「主に覚えられている者たちよ。黙り込んではならない。」

2019年1月20(日)
新城教会牧師 滝元開
イザヤ書62章6節

『エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。』


 私たちは今、心から賛美を持って、すべての被造物の回復を一生懸命歌っていますが、ダビデ王様は契約の箱を招き入れた時に躍って賛美しました。力の限り、王様であるのにも関わらず、喜び躍って、人目を気にすることなく踊りまくって、そして主のご臨在を、イエスさまご自身を喜んでお迎えしました。そのように私たちも喜び歌っていきたいと思っています。踊りとともに、賛美とともに、この戦いを前進していきたいと願っています。

 今日は、「大盾と剣」という歌を歌いました。礼拝では久しぶりに歌いました。二週間前の木曜日の夜の賛美集会の時に、この歌を歌いました。
 このみことばからとられた名前の少年が一人いるのですが、敵の門を勝ち取るという、創世記のみことばです。創世記二十二章十七節、

『わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。』

敵の門を勝ち取る!そこから付けられた名前の少年がいます。二週間前の木曜日の賛美集会の時の出来事です。この歌を歌い始めたら、何を思ったか、その名前の少年が一番前にやって来ました。すると突然、激しく何者かと戦うかのように動きはじめました。さらに転がって転がって、また立ち上がって、ずっと戦っているのです。この子、自分の名前と分かって、意味が分かってこの歌をやってんのかな?それともウルトラマンごっこと勘違いしているのかな?でもずっと踊っているのです。
 そして次の日に、彼がたまたま事務所に入ってきました。そして彼は入って来て歌を歌っているのですが、その時に、「戦え〜戦え〜主の勇士よ〜♪」と『大盾と剣』をずっと彼が歌っていました。戦い続けるようにとの主からのメッセージであると受け止めました。リバイバルは戦いだと私たちは認識していますが、時として、「もういいんじゃないの?」と思う時、誰しもあるかもしれません。しかしやっぱり神さまがくださったリバイバルというこの使命に立つ時に、どうしても戦い続けなかったらいけないと思います。

 雅也先生が越年の時に語ってくださったメッセージが、ある意味、魂の叫びのようなメッセージだったように思うのですが、「なぜ宣べ伝えるのか?」ということが、みことばを通して語られていました。第一コリント九章十六節〜十七節、

『というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。』

 どうして宣べ伝えなければいけないのか?どうして戦い続けなければいけないのか?その先生のメッセージの中で、キャパオーバーみたいな話をしていましたが、やっぱり私たち、主の戦いを戦う中で、さらに戦わなければいけない、そろそろいいんじゃないのかな?イエスさまのご栄光を現してくださって、イエスさまにお委ねして・・という気持ちも、ある時は持つ時があるのかもしれませんが、しかし主ご自身から与えられた務め、私たち一人ひとりに対して、またこの教会に対しての神さまから委ねられた務めというのがあるので、それはやっぱりリバイバルの戦いという務めというのを果たさなければいけないですね。

 パウロは『もし福音を宣べ伝えなかったら私はわざわいに会います。』と、自分に与えられた務めについて語りました。福音を宣べ伝えるという務めを果たさなかったらわざわいに会うと認識していたのです。
 パウロの人生を見ると、何度も殺されそうになるような、大変なことだらけのことが出てきますが、しかし彼がそのような中でも、「私はわざわいに会うのではなくて、務めを果たすんだ」と言って戦い続けている姿を見ますので、私たち、リバイバルというこの戦い、さらに進んでいきますが、希望を持って進んでいきたいと、心から願います。

 先週は上條先生がすばらしいメッセージをしてくださって、「主のみことばの約束、その契約が執行される年である!」と、語られましたが、私たちそのことを信じて、今年進んでいきたいと心から願います。
 そのために必要なこと、一つ語ってくださっていた言葉の中ですごく印象的だったのが、「信じることは行動することだ」と語っておられました。
 私たちは神さまの約束、今年は来る!と信じるわけですが、信じて、そして、さぁ何が起こるのかな?と待つのではなくて、主が始めてくださることを信じて行動し始めなかったらいけないのです。
 ヤコブ書のみことばの中に、こんなみことばがあります。ヤコブ書二章十六節〜十七節、

『あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。』

と書かれています。行いがなかったら信仰は死んだものだとありますので、私たち、この年、主の約束の契約が執行されるためには、私たち一人ひとりが動き始めることが必要です。

