HOME > メッセージバックナンバー > 12月 > 12月31日ニューイヤー・カウントダウン・ワーシップ

ニューイヤー・カウントダウン・
ワーシップ

2018年12月31(月)
公畑フェルナンド/四元雅也/上條実岡本信弘/滝元開




公畑フェルナンド牧師 「電池充電の時」

ハレルヤ!日本語はできますが、きれいな日本語ではないので通訳を入れます。

神さまのみこころの中で私が今日最初にメッセージを語るようにされたと思っています。このメッセージを聞いてくだされば、どうして私がそう考えたか分かってくださると思います。

初めにルカによる福音書十九章一節〜六節をお読みしたいと思います。

『それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。』

神の名前の一つに、「エル・オラム」というものがあります。「とこしえの神」という意味です。
永遠の神さまは、時間というものを私たちのために分割し、区別されました。このことは、私たちにとってどのような意味があるのでしょうか?
それは、私たちに物の始まり、開始を与えるためであり、またその終わりを与えるためなのです。
そして、神さまは、「年」という区切りを私たちに与えました。人間のカレンダーは神さまの創造に従っています。ですから人間のカレンダーは「年」という概念を定めています。
そして「年」という概念は大事です。一年の始まりがあり、終わりがあります。そして今日、多くの人が、やっと二〇一八年が終わったな、と思っているでしょう。多くの人が今年あった色々な出来事の終わる時が来たと言うでしょうし、実際そうなのです。そうです、何かに終止符を打つ時が来ました。

しかし次の年を始めるには秘訣があるのです。あなたは二〇一九年を喜んで迎えることができません。今年をこのまま終えて、明日、新しい年の一日として迎えることはできないのです。もし二〇一八年と同じ罪の中にあるなら、今二〇一八年が終わろうとしている時に、霊的疲労感や霊的に干からびた状態にいるのなら、二〇一九年を迎えることはできないのです。
なぜでしょうか?なぜなら神さまは「すべてが新しく創造された」と言っておられるからです。新しい時間区分というのを神さまは与えようとしておられます。ですから秘訣とは、どのように二〇一九年を迎えるかです。それをこのメッセージでお話ししたいと思います。

私が二〇一九年のために主から受け取ったことばは、預言的なことばではないですが、しかし、この年に、神が私たちに与えようとしておられる、全てのことを、私たちが受け取ることができるための、準備の言葉です。それはあなたが携帯電話やタブレットを持っているのと同じです。どんなに良いアプリを持っていても、携帯電話やタブレットが充電されていないなら、その素晴らしいアプリは機能しないのです。
ですから今、あなたの霊的な電池を充電する時が来ているのです。あなたの力の源である神さまのみ元へ行く時が来たのです。そして、天におられる神にあなたに新しい力を注ぐことができるよう、許す時です。あなたの電池残量が低いままでは二〇一九年には入ることができないからです。
あなたの霊的な電池残量が低いままでは二〇一九年に入ることができません。あなたの喜びが底をついている状態では二〇一九年に入れません。あなたの喜びが底をついている状態では二〇一九年に入ることはできません。あなたの祈りがどん底の状態のままでは二〇一九年に入ることができません。私たちは聖霊の力に満たされた状態で二〇一九年に入る必要があります。

今お読みしたルカ十九章にはザアカイの話が出てきます。ザアカイはエリコに住んでいました。彼は取税人の頭でした。彼はユダヤ人でした。彼はローマ帝国に属していた人ではありません。しかしローマ帝国は同じイスラエル人の中からローマの税金を徴収する人を募集しました。そしてローマ帝国にその税金を納めさせていたのです。それは取税人として知られ、税金の徴収額よりも多く取り立てをして、彼らのふところに入れていたので、泥棒だと言われていました。お金を民から奪っていました。そして彼らはその民から憎まれていました。ザアカイはそんな人でした。

またザアカイは背が低い人でした。エリコの町で彼を愛する人は誰もいませんでした。
しかしある日、ザアカイはイエスさまがエリコを通られるという噂を耳にします。そしてイエスさまがエリコの町に入ると、みなさんご存じだと思いますが、いつもイエスさまの周りには群衆がとり囲んでいました。ザアカイは背が低かったので、お姿を見ることができませんでした。みなさんはこのお話をよくご存じだと思います。
しかしここで私はあることに注目させられました。「群衆」という言葉を読んだとき、多くの方が考えるように、私もこう考えました。多くの人の群れの中にいる自分です。例えば、私たちは今日集会に来た多くの人たちの中の一人であり、椅子に座っている中の一人であると考えます。私たちは群衆の中の一人であると考えがちですが、イエスさまはそうではないのです。
なぜならイエスさまの目は群衆を見ているのではなく、イエスさまの目は一人ひとりの心を見ているからです。そしてイエスさまはある一人の人の心と出会うことを知っておられました。それがザアカイでした。
そしてイエスさまがそこを通られた時、ザアカイは背が低くイエスさまを見ることができなかったので、群衆がいて見ることができなかったので、いちじく桑の木に登ったとあります。いちじく桑の木というのは低い木でした。低い所から枝が生える木です。登りやすい木でした。そしていちじくを実らせますが、安物のいちじくで、品質の良くないものです。このいちじく桑の木のつける実は豚のえさにされていました。
しかしザアカイはそんなことは気にしませんでした。ザアカイは自分の権威や、名前や、お金や、お金持ちであることを気にしませんでした。聖書には彼がお金持ちであったと書かれています。ザアカイは全くそういうことを気にしませんでした。彼はとにかくイエスさまを見たかったのです。私たちもイエスさまを見ることをせずに電池充電はできません。

