「主にあってむだでない労苦」

2018年3月11(日)
リバイバル聖書神学校長 山崎ランサム和彦
コリント人への手紙第Ⅰ15章58節

『ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

ハレルヤ! 主の御名を賛美いたします。
先週アナウンスがありましたように、私たち家族は4月から神奈川に引っ越して、私は東京の神学校で教えることになりました。将来またこちらでご奉仕する機会はあるかと思いますが、新城教会でメッセージを取り次がせていただくのもこれでひとまず最後ということになります。これまで私たち家族のため、長年にわたって主にあるお交わりをいただき、貴いお祈りとご支援をいただきましたことを、この場を借りて篤く御礼申し上げます。
先週金曜日は、リバイバル聖書神学校の最後の卒業式が行われました。卒業式でのメッセージで開かせて頂いたのも、今日と同じ1コリント15章58節でした。卒業式に出てくださった方も今日はお見えになっていますが、式では時間の関係で短くしかお話しできませんでしたので、もう一度じっくりとこのみことばを学んでいきたいと思います。

この箇所はコリント人への第一の手紙の15章の最後の節ですが、15章は復活について教えている部分です。私たちクリスチャンの希望は、この肉体の死が終わりではないということです。いつの日か神さまが定められた時にイエス・キリストが再びこの地上に来られて、私たち一人ひとりの肉体をよみがえらせてくださり、私たちは主が創造される新しい天地において、新しい復活の肉体をいただいて永遠に主と共に生きることができるというのです。その内容を受けて、パウロは「ですから、あなた方の労苦は無駄ではない」と語っています。私たちの働きが無駄にならないのは、復活の希望があるからなのです。
私たちの地上のいのちは、いつか終わるときが来ます。どんなに苦労していろいろな働きを行っていっても、死んでしまえばその成果を味わうことはもうできません。それだけでなく、志半ばでいのちを終えなければならないことも多くあります。先ほどもご一緒にお祈りしましたが、今日はちょうど東日本大震災が起こってから7年目にあたります。長年にわたってこつこつと地道に築き上げてきた働きが、突然の災害で一瞬のうちに失われてしまうことも、実際に起こりえるのです。そして、もし私たちがこの地上からいなくなったら、私たちがなした働きの大部分は、世の人から忘れ去られていくことでしょう。
 このことを、旧約聖書の伝道者の書は実に鋭く表現しています:

「18 私は、日の下で骨折ったいっさいの労苦を憎んだ。後継者のために残さなければならないからである。 19 後継者が知恵ある者か愚か者か、だれにわかろう。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使ってしたすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた、むなしい。 20 私は日の下で骨折ったいっさいの労苦を思い返して絶望した。 21 どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分の分け前を譲らなければならない。これもまた、むなしく、非常に悪いことだ。 22 実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。」(伝道者2:18-22)

