「頭の中、私たちの戦いの場所」

2018年4月22(日)
新城教会牧師 公畑フェルナンド
ローマ人への手紙12章2節

『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』

 ハレルヤ!またこのようにしてみなさんの前でみ言葉を語ることができることを誇りに思います。数ヶ月ごとにこうしてみ言葉を語らせていただきます。しかし、私はインターナショナルの集会で、毎週二回メッセージを語らなければなりません。一つは土曜日の夜の浜松集会、そしてインターナショナルの日曜日の午後の礼拝です。
 みなさんのお祈りを感謝します。いつも私たちのために祈ってくださっていますのでインターナショナル部会も前に進むことができていることをありがとうございます。それではメッセージに移りたいと思います。

 今日のメッセージのタイトルは、頭の中、私たちの戦いの場所です。スペイン語では、『メンテ』という言葉を使います。英語ではそれは「マインド」ですが、日本語だといろいろな言葉に訳すことができます。例えば、「頭の中」、「心」、「精神」と訳すことができます。ですから、私は「メンテ」という一つの言葉しか使いませんが、翻訳でみなさんがよく分かるように、日本語通訳ではそのような言葉を使っていきます。

 私たちの頭の中、考え、思いの中には要塞があります。それは、意識的な思考や無意識的な思考です。意識的な思考とは、自分が分かっている思考です。それが私たちの考え方の傾向であって、良いことだけではないのですが、私たちは何であるかは自分で理解しています。
 問題なのは意識の下に埋もれている思考であり、私たちもその存在に気付いていないのです。しかしそれは私たちの振る舞いを支配するものです。
 その思考、考え方というのは、人生の中で受けた悪い体験の結果なのです。例えば心の傷であったり、トラウマであったり、肉体的暴力を受けたことや、言葉の暴力や性的暴力を受けたことなどから来ます。また育児放棄をされた経験や、離婚の経験や、不貞をされたりとか、背信行為を受けた経験などから来ます。このような経験をすると、恨みや、恐れや、不安な気持ちや、コンプレックスや猜疑心、また不信感を生みます。
 このような頭の中、思い中の要塞というのは、悪魔のウソを私たちが信じるときに形造られるのです。例えば私たちの考え方に悪魔が入れてくる、神様に関するウソや、私たち自身について、そして他人に対するウソであったりします。敵が私たちの頭の中に、そのようなウソを入れてくるとき、私たちの思考を新しくすることはとても難しいことです。ですから、悪魔のウソを信じないようにするために、私たちは毎日真理の帯を締めなければなりません。それは神様が信じる者たちに与えてくださった武具の一部です。

 私たちの頭の中、思考、思いというのは戦いの場所であって、私たちを支配しようとして敵が用いる場所です。敵は私たちの思考を支配すれば、私たちの全てを支配できると知っているのです。そしてそれは、多くのクリスチャンが知らないことでもあります。知らないので敵が頭の中にいろいろな考え方を入れてくるのを許してしまうのです。頭に入れてくるその仕方がとても巧妙なので、それが自分の思いだと信じてしまうのです。さらにそれが神様の意見であるかのように考えてしまうこともあります。
 それは聖書が言うように、私たちをだまそうとして悪魔は光の天使のふりをするからです。

 さらに聖書はこうも教えています。敵はクリスチャンにも、ある考えを入れて、その人に神様の御心とは反対のことをさせようとします。いろいろな例を出したいと思いますが、まずはダビデの例です。第一歴代誌二十一章一節、

『ここに、サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。』

 ここではダビデについて書かれています。ダビデは神の心にかなう人でした。悪魔はダビデが神の御心の反対のことをするようにさせました。もし敵がこのことをダビデにしたなら、当然、私たちにもしてくるでしょう。

 他の事例はユダです。ヨハネの福音書十三章二節、

『夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、』

 三年間ユダはイエス様と一緒に過ごしました。そして、その奇跡を見ました。説教も聞きました。イエス様と親密な間柄でした。それでも彼はイエス様を裏切ったのです。なぜでしょうか?それは悪魔が彼にそうするようにそそのかしたからです。ある考え、または思いをユダの中に入れました。欲望、憎しみ、恨みなどを心に入れたのです。
 同じようなことがペテロにも起こりました。それでイエス様はペテロに言われました。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ十六章二十三節)

