「契約が執行される年となる」

2019年1月13(日)
新城教会牧師 上條実
詩篇89篇34節

『わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。』


 ハレルヤ!今日も全能なる主を心から賛美し、礼拝できます事を心から感謝致します。早いもので、二〇一九年も約二週間が過ぎました。この二〇一九年、主がどんなに素晴らしいことをして下さるかを期待しつつ、毎日過ごして行きたいと思います。

 まず皆様にお祈りしていただいております家内の事ですが、今まで毎月東京の病院に通院しておりました。しかし新城からは大変距離もあり、通院も大変だという事で、近くにある病院で、同じ治療が可能である病院を調べていただいておりました。そして十二月中旬から静岡県浜松市にある病院でも、可能であるという事を知り転院させていただきました。家内の調子も様々な時がありますが、いつも主にあって助けられ守られています。引き続きお祈り下されば幸いです。

 またリバイバルミッションのためにもお祈りと尊い献げものを下さり感謝致します。本日から滝元順牧師ご夫妻が北関東地区に一週間ご奉仕下さいます。どこで集会を行うかという案内を、週報とともに配布させていただきました。そこには集会開始時間しか明記しておりませんが、特に明日月曜日は、群馬県前橋市のある教会において、近辺の牧師先生や役員の方々を対象に、九時から十二時までと、十三時から十八時までという長時間、霊的戦いセミナーを行います。是非新しい扉が開かれる時となりますようにお祈り下さい。その後も群馬県から埼玉県へ移動し、茨城県、栃木県と移動して毎日セミナーを行います。是非滝元順先生ご夫妻のために祈り、支えていただければと幸いです。

 それでは早速先ほどお読みいただいた詩篇八十九篇三十四節より、みことばを学んでいきたいと思います。今日は「契約が執行される年となる」というタイトルで学んでいきたいと思います。詩篇八十九篇三十四節のみことばは、二〇一九年私と新城教会のために、主が与えてくださったみことばです。毎年十二月三十一日に、五人の牧師先生が次年の為に、主から与えられたみことばを語る時があるのですが、昨年十二月に入った頃から、祈り求め始めました。二〇一八年にはヨハネによる福音書十一章三十九節~四十五節

『イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは 言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。 「ラザロよ。出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。』

というところから二〇一八年は、「蓋をしてしまっていたところを開ける年」であると語らせていただきました。圧倒的な権威を持って「ラザロよ。出て来なさい。」と蓋を開けて、宣言し、死んで臭くなっているような問題に対して、宣言する年でありたい。私たちが遣わされている場所、学校、職場、また家族、住んでいる地域など、様々な共同体で勝ち取り、死んで臭くなってしまったものまでも甦って出てくる年となるようにと語らせていただきました。昨年お二人の兄弟たちが重篤な病気になられ、教会全体で祈りました。正直私は二〇一八年の為に与えられたみことばが「ラザロよ。出てこい!」というみことばを、主から教えられたので、とても責任を感じました。そして時間が許すごとに、様々な場所に出かけて行き、宣言し、お祈りの時を持たせていただきました。感謝なことにお二人は回復しつつありますが、二〇一九年、新城教会に、また私に何を語ってくださるだろうと、緊張しながら祈りつつ過ごしました。しかし十二月もだんだん時が過ぎ、まったく二〇一九年のみことばが与えられず、正直焦り、更に求め続けていました。すると十二月二十三日の礼拝で恵まれたメッセージを頂き、その後聖餐式をいただく為の祈りをしようとした時に、主は心の中に語りかけてくださいました。主は「来年、二〇一九年は契約が執行される年になる」ということばを下さいました。執行とは、こういう意味があるそうです。

執行(しっこう)
1 とりおこなうこと。実際に行うこと。「職務を執行する」
2 法律・命令・裁判・処分などの内容を実際に実現すること。

ということです。裁判で判決が出て「懲役何年です」と刑が結審すると、どんなことがあってもその人は、その期間刑を全うしなくてはいけません。また新しい法律が決まったら、私たちはその法律に従わなくてはいけません。まもなく、あまり嬉しくありませんが、消費税が十パーセントになるそうです。自分は認めないと言って、消費税を払わないとお店で言ったとしたら、その買おうとしていた商品は、売ってもらうことはできません。消費税分も支払えば、その商品を売ってもらうことができるのです。法律が執行されたら、その法律に従わなくてはいけません。