このように、人生の労苦のすべては空しい、と伝道者は言います。言い換えれば、「あなたがたの労苦はむだである」と言っているのです。けれども、新約時代になってパウロが言うことばは違っています。「あなた方の労苦はむだではない。」なぜでしょうか? それは復活の希望があるからです。その希望を与えてくださったのが、イエス・キリストです。
私たちのいのちは現在のこの肉体のいのちがすべてではありません。やがて神さまから新しい肉体をいただいてよみがえる日が来ます。それだけではありません。その日は、イエスさまご自身が私たちの働きに、それぞれ報いてくださる時でもあるのです。
私たちがまだ生きている間にも、私たちが主のためになした労苦のすべては、人に知られているわけではありません。どんなに苦労して主のために働いても、まったくこの地上で報われないように見えることもあります。
 けれども、私たちの働きは主の御前には隠されていません。主は世界のどんな片隅にいる、どんなに無名な人の小さな働きも、すべてご覧になり、覚えておられるのです。先月の21日に世界的に著名な伝道者ビリー・グラハム師が99歳で天に召されました。彼は生涯を通じて2億1千500万人の人に福音を伝えたと言われているように、その働きは世界中の人に知られています。けれども、もしかしたら世界には、世には全く知られていないけれども、ビリー・グラハムに負けず劣らず重要な働きをしている神の民がいるかもしれません。神さまはそのすべてをご存じであり、一人ひとりの働きに報いてくださるお方です。みなさんにも報いてくださるのです。
 しかし、ここで注意しなければならないことがあります。パウロがあなたがたの労苦は無駄ではないと言ったとき、彼はそこに重大な条件をつけています。私たちの労苦は「主にあって」無駄ではないと言うのです。「主にあって」とはどういう意味でしょうか。この箇所は新共同訳聖書では、「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」と訳されています。私たちのすべての労苦が報われるわけではありません。私たちの労苦が無駄にならないのは、私たちが主イエス・キリストとしっかり結ばれている時にのみ、そうなのです。ですから、私たちの人生で何をするにしても、それが人からどう評価されるか、目に見える成果を生むかどうかと言うことよりも、自分は「主にあって」そのことをなしているだろうか、主に結ばれて歩んでいるだろうか、ということの方が大切です。そして、主のみこころであると確信を得たならば、人からどう思われようと、この地上でどんなに報いが少なかろうと、その道を大胆に進んで行くことが必要だと思います。 
自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知った私たちは、どう生きるべきでしょうか? パウロは、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。」と語っています。
ここで「主のわざに励みなさい」と訳されている部分は、「主のわざに満ちあふれなさい」とも訳せる表現です。パウロは同じ手紙の中で「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」(1コリント10:31)と語っています。私たちのすることなすことすべてが神さまの栄光のためになされること、生活のすべてにおいて、主のわざが満ちあふれること、これがクリスチャンの人生の目標なのです。
さらに、ここで言う「主のわざ」とは、私たちが主のためになすわざ、ともとれますが、「主ご自身がなされるわざ」と解釈することもできます。そのように考えると、私たちが主に仕えていく人生というのは、主イエスご自身が私たちを通してこの地上でなしてくださる素晴らしいみわざが満ちあふれていくことだ、と考えることができます。パウロはこの「満ちあふれる」という同じ動詞を14章12節でも使っていますが、そこでは教会に聖霊の賜物が豊かに与えられる、ということについて語られています。私たちは自分の力で主に仕えていくわけではありません。全世界の王であるイエスさまご自身が、私たちのうちにおられる聖霊を通して、ご自身のわざを現してくださるのです。
そのために必要なことは、私たちが主にあること、主につながっていることです。主イエスは弟子たちにこう言われました。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)

