「彼らに主の名をほめたたえさせよ! パート6 
 〜内なるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ!〜」

2018年3月18(日)
新城教会主任牧師 滝元順
詩篇103篇1節(新共同訳)

『【ダビデの詩。】わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。』

 ハレルヤ!一緒に躍り出したくなりましたね。本当にすばらしいダンスを感謝します。
 聖書は、全身全霊で、多くの楽器を使って主をほめたたえよ、と命じています。しかし、教会の歴史を見ると、多くの楽器を使うとか、体全体で主を賛美するという部分を悪魔に奪われ、暗い時代が長く続きました。しかし今、主が、それらすべてを取り戻し、回復されていると思います。詩篇に出て来るような、すべての楽器を使って、全身全霊で主をほめたたえる賛美が、世界中に広がっています。
 私たちは心の底から、全身全霊で主をほめたたえたいと願います。

 三月、四月は、年度末、新年度ということで、様々な変化がある時期だと思います。受験も一段落して、希望の学校に入ることができた人も、そうでなかった人もいるかもしれません。しかし、すべては主の御手の中にありますから、自分の願いがかなわなかったら、さらにすばらしい目的を主が持っておられると信じて、失望せずに前進していただきたいと思います。

 今日みなさんと共に学びたい箇所は、二週間前にも少し触れた、詩篇百三篇からです。一節〜五節までは、昨年、一年のテーマとして語らせていただいた箇所です。新改訳で読ませていただくと、詩篇百三篇一節〜五節、

『ダビデによる わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。』

 この言葉、本当にすばらしいですね。「一生を良いもので満たしてくださる!」というのです。悪いものではなく、良いもので満たしてくださるのです。
 隣の方に宣言してあげてください。「主は、あなたの一生を良いもので満たしてくださいます!」と、祝福の言葉をかけてあげてください。

 良いもので満たされるというのが、聖書の標準装備です。
 しかし、そこに至る条件があることも確かです。それは、イエス様に従うという大前提です。私たちがイエス・キリストに従うならば、良いもので満たされるのです。そんな中一節に、

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。』

これを新共同訳で見ると、

『わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。』

 この点について、二週間前にお話しさせていただきました。『わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。』とは、内蔵も一緒に主をほめたたえなさい!という意味であると話しました。「内なるもの」とは、「内蔵」という意味だというのです。
 私たちは心、口先だけで歌うのではなくて、人は多くの内蔵によって構成されていますが、一つ一つの内蔵も、こぞって主をほめたたえろと言うわけです。肺も食道も、腎臓も、大腸も、小腸も、何もかもこぞって、主をほめたたえたらどうでしょうか。
 その後に続くのは、『あなたのすべての病をいやし、』と続いています。そもそも病気は内臓の不調です。内蔵のどこかが病むわけです。しかし内臓のすべてが主をほめたたえるようになったら、健康になるのは当たり前ですね。主を賛美する時に、体全体、内臓も含んで賛美する気持ちで、賛美しましょう。内臓にも、主をほめたたえなさい!と宣言して賛美するなら、健康に生きることができ、一生は良いもので満たされるのです。

 いつも語っていますが、聖書は旧約聖書から始まって、新約聖書で完成を見ます。旧約聖書は、ある意味で、新約聖書の影になっています。
 旧約聖書で述べられていることが、やがて、新約聖書で実態が浮かびあがるのです。私たちの内蔵がこぞって、主をほめたたえる!とは、最終的に新約聖書では、「教会」を意味します。第一コリント十二章二十七節に、

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』

と述べられています。すでに詩編では、教会が意識され語られたわけです。
 私たちの「内なるものはこぞって主をほめたたえなさい!」とは、教会を表します。そして私たち一人一人は、イエス様を頭にした各器官なのです。

 先週も山崎先生から、素晴らしいメッセージをいただきました。教会とは、永遠に残るもので、その中身は、信仰と希望、そして愛だと学びました。信仰と希望は、一つに集約されます。誰に対しての信仰か。それはイエス様に対する信仰です。希望は、誰に対する希望かといったら、イエス様に対する希望です。ゆえに、信仰と希望を集約したら、「イエス・キリスト」です。
 では、永遠に残るものは何かと言ったら、「愛」であるわけです。