 私事になりますが、昨年の十二月にとうとう乗っていた車が故障し、本当にやばい状態となりました。その四、五ヶ月前、家内の診察のために、東京へ日帰りで行ってきました。そしてその次の朝、車に乗ろうと自宅の駐車スペースに行きましたら、なんと無残にも、後ろの扉の黒いプラスチック部品が、下に落ちていました。それを拾ってはめようとしましたが、はまりませんでした。調べたら、内側にプラスチックでかむ爪があり、その爪が折れてしまい、どうすることもできない状態となりました。とれたままにしていたら、大きな部品でしたので、とてもみっともなく、修理に出そうと思ったのですが、高額な料金になりそうだったので、「主よ、新しい車を与えてください。」と祈りつつ、黒い部品でしたので、黒のガムテープでその部品が落ちないように貼って、そのままで走り続けました。ある教会員の方と、ある交差点ですれ違ったのですが、後に「車どうしたんですか?黒のガムテープが貼ってありましたが?」と言われ、恥ずかしい思いをしました。そして十二月になりましたら、今度チェンジが滑るようになり、走行中ガクッ、ガクッと衝撃が出るような症状が出てしまって、これを修理したら高い修理費になると思い、更に真剣に「新しい車を与えてください」と祈りました。そして、家内を病院に連れて行くとき、楽に行く事ができるような車を探し始めました。そして安く売ってもらえる所をある人から紹介してもらい、十二月の終わりでしたが、中古車ですが、買うことができました。わたしにしては高い買い物でしたが、買うことができました。

 今までは他人の車でしたが、その車を私が買いました。契約して、お金を支払い、名義を変え、ナンバープレイトも変えて私の車となりました。契約をしたのです。その為私はその車に乗ることができるようになりました。

 また家内が入院したりすると、高額な医療費がかかります。その為去年は祈らされました。請求書を主の前に出して、一生懸命祈り、節約しながらお金を支払ったりしました。

しかし忘れていたのですが、家内が二十年以上前に、小さな保険に加入していたことを思い出しました。時々通知が来ていましたが、あまり読むこともせずにいて、全く忘れていました。ふと思い出して、その通知を開けてみました。すると、月々ほんの少しだけ掛け金を支払っており、その契約書を読んだら、入院したら一日これだけ出るという事になっていました。本当に心から感謝しました。家内が最初に入院したのは二年前だったのですが、なんと二年前の入院もさかのぼって請求ができると書いてあり、感謝なことにその契約通り、お金が入って来ました。本当に助けられました。「主の山に備えあり」というみことばがありますが、本当に主は祝福をくださいました。

 ガラテヤ人への手紙三章十五節、

『兄弟たち。人間の場合にたとえてみましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。』

 私たち人間の場合でも、契約したことはいったん結ばれたら、必ず執行される。誰も無効には出来ないし、付け加えることもできません。詩篇八十九篇三十四節、

『わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。』

 ましてや、主の契約は絶対に破られない。とみことばにあります。いつも礼拝で素晴らしい、生きたみことばを学び、また皆さんが毎日聖書を読まれていると思いますが、読んで、すばらしいみことばだな!と主が、示してくださったみことばは、主の契約書です。主の契約が執行される年だという、すばらしい約束のみことばを頂き、私は今年主に期待して進んで行きたいと願わされました。

 しかし現実はどうでしょう?皆さんもお祈り下さっていますが、私も愛する家内の病気が癒されるように祈っています。また病気で苦しんでいる方々のためにも、毎日お祈りしています。また多くの問題が解決して頂けるように、一生懸命祈っています。でも答えられてはいません。聖書の中にこんなみことばがあります。
ヨハネの福音書一章十二節

『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』

私たちはみことばを矮小化して、本当に小さく考えてしまうことがあります。主は信じてはいるけれど、既にあきらめてしまった問題が、私たちの生活にあるのではないかと思います。しかし、今日もう一度、主のことば、みことばを学んでいきたいのですが、神の子どもとされる特権をお与えになったとあります。私たち一人ひとりは、イエス・キリストを信じたら、全能なる主の子どもだというのです。その特権をあなたは与えられていると、このみことばでは約束されています。

 もしあなたの子どもさんが、「お腹空いた!」と言って、勝手に台所に入り、冷蔵庫を開けて、食べ物をあさり始めたら、あなたは何と言いますか?何とも思いません。それは自分の子どもだからです。しかし見も知らずの子どもが来て、勝手に食べたり、飲んだり、ごみを散らかしていたら「あなたどこの子?」と問い、ある時は警察を呼びます。自分の子どもというのは特別です。自分の子ども、息子・娘は特別な存在です。家族の一員ですから、家の中で勝手に生活していても、怒ったり、疑ったりしません。先ほども読みましたがヨハネ一章十二節、