私たちがしっかりと主につながっているなら、ちょうどぶどうの木がそれにつながっている枝を通して実をならせていくように、主ご自身のみわざが私たちを通して結実していくのです。私たちの力によるのではありません。すべては主の恵みです。
ここで、私たちが主のために行う、あるいは主が私たちを通して行ってくださる「主のわざ」とは何か、さらに具体的に見ていきましょう。パウロは、私たちが主に結ばれて主のわざに励んでいくとき、その労苦はむだにはならない、と言います。それは、私たちの労苦の実がいつまでも残る、という意味です。その少し前の箇所でパウロは、「朽ちるもの」と「朽ちないもの」を対比しています。「兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」(1コリント15:50)。私たちの今の肉体は年が経てば弱り、やがては朽ち果てていきます。パウロは、やがて来たるべき神の国に入るためには、そのような肉体は役に立たないというのです。なぜなら、世の終わりに神さまはこの世界全体を新しくされるからです。
聖書が教える永遠のいのちとは、肉体のない霊魂だけの存在で永遠に生きるということではありません。聖書は世の終わりに神さまが新しい天と地を創造されると語ります。聖書は決して物質を悪いものとか低級なものとは見なしていません。なぜなら、この物質的世界は、神さまによって創造されたよいものだからです。やがて到来する新しい世界も、純粋な霊的世界ではなく、物質の世界なのです。けれども、それは今私たちが知っているような物質と同じではありません。今の世界の物質は時が来ると古びて朽ち果てていきますが、新しい世界の物質は決して朽ちて滅びることはない、というのです。ですからそのような世界に入るためには、私たちは今与えられている肉体ではなく、朽ちない性質をもった復活の肉体が必要なのです。
けれども、パウロが「朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」というとき、それは単に個人の肉体だけを言っているのではないと思われます。この世にあって本当にむだにならないもの、私たちがそのために労苦する価値のあるもの、それは「朽ちないもの」、つまり、この世界が過ぎ去って新しい天地になっても、いつまでも残るようなものなのです。それでは、天地が新しく入れ替わっても残る、いつまでも朽ちないものとは何でしょうか?
これまでお話ししてきたような、私たち主を信じる者のいのちはその一つですが、それだけではありません。もし個人の救いだけが大切なのだとしたら、私たちがイエス・キリストを信じて永遠のいのちをいただき、将来の復活の約束を手にしたら、後の人生は何も労苦する必要は無くなってしまいます。けれども、パウロは明らかにすでに救われたクリスチャンの読者に対して、さらに主のわざに励むように命じているのです。それは何のためでしょうか?
ここで、今日取り上げたパウロの言葉が、いったいどのような文脈の中で語られたのか、考える必要があります。そのためにコリント人への第一の手紙の内容を概観してみたいと思います。この手紙はパウロの手紙の中でもかなり長めで、しかも一貫したテーマを見いだすのがたいへん難しい手紙です。ただ、この手紙を一読してすぐ分かるのは、当時コリントの教会ではありとあらゆる問題が噴出していたということです。教会には分派が起こり、道徳的な堕落や裁判沙汰、神学的な論争や礼拝における混乱などがありました。手紙では、それらの具体的な問題の一つ一つに対してパウロが順次アドバイスを与えていく形で、議論が進んでいきます。そして終わり近くの15章になって、パウロは復活について語り始めるのです。一見すると、パウロは互いにつながりのない雑多な牧会上のアドバイスを与えた後、最後におまけのようにして教理的な内容を付け足したかのようにも見えます。けれども、実はそうではありません。
 時間の関係で、今日この場で第一コリントの内容すべてを詳しく説明することはできません。ぜひ今週みなさんも時間を取ってこの手紙を通読して頂きたいと思いますが、一見互いに無関係に並んでいるように見える種々の議論の背後には、一つの根源的な問題が潜んでいることが分かります。それは教会の分裂という問題でした。クリスチャンの間に愛が失われ、教会員が互いに分裂して争っていたこと、これがコリント教会の最大の問題だったのです。他のすべての問題は、究極的にはこの根源的な問題の異なる現れに過ぎないと言うことができます。
これに対してパウロは、「さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。」(1コリント1:10)と語っています。教会の一致ということこそ、パウロがこの手紙で読者に伝えたい中心的なメッセージなのです。教会が一致するために必要なのは、愛です。パウロはこのことについて、有名な「愛の賛歌」と呼ばれる13章で語っています。愛がなければすべてが空しい、と教えるこの章は結婚式でよく引用される箇所ですが、元々の手紙の文脈で言われている「愛」とは男女の愛のことではなく、教会が一致するために必要なクリスチャン同士の愛です。そして、クリスチャンが互いに愛を持って教会を建て上げていくことこそが、パウロが15章になって語っている、「主のわざ」にほかならないのです。
パウロは3章でこう語っています:

「10 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。 11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。 12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、 13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。 14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。 15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。 16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(1コリント3:10-16)

ここでパウロは教会という共同体を建物にたとえています。その土台はイエス・キリストです。キリスト以外の土台の上に教会を建てることはできません。そして、各人が主にあってする働きとは、キリストという土台の上に建物を築き上げていくことだ、とパウロは言います。14-15節で新改訳聖書が「だれかの建てた建物」と訳している部分は、直訳すれば「だれかの働き、わざ」ということで、15章58章で「わざ」と訳されているのと同じエルゴンというギリシア語が使われています。けれども、その働きはみなが同じ価値を持っているわけではありません。パウロは、各人の働きは世の終わりに明らかになると言います。彼はそのことを火の中を通る、というイメージで語っています。今の天地が過ぎ去り、新しい天地が出現する時にも残る働きというのは、火の中をくぐっても燃えずに残る金や銀のような働きだ、というのです。つまり、パウロはここで、私たちが愛によって結びあわされるキリストの教会を建て上げるなら、それはいつまでも、永遠に残るものだ、というのです。
 これでもうお分かりになったと思いますが、15章でパウロの言う「朽ちない」働き、むだにならない労苦というのは、愛と一致をもって教会を建て上げていく働きなのです。実際、先ほど引用した箇所の少し前、3章8節でもパウロは、教会を建て上げる働きについて、15章で「労苦」と訳されているのと同じコポスというギリシア語を使っています。(新改訳第3版では「働き」となっていましたが、新しい2017年版では「労苦」と正しく訳されています)。
今の天地が過ぎ去って、新しい天地が現れても変わらないもの、それは、神の民、教会です。黙示録の中でヨハネは来たるべき永遠の世界についてこう語っています:

