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「彼らに主の名をほめたたえさせよ! パート20
 ~地上のすべては、あなたによって祝福される~」

2018年10月28(日)
新城教会主任牧師 滝元順
創世記12章1節〜3節

『主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

ハレルヤ!おはようございます。今の賛美、すばらしかったですね。JOY!JOY!JOY!と言うパートだけなら、私も仲間に入れてもらえるかなと思いました。ワークショップ、「JOY!の部分だけ入れてください」と頼んでみたら楽しそうです。

 長い間、教会を留守にしましたが、半ば忘れられたのではないかというくらいでしたが、祈りに支えられ、祝福された旅を続けることができ、心から感謝します。
 今日読んでいただいた聖書箇所は、大変有名な箇所です。かつて古代シュメール人の都、ウルと言う街に、アブラムという一人の男が住んでいました。この街は偶像礼拝の街で、主を信じる者など誰もいませんでした。
 しかし、そんなただ中で、アブラムは神の声を聞きました。どんな声を聞いたのかというと、『主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。』という声でした。

 この街には、まことの神について伝えてくれる人など誰一人いなかったと思われます。しかし、アブラムは神から直接、声を聞いて従ったのです。
 神は、『わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。』とアブラムに語られました。
 私たちの名前が、「祝福となる!」なんて語られたら、そんな嬉しいことはありません。
 イエス・キリストを信じる為には、決断が必要です。日本においても、アブラムと同じような環境があるかもしれません。日本において普段、イエスさまの話しを聞く機会は、非常に少ないです。「あなたの生まれ故郷、父の家から出なさい!」とは、偶像礼拝から離れて、まことの神に従う決断です。

 アブラムは、主を信じる信仰者の原点のような人物です。アブラムが主に従ったことにより、やがてアブラハム、イサク、ヤコブとつながり、イスラエルができて、そこからイエスさまがお生まれになり、今や世界中に福音が広がっています。それは一人の勇気ある決断と行動があった為でした。この行動が、後に世界に大きな変化をもたらしたのです。

 人生は出会いで決まると言われますが、ちょっとした出会いと決断が、その後を大きく変えます。
 実は二、三時間前に、私はメールを受け取ったのですが、それはジョー先生の長女のチェルシーが結婚式をあげたからです。
 彼女は、ハワイ・リバイバル・ミッションで、一年近くハワイに住んで働いてくれました。
 ジョー先生の先祖は、遠い昔、イギリスのほうに住んでいました。しかしある人が決断したのです。「イギリスに住んでいてもいいことはない。新大陸アメリカに移住しよう!」と決断したわけです。それが後に、このようなファミリーになるとは、誰も考えなかったと思います。
 私たちがイエス・キリストに従っていくなら、やがて歴史を塗り替えるような大きな変化をもたらします。

『地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。』
 こんなことを言われても、アブラムは全く予想出来なかったと思います。
 実は、「民族」と訳されている言葉ですが、「家族」とか「親族」と訳した方がより近い意味になります。また「動物たち」、「物が多くなる」、そして、「部族」というような、いろいろな意味にも訳せます。中心的な意味は、「家族」です。
 私たちがイエス・キリストを信じる時、家族の中に大きな変化がもたらされます。しかし偶像礼拝の環境から飛び出すことは、なかなか大変です。アブラムがその決断をして、勇気ある行動をとったことにより、後の家族に大きな変化をもたらしました。
 私たちもこの日本において、決断と行動を神から求められます。

 先ほども祈りの中にありましたように、今週は、リバイバルミッションにとって、また新城教会にとっても、記念の週です。
 忘れることができません。一九九三年十一月三、四、五日の三日間、阪神甲子園球場で「全日本甲子園リバイバルミッション」が開催されました。その時の写真がありますが、この頃は親父も元気で、甲子園球場でメッセージを語りました。最後の招きに応じて、何千人もの人たちが、講壇の前に詰めかけたのを、昨日のように覚えています。