そして一番印象的なことが起こります。イエスさまがその木の前を通り過ぎようとされた時、木を見られ、木に登っている背の低い男をご覧になりました。そして、「ザアカイ。降りて来なさい。」と言ったのです。彼をどう呼びましたか?ザアカイ!です。なぜでしょうか?イエスさまは彼の名前を知っておられたからです。これは良いことです。わかりますか?イエスさまはあなたの名前をご存知であるということです!
「ザアカイ」という名前の意味をご存知ですか?ザアカイとは、「純粋」という意味です。ですからイエスさまは、「おい。そこの取税人!」と呼びませんでした。「おい。そこの背の低い人!」と呼びませんでした。「おい。私を見るため木によじ登った人!」とは呼ばれなかったのです。イエスさまは、「おい。そこの『純粋』な者よ。」と声をおかけになりました。それも彼を嫌う人々のただ中で、そのように彼に呼びかけられました。彼とイエスさまの間にいる人々の真ん中で、そう声をかけられました。イエスさまは彼の上に目を注ぎました。そしてこう言われました。「おい。純粋な者よ。ここに来なさい。」と。

なぜ今日、私たちはここに集まっているのでしょうか?それはイエスさまが私たちに目を注ぐためです。イエスさまは私たちを名前で呼びたいと願っておられます。そして私たちの身分、私たちが何者であるかを知らせたいと願っておられるのです。
そしてイエスさまはあなたにこう言われます。二〇一八年あなたは、ふさわしくないことを行ったかもしれません。またもしかしたら、ふさわしくない木に登ったかもしれません。また、してはいけないことをしたかもしれません。
しかし今日、神さまは「おい。純粋な者よ。」と呼びかけられます。「あなたを見ているよ。ここに来なさい!」と言われます。そしてイエスさまはザアカイに「ザアカイ。降りてきなさい。今日あなたの家に泊まることにしてあるから!」と言われたのです。

あなたはなぜ今日ここにいるのでしょうか?このみことばを聞くためです。「おい。道を間違えた者よ。悪いことをした者よ。私はあなたを『純粋な者』と呼ぶ。そこから降りてきなさい。私はあなたの家で一緒にいたいのだ。」と神さまは言われます。

二〇一九年の大きな目的は何でしょうか?もし今年のために何か目的を探しているなら、もしあなたがあなたの電池の充電場所を探しているなら、どのようにしたらいいかお教えしましょう。マタイによる福音書六章六節、

『あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。』

ザアカイがどうしたかご存知ですか?彼は自分の家の扉をイエスさまに開けました。そしてイエスさまはザアカイの家へ入りました。人々はそれを非難しました。そして、こう言いました。「イエスは売春婦や、パリサイ人や、罪人といるのが好きなようだ。今は取税人といっしょだ。」とつぶやきました。
しかしイエスはこう言いました。ルカによる福音書十九章九節、

『イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。』

二〇一九年を始めるにあたり、あなたはなぜ電池を充電する必要があるのでしょうか?なぜ戸を閉めて神さまと直接の交わりをする必要があるのでしょうか?
それは救いがあなたの家に入ったからです。神はあなたを群衆の一部としてみてはいません。神さまはあなたを外の通りで見ていません。あなたは失われた子どもではないからです。あなたはイエスさまと毎日交わりを持ちたいと思っている子どもであり、自分の家にイエスさまをお連れしたいと思っている人なのですから。
そして救いはあなたの家にすでに来ていると、今の箇所でイエスさまは言われました。そしてこのみことばにあるとおりに、公の人の前での報酬を与えたいと神さまは願っておられます。その報酬とは、あなたが神を探し求めて費やす時間の報酬であり、神さまを探し求めることであり、神さまに目を向けることであり、神に目を留めることであり、神さまに向かって叫ぶことであり、神さまを見るために登らなければならない場所まで行くことへの報酬です。

私はこの言葉を持って終わりたいと思います。イエスさまに対する飢え乾きがなくては二〇一九年に入ることはできません。イエスさまと顔と顔とを合わせることを抜きに二〇一九年を始めることはできません。ですから今、私たちは霊的な電池を満タンにする必要があるのです。
ありがとうございます。ハレルヤ!




四元雅也牧師 「なぜ宣べ伝えるのか?」

ハレルヤ!今日はこうしてみなさんと共にこのすばらしいカウントダウンの時を持つことができて、本当に恵まれた時を持つことができて心から感謝します。二番目ということですので、この後はみことばを緊張しないで聞くことができると思うと、ちょっと嬉しいです。

このメッセージに際して、昨年のカウントダウンで何が語られたかなと思いながら、ホームページを読み返していました。
私は去年のカウントダウンでは、こんなことを話しておりました。神さまが新城教会の歩みの中で開いてくださった、賛美と、戦う教会としての祈りの賜物、これらが二〇一七年に「彼らに主の名をほめたたえさせよ!」という、二〇一八今年の新城教会のテーマにもなったみことばに象徴されるように、新たな領域へと広げられた。すなわち、天使たちの領域にまで賛美が拡大されて、悪魔どもさえも勝ち取って、そして彼らを捕虜として主の名をほめたたえさせるということが、二〇一七年の終わりころに開かれた扉でありましたが、これらを通して、二〇一八年は神さまが新しい領域を開かれる、神のみ手が動かされる年になるということを深く思わされた。
そして二〇一八年、神さまはいよいよこの地上に神の国を実現してくださる、イエスさまがこの地上に再び帰ってこられる時が近づいている、そのために大いなるみわざが現される年になることを期待して前進していきましょう!とお話させていただきました。
その通りに、リバイバルのために、神さまがこの教会にゆだねてくださったものを通して、リバイバルへのフォーカスがいよいよはっきりとしてきたなぁ、ということを実感する、そんな二〇一八年だったのではないかと、今思わされております。

