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「2018年 彼らに主の名をほめたたえさせよ!パート2
 〜経済と霊的戦い〜」

2018年1月28(日)
新城教会主任牧師 滝元順
コロサイ人への手紙2章12節〜15節

あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝が守れますことを、心から感謝します。今もHiraku & Norikoが歌ってくれましたが、「時代のせいで未来が見えにくくなっている・・・」という歌詞の歌でしたが、私に言わせれば、「歳のせいじゃないかな?」とも感じましたが、人生って結構あっという間です。人生を返ってみると、私は今年で六十七歳になるのですが、本当に一瞬です。
 いつも話すのですが、先週まで東郷西小学校に通っていたような気がします。たぶん九十歳になっても、百歳になっても、この気持ちは変わらないのではないかと思います。私は昔、八十、九十にもなったら、若い頃の記憶は薄れて、全く違う人格になると思っていたのですが、どうもそうではないようです。歳を取れば取るほど、若かりし日の頃のことばかりが思い出されてしまいます。私の友達は過去のことばかり話しています。そうなりたくないなと思っていますが、自分のメッセージも昔話が多くなってきたし、昔は、親父のメッセージを批判していましたけど、なんか近頃、私もその傾向がありまして、そうならないように努力したいと思っています。
 元気に、今日集っておられますが、人生は結構短いですから、ぜひとも楽しんでいただいて、幸せに生きていただきたいと願っています。

 しかしクリスチャンのすばらしいところは、地上だけの人生で終わらないことです。死後の世界もちゃんと用意されているし、最終的には、この地上に再び戻ってきます。よみがえるのです。ちょっと信じられないでしょう。死んだらあの世行きでおしまいなら、寂しいです。やがてイエス様は、この地球をリフォームして、最高のものとして、全く問題のない、神の国を創られます。その時にはもう一度、地上に戻してくださるのです。クリスチャンは、その日を楽しみにして人生を歩んでいくわけです。
 その日には、かつて共に礼拝を守っていた人達も、全員戻って来て、永遠に、若かりし日の最高に油がのっていた状態か、それ以上の形で、永遠に共に暮らすことができるのです。すばらしいですね。私もその日を楽しみにしています。失ったものもすべて戻ってきます。その時はどんな髪型にしようか、今から楽しみにしています。「クリスチャンって最高だ!」です。

 今日、みなさんと一緒に学ぶことは、今年、与えられたテーマですが、「彼らに主の名をほめたたえさせよ!パート2 〜経済と霊的戦い〜」です。副題がちょっと堅いですが、昨年から主から語られている事柄です。
 私たち人類の役割が何かが、詩篇百四十八篇にかかげられています。
 先ほどの会衆賛美もすばらしかったですね。みなで心を一つにして、主を賛美するのは、すでに天国にいるような感じでした。「男性だけで賛美してください。」と言われて、男たちは真剣に歌うは、「女性だけで。」と言われたら、女性も真剣に歌うは、また一緒に主をほめたたえる、本当に人間に生まれて良かったなぁという実感でした。
 しかし本来は、人間だけが主を賛美すれば済む問題ではないのです。神が造られた天の一番高い所に住んでいる生物から、地のどん底に住んでいる生物まで、すべてのものが主をほめたたえるよう、命じられているのです。
 そしてその指揮を取るのが、人類なのです。百四十八篇には、二度に渡って、「彼らに主の名をほめたたえさせよ!」と命じられています。私たちは、神が造られたすべての被造物に対して、「主の名をほめたたえなさい!」と宣言する役割なのです。

 先週は雪が降りましたね。この近所はあまり雪が降らないので、たまに雪が降ったりすると、子どもたちは喜びます。「あぁ雪だー!」と喜ぶのですが、先週私は福井に行きました。木曜日と金曜日、すごい雪で、北陸地方は積雪が一メートル以上ありました。