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 しかしこの大会も、始まりは小さな事から始まりました。父とか、田中政男先生たちが、愛知県民の森で祈り始めたとき、また下條先生が、「自分の街にある甲子園球場で集会ができたら・・・」という、淡い夢を述べたことによって、後に、当時の牧師達の勇気ある決断と行動によって、成し遂げられたわけです。
 一人ひとりに、神はビジョンを与えて、行動に移らせて下さいます。それはまさに聖霊の働きです。

 ウルにおいて、アブラムに声をかけたのは、他でもなく、聖霊さまご自身であったのです。今も、聖霊さまは私たちの中に働いて、私たちにも声をかけてくださるのです。

 アブラムはやがてアブラハムと名前が変えられました。

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 ここに地図がありますが、アブラハムはウルからハラン、やがてカナンの地、エジプトまで下り、またカナンの地に戻る、遠い旅を強いられることになりました。それらもすべて、神の指示によってなされたことです。

 イエス・キリストを信じる時、旅が始まります。それは主と共に旅することを意味します。ゆえに、それぞれの場面において意味があるのです。
 イエス・キリストに従う前の人生は、悪魔に操られますから良さそうに見えても、やがて潰れていくわけです。しかしイエス・キリストを信じた後の人生は、それとは違い、一つ一つの場面に大きな意味があって、一つの行動が、次の世代の祝福につながるのです。

 この二ヶ月くらい、私も、アブラハムまでは行きませんが、距離的にはそれ以上でしょうか、長い旅をしてまいりました。

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 九月はラバウルに行きましたが、そこで大きな和解の集会がもたれました。これは国家的な行事で、日本がかつて戦争において血を流した罪を悔い改め、和解することが出来ました。そして、イエス・キリストによる平和を、共に宣言することができました。本当に意味のある働きでした。

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 帰ってすぐに、北海道に行き、「くんねっぷ町」という、あまり誰も知らない小さな町で奉仕しました。ここでの集会もすばらしかったです。
 ここで歌っておられる方々は、北海道の農家の奧さん方とか、そういう方々です。今日のヘブンリーキングダムの賛美も素晴らしかったですが、北海道の農家の方々の声の出方はちょっと違います。何百メートルも離れた所に「おーい!」とか、「あぶなーい!」とか、日々、叫んでいる人たちですから、腹からいつも声を出しています。農作業の機械の騒音の中で、やっぱり声量が半端じゃないです。この人数でも、迫力ある歌声でした。
 永易先生ご夫妻が、十年以上にわたってこの地で伝道をしておられます。そして、徐々に実を結んでおられます。本当にすばらしい集会を持つことができました。

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 帰って来て、二日後にはスペインに行きました。スペインではがらっと、雰囲気が変わり、「TBN」というテレビ局で福音を語らせていただきました。今回、メディアの力ってすごいなぁと思いました。クリスチャンが、メディアを勝ち取らなければいけないと思わされました。現代は電波だけでなく、インターネットでも世界中に映像が配信されますから、一度に何百万人も見ることができるわけです。

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 続いてイギリスに移動して、霊的戦いセミナーで奉仕しました。そこには、様々な国の方々が集まってくださいました。セミナーは、フェイスブック・ライブで同時中継されていました。「どのくらいの人が見たのですか?」と聞いてみました。最近、リバイバルミッションでも、ライブ中継しているのですが、「四、五十人ライブを見た!すごい」と喜んでいるのですが、なんと、ヨーロッパから中継したら、六万人が参加しました。はじめから、終わりまでちゃんと参加した人は、「一万二千人」だというのです。メディアってすごいと思いました。

 イギリスから、再度、スペインに戻って、日本に帰国し、翌日からは「リバイバルミッション二〇一八」で東北に行きました。先週は、山形県の酒田市で礼拝の奉仕をさせていただきました。

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 本当にいろいろな働きをさせていただきましたが、これらも考えてみれば、一人のの決断から始まったわけです。

 私の父がこの地に入って福音を伝え始めた頃は、今日起こっているようなことは、まったく予想出来なかったはずです。
 私の父の家は偶像礼拝の家で、修験道に熱心な家でした。彼が主イエスを信じた事により、津具村では大問題になったみたいです。しかしそこから出て、旅を始めた事により、みことばの約束通り、『あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。』と、実現したわけです。
 神が味方になるなら、私たちを祝福する者は祝福され、私たちをのろう者はのろわれるほどの、圧倒的勝利が与えられるのです。天地宇宙を造られた神が味方になることほど、すばらしい人生はないですね。

