「万物の終わりが近づきました」

2018年4月1(日)
新城教会牧師 上條実
第一ペテロ4章7節~8節

『万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。』

 ハレルヤ!今日もこうしてみなさんとともに生ける神のみことばを学ぶことができますことを心から感謝します。
 お祈りしていただいておりますネパールツアーも終盤にさしかかりました。今日はチトワンという所からカトマンズという所まで、バスで移動し、明日の月曜日はスワヤンブナートというところなどに出かけてとりなしの祈りをし、夕方の便で帰国の途に着きます。そして火曜日のお昼頃には名古屋の空港に到着する予定です。最後まで守られるようにお祈り下さい。ではネパール宣教旅行のチームから送られて来ました写真の一部をご一緒に見たいと思います。

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 来週聖日の午後は、ネパール宣教報告会が行われます。参加された方々のお証や、動画、画像を見せて下さる事になっています。是非来週の聖日は午後まで残って頂き、報告を伺いたいと思います。今回のネパール宣教ツアーに、ある方のご厚意によって、我が家の恵太も行かせていただくことができました。彼にとっては初めての海外旅行となります。今回のネパール旅行において、彼が良き成長の時となります様にお祈り頂ければ幸いです。

 そして今日は早いもので四月一日になります。今日から二〇一八年度が始まります。今朝私の所にある方から「今から会社の研修に出かけて行きます。お祈り下さい。」というメールが来ました。学校を卒業し、新社会人になられた方からでした。ぜひ新しい環境に飛び込んでいく兄姉の為にお祈り下さい。ある方は小学校、中学校、高校、大学と新しい学校にご入学された方もおられると思います。新しい環境の中に飛び込み、新しい生活を送ると言うことは、大変なことです。ぜひ守りと祝福があるようにお祈りください。神があなたに「あなたここに行きなさい。」と送り出して下さった学校であり、会社です。あなたはその場所でイエスさまの勝利を取り、主の名が誉め称えられる様にとその場所に導いて下さいました。ぜひ新しい環境となる兄姉の守りと勝利のためにとりなし、お祈り下さい。

 また今日、四月一日は二〇一八年の復活祭の日です。復活祭とはイエス・キリストが十字架にかかり、葬られ、三日目に甦られましたが、そのよみがえりの日、復活を祝う日です。毎年日にちが変わります。「春分の日後の、最初の満月の、次の日曜日」その日が復活祭となります。皆さんの中で昨夜、月を見られた方がありますか?昨日が満月でした。その満月の次の日曜日が復活祭となります。まさに今日がその復活祭になります。インターナショナルの方々は今日午後四時から復活祭礼拝となります。その為にお祈り下さい。私たちの復活祭礼拝は、ネパール宣教旅行のため、今年は変更して、再来週の四月十五日に行う予定です。十五日の朝、九時半から召天記念会を行ないます。そしてその後十時半より特別礼拝、そして昼食はゴスペルランチとなっています。新しい方々のための伝道礼拝となりますので、是非お友達をお誘いください。

 また週報に掲載されていますが、先週の金曜日、設楽町津具に住んでおられる、M姉の召天式がありました。家族親族の意向で、身内だけの召天式をするという事でしたので、皆様にはお伝えする事はしませんでした。M姉は滝元明牧師のお兄さんの奥様になります。九十一歳でした。数年前洗礼も受けられ、元気な頃は北設楽郡設楽町津具から、バスを乗り継いで礼拝に来られていました。滝元明牧師の兄さんは現在九十二才です。是非彼のために覚えてお祈りください。明牧師も何回か、イエスキリストを受け入れるお祈りをしていましたが、今回も斎場においてもう一度イエス様を受け入れる祈りをする事ができました。お年もお年ですので守られる様にお祈り下さい。