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 これは北陸自動車道ですが、まだ良い時です。この先を走って行くと、道路一面真っ白になって、すごい中を走って行きました。しかし、教会の車は全てスタッドレスタイヤです。この辺でスタッドレスを履いても、あまり意味がありません。でも北陸に行くと、ちょっと嬉しいです。スタッドレスは、普通の道路で走っていると、ちょっと運転しにくいのですが、雪道に行くと、ガッと雪を噛んで、すごい力を発揮します。福井のほうからも礼拝に出てくださっている方々がおられます。かつては新城教会の付近に住んでおられた方々ですが、時々、家庭集会を開催しています。
 雪の多い地域の人たちにとって、雪かき作業は大変です。この近所って、雪かきがないだけでも、相当、得していると思います。
 私の友人の牧師が東京で働いていたのですが、転勤で、青森に行きました。青森は豪雪地帯です。冬になったら、朝から晩まで、雪かきだというのです。「俺は何のために人生をやっているのかと思った」と話していました。そのくらい大変です。
 先週も福井の家庭集会に伺ったら、一生懸命雪かきをされていて、玄関は雪の山でした。
 しかし、この雪にも意味があるのです。百四十八篇のリストの中に、『雪よ』とあります。雪にも主をほめたたえさせなければならないのです。

 二週間くらい前でしょうか。私が、そのようなことをちょっと話したら、やはり新城教会の兄弟姉妹、すばらしいですね。そのみ言葉をすぐに実行して下さいました。先週、雪が降った時に、雪に対して、「主をほめたたえなさい!」と宣言してくださったみたいです。
 水や氷に、愛の言葉をかけると結晶が違うというテレビ番組があったと話しましたが、全て、主の被造物ですから、主をほめたたえろと宣言したら、結晶まで違うのは当たり前かも知れません。私が話したことを実験してみたそうです。

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 ある方が、その結果の写真を送ってくださったのですが、これ、見てください!こんなに美しい結晶の雪が舞い降りて来たというのです。

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 こんな雪が舞い降りてくること自体、神秘じゃないですか。ただ水が途中で凍った、かき氷とは違うのです。ひとつひとつ、神の目的があり、意味があるはずです。「主をほめたたえろ!」と宣言すると、雪も主をほめたたえながら降りて来るわけです。これは先週、この教会に来られている方々が撮ってくださった写真です。周りのすべてに、「主をほめたたえなさい!」と宣言することは、本当に大事なことですね。

 また先週は、雅也先生が、NHKスペシャルの腸内細菌のことを語ってくださいました。私は二週間前に、それに関連したことを話しました。「私たちはひとりぼっちじゃない。多くの微生物と共に暮らしているんだ。」と。この頃の研究では、一千兆個もの微生物が、私たちの腹の中には住んでいて、共に生きているのです。共存共栄の関係でなければいけないと話したのですが、私はその夜、そんな番組があるとは知りませんでした。知っていて、ああいうメッセージをしたわけではないです。聖霊の導きだなぁと感じました。
 夕方にある方からメールが来て、「順先生は、とっくに知っているでしょうが、今日の夜のNHKスペシャル・・・」とメールが来ました。しかし私は全然知りませんでした。
 それでビデオに撮っていただくようにお願いして、後から見させていただきました。見なくても雅也先生のメッセージで十分に分かりました。神秘の領域の中で、私たちって、本当に生かされているんですね。
 人間って、脳ですべてを考えていると思っていますが、どうも腸が第二の脳だというのです。どっちが第一で、どっちが第二か分からないのです。そういえば日本語にも「断腸の思い」とかありますから、もしかしたら、私たちは脳で考えているよりも、腸で考えているほうが多いのかもしれないです。
 免疫細胞のおよそ七割が、腸に配備されていると言われていましたが、脳よりも、もしかしたら腸のほうが大事かもしれないです。神が創られた臓器はそれぞれ独立していて、命があり、神様ともコミュニケーションしているし、全身は互いにネットワークでつながっていて、私たちの命を育んでいるわけです。
 自分が王様みたいに振る舞っちゃいかんと思いましたね。一千兆個の微生物に囲まれて生きているならば、それらも被造物ですから、彼らにも主の名をほめたたえさせることが重要ではないかと思います。