 教会には背景も違い、経緯も違う人たちが集まっているわけですが、それぞれ神の選びの中で、一つとなって形成されるのです。
 全く背景が違う人たちが一つとなる為の接着剤が、愛!です。他のもので接着させようと思っても、なかなか難しいです。みんな経験も違うし、立場も違うし、年代も違うし、共通するところなんて、全くありません。でも私たちが、イエス様の愛によって結ばれるなら、一つのからだとなるのです。教会は愛の帯で結ばれた共同体です。
 ですから教会に愛がなくなったら、教会ではなくなります。ですから集められた一人一人が、愛によって結ばれた一人一人であることを、意識しないといけないのです。そうでないと、キリストのからだは成り立ちません。
 そもそも、私たちの内臓が分裂して、お互いに喧嘩しあったらどうでしょうか。胃、小腸、大腸が喧嘩していて、「おまえから来るものなんか、絶対に受けてやらない!」なんて言ったら、人は生きることができないです。心臓と血管が喧嘩して、「心臓が送り出すものは、絶対に通さないぞ!」なんて言ったら、人は一発で死にます。教会も同じです。私たちの体は、絶妙なバランスによって、それぞれに役割があって成り立っているわけです。

 近ごろある方から、漫画をもらいました。「順先生、この漫画読んでください。」と。知っていますか?「働く細胞」という漫画です。
 これ、読むとおもしろいです。体の中の機能を漫画化、擬人化して、どんな機能があるのかを紹介しています。子どもたちは知っていますか?テレビのアニメになるそうです。人間の体って、創造者がいなかったらありえない!というのが分かります。体の臓器は一つとなって、人を生かす為に協力するわけです。
 私たちも同じです。教会は愛という帯で結ばれて、全員が一つとなって、神の夢を実現するために存在しているのです。

 来週の月曜日から、ネパールに行きます。今回は、二十六名の方々が一緒に行きます。私はネパールに、今までに七回くらい行きましたでしょうか。山を下りる時にいつも、「今回が最後だ・・・。二度とこの山には登らないぞ!」と決心しながら降りるのですが、また今年も登ることになってしまいました。少々、不安があります。
 なんか忙しい時って、重なるものですね。今週は明日、明後日と、「霊的戦い専門課程」があります。そして週末は、沖縄に行って、ぎりぎりに帰って来て、ネパールに行く…。大丈夫かな?という感じですが、前にもお願いしましたが、私のために集中的に祈りをお願いします!職権乱用みたいですが…。
 このところよく写真を出しますが、こういう所に私たちは登っていくわけです。

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 ここまで到達出来れば、しめたものです。裸の子どもたちが見えたら、五時間にわたる登山も終盤です。

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 これは一部の人たちの働きだとは思ってはいけません。これはキリストのからだ全体の働きです。最前線に行く者達も、行かない方々も、教会の働きとして重要な働きだと認識していただきたいと思います。

 二週間前も、そのことをお話しさせていただきました。チェパン族の方々は重要だとお話ししました。

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 青い丸が彼らが住んでいる場所です。ネパールに行かない方々も、グーグルなどで見ていただき、祈っていただきたいと思います。

 彼らが住んでいる場所は、ヒマラヤ連邦の中でも最も霊的意味が深い、マナスルと、マチャプチャレの真南に住んでいます。
 前にもお話ししましたように、彼らの世界には、貨幣は存在しません。貨幣経済がない人たちが、マチャプチャレという山を南側から拝んでいるのです。彼らは何千年にも渡って、その場に住み続け、山々を拝んでいるわけです。

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 この山の三角形が、何に反映されているかというと、

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 今、世界を牛耳っているのは、三角形と目をシンボルとする連中だと言われています。

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ドル札にも、それが表示されています。世界経済を握っている者たちに、日々、霊的力を流し込んでいる人たちが、他でもなく、この山の中に住んでいる人たちです。経済システムがない人たちが、世界経済の中心の山を拝めば、最大の悪しき力が経済の世界に流れ込み、世界経済の中で悪霊どもは、自由に働くはずです。

 しかし期せずして、主がそのような場所に、私たちを導いてくださいました。これは本当にすごいことです。ですから、ごく一部が行くというのではなく、新城教会どころか、日本全体の教会、いや、世界中の教会が世界経済の影響を強く受けていますから、みなさんの財布にも影響する重要な働きなのです。今回の働きが、大きな勝利となるよう、是非とも、祈っていただきたいです。