『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』

 自分の子どもは、特別に愛し、子どもの為に貯金などをして備えて、病気の時はあるときは寝ないで看病します。自分の子どもは特別な存在です。同じように、私たちはサタンの配下にあって、罪深い者であり、当然さばきにあうものでした。しかしイエス・キリストを自分の神として信じた時、私たちは神の子どもとなる特権を与えてくださったとあります。イエスさまは私の親であり、私は子ども。親であるイエスさまの家では、何も遠慮せずに、自由に過ごすことができます。神の子どもとなったということは、何とすばらしい主の祝福、大きな愛であるとこを感謝しましょう。

 有名なみことばですが、エレミヤ書二十九章十一節、

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』

 親は子どもに対して、将来このようになってほしいと夢を持ちます。また子どもも様々な夢を抱いて生活します。親は子どもに対して貯金をし、子どもが幸せに生きることができるようにと準備します。ふつうは人間の親は子どもに対して、そのように考えます。私たちは神の子どもです。親であるイエス・キリストは、災いではなく、平安を与え、将来と希望を与えてくださるという約束です。これからどんなことがあったとしても、主はわざわいではなく、平安を与え、将来と希望を与えると約束してくださっています。マタイ五章十八節には、

『まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。』

 みことばは必ず成就します。みことばは必ず、百パーセント成就します。今年契約が執行されるとみことばで教えられました。この二〇一九年、どんな祝福なことが起きるかと考えるだけで心が躍ります。

 今まで目の前が真っ暗になり、これからどうやって進んでいったら良いだろうかと思う事が何度もありました。暗闇の中に入り込んでしまい、暗く沈み、不安に押しつぶされそうな時が、多々ありました。しかし主はそのような時「上を見なさい。」と教えてくださいました。空を見ると、ぽっかり開いています。主がいらっしゃるということを、もう一度確認すると、主からなぐさめをいただき、勝利を頂いてきました。そして今年は、契約が執行されるというみことばを頂き、そしてみことばは一点一画変わらないと信じるとき、大きな期待と慰めを頂くことができます。ガラテヤ三章二十六節~二十九節、

『あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。』

 親の財産は、子どもが相続する事ができる。子どもは法律で親の財産を相続することができる権利を持っています。私たちは神の子どもですから、約束の相続人です。先ほども読んだように、将来と希望を与えてくださる。だから今年は、今まで祈り続けてきたこと、みことばで教えられたことは、必ず成る。と信じていきましょう。破れ口が見えない、堅い殻に閉ざされているような時があるかもしれません。しかし今年は信仰を持ってください。主が必ず契約を執行してくださり、「見たことも聞いたことも思い浮かんだことのなりもの、主が備えてくださったものはみなそうである。」と、岡本先生もこの二〇一九年のみことばとして語ってくださいましたが、私たちが驚いて、なんでこんなになったの!?と驚き、飛び上がって、感謝して、嬉しくて仕方ない状況に主は、導いてくださることを信じたいと思います。


 しかし、私はこのヘブル人への手紙十一章を読んで少し不安になったことがありました。ヘブル人への手紙十一章一節~三節、

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。』

 特にこの一節はすごく有名なみことばで、『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』信じたらその通りになる。このことばはすばらしい約束です。しかしこの素晴らしいみことばを、誤解しているところがあります。みなさんもそうかも分かりませんが、よく、「信じなければ駄目だよ!」と言います。疑うから、みことばが成就しないとよく言われ、私たちも考えてしまっています。信じ切るという事はとても難しいことです。どのように信じたら良いのか分からないのです。信じるということは、何かにしがみついて、堅く「願ったらその通りになる!」と念じたら、その通りになると考えるのですが、様々な状況を見ると不信仰になってしまいます。疑ってしまうのです。すると悪魔・悪霊は訴えるものですので、

「信じきれないと祈りは聞かれない。おまえはあの時、あんな罪を犯したじゃないか。あの時愛の手をさし出さなかったじゃないか。あの時、こんなこと言ったじゃないか。」と、悪魔は私たちに訴えてきます。そのように言われると、私たちは悪魔・悪霊のことばには、すんなり聞き従ってしまい、もう答えられない。駄目だ。信じきるという事は難しいと、あきらめてしまい、硬い殻、硬い壁の中にしまい込んでしまいます。主は生きていると信じてはいるけれど、何の力のないクリスチャンだと感じ取ってしまいます。