 さて先ほどお読み頂いたみ言葉から今日は学んで行きたいと思います。第一ペテロ四章七節、

『万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。』

 皆さんにとっては記憶に新しい事だと思いますが、去年は「世の終わり」だなぁと思う出来事がありました。私たちは今まで大きい地震時に鳴るアラーム「緊急地震速報」が鳴ったりすると、すごくビックリし、緊張しました。アラームが鳴ったらすぐに火を消し、机の下に潜ったりして身の安全を確保しました。二〇一一年の東日本大震災後、私たちは何度かアラーム音を聞きました。しかし昨年は新しい緊急アラームを聞くこととなりました。それはJアラート、正式名称は「全国瞬時警報システム」というアラーム音です。私たちの住んでいます愛知県ではそのアラーム音は鳴りませんでしたが、新たなアラーム音にビックリというか、恐怖を覚えました。八月二十九日午前五時五十七分ごろ、、「Jアラート」アラームが北海道から長野までの12道県という広い範囲に出されました。NHKのテレビでは速報の画面が表示され、対象となった道県では自治体の防災無線から「国民保護サイレン」が鳴り響き、それぞれの携帯電話にはエリアメールや緊急速報が配信されました。これを受けて東北、上越、北陸の各新幹線や在来線が一時運転を見合わせました。緊急速報は、発射4分後の午前6時2分に、「頑丈な建物や地下への避難」を呼びかけ、そしてミサイル通過が判明した午前6時14分には、「不審なものを見かけても、決して近寄らないように」とする内容が配信されました。
 その後各自治体で、北朝鮮がミサイルを発射したと言うことで、Jアラートが鳴るという想定で、避難訓練を実施していました。日本に落ちるかもしれないという危機感、恐怖、核戦争が現実に始まるのではないかという、緊張感を覚えました。誰もが世の終わりを感じる時ではなかったかと思います。先週は北朝鮮のトップである金正恩が、中国に電撃訪問し、中国の習近平国家主席と会談したというニュースが報道されました。また今度は近々アメリカのトランプ大統領と北朝鮮のトップである金正恩とが会談すると言われています。また韓国の大統領である文在寅とも会談する。という報道がなされ、平和の兆しが見えてきたとも報道されています。しかし一つ間違えたら、核ボタンが押されてしまう可能性もあります。今の世界情勢は本当に危ない状況にあると思います。そんなことを考えつつ先ほど読んだみことば、Ⅰペテロ四章七節

『万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。』

というみことばは、とても身に染みるみことばです。私たちは祈りのために、心を整え身を慎む必要があります。しかしもう既に昨年良く耳にした、北朝鮮のミサイル問題も私たちの記憶から消えてしまいそうな感じがします。Jアラートや当時よく耳にした「大陸間弾道ミサイルICBM」なども、少し間があき、オリンピックなどがあったりすると、危機感がなくなり、また平和ボケになってしまいます。

また東日本大震災時に起きた地震と津波の被害。津波は多くの物を飲み込み、死亡者も大勢いました。その後、地震や津波の対策をしなくてはいけないと、私たちは備えました。しかし今はあのときのような危機感はありません。この地域に大きな地震が来ると報道されているにもかかわらず、自分の生活、快楽、楽しみを求め、危機感なしになってしまっています。先ほどの第一ペテロ四章七節を、今度はリビングバイブルで読んで見ましょう、

『世の終わりが近づいています。ですから、真剣で、分別のある、祈りの人となりなさい。』

世の終わりが近づいた。だから真剣で、分別のある、祈りの人となりなさいと語られています。「分別のある祈りの人」と言う所を読んで、私たちの教会に、主が「霊的戦いの祈り」を開いて下さった事に感謝を覚えました。霊的戦いの祈りは「分別の祈り」だなあと強く信じます。目に見えるものだけを見るのではなく、背後にいる、目には見えない悪霊、悪魔どもに対して祈らなかったらいけないと理解できていること、それが分別のある祈りだと思います。霊的戦いをして来なかったら、こんな祈りは絶対にしないだろうなぁ?と注目していなかった祈りが沢山あります。『わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。』内臓も一緒に主をほめたたえなさい!というメッセージを聞きました。また腸内細菌などなど霊的戦いでなければ知らなかったら、祈らない祈りの課題が沢山あります。霊的戦いを知らなかったらうわべだけの問題を祈る。自己実現の祈りが中心で、分別のある祈りはなかなか出来なかったと思います。部屋に臭いにおいが充満したら、そのにおいだけをのぞくために、窓を開けて、換気して終わりという祈りしかしなかったと思います。しかし霊的戦いを知ることにより、その臭いにおいの原因がどこにあるかを知り、その臭いにおいの元を取り出し、捨てる。そうすればその後そのような悪臭から解放される。それが霊的戦いの祈りです。