 また他の事例が使徒の働き五章三節にもあります。

『そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。』

 これらの聖書個所から、敵が私たちの頭の中に考えや思いを入れることができることを示しています。しかしもっとはっきりした例はイエス様の例です。イエス様とは、人となられた神であり、神の御子であります。イエス様も悪魔に試みられたということを聖書は示しています。試み、誘惑とは頭の中、思いの中で起こることです。
 聖書によると、悪魔はイエス様を高い山の頂に連れて行き、この世の全ての国々を見せました。それをどうやったのでしょうか?スーパーマンやスパイダーマンのようにイエス様をそこに連れて行ったのでしょうか?そうではありません。これは頭の中に起きたことなのです。もし神であるイエス様でさえも、敵によって頭の中にそのような思いを入れられたとしたら、私たちにはもっとあるのではないでしょうか。ではそのような考えに対して私たちはどうすればいいのでしょうか?
 敵は私たちを支配するために一レギオンの悪霊を送らなくてもいいのです。ただ、私たちの頭の中に一つの考えを入れれば、それだけで済むのです。また私たちの中にすでに存在する考え方を利用すればよいのです。ですからその考え方を特定することは、とても重要なことなのです。

 まず、私たちは心の中にイエス様を救い主として向かえ入れることができます。しかし私たちの頭の中、考えや思いというのは育てられた環境に影響を受けています。家庭で身に着いた態度は、頭の中に要塞を築きます。例えば、浮気をする父親を持った息子たちは、男性というのはそのように振る舞うものだと考えます。それが頭の中にある要塞であって、それは父親を見てきた結果です。その一方で、娘たちはすべての男性はそういうものだと考えます。全ての男性は浮気をする、男性は性的なことばかり考えていると思うようになります。
 これは誰の考え方ですか?不貞な父親の子どもたちの考え方です。しかしその考え方は正しいものではありません。自分の妻に不誠実な父親たちもいますが、ここにいる大勢の男性たちが自分の妻に誠実です。
 また不誠実な父親は、嫉妬深い母親を生み出します。そして必ずその娘たちも同じ考え方の要塞を作る結果になります。

 そして二番目に、思考の要塞が形作られるのは、多くの場合、人間の傾向として物事を一般化する時に起こります。例えば、「すべての男性は同じである。」と言います。それは私たちの中に深く根差す考え方で、すべての男性は同じであると信じているのです。しかし奥様方、実は違うのです!

 では他の例を見てみましょう。女性はみな王女様で、すばらしくて、美しい。これは聖霊様によって新しくされた考え方です。でもこの考え方というのは、教会の中だけで聞くことができるものです。
 なぜなら世の中では女性のことを悪く言うのは女性だからです。例えば、女性はみな色気を使うもので、私から夫を奪おうとしている。男性を自分のために利用したいと考えます。しかしそれは正しくはありません。それは一般化した考え方なのです。
 他の例を言いますと、山本家の人間はこうだとか、佐藤家の人間はこうだとか言うとき、それは何を意味しているのでしょう?それは家族は悪いとか、けちな家族であるとか、気難しい家族であるとか、だらしない家族であるとか、嘘つきであるとか、貧乏であるとか、暴力的な家族であるとか、教養がない家族であるとか、堕落した家族であるとか、自分勝手な家族であると一般化しているのです。
 なぜなら「山本家はこうだから。佐藤家はこうだから。」と言っているのです。私たちはそのようなレッテルを貼っているのです。そのような多くの家族の習慣・慣習は私たちが家族についての考え方を一般化することで、皆そうだと思うことで、もたらされます。

 私たちが属している家族の一員として持っている要塞が何であるかを特定することはよいことです。
 私たちが日本人として、ブラジル人として、またはアメリカ人として考える要塞とは何でしょうか?また生まれた町の人間として持っている考え方の要塞とは何でしょうか?
 また過去の悪い体験から作られた要塞があります。例えば、「私は人生の教訓として、他人は信じません。」ということです。誰が言ったのでしょう?聖書は全く反対のことを言っています。「もしあなたが愛しているなら、あなたはその愛する人を信じなくてはいけません。」これは夫婦関係だけのものではなく、神の家族として私たちの関係を見なくてはなりません。
 もし本当に私たちの中に愛があるなら、お互いに信頼しあうべきです。お互いの人生におけるイエス様の働きを信頼しましょう。

 そしてまた他には、なにか良い行いの裏には隠れた意図があるものだ、と言う人がいます。夫が何か妻にプレゼントを買ってくるときには妻はこう言います。「何が欲しいの?」または「何かしたの?」と。夫が少しでも愛を表そうとしているだけなのに、信頼がないことから、彼は二度とプレゼントを持ってこなくなるでしょう。しかしそれは私たちの考え方なのです。良い行いの裏に隠れた意図があると信じているのです。聖書は神様お一人だけが、私たちの行動の裏にある本当の意図をご存知であると教えています。

