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「神のわざが現れるために」

2018年8月26(日)
新城教会牧師 岡本信弘
ヨハネの福音書9章1~5節

『またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」』

 ハレルヤ! 皆さん、おはようございます。久しぶりにこの場所に立ってみことばを語らせていただけることを感謝いたします。
今、若者がグロリアシンガーズの名曲を賛美するのを聴きながら、昔のことを思い出しました。
 私は、グロリアシンガーズのメンバーと一緒に育ってきたのですが、歌も下手ですし、楽器もできないですし、グロリアシンガーズに誘われることはありませんでした(笑)。皆さん笑っておられますが、一回だけグロリアシンガーズの一員として集会に行ってくれと言われた時がありました。「この曲とこの曲だけ覚えろ」と言われて、毎夜毎夜、古い会堂の二階の一室にこもって開先生から教えてもらい、必死にベースの練習をしたことがあります。しかし結局、デビューは幻に終わりました。それは、私ができなかったというのではなく、行かなくてもよくなったためでした。そんなことを今ふと思い出しましたが、本当に長い月日が流れたなと思います。
 私は、先々週で六十二歳になりました。この夏の猛暑の中、毎日「暑い、暑い」と言いながら、疲れがなかなか取れないような日々です。「昔はこんなことどうってことなかったのに」思うのと同時に、歳を取って「ちょっと涙もろくなったかな」と思ったりします(笑)。

 さて今日は、先ほど読んでいただいたヨハネの福音書九章から学びたいと思います。
 一人の盲人を前に、弟子たちがイエスさまに『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか』と質問をしています。彼は目が不自由なために世間からのけ者にされ、本人か家族が罪を犯したために盲人に生まれついたかもしれないと思われていたようです。その時イエスさまは、『神のわざがこの人に現れるためです』と、意外な答えを返されました。「人にはわからない神の計画がある」ことを語られたのです。

 私はクリスチャンホームに生まれ育ってきました。私の母が召されてから十数年になります。母のことはいつも証ししていますが、母が結婚して最初に生まれた子どもはダウン症という障がいのある康宏でした。そのことで母はすごく苦労しました。
 母は若い頃から「自分の人生は自分で切り開くものだ」というように思っていたようです。私は、最近まで母が兄弟(八人)の中で、一番できが悪いと思っていたのですが、今回、兄(正広)から「母が一番できた」と(兄が入院しているので、見舞に行くたびにいろいろな話をしているうちに)聞いて、「本当かなぁ? それにしては私も兄弟も、あまり頭がよくないなぁ」と思うのですが・・・。それはさておき、母は、康宏のことを通して自分の弱さを知り教会に導かれ、若き日の明先生からみことばを聞き、信仰を持つようになりました。
母は私がお腹にいる時に洗礼を受け、その後、家族全員がクリスチャンになったのですが、康宏がいなかったら我が家がクリスチャンホームになることはなかったし、今、私もここに立つことはなかったと思います。
 確かに人生にはいろいろなことがありますが、神さまの計画というのは、その時にはわからなくても後々になって、「あぁ! あの時のことは、この時のためだったんだ!」とわかる時がきます。皆さんもそういう経験をされたことがあるかと思います。
 
第一コリント八章二節に
『人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。』とあります。

 私の好きなみことばのひとつです。知らないことはもちろんたくさんありますが、歳を重ねることによって、経験によってわかることもたくさんありますよね。プレイズ出版には、今四十人くらいの社員がいるわけですが、何かが壊れたり問題が起きたりすると「とりあえず社長を呼べ」と呼ばれて行きます。簡単なことであれば直したり、解決したりすると、「社長、すごいですね。なんで直せるんですか、何でこんなことを知っているんですか」と言われたりします。それは、ただ単に歳を取っているだけだというところもあるわけです。