 今回、「万物の終わりが近づきました。」と聖書を読んだ時に、もう一度、自分をひきしめて、更に分別のある祈りをしなくてはいけないと祈らされました。しかしそのすぐ後の第一ペテロ四章八節には
 
『何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。』

 世の終わりが近づいていた。だから私たちは、緊張感を持って私たちは何をしていく必要があるのだろうと思いつつ読み続けると、八節「互いに熱心に合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」とありました。私は正直、少し違和感を覚えました。万物の終わりが近づいたという緊迫した後になぜ熱心に愛し合いなさい?万物の終わりが近づいたのなら、自分ではみことばの剣を持てとか、守りを強固にしなさいとか?イメージ的には軍服でも着て、核シェルターを用意しなさいだとか、避難経路を考えなさいとか、戦うためのことばが書かれてあるのかと思いました。しかし聖書には「互いに熱心に愛し合いなさい」でした。

 「互いに熱心に愛し合いなさい」と読んだ時、一つのみ言葉を思い出しました。それはルカ十章二十五節~二十八節のみ言葉です。

『 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」』

 ここではまず隣人に対して学びたいと思います。私の隣人としてすぐに思うのは、私の家内の事でした。一九八一年、昭和五十六年四月二十九日に私たち夫婦は結婚しました。今年で三十七年目になります。この会堂ができた翌年、この会堂で結婚式を挙げました。皆さんも良くご存じであると思いますが、教会で行う結婚式では、「誓約」と言うプログラムがあります。司式者がこのような文章を読み上げ、誓約するかどうかを二人に質問します。それは

※誓約文
「○○さん。あなたは△△さんと結婚し、妻(夫)としようとしています。 あなたは、この結婚を神の導きによるものだと受け取り、その教えに従って、 夫(妻)としての分を果たし、常に妻(夫)を愛し、敬い、慰め、助けて、 変わることなく、その健やかなるときも、病めるときも、富めるときも、貧しきときも、死が二人を分かつときまで、命の灯の続く限り、あなたの妻(夫)に対して、堅く節操を守ることを約束しますか?」

 私たち夫婦も「はい、約束します。」と神と人の前に約束をし、夫婦となる宣言をしました。

この誓約の中で、「病めるときも、富めるときも、貧しきときも、死が二人を分かつときまで、命の灯の続く限り、」とあります。私たち夫婦も「堅く節操を守りまもることを約束しますか?」との質問に「約束します」と夫婦共々誓いました。それから三十七年後、家内が病になり、体が動きにくい時があり、私が介護というか、助けなければいけない事態が起こりました。薬が効いていない早朝は、動きが良くなく、トイレや着替えなどでも手伝う時があります。愛し合って結婚した二人であり、誓約の時、約束しますと宣言した二人ですが、家内のお世話をしなければならない時、自分の身支度ができなかったり、ちょっとしたことで、イラだってしまう自分があります。健やかなるときも、病めるときも、富めるときも、貧しきときも、死が二人を分かつときまで、命の灯の続く限り、あなたの妻(夫)に対して、堅く節操を守ることを約束しますか?という誓約をしているにも関わらず、「何で、こんな事ができないの?」とか彼女に対していやなことばを出して傷つけてしまったり、怒ってしまうのです。自己中心的な思いで、家内に対していらだったり、言葉に出してはいけないことばを出してしまったり、本当に申し訳ないと悔い改めさせられました。

 今日みなさんの隣人はどなたですか?ある方はご主人であったり、ある方は奧様であったり、ある方は友人であったり、また様々な形である国であったり、民族が隣人であったりしています。

ルカ十章三十三節〜三十七節には、

『ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』

とあります。この箇所は神に仕える人である、祭司やレビ人が傷ついて倒れている人と出会い、しかし反対側を通って何もせずに通り過ぎて行きました。その後ユダヤ人と敵対し、絶交状態となっているサマリヤ人が通り、彼はかわいそうに思い、すぐさま傷ついた彼にオリーブ油とぶどう酒で介抱してあげ、その上家畜に乗せて、宿屋にまで連れて行き、介抱してあげた。そして次の朝、宿屋の主人に頼んで「彼を介抱してください。戻って来た時、金が足りなかったら私が払いますから。」と宿屋の主人に依頼して出て行った。さてそのサマリヤ人にとって、何かメリットがあったでしょうか?メリットはありません。しかし愛がありました。サマリヤ人は倒れて、傷ついている人に対して、愛を精一杯注いだのです。イエス様はその話しをして、「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか?」と問いました。その時「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われました。「あなたも行って同じようにしなさい。」』と言われました。「あなたも行って同じようにしなさい。」と。先ほど読みました第一ペテロ四章八節、