 三年前にこの山の目をめがけて、子どもたちと「みことばの剣を投げます!」と宣言しました。そうしたら何が起こったのか、覚えていますか。この教会に、空間から突然小石が飛び出てきたのです。あれはダニエル書二章の預言が真実であることを示す現象だと思います。これは個人的な働きとか、ごく一部の働きではなく、キリストのからだ全体の働きです。
 世界宣教のLINEに登録していただきますと、リアルタイムで、どんな状況であるかをお伝えします。私が報道する係です。私が写真をリアルタイムでお送りしますから、是非とも、それを見ながら心を合わせて、祈っていただきたいと思います。
 山の上で二日間、野宿しなければなりません。その一泊は、現地の方々の家にホームステイとなっています。今年はどんな家に泊めていただけるのか、ちょっと楽しみなような、複雑なところもあります。山の上の子どもたちや、韓国のパク先生一家は、現地で準備しています。私たちと細かい打ち合わせをしながら、準備万端整っています。

 今回は、リバイバルミッションと一緒にやります。他の教会からも、海外からも参加してくださる方々もおられます。是非、祈って支えていただきたいです。
 しかしある方は、こう言うと思います。「いや〜、私の祈りなんか、微々たるもので、聞かれないですよ〜。関係ないですよ〜。」そんなことを、たまに聞くことがあります。
 「小さな祈りですが、祈らせていただきます…。」なんて、謙遜に言われる方もおられますが、そうではありません。
 実は、キリストのからだは、どのよう機能なのかについて、第一コリント十二章二十節〜二十四節に記されています。

『しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。』

 キリストのからだは、イエス様が「かしら」です。そして、私たちが「各器官」を構成しているのです。
 つい最近まで、人は脳が司令塔で、他の臓器は、脳の言いなりに存在していると考えられて来ました。しかし近年になって、そうではないことが分かって来ました。

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脳はもちろん、司令塔ではありますが、人の体の中にある各器官、すべてに、脳のような機能があって、脳と、さらには脳を介さなくとも、他の器官とコミュニケーションをしながら、全体が最適な状態に保てるように働いているというのです。
 キリストのからだについて、二千年ほど前にパウロによって語られましたが、人の体を造られたのは神様ご自身ですから、イエス様が脳で、私たちが各器官という意味は、二千年前はあまり分かっていなかったのですが、現代になって、よく分かってきたわけです。
 私たちは、奴隷のように絶対服従で動けばいいみたいに考えていたと思われますが、そうではないということです。各器官は、それぞれ、大きな役割があるということです。

 この頃は、腸が第二の脳だと言うことが分かってきました。テレビやマスコミでよく取り上げられています。「腸から脳への伝達、脳から腸への伝達」と双方向の指令とコミュニケーションがあって、一丸となっているのです。

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 日本人は「腹を決める」という言葉を持っています。決断は、脳ではなくて腸で決めているのだと思います。もしかしたら腸は脳よりも、機能的には高いかもしれないです。
 伝達物質のセロトニンは、腸に九割以上あるそうです。脳にはほんの数パーセントしかないそうです。腸だけでなく、他の器官も全て同様に重要です。
 今まで、あまり関係ない、なくても良いと考えられていた器官が、実際は、ものすごく大切だというのを、近代の科学、医学は証明し始めています。

 ところでみなさんの中で、「私は盲腸をすでに取ってしまった!」という方、スイッチオン!
 結構おられますね。私が小さい頃、知り合いのおばちゃんが、帝王切開で赤ちゃんを産んだ時、「盲腸もついでに取っておきました。」と医者に言われたと聞きました。勝手に取るな、という感じですが、こんなの必要ないと思われて来た盲腸が、近ごろ、大切な臓器であることがわかったのです。盲腸って、進化の痕跡みたいに考えられていたのですが、実は、大切な腸内細菌のポケットらしいのです。
 人間は腸内細菌によって生きています。それで時々、下痢をしたりして、腸内細菌のバランスが崩れるのですが、そうすると、盲腸の中に、ドラえもんのポケットみたいに、腸内細菌の種が仕込まれていて、ぱっと不足した分を補給するらしいのです。それで、バランスが取れるらしいのです。
 取っちゃった方々は、免疫機能が落ちるらしいです。残念でしたね。しかし祈りでカバーできるはずです。