 この祝福は、家族、親族、動物、物など、最近、私たちが学んでいる、神が造られた被造物全体に及んでいくのです。
 今日ここに集っているのは、ひとりの祝福ではなく、家族だけの祝福ではなく、神が造られた被造物全体に及ぶのです。

 アブラムは、やがてアブラハムと名前が変えられるのですが、「アブラハム」とはヘブライ語の単語の合成で、「多くの国民の父」という意味に変えられたのです。
 何気ないアブラムという名前が、「ハ」が入って、入れ歯が入ったわけではないですが、アブラハムになって、多くの国民の父となって、今や世界中の人たちに知られるようになったのです。
 アブラハムは、クリスチャンの原点のような人物です。私たちも同じように、イエスさまに従っていくなら、同じことが起きます。

 父の家から出て、偶像礼拝から離れるのには、大きな勇気が要ります。孤立するかも知れません。しかし神の命令に従う時、祝福があるのです。
 イスラエルがエジプトに連れて行かれた後も、同じことを主は語られました。レビ記十八章三節、

『あなたがたは、あなたがたが住んでいたエジプトの地のならわしをまねてはならない。またわたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地のならわしをまねてもいけない。彼らの風習に従って歩んではならない。 』

 イエス・キリストを信じる時に、「この地のならわしをまねしてはいけない」と主は言われます。私たちは、この点をよく心にとめておかなければならないです。

 午後からは、「霊的戦いセミナー」をもちたいと思います。ぜひ出席していただきたいです。今回は、二つのテーマでお話しさせていただきます。それらは、この世のならわしです。このならわしに引っ張られると、行く末は祝福を失うどころか、滅びてしまう危険性があります。
 午後のセミナーのテーマは二つ、「ハロウィン」と「ヨガ」です。

 最近、ハロウィンが広がっています。ちょっと前まで、そんな風習は日本には、なかったですが、あっという間に広がりました。なぜなら、日本はハロウィンを受け入れる下地があるからです。ハロウィンの根源がどういうものか、お話しさせていただきます。特に子どもたちも聞いてくださいね。子どもたちの世界には、ハロウィン・キャラクターがいっぱいありますが、ハロウィンに参加できないとさみしい、なんて絶対に思わないほうがいいです。短い動画もお見せします。
 昨晩も、ザワメキの時にその動画をお見せしたら、孫たちもそれを見て、びびっていました。「ハロウィンなんかやっちゃいけない」と子どもたちでも分かります。ぜひ見ていただきたいです。

 そして最近、健康法の一つと考えられているのが「ヨガ」です。ヨガがスポーツクラブや様々な場所で流行っています。それは健康に良いからと思って、人々はやっています。しかしその実体は、本当にやばいです。今回、この二つをご説明させていただきます。ぜひともそれらに対して、正しい理解を持っていただきたいと思います。

 そもそも霊的戦いはどこで起こるのか。悪魔の立てこもる要塞はどこにできるのかというと、第二コリント十章五節、

『私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。』

 悪魔の要塞は、内側にできるのです。
 どういう具合にできるのかと言うと、神が人類に提示されている知識の「逆の考え方」の中に形成されるのです。パウロはそれらを、『さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり』と表現しています。それが、悪魔の立てこもりの要塞です。
 私たちの内側の要塞が崩されるとき、すなわち、『あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができている』というわけです。
 私たちの頭の中を、どんな考え方が支配しているのか、チェックしなければなりません。神の知識以外の知識は、悪魔の要塞となります。
 しかしその要塞がなくなると、なんと、「外側も変わっていく」というのです。内側の戦いに勝利すると、外側の戦いも勝利するわけです。
 特に、この二つのテーマは、結構大きな要塞であると思われますので、セミナーに出ていただきたいと思います。

