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「彼らに主の名をほめたたえさせよ! パート14 
 ~その王国はすべてを統べ治める~」

2018年7月29(日)
新城教会主任牧師 滝元順
詩篇103篇19節〜22節

『主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治める。
主をほめたたえよ。御使いたちよ。みことばの声に聞き従い、みことばを行う力ある勇士たちよ。
主をほめたたえよ。主のすべての軍勢よ。みこころを行い、主に仕える者たちよ。
主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。わがたましいよ。主をほめたたえよ。

  ハレルヤ!おはようございます。ひさしぶりに新城教会でメッセージを語らせていただけますことを、心から感謝しています。
 三週間ぶりになります。その間、いろいろなことがありましたが、主の守りの中で支えられてきたことを、心から感謝しています。

 今日、みなさんのお手元に多くの印刷物が手渡されています。案内をして下さいと言われていますので、まずは、むさくるしい私の顔が大きく出ていてすみません。リバイバルミッションが新体制になりまして、若い方々が全て企画しています。ミッションニュースも良い感じになったと思います。家に帰ってから、ゆっくりお読み下さい。

 特にご案内させていただきたいのは、この八月、リバイバルミッションで大きなイベントが二つあります。一つは、「誰にも分かる霊的戦い専門課程スペシャル」、去年も行われて好評だったのですが、今年はさらにパワーアップして、八月十日〜十一日に行われます。新城教会からも是非、ご参加ください。

 そしてもう一つ、「プレイズ・アカデミー」で、「最高の賛美を!」というタイトルで行われます。八月十三日と十四日の二日間、すばらしいミュージシャンの方々が来られてのセミナーがあります。

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そして八月十三日の夜は、ゴスペル・コンサートがあります。食事も付いて千五百円です。ティム・ケプラーやニッコー・ローという、大変すばらしい歌手たちが新城に来て歌ってくれます。これは絶対にすばらしいですから、是非ともお近くの方々をお誘い下さい。夏のスケジュールに組み込んでいただきたいです。

 昨日は台風十二号が来ましたが、この地域、またもや守られました。本当に感謝ですが、被災地の方面の守りを、真剣に祈らなければいけません。申し訳ないくらい、新城付近は守られました。
 詩篇百四十八篇八節に、『雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行うあらしよ。』と記されていますが、台風にも、「主を賛美せよ!」と宣言出来るのです。すると、彼らは振る舞いを変えるのです。この事を知らされてから、台風が来たら「主をほめたたえろ!」と宣言するようになりました。
 今月は「賛美月間」で、昨晩も賛美の中で宣言したのですが、いや〜本当に、台風が言うこと聞いたかのように、この近所はそよ風と小雨でした。絶妙でした。私は夜の十一時くらいに、スマホで雲の動きを見ていたのですが、雨が新城を絶妙によけていくようでした。私はこれを、全国的に広めなければいけないと思っています。全国の教会が、この権威を台風などに宣言するなら、日本は守られるはずです。

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 これは夜の九時頃の雲ですが、良い部分だけ切り取ったと思わないでください。新城市にお住まいの方々は、よく分かっていると思います。
 私は先週、宮古島でこの事について話しました。宮古は綺麗な島です。

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 ちょうど、台風十号が沖縄と宮古島を直撃するという予報でした。しかし宮古島の教会が、「台風十号よ!主を賛美しろ!」と宣言し、沖縄でも宣言したそうです。
 新聞の一面に、「沖縄に台風10号直撃!」となっていたのですが、宮古島も、沖縄も、風は吹かず、雨も降りませんでした。これらの結果は、人類が被造物の管理人であることを、如実に表していると思います。
 是非とも、すべての被造物に対して、「主を賛美しろ!」と宣言していただきたいと思います。

 今日、お読みいただいたのは、詩篇百三篇十九節〜二十二節です。去年、二〇一七年のタイトルは、「あなたの一生を良いもので満たされる」という、詩篇百三篇一節〜五節を掲げさせていただきましたが、詩編百三篇の最後が、十九節〜二十二節です。

『主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治める。主をほめたたえよ。御使いたちよ。みことばの声に聞き従い、みことばを行う力ある勇士たちよ。主をほめたたえよ。主のすべての軍勢よ。みこころを行い、主に仕える者たちよ。主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。わがたましいよ。主をほめたたえよ。』