 しかし、ヘブル人への手紙十一章一節、

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

 このみことばを読み、今まで誤解していたことがあったと気が付きました。例えで話したほうが分かりやすいと思うので、例えでお話ししたいと思います。つい最近のニュースで、ある方が百万円をみなさんに差し上げますというツイッターを出し、応募した人が当選したというニュースがありました。当たった人に対してうらやましいなぁと思います。ありえないことですが例えとして聞いてください。もし私が財閥でありまして、みなさまに差し上げたいと思うものがあるとします。

127067522471516316069_boki3_chapter10-4_image01.gif

 小切手です。小切手なんて私はほとんど見たことがありませんが、もし私があの社長のように「百万円」と書いて、小切手を切りあなたに、「差し上げます。」と言ったら、どうしますか?

私の顔や生活を見て、嘘に決まってる!とはなから疑われると思いますが、「差し上げるよ!」と言われて、もらったとします。しかしそのまま、どこかに置いたままにしていたら、お金には換えることができません。「あの上條が小切手をくれたぞ。間違えなく偽物だ」と疑い、銀行に行かなかったら、それはただの紙切れです。しかし疑いからかしても、その小切手を持って銀行に行き、窓口に行って、小切手を差し出します。すると奥から、うやうやしい、見たこともあまりありませんが、こういうものが、「はい、どうぞ」と差し出してくれます。

2018022601.jpg

 百万円は現実にあなたのものとなります。今回、あの社長さんのニュースを見て、考えました。信仰というのは何かというと、百万円という小切手はお金ではありません。お金に換えることはできますが、小切手はお金ではありません。単なる紙切れです。しかし百万円の価値のある証書です。それを銀行に持って行ったら、百万円に換えてもらえます。信仰とは、お金に換算できると信じて、その小切手を持っているだけでは、百万円を頂くことはできません。実際に銀行に持っていくことが信仰だと思います。持っていて、「百万あるぞ、あるぞ」と思っても、結局持ち続けていたら、何のメリットもないし、自分にお金が入って来ません。しかし銀行に持って行ったら実際に百万円を手にすることができます。その小切手の所には、サインで、「イエス・キリスト」と書いてあります。みことばは小切手と同じなのです。あなたがそれを信じて、「信じたぞ!信じたぞ!でも信じ切らなくてはいけない!」とずっと手元に置いていたら何も頂くことはできません。しかし行動して、銀行に持って行ったら百万円と換えられると同じように、「信仰」は行動していくことです。主に期待して、持ったままではなく、行動することです。小切手を出したら契約が執行されて、お金に換えることができます。みことばは私たちがイエス・キリストを信じたら、神の子どもとなる特権を与えてくださったとあります。そして聖書はその通り、一点一画変わらない。それが成就するとあります。私たちは信じて行動していきたいと思います。今まで祈らなかったら祈り始めることです。主の前に、一歩前に進んで見てください。主は執行してくださいます。

 またもう一つの例えでお話しします。今日も教会では、スタッフの方が、美味しいお昼ごはんを用意してくださっています。また奉仕してくださる方々が、給仕してくださることによって、私たちは美味しくいただくことができます。さて、みなさんがあるレストランに食事をしようとして入店したとします。すると店員の方が、水をコップに入れて持ってきてくださいます。そして、「ご注文が決まりましたら教えてください。」と言われます。水が来た時に、あなたがとても喉が乾いていて、コップの水を飲み干したとします。そしてもう一杯欲しいと思ったらどうしますか?「すいません!お水をください!」とお願いします。すると水をピッチャーに入れて、店員の方が持ってきてくださいます。

 その時に、「はい、お水ですよ。」とお水を差し出した時、あなたがこんなことをしたらどうでしょうか。その水をくださる時に、スプーンを差し出したらどうでしょう?スプーンを出したら、スプーンに水を一杯にしてくれます。しかしそれでは乾いたのどを潤すことができません。では「これでお願いします!」と言って両手を差し出したら、飲むことはできるかもしれませんが、衛生的ではありませんし、うまく飲むことはできません。私たちはあたりまえのようにコップを出します。こんどは、私があなたにお金の入った財布をあげようとします。実際は絶対にありえないことですが、たとえです。そのとき、コップを出すでしょうか?おそらく手を差し出すでしょう。また、ある人がパソコンの大事なファイルをあなたにあげますと言ったとします。そのとき、手を差し出すでしょうか?おそらくUSBスティックを出して、「これに入れてください」と言うでしょう。今、言った、コップ、手、そしてスティックにあたるものが信仰です。では、信仰とは何でしょう?神さまがあなたに与えようとしているものを受け取るものです。つまり、信仰という、見えない器、あるいは見えない手がなければ、受け取ることができないということです。