 アブラハムが、「あなたの父の家から出なさい」と決断を迫られ、行動に移す過程では、さまざまな葛藤があったはずです。
 彼には、ウルにおいて、将来の夢があったと思われます。将来、こんなふうにしたい、あんなふうにしたい、人生の夢があったと思われます。しかし、神が声をかけた時、自分の夢を放棄しなければならない部分も、結構多くあったと思います。
 世界最強の、古代バビロニア帝国につながったウルは、当時、世界最大の都市でした。最も、発達した街でした。そこで生きるのは、結構、居心地が良かったはずです。しかし「そこから出なさい!」という声には、けっこう葛藤があったはずです。

 マタイの福音書十章三十八節〜三十九節にこんなことばがあります。これはイエスさまが語られたことばです。

『自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。』

 イエスさまに従う時には、「自分の十字架を負ってついて来なさい」と言うのです。
 ここにも十字架がありますが、十字架は、死刑の道具です。「自分の十字架」とは、自分を死刑にして殺す道具です。わざわざ、自分を殺す道具を担いで歩くなんて、冗談じゃない!と思いませんか。しかし、イエスさまが言われたのは、「自分の十字架を負ってわたしについて来なさい。そうでなければふさわしくない。」と言うのです。
 そして、『自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。』と語られています。

 また、ヨハネの福音書十二章二十三節〜二十五節でも、同じような内容をイエスさまは語られました。これはイエスさまが十字架につかれる直前のことですが、

『すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。』

 神の祝福を受け取る条件は、結構厳しいです。神からの祝福がほしかったら、「自分のいのちを捨てろ!自分のいのちを憎め!」と言われるのです。自分を愛している中では、神の祝福は現されないというのです。自分を捨て、自分を殺すための道具を背負ってイエスさまについて行けと命令されています。そのとき、いのちがあるのです。
 「厳しいなぁ」と思うかもしれません。やっぱり厳しいですよね。
 信仰の道は易しい道もありますが、やはり、厳しい道もあることを、知らなければいけないわけです。しかしそこに聖霊さまが働いてくださるならば、普通ではできない決断を、聖霊さまが助けてくださるのです。

 今回、スペインで奉仕させていただきましたが、今まで、何度もお話をさせていただいたので恐縮ですが、なぜ、TBNなどでメッセージさせていただけるようになったのかと言うと、私が有名だとかいうことでは全く、ありません。それは神の不思議な計画の実現と言うほか、何物でもありません。

 今から六十年くらい前、この教会に初めて激しく聖霊さまが訪れられました。新城教会が建っている場所は、以前は製材所で、丸太がごろごろ置いてあった場所でした。そこには当時、多くの若者たちが働いていました。その若者たちが主を信じて、休憩時間には、丸太の間に入りこんで、叫んで主に祈るようになりました。
 すると聖霊が訪れ、その中の数人の若者たちに、主が直接語られました。それは、「あなたは自分の夢を捨てて、わたしの言いつけに従って歩みなさい!」という語りかけでした。
 その中に、田中政男という青年がいました。その人は、「将来は材木問屋の社長になる!」というのが夢で、夢の実現に向けて、日々、辛い仕事にも耐えていたのです。しかし、丸太の間で祈っている時、聖霊が「あなたの夢を捨てて、わたしの示す地に行きなさい!」と語られ、彼は結婚式の翌日に出て行きました。それも主は具体的に語られました。具体的に声が聞こえた時は、注意する必要があると思うけれど、彼は、単純に従いました。「浦川という町に住んで伝道しなさい」と語られたのです。浦川なんて、どこにあるのか、分からなかったけれど、調べたら、飯田線沿線を一時間くらい、奥に入ったところに「浦川」という駅があったのです。「そこだ!」と、彼は信じ、また周囲の誰も反対せず、止めませんでした。結婚した次の日、彼らは浦川に行っちゃったのです。

 それに続いて、数人の若者たちが次から次へと伝道に出かけて行きました。普通、教会を作りたかったら、田舎に行っては駄目です。田舎で伝道したって、人は集まりません。今は、神学校を卒業したら、みんな都会に出て行きます。田舎に行く人なんて、ほとんどいません。田舎の伝道は、本当に大変です。しかし田中先生は浦川という佐久間ダムの下の、寂れた町に行きました。