 詩篇百三篇には、壮大な賛美が記されています。一節から読みますと、個人的な主への礼拝から始まるのですが、最終的には、すべての被造物に対して、主を賛美せよ!と命じています。管理人である人類に対して、『主の治められるすべての所で。主をほめたたえよ。』となっています。
 「主の治められるすべての所」とはどこでしょうか。それは全宇宙的です。神が造られたすべての被造物は、神の管理下にあります。しかし管理権が人類にゆだねられているわけです。私たちは、神が治められるすべてのところで、「主を賛美しろ!」と宣言する役割が与えられているのです。
 私たちは、「神の国」という王国に属しています。ここにおられる、お一人一人、イエス・キリストを主として信じるならば、国籍は神の国にあります。その王国は、すべてを統べ治めています。このことを信仰の土台に、しっかりと据えなければいけないです。
 詩篇百三篇一節〜五節も読んでみたいと思います。

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。』

 『わがたましいよ。主をほめたたえよ。』とあります。これは個人の主への礼拝です。 一人ひとりのたましいに対して、「主をほめたたえよ」と宣言しているのです。次に、『私のうちにあるすべてのものよ。』とありますが、「私のうちにあるすべて」とは、ヘブル語では「内蔵」という意味です。
 「私の内蔵よ、主を賛美しろ!」というのです。これは複数形です。ダビデは、体中の内蔵に、それぞれ賛美する機能が備わっていると信じていたようです。それで、「からだのすべての内蔵は主を賛美しろ!」と命じています。
 体は多くの内蔵によって構成されています。それら、すべてが主を賛美するようになったら、健康にもなるのではないでしょうか。
 ダビデは、内臓はそれぞれ主をほめたたえる機能を持っていると理解していたみたいです。主を賛美するのは、たましいだけの問題ではなくて、なんと内蔵のすべてに、主をほめたたえるよう、命じられているのです。
 お隣の方に、「あなたの内蔵も、主をほめたたえなさい!」と宣言してあげてください。健康になれると思います。

 内蔵に主をほめたたえろ!と宣言したあと、三節から、『主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。』と続いています。

 時々、人生には、予想外の信じられない事が起きます。イエス・キリストを信じたら、何も問題は起きないということではありません。なぜなら、聖書に登場する人物や使徒たちも、様々な問題に出会ったからです。
 しかし、それらを信仰によって乗り越えていくところに価値があります。
 パウロがこんなことばを残しています。第二コリント一章八節〜十一節、

『兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危うくなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。』

 あれほどの大使徒であったパウロも、非常に、激しい絶えられないほどの迫害を受けて、ついには、命さえも危うくなったというのです。そして、自分の心で死を覚悟したというのです。
 しかしそのことを通して、パウロは信仰が変えられたのです。どう変えられたのかというと、自分の経験とか、自分自身の力に頼るのではなくて、「神にのみ依り頼む!」姿勢に変えられたというのです。

 それとともに、試練を乗り越える秘訣が記されています。十一節に、『あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。』とあるからです。
 人々の祈りと、とりなしがあって、試練を乗り越えることができたのです。
 秘訣は、「多くの人々の祈り」だったのです。少ない人数ではなく、多くの人たちの祈りによって、試練を乗り越えることができるのです。

 先週の日曜日まで、私は宮古島で奉仕をさせていただきました。宮古島では教団教派を越えて、一致して祈り、がんばっておられます。今回は、普通ではなかなか受け入れていただけないような教会で、セミナーを開催させていただきました。先週の日曜日は一つの教会で、霊的戦いセミナーを行いました。

 日曜日は、朝の礼拝と昼からのセミナーがありました。さぁ、今から奉仕だと張り切って、ちょっとLINEを見たら、K君の命が危ない、という文面でした。もうほとんど駄目だと書かれていました。私はすぐに電話をして状況を聞くと、脳出血で、瞳孔が両方とも開いてしまって、ほとんど脳死状態だということでした。
 今から、宮古島の教会でメッセージを語らなければいけない直前にそのニュースを聞きました。その後みんなの前で、笑顔で語るのは、なかなかきついものがありました。そういう時は、パウロと同じような心境になります。主にだけ依り頼んで、与えられた仕事にベストを尽くさなければいけない、と思いました。二つの集会をがんばって奉仕しました。しかし、そういう時に限って、すばらしい祝福があるのです。聖霊さまが強く働いてくださって、本当に良い集会でした。