 また別の、頭の中にある要塞とは苦しみや恨みです。ですから誰かを赦す過程を通った後に、私たちの考え方を新しくすることはとても重要なことです。何時間も考え方を新しくしようと頑張ってみても、他人を赦しても、すべての怒りを取ろうとしても、痛みを捨てても、泣いても、イエス様に人生の一番苦しい時に入ってもらっても、四時間の解放の祈りをしたとしても、心の癒しの祈りをしても、その後に私たちの誰かに対する考え方を変えないなら、意味がないのです。父親に対してとか、夫に対してとか、そういう考え方を変えないならば意味がないのです。

 しかし多くの方は、「でも、どうしたらその人を違う目で見ることができるのですか?」と聞かれるかもしれません。それは神様がその人を見る見方で、同じように私たちもその人を見るようにと、神様は望まれます。もしあなたが自分の考えを変えないなら、その人を許そうとした時間は無駄になります。

 そして、別の要塞は結婚できないと信じていることです。その要塞は、良い結婚の模範を見て育ってこなかった、また良い親になれないと考えることに由来します。また良い父の姿を見てこなかったからかもしれません。

 しかしまた別の要塞には神に逆らう障害物として私たちの思考の中に建てられるものがあります。第二コリント十章五節、

『私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、』

 何が神に逆らう障害物なのでしょうか?例えば「神様は私の祈りを聞かない。」ということです。「神様はほかの人は祝福するけど、私には祝福をしてくれない。」「神様は一度も私と一緒にいてくれない。」「神様は私が人生で一番必要な時に私を見捨てた。」などの思いです。それは真実ではありません。それらはすべて敵があなたの頭に入れた障害物であって神に逆らうものです。私たちはそれを打ち壊す必要があります。

 ときどき私は、女性がこう言うのを聞きます。「夫は私のことを愛してないから。」と。しかし本当にその妻を愛している夫であっても、妻に献身的な夫であっても、誠実な人生を送る夫であっても、彼女の頭の中に要塞があるせいで、その女性には事実を見ることができないのです。私たちが人に対して立てている頭の中の障害物とは何でしょうか?
 また、私たち自身に対して立てている障害物は何でしょうか?例えば、「私は愛される資格がない。」「私は独りぼっちだ。」「自分の配偶者を幸せにすることはできない。」「私は敗北者である。」「私は愚かだ。」「人前で話せない。」「人間関係を築くのが苦手だ。」「英語を習得する能力がない。」「ギターをさわることもできない。」「人を赦すことができない。」「悪い習慣をやめることができない。」「体重を落とすことができない。」など。あなたの人生の中に、今までいくつの「できない」事がありましたか?

 私たちにはできないことがないことをご存知ですか?なぜなら聖書には、『私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。』と書いてあるからです。それは、私たちができないと信じさせている要塞です。あなたがしたいことについて何も制限するものはありません。どんなことでもできるのです。あなたがそれをやり遂げるという考えを持つなら可能です。

 そしてまた恐れという要塞があります。あなたの恐れは何ですか?締め切った場所にいるのを恐れたり、暗闇を恐れたり、誰かに傷つけられることを恐れたり、皆が自分のことをどう思うかを恐れたり、高いところを恐れたり、群衆を恐れたりする人もいると思います。あなたはどんなことを恐れますか?

 また他の人たちに対する視点の多くも、私たちの思いの中にある要塞です。ここにいるすべての人が他の人に対して意見を持っています。その人の人となりについて、話し方について、服の趣味について、その人の物の見方について意見があります。しかし私たちがその人はこういう人だと信じているその考え方と、神様がその人について思っている考え方と同じでしょうか?

 また私はうつ病も一つの要塞だと考えています。もちろんうつ病には様々な要因があるのは知っていますが、うつ病と戦っている人には、それが精神の中にある要塞ととらえて扱ってほしいと思います。そうすれば驚くべき結果を見ることができると保証します。

 空腹も頭の中、思いの要塞のひとつです。最近の科学では、私たちの体は、二十一日間、またはそれ以上何も食べなくても生きていける十分なエネルギーが蓄えられているそうです。それなら、私たちが何か食べたいと思うときには、体は何も食べ物要求していないことになります。なぜなら十分蓄えがあるからです。ではなぜお腹がすくのでしょうか?体は空腹ではありません。実はそれは気まぐれや、習慣や、心配などであって、考えや思いの中にある要塞なのです。それで断食と祈りというのが大切なのです。
 食に関して、私たちの頭の中には多くの要塞が存在します。「食べなくてはいけない。」という思いです。でも本当は必要ないのです。ある人は、体に二十一日間の蓄えではなく、四十日分の蓄えがある方もいます。「コーヒーを飲まなくては!」と言いますが、本当は必要がないのです。「私は食べてないと機嫌が悪くなる。」という人がいますが、食べ物がいつから人間の機嫌を左右するようになったのでしょう?関係ないのです。それはすべてウソであり、頭の中にある要塞であって、それに打ち勝つ必要があるものです!

