「良い地に善い種を蒔きましょう」

2019年2月3日(日)
新城教会牧師 四元雅也
第一コリント人への手紙9章16節〜17節(新改訳2017版)

『私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。』

 ハレルヤ!感謝します。こうして二月最初の礼拝でみなさんの前に出てお話をする機会が与えられましたことを心から感謝します。
 今日は先ほど上條先生も祈りの課題でおっしゃっていましたが、先生方がいろいろと奉仕に出られていますし、ミッション二〇一九の働きも、今日は香川県において二箇所で行われているということであります。今日もリバイバルのためにそれらの働きが祝福されるように、皆でお祈りしていきたいと思います。

 先週はインフルエンザが今年のピークで大変流行っていると報道がなされていて、学級閉鎖、学年閉鎖にいたった学校、施設も、日本全国で六千以上と多くの所に及んでいると言われていますが、お互いに健康に注意しながら、また祈り合いながら過ごしていきたいと思います。

 話が違うのですが、先ほど礼拝前のプレイズタイムでも夏目姉がお話していましたが、今日は日本全国的に節分というやつです。節分は伝統行事、習慣で豆まきが一般の家庭では多く行われ、あるいは恵方巻きを恵方の方角に向かって黙って食べるとか、そういうことがなされる時であります。
 これは言うまでもなく偶像礼拝につながる行為ですので、クリスチャンはやりません。真の神さまだけを信頼するのが私たちクリスチャンですので、そういうことはしないのですが、豆まきの意味はなにかと、朝の情報番組でやっていました。
 「まめ」というのは、悪魔の魔に滅、悪魔が滅するという、そういう意味があり、そういう意味で縁起が良いものだと。
 そして枡に入れて撒くわけですが、枡というのは「ますます」と言うように、ますます及んでいくようにと、鬼は外に、福は内にという願いをこめてやるそうです。だじゃれや語呂合わせのようなところに端が発するわけです。言葉遊びですが日本ではそういったことを大切にする傾向があります。
 しかし、私たちは言葉遊びではなくて、神さまから出たみことばを信頼する者であります。なんだか分からないような受け止め方でどうにでもなるようなものではなくて、草は枯れても、花はしぼんでも、永遠に変わることのない「ことば」を私たちが受け入れ、それを土台として生きることができるのは素晴らしいことであります。

 今日はこの第一コリントの手紙の九章十六節、十七節、今お読みしていただきました聖書のみことばからお話ししたいと思います。
 今日お読みしていただいたみことばは、私が二〇一八年から二〇一九年にかけてのカウントダウンワーシップでお話しさせていただいたみことばであります。今日はもう二月に入りました。一月の中で私以外の牧師先生方が二〇一九年始まりのメッセージにふさわしいみことばを語ってくださっています。
このみことばでパウロは、「私が福音を宣べ伝えること」がなぜか、ということについて述べています。
 私たちもリバイバルのために日々祈り、教会においても働きがなされていて、今日も各地でリバイバルのために先生方が奉仕されています。
 なぜこんなにリバイバルのために働いているのか、パウロに言わせると、「そうせずにはいられないからだ」というのです。やめられない、とまらない!自分で自発的にしているのだったらいいんだけれども、もしそうでなくても、強いられても、務めとして委ねられているものであるから、それは当然のことだというのです。無理にやらされたとしても、それはそれでいいんだとパウロは言うわけです。

 私たちも時々そういうことがあると思います。福音宣教するということ、イエスさまを証しすることにおいて、本当はやりたくないんだけどな、あの人の所に福音を伝えに行かなくてはいけないの?なんか気が進まないな〜、力がいる、そういうこと、あると思います。福音宣教していくのは、時として私たちにとって重荷になるわけです。
 でもやらなきゃと思って進んでいくわけです。そして進んでいってうまくいけば楽しいこともあるのでしょうが、一生懸命真心もって伝えたのに、カチーンと跳ね返されてきちゃった!なんていうこともしばしばあるわけです。私が思うようには伝わらなかったな〜、という印象を持ってしまうこともありますね。実際に伝わったかどうかというのは、後々になってからそこで語ったみことばがその人の心を働かし、主の元に来るということもあると思います。「パンを水の上に投げたら、ずっと後の日になってそれを見いだす。」というみことばもあります。どこでどうひっくり返って実を結ぶのかは分からないので、私たちは希望を持って、信仰によってみことばを語ることが大事なのですが、いつも喜んでそれができるのかというと、そうでもない。大変だな、辛いなと思う時もあります。それでもやり続けなければいけない、これは務めだからというのです。