 ダビデが詩篇を書いた時は、腹の中に微生物が住んでいるなんて全く知られていない時代だったわけです。でも近年になって、顕微鏡や電子顕微鏡なんかが造られて、主が人類に情報を開示してくださったことにより、知られていない事柄が知られるようになったのです。
 ということは、詩篇百四十八篇の言葉は、遠い昔に、その時代の人たちだけに語られた言葉だけではなくて、現代人に開示された情報に基づいて、古代の人たちができなかった領域に対して、「主の名をほめたたえなさい!」と宣言することが大事だということです。それは、今を生きるクリスチャンたちに委ねられている領域ではないかと思われます。
 今までの私は細菌類は、「すべて人類の敵」と思っていましたが、細菌類が私たちの命を支えている事が分かってから、考えを変えました。
 微生物って、単細胞で一つの細胞だけでできているけれど、命があるわけです。一つの細胞は、たった一つの機能だそうです。しかし多くの単細胞の微生物が連携して、人間の命を支えているというのですから、神の創造の偉大さ以外の何物でもありません。

 私のメッセージを聞いてくださったある方が、微生物のためにとりなし、祈らなくてはいけないと思ったらしいです。それで家で祈ったそうです。「主よ!微生物のために祈りたいですが、どこに行って祈ったらいいですか?」と。自分のお腹に祝福を命じるのもいいけれど、どこか外に出て行って、微生物のために祈りたいと思ったらしいのです。どこで祈ったらいいのか、微生物は見えませんから難しいです。
 そうしたら神様が、その方に語りかけてくれたというのです。なんと、マンホールのために祈るように語られたというのです。「マンホール」って、ご存知ですか?

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 新城市のマンホールの蓋はなかなかカラフルです。マンホールの蓋は、その町の霊的な情報を表している事が多いですが、私は若い頃、建設業に携わっており、現場監督をしていました。豊橋市の下水道建設工事の現場監督をしていました。豊橋の方々、私がみなさんのトイレの道を作らせていただきました。私の専門は土木工学ですから、「マンホールのために祈れ」と主が語られた意味が、本当によく理解できます。
 汚い話ですけど、ごめんなさいね。トイレで流すと、それでバイバイと思うかもしれないけど、そうではないのです。その後、あなたのうんちは、長い旅に出かけるのです。この近所だと、どこまで流れていくかというと、流れ流れて〜♪溢れ溢れて〜♪という感じで、マンホールがある下水道につながり、この近所だと豊川流域下水道と言いまして、最終的には三河湾の処理場まで流れていきます。そこは広大な処理場で、排泄物から汚水から、何から何まで集められて処理され、海に放流されます。私は、そのようなシステムを作る仕事をしていましたから、結構勉強しました。
 地域から排出されるすべての汚いものを集めて、何をするのかというと、微生物に処理させるわけです。すべての汚物を微生物に食わせるのです。微生物が汚物をぱくぱく食べて、ちょうどパックマンみたいです。食べると微生物の体は重くなって、沈殿して、上に、綺麗な水が残ります。それを何回かくり返すと、綺麗な水になるのです。また、下に溜まった汚泥を再生利用して、肥料にしたりするのです。それらもみな、微生物の働きです。
 「マンホールのために祈れ」と言われたのは、その方に、どこまでの知識があったか知りませんが、こういう領域を少しでもかじった者としては、本当にすごい情報だなぁと感動します。最も微生物が集中しているのが、マンホール、下水道、そして、処理場です。特に下水処理場は、地域の微生物大集合みたいなところです。そこに行って祝福を祈ることは、大切だと思いました。

 先週の県民の森祈祷会、雨で森に行けなかったので、みんなで、下水道を祈ろうということになりました。こんな祈りは世界で、いや、地球が始まって以来、初めての祈りかもしれないと思いましたが、新城教会のトイレから始めて、下水処理場までの道のりを主の名によって、微生物に「主をほめたたえろ!賛美しろ!」と宣言して廻りました。
 その時に、どんな賛美をしたらいいでしょうか、と祈って与えられたのが、先ほどの、主の力♪流れ流れて〜♪溢れ溢れて〜♪という、ザワメキを下水道とりなしのテーマソングとさせていただいて、みんなで歌って楽しかったです。恵まれました。明日から霊的戦い専門課程があるので、集まってくださる先生方と、もう一度とりなしてみたいと思います。すべの被造物に対して、主をほめたたえなさい!と宣言し始めると、相当、すごいことが起きるのではないかと期待します。
 なぜならば、それが一番、主が人類にしてほしいことだからです。今日、家に帰られたら、周りの被造物に対して、「主をほめたたえなさい!」と宣言していただきたいです。