「3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、 4 神の御顔を仰ぎ見る。」(黙示録22:3-4a)

新天新地にあって永遠に神さまに仕えているのは、神のしもべたち、つまり教会です。もし復活も新天新地もなければ、私たちがこの世でどんなに努力して教会を建て上げようとしても、それは波打ち際で砂のお城を作るような、空しい働きです。しかし復活の希望があるがゆえに、私たちが今の世においてしっかりとした教会を建て上げるなら、それは永遠に残るのです。これはある意味で驚くべきことです。歴史上、いくつもの文明や大帝国やさまざまな宗教的・政治的ムーブメントが興っては消えていきました。それらはやがて朽ちていくものであり、永遠に残るものは何一つありません。けれども聖書は、キリストのからだなる教会は、この天地が滅びても決して滅びることはない、と教えているのです。
 したがって、復活の約束と希望を抱いて私たちが励むべき主のわざ、私たちを通して主ご自身が現してくださるみわざとは、キリストのからだが愛によって結び合わされ、建て上げられていくことだと言えます。もっと具体的に言うならば、クリスチャンたちが互いに愛によって仕えあっていく時、私たちが兄弟姉妹に愛を行うとき、それは永遠に実が残る「主のわざ」だ、ということなのです。
 このことはマタイ25章に出てくる、イエスさまが弟子たちに語られた「羊と山羊のたとえ」からも分かります。

「31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。 32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、 33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。 34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。 35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』 37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。 38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。 39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』 40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」
(マタイ25:31-40)

この後、これとは逆に愛を行わなかった人々のさばきについて語られていきます。世の終わりの最後の審判において、さばき主なるキリストが人々を裁かれる基準は、キリストの「兄弟たち、しかも最も小さい者たち」に愛を行ったかどうか、ということだと言われます。彼らに愛を行った人々は永遠のいのちを、行わなかった人々は永遠の刑罰を受ける、というのです(46節)。この「キリストの最も小さい兄弟たち」とは誰のことか、解釈の難しい箇所ですが、クリスチャンを指しているという説が有力です。また、ここでさばきを受ける「すべての国々の民」は、全人類ともすべてのクリスチャンともとれますが、どちらにしてもクリスチャンも含まれることに変わりはありません。マタイ福音書の文脈では、イエス様は弟子たちに対する警告としてこのたとえを語っておられるのです。したがって、ここでもクリスチャンが互いに愛を示すことの重要性が教えられていることになります。これはもちろん、クリスチャンがノンクリスチャンに愛を示す必要がないということではありません。しかしこのたとえのポイントは、私たちが教会の兄弟姉妹たちに愛を行うかどうかと言うことは、永遠に残る結果をもたらすということです。ここでキリストはその愛のわざについて、空腹であるときに食べ物を与えるとか、病気をしたときにお見舞いをするなど、非常に具体的に語っておられることが分かります。私たちがふだんの生活の中で、困っている人を助けるとか、悲しんでいる人をなぐさめる、悩みを聞いてあげるなど、小さなことであっても互いに愛を示していくとき、それは霊的に言えば永遠の教会を形づくる石を一つ一つ積み上げていることになるのです。
 このように、私たちが教会を建て上げる働きは、この世で行われる、具体的な愛のわざです。けれども、その結果建て上がるのは、この世が滅びても朽ちることのない、永遠のキリストのからだなのです。パウロが次のように語っている通りです。

「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します。」(1コリント15:54)