 ですから今日、私たちは何もできないものですが、私たちの主は何でもできる方です。ですから家族の救い、また祈りの課題、難しいと思うと、吠え猛る獅子のように食い尽くすべきものを探すものとして悪魔は必死になって私たちに狙いを定めてきて、「難しいぞ!そんなの応えられないぞ!無理だぞ!見てみろ、あんなに硬い殻に閉ざされてしまっているじゃないか!」と語ってきます。私たちは知らない間に信仰の手を出すことができないで、もう小さな小さな、小さなスプーンを出して喉を潤しているような私たちかもしれません。しかし今日、神にとって不可能なことはひとつもありません。私たちは神の子どもとなる特権を与えて下さったという約束です。今日私たちは信じて行動していきたいと思います。

 行動するということは、私たちは再度祈り続けていくことだと思います。また状況は何も変わらないけれども、主に示されたことを行動してみることだと思います。また聖霊の力を求めることです。そして霊的戦いだと信じて祈っていくことです。一歩今までの生活よりも、イエスさまに近づいてみることです。信じ切ろう!ずっと信じて、信じて、「おまえの信仰じゃ駄目だ。」と悪魔は訴えてきます。しかしそれは偽りのことばです。契約書には、はっきりと書いてあります。私たちは神の子どもです。神の相続人です。将来と希望を与えてあげる。これが契約書の内容です。みことばですから、私たちは信じましょう。とどまっていないで、主に一歩近づいてください。

 今日最初に読んでいただいたみことばを、もう一度読んでみたいと思います。詩篇八十九篇三十四節、

『わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。』

 このみことばはあなたへのみことばです。今さまざまな問題があったとしても、また私たちが日本を愛し、日本のために祈り続けていますが、日本はこのままでは滅びてしまいます。一歩踏み出して、私たちが神に近づいたなら、私たちが行動を起こしたなら、主は大きな破れ口をもたらしてくれます。

 スーパーでは、よくラップに包んでパックしている商品がありますよね。今日もマルイチさんがお昼食時に売られるかもしれませんが、商品がしっかりパックしてあって、なかなか取れない時があります。そんな時、私はどうするかというと、箸などでラップに穴を開けるとそこが破れて、そこから簡単に破ることができます。それと同じようなもので、主は必ずできないことはありません。みことばの剣でそれを刺し通すと、そこから破れて、空くように、み言葉の剣で問題を刺し通しましょう。必ず堅く閉ざされた問題も、それを開ける事ができます。私は今回このみことばをいただいて、『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させる。』今は全く見えないかも知れないが、主にもう一歩期待して、祈ってみよう!行動してみよう!本当に主に求めてみよう!一歩踏み出すこと、みことばを宣言してください。みことばの剣を問題に対して振りかざしてください。

 もう一度確認ですが、ヨハネ一章十二節、

『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』

 この「人々」という所に、みなさんの名前を入れたら良いのです。その人は神の子どもとされる特権をお与えになった。誰がどう言おうと、あなたはイエス・キリストを信じたら、あなたは主の子どもなのです。
 聖書六十六巻、聖書は、絶対に一点一画変わりません。成就するみことばです。そのみことばを剣として受け取り、振りかざすとき、悪魔に立ち向かうとき、私たちは約束のものを受けることができます。

 私の大好きなみことばの一つですが、ローマ人への手紙二章十一節、

『神にはえこひいきなどはないからです。』

 私は中学校時代にこのみことばを頂きました。それ以来大好きなみことばです。アブラハム、イサク、ヤコブ、聖書にある偉大な様々な人物。しかし「神にとってえこひいきはない。」とあります。彼らと同じように、主は私を愛してくださっています。だから今日、みことばを信じて、前に出て、「えこひいきはないと主は語っている。悪魔よよく聞け!みことばの剣によってこの硬くて動かない問題を打ち砕きます。と信じて戦って祈りましょう。イエス・キリストの名前によって私たちは宣言して祈っていきましょう。