 先週、順先生が語っておられましたが、現代の多くの人は、問題が起きるとすぐにそれを解決しようとします。忍耐が足らないのか、少しやって、少し考えただけで解決しないと挫折し、ひきこもったり自殺してしまったりするわけです。
 また一方、歳を取った方々が身体的に、体力的に不安を持ち、将来に夢も希望もないと嘆き、最近は高齢の方で自殺をする人が多くなっているそうです。
 ところで、現在、日本の年間自殺者が何人いるか知っていますか? 少し前に調べたら、以前は、年間三万人以上いたそうですが今は二万人くらいまで減ってきたそうです。それはよかったと思いますが、かと言って、実に二万人というのは交通事故死の約三倍にもなります。
 将来に不安を持ったり問題が解決されなかったりと自殺するには様々な理由があると思いますが、そこから何とか脱出して逃れたいと思うのは、海で溺れる人に似ています。海で何かつかまるものを見つけ、それをつかもうともがくのと同じように、藁をもつかむ思いでいるのです。そして、もう一度人生やり直せるのではないかというような思いで、そこから脱したいと思うそうです。
 普段神に頼ることのない人でも、困った時には神頼みをするのです。人間だけに神を求める心があります。より頼むというのは、私たち人間では解決できないものを解決してもらいたいと、私たちよりも優れたものに頼るということです。聖書は、「信じるものは救われる」と教え、まことの神を信じるなら救われますが、溺れた時に藁をもすがる思いで藁をつかんでも一緒に沈んでしまうのと同じように、日本人の多くが信じている神は、あてにはなりません。日本の八百万といわれる神々は、信じて拝んだら、また、多くのお金を積んだらご利益があるけれど、信じなかったらたたりがあるというのです。今の時代は偽りが横行し、オレオレ詐欺のように「信じる者がバカをみる」という時代になってしまっているのではないかと思います。

 皆さんもおわかりのように、人は自分で生きていると思うからこそ、問題にぶつかった時、悲しみに直面した時、自ら命を絶とうとするのです。
 しかし、人は神に覚えられており、神の計画の中に生かされており、神に出会う時が必ずあることをクリスチャンの皆さんは、ご存じであり、体験されておられます。しかし、救われるだけでは不十分だと私は考えています。
 皆さんは、神さまの計画の中でこの地上に生まれ、そして今生かされていますが、神さまはなぜ、皆さん一人ひとりをこの地上に生まれさせたのでしょうか。なぜ、今生かしておられるのでしょうか。何の目的があるのかということを考えてみてください。一人ひとり顔が違うように、皆さん一人ひとりに神様が目的を与えておられます。
 それを知るためには、まず、「神さまの偉大さ」と「神さまのみこころ」を知ることが重要だと思います。
 例えば、結婚を考える時には、「信頼できる人か、何ができるのか、自分に対してどれほど愛情があるのか」など、いろいろなことを考えますね。相手のことを知らなければ、信頼関係も成り立たないでしょう。
神さまとの関係も同じです。私たちの信じている神さまはどんなお方ですか? 神さまはあなたに何を求めていますか? 今日はそんなことを一緒に考えてみたいと思います。

 私たちの信じている神は、この分厚い聖書の初めである創世記一章一節に、『初めに、神が天と地を創造した』とあるように、すべてのものを造り、すべてのものを生かしておられる方です。
 天地が創造された目的は、最近学んでいるように、すべての被造物が主を誉め称えるためです。そのことを、皆さん是非覚えておいていただきたいと思います。
 また、神さまは、あなたを心配してくださるお方です。

『あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。』(マタイ六章二十七節)

 皆さんにはいろいろな心配があるでしょう。日本人はお金を貯めている人が多いと言われていますが、どれだけお金があっても足りないと心配します。経済的な不安に加え、健康の不安もあります。大人は子どもを見て、「何の心配もなくていいよね」と思ったりしますが、子どもには子どもなりの心配があるでしょう。ここにいる小学生も、もうじき夏休みが終わってしまうけど、まだ宿題が終わっていないと、心配をしている子もいるかもしれません。
 ある方に「先生にも悩みってあるんですか?」と真顔で質問され、少し返答に困りました。私はあまり悩まないほうだとは思いますが、時々頭を抱えるようなことはあります。
いつの時にも悩みは尽きないわけですが、永遠に生きておられる神は、そんな私たちのことを知っておられ、あなたの将来を知っておられるお方、そして、いのちを握ってくださっている方がおられるのです。それが私たちの信じている神さまです。