 ということは、今まではなくてもいいなんて言われていた場所が、必要であることが分かって来たのです。
 教会も同じです。「私は盲腸みたいなもんです。あってもなくても…。」なんてたまに聞きますが、そういうふうに感じていたならば、その人が、最も重要だと言うことです。
 目立つ所はあまり関係ないのです。目立っているのって誰ですか?私かもしれないな…という感じですが、こんなのは重要でないのです。見えない所が、最も重要で、そこが神の国の重要なポジションを握っているのです。
 今日、みなさんの中で、価値がないとか、弱いという意識を持っている方がおられたら、おめでとうございます!あなたが一番重要なお方です。この教会も、見えない方々の祈りによって、支えられているのです。

 何年か前のことですが、ある方が私の所に来て、「この頃、祈れなくなったので、祈れるように祈ってください。」と言うのです。だから、「そうだね。祈りは必要だよ!ところで、祈れなくなったって言ったけど、一日どのくらい祈っているの?」と聞くと、「昔は十二時間位は祈っていたけれど、近頃は三時間しか祈れなくなりました。」と言われてびっくりしました。そういう方もおられるんですね。
 あんまり人目には付かないけれど、一日中、体の不調があったりして、外に出ることができないので、密室で祈って教会を支えていたのです。
 ですから、「私は歳を取ったから、なんの役割もありません。」なんて、絶対に言ってはいけません。全員、神の前に召される直前まで、地上では役割があります。
 地上から出ていって、死後の世界に行っても、とりなし手となって、祈る役割があります。この教会から天に召された方々、多いですが、その方々、皆真剣に、この教会のために祈っているのではないかと思います。
 そして、一人一人に重要な役割が与えられているわけです。

 実は先々週、召天式がありました。皆さんは知らない方だと思うのですが、Mさんと言う七十二歳の方でした。
 彼はビジネスマンで、世界を飛び回っていた方です。四年前に病が発見されて、発見された時には、余命四ヶ月と宣告されました。ご家族はクリスチャンで、その方はクリスチャンではなかったのですが、そのことを通して、主を信じて、自宅で洗礼を受けられました。
 なかなか、教会には来られなかったけれど、影で一生懸命、祈ってくださいました。
 その結果、奇跡が起きました。四ヶ月しかないと宣告された命が、四年間、長らえたのです。本編の病には勝利したのではないかという感じでした。
 しかし先日、天に召されました。教会には来られませんでしたが、病床で彼が祈った祈りが、私たちを支えたのではないかと思います。
 召天式は会社関係の方々が多く来られました。豊橋で行われたのですが、大企業の方々が前夜式には、三百名近く来られました。こちらから伺わせていただいたのは、うちのスタッフ数名と、牧師は私と雅也先生の二人でした。めちゃくちゃアウェイな召天式でした。

 ちょっと話は変わるのですが、今日、午後から「霊的戦いセミナー」を行います。是非、ご出席下さい。今日の午後のテーマは、「日本の未来のために祈ろう!」というのと、「空気を勝ち取れ!」という二つのテーマです。
 今は、日本の未来のために祈りの時です。私は二月の十二日に、国会に祈りのために行きました。あの時、国会のある場所で、ある人が座る椅子に手を置いて祈りました。「森友問題、闇に葬られたなぁ」と思いました。それで、なんとかならないものかなぁと思って、「主よ、なんとか働いてください・・・。」と祈りました。
 私たちの祈りが聞かれたのか、みんなの祈りの結晶で、今すごいことになっています。三月二日に朝日新聞が文書書き換えをスクープして、大変な問題になっています。
 この問題を、ただの忖度問題だと考えていけません。これは三権分立という、民主主義の根幹に関わる問題です。
 二月にその事を、霊的戦い専門課程でお話ししました。日本の権力の中心がどこにあるかというと、三権分立ですから、立法府にあり、司法府にあり、また行政にあり、互いに干渉して、バランスを保っていると言われます。しかし実際には、権力の中枢は、財務省にあります。今の問題の中心は、財務省でしょう。これは本当に、祈らなければなりません。やっぱり問題の根源は経済なのです。
 だから午後から集まって、日本の未来のために祈りたいと思います。