 翌日は、脳死の宣告がなされるだろうということでした。しかしそれを知った方々が、真剣に祈って下さいました。先週の礼拝でも、心を一つにして、祈ってくださったと思うのですが、翌日、彼は生きていたのです。脳幹が生きていて、耳も聞こえていて、自発呼吸も少しあって、もちろん、まだまだ、これからが勝負ですが、奇跡的に命が助かりました。
 奇跡を行ってくださる神とともに歩むことは、本当に希望だと思いました。

 時に予想外というか、もう駄目だと追い込まれるようなことがあっても、主にのみ依り頼むときに、主はそのような中でも、希望を与えてくださいます。
 パウロも語っています。目の前を見たら、将来も希望もあったもんじゃない。しかし振り返ってみれば、主は助けて下さった。ならば、将来だって助けてくださらないはずがない、と彼は将来と希望を定義づけました。
 その背後に、祈りがあったのです。それも、多くの人たちの祈りがあったということです。
 エレミヤ書二十九章の将来と希望も、「あなたがたが祈るなら」と、条件がついています。祈りの力が、どれほど大きなものであるのか、様々な問題を通して体験していくのではないでしょうか。

 Oさんは腰のヘルニアだったのですが、それをこじらせて、バイ菌が入って危ないところまでいきました。先週は、K君とOさんのダブル葬式かと思うくらいでしたが、皆、真剣に祈りました。その結果、二人とも危機から脱しました。これからも、祈り続けなければいけないです。教会の祈りは、本当に力あるものです。

 過去を振り返れば、そのような事が幾つかありました。二〇〇七年のことでしたが、今日ここにおられる、Mくんが脳炎で倒れて、意識不明の重体になりました。ICUに入って、私が祈りに行った時、医者が「この子は数パーセントしか自己呼吸はないんです。この機械がなかったら、生きることはできません。」と言いました。痙攣が止まらず、絶体絶命という感じでした。
 でもあのとき、どうでしょうか。教会が心をひとつにして、多くの人たちの祈りがありました。なんと四十日目に、彼の意識が戻ったのです。なんと彼は、賛美しながら戻ってきたのです。「全世界に出て行き〜♪」と賛美をしながら、意識を回復したのです。すばらしい主の守りと勝利があるのです。

 そしてまた、何年か前には、名古屋から来られているSさんがクモ膜下出血で倒れて、病院は、もう何も出来ないということでした。あのときも、みんなで心合わせて祈りましたよね。すると彼は生き返りました。その後、なんの後遺症もなく、仕事に戻られています。だから医者がいつも彼に、「あんたのケースに関しては、どうして良くなったのか分からない。」と言われるそうです。これも、「教会が祈った」結果ではないでしょうか。

 心を合わせて、多くの人たちが祈ることが、将来と希望につながるのです。先が見えないようなことが起こったとしても、それは何のためかというと、主にのみ依り頼み、将来と希望を勝ち取るための戦いなのです。
 ペテロもそのことについて語っています。第一ペテロ五章七節〜十一節に記されているのですが、読んでみたいと思います。

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。』

 『どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。』と結んでいます。これは最初にお読みした、『その王国はすべてを統べ治める』につながります。
 初代教会の人々が、神の国の実現をゴールにしていたのがわかります。「神の支配」がすべての事象に現されますように、という真剣な祈りがあったのです。

 主を信じる者たちにも、時々、苦しみがあるかもしれないけれど、それは決して、無駄には終わらないと教えています。
 『あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。』と述べています。
 ときに様々なことがあっても、神の国の実現を求めて、人の力ではなく、主ご自身が働いてくださるように、心を合わせて教会が真剣に祈ることによって、しばらくの苦しみのあとで完全にしてくださるのです。堅く立たせて、強くして、不動の者にしてくださるという、揺るがない信仰者として鍛えてくださると教えているわけです。

