に与えられる祈りです。聖徒たちの祈りのために、聖霊さまご自身がとりなされるということです。
 そして、その祈りは被造物らもともに、切実な思いで、うめきながら願っている祈りであるのです。ローマ人への手紙八章十八~二十三節、

『今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。』

 聖霊さまによって、深いうめきによって与えられる祈りというのは、この直前にある十八節〜二十三節の、被造物自体も共にうめいて、共に産みの苦しみをしているという中で与えられていく祈りである、ということです。
 聖徒たちが、心を寄せて、聖霊と共に、また被造物と共に、産みの苦しみをする時に、すべてが相働いて益となっていくということを知ることができます。

 ですから、私たちが、神様の前に聖徒としての祈りを聖霊によってささげる、それも被造物と共に産みの苦しみをしながら祈る、被造物と共に祈っていくとところに神の御心をつかむ祈りの秘訣があるということを、このみ言葉の中から見ることができます。

 一九九二年に霊的戦いがこの新城教会に始められたのですが、それから二十五周年にあたるこの年に、神様が被造物の贖いを宣言し、また被造物とともに「賛美する」「祈る」ということを私たちの中に開いてくださいました。これは深い意味があるのではないかと思われます。私たちが被造物と共に、神の前に祈っていく時に、それが神の御前に香炉の煙となって立ち上り、それが神の御手を動かすものとなっていく、ということなのです。
 黙示録八章四節〜五節を見ますと、こう書いてあります。

『香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。』

 祭壇の火を取って祈りの香炉に火を付け、それを地に投げるとはどういう意味でしょうか?これは聖徒たちが捧げた祈りの答えが地にもたらされることを意味します。そして、雷鳴と声といなずまと地震が起こったとありますが、これは、父なる神様ご自身が、号令・命令を発せられたことを意味します。
み言葉には、その直後にみ使いたちにより、七つのラッパが吹き鳴らされる、ということが起こります。これは神様の号令によって、み業が実際にこの地にもたらさていくことを意味します。ですから、そのための舞台設定を作り出す鍵が、立ち上る香の煙、すなわち深い神の御旨を実行させるための聖徒たちの祈りである、ということをここで見ることができます。

 このみ言葉は、私、十一月くらいにふっと心にとどまりまして、なにか大きな意味のあるみ言葉なのではないかなと漠然と感じていたのですが、その後で、十一月二十六日の主日礼拝の中で順先生がこのみ言葉の解き明かしをしてくださいました。それは、今私が申し上げたようなことを順先生が礼拝のメッセージの中でされて、自分自身にもそれが腑に落ちました。そうなんだ!と受け取ったのですが、順先生はその時メッセージの中でこのようにおっしゃっています。

「最大のとりなし手は、人間よりも、人間以外の万物、被造物ではないかと思われます。彼らはシャープに、御心の中心を捉えて、叫んでいる存在です。私たちがそこに心合わせて、イエス様が帰って来られて地を解放してくださることを祈り、自然界との対立関係を解消する宣言をし、住んでいる家の土地との和解を宣言する時、土地から訴えられることはなく、そこが栄光ある場所に変えられるのではないでしょうか。今日、家に帰って、自分が住んでいる土地のために祈ってください。これが、命あるものとして創造主とつながりがあり、うめいているならば、和解を宣言してください。」

 そしてこの、みこころを実現する祈りと共に、重要な要素としてあげられているのは、聖徒たちの賛美です。この黙示録八章一節〜四節の直前、七章を見ますと、九節〜十二節に、このように書いてあります。

『その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」』

 これが七章に書かれているみ言葉であります。主に連なり従った先人たち、また天使たちが数えることもできないほど大勢一つとなって、主に賛美を捧げたと書いてあります。どんなにか大きなとどろきとなって天に響き渡ったことでしょう。神様の御手が動かされる前、賛美が舞台を立ち上げ、祈りが最終的に神様の御手を動かすための引き金となって、神の業が地の上にもたらされたのです。そしてそれらの賛美と祈りが、すべての聖徒たち、また天使たち、そして被造物も伴われて主の前に捧げられたとき、天の父ご自身が動かれたというわけです。
 その中に神からの癒やしがあり、なぐさめがあり、平和が与えられるということであります。それは、黙示録七章十六節〜十七節の所に書かれています。

『彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。 また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。』

 神様が新城教会の歩みの中で開いてくださった賛美の賜物、そして戦う教会としての祈りの賜物、これらが二〇一七年に、新たな領域へと広げられたような年でありました。すなわち、天使たちの領域にまで拡げられ被造物の領域に拡げられた賛美と祈り、これらを通して、二〇一八年は神様の御手がいよいよ動かされる、そのような年であることをこのみ言葉を通して自分自身深く思わされた次第です。二〇一八年、いよいよ神様は、再びイエス様がこの地上に戻って来られるその時のため、大いなる御業を現してくださることを期待して、前進していきたい、そのように思います。

上條実牧師

 ハレルヤ!今年一年間、みなさんのお祈りによって支えられましたことを心から感謝致します。早速みことばを学んで行きたいと思います。私が二〇一七年のために与えられたみ言葉が、ローマ書九章九節、

『約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」』

 サラは胎が死んでいた。アブラハムも百歳であり誰が考えても、世継ぎは生まれない状況でした。しかし「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」ということばを頂き、アブラハムに約束した通り、年老いた夫婦にイサクを与えてくださいました。アブラハムはロトと別れて、カナンの地に住み、二十五年目にアブラハムに世継ぎが産まれました。新城教会に霊的戦いが一九九二年、突然始まりました。創世記十五章三節~五節、

『さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」』

と語られました。世継ぎであるイサクが産まれて、今お読みしたみことばが成就していきました。この新城教会も霊的戦いが始まって二十五年目を迎えます。アブラハムに与えた素晴らしいことを、私たちの教会と日本に起こして下さると期待して一年を始めました。

 そしてまもなく一年が終わりますが、とても感謝な一年でした。先ほどから諸先生方も語っておられますが、創造から始まり、新しい天と新しい地を創造するという、全体ストーリーが福音ですが、今まで語り続けて来た「イエスキリスト」が十字架上で流された血潮によって、天国に入る事ができるというのは、福音の全体ではないと言うことに気がつかせて頂いた年でした。福音を矮小化されていたのは悪魔の巧みだと思います。イエス様が帰って来られたら、彼らの働きは終わりになりますから、それをとどめるために、真剣に働き、矮小化させて、福音宣教をとどめてきました。私たちは人間の回復だけにスポットをあて、他のことを考えさせないようにさせる策略にまんまとはまってしまっていました。しかし福音とは、全宇宙、地球、自然、すべての生物、社会制度、すなわち、被造物全体の回復だと言うことを理解させて頂いたのです。策略から目が開かれ、霊的盲人であった私たち、教会が、目が開かれた年となりました。被造物の回復を知った私たちの祈り、信仰、霊的戦いが変わりました。大変大きな出来事、イエスキリストの福音を今まで、片目でしか見えていなかったのが、両目を開いて見ることができるようになりました。世継ぎが産まれたと確信できる二〇一七年でした。

 さて二〇一八年に対してのみことばですが、ヨハネによる福音書十一章三十九節~四十五節です。

『イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは 言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。 「ラザロよ。出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。』

 このみことばが与えられました。私は本当にこのみことばが私と教会のみことばなのかと、更なる確信を求めて祈りました。すると使徒の働き二章十七節に、

『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。』

とありますが、なんとみことばを頂いた日から、このヨハネによる福音書十一章三十九節~四十五節のみことばから、メッセージの準備している夢を三日間、夢を見ました。普段あまり夢を見ないのですが、鮮やかな夢でした。息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見るとありますが、私はもう老人かも知れません。六人の孫がいる私に主が、夢を通して語って下さいました。ヨハネによる福音書十一章のみことばは確かに主が、私とこの教会に与えて下さったみことばだと信じます。

 このみことばは、主が愛しておられたラザロが死んで墓に葬られて四日になっている状態でした。兄弟であるマルタはヨハネ11章21節

『マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。』

と嘆きました。そしてもう一人の兄弟マリヤも三十二節で、

『マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、 私の兄弟は死ななかったでしょうに。」』

とイエスさまに、何で生きている時に来てくれなかったのか文句を言い、絶望してしまっています。マルタとマリヤはイエスさまを愛し、彼らはイエスさまに特別愛されていた兄姉でした。しかしもう四日も経っていて臭くなっていると諦めてしまっています。

私たちも諦めていませんか?もう死んでしまった。腐ってしまった。もう絶対にだめだと諦めて蓋を閉めてしまっている課題がありませんか?今まで一生懸命祈って来たのに。また奉仕して来たのに。時間や献金を献げて来たのに。なぜと諦めてしまっている事柄がたくさんあります。墓の蓋を閉めて、もう臭くなっていますと完全に諦め、何で答えて下さらないのかとイエス様に対してあきらめと怒りそして不信の思いを持っていませんか?しかし今年のみことばは、石を取りのけなさいとイエス様が言っています。イエス様が墓の石を取り除いたのではありません。マリヤに、「あなたがたが石を取りのけなさい。」と言いました。「でも四日になって臭くなっていますよ!」と無理だと思っていても、「石を取りのけなさい。」とイエス様は言われています。

 彼らは石を取りのけました。その後「墓に入って行って、ラザロを連れて来なさい。」では、ありませんでした。「「ラザロよ。出て来なさい。」と宣言したのです。するとなんとラザロが包帯を巻かれたまま、布に巻かれたまま、歩いて出て来たのです。イエス様は墓の前に立ち「ラザロよ出てきなさい」と宣言しました。諦めていた所に向かって宣言しました。するとあり得ないことが起きました。ラザロは甦ったのです。

 二〇一八年は、蓋をしてしまっていたところを開ける年でなくてはいけないと思います。それと同時に、本当に神様が開いてくださった霊的戦いを、私たちがさらに押し進め、私たちは何の力もありませんが、圧倒的な権威を持っておられる主の権威を信じて宣言しましょう。「ラザロよ。出て来なさい。」と。私たちは、蓋を開けて、宣言するだけです。二〇一八年は、蓋を空けましょう。そして宣言しましょう。死んで臭くなっている問題に対して、その問題に向かって宣言しましょう。ヨハネ十一章四十三節から四十五節を見ると、

『そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。』

とあります。石を取りのけ、宣言して行くとラザロが包帯を巻かれたまま、布に巻かれたまま、歩いて出て来ます。

 私たちが遣わされている場所、学校、職場、また家族、住んでいる地域なと、様々な共同体を勝ち取って行く事ができます。二〇一八年は死んで臭くなってしまったものまでも甦って出てくる年となります。そしてイエスは彼らに「ほどいてやって、帰らせなさい。」とあります。死んで包まれていた問題がほどかれるのです。諦めていたものが現実となります。神のなさることは不思議です。

二〇一八年は、勝利の宣言をしていきましょう。あきらめて死んで蓋を閉め、臭くなっているような状態が宣言すると、奇跡が始まる年となります。信じて進んで行きたいと願います。期待しましょう。