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「彼らに主の名をほめたたえさせよ! パート23
~敵の要塞を打ち砕け Part3~」

2018年11月25(日)
新城教会主任牧師 滝元順
第二コリント人への手紙 10章3節〜6節

『私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。』

 ハレルヤ!おはようございます。ヘブンリー・キングダムの賛美、すごかったですね。今夜はたっぷり聞かせていただけますので、期待して新しい方々をお連れ頂きたいと思います。
 早いもので、今週は十二月になります。先日、新年聖会があったと思ったら、あっという間に一年経ってしまいました。人生は本当に早いものです。今まで守られたことを心から感謝します。
 今も賛美を聞いていて、主が共におられることを感じるわけですが、主と共に歩む人生は、どんな事があってもすばらしいです。

 二週間前、私たちはペルー宣教旅行に行かせていただいたのですが、ペルーの貧しい地域で宣教活動をさせていただきました。

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この地域で四日間に渡ってリバイバルミッションを開催させていただいたのですが、大きな教会でも奉仕をさせていただいたり、さまざまな地域に出て行って、とりなし祈ったりしました。

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 しかしちょっとしたハプニングがありまして、一緒に行った滝元開先生が犬に噛みつかれました。貧しい地域には、多くの犬がいるので気をつけないといけないのですが、彼はペルーに行く前に、「犬には気をつけなさい」というみことばをもらっていたそうです。しかし気を付けなかったみたいです。狂犬病になったら、人は死にますから。
 「犬が十日間生きたら、開も生きる」ということでしたが、先週は無事に犬も十日間生き延びたみたいです。「Dog is fine」という知らせが、現地から入ってほっとしました。世界で宣教するには、様々な危険もありますが、『全世界に出て行きすべての造られたものに福音を伝えなさい。』とイエスさまは語られましたが、新城市だけでなく、世界にも出て行って福音を伝えたいと願っています。

 ヘブンリー・キングダムの歌っているジャンルは「ゴスペル」といいます。ゴスペルは結構人気で、なかなか下火になりません。日本においてゴスペルを歌う人口は結構多いです。
 しかし、あまり意味が分からずに歌っている人も多いのではないかと思われます。「ゴスペル」とは、日本語では「福音」と訳されています。わかりやすい言葉を使えば、「良い知らせ」です。
 この「良い知らせ」について聖書が教える根源的な意味は、「主の恵みの年」です。それは、イザヤ書六十一章にて語られています。それをイエスさまが、ルカの福音書四章で引用されています。
 「貧しい者に良い知らせを伝え…」とあります。これが「福音」とも訳され、「ゴスペル」とも訳されているわけです。

 「良い知らせ」とは何でしょう。イスラエルにおいては、「主の恵みの年」という、50年に一度巡ってくる、特殊な年を意味しました。
 「主の恵みの年」は、イスラエル人たちが、最も待ち望んでいた年でした。
 私たちが聖書を理解するためには、旧約聖書の土台を知らないと理解できないところが多くあります。イスラエル人たちがどのように神とつながりを持っていたのかを理解すると、福音の全体概念を理解できます。

 「主の恵みの年」については、以前もお話ししたことがありますが、「ヨベルの年」と呼ばれ、50年に一度巡ってくる特殊な年を意味していました。

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 七年ごとに土地を休ませる「安息年」が七回続くと、四十九年になりますが、その翌年、五十年目を「ヨベルの年」と呼びました。
 聖書は七という数字を基本としています。七は完全数で、七という数字で追っていくと、神のみこころが分かります。私たちは日曜日ごとに集まって主を礼拝しているのですが、これは週の初めの日です。明日から六日間働いて、日曜日には集まるというサイクルで生きています。一週間七日制はどこから始まったのかというと、聖書から始まっています。
 五十年目のヨベルの年に至るための最小単位が、幸せに生きる鍵となります。そこに、七という数字が関わっています。
 一週間七日で、六日間働いて七日目は主を礼拝するという、七の最小単位がしっかりと基礎に組み入れられると、七の倍数で、主の恵みの年という、最も祝福された年につながるのです。
 我々が幸せに生きるために、何を基本としたらいいのか、それは六日間働いたら、七日目には、教会に来て主を礼拝するというサイクルを組み込む事です。すると七の倍数で、神の恵みは増えていきます。これから聖書を読む時、七の倍数を意識しながら読んでみて下さい。七日目が大事だということが分かります。