今年の初め、リバイバルミッションが新体制でスタートしました。新制リバイバルミッションの働きを通して、今年は多くの働きがなされました。
これまでも行われていた「ネパール宣教」は、リバイバルミッションの枠組みで行われました。五月にはPPHが新たな体制の中で四十八時間にわたり行われ、八月にはミュージックスクールも「プレイズアカデミー」となってミッションとして開催されました。九月には、SIRミニストリーとのコラボで「ラバウルミッション」が開かれ、十月からは賛美ととりなしを扱う専門課程もスタートしました。そして、十一月の「ペルー宣教」もミッションの働きの一環として行われるようになりました。
これらの働きの一つ一つは、今までもなされてきていた働きであるのですが、ですが本当にそれがより深められて、地境が広げられて、新城教会だけでなく多くの他教会の方々も一緒に加わっていただいて、日本のリバイバル、またこの世界のリバイバルの働きが新しいチャレンジとして行われたような年となりました。

そしてこれらの働きを一つ一つ具体化していくためのブレインとして、サーバントチームというチームが新たに編成されて、一つ一つの働きを押し進めていくことになりました。それぞれのチームメンバーが担当を持っていろんな働きが進められていったのですが、皆さん本当にがんばってくださって、今年一年間、様々な働きがなされていったのだなぁと、その労を考えると本当に頭が下がる思いですが、本当にみなさんが努力をしてくださった賜物だと思います。

また教会においても、賛美が大きく開かれて、賛美週間、そして賛美月間、そして毎週賛美集会が行われるようになりました。

そんなふうに新しい扉が幾つも開かれた年で、リバイバルミッションの働きも多岐にわたって忙しくなされていったわけですが、教会もそれとシンクロするように、働きがなされていくようになって、私は今年礼拝でメッセージさせていただく機会が去年よりも増え、今までで一番数多くみなさんの前でお話しさせていただく機会が与えられました。
教会もミッションの働きをサポートしつつ、スタッフも兄弟姉妹も一丸となって、新しいリバイバルのための働きにめまぐるしく働いた、そんな一年間ではなかったかなぁと思うわけです。そんな中で恵みをたくさんいただいた一年間だったと思います。

その一方で今年は試練もありました。みなさんもよくご存じの滝元寛太君の病や、岡本正弘さんも一時命に関わる危険な状態を通って、教会をあげて皆で真剣に祈ったのです。今はその状態から回復し、リハビリの途上にありますので、本当に神さまが働いておられることですが、続けて祈りがささげられております。
彼だけでなく、病の中にある兄弟姉妹のための祈りが必要で、兄弟姉妹が互いに愛し合ってお互いのために祈り合っていくことの大切さを教えられた、そんな年でもあったのではないかと思います。
どんな中でも希望を持ち続けて、神さまを見上げて前進し続けていくことが必要だと教えられた、そういった年だったと思います。

私事で恐縮ですが、私も二〇一八年は奉仕の中でも特に忙しく働かせていただいた中、自分自身の中で弱さと向き合う、弱さを実感するようなことがありました。今までの人生でもなかったくらい、そんな思いを経験した年でありました。
ある時、私は「もうがんばれないよ!」と思った時がありました。それは経験したことのない出来事で、自分で自分の心の持ち方に驚いてしまったのです。これが「鬱状態」というものか?と思う時期がありました。
生きる上で時に「大変だ」と思うことは誰でもあると思うのですが、僕の中で出口のない状態という感覚を始めて持った時でした。
幸いにもその期間は短い期間で過ぎ去ってくれまして、持ち直すことができたので、今こうしてお話をすることができるわけです。今思えば物の見方、考え方を見直す良い経験になったと思います。「弱さ」というものを見つめ直し考え直す良い機会でありました。
年末が近づき二〇一九年に向けてのみことばを求めながら祈っていたのですが、そんな時にすとんと心に落ちたみことばが、第一コリント人への手紙九章十六節〜十七節のみことばでした。新改訳2017版でお読みします。

『私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。』

私たちはなぜ、こんなにも頑張っているのでしょうか。先ほども申し上げたように、今年いままでにないほど地境が広げられて、忙しい年であったと思います。近年、ある意味一番余裕がない一年ではなかったかなと、自分自身思います。限られた時間の中で私たちは生きていますので、詰め込めるものは限られているわけです。そういう中で、できるだけ多くのことをやる!ということを、この一年間、ある意味で欲張りなほどに、いろいろなされたわけです。もうキャパオーバー!と思うこともある、でも止まらないで働きは続いていくのです。

パウロはここで、福音の働きを止めることは『できない』と言っています。彼も福音宣教の中では多くの苦しみの中を通り、命の危険にもさらされて、実際最後には殉教したと言われていますので、文字通り生涯福音のために命をかけた人でありました。
私たちにとってもそれは同じなのです。多少大変でも、苦しいと思っても、ここに書かれているように、福音を宣べ伝えることは『そうせずにはいられない』ことであります。
福音宣教は、私たちに対して主イエスさまが命じられた使命なのですが、同時に私たちが本当の自由を得るために、なすべき真理の道です。福音を宣べ伝えないならば、それは私たちにとって『わざわい』だと、みことばで語られているのです。

さらに十七節を見ると、この働きが自発的になされているかどうかということも大きな問題ではないようです。進んでやっていても、たとえ言い方は悪いですが、『やらされた』としても、それは当然の『務め』なのです。

このメッセージのために、昨年のカウントダウンから今日までの間に、私がメッセージさせていただいた礼拝でのメッセージを、ホームページで全部読み返してみました。すると自分で意識していたわけではないのですが、一年間、「自由」というテーマをよく話していたということが分かりました。
先週の礼拝でも話したのですが、『本当の自由』とは究極的に、神さまが私たちに与えてくださった『使命を遂行している』時にこそ得られるということができます。