 もう一人、中村一夫という青年がいて、彼は東栄町本郷という村に入っていきました。ここにも東栄町出身の方がおられますが、今では限界集落です。この話しは、以前にもお話ししたので、何度も聞くかもしれませんが、東栄町って、こんな所です。ここで宣教を開始したわけです。

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 彼は、二十年、三十年と、この地で働きました。彼の出身は新城教会のすぐ前の富永という地区の人です。彼は肺病になって、仕事ができなくなって、一度街に出たのですが、故郷に帰って療養中でした。ある日、近くの菅谷床屋さんに行ったというのです。
 すると床屋さんの親父さん、当時はクリスチャンではなかったけれど(後にクリスチャンになりました)、「あんた暗い顔しとるのん。どうしただん?」と聞いたそうです。「病気になった」と答えたら、「この頃、若い人たちが近くの教会に行って、明るい顔をしとるぞん。あんたも教会に行きん。」と言われて、新城教会に来てクリスチャンになったのです。
 そうしたら彼にも聖霊が注がれ、「田舎に入って行け!」と語られたわけです。それで東栄町に行ったわけです。人気もない、川はきれいですが、へんぴな場所に入って行きました。

 二十年くらい伝道しても、救われる人はほとんどいませんでした。誰か救われても、他の町に出て行ってしまうのです。ある日、中村さんが父の所に相談に来たのを覚えています。「滝元先生、私は二十年くらいこの村で伝道したけれど、誰も救われません。私はもう、この村での伝道をやめて、新城に戻りたい・・・。」と、私の目の前で父に話していました。それを私は横で聞いていて、口を挟みました。「そうそう。絶対にやめたほうがいい。人生棒にふるよ!」とか、余計なことを言いました。しかし父は、「もう少し祈ってみたら・・・?」とか言っていました。
 すると、「もう一度祈ってみるか・・・」と言って、中村先生は東栄町が見える場所に登って祈ったそうです。
 そうしたら主が心に語られたというのです。神さまは結構優しいです。「やめてもいいよ。でも、あなたがこの村から去ったら、ここに来て宣教する人は、誰もいないだろうね・・・。」という声が心に響いたというのです。「俺がこの村の伝道をやめて出て行ったら、誰もここには来ないだろうな・・・」と、ふっと思ったそうです。それで滝元順の「やめたほうがいい、人生を棒にふる!」という、悪魔の声を退けて、彼はそこにとどまり続けました。

 それでも、やっぱりうまくはいきませんでした。しかし、しばらくすると、精神的に少し病んだおじさんが教会にやって来たのです。その人は選挙戦に熱心になりすぎて、ノイローゼになったというおじさんでした。

 この方は、農協に働いておられたのですが、病気になって教会に来られたわけです。しかし教会に来ているうちに、元気になりました。それで農協に戻ることができました。彼は元気になって、農協の参事でしたので、一つの企業を誘致しました。

 するとある時、この会社にペルー人夫妻が入社しました。

 今回、スペインとイギリスで奉仕をさせていただいたのですが、このチーム、「チーム新城」です。

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 三人とも、新城教会出身者で、フェルナンド先生と私、そして、真ん中の二人はホルヘ先生夫妻です。
 実は、真ん中の二人は、かつて東栄町で働いていた従業員でした。
 けれども、彼らは突然、途中でいなくなりました。彼はいつも土曜日に新城教会に来て、礼拝に出て、もう一泊して月曜日に東栄町に戻る生活をしていて、私もよく知っていました。途中で、突然、いなくなりました。
 どうしたのかなぁと思ったら、彼はビザがなくて、不法滞在で強制送還されたと後に聞きました。
 それから後、彼らの消息は全くなくなり、記憶も薄れていきました。
 しかしそれから数年後、彼はスペイン人となって、新城教会に戻ってきました。なんと彼は、スペインで牧師になり、テレビ伝道者となっていました。
 彼は新城で霊的戦いを経験し、また聖霊の注ぎを経験して、ヨーロッパに絶対それらが必要だ!ということで、私とフェルナンド先生をスペインに度々、呼んでくださるようになったのです。それで私たちは、スペインに行くようになったわけです。