 そしてもう一つは、私たちの信じている神様は、あなたを誰よりも愛しているということです。

『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』(ヨハネの手紙第一 四章九〜十節)

ここに、神がひとり子であるイエスさまをこの世に送ってくださり、私たちに愛を示されたとあります。イエスさまを、私たちの罪の身代わりとし、十字架にかけて死なせるほどに、私たちを愛してくださったのです。

 皆さんは、その愛を感じておられると思いますが、人生に迷った時、問題にぶつかった時に、神さまのみこころはどこにあるのかと考える時があると思います。神さまが皆さんの前に現れて、「あなたは右に行きなさい。左に行きなさい」と言ってくれたら楽でしょう。皆さんがそれに従えるかどうかはまた別問題ですが・・・。でもそのように言ってくれたら楽なところもありますが、そうはいかないのが常です。
最近、特に「イエスさま、なぜこんなことが起こるのですか」、「なぜ、祈りが応えられないのですか」、「神のみこころ」はどこにあるのですかと、祈らされる出来事がいくつもありました。

 少し証しをさせていただきたいと思います。
皆さんに祈っていただいている私の兄の正広ですが、だいぶよくなって、今はリハビリの真っ最中です。一ヶ月ほど寝たきりでしたし体重も重いので、歩くまでには結構時間がかかるのではないかと先生から言われています。しかし、皆さんの尊い祈りによってここまでになったことを、高い所からで恐縮ですが、皆さんに心から感謝したいと思います。
 兄は、以前から脊柱管狭窄症と診断されていましたが、三度の飯よりも仕事が好き、という人ですので、ブロック注射を打ったりして痛みを抑えながらずっと働き続けていました。しかし、七月に入り痛みがひどくなり、一度は立てなくなり救急車で運ばれました。でもその時も痛み止めをもらって帰って来て、ちょっと治まったと思ったらすぐ仕事をしていました。「無理せず休め」と私と姉が言ったのですが、「大丈夫だ」と言って、次の日も車椅子に乗って店で仕事をしていたほどでした。
しかし、ついに立ち上がるのも痛いほどになってしまい、七月九日、私が車に乗せていつも通っている浜松の整形外科に連れて行きました。医師が、「かなりひどくなっていますね」と言ってレントゲンを撮ったりしましたが、原因がわからないということで、すぐに聖霊三方原病院に移されることになりました。MRIを撮り、画像を見た先生は渋い顔をして、「これはかなりシビアですね。すぐに入院してください」と言われました。私はそれを聞いた時に「先生が本人を前にこのように言うとは、相当重症なのではないか。大丈夫なのか」と不安になりました。
 兄は私の心配をよそに、ベッドに寝かされた状態ではありましたが、看護師さんに「あんたはどこから来ただん?」と話しかけていました。「わしは歳を取ってから病気になった時にはこの病院に入院することが憧れだっただよ」。「どうしてですか?」と看護師さんに聞かれ、「ここの創始者は長谷川保先生っていうクリスチャンで、わしもクリスチャンだけどね。長谷川先生はすごい人だっただ。だからわしも、そんな人になりたいと目指しているんだ」と証ししていました。看護師さんはちょっと迷惑そうに聞いていましたが・・・(笑)。病状とは裏腹に、口は元気でした。
 その後も検査が続き、体がだんだん浮腫み始め、微熱が続いていました。検査の結果、腰に膿がたまっていて感染症を起こし、菌が全身にまわっているということで、まずは血液の状態をよくするために膿を取り除く手術が行われました。腰だけでなく左肩にも膿がたまっており、切開して膿を取り除き、洗浄するという手術に四時間ほどかかりました。その一週間後の七月二十日、取りきれなかった膿を除く処置と同時に狭窄症の手術が八時間かけて行われました。術後はICUに入っていましたが、初めは、もともと九十キロの体重が、体にたまった水分で二十キロ以上も増え、手も足もパンパンに浮腫んで、肺も圧迫されているため、挿管して呼吸器をつけていました。それは話すのが大好きな兄にとって、いちばん辛いことだったかもしれません(笑)。
 そんな不安の中、二十二日の日曜日の朝に寛太君が倒れたという衝撃的なニュースが入って来たのです。
 先日、順先生が「一週間の間に二つの葬式をすることになるのかと思った」と言っておられました。時に順先生も大げさなことを言うことがあるわけですが、私も二十日に手術が終わって、多くの管を付けられてICUの中で自発呼吸もできないで、管を喉まで入れて呼吸させているというような状態を見た時は、さすがに、「このまま死んでしまうのではないか?」と思ったほどでした。
 それから兄がICUから出られるまで十日間かかりました。私はその間、仕事が終わってから毎日病院に行き、兄に手を置いて「神さま癒やしてください」と祈っていましたが、寛太君が倒れた日、私は一人で祈りながら兄の病院に向かっていました。運転をしながらzawamekiの「♪主のみこころが何であるかを 私に教えてください♪」と賛美し、「寛太君と私の兄、あなたの愛している兄弟が、今、死に直面しています。そこからもう一度立ち上がらせてください」、「神さま、あなたのみこころは何ですか?」と必死になって訴えながら祈りました。その時は、溢れてくる涙を抑えることができませんでした。
 ちょうど賛美月間の真っただ中で、多くの人に祈っていただき、勇気をいただいていました。また、順先生がメッセージで語られている三代・四代の呪いのことが心に留まり、私たち兄弟のために、その呪いを打ち破る祈りが必要と感じ、父の実家に祖父と曽祖父の名前を聞きに行きました。墓の場所もわかったのでそこにも出向き、断ち切りと解放を真剣に祈りました。そのことも、兄の回復を前進させたと思います。
 今は一般病棟の個室ですし、電話も自由にかけられ話すことができるので、毎日何十件も電話をかけている状態です。皆さんぜひお時間のある方は行ってあげてください。しかし、行く時には手ぶらで行ってください。何でも食べられますが、体重のことも気にして病院食以外一切食べませんし、また見舞金もお気遣いなく。皆さんが行って話し相手になっていただくのをいちばん喜ぶと思います。ただ、なかなか帰れないかもしれませんが・・・(笑)。
 寛太君は、大変な状況にありますが、自発呼吸ができるようになったり、反応が現れたりと、少しずつですけれども良くなっているという報告を聞いています。ぜひ信仰を持って、意識が回復し、立ち上がり完全な癒しが現されることを信じて続けて祈っていきましょう。