 神に最も反抗している存在は何か?人類もそうですが、究極的には悪魔・悪霊どもです。悪魔・悪霊どもは、昔は主を礼拝していた連中でした。しかし、彼らは主への礼拝をやめて、その首領であるルシファー、悪魔を礼拝するようになったわけです。彼らは最も神に反抗している連中です。しかしなんと、私たちクリスチャンは、百四十八篇にも出ているように、「海の巨獣」やすべての淵にも、賛美を命じることができるのです。
 海の巨獣とは、レビヤタン、竜、サタンのことです。サタンに対しても、「おまえたちは主をほめたたえろ!」と宣言できるのですから、すごいです。普通ならば、絶対にこういう連中は、主をほめたたえないです。しかしなんと、私たちクリスチャンには、すごい権限が与えられていて、コロサイ書二章、今日読んでいただいた中に、二章十五節に、

『神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』

とあります。クリスチャンは、悪魔・悪霊どもを捕虜にできるのです。戦争をしたら、必ず捕虜が生まれます。捕虜たちが、敵方の手に渡ったら、敵の言いなりになるわけです。
 人類と悪魔・悪霊どもは、互いに敵対関係です。もしも人が悪魔・悪霊どもの奴隷になったら、彼らの言いなりになります。イエス・キリストを信じる前は、彼らの言いなりにされていたわけです。
 しかし、イエス・キリストを信じて、バプテスマを受けるものは救われます!とありますが、今度はポジションが全く逆転して、私たちが悪霊どもを捕虜として、彼らを言いなりに扱うことが出来るのです。彼らに何でも命じることができるのです。
 彼らは今まで、みなさんを苦しめてきた連中です。そいつらが、あなたの捕虜となったら、何をしてやりますか。八つ裂きにしてやろうか!というアイディアもありますが、そんなことをしても、仕方ないです。
 元々彼らは、神の前で賛美していた連中ですから、彼らがもう一度賛美するようになったら、神様にとっては最高の回復ではないでしょうか。それは私たちに人類にとっては、最高の役割となるわけです。
 ということは、私たちは捕らえた捕虜たちに対して、「彼らに主の名をほめたたえさせる」のです。

 それほどの権威を、主は私たちに備えておられるなんて、ちょっと信じられないです。すごいじゃないですか。多くのクリスチャンが、悪魔・悪霊どもを恐れています。「触らぬ神にたたりなし」という言葉が、聖書のどこかにあったはずだと信じています。しかし、そんな言葉はないです。聖書は、「悪魔に立ち向かいなさい!」と命じています。立ち向かって、やっつけたら、捕虜にして、彼らに、「主の名をほめたたえさせる」のが、私たちの役割です。

 二週間前にも触れましたが、悪魔は、軍団の長ですが、多くの悪霊どもを従えています。悪魔の軍団の精鋭部隊を、どの領域に送って、人々を苦しめているのかというと、それが「経済の領域」だとお話ししました。最も多くの悪霊どもが投入され、効果的に働いている領域、それが生活に切っても切れない「経済の領域」です。
 しかし私たちが、経済の領域を支配する悪魔・悪霊どもに挑戦し、彼らを捕虜にして、彼らに主の名をほめたたえさせる事が出来たら、神の国は大きく拡大し、イエス様が再び帰って来られる、大きな条件になるのではないかと期待しています。

 だれでも経済とは切っても切れない間柄で、金がなかったら生きることは出来ません。しかしその経済の領域が、最も激しい霊的戦いの領域なのです。
 聖書も、そのことを告げています。聖書には、様々の角度から経済に対する事柄が記されています。第一テモテ六章六節〜十節。

『しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。』

 犯罪を犯す人たちを分析してみると、その根源に、ほとんどが経済的問題を抱えているというのです。経済がうまくいっていたら、人は犯罪を犯すこともないらしいです。人を狂わせるのは経済の領域に働いている悪霊どもといっても過言ではありません。

 イエス様は経済の領域に関し、マタイの六章二十節〜二十四節で、このように語られています。これも有名な箇所ですが、

『自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。』

 みなさんの宝って、どこにありますか?「私の宝は天にある」と、心から言えるならばいいのですが、案外、本音は経済の領域に宝を隠しているものです。しかしこの地上に貯金するのではなく、天に蓄えなさいと言われていますから、来たるべき新しい世界のために投資し、つぎ込んでいかなければならないのです。