 なぜ彼がスペインに渡ったのかというと、彼はペルー人ですが、ペルーに帰国後、ご夫妻に一人の男の子が生まれました。それがアロン君という、重い障害を持った男の子でした。ペルーでは治療が難しいということでした。ペルーはスペインに侵略されてできた国で、現在のスペインは南米の人たちを、心広く受け入れています。スペインは子どもの医療費がタダということで、ペルー政府とスペイン政府の計らいで、アロン君はスペインに渡り、治療を受けることになったのです。それで一家は、ペルーから遠く離れたスペインまで渡ったということです。
 今回、テレビの放送の前に撮った写真ですが、チーム新城の三人で、二時間番組を担当させていただきました。三人で分担して、生放送二時間番組。私たちは毎年やっていますから、打ち合わせは何もありません。「二時間、自由にやっていいですよ!」という感じで、「はい!本番!」と渡されて、二時間、テレビを通して福音を全世界に伝えました。「チーム新城ってやるじゃん!」という感じでしょう。

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 これは、地域の牧師会です。牧師会にも招かれて、霊的戦いセミナーをスペイン人や、中南米の先生方の為に行いました。東栄町出身のホルヘ先生が、すべてセットアップしたものです。いや〜不思議だなぁ。

 スペインでの働きが終わったら、チーム新城はイギリスに移動しました。ロンドンは二階建てバスが走っています。

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 そこでは、さらに多くの教会リーダーや牧師のための霊的戦いセミナーを行いました。フェルナンド先生、かっこいいですね。背も高く、すらっとしているし、スペイン語もできるし。当たり前ですが。私なんか、チビで日本語しかできなくて、なんか本当に恥ずかしいです。しかしこのように働きが広がったのは、まさに、アブラハムの祝福と呼べるのではないでしょうか。
 時代、時代、それぞれの人たちが、忠実に主に従った結果として、もたらされたものです。

 新城教会は創立以来、六十数年になります。それぞれの時代を担った人々が、忠実に自分を捨て、自分の十字架を負って、主に従った結果として、広く、多くの働きが委ねられたと信じています。
 もしも、それぞれの時代の人たちが、自分のいのちを愛して、自分の計画を優先させたら、今頃、どのようになっていたのでしょう。最初に新城教会に聖霊が注がれた時、田中先生とか、中村先生とか、そのほか当時の若者たちは、様々な夢を持っていたはずです。普通は田舎に入って伝道なんて、絶対にしなかったはずです。自分の夢を叶えるためには、都会に出て行く必要があります。しかし彼らが、自分のいのちを捨て、いのちをイエスさまに献げたことによって、現在、このようなことが起こっているわけです。

 「一粒の麦が地に落ちて死ななければそれは一粒のままです。」とイエスさまは語られました。植物はすべて、種から芽生えるわけです。種のままなら一粒でも、種が蒔かれると、元となる種は腐るけれど、そこから多くの実を結ぶのです。まさに、クリスチャン生活は「一粒の麦」です。一人ひとりが一粒の麦となって、主に自分を献げる時、それが後に大きな祝福となるのです。
 これは直接献身せよ、という意味ではありません。それぞれの役割がありますから。それぞれの役割の中、自分を捨て、自分の十字架を負って主に従って生きることが大切です。

 ヨーロッパは教会が、現在、かなりダメージを受けていて、多くの教会が閉鎖されて、イスラム寺院に変わっています。
 今回私たちがセミナーを持った場所も、昔は国教会だったんだろうな、というような立派な建物でした。しかし今では、南米の方々の教会になっています。
 中に入るとステンドグラスがあったり、カトリック教会じゃないか、というような様相です。今イギリスの教会は弱っているけれど、南米の熱いクリスチャンたちを主は移民させて、もう一度、リバイバルの火を燃え立たせようとされています。
 私はスペイン語圏の方々が、これからヨーロッパの霊的領域を担うのではないかと感じています。もしも私も、任された領域の中で、その働きを助ける事ができたら、本当に嬉しいです。