 パウロ自身も福音を宣べ伝えることを通して、苦しい思いを何回もしました。迫害にあって石を投げつけられたり、牢屋にぶち込まれたり、追われる身のように、また捕らわれの身のようになって、そして乗っていた舟が難破したりとか、さまざまな苦労をしました。
 その彼が、『そうせずにはいられない。福音を宣べ伝えないならば、それはわざわいだ。』福音を宣べ伝えないということはわざわいだというのです。私にとってそれは不幸なことだ。福音を宣べ伝える苦労は、福音を宣べ伝えない不幸に比べたらどうでもいいことだ。福音を宣べ伝えることは、私にとってどうしてもしなければならない務めだというのです。

 そして彼が福音を宣べ伝えるということは自分にとって誇りではない、福音をどれだけ宣べ伝えました、どれだけの人にイエスさまを伝えました!どれだけの人が救われました!という成果を自分は誇りとするわけではないというのです。
 彼がむしろ誇りとしていたのは、福音宣教のために自分自身を奴隷のように捧げていくことだと言ったわけです。第一コリント人への手紙九章十八節には、こう書いてあります。

『では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです。』

 そして続いて、第一コリント人への手紙九章十九節〜二十二節(新改訳2017)、

『私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。』

 当時は身分社会で、身分の高い王様のような人もいれば、支配者階級、そして平民、また奴隷といった身分格差があったわけです。奴隷に一度なったらそれは主人の思いを言われるがまま行うことが生業であって、それをして何か報酬を得るとか、それをしたからといって、その人が人としての価値あるものとして認められるとか、そういったことのない時代です。奴隷というのは奴隷として働くのが当然と考えられていた、奴隷自身もそうだと思って生きていた時代ですね。
 その時の時代に生きていたパウロが、「自分を奴隷としました」と言うのは、今私たちが「自分を奴隷とします」と言うよりも、もっと大きな意味があるかもしれません。
コリントの教会は彼が宣教して築き上げた、自分の宣教によって建てられた教会であるわけです。だから言わばそこで救われたクリスチャンたちは、彼が自ら生み出した霊的な子どものような人たちでありました。
 でも、その人たちに対してパウロは、先ほど読んだ十八節のみことばで、無報酬で仕えました。経済的な糧をコリント教会からは受け取らなかったというのです。パウロの使徒としての立場を考えれば、当然その教会から報酬を与えられて、生活していくことが普通であったのですが、彼はそうしなかった。彼は教会の働きをしながら、自分の生活の糧を得るために自分で働いていたというのです。天幕作りの職人をして。今で言えば二刀流ということであります。
 そして彼は、福音のために自分は奴隷になったというのです。自分は何に対しても自由だけど、すべての人の奴隷となった。それにより多くの人を獲得するためですと言ったわけです。それが彼の誇りだったのです。無報酬で奴隷となって仕えることが誇りだと言ったわけです。

 彼は、福音宣教のために自分をあえて不自由な奴隷の身のようにして、宣べ伝えることに使命をかけて働いていたのですが、その時に彼は本当の自由を得ることができたのです。第二コリント人への手紙十三章八節(新改訳第3版)を見ますと、こんなふうに書いています。

『私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。』

 イエスさまは、『真理はあなたがたを自由にします。』と語られました。真理のために働く時に、そこに神さまの力が現されるわけです。それは不可能と思われることを可能にしていくのです。そこに本当の自由がある。
 神さまの力がますます強く現されていくために戦っていく。福音のためにすべてを従わせ、奴隷のようになっていく。
「私は奴隷のようになった。」と告白したパウロは、さまざまな苦しみに遭いながら、福音宣教していったわけですが、その中でこそ神さまのわざを多くの所で見たわけです。病が癒やされたり、悪霊から解放されたり。被造物でさえ神さまの祝福によって輝きを放つ。牢屋にぶち込まれた時に、パウロとシラスが賛美していたら、大地震が起こって、そして扉が全部開いて、そのことを通して監守の家族全員が救われるということが起きました。
 奇跡を彼は体験したわけです。そういう彼の心の中には、やっぱり神さまのみわざを味わうということでしか経験できない勝利があったのではないかと思います。真理のためなら何でもできる、そんな自由を、私たちに神さまは福音宣教のわざを通して与えてくださるということであります。