 歯車は、小さな歯車から大きな歯車へとつながり、大きな力になります。最高の祝福を受け取る最小単位が、六日間働いたら七日目は主を礼拝するという、小さな歯車にあります。これが欠け抜け落ちると、祝福につながらないのです。幸せの秘訣は、結構、単純なところに転がっています。
 七日目に、創造主を礼拝するなんて、大したことではないと一般の人たちは考えています。しかし七日目は教会に来て礼拝する時、良い知らせの歯車が動き始めるのです。
 やがて七の倍数で、ヨベルの年という特殊な年につながるというのが、旧約聖書で福音と述べられている事柄です。

 ゴスペルとは、主の恵みの年、すなわちヨベルの年を表しています。ヨベルの年には、すべての畑が休耕となり、売却されていた土地が、元の所有者に戻りました。また、奴隷たちはすべて解放されました。
 この年が来ると、社会の「格差」が一瞬にして解消されたのです。ヨベルの年が世界中で実行されたら、すごいと思います。またヨベルの年は、「被造物全体の回復」をも表しています。

 最近、強調して話していますが、「福音とは何か」というと、人間だけが救われるのではなく、神が造られた被造物全体の回復です。
 被造物全体の回復の為に重要な鍵を握っているのが、他ではなく、人類なのです。
 私たち人類は、神が造られた被造物のただ中にあって、被造物全体に対して鍵を預かっている存在です。

 ヨベルの年が、どのような時に宣言されたのかと言うと、四十九年目の「大贖罪の日」に、角笛の音と共に宣言されました。
 安息年が七回めぐって、四十九年目の第七月の十日、ヨム・キプールと呼ばれる日に、角笛を吹いて、ヨベルの年の到来は宣言されました。
 「大贖罪の日/ヨム・キプール」とは、どのような日であったのかと言うと、国民的な「悔い改めの日」でした。
 実は、このシリーズで話している事は、「悔い改め」は、神から与えられた強力な武器であり、鍵であるということです。

 今朝も、コリント人への手紙第二、十章三節〜六節を読ませていただきましたが、『あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができている』とあるように、神から託されている賜物の中で、最も強力な賜物が「悔い改め」です。
 「悔い改め」には、あまり良いイメージがなくて、罪を指摘され、「悔い改めなさい!」と責められるのは辛いと思うかもしれません。しかし、悔い改めができるのは、すべての被造物の中で唯一、人類だけなのです。
 クリスチャンが「悔い改め」に関して心を留めると、それに引き続いて、神が造られた被造物全体が回復していくと、先週もお話をさせていただきました。
 先週は、私たちの「霊、魂、肉体」の、三つの領域が聖くされるようにという話しをしました。霊的な領域から、魂の領域、そして肉体の領域まで聖くなって神の前に出ることが、すべての被造物回復の鍵なのです。

 パウロは主イエスの十字架の意味について、壮大なスケールで理解していました。ガラテヤ人への手紙六章十四節を見ますと、

『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。』

 イエスさまの十字架は、宇宙規模の回復であったのです。「自分対世界、世界対自分」という壮大な規模で、パウロは十字架の贖いを理解していました。この「世界」という言葉は、「コスモス」という言葉が使われていますから、「宇宙」とも訳すことができます。
 イエスさまの十字架の贖いは、コロサイ書一章十九節〜二十節、

『なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。』

 イエスさまの十字架による贖罪は、ただ単に人間だけのためではなくて、神が造られた被造物全体との和解であったのです。
 そんなただ中で、私たちクリスチャンが聖くなり、神の前に出ることは、大変重要です。

 「悔い改め」には四つの領域があり、四つの領域全体で、悔い改めと定義できると私は理解しています。
 まず第一に、悔い改めは、個人的な罪の悔い改めです。個人的に神の前に出て、自分を正し、悪い道から立ち返るという、個人的な領域です。
 続いて、さらに大きな悔い改めの概念ですが、旧約聖書を見ますと、共同体の罪が強調されています。個人よりも、共同体の罪です。日本人ならば、日本人全体が犯した罪を代表して、悔い改める必要性について教えています。
 そして、罪には「二つの側面」があると先週、お話ししました。それは、神に対する反逆という領域と、もう一つ、悪魔との契約という領域です。
 ゆえに悔い改めは、この四つを含みます。個人的な罪の悔い改め、共同体の罪、神に対する反逆、悪魔と結ばれた契約の破棄です。イエスさまは十字架において、これらすべてに関して勝利されたのです。