 ということで、今日の私のメッセージタイトルですが、「主に覚えられている者たちよ。黙り込んではならない。」もう一度、このみことばをお読みしたいと思います。イザヤ書六十二章六節、

『エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。』

 このように書かれています。主に覚えられている者たちよ。主からの務めを託された人たちは、黙り込むことがないようにと、このみことばが私に与えられました。
 越年の時にもお話しさせていただいたのですが、十二月二十二日が中高生の伝道会、レッツプレイズという集会でした。その日は朝からずっと準備をして、そしてノンクリスチャンの子たちを迎えての集会でした。その時はみんなに無料で食べられる!というハンバーガーを作りました。中高生のお手製のハンバーガーなんです。
 主の奇跡をその場で見ましたが、本当に美味しかったです。あの味をもう一回出せと言ってもなかなか出せないのですが、牛百パーセント、コストコで買ってきた牛を百パーセント、みんなで捏ねて、一つ七十グラムずつに分けて、そしてバンズと玉ねぎをスライスしたものをちょっと焼いてとろりとさせて、そしてそれにトマトとレタス、その上、ベーコンとアボカドまでのせました。それが美味しくて、私は涙が出るほどに感謝しました。ハンバーガー一個で涙出すか!って感じなのですが、ただイエスさまって本当にすばらしいな!と。
 最近の中高生会、人数が少ないのです。十一、二、三人でやっているものですから、しかもみんなぴっぴっぴと気を回すタイプではないので、みんな「これして」と言うと、そのことをするのです。「玉ねぎを剥いて」と言うと、「はい」と言って、本当に一枚一枚丁寧なのですが、めちゃくちゃゆっくりやってくれるのです。さすがにスライスはできないだろうなと思ったのですが、それが本当に美味しくて、まさしく主の奇跡をハンバーガーの中に見させていただきました。これ都会で販売したらかなりいい線でいけるなと思いましたよ。私はその次の週に東京に行きました。銀座を歩いていたらハンバーガー一個千二百円で売っていました。でも私はそれを見て、あの涙の味、これに絶対勝ったな!と思ったのです。食べていないので分からないですが、千二百円どころじゃない、本当に美味しいハンバーガーができて、いや〜イエスさまって本当にこんなに細かな中にまで働いてくださるんだ!ということに感動しながらも集会に突入しました。
 いっぱいの中高生、ノンクリスチャンの子たちも来てくれて、私は司会しながら、いろんな準備しながら、司会しながら、そしてまた司会をして、「それでは次のバンドどうぞ!」と言って、歌っている間に、次の会場セッティングをするのです。
 そしてまた「メッセージお願いします!」と言うと、また違う準備をずっと動いていたものですから、さすがにちょっとだけ疲れてきました。朝からずっと歩いているので、ちょっと筋肉痛もあって、また十二月もずっと立て込んでいたスケジュールでもあったので、ちょっと休んで座ろうかなと思った時に、主が私に十二月二十二日に語りかけられた言葉が、「動き続けなさい」というものでした。「え?動き続ける?これだけ動いても駄目なんですね。分かりました」と言って、最後まで動き続けました。
 これがこの二〇一九年主が与えてくださった一つの私に対する主のことばだなと思って受け止めたのですが、『主に覚えられている者たちよ。昼の間も、夜の間も、黙りこんではならない。』という、これが神さまからのことばで、その主の契約が執行され、実行され、私たちそれを手に取るためには、みなさんそれぞれの賜物の中で、それぞれの働きの中で動き続け、働き続ける時に主の業がなされると信じています。