 話が変わりますが、先週、この礼拝で滝元順牧師が語っておられたメッセージの中で、先月の二十四時間リバイバル聖会で山崎ランサム和彦先生が来られて取り上げたみことばを紹介しておられました。
 第二コリント人への手紙五章十七節(新改訳2017)、

『ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』

 聖書を開くと、このみことばの「その人は」という所に、小さな星印がふってあるのに気づかれると思います。また『見よ、すべてが新しくなりました。』という所にも星が二つふってあります。下のほうに注釈がありまして、『その人は新しく造られた者です。』ということば、そこには「別訳:あるいは」と書いてあって、「そこには新しい創造があります。」と書いてあります。
 また、『見よ、すべてが新しくなりました。』というのは、「新しいものが到来しました。」と書かれております。
 『新しく造られた者です。』ということばと、「そこには新しい創造があります。」このみことばの中から、順先生がお話しされていましたが、「創造」という言葉は聖書が書かれた当時の言葉では「バーラー」という言葉だと言っておられました。
 「新しい創造」という言葉から、天地創造を描いている創世記一章とつなげてお話しされていました。新城教会のホームページにメッセージのテキストが載っておりますので、そちらをご覧いただくと、その内容も書かれております。

 実は先月の一月十六日の水曜主日礼拝で、私がメッセージさせていただいたのですが、ちょうど私も山崎ランサム和彦先生が語られたメッセージを聞いて感銘を受けて、その日の礼拝で同じみことばからメッセージさせていただきました。
 そして先週は順先生がそのみことばをもっと深く、順先生の解釈を加えてお話をされていたわけです。また山崎ランサム先生がお話しされたメッセージは、私が去年の五月、礼拝でお話ししたメッセージにも通じる話でした。
 創世記一章をもう一度再考するという話でした。

 創世記一章のみことばを読んでみましょう。

『初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。』

 ここに書かれている神さまの創造の物語を字義通り、そのまま一日、二日、三日と、神さまがみことばの通りに行われたという解釈もあるのですが、先週、順先生がメッセージでお話しされたように、混沌とした中から新しい秩序による天地の営みが機能し始める、被造物が機能し始めるということを、創造としてここでは描いています。
 その後で七日目、神さまが休まれたというのは、全被造物が神の神殿として機能するようになったことを意味する、というお話をされていました。

 お読みした一節からのみことばで、神さまの創造のプロセスがいくつかの段階を踏んで、混沌から秩序へ、破綻から機能へ移っていくという様を見ることができます。それを次のスライドでご覧下さい。

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 一日目、二日目、三日目、四日目、五日目、六日目とイラストで描いてあるのですが、一日目は茫漠とした闇の中に神さまが光あれと言われて光ができて、光と闇とを分けられたという形で終わります。
 二日目は、神の霊が大いなる水の上にあって、神の霊が水の面の上を動き回っていたとあるのですが、元々あった水に今度は大空が造られて、大空の上の水と大空の下の水が分けられたのが二日目でした。
 そして第三日目は、その中で神さまが大地を出現させられて、大地の渇いた所と海とが分けられてそこに植物が生えたという形で進んでいきます。
 四日目、五日目、六日目と、太陽と月、昼と夜、魚や海の中にうごめくものと鳥、動物と人間というふうに造られていくのです。
 被造物が活動を始める三段階として、新しい被造物の創造、茫漠とごちゃごちゃした中に神さまが、一日目だったら光を生じさせて、光と闇とが区別される、区別、分離されて、新しいものが世界の中に位置付けられて機能するようになる、というような形で創造のわざが六日間にわたって続けられていくことを見ることができます。

 こうした「創造物語」にまつわるテーマは、創世記だけでなく、旧約聖書の重要な場面で、今語られたような創造のテーマが描かれているのを見ることができます。
 例えば出エジプトの中で、神の民とされたイスラエルとの契約の中に、それまでは契約の民ではなかったイスラエルが、神の民とされるという新たな「創造」であります。出エジプト記十九章三節〜六節(新改訳2017)、