 来年、私たちは、ベルギーとフランスに行くことになりました。今回、ベルギーから牧師先生たちが来て、わざわざ、「来年、ぜひベルギーに来てください。」と頼みに来られました。「チーム新城、ぜひ、ベルギーで霊的戦いセミナーをやってください!」「フランスでもやってください!」「スイスでもやってください!」と、いろんな所からオファーが来ました。六十七歳の私に、果たして対応できるのか心配になったくらいです。
 しかし主がそのような道を開かれたのは、私一人のことではなく、それぞれの時代に、忠実に主に従った聖徒達が背後にあったからであり、その証しです。

 時に、弱さがある時、なんとか弱さが解消されるように、祈り、願うものです。パウロも弱さがあったみたいです。彼は三回ほど、「主よ。この弱さを取り去ってください」と祈り願いました。どんな弱さだったのか、はっきりしないのですが、目が悪いとか、いろいろ推測されます。しかし主は、「あなたにとってわたしの恵みは十分です」と言われ、パウロは弱さを抱えながら宣教活動を続けました。

 ホルヘ先生を見ると、彼はたいへん陽気な人ですが、息子さんが重い障害を持っておられます。いつどうなるか分からない中で、がんばって主に仕えている姿を見て、たいへん感動します。

 今回、コロンビア人の牧師先生の教会で奉仕しました。彼が周辺の多くの教会のリーダーたちに声をかけて、「日本から霊的戦いのセミナー講師が来ますから、集まりませんか?」と、多くの人たちを集めてくださいました。
 それはペテロ先生という、たいへん穏やかな先生です。でもこの先生も、一人の息子さんに障害があります。大変な中、主に仕えておられます。
 神さまは、強い人を用いるのではなく、弱さを持っている人を使うのだと思います。主のみ名を心からあがめました。

 私たちも時に、弱さを覚えるとき、その弱さがなくなったら、どんなに良いかと思うのですが、「あなたにとってわたしの恵みは十分です!」と言われるのかもしれません。または、問題を取り去ってくださるのかもしれません。
 しかし詰まるところ、私たちは自分を捨てて、自分の十字架を負って、主に従い通すことです。

 先ほど、ヨハネの十二章の所を読んだのですが、『自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。』とありました。

 「自分のいのちを憎む」なんて、どういうことなのか、と思うのですが、注解書で調べてみると、こんなふうに解説されていました。
 「いのちを憎むとは、己の生命を愛することの反対。」当たり前ですが、「神に仕えんとする者は、この世におけるその命がいかに多くの妨害を与うるかを知るがゆえに、これを憎むに至る。」と解説されていました。
 そしてもう一つ、「ギリシャ人は本来、自己とを愛し、これを完成しようとした。ヒューマニズムはこの点において、福音と対立する。」とありました。イエスさまの時代、世界はギリシャ的な世界観が覆っていました。
 当時の人たちの目標は、「自己実現」だったのです。自分の夢と計画を実現するのが、人生において、最もすばらしいと考えられていました。
 そんなただ中で、イエスさまが、「自分を捨てて、わたしに従いなさい。自分のいのちを愛するのではなく、憎め!」と語られたのは、「ギリシャ的世界観に対する、対抗」であったのです。それが、「自己愛と自己実現からの解放」でした。

 現代社会もまた、自己愛が強い世界です。何年か前に、NHKの100分名著という番組で、「フロム」という人の書いた、「愛するということ」という本が紹介されていました。以前にも、少し紹介しましたが、フロムはユダヤ人ですが、愛について科学的に分析しました。そして彼は、現代人のことを次のように分析しました。