 もう一つは、「空気を勝ち取れ!」というテーマです。二月に霊的戦い専門課程があって、すぐ続いて三月度が迫っていて、「テーマがないな・・・。困ったなぁ。」と思って、良いネタがないものかと考えていました。
 そうしたら、ある日の明け方に夢を見ました。夢の中で、「三月は何をやったらいいのかな・・・」と、うめいている夢でした。ついに、うなされるようになっちまったか!と思ったら、誰かが、「空気を勝ち取る祈りをしないと駄目だよ!」と言いました。「えっ!?空気を勝ち取る祈り?なんのことかな?」と思いました。
 だいたい夢は、すぐに忘れるのです。私もその日、朝そんな夢を見たのですが、たぶん忘れると思っていたのですが、一日中、忘れませんでした。
 空気がなければ、そもそも、生きていくことはできません。そして、空気がなければ、言葉も通じません。空気の振動があるから、言葉も通じるし、賛美も、み言葉の宣言も、空気がなかったら全く成り立ちません。

 そして、日本人は、空気で生きているというのです。山本七平という作家がいるのですが、彼はなかなか面白い視点を持っていて、「空気の研究」という本を書いています。
 昨日の夜、彼のことをイーテレでやっていたらしいのです。山本は、『日本人は、「特有の臨在感的把握」という、「物体に何かが宿っているように感じるアニミズム的な世界観」で支配されている』と主張しています。これが空気感だというのです。

 どうでしょうか。「今日の空気は重かったな。」とか、別に気圧が変わっているわけではないですが、そう感じるでしょう。
 午後からやりますが、空気に関する用語っていっぱいあります。「雰囲気が悪い」だとか、「重々しい」だとか、「張り詰めた、ピリピリした空気」って、人は空気感で生きているわけです。空気がなかったら飛行機も飛びませんが、それだけでなく、人間関係も支配されるわけです。これは重要な霊的戦いの領域です。

 私はMさんの召天式の前日、ふっと、その事を主から語られました。一般的にアウェイな葬式だと、その場の空気に飲まれやすいです。キリスト教的な世界観が全くない人たちの前で、聖書からのメッセージを語り、賛美歌を知らない人たちの中で賛美するわけです。
 Mさんの召天式は、クリスチャンは少数で、三百人も黒い服を着たおじさんたちの中で、賛美をリードは雅也先生、司会とメッセージは私でした。そして歌われた賛美が、ザワメキみたいな簡単な歌ではなく、聖歌・賛美歌の世界でした。
 どうなるかなと思いました。しかし主が、「空気を勝ち取れ!」と語られたので、「葬儀場の空気を勝ち取ります!」と宣言して、出かけて行きました。
 すると私は葬儀場で不思議な体験をしました。参列者の面前で、私と雅也先生しか賛美していなかったのですが、天上から賛美の歌声が聞こえました。優秀な聖歌隊が共に歌っているような響きが聞こえました。あれ?聖歌隊のCDがかかっているのかな?と思うくらいでした。
 私はメッセージを語らせていただいたのですが、全くアウェイ感がなく、鋭く切り込むことができ、皆さん、真剣に聞いて下さいました。これは空気にちょっと勝利したかなという感じでした。午後から詳しくお話しさせていただきます。

 ちょっとしたところ、あまり重要じゃないと考えているところが、悪魔に奪われているポイントかも知れません。そのために、人生がうまくいかないって、結構多いのではないかと思います。
 まさに悪魔は、「私には何の力もないから関係ありません。」みたいに思わせて、実際は、そこが盲腸のような、ドラえもんのポケットのような、なくてはならない器官であったりするのです。その器官がなかったら、キリストのからだ全体が機能しない事が多いのかも知れません。その器官がなければ、頭なるイエス様も、その器官からの情報が得られない為に、神の国を前進させることができないでおられるのかも知れません。
 ですから教会に集うことは、ただごとではありません。年代を越えて、背景を越えて、それぞれがキリストのからだに属する各器官ですから、強い、弱いというのは、人間側の視点で、弱いと見えるような器官が、かえってなくてはならない重要な器官であるのです。