『モーセが神のみもとに上って行くと、主が山から彼を呼んで言われた。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」』

 イスラエルの民が出エジプトした物語は、「奴隷」という混沌とした無秩序な状態の中にいたイスラエルの民を神さまが救い出されて、荒野を導かれて、そしてシナイ山まで連れて来て、そしてシナイ山でイスラエルの民と神さまが契約を結ばれるのです。「あなたがたはわたしの民。聖なる国民になります。」と。
 その中で神さまは、イスラエルの民に律法を与えられて、両者の間に一つの秩序をもたらされました。そして彼らに幕屋を通して神に仕える方法を教えられたわけです。神にどのように仕えるかということがイスラエルの民によってこの世に現された。それはまさに新しい創造です。無秩序から秩序を造り出して機能し始めるということです。天地創造と同じような流れで、神さまはイスラエルの民をご自分の民とされたわけです。

 もう一つは、バビロン捕囚からの解放にも、イスラエルの民の新しい創造物語があります。
 バビロン捕囚からの解放は、よく「第二の出エジプト」と言われるみたいです。出エジプト物語に照らし合わせてみると、バビロンで捕囚となり混沌とした民が解放されて、神さまによってイスラエルに帰還させられ、そこで新たな神殿が造られるという物語があるわけです。これは神の民イスラエルの「再創造」と位置付けることができるのではないかと思います。そこに新たなる機能が生み出されていく。

 イザヤ書を見ますと、そういった出来事について預言がされています。その預言は創世記の天地創造を思わせる描き方で書かれています。
 例えば、イザヤ書六十章一節〜二節(新改訳2017)、

『「起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には主が輝き、主の栄光があなたの上に現れる。』

 暗黒が地をおおっているけれども、そこに主の光が輝く、天地創造に照らし合わせることができるような描き方がされています。そしてイザヤ書五十一章三節(新改訳2017)を見ると、

『まことに、主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜びがあり、感謝と歌声がある。』

 ここで捕囚後に再建されるエルサレムがエデンの園にたとえられています。

 そして、イザヤ書を続けて読んでいくと、イザヤは単にイスラエルが捕囚から再建されるだけではなくて、もっと先の、新しい天と地の創造ということについても述べています。イザヤ書六十五章十七節(新改訳2017)、

『見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。』

 これは歴史上の捕囚からの解放という物語を超越した、これから私たちが目指していく神の国の現れを私たちにイメージさせてくれるみことばです。これに続いて、十九節から二十五節の所に描かれているのですが、再建されるエルサレムがどういったものかというと、オオカミと子羊が一緒に戯れたり草を食べたり、ライオンも藁を食べ、人の寿命は木の寿命のように百歳を超えるような長寿になる。病で苦しめられることもなくなる。国と国が争うということもなくなる。そんなようなことが書いてあるのです。それは、神の国が実現した時に起こる出来事について述べているのではないかと思われるのです。それが捕囚から解放されたイスラエルの民とエルサレムに重ね合わせて書かれているのです。

 こんなふうに創世記一章の創造物語が、旧約聖書の中で起きてくる重要な出来事と重ね合わせられるように描かれる。当時のユダヤ人たちにとって、神さまのわざをみことばから考えていく時、天地を造られた神さまが自分たちの中に行われたわざとオーバーラップすることができるように、分かりやすく描かれているわけです。
 そして神さまは、新約の時代にある私たちも第二コリント五章十七節を見ると、新しいものとして創造されました。「そこには新しい創造がある」とあります。闇の中に光がのぼるように、混沌としたものの中に新しい秩序と機能が与えられるものとして、私たちの人生の中に神さまは新しい創造をしてくださったということであります。

 私たちが「創造」と考えると、何もないところから何か新しいものが生み出された、それは創造されて、はい、できた!めでたしめでたし!おしまい!ということをイメージします。そうではなくて、新しい機能が与えられたら、そこに新しい営みというものが生まれて、そして神のわざというものがその中に現在進行形でずっと現され続けていくものだ、という意味がこの「創造」という言葉のもともとの言葉「バーラー」のニュアンスの中に含まれていると、山崎先生も一月のメッセージの中でお話しされていました。