 しかしそんなこと言っても、なかなか難しい問題です。聖書から導かれる金銭に対する考え方、すなわち、富に対する考え方は、大きく分けて三つあると言われます。さて、みなさんはこの中でどれを選ばれますか?
1番目は、「富や物質主義は避けるべき悪であり、戦うべき悪だ!」という、富に対して完全に
 敵対する考え方です。
2番目は、「富や物質主義は信仰を妨げるもの」という考え方。
3番目は、「金銭的な祝福は信仰の結果」

 1番と3番では、真反対です。しかしこれらは皆、聖書を基礎として、結論を導き出したわけですから、なかなか摺り合わせが難しいです。どれを採用するかは、歴史的にもいろいろ論議があるところです。
 キリスト教の歴史には、修道院があります。それは一番と二番の領域です。俗世から離れて、自給自足で、貧しくなって神と出会おうという人たちも多くいます。しかし世界中が修道士となったら、人類は生きていけません。
 聖書を見れば、金銭的な祝福は信仰の結果とも言えます。旧約聖書に出て来るアブラハムも、イサクも、ヤコブも、皆、裕福でした。また信仰者ヨブも、地方で一番の富豪でした。問題が起こった後、最終的には財産が二倍になりました。現代社会でいったら、ヨブは超富裕層に入るのかもしれません。では、どう理解したらいいのかという感じです。

 富に対する聖書の結論も、一つには固定できないと思います。先週も、世の終わりについても、いろいろな理解があると語られましたが、聖書から導き出されるそれぞれの結論を、うまく消化しなければいけないと思います。
 しかし私は、この三つにもう一つを付け加えたいです。それは、「霊的戦いの領域として勝ち取る」という項目を加えるならば、一番から三番まで、すべてを包括し、まとめることができるのではないかと考えています。
 なぜなら、経済の領域が、最も激しい霊的戦いの現場であるからです。その領域に悪魔は自分の弟子たちを大量投入して、人々を縛っているからです。

 二週間前私は、使徒の働きの中から、パウロとシラスがピリピという町とエペソという町に行った時に起こった事件について、短く触れさせていただきました。イエス様の時代に続く使徒たちの時代は、ローマ帝国から資本主義経済の芽が徐々に芽生えていた時代でした。
 すでに、そこには「経済と霊的戦い」というテーマがあったことが分かります。
 ピリピにパウロが行った時のことを、もう少し詳しく見ていきたいと思います。使徒の働き十六章十六節〜十九節を読んでみますと、

『私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けた。幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言った。すると即座に、霊は出て行った。彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。』

 ここを見ますと、パウロの権威ってすごいです。占いの霊に取り憑かれた女奴隷に対して、一発ですよ。「占いの霊よ、出て行け!」と言ったら、悪霊は出て行ったとあります。私たちも、こんな権威、権限が行使できたら嬉しいと思います。しかしです。悪霊が出て行ったら、普通なら良い事が起こるはずです。例えば誰かに吸血鬼が取りついて生き血を吸っているとしたならば、吸血鬼がいなくなったら、問題は解決して当然です。
 しかしなんと、悪霊が出て行った結果は全く逆で、パウロとシラスは捕えられて、牢獄に入れられてしまったのです。

 女奴隷から悪霊を追い出し、霊的鎖を解いたら、自分たちが鎖でつながれてしまったというわけです。下手したら殺されちゃいます。悪霊を追い出さないほうが良かったですよね。
 どうしてこのようなことが起こったのか、解明しないといけないわけです。案外、キリスト教会では、悪霊を追い出すと危ないからやめておこうという、流れが強いです。それは、似通ったことが実際に起こっているからだと思われます。悪霊を追い出したら、その後に悪いことが起こり、自分たちが鎖で繋がれちゃったよ!ひどい問題が起こった!という経験があるから、霊的戦いに躊躇するのだと思うのです。
 しかし、この原因を究明する研究所があります。それが「霊的戦い専門課程」です。所長一人だけしかいないですが、スタッフたちにも手伝ってもらってやっています。
 この出来事を分析すると、霊的世界がどういう構造をしているのか、また、悪霊どもはどのように、どの領域に、強く働いているのかが分かります。