 また、様々な問題を体験する背後に、霊的戦いがあることも、はっきりと述べられています。ある人たちはイエス・キリストを信じたら、悪魔や悪霊どもは全く関与してこない、と考えるのですが、決してそうではありません。
 ペテロの手紙は教会に対して書かれたものです。ここに、『堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。』と記されています。『ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来た。』と綴っています。兄弟たち、すなわち、クリスチャンたちです。クリスチャンにも、様々な苦しみがあったのです。しかもそれは、背後にサタンが働いていたのです。ゆえに、「立ち向かえ!」というわけです。

 霊的戦いを知らせていただいたのは、何よりも重要です。私たちは、好むと好まざるとを問わず、クリスチャン生活は敵の真ん中に置かれているのです。敵陣の真ん中、戦場にいるのか、それとも、ピクニックに来ているように勘違いするのかで、信仰生活は変わります。
 実に教会は、戦いのために主が造られた組織です。前にもお話ししたことがありますが、旧約聖書の「教会」の概念を表す言葉として、「カーハール」という言葉ですが、それは「呼び出された者たちの群れ」という意味があります。
 新約聖書の教会を表す言葉は「エクレーシア」です。「エクレーシア」というのは、元々ギリシャの議会であり、「宣戦布告の決定機関」でした。
 この二つの概念がドッキングして「教会」という言葉が出来上がりました。日本語で「教会」とは、「会衆を教える」という意味に見えます。そこには教室のようなイメージがあるかもしれません。しかし教会の根元的な意味は、「戦いのために召集された軍隊」という意味になります。
 ゆえに教会は、霊的戦いの軍隊の駐屯基地です。すべての兵士たちが、心をひとつにして敵に立ち向うなら、悪魔は逃げ去るのです。
 時々、主は、教会の心をひとつにさせるようなことをなされるのかもしれません。そのとき、祈りによって心を合わせるなら、すごいパワーで敵の力を殲滅させるのです。

 今、周りにある問題も、主がコントロールしておられますから、中途半端にはなさらないと信じます。普通、医学では難しいですよ、というようなこともクリアさせて、「わたしは主だ」と教えてくださるのではないかと期待しています。
 先週はいろいろと戦いがあって、死ぬか生きるかみたいなところがありましたが、祈りが集結されました。これから情報を共有してお互い、祈り合うなら、『しばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。』とあるように、神の支配が拡大していくと信じます。

 『主の治められるすべての所で。わがたましいよ。主をほめたたえよ。』とありますから、「主の治められるすべての所」とは、先ほど申しましたように、全宇宙規模です。地球だけ神は治めていて、月の世界に行ったら権限は及んでいない、月や太陽は勝手にふるまっているとしたら問題です。そうではないですよね。すべての領域で、主の統治があります。そこで、「主の名をほめたたえさせる」という宣言は、他にも増して大きな働きです。

 前回もお話しさせていただきましたが、最新の理論物理学ですと、すべての物質の根源は「振動する弦」であるというのです。その振動はすべて、音楽に置き換えることができるというのです。
 神がなぜ、大宇宙を造られたのか、それは大宇宙を通して、調和ある完璧なオーケストラを奏でる為ではないだろうか?と、著名な物理学者が話していました。
 詩篇五十七篇八節に、

『私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。』

 これは直訳すると、「たましい」ではなくて、「私にとって最高の仕事、最も栄えある仕事に気づけ!」と言う意味です。我々人類にとって、最も重要な栄えある仕事は何であるのかというと、『十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。』という宣言です。
 神が現代に与えられた情報と合わせてこのみ言葉を理解するならば、すべての物質が弦でできているならば、それらが目を覚まして主をほめたたえる、ほめたたえさせることが、人類にとって最も重要な使命という事になります。そして、全被造物の賛美を指揮するのが、我々クリスチャンです。

 宮古島は自然豊かで綺麗な島です。行ったことがある方はあまり多くないかと思います。

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 もうちょっと西に進めば台湾です。日本の本州よりも台湾のほうがずっと近い島です。宮古島の祭りには、こんな祭りがあります。

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 南の島々の人たちの文化だなぁと思います。ここに行きますと、珊瑚礁も生きているし、綺麗な魚がいっぱいいて、すごく美しいです。