 さて、今年は、甲子園ミッションからちょうど二十五年という節目の年です。もう二十六年前ですが、当時この教会にいらした方はどのくらいおられますか? 半分以下ですね。四半世紀が過ぎましたからね。
今日、皆さんに配られたミッションニュースに、十一月三日に行われる『甲子園アフター25』という集会の案内が載っています。甲子園ミッションの決起大会や聖会を何度か行った球場のすぐ近くにある(旧)都ホテルで行います。ぜひ皆さんも今から予定に入れておいていただきたいと思います。
 また、リバイバルミッションでは、毎月一回、木曜日の午前十時半からネット礼拝「プレイフォーリバイバル」という祈りの集会をしています。ネット環境必要ですが、どなたでも参加していただけます。平日の午前なので、なかなか難しいかもしれませんが、参加できる方は是非ご参加ください。先日は、その集会のショートメッセージを依頼され、二十五年前のことを思い返していました。皆さんも何度も聞いたことですが、一九九二年二月に聖霊が注がれ、七月に霊的戦いが始まり、さあ、これから甲子園の戦いのために命がけで働こう!と意気込んだ矢先に、数々の大事件、数々の問題がこの教会に起こりました。順先生も先日、「本当にどうなることかと思った」と言っておられましたが、私も「これは大変なことになった。どうなるのだろう」と思いました。
この一九九二年の夏から秋にかけて、多くの教会員がここを離れていき、教会の存続すらも危ういというような厳しい状況でした。その時も私は、「神さま、あなたのみこころは、何ですか?」と神に訴え祈ったことを今でも思い出します。
私は本来、物事を計算して勝ち目のない戦いは絶対にしない現実的な人間です。そんな私が、明先生のビジョンに引きずられて、どう計算しても勝ち目のない甲子園ミッションの戦いに参戦することとなったのです。しかし、「やりましょう」と言ったものの、開催に対して多くの批判があり、反対運動が様々な方面から起こり、賛成する教会にも所属する団体から圧力がかけられ、八方ふさがり、絶体絶命といった感じで、私は、「これは本当に神さまのみこころなのか?」と半信半疑でした。
 しかし、そんな中、私の計算違いというか、人間の計算では計れない出来事が起きたのです。
甲子園ミッションのテーマのみことばは、エレミヤ書十章十三節の
『主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。』です。賛美にもなっていて、皆さんよく知っておられますよね。このみことばどおり、主が声を出されたのです。
 クリスチャン人口の少ないと言われる日本の中で、リバイバルを願う多くのサポーターが手を挙げ、この働きが進められていきました。劣勢が続く中でも明先生は、「これは神のみこころであり、必ず勝利してくださる」といった神さまから来る確信があり、一度もぶれることはありませんでした。
 当時、私はまだ三十歳そこそこで財務運営を任せられていましたが、実に準備から本大会までに献げられた献金は、六億円以上でした。
 そして、一年半の戦いの末、一九九三年十一月に三日間の全日本リバイバル甲子園ミッションの本大会が開催されたのです。先日、上條先生がその時の懐かしい映像の一部を流しておられましたが、その時も二十五年前を思い出し、私は涙が溢れてきました。