 先ほど「占いの霊」とありましたが、原語の占いの霊とは、「プニウマ・ピュトン」となっています。「ピュトンの霊」と訳したほうがいいです。今は、インターネットでギリシャ語の聖書もすぐに読むことができるので、自分で調べてみていただきたいのですが、「ピュトン」って何かというと、ギリシャ神話の中に出て来る架空の神名です。
 使徒の働きはルカが書いたのですが、ルカはギリシャ神話の神名を、そのまま悪霊の名前としています。ピュトンは当時、どのような神として知られていたかというと、占いを専門とする神、それがギリシャ神「ピュトン」であると考えられていました。占いはピュトンの霊に取り憑かれている人ができる、と信じられていたのです。
 パウロとシラスは、どんな霊を追い出したのかというと、ピュトンの霊を追い出したのです。それが同時に悪霊追い出しでした。
 ギリシャ神話に詳しい人がいるかどうか知りませんが、ギリシャ神話を見ると、ピュトンは、アポロンという神の子分です。そして、ピュトンとアポロンは常にセットでした。

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 この構図の中で、ピュトンをやっつけたわけです。しかしアポロンの子分ですから、次に誰が出て来たのでしょうか。親分のアポロンが残っているはずです。ちょうど公園に行って、悪ガキを泣かせたら、悪ガキがやくざの親分の息子だったら、どうなるでしょうか。子どもは泣くかもしれませんが、後から大変なことが起こるでしょう。それと同じです。ピュトンの後にアポロンが出て来たはずです。

 アポロンの総本山はギリシャの、アテネよりもちょっと北の「デルポイ」という町にありました。アポロンの神殿には、必ず、ピュトンがセットで祭られていて、占いが盛んになされていました。それと同じセットが、北のピリピにもあったのです。
 これはギリシャ神話の話ですが、日本神話も全く同じ構図です。日本の最高神はアマテラスと言われ、総本山は伊勢神宮です。伊勢神宮には、アマテラスと、そのファミリーの神々が祭られています。しかし同じセットは、日本の大きめの町には必ずあります。それを神明社といいます。古代ギリシャの偶像礼拝の形式と、全く同じ形式が日本にもあります。

 パウロとシラスは期せずしてか、ピュトンの霊をつついたわけです。それはちょうど蜂の巣をつついたようなものです。親分が出て来て、捕らえられ、明日は処刑されるかもしれない!という危機的な状況に陥ったわけです。

 しかし、この二人、夜中に主を賛美したのです。祈ったのです。彼らが収容されていたのは、ピリピの町が管理している牢屋でした。その中で、真夜中に、主を賛美して祈ったのです。手には鎖、足には足かせの状況で賛美したのです。その時に何が起こったのか。大地震が起こって、牢獄が壊れて、手と足を拘束していた鎖が外れて、この牢獄を監視していた監守とその家族が救われるという、奇跡的な出来事につながりました。
 これは何を意味しているのかというと、まさしく町を支配していたアポロンが打ち破られたことを意味します。
 なぜなら、この時に使われた、神の武器が「賛美と祈り」だったらです。実に、アポロンがどういう存在であるのかというと、アポロンは「音楽神」です。音楽と彼らの祈り、呪文を通して、街全体が大きな影響を受けていたのです。

 デルポイやピリピは、一般の産業以上に神託が町の一大産業となっていました。これも、伊勢と同じです。伊勢にもいろんな産業があるけれど、一番の産業は、伊勢神宮でしょう。同じ構図になっていたわけです。
 ということは、町のトップに君臨していたのは、アポロンであり、それは音楽神である以上に、経済を支配する霊であったのです。その力が打ち破られた時に、町の象徴である牢獄が壊れ、牢獄を監視していた、監守が救われたのは、町全体の解放を意味します。
 経済の領域の中に働いている霊的力を、案外、私たちは軽く考えています。それは、結構大きなものです。
 ピリピもそうでしたが、エペソでも同じ事が起こりました。

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 これは新城教会の方がエペソに行って撮って来てくださった写真ですが、アルテミス神殿があって、ここにはアルテミスという神話上の神が祭られていました。エペソはアルテミスを詣でる有名な街でした。ここでもパウロは占い関係の霊を追い出しました。それで問題が起こりました。その後、捕らえられて、大変な目に遭いました。

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 今から二千年前ですが、ものすごい発達した都市があったわけです。そこで働いている悪霊も、同様に経済の領域で働いていました。
 私たちも、経済活動に身を置いていますが、十分注意して、関わっていきたいものです。