 祈り続けること、賛美し続けること、伝道し続けること、そして戦い続ける。その時に神さまの業がなされますので、特にこの教会としての使命はリバイバルという大きな戦いを、この日本のみならず、全世界のリバイバルの働きを託したぞ!とイエスさまがくださっていると思います。だからそれを信じて受け止めるか、受け止めないかは、私たち一人ひとり次第で、リバイバルの働きは誰が負うべきか?というのは、私たち全員だと思います。
 明牧師が十九歳の時にイエスさまを信じて、東京の武蔵野の森の中に入って祈ったというのです。そして祈っていたら聖霊さまに触れられて、涙と鼻でぐしゃぐしゃになりながら、「イエスさま!日本にリバイバルを!」という熱い思いが来たと。その思いというのは今も消えていないと明牧師の本に書いてあります。その時が、主から明牧師にリバイバルを託された瞬間でした。
 明牧師が癌になって、癌宣告を受けて一回自宅に帰って来た時があります。その時に私と何人かいた中に順先生もいて、私たちはその時、癒やされることを信じて祈っていたので、あんまり否定的なというか、癒やされない話はあまり受け入れようとしなかったのですが、でも父はこう言いました。「リバイバル、後はおまえたち頼むぞ。」と言われました。そうしたら順先生が、「そりゃ大丈夫だ!任せとけ!」と、そうおっしゃっていました。
 ともすると、リバイバルの働きというのは、明牧師が十九歳の時に受け取って、そして夢を語って、甲子園ミッション、東京ミッション、スーパーミッション、いろんなミッションというので、この日本のミッション、そこからこの世界に広がり始めていますが、その働きというのが始められて、そしてその当の本人が天に帰ったので、さぁ誰が負うべきか?それは誰か?
 誰かががんばってくれたらいいというのではなくて、これはやっぱり神さまご自身からの務めなので、それは全員で受け止めなかったらいけないと思います。
 だから、祈り、賛美し、伝道し、みことばを宣べ伝える!というのも、「この年、そういうみことばらしいから、若いもん、がんばってくれ!」というのもいいのですが、でも若者、本当にがんばらないといけないと思います。
 やっぱり若いってすごい大きな力なので、祈りにしても、賛美にしても、若者にはかなわないとは言わないですが、やっぱり体力的には随分違うと思います。

 私、聖霊さまにがつんと触れられたのは高校二年生の冬でした。ちょうど県民の森で教職ゼミナールをしている時に、以前ここでもお話ししましたが聖霊さまに触れられた体験をしました。集会の最後に、私の前によみがえりのイエスさまがぼーんっと現れて、気づいたら私、涙と鼻でぐしゃぐしゃで、本当にイエスさまってすごいなと、それからもう変わりました。世界の見え方が変わったというか、あの頃、若くて、元気で、毎朝早天祈祷会が県民の森でその期間中はあるのですが、私、学校に行く前に県民の森のまで行って、山に入って祈って、学校に行って、またその集会に行って、もうがーっと燃えてしまうと押さえられないというか。
 今はヒートテックだの、貼るカイロだの、そしてダウンだので、一生懸命暖を取ってしますが、その頃、ぺんぺらぺんの格好で私は行っていました。それで寒さも感じずに、多少足は冷たいなぁくらいな感じで、でも心は燃えていた。あれは聖霊さまの働きですが、それだけではなくて、やっぱり若いってすごいことだったなって思います。だから、今、若者に対する神さまからのメッセージってあると思います。

 県民の森の祈祷会、月曜日、毎週行われています。先日も話しました。関東のほうでこんな話をしました。「今も県民の森で祈っている。」と言ったら、「今も祈ってるんですか?この時代にですか?」と言うのです。信じられない感じでした。ある方は、「分かりました。もう一度祈ります。」とおっしゃってくださった方もいらっしゃいましたが、やっぱりこの教会に与えられた務めを成し遂げるために、祈り続けることの大切さは計り知れないほど大きなものだと思います。順先生もおっしゃってましたが、県民の森の祈祷会が終わった時にこの教会が終わる時だと言っていましたが、でもそのためには、次の世代、この県民の森の祈祷会に入ってこないといけないと思います。
 なにせ昔は本当に元気でしたね。走り回って歌い続けていましま。特に甲子園時代なんてずっと叫んで、聖霊が注がれた小屋の中で、叫んで祈って賛美するじゃないですか。そうすると小屋の中なのでほこりが蔓延するのです。そうすると喉に来るのです。それでなんかいがいがするなと思ってたら、喉から血が出たりするのです。私は三回くらい喉から血を出して、その後、結構声が元気になったというか、強くなったというか、こんなこと言うとまた悪くなるといけないので、ただ主のあわれみですが、でもこれも若い力だったなと思います。
 あの頃、祈祷会の一次会、そして二次会というのがあって、二次会は山の上まで登って朝まで祈りました。一次会にそもそも教会員のみなさん来てくださいました。その頃、三十人、四十人、五十人来てくださいました。
 先ほど言ったように今みたいにホッカイロがあるとか、暖かいダウンがある時代ではなかったので、来られるみなさん、この世のものではないという格好で来ました。だいたい毛布で身体を覆って、そのままの姿で新城の町歩けますか?と聞いたら、絶対歩けない、その集団がぞろぞろぞろぞろ県民の森の山の上に入って行って、「おー!主よ!リバイバルを!」と叫んだゆえの祝福というか、そのゆえの土台というのがあると思うのですが、次の世代がそこに入って来ないと、やがて、この二十年後?私も八十に近い頃にいるので、きっとその頃はハレルヤ!とかやるにも、全身ホッカイロだらけでないと山の中に入れない状況になっているのかもしれないですけど、やっぱり次に続く人たち、絶対に必要ですよ!
 だから今日の話、これは人ごとではなくて、この務めをこの教会で受け止めていただくために、若者たち!若者のみなさん!聞いてください!県民の森の祈祷会に行きましょう。昔よく、「結婚したい!この時は!」と言うと、突然普通絶対来ないような青年が来たりするのです。そうすると、一生懸命リバイバルに燃えたのかな?と思うと、「あ、結婚決まったんだ。良かったね。」そして去っていくということがあったりして、これはこれでいいのかな?とか、それはそれでいいんですが、でもやっぱりリバイバルというこの務めを私たちが担っていくためには、戦い続けるために祈り続ける。そのことをぜひみなさんに実行していただければと思います。