『何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。』

とありますが、隣人が「互いに熱心に愛し合う」対象です。私も好きで結婚した家内に対して、愛していると思っていても、イラだってしまい、「そんな事、自分でやってよ。」と怒ってしまい、傷つけてしますことばを発してしまっています。私は愛している家内に対してそんな状況であれば、ましてや、敵対している人に対して愛を持って行動できるだろうかと思います。しかしみことばは「あなたも行って同じようにしなさい。」と言われています。「あなたも行って同じようにしなさい。」これが神様の命令です。あなたは隣人を愛していますか?

 もし自分の嫌いな人などが、苦しんだりしている姿を見ると、「あんなことを俺に言ったからだ。」とか、悪い思いが心の中に湧いてくるのです。また助けを必要としている人を見ると「大変ですね。」とか「お祈りしているから」と声をかけはしますが、自分を犠牲にしてまで愛の行動ができるかと思うと、愛の行動ができない自分があります。少しは手伝ってあげても、最後まで愛し続けた良きサマリヤ人のような愛は私にはありません。
しかし今日主に触れて頂き、隣人に対して、世の終わり、万物の終わりが近づいた今、心からの愛を注ぐことのできる人にかえて頂きたいと思います。

 夫婦関係だけでなく、親子関係の中でも熱く愛し合う事が必要です。愛を込めて一生懸命育ててくれた親に対し、成長してくると「うるさいばばあ、じじい」や「ばかじゃないか!」と、子どもは親を馬鹿にします。また友人に対しても、愛のない言葉を語ってしまいます。学生の方々、今度はどんなクラスになるかと思っておられる方がいるかも知れません。ある方は、「良いクラスになるように祈ってください。」と言ってお祈りする事もあります。隣人を愛するということは、クラスメイトのために、いじめをしている友や、いじめられている友のために、愛して祈って、愛の行動を、犠牲的の愛をしめして行く事が必要です。しかしいじめを自らしたり、見て見ないふりをする祭司やレビ人と同じような自分ではありませんか?あなたは愛を注いでいますか?あなたの学校の先生のために、またあなたの住んでいる地域のために愛し祈り始めたら、クラスや学校、地域も変わってくると思います。
 会社もそうだと思います。上に立つ人のために祈りなさいとありますが、上司がきついこと言ったり、会社がきつくて、休みも少ない。休めない。そんな不満の中、上司や会社を批判したり、していませんか?労働条件の不平不満を言ったり、金銭面での不平不満。会社が悪い。あの人が悪いと人を責めたりしていませんか?あなたはどれだけ会社のために祈っていますか?上司の為に、同僚のために祈っていますか?犠牲的愛で愛していますか?神がここに行きなさいと導いて下さった会社、学校、住居です。神があなたを遣わして、「隣人を愛しなさい。」「あなたも行って同じように行いなさい。」と言っています。み言葉を受け止めて、まずはできる所から実行する者になりたいと思います。今までやって来なかった事一つ、愛を込めて、実行してみてください。

 また第一コリント十三章は愛について書かれてある有名なみ言葉です。四節〜五節を、リビングバイブルで読んでみたいと思います。

『愛はきわめて忍耐強く、親切です。 愛は決してねたみません。 また、決して自慢せず、高慢になりません。決して思い上がらず、自分の利益を求めず、無礼なふるまいをしません。 愛は自分のやり方を押し通そうとはしません。 また、いらいらせず、腹を立てません。 人に恨みをいだかず、人から悪いことをされても、気にしません。』

 このリビングバイブルは、具体的に分かり易く書かれてあるので良く理解できると思います。世の終わりが近づいているこの時、熱く愛し合いなさいというみことばですから、今日主に求めましょう。愛を行う器、熱く愛し合えるように、祈ることができるように、自分を犠牲にしてでも愛を実践できる人となれるように、祈っていきたいと思います。今日、隣人をしっかりと愛していきましょう。