この言葉は、個人の復活だけでなく、教会についてもあてはまるものだと思います。愛によって建て上げられた教会は、新天新地でも滅びることなく永遠に存在します。言い換えれば、教会は愛によって死に勝利するのです。
 これまでお話ししてきた解釈、1コリント15章58節で教えられている、むだになることのない「主のわざ」が教会を建て上げることだ、と言う解釈が単なる主観的読み込みでない証拠があります。この箇所は15章の最後の節ですが、すぐ次に書かれた16章の冒頭でパウロは、エルサレム教会のための献金について語っています。これは、当時貧しい中で苦闘していたエルサレムのユダヤ人教会を支援するために、異邦人教会から献金を募って届けるという、パウロがたいへん力を入れていたプロジェクトでした。「教会の建てあげ」というのは単なる一教会の形成だけを言っているのではなく、教会間の一致ということを含んでいます。異邦人クリスチャンが人種の壁を越えてユダヤ人クリスチャンに具体的に愛を示すこの働きは、まさに教会の一致を生み出す「主のわざ」であり、むだになることのない労苦だったと言うことができます。
このように、私たちが教会を建て上げるために労苦していくなら、その働きは決してむだにはならず、その実は永遠に残るのです。これほどやりがいのある、重要な働きに私たち一人ひとりが召されているということは、素晴らしいことではないでしょうか。
 15章の58節に戻りますと、パウロは主のわざに励むために必要なこととして、「堅く立って、動かされない」ことを命じています。これはイエス・キリストという土台、福音の土台の上にしっかりと立つ、ということです。3章でキリストの土台について語られていましたが、15章の冒頭では、パウロは「福音」とは何かを説明しています。それは、キリストが聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれ、よみがえられたことです。そしてそれは、世の終わりに私たちもよみがえるということの保証なのです。これが福音の内容であり、私たちがその上に教会を築き上げるべき、ゆるぐことのない土台なのです。パウロは「この福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」と言います(2節)。
私たちの信仰の土台は、私たちの主観的な知識や感情や意志ではありません。それはイエス・キリストが復活した、という客観的な事実です。「福音(良い知らせ)」とは、その事実についての告知、ニュースにほかなりません。その事実は私たちが信じようと信じまいと、確信があろうとなかろうと、変わることはありません。私たちの信仰の歩みはいつも順調で平坦なものではないかも知れません。時には落ち込んだり、投げ出したりしたくなることもあるかもしれません。けれども、イエス・キリストはいつまでも変わることがありません。死からよみがえって今も生きておられる主に信頼して歩み続けていくならば、私たちの人生に主ご自身が働いて、そのみわざを満ちあふれさせてくださることでしょう。
そして、パウロが読者に対して「私の愛する兄弟たちよ。」と呼びかけていることも忘れてはなりません。パウロは読者のクリスチャンが一人で労苦していくように命じているわけではありません。そもそも、教会を建て上げる働きは、一匹狼のクリスチャンには決してできない働きです。あなたは一人ではありません。主にあって愛し合う兄弟姉妹として、神の家族として、ともに主のわざに励んでいきましょう。そのようにしていくとき、私たちの労苦は決してむだにはならないと、聖書は約束しているのです。この約束に信頼して、主のわざに励んでいきましょう。お祈りをいたします。

恵み深い天の父なる神さま、あなたの御名をほめたたえ、心から感謝致します。
あなたは、罪の中に歩み霊的に死んでいた私たち一人ひとりを救い出してくださり、イエス・キリストの十字架と復活を通して永遠にあずかる恵みを与えてくださいましたことを感謝します。
あなたは私たちを救ってくださっただけでなく、この地上でキリストのからだである教会を建て上げるという尊い使命を、私たち一人ひとりに、そしてこの新城教会をはじめすべての教会に与えてくださっていることを感謝します。
教会を建て上げるのは大変な働きではありますけれども、私たちが少しずつでもその働きに従事していく時に、その労苦は決してむだにはならず、その結果建て上げられていく主の教会は、新しい天と地になっても永遠に残るものであることを、みことばを通して教えてくださり感謝します。私たちが希望を失うことなく、あなたのわざにいつも励むことができるように、お助けください。
この教会にもあなたが多くの賜物を与え、豊かに祝福してくださっていることを感謝いたします。兄弟姉妹お一人おひとりの働きを通して、この教会全体の働きを通しても、あなたの御国がさらに前進していくことができるように、祝福してください。みことばを感謝し、尊き主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。