 またアルコール中毒者にも同じことが言えます。その体がアルコールを必要としていると言いますが、本当は必要としていないのです。それも一つの精神的な要塞なのです。それに打ち勝つ必要がありますが、簡単なことではありません。
 また糖分を必要とするという思いの要塞に打ち勝つのも簡単ではありません。日本人はあまり甘い物を食べないかもしれませんが、しかしインターナショナル部会だと、白い紙コップに少しのコーヒーを入れて、多くの人たちは三つ四つくらいの砂糖を入れます。彼らによると体が糖分をほしがっているそうです。そしてある人は甘い物ばかり食べる方がいます。それは糖分を欲するという考え方の要塞なのです。それにも打ち勝つ必要があります。それも簡単なことではありません。

 また夜眠るための薬を必要とする思いの要塞に打ち勝つのも簡単ではありません。しかし打ち勝つ必要があります。

 私たちはいろいろな例を出すことはできますが、それではその頭の中にある要塞に打ち勝つにはどうしたらいいのでしょうか。それには、聖書に書いてあるとおりに、私たちの思いを新しくしてもらうことが必要です。

 頭の中のそのような要塞はすべて崩されるべきですが、そのためには、次のことをしていく必要があります。
 第一に、まずはそれを見分けることです。なぜなら私たちにそういう要塞があるということを私たち自身が知らない限りには、それを取り除くことができないからです。

 そして二番目に、神のみ言葉によって私たちの考えや思いを新しくしてもらうことです。み言葉を読まなければなりません。そのみ言葉を読むということが、私たちの考えや思いを新しくできる唯一の方法です。

 そして三番目に、そのような私たちがとりこになっている考え方を取り除いて、今度は、神様に従う者になる必要があります。もう一度、ローマ書十二章二節をお読みしたいと思います。

『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』

 私たちが、神様が私たちの考え方を変えるように、神様に任せる時に、新しい人へと神様はすぐに変えてくださいます。喜びを持った人に変わることができます。自由な人に変わることができます。祝福された人に変わることができます。何でもできる人になります!しかし私たちは神様が変えてくださるようにお任せしなくてはいけません。

 もう一つのみ言葉を読んで、このメッセージを終わりたいと思います。第二コリント十章四節〜五節、

『私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、』

とあります。ただ神とそのみ言葉だけが、それを変えることができます。それでは、お祈りしましょう。

 主よ、私たちの頭の中に様々な要塞があることがわかりました。その要塞によって私たちは行動を支配され、肉体的にも支配されています。またその要塞によって、私たちの夫婦関係を壊そうとされています。また私たちの人生を壊そうとする要塞があります。
 主よ、私たちの家庭内での父親、母親との悪い体験から、それが私たち夫婦関係に影響を与えました。あなたが与えてくださったプレゼントである夫や妻のことを、あなたの視点とは逆の視点で見ていたことを許してください。
 今まで私たちは敵が入れたウソを信じていました。あなたについてのウソや、誰かのことについてのウソ、また私たち自身についてのウソを信じていました。しかし今、私たちの思い、考えをきれいにしてください。私たちの考え方を新しくしたいのです。人生の見方を新しくしたいのです。過去の悪い体験によって人生を導かれたくありません。敵のウソによって導かれたくはありません。私たちを自由にする、あなたのみ言葉の真理によって導いてください。なぜならばあなたのみ言葉は私たちを自由にしてくださるからです。自由になりたいです!
 そのために悪魔のウソを断ち切ります。今自分の言葉で宣言してください。今、自分の中にある悪魔のウソを一つずつ宣言して、断ち切ってください。例えば、私にはアルコールが必要だとか、タバコが必要であるというウソを、自分で断ち切ってください。また夫や妻のことを悪く思うことや、自分自身のことを悪く思うような、そのような悪魔のウソを宣言して断ち切っていってください。どうぞご自分の言葉によって宣言してください。

 主よ、今までの私の悪習慣を断ち切ります。あなたから来ない他の人に対する悪い思いを断ち切ります。また自分自身に関する、頭の中にある要塞も打ち砕き増す。またあなたに対する要塞もイエス様の名前によって打ち砕きます。み言葉に『真理はあなたがたを自由にする』と書いてあります。主よ。私たちを自由にしてください。私たちは自由になりたいのです。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。