パウロの誇りは何であったかというと、彼は福音を語ることを誇りとしていたのではなく、それは『どうしてもやらなくてはいけないこと、そうせずにはいられない』ことだと言ったのです。一方彼の誇りは「使うことのできた『権利をあえて使わない』ことだ」と言っています。第一コリント人への手紙九章十八節を見ますと、

『では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです。』(新改訳2017)

彼は使徒と天幕作り職人という、流行語で言えば「二刀流」で生活していました。コリントの教会に対して彼は経済的には無報酬で働いていた。
コリント教会は彼の伝道によって築かれた教会であったのですが、彼曰く、自分が生んで、自分が生んだ教会だからこそ、霊的な親として、その子どもに対しては経済負担をかけさせたくなかったと言っています。それが彼のコリント教会に対する誇りだ、こういうわけです。権利の放棄が彼にとって誇りだったということです。

続いて彼は、自分はあらゆることに自由だけど、福音のためにすべてのことを従わせて、奴隷となったと述べています。ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように、福音宣教のために自分は奴隷となったと言っています。今私たちは奴隷制度がない国の中で生きていますので、ぴんと来ないかもしれません。当時の社会には奴隷制度がありました。それは自分の権利がない身分、主人の思うままに働き仕える、そういった人たちであります。第一コリント人への手紙九章十九節〜二十二節にそう書いてあります。
しかしパウロは、第二コリント人への手紙十三章八節で、

『私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。』(新改訳第3版)

と告白しています。

イエスさまは「真理はあなたがたを自由にします」と仰いました。真理のために働くうちに、神さまの力が現されます。そしてそれは不可能を可能にするのです。私たちの人生の中に、またこの教会の中に、神の力がますます力強く現されるために、真理のために戦っていくことが必要です。それは「本当の自由」を私たちに与えます。

そのために先ほどフェルナンド先生が語られたように、私たちはこの時、もう一度神さまの前に飢え渇きを持って出て、またこの新しい一年、神さまの前に祈りを持って仕えていくことが必要です。
ますます神さまのために働いて、ますます福音のために、自分自身を捧げていく者となっていく、そのような教会となる、そのような一年となることを求めて、二〇一九年を迎えたいと思います。



上條実牧師

ハレルヤ!この一年間みなさまのお祈りに支えられて、主の奉仕をさせて頂いたことを心から感謝します。いつも私の家族のために、主にあって良き交わりとお祈り頂き感謝しております。家内もいつも主の守りを頂きながら過ごす事ができております。また子ども達の家族も、主の祝福を頂きつつ皆、守られております。今度の二月、三男の所に第二子が誕生する予定となっております。その子が生まれると、なんと七人目の孫となります。
ここまで私と我が家に、主が祝福を下さっていますことを心から感謝すると同時に、主の聖名を誉め称えます。

さて去年の十二月三十一日に私が、この場所で語たらせて頂いたみことばは、ヨハネによる福音書十一章三十九節~四十五節です。

『イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは 言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。 「ラザロよ。出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。』

特別「ラザロよ。出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。というみことばから、私たちが遣わされている場所、学校、職場、また家族、住んでいる地域なと、様々な共同体の中で勝ち取って行く。二〇一八年は死んで臭くなってしまったものを甦って、出てくる事のできる奇跡の年となる。諦めていた出来事が現実のものとなる。語らせて頂きました。

しかし先ほども皆さんが語っておられましたように、寛太兄や正弘兄が病に倒れたことにより、教会全体で多くの祈りを皆さんとともにささげる時を持つ事ができ、二人とも回復していますことを心から感謝しています。私も「ラザロよ!出て来なさい!」とみことばを頂いた事もあり、私も責任感も感じて祈らせて頂きました。出かけることができる時には様々な所に出かけてとりなすことができ、「ラザロよ!出て来い!」と宣言する祈りを多く持たして頂きました。色々な事がありましたが、主が私たちの教会にすばらしい恵みを与えて頂くことができました。

さて話は変わりますが、この年の暮れに私が乗っている車の多くのところが故障し、修理しなくてはならない状態になりました。十月頃家内の診察のために、東京の病院に車にて、日帰りで出かけました。無事帰宅し、次の朝車に乗ろうと思った時、後ろのドアのある部品が落下していました。後ろの扉の扉のプラスチックの部分が、落ちていました。プラスチックの部品でしたが、接着していたところが割れてしまい、部品を取り寄せなければ修理できない状態でした。しかし直すにも多くの修理代がかかるので、目立ってしまいましたが黒いガムテープで貼りつけて応急処置をして乗り続けました。また十二月にはATミッション部分が故障し、走行している時滑って動力がうまく伝わらないときがあり、ギアチェンジの際にショックを感じるようになってしまいました。もう修理するしかないかと思いましたが、祈り始めました。「神さま、新しい車を与えてください!」と祈り始めました。結局修理するよりも車を変えた方がよいと言うこととなり、車を探し始めました。家内を病院に連れて行く時に、楽に乗れるように願い、自分ではだいぶ奮発して、中古の車ですが契約をし、つい一週間前に乗り換えることができました。しかしいざ契約しようとした時、少し不安を覚えました。自分としては超高い買い物でした。家内が入院して、高額な入院費用を支払う事があり、本当に経済的に大丈夫かと考え、契約する時不安でした。しかし契約をして乗ってみるととてもすばらしい車であり本当に嬉しく思い、感謝しました。

日常そんなことがありながら、二〇一九年、私と教会のために主が与えて下さるみことばを、祈り続けておりました。毎日聖書を読めば、多くのすばらしいみことばがあり、主に感謝し続けていましたが、良いみことばだと思うのですが、祈る中で二〇一九年のために下さったみことばではないと思い、なかなか与えられず焦っていました。十二月の後半になっても与えられず、主に求め続けていました。