 新城教会にもこうして毎週大勢の兄弟姉妹が来てくださって、共に神の民として礼拝を守っているわけですが、こういった教会としての営みの中には、同じように神さまの新しい創造のわざがあるのです。
 クリスチャンになる前、私たちは生きる意味も知らずに、茫漠・混沌と毎日を過ごしていたのですが、神さまを信じることを通して、まず生きる意味が与えらました。救われて、神さまのために生きるという目的も与えられて、そして導きの中でこの新城教会に今、一人ひとりが集わされて、お互いに励まし合いながら信仰生活を守っているということは、神さまの創造のわざであるわけです。それはぽんっと生み出されて、はい、おしまい!じゃなくて、今も引き続き継続しているわざであります。

 私は毎日、新城教会の中で働かせていただいて、神様に感謝しているわけです。でもここでなされている働きのすべてを知っているわけではありません。むしろ、器が小さくて自分のことを精一杯やることしか考えられないような、そういう者であります。
 例えば、今この時間にも教育館では子ども礼拝がなされています。そして、毎週子どもたちと多くの兄弟姉妹がこの働きに携わっています。ですけど、私はそこでどんなことをしているのか具体的には全然知りません。礼拝と並行して行われているので、あまり見る機会がないのです。
 また礼拝の後には楽しい昼食の時間がありますが、そのために、多くの兄弟姉妹が毎週関わっておられます。土曜日には二百人分のカレーライスを作るために、多くの兄弟姉妹が関わっています。兄弟姉妹というよりも、ほとんど姉妹だけなのですが、奉仕によって準備がなされています。
 昨日の夕方、私はなにげなく厨房にいくと、昨日はたまたまなのですが、夏目姉がたったひとりで作業しておられました。一人で肉を切っていたりして、大変だろうなと思って、「大変ですね。一人で大丈夫ですか?お手伝いしましょうか?」と聞いたのですが、彼女はにこっとして「大丈夫ですよ。先生は礼拝のためにいろいろ勉強しないといけないから、ここは私がやります。」と言ってくださいました。それで私も「そうですか、じゃぁ。」と言ってそそくさと立ち去ったわけです。そういう人々の大変な努力の中でこの礼拝も秩序だって守られて、それだけじゃなくて私たちは教会の中だけでなくて、社会の中でもそうなのですが、いろんな人の努力に支えられながら生きているわけです。

 今から一つ動画を紹介したいと思います。六分間弱の動画でありますが、動画のタイトルは、「I pencil」「私、鉛筆」です。
 これは経済的な枠組みの中で語られている物語です。
pencil、鉛筆というのは、あまり心に留まらない、大したものでないと思われます。構造も単純で見栄えのしない、大したものではないと思いがちな鉛筆一本、しかし、この道具を巡り、どれほどの繋がりが世界で動いているのか、何気なく使うことができている鉛筆に世界の奇跡を紹介している動画です。



 鉛筆一本作るために社会の人々のいろいろな関わりと協力が、見えざる手によって動かされ支えられているということを「I pencil」は言います。何百万人もの人が関わったと言われていましたが、世界規模で見たら何百万人関わっていても不思議ではないなと思います。 世界の中に、目に見えないけれども大きな、それらの働きをコントロールしている「見えざる手」。アダム・スミスという経済学者の言った、神の「見えざる手」という原理をうまく説明している動画です。鉛筆一本も素晴らしいものに見えてくる動画であります。

 リバイバルの働きも同様であります。一九七〇年から始まっていますので、もう四十九年経っています。来年になったら五十年です。本当に多くの人たちの手によって支えられてきています。

 今日のメッセージのタイトルは、「良い地に善い種を蒔きましょう」と付けさせていただきましたが、みことばでそのまま語っているのが、ガラテヤ人への手紙六章七節〜九節(新改訳2017)、

『思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。失せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。』