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 島は、マンタみたいな形をしています。島中に、自然が豊かに残っています。島の人たちは、自然とうまく共存しています。また逆をいえば、その厳しさも知っています。「今まで一番大きな台風ってどんな規模でしたか?」と聞いたら、風速七十メートル以上だと言いました。風速七十メートルだと、自動車が簡単にぶっ飛ぶというのです。電柱はへし折れ、家の屋根は全て消えるというのです。そんな台風に出会ったというのです。
 昔からそういう目に、何回も遭ってきたものだから、お互いに協力する島民性があります。台風が来るたびに、屋根が飛ばされ、一人で屋根を修理できないので、互いに村人が協力して屋根を修理する文化があって、温かい人たちばかりです。そして心が熱い方々です。
 台風が来るたびに、「台風よ。あっちに行け!」と命じて祈っていたらしいです。しかし、そうではなくて、聖書を見れば台風も被造物ですから、彼らに主の名をほめたたえさせるという、去年、台風二十一号で新城教会で起こった証や、サハリンの教会で起こった証しとかさせていただきました。すると宮古島の教会は、希望を持ちました。「今まで、厳しさに耐えるしかないと思っていたけれど、美しい被造物に満ちたこの島に、私たちが管理人として置かれているとは、大きな使命がある!」と気づかれたみたいです。

 この島は偶像礼拝がたいへん強いです。霊能者が多くて、狭い島に八百〜九百箇所の拝所(うがんじょ)と呼ばれる拝み場があります。鳥居もあるけれど、それは明治以降、国家神道が立てたもので、元々は自然崇拝です。アニミズム、シャーマニズムの世界です。鬱蒼とした森とか、珊瑚礁とか、石灰岩とか、そういう所に島民たちは霊感を感じるわけです。そしてこの島の人たちは、悪霊がいるということは皆知っています。だから一生懸命、悪霊が働かないようにと、拝み事をやっているわけです。
 かつて宮古島の人たちは、一つの離島を神体として真剣に拝んでいました。

 一九九三年に甲子園ミッションがあったのですが、その時に、全国を回って甲子園ミッションの決起大会を行ったのですが、ある時、事務所の日本地図を見ているとき、ふっと、「日本とは北海道、本州、四国、九州、沖縄くらいしか知らなかったけれど、たくさんの島々があるな・・・・」と気づかされました。何百という島々に人々が住んでいるわけです。日本のリバイバルは島々も含むと思いました。だから島々を回って、甲子園ミッションの案内をしなければならないと思いました。
 当時、聖霊が激しく注がれたあとで、私たちに知識がないがゆえに、主が直接、語って下さるような、預言的な賜物を限定付きで下さったようでした。
 「主よ、どこに行って祈ったらいいですか?どこで集会をやったらいいんですか?」と祈っている時、「宮古島に行け」と語られました。それで宮古島のある教会に電話をして、「集会をやらせてもらえませんか?」と聞いたら、「わざわざ島に来るような人はあまりいないから、来てもいいよ・・・」みたいな感じで、行かせてもらいました。
 今でも覚えていますが、教会は二階に礼拝堂があって、下では若者たちが卓球をやっていました。若者たちに、「今日の集会に来る?」と聞いたら、「行かない!」とか言うのです。「愛知県から来たんだから出てよ〜」と頼みました。どうも人数が少なそうだと思ったので誘いました。すると、「かわいそうだから行ってあげる。」みたいに、集会に出てくれました。
 そうしたら、その若者たちの心が燃やされたのです。それで、宮古島から甲子園ミッションに三十人近く来られました。そして私が誘った卓球をやっていた青年は、今では、その教会の牧師になりました。

 自然界が礼拝の対象になっている島ですが、自然界は本来、主が造られた被造物です。その上に悪霊どもがのっかかって、「俺が神だ!」と主張しているのです。まずは神が造った被造物の上にのしかっている、悪しき力を取り除いて、元々神が造られた被造物に対して、「主を賛美しろ!」と宣言することが、島の教会の使命じゃないですか?と語ったら、よく理解して下さって、「これから島中をめぐって、『主を賛美しろ!』と宣言しに行く!」と、四つの教会が心を合わせて、そのことを実行すると言われました。