 しかし経済の領域の悪霊どもを捕虜にできるならば、そんなすごいことはありません。それらを捕虜として、凱旋の行列に引きずり出し、主を賛美させることができたら、不正の富によって神の国は大きく広がるはずです。
 そのためには経済の領域がどのようになっているのか知らないと行けません。案外、私のような庶民は、経済にあんまり関心がないのです。
 父が新城教会を始めた頃、富に対する考え方は、三つの中で二番くらいでした。「富や物質主義は信仰を妨げるもの」という理解で、経済のことには全く関心はありませんでした。

 しかし何年か前から、経済の領域に興味を持って、どのように悪霊どもが働いているのか研究しなさい!と主から語られたような気がして、それを研究するようになりました。
 そうしたら、これはしっかりと学び、よく知って、敵と戦わないと知らないうちに、悪魔の奴隷になってしまうことに気づかされました。

 今日は午後から、「経済と霊的戦い」の中身について、お話をさせていただきますから、みなさんは常に経済の中に身を置いておられますから、是非、出席していただきたいと思います。
 どのように悪霊どもが、経済界に働いているのかを、ちょっと研究発表というか、明日からの専門課程の予行演習というか、やらせていただきます。神と富とに同時に仕えることはできない、とイエス様は言われましたが、神に支配されるのか、富とは「マモン」と呼ばれるマモン神です。神に支配されるのか、悪魔に支配されるのか、大きな戦いです。
 悪魔・悪霊どもは、たくみな策略で、人は金の奴隷になっていきます。金の奴隷は、イコール、マモン神の奴隷ということになりますから大変です。
 しかし、私たちが金の奴隷ではなく、金を奴隷にしたらどうですか。奴隷は主人に仕え、働くのです。もしも私たちが金の奴隷ならば、主人である金のために働くのです。しかし、金が私たちの奴隷となったら、金が私たちのために働くことになります。さて、どちらがいいでしょうか。

 午後からお話をさせていただきますが、ちょっと具体的な話になるのですが、金の奴隷なのか、それとも金を奴隷として働かせるのか、案外、そんなこと考えていないのですが、結構、重要な点ではないかと思われます。

 一人の方が、BSで放映された経済学者の番組を送ってくれました。経済学者たちが、「人はどのようにして、金の奴隷となるのか」を論じていました。結構、興味深かったのでお分かちします。
 きっとその背後には、悪霊どもが働いていると思いました。これは経済学者たちの分析です。
 しかしそのことを述べる前に、ある神学者のブログにこのような記事を載せていました。
 「そもそも貨幣というのは、交換可能という便利な性質から、貨幣の危険な面が生じてきた。それは世にあるものの価値は、何でも貨幣で計れるという錯覚をもたらすことである。主イエスが十字架にかかられる心づもりでいらした時、ベタニヤのマリヤが主のために愛の表現として捧げたナルドの香油を、イスカリオテ・ユダが、三百デナリに売れたのにと換算したことがある。人の愛も命も、金に換算するという貨幣の罠である。ユダは銀三十枚でイエスを売った。」ありました。
 私たちは何でも金に換算してしまう社会に生きています。クリスチャンでも、気をつけないと、知らないうちに何でも金に換算する危険性があります。
 経済学者たちが金の奴隷となる要素について次のように語っていました。

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 例えば、ある車が、三百万円だとします。金と車には、目的と手段の二つの領域があります。さて、どちらが目的で、どちらが手段でしょうか。そんなのすぐに分かりますよね。金が手段で、車が目的です。車を手に入れる手段が、三百万円で、あくまでも車が目的です。
 金の奴隷になる要素とは、いつしか、目的と手段が逆転することから始まるというのです。本来、金は、手段であって、目的では決してありません。けれども、いつしか、金を得ることが目的となるというのです。その結果、人はじわりじわりと、金の奴隷にされていくと経済学者が語っていました。
 私たちは一ヶ月働いたら三十万円もらえるとか、二十万円もらえるとか、労働が手段になり、金が目的となります。
 チェコのトマス・セドラチェクという経済学者が、「金が道具ではなく目的になり、いつの間にか、人は貯め込むことを喜びとする傾向がある。」と指摘していました。