 ヨム・キプールの日に行われていたことを見ると、悔い改めとは何かが分かります。レビ記十六章六節〜十節、

『アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。』

 ヨム・キプールの日には、二頭のやぎが用意されました。一頭は神に対する悔い改めの生け贄となりました。しかし、もう一頭は「アザゼル」という存在に対する、生け贄となったのです。

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 しかしアロンは、ヨム・キプールを行う前、『アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。』とあるように、自分と自分の家族の罪の贖いのために、雄牛をささげています。これは個人的な罪の悔い改めです。
 個人の罪が聖められたところで、次に、二頭のやぎを連れて来て生け贄としてささげたのです。そして、この二頭のやぎは、共同体の罪の悔い改めのために用いられたのです。レビ記十六章二十一節〜二十二節、

『アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。』

 アザゼルのやぎは、まさしく、イスラエル全体の、「共同体の罪の悔い改め」の為であったのです。

 私たちは、悔い改めを、個人的な領域だけで捉えるのですが、実は、クリスチャンに主は何を要求されているのかと言うと、「共同体の罪」の悔い改めです。私たちも、アロンのようになってほしいと、主は願っておられるのです。
 二頭のやぎのうち一頭は、神との和解でした。けれども、もう一頭は「アザゼルのため」と言って、その上にイスラエルのすべての罪を告白して、荒野に放たれたのです。
 アザゼルとは何者かというと、当時の人たちは、「荒野にアザゼルという名の悪魔が住んでいる」と考えていました。ということは、アザゼルへの生け贄とは、悪魔に対するいけにえでした。

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 繰り返しますが、悔い改めは個人の罪、共同体の罪、神に対する反逆、そして悪魔との契約の破棄という、「四つの領域」を含んでいます。それを悔い改めと定義できます。イエスさまは十字架によって、これら四つの領域に対して、勝利を取ってくださったのです。
 先週は「霊、魂、肉体」という個人的な罪に対して、神の前に出ましょう、と話しました。しかし今日は、もう一歩進んで、共同体の罪に対して学んでいきたいと思います。

 コリント人への手紙第二、十章のみことばは、私たちと世界がつながっていると告げています。「私たちの従順が完全になったら、あらゆる不従順を罰する用意ができている」と述べられているように、私たちの中身が変わると、世界も変わると教えているわけです。
 世界で起こっているさまざまな事柄が、私たちの頭の中に入って、価値観となります。しかし共同体的な罪に気づいて、内側を変えるなら、外も変わりますよ!というのが、第二コリント十章で教えているところです。
 個人的な罪だけではなく、共同体的な罪を意識し、主の前に出る時、国が変わり、世界が変化するというのが聖書の教えであり、真理です。
 第二歴代誌七章十三節〜十五節を読むと、

『もし、わたしが天を閉ざしたため雨が降らなくなった場合、また、いなごに命じてこの地を食い尽くさせた場合、また、もし、わたしの民に対して疫病を送った場合、わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。』

 イスラエルに雨が降らなくなって、大量のいなごが発生して、作物を食べてしまうような国家的災害が起こった時、それを解決するためにはどうしたらいいかが、ここで述べられています。
 『わたしの名を呼び求めているわたしの民』とは誰か?それは「主を信じる者たち」です。現代で言うならば、クリスチャンです。
 クリスチャンが、神の前に出て、へりくだり、祈りをささげ、悪い道から立ち返る、すなわち悔い改めですが、国の罪を悔い改めると、国家的な飢饉や災害がとどめられて、地がいやされるというのです。
 国の未来は、誰の手中にあるのかと言えば、政治家でもない、金を持っている人たちでもなく、「イエス・キリストを信じている者たちの手中」にあるのです。

 最近、日本にいろいろなことが起こっています。日本の未来はどうなってしまうのか不安です。しかし私たちが日本の罪を自分の罪として悔い改め、神の前に出る時に、この国はいやされるはずです。
 私たちは日本のリバイバルを求めて祈っていますが、日本のリバイバルのために何をしたらいいのでしょう。その一つとして、私たちが共同体の罪を意識して、神の前に出る時、国が変わっていくと信じます。