 以前にも、この例話を使わせていただいたのですが、この頃、この例話を語ってもあんまりピンと来ないのですが、こんなお話です。これは実話だそうです。

 『その子は産まれながら知的障害者でした。幼稚園は付近の子どもたちと一緒に通っていましたが、小学校にあがるとちょくちょく、学校を休むようになりました。一年生が終わる頃には、全く学校に行かなくなってしまったそうです。二年生になっても、三年生になっても、その子は学校に行こうとはしませんでした。
 そして四年生にあがる頃、父親と母親が話し合って、養護学校に預けることにしました。養護学校には寮のようなものがあり、家に帰ることはできませんでした。四年生で入ったその子は、一年生の学習から始めなければなりませんでした。専門の先生が、主要教科を一対一で丁寧に教えていきました。その日に習った新しいことを、毎日毎日、その子は母親に電話で報告していました。ほんの少しずつではありましたが、一年間でその子はたくさんのことを学び、覚えていきました。
 ある日のことです。その子をずっと教えていた先生が、算数を教えようとして、お金の問題を出しました。「ここに五百円玉、百円玉、十円玉、三つのお金があります。どのお金が一番大きなお金ですか?」と、その子に質問しました。するとその子が、「十円玉」と答えるのです。先生は、「五百円なのよ。」と教えていましたが、同じ問題をくり返しても、どうしてもその子は「十円玉。」と答えてしまうのです。
 何度くり返しても、やはり答えは十円玉だったので、先生は、「五百円玉と、百円玉と、十円玉では、五百円玉が一番たくさんのものが買えるのよ。だから一番大きいのは五百円玉でしょ!」と言うのですが、その子はどうしても、「違う。十円玉だ。」と言うので、先生は「それじゃぁ、十円玉のほうが大きいと思うわけを言ってごらん。」と言ったそうです。
 するとその子は、「十円玉は電話ができるお金。電話をすると、お母さんの声が聞けるの。」と話したそうです。』

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 近頃の若者達には分からないかもしれませんが、昔は、十円玉専用の電話機がありました。「私はこれを使ったことがある!」という人、スイッチオン!やはり、半分くらいですね。その他の人たちは使ったことないんですか!十円玉がなければ、電話をすることができませんでした。
 案外私たちは、この人は五百円、この人は百円、この人は十円なんて、表面的に評価してしまうのですが、この子にとって十円玉はなくてはならない、大切なお金だったのです。なぜなら、十円玉を持っていれば、大好きなお母さんに、いつでも連絡を取れるからでした。

 私たちも同じです。人から見たら私はいくらかな?と評価を気にする時があります。入学試験は、五百円、百円、十円、五円、一円、なんて、価値が決まってしまうような面がありますが、神様は、絶対にそのように評価されないのです。
 その子の手の中に十円玉は、かけがえのない、なくてはならないものとして握りしめられていたように、イエス様は、みなさんをかけがえのない、唯一の存在として、握りしめておられるのです。ですから、世間の評価を気にしてはいけないですね。

 新城教会には授産所から毎週、来てくれるみなさんがおられます。彼らは不自由の中で生活されています。身体的にも不自由さを持っておられます。しかし彼らは、神の目から見たら、最も重要な存在だと思います。
 私たちは、この世の価値観に支配されていますから、強いものに価値がある!と洗脳されていますが、その考えに洗脳されてはいけません。
 聖書は弱い所に重要なポイントがある!と教えています。私はこの世界観が教育の中で述べられるようになったら、日本は絶対に変わると思います。

 実はイエス様が地上で過ごしておられた時代、イエス様と律法学者、パリサイとか、サドカイ派の人たちと、激しい戦いがありました。
 当時の律法学者たちの持っていた神学は、経済的に豊かならば、イコール神の祝福を受けている証拠だと考えていました。
 それで、彼らが最も愛していたのは、金でした。

 ルカの福音書十六章を見ると、イエス様は経済について話されています。それは、「神と富に同時に仕えることができない」と語られました。その次に述べられているのは、十四節、

『さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。』

と述べられています。
 イエス様の最大の敵は、誰であったのかというと、パリサイ人と呼ばれる、当時の宗教家たちでした。
 彼らは何が好きだったかというと、金が大好きだったのです。
 そして、続いて述べられているのが、「ラザロと金持ちの話」です。誰が天国に行き、誰が地獄に行ったのかが述べられています。

 経済中心の世界に生きていると、知らないうちに、金を中心として生きる社会に組み込まれますから、「強いものに価値がある」という価値観に洗脳されやすいのです。
 当時、パリサイ人たちは、どういう考え方を持っていたかというと、富んでいて、強い事は、神の祝福を受けている証拠だ、貧乏人とか、病人は、神に見捨てられた人たちだと考えて、弱い人たちは軽蔑の対象だったのです。