 順先生が語ってくださったみことば、ルカの福音書十章十八節、十九節のみことばを語ってくださいましたが、

『イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。 確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

 これが今年、もう再び、この教会に与えてくださっている主からのみことばです。私たち一人ひとりに主からの権威が与えられていて、だから悪霊どもでさえ、私たちに害を加えることができない。そのような選びが与えられている私たち、やった!そんな選び与えられた!と言って、じっとして黙っていたらいけないのです。この年は。
 ですから、祈り続け、戦い続けていく、そのような歩みをしていきたいと心から願います。また第二テモテ四章二節のみことばをお読みしたいと思います。これは若い伝道者テモテに対してパウロが言った言葉です。

『みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。』

と書かれています。
 私たち、本当に時が良くても悪くても、みことばを宣べ伝える。そのことはしなければいけないことなのです。以前、リバイバル運動まっただ中!という前というのは、どちらかというとこの教会の成長ということを考えて、いろんな運営がなされていた部分もあったと思います。
 この教会が祝福されてリバイバルされて、倍加されて!みたいな。昔よく「倍加運動」みたいなことを言いました。一人が一人連れて来たら倍だから、理屈から言って難しいことではなさそうなので、「今年は倍加しますように!」みたいな話をよくされていたんじゃないかなと思うのですが、私は最近ふと、ふと思いました。
 それは主の時であれば、時が来たら、やっぱり実がなるのです。でも時が満ちた時に、その実を取らなかったら実は落ちてしまって腐ってしまうのです。だから時は絶対に逃してはいけないと思うのですが、昔、倍加とか言ってたけど、今ってその時が来ているんじゃないかな?と、すごく思います。
 だからみなさん特別な集会だからコンサートに来て!とか言うよりも、この礼拝にみなさん是非、この人誘って、この人誘って、ということを聖霊さまによって動き始めて、語り始める時に、その時に主は事をなしてくださるという時って来ているんじゃないかなと、そんなことを私はちょこっと感じたことだったので分かち合わせていただいています。ぜひ、本当にそうする中で働かれる、主が働こうとされているというのがありますので、そのことを受け止めて、ぜひイエスさまのすばらしさを宣べ伝えると共に、ぜひこの教会にみなさんの親族であったり、ご家族であったり、お友達をお誘いいただければと思います。

 そして私たち、主への賛美を献げる時に、このすべての被造物が主をほめたたえ歌うという、そのようなところに神さまは導いてくださいましたので、私たちが歌う時に心から賛美して、礼拝して、私たちが主の恵みに預かるのみならず、私たちが賛美する時にこの地が、被造物が共に歌う。そんな思いを持って、ぜひ歌い続けていただきたいと思います。