 20世紀から21世紀にかけて、世界各地でリバイバルが起こっているのですが、今から、二つの国で近年起こったリバイバルのレポートをご紹介したいと思います。
 一つは中南米、グアテマラ、アロマロンガという町で起こったリバイバルについて短いビデオクリップを見ていただきたいと思います。
 アロマロンガは、偶像礼拝と、魔術で満ちていた町でした。その結果、町の土地は痩せて、全く作物を実らせなくなったのです。しかしアロマロンガの教会が、その理由に気づきました。過去に多くの血が流されて、罪が積み重なっている事に気づき、この罪は自分たちの罪、教会の罪として悔い改めたのです。クリスチャン達が、個人の罪を悔い改めた後、共同体の罪を悔い改めたのです。その時、何が起こったのかと言うと、町に主が訪れられたのです。その結果、多くの人たちが主を信じ、犯罪が多い町だったのですが、町に幾つもあった刑務所が閉鎖され、土地がいやされたのです。それまでは不毛の地だったのが、作物が信じられないほど、よくできるようになったというのです。
 第二歴代誌に書かれている事が、まさに起こったのです。

 そしてもう一つ、先日私たちはラバウルに行きましたが、そこから少し南にある、フィジー島に起こったリバイバルをレポートしたいと思います。
 この島の人たちはかつて、人食い人種で、皆で殺し合い、血を流していた人たちでした。その結果、島は不毛の地となったのです。
 しかし、フィジーの教会がそのことに気づき、罪を悔い改めて主の前に出て、主が来てくださるように、皆で願ったのです。その時、何が起こったのかというと、地がいやされたのです。

 原則的に、これは世界中同じであるはずです。世界にある教会が、個人的な罪を悔い改めた後、共同体的な罪に気づいて地のいやしを願うとき、主が訪れてくださるのです。

 新城市の歴史はひどい歴史です。十六世紀に設楽原で戦いが起こり、なんと一万六千人もの人たちが殺されました。血が大量に流された土地です。この町では偶像礼拝、祖先崇拝が盛んに続いています。このような町にある教会として、私たちは町の罪を意識して、主の前に出る時、町が変わっていくと信じます。

 まずはアロマロンガで起こった証しを見ていただきたいと思います。新城でもこんなことが起こるように、期待しながら見ていただきたいと思います。



 アロマロンガはマシュモンという偶像が熱心に拝まれていて、その霊を地に呼んで利益を得るシャーマニズムが盛んに行われていました。しかしこの町の人たちが、町を覆っている暗闇に対して立ち向かう霊的戦いを行い、主が来てくださるようにお招きした時、地が回復して不毛の土地に多くの野菜ができるようになったのです。それも小さなものではなく、大きなものが短期間にできるようになったというのです。これは第二歴代誌七章十四節の実現です。

『わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。』

 続いて南太平洋のフィジー島からのレポートです。



 どうでしょうか。私たちにも悔い改めという武器が与えられています。国の罪を自分の罪として悔い改める時に、土地が変えられるのです。クリスチャンに与えられている、強力な武器を使わなければなりません。

 日本には地震が多いです。日々、大地震がいつ起こるのか分からない恐怖の中にあります。この地のいやしは、地震にも関係していると思われます。最近、聖書を読んでいて、主から教えられた箇所があります。イザヤ書二十四章十九節〜二十節です。

『地は裂けに裂け、地はゆるぎにゆるぎ、地はよろめきによろめく。地は酔いどれのように、ふらふら、ふらつき、仮小屋のように揺り動かされる。そのそむきの罪が地の上に重くのしかかり、地は倒れて、再び起き上がれない。』

 この箇所は地震を表しているのではないでしょうか。地が裂けて、ゆるぎにゆるぎ、よろめきによろめいて、立ち上がることができないほどの大地震が起こっているのです。どこに原因があるのでしょうか。『そのそむきの罪が地の上に重くのしかかり』とあります。
 人が地の上で罪を犯すと、地がうめくようになります。地震発生のメカニズムには、いろいろありますから、もちろん一概には言えないのですが、日本に多くの地震が起こっている一因に、罪が関わっていると思われます。日本の長い歴史の中、教会が、日本の罪を自分の罪として、主の前に出て悔い改めた事があるだろうかと、反省しました。そんなこと考えたことなかったなぁ、と思います。
 詩篇六十篇一節〜四節にも地震のことが記されています。