 案外、日本人も、口にははっきり出さないけれど、そういう面があると思います。強く見える人には価値があり、弱く、問題がある人は価値のないように見るのです。その考えはどこから発生するのかと言えば、経済中心の考え方から発生し、その価値観がコピーされてしまうのです。
 活動が物々交換のような、近代的な貨幣システムなんか全く関係のない、山の中のチェパン族の人たちは弱く見えますけれど、最も大事な人たちです。

 パリサイ人たちに対してイエス様は、彼らの考え方に真っ向から対抗する言葉を語られました。それが有名な山上の垂訓です。マタイの福音書五章一節〜四節、

『この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。』

 パリサイ人たちは、「貧しい人」とか「悲しんでいる人」は、神から見捨てられた人たちのように考え、差別していました。
 しかしイエス様は、貧しい人が神の国を受け継ぐと語っているのです。悲しんでいる人たちは慰められると語られました。本物の慰めは、神の国の慰めです。弱い所に重要なポイントがあることを、イエス様ご自身が語られたのです。

 その概念は、「教会」という、永遠の存在の中に集約され、そこで力を発揮するのです。私たちは、「教会」という組織の中にいますが、これは愛によって成り立つ組織であって、からだ全体で神の栄光を現すために存在しているのです。
 霊的戦いは、キリストの体全体の戦いです。「キリストのからだという組織」対「悪魔の組織」との勝負です。そして、私たちは悪魔の組織に、圧倒的に勝利するのです。

 今回私たちは、ネパールに行かせていただきますが、これをキリストのからだの戦いと位置付けて、この戦いに全員参加し、圧倒的に勝利させていただきたいと思います。
 その時に何が起こるのか。愛によって結ばれて、敵に立ち向かうと何が起こるのか、詩篇百三篇、

『主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。』

 実に、詩篇百三篇のみ言葉は、教会に語られているみ言葉として理解できます。お一人一人が、キリストのからだに属する各器官であり、頭はイエス様です。同時に、私たちにも、イエス様と同じように、聖霊によって脳のような機能が備えられていて、お互いがコミュニケーションしながら、頭にもつながり、からだ全体が組織的に、暗闇の世界に立ち向うのです。今回はそのことを深く意識して、ネパール宣教にあたっていきたいと願います。

 ネパール宣教を通し、キリストのからだの勝利が、新城教会に現されると私は信じています。
 それぞれに、課せられた役割を果たしていく時、大きな勝利が現されます。
 今回は、何か大きなことが動くのではないかと思っています。

 今、世界も動いています。今まで敵同士の二人が、会って話し合いをするというわけです。
 私から言わせれば、元々お友達だったんだろうなと思うのですが、信じられないです。戦争の一歩手前が、「一緒にお話ししましょう。」となっているわけです。
 私たちは韓国の教会と一つとなって、先日も北朝鮮と南のボーダーに行って、祈って来ました。その働きは小さく見えるかもしれないけれど、キリストのからだの中のとりなしの祈りはすごいパワーだと感じでいます。近頃、祈っていることが本当に実現していくから、ちょっと怖いです。これから何が起こるのかなって。

 さらに一つとなって出て行く時に、今まで見たことも、聞いたことも、思いに浮かんだこともないようなことが起きると思います!教会の中に、今までなかったような奇跡が現わされると心から信じています。
 最後にみなさんと一緒に、キリストのからだの各器官であることを意識して、聖餐式に預かりたいと思います。お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝いたします。私たちはキリストのからだに属する各器官であることを心から感謝します。この中に流れている愛は、永遠に続くものであることを感謝します。
 今、主がこの世界にしたいと願っておられる事柄を、教会を通して成し遂げてください。一人一人に、主から与えられている使命を、果たすことができますように。
 聖餐式を通して、キリストのからだに属していることを宣言します。強く見える器官も、弱く見えるような器官も、等しく、さらには、弱く見える中に重要な使命があること信じます。
 今、ここに備えられたパンとぶどうのジュース、み言葉と聖霊によって、イエス様、あなたと一つになる機会とさせてください。尊いイエス様の御名を通して、祈りをおささげいたします。アーメン。