 実は、本大会の三日間、私はほとんど球場の中でその様子を見ることはありませんでした。私だけでなく、とりなしの奉仕者、警備奉仕者、誘導奉仕者など、多くの奉仕者が大会を見ることなく、それぞれの持ち場で献身的に奉仕し支えてくれていました。 
私は、大会中、球場のいちばん下に設けられた暗い本部室に監禁され(笑)、場内スタッフ用の無線機を持ち、様々な問題への対応指示が大きな仕事でした。また、外部からの電話にも応対していました。キリスト教に対して文句を言ってくる人や、「うるさいから早くやめろ」といった近所からのひっきりなしの苦情等々、時に心が折れそうなほど大変でした。
 そんな中、三日目の夜、最終日の最後の最後に、明先生が決心者を招き始めた時に無線があり、「本部室には誰もいなくなってもいいから会場に来い!」と呼ばれました。なぜ呼ばれたのかというと、招きに応じた人々が十字架のステージに詰めかけていたからです。十字架のステージにそれほど多くの人が乗るという想定で作られていなかったため、壊れる可能性があるということで、人々を上手に誘導するため、指示するために声の大きい私が呼ばれたというわけです。といっても、全体に響くわけではありませんが(笑)。その時初めて、私は大会中の球場を見ました。
 私がそこで見たのは、多くの決心者が怒涛のように、われもわれもと十字架に向かって歩いて行く姿、走っていく姿でした。今までに見たことのない光景に感動を覚えたのですが、私は人々をステージ上に上げるのを阻止しなければならず、感動に浸っている余裕はありませんでした。
 何とか十字架のステージも壊れることなく、明先生から祝福の祈りを受けた人々がステージから降り、すべての集会が終わった時、私は疲れ切って何か力が抜けたような感覚のまま、球場から出てくる人たちに挨拶しようと出口に立った時でした。球場から出てきた人々が、「恵まれました」と言葉で言ったわけではないのですが、クリスチャンもノンクリスチャンも来る人来る人皆が、本当に恵まれた、これ以上ない輝くような笑顔だったのです。それを見た私は、すべての疲れが吹っ飛んで、ものすごい感動が私の体の中を走ったのを感じました。
 戦いも大きかったですが、確かにこの大会は、主が導いてくださった、みこころの働きであったと感じ感謝しています。また、この大会はキリスト教界に一石を投じました。また、あの大会で救われ、あの大会で献身し、あの大会を通して牧師になったという方の証しを、様々な所で聞くことができました。