 続けて六章十四節~十五節、

『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。』

神さまにあって、神さまの善きわざに励むことが私たちには使命として与えられています。良い実を諦めずに蒔き続けることを通して、私たちは永遠のいのちを刈り取ることができる。
 ちょうど心の中に聖霊の畑、それから肉の畑というのが二つあって、パウロはどちらに蒔くか、狭間で自分がやりたいことがやれないようで苦しい、罪の誘惑、罪の力に対して従い、罪を受け入れようとする自分があり、聖霊様の喜ばれる善をしたいと願う自分もいる、そういう戦いの中にあるということを言っています。
 聖書は私たちクリスチャンの歩みが、二つの畑のどちらかに蒔くのだ、といいます。真ん中はないというのです。灰色はなくて白か黒、聖霊に付くか、世に付くか。そんなふうにここでははっきり伝えています。
 戦いに勝つために大事なことは、世に死ぬこと、それは割礼を受けるか受けないかという外見的なものではなく、新しい創造があるかどうかだと教えています。
 キリストにある者は新しく造られた者だとパウロは言っています。新しい創造がある時に、私たちに新しい働きが機能していく時に、神さまのわざがなされて、み霊の畑に蒔き続けていくことも可能になってくるのです。
 そして善い業に励み続けていく中に、この神さまの見えざる手が働いて、世界が調和され、秩序立てられ、機能して、リバイバルが建てあげられていくということであります。

 リバイバルの働きを進めていく上で、二つの大きな間違いがあります。一つは、自分の働きだけが特別大事な働きだと思うことです。もう一つは、自分の働きなどどうでもいい、自分なんていてもいなくても関係ないといった考え方です。一人ひとりが大事な神さまの民であります。

 リバイバルの働きが諦められることなく続けられているのですが、時々、ある人はこう言います。リバイバルリバイバルと言って長年やっているけど、何も起きないじゃないか!結果が表れていない!と。でも、もしも滝元明先生のような先生が出てこなくて、誰も日本でリバイバルリバイバルと叫ばない世の中があったとしたら、どんな世の中になっていたのでしょう。この五十年間リバイバルのための働きが一切されなかったら日本はどうなっていたのでしょうか。分かりませんけれども。
 世の中は神さまの見えざる手がなければ、だんだん秩序がなくなっていく、混沌へと向かっていくと思います。
 神さまの助けがなければ、そこに新しい創造がなければ、罪にだんだん陥っていくのが人間の弱さであります。
 リバイバルの働きが、忍耐の中で継続し続けられてきたからこそ、今の日本があるということもできるのではないかと思います。
 これからも私たちは、決して諦めることなく、このリバイバルの戦いを戦い続けていくことが大切であります。

 ここにおられますお一人おひとりの小さな祈りであったり、小さな賛美であったり、小さな神さまにある営みであったり、被造物に対して「賛美せよ!」と命じたり、そういった働きが、この世界を神さまの元に勝ち取っていくための力であるということだと思います。

 今日は私たちがもう一度、神さまの前に飢え渇きを持って、そして神さまの前に素晴らしいリバイバルのための働きを継続していくことを決意する、そのような時とさせていただきたいなと思います。
 開先生は二〇一九年に向けて与えられたみことばで、継続し続けていくということを語っておられましたが、ますます神さまのために自分自身をおささげして働く、そのようなお一人おひとり、また教会となることができるように。そこにこそ、新しい創造のわざが現されて、神さまのみわざを見ることができると信じていきたいと思います。

 これで私のメッセージを終わらせていただきたいと思いますが、最後にお祈りします。
 良い地に善い種を蒔こう、聖霊が支配される畑に、善い行いという種を蒔きましょう。そのようなタイトルで今日お話をさせていただきましたが、一人ひとり諦めたり、悪のささやきに耳を貸すことなく、それぞれにゆだねられた賜物を通して、神さまの栄光が現されていくために働いていくことができるようにとみなさんでご一緒にお祈りしたいと思います。
 一言お祈りします。

 ハレルヤ、イエスさま。パウロがコリントに宛てた手紙の中で、大きな苦しみや忍耐の中で、福音のために自分自身をささげることを務めとして生きていると宣言したように、私たちも生きます。どうぞ主よ、ここに集められたお一人おひとりが、その中であなたの祝福をいただくことができますように。誰でもキリストの内にあるならその人には新しい創造があります。古いものは過ぎ去って見よ新しいものが到来しましたと、あなたはおっしゃいました。私たちの中に新しいことを始めてくださった主よ、どうかそのわざが今もこれからも絶えず私たちの中に新しい善きわざを行わせ、この世にあなたの救いと回復のわざが現されていくものとなっていくことができるように祝福してください。イエスさまのみ名によって心から信じ感謝して祈ります。アーメン。