 初めて宮古島に行ったとき、大神島にも行って祈るように主は命じられました。

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 宮古島の人たちは、この島を拝んでいるのです。主が、「そこに行って祈って来い」と言われて、どうやって行けばいいのか分かりませんでした。大神島は霊能者しか住んでいないのです。部外者が入って行くと、嫌な目で見られます。朝と夕方だけ渡し船があり、三十分くらい不安な舟で渡って行くのですが、なんとか行きました。
 「主よ。どこで祈ったらいいですか?」と祈ると、「島の一番高い所に上って祈れ!」と示されたような気がして、背より高い熱帯の植物をかき分けて、山を上がって行きました。考えてみれば、ハブがいっぱいいただろうなと思うのですが、そんなのおかまいなしで登って行くと、頂上にガジュマルの木がありました。その頃、若かったのでガジュマルに上って、一番上で、「宮古島に働く悪霊の力を打ち破ります!」と宣言して祈りました。
 それは今から二十六年前の話です。今、宮古島の教会が心燃やすようになったのも、それらの祈りがあったからだと信じます。

 当時、島にある教会を一つ一つ巡って祝福を祈りました。「この教会がリバイバルのために用いられますように!」と祈りました。しかし「この教会の為には一応祈るけど無駄かな・・」と思った教会がありました。しかし今回、その教会で霊的戦いセミナーが行われました。信じられないです。祈りは答えられます。
 私たちが神の国の到来を信じて行動するとき、主は必ず、すべてを益にしてくださいます。
 マタイの福音書六章三十三節〜三十四節、

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』

 時々私たちは明日のことが心配になります。明日どうなるだろうか・・・ってね。明日の今頃、俺は、どうしているかなぁと。今回もそうでした。明日の今頃どうなっているのか。葬式の準備かなぁ。本当に、悪いことしか人間って考えないじゃないですか。
 そういう心境になったときには、『神の国とその義とをまず第一に求めなさい。』と言うのです。神の統治は、すべての領域に及んでいることを信じて宣言しろ!というのです。

 一日一日、主がちゃんと心配して扱ってくれるのです。詩篇六十八篇十九節にすばらしいことばがあります。

『ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。』

 一日一日、いろんなことがありますが、日々、主は、私たちの重荷を負ってくださるのです。「あっ!ごめん!今日は忘れちゃった!」ということはないです。
 私たちの主イエスさまは、私たちの重荷を日々、担ってくれる。担ってくれるとは、私たちの重荷を「肩代わり」してくれるということです。重荷を肩代わりして、担って下さる主がおられることを、心から感謝します。
 主が統治してくださっている、神の国を信じ祈るとき、不可能はないです。

 最後にひとつの証しをして、終わりたいと思います。今からの証しは、信じるも信じないもあなた次第、みたいな証です。信じることができたら、信じてください。私も信じ切れないくらいのことです。
 前回、第二列王記二十章から、ヒゼキヤが十五年寿命を延ばしてもらったという箇所から学びましたよね。アハズの日時計が、十度後ろに戻ったという箇所です。第二列王記二十章九節〜十一節、もう一度読んでみたいと思います。

『イザヤは言った。「これがあなたへの主からのしるしです。主は約束されたことを成就されます。影が十度進むか、十度戻るかです。」ヒゼキヤは答えた。「影が十度伸びるのは容易なことです。むしろ、影が十度あとに戻るようにしてください。」預言者イザヤが主に祈ると、主はアハズの日時計におりた日時計の影を十度あとに戻された。』

 この記述は、「十度」ではなく、「十段」だと話しました。当時は階段で影がどこにいるかで時刻を知った、当時の日時計だったわけです。
 神がヒゼキヤに、「あなたの祈りを聞いた。寿命を十五年延ばしてやる。その証拠として奇跡を行う。二つの選択がある。一つは十段影が伸びるのか、または、後ろに戻るのか、どちらかを選べ!」と語られたわけです。
 そうしたらヒゼキヤは、影が十段伸びることは簡単だと言いました。十段伸びるというのは、未来に行くということです。未来に行くことは簡単だ。預言者の時代だったので、未来にはしょっちゅう行って、情報を取っていたのではないかと思うのです。

 実は、未来に行くことは本当に簡単です。どうしたらいいか知っていますか?ただ、歳を取ればいいのです。歳を取ったら、必ず、未来には行けます。
 タイムマシーンって、今のところ、光の速度以上は出ないと言われますから、過去には戻れないのです。
 しかし影が十段戻ったとは、地球が四分の一回転くらい逆に戻ったのと同じくらいの距離感です。地球が止まって、反転したらすべて放り出されますから、そんなことはありえません。
 ということは、時空が過去に戻ったということです。過去に戻ることができたら、どんなにか幸いかと思います。