 そして最後にもう一つ、大切な事を学ばなくてはいけません。それは心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛する事です。熱く神を愛していかなければいけません。今日は復活祭です。私は先週十字架について意識しながら、聖書を読み生活しました。週の後半は特にイエス様が十字架上で語られた七つのことばを意識して学びました。七つの語られた言葉の一つは、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でわからずにいるのです。」ルカ二十三章三十四節です。イエス様は、「十字架につけろ!」と罵倒されて、かかる必要がなかったのにも関わらず、私たちのために十字架にかかってくださいました。そして十字架上で苦しみを受けながらも、悪口を言う人に対して、赦してあげてくださいと、とりなし、赦しを願っています。

 二つ目、「まことにあなたに告げます。あなたはきょうわたしとともにパラダイスにいます。」これはイエス様と一緒に十字架にかかった強盗に対して語った言葉です。一方の強盗が、「おまえが神だったら、俺を救ってみろ!」と罵倒しました。しかし、もう一人のほうは、「俺たちは悪い罪をしてしまったから罰を受けるのは当然だ。しかしこの方は何の罪もやっていない。」「神様、今日私を覚えてください。」と語りました。その時「きょうわたしとともにパラダイスにいます。」最後の最後でも、隣人を愛し、救いを与えた方です。

 そして三つ目のことば「女の方、そこにあなたの息子がいます。そこにあなたの母がいます。」ひとりぼっちになってしまう、そのマリアたちに対して、ヨハネに向かって、「息子、このマリアと一緒に生活してくれ。」とマリヤなどの生活のことまでも考えてくださる方です。

 そして四つ目「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」苦しみを受けてくれました。語り尽くせないほどの苦しみ、想像する事もできないほどの苦しみをイエス様は私たちのために受けてくれました。

 そして五つ目「わたしは渇く。」そして、六つ目「完了した。」七つ目「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」このような七つの言葉で、イエス様は十字架にかかって、罰を受けてくださり、葬られ、三日目によみがえってくださったのです。

 イエスキリストを信じ受け入れる時私たちは救われます。この十字架の中に救いがあります。今日あなたは神に愛されています。罪をもったままでは天国に行くことはできません。しかし私たちは神の名を呼び求めたのです。ヘブル人への手紙八章十二節に、こんなみ言葉があります。

『なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」』

 神に対して、どんな悪いことをしたとしても、罪を全部赦してくださる方。そして罪をもう思い出すことないと語って下さいました。イエス様は私たちを救うために、ご自分の命を捨ててでも救って下さった神です。しかしどれだけ私たちは神さまに対して、感謝を献げているでしょうか?「こうしてほしい。」と自分の要求ばかりをイエス様に投げつけ、祈りが聞かれないとつぶやく者です。今日ルカ十章二十五節~二十八節

『 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」』

まず第一にイエス様を心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。そしてあなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。隣人を自分自身のように愛しなさい。これが万物の終わりが近づいたときに、神が求めているのは愛し合う事です。互いに熱心に愛し合いなさい。イエス様に対して、熱心に愛しなさい。そしてあなたの隣人を自分自身のように愛する事が大事です。

 神の御名があがめられ、被造物全体が回復されて、大いなるリバイバルをこの地に起こしてくださると信じます。世の終わりの時、熱い愛をもって行きましょう。イエス様は無限の愛をもって私たちを愛して下さっています。イエス様を愛し隣人を愛するものとなりましょう。

 最後にお祈りして、その後聖餐式にしたいと思います。

 愛する天のお父様。今日、主イエス様のみ名によって祈ります。万物の終わりが近づきました。今私に互いに熱く愛し合う事のできるように、私に触れて下さい。私に力を与えて下さい。今日まず救い主である、あなたを熱く愛し合うことができますように。また隣人を自分自身のように愛し合うことができますように。自分自身のように、隣人を愛することができるように助けてください。
 またそれと同時に、無限の愛を持って、十字架にかかってくださったイエス様。あなたを今日心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛することができますように。今から聖餐をいただきます。この聖餐のパンと杯はみ霊によってイエス様の流された血と打たれ、裂かれたあなたの体であると信じます。イエス様、あなたを愛します。隣人を愛します。今日愛を頂く者とさせて下さい。この聖餐を祝福して下さい。主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。