そんな中十二月二十三日の礼拝時のことでした。その日は四元牧師がメッセージを語って下さり、メッセージが終わり、聖餐を頂くために個人的に祈る時でした。私はあまりそういうことはないのですが、神さまが語ってくださいました。それは何かというと、二〇一九年のために与えることばは「契約だ」と語って頂きました。そして私の心の中にガラテヤ人への手紙三章十五節を思い出させて頂きました。

『兄弟たち。人間の場合にたとえてみましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。』

というみことばです。私は車を契約して、お金を払い、古い車を手放し、中古ですが新しい車を手に入れました。契約をして私の物になりました。人間の世界でも、一度結ばれた契約は無効にしたり、付け加えたりしない。ましてや主の「契約」は絶対だと教えられました。詩篇八十九篇三十四節

『わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。』

このみことばを読んだ時に、二〇一九年のために、私やこの教会の為に語って下さったみことばだと信じました。主は契約を破らない。くちびるから出たことを変えない。マタイの福音書五章十八節、

『まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。』

とありますが。みことばは全部成就する。そしてヨハネ一章十二節、有名なみことばですが、

『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』

私たちは神の子どもとしての特権を持っている。主の特権を持つ存在として私を、皆さんを選び出して下さったというのです。そしてエレミヤ書二十九章十一節、

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』

今まで祈り続け、戦い続けて来たこと、主にささげものをささげたこと、奉仕してきたこと。また信仰を守り通して来たことに対して、私に、教会に災いではなく、平安を与える契約であり、将来と希望を与えるものだと語って下さいました。詩篇八十九篇三十四節

『わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。』

主は契約を破らない。みことばは変えないお方。約束として下さったことは必ず成就する。主が必ず私たちに将来と希望、祝福を与えてくださる年だ!と教えられました。究極的な「将来と希望」とは何でしょうか。クリスチャンの最終的な将来と希望は、イエスさまがこの地上に帰って来られる「再臨」にある。この地に神の国が現れる事を、最終ゴールとしなければいけないと以前礼拝で語られていました。将来と希望は、主が帰って来られる日です。詩篇百四十八篇の中に、「彼らに主の名をほめたたえさせよ!」とありますが、私たちの役割は被造物全体を、神の前に引き出して、主をほめたたえさせる役割です。二〇一九年も私たちの役割、被造物全体を、神の前に引き出して、主をほめたたえさせる役割を更に続け、主が語って下さった契約を執行して頂く年にさせて頂きましょう。最後にガラテヤ人への手紙三章二十六節~二十九節、

『あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。』

私たちは主の約束の相続人です。主の祝福を百パーセント頂く、受け継ぐことのできる相続人です。主が交わした契約書には、主のサインと印が捺印され受取人は、私たちです。二〇一九年、大いに素晴らしい祝福。抱えきれないほどの祝福を頂く年とさせて頂きましょう。主に期待します。ハレルヤ!



岡本信弘牧師 「主の備えられた祝福」

ハレルヤ! 主のみ名を賛美します。
一年間があっという間に過ぎ、二〇一八年の最後の日を迎えました。この一年も主に守られ、健康でここに立たせていただける恵みを心から感謝します。
今年も感謝なことにたくさんの仕事が与えられ、忙しく働かせていただきました。仕事のめども立ち、二十五日のクリスマスのコンサートを終えたら、ゆっくりメッセージを準備できると思っていたところへ、その前の週に納品した九千冊の冊子に間違いがあって、「作り直して一月四日までに納品してくれ」という電話が得意先から入りました。相手のミスですが、プレイズの一部の社員には休みを削ってもらわなくてはならず、「申し訳ないけど」と頼み込んで、今日まで仕事をしてなんとか準備ができました。いろいろなことがありましたが、皆さんのお祈りにより支えられ、いつも主の助けがあり、守られていることを心から感謝いたします。

昨年私がこの場所で二〇一八年に与えられたみことばとしてお分かちしたのは、エペソ四章十一〜十三節から、『キリストにある一致』ということについてでした。教会にはさまざまな働きがあります。それは牧師やスタッフだけでできるわけではなく、一人でできることも限られています。そんな中で、皆が一致してそれぞれの賜物が生かされていくなら、大きな働きとなるこということを語らせていただきました。
先ほどこの一年に行われた集会のスライドが流されましたが、皆が心を合わせ祈り、協力して本当にたくさんの働きがなされたことを見ることがでました。とくに最近は、若い人たちが協力し合っていろいろなことを担ってくださっていて、二十年前、三十年前を思い返すと、私も、がむしゃらに走り回っていたことを思い出しますが、今は時に顔を出して、「大丈夫?」と聞く程度で私の出番が少なくなりました。頑張っている若者の姿は頼もしく、これからがとても楽しみです。しかし、若者だけでこの働きを成り立たせることはできませんし、一致して前進していくとき新しい扉が開かれていくということは今年も変わりません。
私も若いと思っていながら、もう六十二歳になりました。私が二十代、三十代の頃には、六十と聞くと、もう老人の仲間というイメージがありましたが、実際自分がその年になってみると、老人と言うには早すぎる気がします。まだまだやりたいこともたくさんありますので、若者と一緒に、若者に負けないよう頑張っていきたいと思います。

さて、恵みの一年を振り返り、感謝とともに来年のことを祈っているときに与えられたのは、

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』(第一コリント人への手紙二章九節)