 最後にこのみことばを読んでいきたいと思います。マタイによる福音書二十章一節〜十六節。まず一節〜二節、

『天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。』

 とあります。朝早く労務者を雇い、一日一デナリの約束で、ぶどう園で働いてもらうために雇いました。一日一デナリは当時、正当な支払い金額です。

 そして三節には、九時ごろに出かけてみると、また別の人たちが市場に立っていたので、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』と言いました。

 また五節を見ると、『十二時ごろと三時ごろにまた出かけて行って、同じようにした』とあります。

 そして六節〜七節を見ると、『また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』

 そして八節〜十二節、

『こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』

 しかし十三節からのみことばの剣として受け取りましょう。

『しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」』

 先ほど読みましたローマ書二章でも言いましたが、神にはえこひいきはありません。私たちは主人が「一デナリあげるから」と言って、契約を結び雇われた労務者と同じなのです。
 朝早く来た人も、また夕方五時で一時間しか働かなかった人も同じ契約をし、主人はその通り払ったと言っています。しかし朝早くから働いた労務者は「おかしいじゃないか!なんで一時間しか働かなかったのに、私たちと同じなんだ!と怒りました。朝早くから来て、暑さの日照りの中で苦労しながら一生懸命働いたのに同じ金額か!」と文句を雇人に言います。

 私たち、クリスチャンになり少しずつ年月が経つと、主に文句を言い始めます。「あの人はいいなぁ〜。病気が癒やされた。なんで私や私の家族には起きないんだ。なんでだ。」「えこひいきしている」「我々よりも彼らを愛している」と怒ります。悪魔はささやくのです。「おまえは信仰薄いからだ。」と訴えてきます。しかし今日みことばの剣を持ちましょう、えこひいきのない主だという剣を持ちましょう。

 今日、初めて礼拝に来られた方も、いやもう信仰歴五十年ですよ、六十年ですよという人も同じように、主は「聖書」という契約書をみなさんに手渡しています。今日私たちが、そのみことばを、契約が執行される年だと、信じて一歩前に進んで行きましょう。今日、私たちは主に期待したいと思います。目の前が真っ暗でも、上には天が大きく開いています。そして祈りましょう。

「主よ、みことばを執行してください。成就してください。」

と私たちが願う時、主は必ず成就してくださり、執行してくださいます。そして毎回、礼拝に集うとき、隣の人に、
「こんな祈りが応えられた!」
「私もこんな祈りが応えられた!」
「癒やされた!」
「解放された!」
「経済的に祝福された」
など私たちは、証しし合うことのできるのです。

 今日、神の子どもとなる特権を与えていただきました。私の後ろには十字架がありますが、イエスさまが、あなたのために、私のために、十字架にかかってくださいました。本当は罪を犯したために、滅びなければならなかった者ですが、イエス・キリストが身代わりに十字架にかかって、滅んでくださいました。そして死の力を打ち破り、よみがえってくださいました。そして神の子どもとしてくださいました。インマヌエル、主はあなたとともにいます。

 ですから、主を小さく考えないでください。今日、あなたの神は全能なる神です。一歩踏み出して、戦ってください。みことばの剣を持って、戦いはじめて下さい。その時みことばの剣によって勝利することができます。みことばを宣言しましょう。主が問題を打ち破ってくださいます。今から聖餐式を行いますが、聖餐のパンとジュースは、御霊によってイエス・キリストの体とイエス・キリストの血です。大きな犠牲を払って、「もうおまえを自由にしてあげたよ。神の子どもだよ。自由に特権を使いなさい。」と主は言ってくださっています。今日、もう一度新たに、イエス・キリストを信じて、この聖餐をいただきましょう。今年は契約が執行される年です。最後にお祈りしたいと思います。



『愛する天の父なる神様。私は今日もう一度イエス・キリストを私の神として、信じ受け入れます。そしてみことばによって、神の子どもであり、神の相続人であることを信じます。
今年新城教会は、そして私は詩篇八十九篇三十四節『わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。』というみことばを信じます。そしてそのみことばをみことばの剣として、戦います。イエス・キリストの聖なる名前によって、今まで硬くて、閉ざされていた問題・病気・家族の救いなど、主にあってみことばによって、契約が執行される年であることを信じます。今年は大きな祝福、成就を見る年であることを信じます。また兄姉から素晴らしい証を聞くことのできることを信じます。見たことも、聞いたこともない。思い浮かんだことのない事が、兄姉に、新城教会に、そしてこの日本に起こされることを信じ、主にあって宣言します。主イエス・キリストの聖名によってお祈りします。アーメン』