  初めにお読みしたみことばに戻ります。
この盲人は多くの苦しみと屈辱を受けていましたが、神の愛によって目が開かれ、今まで見えなかったものが見えるようになりました。しかし、それは単に目が癒されただけでなく、虐げられてきたどん底の人生から救われたのです。イエスさまは「神のわざがこの人に現されるためです」と言ってこの盲人を癒しました。神のわざを現すということ、これは神さまのみこころです。
そして、エペソ一章十九節には
『また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』とありますが、私たちが偉大な神さまを知れば知るほど、私たちが今見ているもの、私たちが知っていることは、神さまからしたらほんの一部分でしかないことを知らされます。私たちもこの盲人の目が開かれたように、霊的な目を開いていただき、今まで見ていた景色や今までの価値観ではなく、私たちに与えられているものがどれほど偉大で素晴らしいものであるかを知らなくてはなりません。
そして、イエスさまは、ご自身がわざを行って盲人を癒されましたが、今は、私たちに神さまの全能の力を与え、私たちを通して主のわざを現したいと願っておられるのです。
 
ヨハネの福音書九章四~五節には
『わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。』とあります。

 Zawamekiの中に「光のある間に」という賛美があります。この賛美は、一九九八年の武道館で行われた東京リバイバルミッションのテーマソングでした。私は今も時々に東京に出かけ、都会の人混みを見るたびごとに、「この人たちはどこに向かっているのだろう? 自分の行き先がわかっているのだろうか?」と考えさせられます。

 マタイの福音書二十四章三十五〜三十九節には、終末のことが書かれています。

『この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。』

近年、あちらこちらで起こる大きな地震、異常気象、また日本は「平和だ、平和だ」と言っていますが、いつ戦争が起こってもおかしくない時代となり、確実に主の訪れが近いことを感じます。そんな世の終わりが近づいていることを、間もなく昼の終わりが来ることを、クリスチャンでなくてもうすうす気づいているような状況にもかかわらず、誰も準備をしていないのが現状ではないでしょうか。
 
『この幻は、定めの時について証言しており、終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。』(ハバクク書二章三節)

 先週、順先生が語られたみことばの一つですが、主がもう一度この世に来られる。主がもう一度、さばきのために来られる。やがて誰も働くことのできない夜が来ると聖書は教えています。

 神さまのいちばんの目的は、魂の救いであり、そして先に救われた私たちクリスチャンに、あなたに対して、「神さまのために働きなさい」と主は語っておられます。

『神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』(第二コリント六章二節)

今は、とがめられることなく自由に賛美し自由に祈り、自由に伝道できる、そのような恵みの時代です。神さまはこの恵みのある間、主のあわれみのある間に、主のわざに励みましょう。
小さな子どもからお年寄りまで、神さまのわざを現す力が与えられています。そして役割があります。その時代、その年、その日、その時に私たちに委ねておられる神のご計画があることを覚えて、主のみこころが現されることを願い、日々主のために祈り戦い、勝利してまいりましょう。

 お祈りしましょう。
神さまは私に何を求めておられているのか、私がなぜ生かされているのか、そして私の働く場所がどこなのかということを、主がお一人おひとりに語ってくださると思います。私たちは弱い者です、足りない者です、何もできない者です。しかしその弱い者を、足らない者を主は選び、勇士として使おうとしてくださっていることも事実です。世の終わりが近い今、主が語ってくださることばを聞き、自分が置かれている環境、自分が置かれている場所、年代で、私たちができることを主の前にささげ、主のわざを現していきたいと切に願います。短い時間ですが、個人個人、主の前に出て、「主よ!私を使ってください!」と祈ろうではありませんか。

 一言お祈りいたします。

 ハレルヤ! 主よ、心から感謝いたします。
主のみこころが何であるか、私に教えてください。私たちにはまだまだわからないことがたくさんあります。明日のことは何もわかりません。しかし主は私と共におられ、私を使い、ここにいる一人ひとりを使って主のわざを現そうとしてくださっていることを心から感謝いたします。お一人おひとりに主が臨んでください。そして新しい扉を開いてください。主のわざを現してください。主の大いなるみわざ、大いなる恵み、大いなる力を信じます。
今からイエスさまの御血・御肉にあずかる聖餐式にあずかります。イエスさまが私のために十字架にかかってくださり、ここにいるすべての人のために十字架にかかり死んでくださり、三日目によみがえられました。今私たちは、そのよみがえりの主を礼拝し、よみがえりの主を感謝し、このことを告げ知らせる者として聖餐にあずかろうとしています。今からの聖餐式を豊かに豊かに祝福してください。主のみ名によって祈ります。アーメン。