 六月の最後の水曜日に、この話を水曜主日礼拝で話しました。そこに一人の男性が礼拝に出席されていました。その方はトラックの運転手をされていて、荷物の積み降ろしで、荷物が当たったらしく、時計のガラスが割れたというのです。
 それを奧さんに見せて、「割れちゃったけど、新しいのを買って」と言うと、奧さんが、「これは駄目だね。でも、今はお金がないから一年後ね。」と言われたそうです。彼は十数年使っていた時計だから愛着もあったそうです。でも新しいのも欲しいなと思っていたらしいけれど、水曜主日礼拝で日時計の話しをしたとき、割れたガラス部分を触っていたというのです。三つ線が入っていて、凸凹になっていて触ると引っかかったそうです。しかし、水曜主日礼拝が終わって、帰るときに自分の時計を見たら、割れたガラスが元に戻っていたと言うのです。信じられますか?信じるか信じないかはあなた次第!ですが。
 ガラスが割れたら普通は元には戻りません。しかし彼は、あんまり感動しなかったというのです。「あっ、直った・・」ってね。一抹の残念さもあったそうです。「新しい時計が買えない・・」と。人間って、やっぱりいろんな思いがあるわけです。
 彼はこの時計、十数年使っていたというのです。それで、よく見ると、傷もいっぱいついているわけです。神さまに直してもらっても、すべてを感謝するわけではなくて、「ここまで直したんだから、細かい傷だって取って、新品にしても良かったのじゃないか・・・。」と思ったというのです。
 そうしたら、神さまが彼に語りかけて下さったというのです。「ガラスが割れる前の状態にまで戻しておいた」と語られたというのです。それを聞いて、いい意味で、ぞーっとしました。

 Kくんのこと考えたら、脳が割れてもう駄目じゃないかと考えるかもしれないけれど、ガラスを直すくらいなら、こっちを直してくれというようなところもありますが、割れる前の状態にまで戻すというか、小さな傷は機能には問題ありませんが、致命傷を治して下さるのです。
 人生もどうでしょうか。時には傷つくこともありますが、致命的に、あの時から割れてしまった!というような場所を、割れる前の状態に直しておきましたよ!と主は語ってくださるのです。これができるのは、神の支配以外の何者でもないです。

 つい最近、礼拝の中でこれが起こったのです。六月二十七日の水曜主日礼拝です。その後、いろいろと事件が起こったけれど、すべてリンクしているような気がします。
 時計の奇跡を信じるも信じないもあなた次第!という感じですが、時計を直すということは、時をいやしてあげますよ!という預言的な出来事ではないかと、私は考えています。
 神が支配されるすべての領域で、主をほめたたえさせることは、時間も空間も過去も現在も未来も高次元も、すべて神の作品ですから、そこに主の名をほめたたえさせることができる!のです。いろんなことがあったとしても、それらを乗り越えていくときに、私たちは不動の者とされるのです。堅く信仰に立った成熟した信仰者になることができるということです。

 今日は心ひとつにして、堅く信仰に立って、悪魔に立ち向かい、勝利を勝ち取りたいと願っています。最後に、ご一緒に聖餐式を持ちたいと思います。
 イエスさまの十字架の犠牲があり、復活があったからこそ、私たちに対する神の統治が回復されたわけです。今日は神の統治がすべての領域にあることを宣言して、祈り手として、とりなし手として用いてくださいと祈りましょう。一言祈ります。

 ハレルヤ。父なる神さま。感謝します。あなたは時間も空間も、将来も過去も、高次元も、何もかも支配しておられる方ですから感謝します。また、私たちはすべての領域において、主をほめたたえさせる使命が与えられていることを、心から感謝します。
 神の支配はすべてに及んでいることを信じ、心をひとつにして敵に立ち向かい、勝利を宣言します。
 今から聖書のみことばと聖霊の油注ぎによって、聖さん式を行います。その前にすべての罪を十字架の血潮によって洗い聖め、聖くしてください。イエスさまのみ名を通してお祈りします。アーメン。