というみことばです。ここから、「神の備えられた祝福」というテーマでお話ししたいと思います。

皆さんは二〇一九年に対しても、いろいろな夢を持ち希望を持っておられると思います。しかし、誰も明日のことはわかりません。人それぞれいろいろ夢を持ったとしても、それが実現に至るかどうか、というよりも、その前に明日があるかどうかもわかりません。そう考えたとき、「神が備えられたものを受け取りたい」と、このみことばをとおして感じました。
私たちは、それぞれの思いの中で、今まで神さまの恵みによって導かれてきました。しかし、神さまの思いとはなんでしょう。神さまの考えをすべて知ること、理解することは不可能です。しかし、私たちが知らなくても、明日をご存じであり、すべてのことを知っている神さまが、この二〇一九年に対して最高の祝福を備えてくださっていることを覚えてください。
では私たちが、最高の祝福を受け取るためにはどうしたらいいのでしょうか。どんな準備が必要でしょうか。そのことを少し学んでみたいと思います。
では、見たことのないもの、聞いたことのないことに対してどんな準備をしたらよいのでしょうか? 「備えあれば憂いなし」ということわざがありますが、目的があって、やるべきことがはっきりとわかっているなら備えることもできます。しかし、思い浮かんだこともないことを、どのように準備したらいいのでしょうか。

第一に、見たことのないものを受け取るために必要なことは、信仰です。
ヘブル書は、「信仰の書」と呼ばれています。
十一章一節には
『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』とあり、
同十一章六節には、
『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』とあります。

旧約時代には数々の偉大な人物が登場しますが、その中の一人、モーセのことを皆さんはご存じでしょう。エジプトで奴隷となっていた二百万~三百万人のイスラエルの民を導き出した人物です。そんな大きなことを成し遂げた彼には、問題が起こらなかったでしょうか。いいえ、そうではないですね。エジプトを出てからも彼はいろいろな問題にぶつかり、どうしたらいいのかと思うことが多々あり、いつも不安を持っていたと思います。しかし、そんな中で、神さまはモーセに語られました。

『見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。』(出エジプト記二十三章二十節)

どんなに励まされたことでしょうか。
皆さんの人生にも、「なぜこんなことが起こるのか」と思ったことが度々あったと思います。しかし振り返ってみるなら神さまの御手がそこにあり、守りがあり、今困難を乗り越えたことを体験されていると思います。今、困難に合っておられる方も、ぜひ、神は求める者に報いてくださる方であることを信じて、祈り求めてください。

私の親族の中にも大きな問題がありました。七月に、兄が脊柱管狭窄症がもとで、ばい菌が体中に回ってしまい入院しました。たまった膿を取り出す手術をした後、順先生は「今週は葬式かもしれない」と思われたそうですが、私も集中治療室で兄を見たときには、本当に「もうだめなのか・・・」と思ったりしました。しかし、皆さんの信仰による祈りによって命が守られ、一月八日に退院できるまでに回復しました。麻痺が残っており、まだ歩くことはできませんが、リハビリを続けながら自宅で過ごすことになりますので、ぜひ続けてお祈りいただければと思います。
このように、私たちが問題にぶつかったとき、それが大きければ大きいほど信仰を持つのが難しく、なんと信仰が弱いのかと思わされるのではないでしょうか。しかし聖書の中には、からし種の信仰があったならば山をも動かすことができるとあり、大きな信仰ではなくても強い信仰ではなくても、からし種ほどの小さな信仰があったならば、神さまはその信仰に応えてくださるとありますから、信仰を持ってまいりましょう。

そして第二に、聞いたことのないものを受け取るには、御声に聞き従い、神の時をつかむということだと思います。
信仰の人と呼ばれるアブラハムは、神さまから
『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。』(創世記十二章一~二節」)
と語られました。大いなる国民とし、祝福してくださるという約束、神の時をつかみ、どんなときでも神さまが必ず助けてくださると信仰を持って、行くところを知らずして旅立ったのです。
その信仰により、約束どおりたくさんの祝福をいただき、世継ぎであるイサクも歳を取ってから与えられましたが、あるとき、さらなる試練に見舞われます。耳を疑うようなことを神さまから言われたのです。

『神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」』(創世記二十二章二節)

アブラハムにとっては苦渋の決断だったと思いますが、彼は神さまに「それはできません」とも、「一週間ほど待ってください」とも言わず、その命令を受け入れ、イサクを連れ、示されたモリヤの山へ出かけて行きました。結果はどうだったでしょうか。
創世記二十二章十三節に
『アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。』とあるように、神さまはいけにえとしての雄羊を、あらかじめ備えておられたのです。
そして、
『アブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。』(同十四節)
と、信仰の告白をしています。

一九九三年に、全日本リバイバル甲子園ミッションが開催されました。十一月には二十五周年を記念して、甲子園アフター25という集会が催されました。
一九八八年に下條先生がビジョンを語り、明先生がそれを聞いて、神からの声として受け取られました。それはある意味、無謀ともいえる挑戦でした。しかし、これは主の働きだと受け止め進んでいったときに、多くの人が救われ、その後のキリスト教界にも大きな影響を与えるような集会がなされました。甲子園ミッションへの決断は、まさに神の御声に従い、神の時をつかんだといえると思います。
これからも私たちは多くの決断をしなければならないでしょう。それが神の声であるか否かを信仰もって見極め、そして神の声であるならば、それをしっかりとつかんでいきましょう。

そして第三に、神は、私たちの心に思い浮かんだことのないような祝福を、備えておられる方だということを、忘れないことです。
イスラエルの偉大の王として名を残したのがダビデ王です。ダビデは、羊飼いの家に生まれ、羊飼いとして一生を終えると思っていたことでしょう。しかし主は、ダビデも、またその周りの誰もが考えもしないような中からダビデを選び、イスラエル再興のために王にしようと備えられていました。
イスラエル人がペリシテ人と戦っている場に来たダビデの様子が、第一サムエル記には書かれています。ペリシテの大将である巨人ゴリアテに対して恐れをなしているイスラエル人たちを見て、
『ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」』(十七章三十二節)