 「ほとんどの人が愛を、愛するのではなく、愛される問題として捉えている。」と指摘しています。「人は常にどのようにしたら愛される人間になるのかが、最大の関心事だ。男性は女性から愛されるために、地位や名誉、経済力を身につけ、女性も男性から愛されるために、自分を磨く」
 そして彼が言うのには、「ゆえに現代人の結婚相手は、あたかもバーゲンの掘り出しもののようだ。互いに自分の要求を満たしてくれる相手を求め、市場で最良の商品と出会った時、恋に落ちる。それはナルシズム、自己愛を基本とする愛の形だ。」と分析しています。
 イエスさまの時代も、同様の時代だったのです。今の時代も、自己愛と自己実現の世界です。
 こういうただ中で、私たちクリスチャンが、みことばを実践するのは、なかなか難しいです。
 しかし私たちは、決して、自己愛や自己実現を目標として、人生を組み立ててはいけないのです。自分を捨てて、自分の十字架を負って、主のみこころに従っていくのが、クリスチャン生活です。

 人間関係のこじれも多い時代です。ある牧師がこんなことをブログに書いていました。時々、人間関係がこじれる時、人間関係の力関係を一発で変換し、有利な立場に転換する強力な「一発変換ワード」があるというのです。
 みなさんよく、聞いておいてくださいね。人間関係がもつれた時、一発で優位に立てるキーワードがあるのです。それはどういう言葉かというと、「傷ついた」という言葉だというのです。
 この言葉は、先に言った者勝ちだというのです。「この言葉を発した瞬間、傷ついた弱者は一転して、被害者という義人、強者となり、傷つけた相手は、加害者となる」というのです。
 関係を瞬間的に優位に立たせるワードが「傷ついた」という語です。「傷ついた主の〜♪」と歌っていますが、そうではなくて、誰かに何かいやな事を言われた時、「傷ついた」と言えば勝ちです。しかしこれは、自己愛的な考えから出てきているというのです。
 「傷つきやすい人は、人を傷つける言動をしている場合も多い」というのです。「傷つけられた被害者の自分は見えても、傷つけている加害者の自分は見えていない」というのです。
 よく「傷ついた」という言葉を使ってしまいますが、優位に立ちたかったら使ってもいいですが、これこそ、自己愛の代表的ワードみたいです。そう感じたときには、ぐっと我慢するのが、イエスさまに従うことかなと思います。

 フロムの主張の好きなところは、彼がこのような世界になった原因を、「あんたが悪い」と個人になすりつけるのではなく、こう語っています。
 彼の分析では、「経済の発展と共に何もかもが商品化され、物質的な成功が最も価値あるものとされたことにより、愛情関係さえも、市場経済と同じ思考に従っている」と指摘しています。経済の世界に問題があるというのです。経済界から、自己愛の世界ができあがっていると指摘しています。なかなか鋭い指摘だと私は思います。

 霊的戦いの視点から言っても、経済の世界に最も強い悪しき力が働いていると思われますが、この世界に逆行していくには、たいへんな力がいるかもしれません。先ほども語ったように、悪魔は思考の中に働きます。聖霊によって、真理の光を照らしていただき、神の国の価値観に変えられるとき、一発逆転、本当の勝利に結びつくということです。

 最後に、マタイの七章十二節。

『それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。』

 自分のために生きるのではなく、人のために生きる、イエスさまと同じ人生を歩んでいきたいと願います。

 新城教会、振り返れば、その時代、その時代、自分の夢を捨てて主に仕えられた方々によって、今まで支えられ導かれたなぁと、心から感謝しています。これからもこのスタンスを変えなければ、アブラハムと同じように祝福された家族、家系、国、世界につながっていくと信じます。
 最後にお祈りして、聖餐式にあずかりたいと思います。一言祈ります。

 ハレルヤ。天の父なる神さま、み名をあがめて心から感謝します。今日はこうして共に礼拝を守ることができ、心から感謝をいたします。
 イエスさま、あなたが自分を捨て、父なる神さまに従われたように、私たちも同じように自分の夢ではなく、あなたの夢の実現のために働くことができますように。私たちも日々、自分の十字架を負って、あなたに従っていきたいと願います。
 今から聖餐式を行いますが、主の夢実現の決断のときとなりますように。イエスさまのみ名によって、ここに備えられたパンとぶどうのジュースを祝福します。十字架で裂かれた肉と、流してくださった血潮として下さい。イエスさまのみ名によって祈ります。アーメン。