 昨年の十二月二十六日に、再び刑務所に行ってコンサートがありました。すごく祝福されました。十月にも行って、十月の時の証しは以前の礼拝で証しさせていただきましたが、十二月二十六日、また同じ刑務所に行って賛美しました。本当に聖霊さまの助けがあって、主のご臨在が彼らをすっぽり覆う感じでした。
 そして歌い終わったら、なんと一人の受刑者が叫びだしてくれました。何と言ったかといったら、「アンコール!」と言ってくださいました。あのような場所はなかなか時間設定がすごくきっちりしていて、「何時に終わってください」と言われたら何時に終わらないといけないので、私たちはその時間は何がなんでも守るようにしています。「今日は五十分に終わる」と言ったら、五十分にぴたっと終わって、そして次にいくのですが、終わったと思って、「ありがとうございました。」と言ったら、「アンコール!」と言ったのです。さてどうかなと思ったら、「歌っていいよ」と言ってくださって、結局一緒に歌うことができて、神さまの恵みでした。

 賛美の中にある力というものを、この被造物のみならず、私たちのみならず、クリスチャンでない方々に届ける時に、神さまのわざというのが起こされます。
 その刑務所に十四年前に私たちが初めて行った時に一人の受刑者が変わったという話、ここで何度かしました。一番やんちゃな人が変えられたゆえに刑務所の門が開かれたことがありました。
 その時にきっかけになった看守長がいらっしゃるのですが、その方はもう定年を越えた歳なのですが、でもまだそこで働いておられて、十月に奇跡的に不思議な再会をしたという、そんなお話をしましたが、今回、その看守長に家内がこう言いました。「私たち初めて来た時に、やんちゃな人が変わったんですよね。」と、そう言ったら、その看守長何と言ったかというと、「え?やんちゃなやつ?ここに来るやつはみんなやんちゃ。だからそれはわかんないな。」と、最初はそう言いました。でもその次に、「でもね、あの初めて来た時のことは忘れられない。」と言って話し出したことが、そのやんちゃな人のことを話し出しました。
 その看守長も背が大きいのですが、「これくらい大きいけど、それに加えてこんなに太ったやつで、本当にやんちゃで、そいつがあまりにもひどいから、何度も一つの部屋にぶちこんだ。」と言うのです。独房だとは言いませんでしたが、そこにぶち込んで、また出して、「本当に大変だったやつが、滝元さんたちの歌の中で変わった。いや〜すごかったね。」と、十四年前のことを鮮明に覚えてくださっていて、いや〜、私たちが蒔き続ける種ってすごく大切だなぁ、こんなに鮮明に覚えているんだ!
 だから何気にみなさんがクリスチャンでない方々と何気に話すこの一言というのが、一粒の種になって、「あの時、ああ言ったよね?」だから私イエスさま信じる!という、その日って、絶対に来ると思います。だから神さまによって与えられたそれぞれの使命というものを本当に果たし続けていただければと思います。

 話はまた変わりますが、十二月の日曜日に東京の一つの教会に行きました。「東京希望の教会」という教会で、そこの牧師先生は尾形守というとても有名な先生です。特に異端問題を取り扱っている本を何冊も出しておられる学者です。本当にすばらしい学者で、特に甲子園ミッションの時から一緒に戦いの輪に加わってくださって、ずっと戦ってくださっている方です。
 その先生の所に、この十二月に行きました。実は今回で四回目でした。四回続けて、毎年クリスマスになると、だいたい半年くらい前にお電話くださって、「また今年も来てくださいますか?」と言ってくださるので、私たちは、「喜んで!」と行くのです。
 そこの教会はこういうPAシステムは一切使わない教会なのです。どうしてかというと、一つのビルの中のワンフロアを使っていて、ご近所さんから苦情が来てしまうので、だからPAは使えない、それでもいいですか?ということで、私たちギター一本で生歌で集会ごとにするのです。午前は少しの賛美をして、午後に集会をするのですが、でも毎回本当に聖霊さまが働いてくださって、神さまの働きはこういう機材も大切ですけど、機材と共に働かれる主と共に、機材がなくても神さまは働いてくださる。
 順先生がよく、「県民の森が原点だ。あそこでは楽器も何もない、手拍子だけだ。そこで聖霊さまが働くんだ。」ということを、この間の賛美のセミナーの中でおっしゃっておられましたが、本当にどんな中でも主は働いてくださるということを体験しています。