結果はどうでしたか。彼は、石投げと、たった一つの石でゴリアテを倒して、イスラエルに勝利をもたらしたと記されています。

では、今の時代に神さまが備え、私たちに求めておられることは何でしょう。
私は、新城教会で生まれ育ち、小さい時から「日本のリバイバルのために祈りましょう」と教えられ祈ってきましたが、簡単にはリバイバルは起こらず、いつ起こるのだろうと思ったりしていました。しかし振り返ってみると、多くの人が救われ、数々の祝福をいただき、新しい扉が開かれてきたのは事実です。
私たちは今、あのダビデが一介の羊飼いであったときに信仰を持って巨人に立ち向かっていったように、神さまに教えていただいた霊的戦いによって、信仰の武具と武器を持ってさらに新しい扉を開いていただき、この日本に、そして世界に、今まで見たことのないようなリバイバルのわざ、主のわざを現していただきたいと願います。

モーセ、アブラハム、ダビデに共通することは、信仰をもって神のみことばを受け止め、聞き従い、主が必ず約束してくださったことを実現してくださる方だということを忘れずにいたということです。そして振り返ったときに、「主は確かに生きておられ、主は確かに備えてくださった」ということを体験したのです。

二〇一九年には平成が終わり、日本は新しい年号になります。年号が変わったからといって何かが急激に変わるというわけではありません。しかし、多くの人が、今より良くなるのではないか、もっと豊かな国になるのではないかと期待しています。はたしてそうでしょうか。世の終わりが近づいている今、日本がある意味ではどんどん右傾化しています。今こそ私たちクリスチャンが祈る時だと思います。憲法改正、戦争問題、天皇制のあり方など、私たちが祈らなかったら、逆の意味で、私たちの考えもしなかったような災いの日々が訪れるかもしれません。そのことに私たちは危機感を持って祈り求めていく必要があると思います。

エレミヤ書三十三章三節に、
『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』

とあるように、主を呼び求め、今まで目が見たことも耳が聞いたことも、人の心に思い浮かんだことのないもの、神を愛するあなたのために最良のものを備えてくださっている神さまからの祝福を受け取る二〇一九年としていただきましょう。ハレルヤ!



滝元開牧師 「主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。」

ハレルヤ!感謝します。こうして健康でこの場所に立つことができることを感謝します。この年は本当に神さまのみ手の中で様々なことがありましたが、今、主に生かされてここにあることを、もう一度心から感謝しています。
先日、十二月の最初の礼拝でみことばを取り次がせていただきましたが、その中で、ペルーで犬に噛まれたことをちょっとお話しましたが、つい先日、再びペルーから娘の所にメールが来ました。「perro esta bien.」(犬は元気です)と来ました。私に噛みついた犬はまだ元気に生きているらしくて、それに対してこちらから「Hiraku esta bien.」と送ってほしかったのですが、もしも私に噛みついた犬が狂犬病であった場合は、その犬が十日間以内に死んでしまうそうなのです。ですからその犬が生き延びているのなら、狂犬病におかされていなくて、噛みつかれた私も、狂犬病になることなないということだそうですので、なんとか私も生かされて今あることを感謝します。
ただ今回、犬に噛まれたというのが、やられちまったというか、へましたなということもありますが、それだけでなくて主が私たち一人ひとりに託してくださっている戦いがいかに大きなものかということを教えてくださったと、私は本気でそう思っていますので、みなさんもそう受け止めていただければと思います。
リバイバルの戦いは、その国の君にたいする戦いだということも先日の礼拝の中でもわかちあいましたが、peru(ペルー)の語原はperrpo、犬ということらしいので、やっぱりその国に私たちが攻め上って行って、リバイバルミッションの働きや様々な働きをするということは、その国の君も黙っていないということなのです。二〇一九年も様々な所に行くように、もうすでに主は備えておられますが、神さまがその国の君を打ち砕くために私たち一人ひとり、それぞれを遣わそうとされていますので、そのことを信じて、一緒に遣わされていきたいと思っています。

私に与えられたみことばをまずお読みしたいと思います。イザヤ書六十二章六節、

『エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。』
今日、最初のフェルナンド先生のメッセージから雅也先生のメッセージ、そして続いて語られた中で、本当に神さまご自身が与えてくださっておられるメッセージなんだということを感じながら聞いていましたのですごく感動しております。

私自身に与えられたこのみことば、『主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。』という、このみことばが与えられましたが、実は十二月二十二日の出来事でした。レッツプレイズという中高生の集会があったのですが、その時に主が私に一つのことを語ってくださいました。
その集会は食事を準備して、そしてノンクリスンの子たちを招いて、そしてコンサートがあって、プログラムがずっと続いていくのですが、私は集会中、司会をしていました。でも司会をしながら、中高生のバンドの演奏になると他の準備をするのです。会場のティータイムの準備をしたり、どこか掃除をしたりということを、ずっと動いていました。それで動いて一段落して、また司会に戻って、そして戻ってくると必ず何か仕事があったのでずっと動いていました。
その日は朝からずっと動き回っていたので、結構体力がだいぶ低下していたので、でもずっとやりながら、いやぁまだある!まだある!と思った時に、イエスさまは私に一つのことを語りかけてくださって、何と言われたかというと、「動き続けなさい」と言われたのです。「動き続けなさい」と言われたのです。「えっ!?こんなに動いているのにもっと?少しは休まないと、その次のスケジュールがあるから・・。」と人間的にはいろいろと考えてしまうのですが、イエスさまは、「動き続けなさい!」と。
本当にイエスさまご自身が、これは二〇一九年に対することばだなと思って、今日、準備していたのが、一つは歌い続けなかったらいけないということと、二つ目は祈り続けること、そして語り続けることということを神さまから示されて、この場に立っています。