『神よ。あなたは私たちを拒み、私たちを破り、怒って、私たちから顔をそむけられました。あなたは地をゆるがせ、それを引き裂かれました。その裂け目を、いやしてください。地がぐらついているのです。あなたは、御民に苦難をなめさせられました。よろめかす酒を、私たちに飲ませられました。あなたは、あなたを恐れる者のために旗を授けられました。それは、弓にかえて、これをひらめかせるためです。セラ』

 ここでは「その裂け目をいやしてください」と祈られています。
 日本には数え切れないほどの断層、地の裂け目があります。いつ何時、その裂け目が動き、大きな被害をもたらすか分かりません。
 地震の原因はどこにあるのか。それは、『神よ。あなたは私たちを拒み、私たちを破り、怒って、私たちから顔をそむけられました。』とありますが、罪が関わっています。
 私たちクリスチャンが国の罪を、自分の罪として悔い改め、地のいやしのために祈る時、地震の原因となる断層さえも、主はいやしてくださると期待します。
 そして四節のみことばは、本当にすごいと思います。

『あなたは、あなたを恐れる者のために旗を授けられました。それは、弓にかえて、これをひらめかせるためです。』

 この旗は「勝利の旗」です。教会が、この地のいやしのために祈り始める時、地の上に「勝利の旗」が立てられるのです。しかしそのまま放っておくと、いつ何時、日本に地震が起こるのか分かりません。クリスチャンたちが地の管理人として、この地のいやしを祈る時に、呪いに変えて、勝利の旗を主は立ててくださるのです。

 先ほど、アロマロンガとフィジーのビデオを見ましたが、「少し文明から遅れている地域や国には起こるでしょう・・・」と言わないで下さい。インタビューの中で、「私たちが神さまと正しく向き合ったら、同じことが起こる」と話されていました。我々が、どのように主と向き合うかです。
 個人の罪は悔い改めるけれど、国の罪は関係ありません、歴史の罪は、私には関係ありません!とか、多くの人たちが偶像礼拝をしていても、関係ありません!と言ってはいけないのです。教会が地域から遊離し、隔離されてしまうと、土地はうめき、さまざまな問題が起こるのです。
 第二歴代誌七章は、ソロモンが神の宮を建て上げた後に起こったことです。教会が一致して神の前に出る時に、神がソロモンに語りかけたように、私たちにも語って下さるはずです。

『もし、わたしが天を閉ざしたため雨が降らなくなった場合、また、いなごに命じてこの地を食い尽くさせた場合、また、もし、わたしの民に対して疫病を送った場合、わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。』

 国の未来は、他でもなく、主を信じる者たちの群れ、教会に与えられています。さまざまな罪を見ても無感覚にやり過ごしてしまうことが結構多いですが、その罪を自分の罪として悔い改める時に、地は変えられていくのです。

 アロマロンガの教会は、その地にある偶像礼拝の罪に関して、魔術に対して、悔い改めをしたそうです。そして、「主よ、この地に来てください!」と祈った時、主が訪れてくださったと語っていました。その結果、多くの収穫も、与えられたというわけです。この原則は聖書の原則ですから、聖書のことばをどのように理解するかで結果は変わると思います。
 日本の教会がこのことをよく理解して、国のために祈り始める時、新しいことが起こると信じます。

 今から聖餐式を行いますが、聖餐式とは、自分の罪の悔い改めという意味もありますが、さらに、共同体の罪の悔い改めの時です。
 新城教会は設楽原という、多くの血が流された地の真ん中に立っている教会ですが、この土地はうめいていると思います。しかし地のいやしのために祈る時、新しいことが起こされると信じます。
 一言お祈りして、聖餐式に入りたいと思います。

 ハレルヤ、天の父なる神さま、み名をあがめて心から感謝します。先週は、霊、魂、肉体の三つの領域に関する、個人的な罪を悔い改めました。そして今日は、この国の代表して、歴史の証人として、主の前に出て祈れることを感謝します。
 日本の罪を赦してください。多くの偶像礼拝や、さまざまな罪で満ちていますが、それゆえ地が揺れ動いています。私たちは、勝利の旗をいただきたいと願っています。どうか勝利を与えてください。
 今から聖餐にあずかりますが、このひとときを祝福してください。備えられたパンと、ぶどうのジュース、聖書のみことばと、聖霊によって、十字架の勝利を宣言します。聖餐式を通して、個人の罪だけでなく、日本の罪を赦し、日本を聖めてください。イエスさまのみ名を通して、祈りをみ前におささげいたします。アーメン。