 その先生の所に、今回四回目だったので、今回のリバイバルミッションニュースにお証しを書いていただくことにしました。そうしたら先生が承諾してくださって、お証しを届けてくださいました。そうしたら、私たちは知ってはいたのですが、先生がその証しの中で、こう書いてありました。「実は五年前に私は私の妻を天に送りました。」と書かれていて、まだ六十少し過ぎの若い先生、本当に若くて元気でPAなくても上の人怒るだろうなというくらい、わーっとすごいメッセージで、そういうメッセージをされるすごく元気な方で、リバイバル!リバイバル!と言って、東京で戦って、拠点は山梨にあるのですが、そこを行き来しながら戦い続ける中で、奥様が天に召されてしまいました。本当に悲しさと辛さの中にあったと書いてくださっていました。「でもそんな中で賛美の中にある力に触れて、『主の愛が今』を歌って、どれだけ自分が癒やされたか分からない。」ということを書いてくださいました。「だから歌い続ける、そのことがすごく大切です。」と書いてくださいました。
 その中に書かれている中に、パウロとシラスが獄中でも賛美したと。本当に苦しい中でも賛美し、祈り、そして証しをすることによって、彼らが獄中から解放された。
 今の日本の現状を見ると、何も変わらないし、失望するような現状かもしれないけど、失望せずに賛美し、祈り続けることが大切です!と、先生が今回、証しをお書きくださいました。第一ペテロ二章六節が引用されていましたが、こう書かれています。

『彼に信頼する者は決して失望させられることはない。』

 イエスさまご自身に信頼して、イエスさまご自身が始めてくださったこのリバイバルの働き、そして私たちに託されたこの務め、これを本当に信じて、賛美して、祈って、証し、語り続ける時に、主は必ずなされるということをそのお証しの中でみことばを持って語ってくださいました。

 ガラテヤ書六章九節、

『善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。』

と書いてあります。『善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。』だから失望してしまったら刈り取れないのです。
 リバイバルの戦い、本当にいろんな戦いがあって、もうこれ以上進めないと思うようなことがあるのかもしれないですが、しかし失望せずに、イエスさまは変わらないお方で、主が約束してくださったみことば、そしてこの地が変えられて、アジアと全世界が変えられるという約束のみことばを信じて、私たちは歌い続け、戦い続けていきたいと思います。

 イザヤ書六十二章一節には、こんなみことばが書かれています。

『シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。』

と書かれています。
 イエスさまご自身、主ご自身が、『わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。』とおっしゃってくださっているので、ましてや私たち、イエスさまにその務めを任命された私たちが黙り込むことなく、失望してしまうことなく、この年は祈り続け、賛美し続けて、伝道し続け、そして戦い続ける、そんな者でありたいと思います。「戦え!戦え!主の勇士よ!」と、何度も歌いました。
 実はこの歌は甲子園ミッションの集会、三日間ありましたが、三日間の最中に与えられました。甲子園球場に入る前のガード下を歩いていたら、「戦え!戦え!」と与えられた歌ですが、丸二十五年前に始まった全日本規模の霊的戦いというものが、今、二十五年の年月を経て、アジア、世界へと広がっています。この働きが形になるのはもうまもなくであることを信じて、主の契約が執行される日がもうそこにあります。ですからそのために、私たちは黙り込むことなく、祈り続け、戦い続け、賛美し続けて、そしてみことばを宣べ伝え続ける者でありたいと心から願います。一言お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ、愛する天のお父さま、あなたのすばらしいみ名をあがめて、心から感謝します。「主に覚えられている者たちよ。黙り込んではならない。」今日はこのみことばをあなたからのみことばとして、この礼拝で学ぶことができたことを心から感謝します。
 私たち一人ひとりを、またこの教会を主が選んでくださり、この教会の務めとして、また私たち一人ひとりの務めとして、この任務を、あなたのこの責務を果たすために、私たち一人ひとりが選ばれていることを覚えて心から感謝します。この二〇一九年、あなたのご計画の年であることを心から感謝します。
 あなたの約束が執行されるこの年であることを今、もう一度信じて心から感謝します。イエスさま、私たちは宣べ伝え続けます。主よ、あなたご自身が選んでくださった私たちの務めを全うすることができますように。
 主よ、この務めを果たさないで終わる一年ではないように、祈り続ける一年であることができるように、歌い続ける一年であることができるように、みことばを宣べ伝え続ける、そのような一年であるように機会を十分に果たすことができるように助けてください。
 今日のこの時を心から感謝します。あなたの選びとあなたの祝福と恵みをもう一度、心から感謝し、尊き主イエス・キリストのみ名により、この祈りを父なる神さまのみ前におささげいたします。アーメン。