イザヤ書六十二章一節を見ると、このように書かれています。
『シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。』

私たち一人ひとりも黙ってはいけないのですが、さらに、イエスさまご自身が「わたしは黙っていない」。そして声を出してくださっているのです。

そもそも二十五年前、甲子園ミッションの時のみことばが、「主が声を出すと」というエレミヤ書十章十三節でした。イエスさまご自身がみ声を出してくださったゆえにリバイバルの戦いが始まり、あの時以来、主は声を出し続けてくださり、わたしは黙っていない!とおっしゃっているのです。ですから私たちが黙り込むことなく、もう一度、祈りの手をあげ、祈りの声を上げ続け、そして歌い続けて、そしてみことばを語り続ける、そのような時に来ていると本当に思います。
ですから、二〇一九年、語り続け、歌い続け、そして祈り続け、動き続けていくとき、神さまのみわざは必ず前進すると信じています。

甲子園ミッションの頃に、与えられたザワメキの歌に「もっと激しい風が」という賛美があります。それはエレミヤ書四章十二節のみことばからのものですが、

『これよりも、もっと激しい風が、わたしのために吹いて来る。今、わたしは彼らにさばきを下そう。』

という、そんなみことばからの賛美でした。「もっと激しい風が吹いてくる。」聖霊さまご自身が、あの二十五年前の甲子園ミッションを通して、確かにこの日本中をかき回すほどの激しい風を吹かせてくださいましたが、それ以上に激しい風を、二十五年というこの区切りを終え、いよいよ突入する二十六年目、もっと激しい風を主は吹かせてくださると信じています。
今になって「もっと激しい風が」という歌、すごく預言的な歌だったなと思います。その時に与えられた時には別に深いことを考えずに、与えられたままに歌っていたのですが、一番、二番があるのですが、

「♪もっと激しい風が吹いてくる もっと激しい風が今この地に 主のみ力現れる 暗闇の力打ち砕かれる」

そして二番が、「♪主の栄光現れる 天と地 万物 喜び躍る」と歌っているのです。いや〜イエスさまってすごいな。こんな預言的な賛美を与えてくださっていたんだなと思わされます。
特にこの年は、全被造物が主を歌うというところまで導いてくださって、福音そのものの意味を私たちやっと理解させていただきましたが、天と地、万物が喜び踊ると、こんなこと二十五年前から歌っていたんだなと思うと、やっぱりもっと激しい風が吹く時が来ようとしているんじゃないかなと、強く感じます。
神さまご自身のみわざがこの二〇一九年、激しく注がれると信じて、黙り込まずに戦い続けていただければと思います。

今年、日本のいろんな所で、いろんな方々とお話をする中で、県民の森の祈祷会の話が何箇所かでしました。そうしたら、「まだやってるんですか?」と言われるのです。『やっていますよ、毎週月曜日は山に入って祈っています。』と言うと、「えー!そうですか!」と驚かれました。別の場所では、「こんな時代に!今もまだやっているの?都会はそうはいかないよ。時代が違いますから。」とそうやって言っておられましたが、時代がどう変わろうと祈り続けることってすごく大切なのです。その上、先日チェ先生と共に韓国の先生方が来てくださって、一緒に県民の森に入って祈りました。そうしたら韓国の先生もこうおっしゃっているのです。「昔は韓国も山に入って祈っていたけど今こういうことをしていない。だからすばらしい!」と言って一緒にお祈りしました。今なお、その祈りの火が燃え続けているというのは、これは本当に素晴らしいことで、神さまが私たちにリバイバルという一つの大きな使命を与えてくださっているゆえに、主が声を出しておられる印であると信じます。ですから、主が声を出してくださっていますから、わたしたちも祈りの声を上げ続けていかなければと、もう一度、強く思っています。
イエスさまご自身が黙り込むことなく声を出して導いてくださっていますので、ぜひ皆さんも、この二〇一九年はもう一度、山に入って祈る、それくらいの気持ちで、いや気持ちだけじゃなくて、現実にそういった歩みをしていただければと思います。

そして福音を語り続けること、「動き続けなさい」と語られた主のことばを受け取っていただき、ぜひみことばを語り続けてください。伝道者の書十一章一節、

『あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。』

というみことばがありますが、やっぱり語り続けて、パンを投げ続けるとき、必ず後の日に実を見ることができるのです。

つい先週、刑務所に行かせていただきました。十二月の最初の礼拝メッセージでお伝えした十数年ぶりに再会いしたスキンヘッドの看守長のお話をしましたが、その方とまたお話をする機会が与えられました。
その方と初めて会ったのが十四年前でした。二〇〇四年の六月九日でした。その日に会った時に、その刑務所の中で一番やんちゃな人が号泣して、賛美の中で変わったという所から刑務所の門が開かれたということだったのですが、今回、その看守長に、「やんちゃな人がいたんですよね。」と家内が言いました。そうしたら、「ここに来るやつはみんなやんちゃだから、どれがやんちゃだなんて覚えていない。」と言いました。やっぱり覚えていないのかなと思ったら、「でもあの滝元さんが初めて来た時にいたやつは、こんなに太っていて、背がでかくて、どうにもならなくて独房に入れたようなやつなんだよ。その人が歌の中で号泣して変わった。」ということを、その時に蒔かれた種がちゃんと残っていました。十四年前のことをそう言って、「そんなことありましたね。」と、そうおっしゃっていたのです。

私たちいろんな所でいろんな種を蒔きますが、必ずその実は刈り取る時が来るので、そのことを信じて、与えられた使命に沿って、この二〇一九年は黙り込むことなく動き続けなさい!というのが、主からのことばでしたので、動き続けて主の働きに励んでいきたいと思います。ハレルヤ!