 また、ニューヨークの投機家で、何兆円という金を動かしていた男がインタビューに応じて、こんなことを語っていました。「人は金は多ければ多いほど、より未来は安心だと感じてしまう。」
 金が少ないのと、多いのと、未来について、どう感じますか。どちらが安心ですか。やはり、多いほうが安心です。「その結果、人は、時々、過剰に安心を求めてしまう」というのです。

 私たちは、なんでも金に換算しながら生活することに慣れています。そして、金を手段ではなく、目的にさせられるのです。そんな体制の中、私たちは知らないうちに、じわりじわりと金の奴隷にされるというのです。
 私たちは、金を目的にしてはいけません。私たちの未来はどこにありますか?イエス様です!主イエスが私たちのすべてです。私たちの目的は、主と共に新しい天と新しい地を治める事です。それが目的でなくてはなりません。

 金を目的とさせるような世界に住んでいても、目的と手段を入れ替えられてはいけない事を、常に、心に留めるべきです。
 番組の中で、経済学者が話していたことなのですが、「人が金の奴隷になるのは、貯蓄することによって」と話していました。
 貯金が好きな人いますか?「通帳にまるが一桁増えた!あっ!また増えた!」と、貯蓄が目的となると、人は金の奴隷になると言うのです。「私の趣味は貯金」という方がおられるかもしれませんが、貯金が悪いとは言いませんが、貯蓄の中にも、敵の策略がある事を、心にとめましょう。午後から、その辺をもう少し、深く掘り下げていきたいと願います。

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 次のグラフは、日本とアメリカの家計の金融資産の比較ですが、日本では金融資産の半分を貯蓄に回します。しかしアメリカでは、十三パーセントくらいです。これは両国民の金に対する価値観の違いを現しています。アメリカでは金融資産の五十パーセントくらいを、投資に回すというわけです。

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 しかし、日本はそれとは対照的に、五十パーセントくらいを貯金に回すというわけです。貯金と投資は同じ金ですが、それぞれ目的が違います。貯金は金に自分の未来を守ってもらう行為です。「私の未来は、銀行に蓄えられている金が守ってくれる」という価値観です。
 しかし投資は、それとは逆に、「金を遣わす」行為です。ある意味、金を奴隷として、「金よ。俺のために稼いでこい!」と遣わす行為です。
 投資を勧めるわけではありませんが、価値観を変えることは将来の為に大切です。結構、多くの人が、「経済の世界なんか関係ない!」と思っているのですが、実は、知らないうちに、悪い価値観に汚染されているのです。
 不正の富と呼ばれる経済の領域を勝ち取って、神の国を広げるという目的をもって生きることは重要です。

 ジョージ・ソロスという有名な投機家がいます。彼は噂によると、九・一一テロ事件が起こる前に、自分の持っていたドル資産を全て売っぱらったらしいです。
 彼が今までに稼いだ金を、時給に換算すると、なんと「千二百万円」だというのです。時給千二百円とは大違いですね。信じられない!
 彼はすでに引退しているようですが、こう語っています。
 「金は儲けるよりも使うほうが難しい。なぜならば、私が何に社会的価値を置くか自覚しないといけないからだ。」
 本当にそうだと思います。私たちは何の為に、毎日、経済活動をしているのかを、よく自覚しなければなりません。

 私は次のように定義させていただきました。
「不正の富をサタンから勝ち取り、金を奴隷として、経済の領域に遣わし、奴隷とされたマモンどもに主をほめたたえさせ、彼らを神の国の拡大に使う!」
 こんな痛快なことはないじゃないですか。このような価値観を持って、日々、歩んでいきたいと思います。その結果として、「新城教会に行くとみんな豊かになるよね!」と噂されたら素晴らしいですね。
 ジョージ・ソロスくらい儲けて、それは無理かもしれませんが・・・、神の国を勝ち取る者が出ることを願っています。そのためには、まず、内側を変えないといけません。経済に興味のある方は、午後からセミナーに出ていただきたいと思います。
 最後に一言お祈りをしたいと思います。

 ハレルヤ。天の父なる神様、御名をあがめて心から感謝します。今日ここにおられる方々全員を祝福してください。霊も魂も肉体も、また一緒に住んでいる微生物も、経済も、すべて祝福され、神の国を広げるために用いてください。今日は特に、経済の領域に油そそぎを与えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン!