「神を愛する者のために主は備えられた」

2019年2月10日(日)
新城教会牧師 岡本信弘
コリント人への手紙 第一 2章9節

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

 ハレルヤ! 久しぶりにこの場所に立ち、みことばを語らせていただけることを心から感謝いたします。一年は早いものだと感じます。年末年始からプレイズの働きもいろいろトラブルがあり、休む暇もなく、どこからが年末でどこからが年始か分からないような日々を過ごし、もう二月も中旬になってしまったという感じですが、みなさんのお祈りに支えられ、プレイズ出版の働き、教会の働きを行うことができていることを心から感謝します。また、健康でこの場所に立ち、主の奉仕ができることを本当に心から感謝します。
今日は風があって寒いですね。インフルエンザ患者数も過去最高と言われていますので、みなさんも健康に気を付けて、またお互いのためにとりなし祈って喜んで主に仕えてまいりたいと心から願っています。

今日は、私がこの年のために与えられカウントダウンでも語らせていただいたみことば、コリント人への手紙第一 二章九節から少し学んでいきたいと思います。

カウントダウンでのメッセージ、また新年になってからの先生方の素晴らしいメッセージを聞くたびごとに、この年に対してとても期待を持ち、本当に励まされています。みなさんもそうだと思います。この二〇一九年に主が何をなしてくださるか。みことばをもう一度お読みします。

『「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

このような一年を私は期待しています。みなさんもそれぞれに二〇一九年、いろんな期待を持っていると思います。今は受験シーズンですが、これから高校・大学に進んだり、仕事に就いて社会に出たり、新しい職場に移るなど、環境が変わるのは楽しみでもあり、一方では不安もあるというところだと思います。
私たちは新しい年に、悪いことを想像するのではなくて良いことを、「こうなったらいい、ああなったらいい、こうなってほしい」と願うものだと思いますが、「見たことも聞いたことも思い浮かんだこともないこと」という言葉だけを読むと、いいことが起こるとは限らないですよね。時に思いもよらない事故に遭ってしまったり、悲惨な出来事が起こったりすることがあると思います。

みなさんは車の事故を起こしたことがありますか。最近はないですが、私は若い時に何度かありました。前にもお話ししたことがあるのですが、二十歳頃、豊橋に行く途中で、ちょっとよそ見をしていたらぶつかりそうになり、車をよけてハンドルをきったのですが、道路の横にあった畑に突っ込んで、その中の柿の木にぶつかり、車が大破したという経験があります。

最近、テレビでコンビニ強盗事件が報道されているのを見ました。それは冤罪事件で、本人の証言を元に事件を振り返っていました。ここでは詳しくお話しする時間がありませんが、ドアに残されていた指紋が証拠となり、突然、自刑事が逮捕状を持って来て、捕らわれてしまい、二年間も拘束されてしまったのです。その人はやっていないのですからすぐに疑いが晴れると思うのですが、冤罪を勝ち取るのに二年間かかりました。母親や多くの人の努力でやっと冤罪が立証されたのです。結論的には、いろいろな偶然が重なったことと勝手な思い込みが冤罪を招いたのですが、これを見て、これは誰でも起こりうることだな、恐ろしいなぁという感じがしました。
そんな悲劇に見舞われることもあれば、思いもよらない出来事といったら、やはり地震ですね。この東海地方は、「近いうちに大きい地震が来る」といつも脅されていますが、今日まで守られてきました。それは、みなさのお祈りの結果だと思います。もちろん、地震が起きたところが祈られていないからとわけではないですが…。
この四半世紀には阪神淡路大震災があり、十年前には東日本大震災がありました。阪神淡路大震災の時、私は大阪に向かって車を走らせていました。夜中に移動していたのですが、途中でちょっと眠くなって、彦根のサービスエリアで休んでいました。地震が起きたのは六時頃でしたが、私はぐっすり寝込んでいたようで、その時はかなり揺れたと思うのですが、何も感じることもなく目覚めて、「頑張ろう! 行こう!」と高速道路に出たら、車が一台もありませんでした。反対車線にも一台も走っていないし、「あれ? 何事が起きたのだろう」と思いながら走っていると、電光掲示板に高速道路からすぐに出るようにとの知らせが出ていたのに気づき、次のインターで降りました。ちょうどお腹もすいたので、出てすぐのファミレスに入りテレビを見ると、地震のニュースが流れていて、大変なことが起こったと初めてわかりました。彦根で休んでいなければ、その時間には大阪に着いたことを思うと恐ろしくなりました。「守られたなぁ」と思いました。
また、東日本大震災の時には、私は東京にいました。当時、プレイズ出版は関東事務所として古いビルの五階の一室を借りていて、ちょうど出張で行っていたのです。突然、ビルが倒れるんじゃないかというくらいの衝撃を受けました。すごい揺れで、スチール棚が倒れてきました。私は必死にそれを抑えていたのですが、一緒に働いていたN君は、そんな揺れにも動じることなく、黙々とコンピューターに向かって仕事をしていたのが印象的で、鮮明に覚えています。あのまま私が支えなかったら二人とも下敷きになって怪我をしていたかもしれないと思います。その時も主が守ってくださいました。
東日本大震災では津波や原発の被害は甚大でした。多くの方が一瞬にして家族・友人を失い、家を失いました。このように、思ってもみないことが、いつ、どこで、誰に起こるか分からないですよね。
でも、日本人の多くのが、良いことがあったら次に悪いことが起こる。悪いことがあっても次に良いことが起こるのではないかと、ある意味では陰陽の世界を信じているということがよくありますよね。しかし今日みなさんと一緒に学びたいことは、聖書で言う「見たことも聞いたことも人の思い浮かんだこともないもの」とは、神さまが備えてくださる良いものです。神を愛する者のために神さまの備えられたものというのは、素晴らしい祝福であり、恵みであり、最高のものなのです。それを「見たことも聞いたことも、人の心に思い浮かんだこともないもの」と表現しています。

では私たちが、神さまがすでに用意してくださっている、見たことも聞いたこともない素晴らしいものを受け取るために必要なの何でしょう。それは信仰です。ヘブル人への手紙十一章一節には、このようにあります。

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

また十一章六節には、
『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』
とあります。みなさんもよく知っているみことばです。

へブル書は信仰の書と呼ばれます。十一章には、信仰の勇士たちの証しが記されています。
信仰の父と呼ばれたアブラハムのことも書かれています。そこには、『信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出ていけとの召しを受けたとき、どこに行くのかを知らないで、出て行きました』(八節)とあり、彼は、どんな辛い時でもどんな窮地でも、神さまは必ず助けてくださるという信仰を持って旅立って行きました。その信仰のゆえに祝福され、あらゆるものを手にしました。順風満帆でした。
でもそんな彼に、神さまは突然、試練を与えられました。
『あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。』(創世記二十二章二節)

年老いてからやっと与えられた最愛の子イサクをささげるなんて、あり得ない、耳を疑うような声を聞いたのです。私だったら到底従うことができないことですが、アブラハムは次の日の朝早く、イサクを連れてモリヤの山に出かけて行ったのです。
聖書には、アブラハムが苦渋の決断を迫られたとか、「少し待ってください」と言ったとか、そのようなことは一言も書かれていません。時代的な背景もあったかもしれませんが、彼は神さまの言われたとおりにしたのです。
その結果はどうなりましたか。

『そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある」と言い伝えられている。』(創世記二十二章十四節)

神さまは、モリヤの山に全焼のいけにえとなる雄羊を備えていてくださったのです。あの時、アブラハムが「神さま、少し待ってください」と言っていたら、アブラハムは信仰の父と呼ばれることはなかったのです。

「信仰もって進んでいきましょう」と言われ、「私はアブラハムのような信仰は持てません。神さまのために何の働きもしていないちっぽけな信仰が何の役に立つだろう」と思っておられる方もいるかもしれません。私もその一人です。日々の生活の中で神さまに祈っても祈っても、なかなか祈りが聞かれない。そんな時、私の信仰が弱いからだと思ったりすることもあるでしょう。でも、私たちの信じている神さまは、私たちの必要を、私たちのこれからのこともすべてご存じであるということも、みなさんはよく知っているかと思います。

話は変わりますが、昨年七月に倒れ、手術をした兄の正広ですが、術後すぐ病室で見た時には、正直、もうだめなのではないかと思ったくらいの状態でした。しかし、みなさんにもお祈りしていただいて、車いすの状態ですが、退院でき、家で生活ができるまでに回復しました。これも神さまの恵みであり祝福です。そして、先ほどは寛太君の証しも聞きました。今はまだ目覚めてはいませんが、命さえ危ぶまれた状態から、目を開け、言葉に反応し、手を動かしたりできるようになっています。
このように、「何故ですか! 神さま!」と言いたくなるようなこともたくさんありますが、主は生きておられ、主はすべてのことを益としてくださるお方ですから、そのことを信じて祈り続けたいと思います。
今プレイズの働きの中で、アークホームに住んでおられる方やデイサービスしおんに通ってこられるお年寄りの方々とか、就労支援B型施設のシャロームでいろいろな方と接するようになって、本当にみなさん大変なことがあるんだなぁと思わされ、私がグチを言っている場合ではない、こうして健康であることをもっと感謝しなければいけないなということを思わされています。 

ローマ人への手紙十五章一~二節には、このようにあります。

『私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。』

私もだんだん歳をとってきました。今朝も階段を駆け上がったら途中でつまづいて、すねを思いきぶつけてしまいました。また、最近はいろいろなことを忘れてしまい、家内から「あなた大丈夫?」と毎日のように言われます。「大丈夫だよ!」と言いながら、本当に大丈夫かなぁとちょっと心配に思っています。そんなとき、「ほかのことを忘れても、あなたのことは決して忘れないからね!」と言うと、家内は呆れています(笑)
そんな中で、いくら私たちが「こんなこと、あんなことをしたい。これも欲しい、あれも…」と思っても、歳を取ると体が動かなかったり、思うようにならないことが増えていくなぁと思ったりします。
このように、私たちは時に弱さを覚えます。特に、自分が元気で事がうまくいっている時はいいのですが、スランプに陥ったり問題を抱えたりしている時には、なかなか人のことを思いやることができないのが人間の常ではないでしょうか。しかし、このみことばにあるように、力のない人たちを支え、自分を喜ばせるのはなく隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきだと聖書は教えていますから、心に留めて実行していきましょう。

今日のみことばとともに、私がいつも心にとめている大好きなみことばがあります。それは、ピリピ二章十三〜十四節です。

『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。』

例えば、子どもがどうしてもこれがほしいと泣いて親に願ったとしても、もしその子に益とならないと分かっていたら、それを与える親はいないでしょう。時に私たちも、この子どものように、自分勝手に様々なビジョンを持ち、欲しいものを神さまに願い、私たちが祈り倒したら未来が変えられる、と思っているようなところがあると思います。私もそういうところがあるわけですが…。
最近、順先生が「神さまには過去も未来もない、現在を含めてすべてが同じ領域にある」ということを語られ、「あぁそうか!」と思いました。私たちが願い、神さまがその願いを聞き入れて未来を変えてくれるのではなく、神さまの思いの中で私たちに志が与えられ、神さまがその事を成してくださるのです。私たちが神さまの思いに反して祈っても、神さまはその祈りを聞かれることはありません。神さまがすでに用意されているものに対して、私たちがその中で思いをいただいて、そのことを疑わず、つぶやかずに進んでいく時に、主のみこころが現されていくということも忘れてはなりません。

プレイズ出版が始まって今年で二十九年になりますが、今日まで守られてきました。本当にみなさんのお祈りを心から感謝しています。また振り返る時にいつも神さまの支配があるということを感じています。

一九八八年、下條先生が甲子園球場で伝道集会をしたいというビジョンを掲げ、明先生がそのビジョンを受け取られました(明先生以外に受け取れる人はいなかったと思いますが)。そして一九九三年に全日本リバイバル甲子園ミッションが開催されたわけですが、プレイズ出版は、甲子園ミッションと大きなかかわりをもち、それゆえに、大きく祝福されたと思わされています。この間、 私は牧師をしながらプレイズ出版という印刷・出版のビジネスの働きを通して、金の背後に働くマモンの働きを打ち砕き、経済界を勝ち取る働きをしたいと切に願って今までやってきました。
そんな中で、プレイズが新しい事業を始めて四年がたとうとしています。なんとかここまでやってきましたが、すべてが順風満帆というわけではありません。いちばん苦戦したのが、就労継続支援事業B型のシャロームの経営でした。みなさんあまり馴染みがないかもしれませんが、精神とか、体に障がいを持っておられる方たちが、仕事に就けるように慣れていただくような働きをしている施設です。
一日最低八名くらい集まらないと採算が合わないのですが、ビジネス的にシミュレーションをして、これくらいならなんとか採算が合うだろう思っていました。しかし、私はあまり勉強もしないでそれを始めたことにより、最初の二年間というもの、一日に平均四~五名で、年間何百万も赤字になってしまいました。このままではやっていけないと思い、一時は閉鎖も検討しました。「このままではやっていけないので、あと半年これが続いたら閉鎖します」とスタッフにも伝えていました。でもふと、「祈りが足りないな」というのと同時に、「この事業がどんなものなのか、自分が知らないままやめるわけにはいかない」と思い、祈りつつ勉強をし、週一回ミーティングを持ってスタッフと話し合い、状況を確認しながら続けてきて、なんとか三年目にしてようやく平均八名になりました。現在はさらに増やされ、一日平均十五名ほどの方々が通ってこ来られるようになり、ある程度安定してきたことを本当に感謝しています。
このように、人数が増やされて感謝な一方で、借りている施設が狭くなってきました。今後のことを祈っていた時に、思いがけない話が持ち上がりました。 
昨年の九月頃、姉が電話をしてきて、「何か新しいことやるわけ?」と私に聞いてきたので、「どうして?」と聞くと、「同窓会でHさんに会ったら、『母がアークホームに入居している時に弟さんには大変お世話になりました』と挨拶されたよ。その時、『私は今、埼玉に住んでいて、母も亡くなり、新城に帰る予定がないが、アークホームの近くに土地があるので、弟さんが何か新しい事業をやるなら、ぜひ使ってください』と言われたんだけど」とのことでした。
その時点では私も土地を買うことなどまったく考えていませんでしたから、「そう言われても」という感じでした。しかし、ふと「シャロームを移転するのにいいかもしれない」と思い祈っていました。その土地はアークホームに近く、調整区域だけども福祉施設なら建物が建つかもしれないからということで私も見に行きましたが、「ここだったらいいかな。アークホームに近いし」と心が動きました。
そこで順先生に相談すると、「それは安いよね。でもそこがそのくらいの価格で買えるなら、ほかにもう少し便利な安い土地があるかもしれないよ」と言われました。私はせっかちなので、すぐに事を進めたいと思うようなところがありますが、順先生にそう言われて、それもそうだと思ってしばらく祈っていました。しかし、なかなかよい土地も見つからないし、なおかつその紹介された土地も農業指定地域で建物が建てられないことがわかり、「そうか、今はみこころではないのかな」と思って、Hさんに事情を伝えたところ、「実は、アークホームから少し離れているので不便かもしれませんが、もう一つ土地があるんですよ」と言われ、「では住所を送ってください」とあまり期待せずに返事をしました。現在、プレイズ出版はこの教会の隣の社屋とは別にここから五百メートルくらい離れた場所に製本工場があるのですが、送られえてきた住所は、そのすぐ前でした。最近その辺りは住宅が立て続けに建てられているのですが、見に行ってみると、こっちに家が建ち、こっちに家が建ち、その住宅の間に二百三十坪くらいの土地がありました。私はそれを見た時に、「そんな近くに空いた土地があったとは」というくらい、目にも入っていない、気にもとめない場所でした。今は原っぱになっていますが、プレイズで建てるために開けてあると思えるほどに整えられている気がして、その土地を購入することに決めました。それまでのことを思うと、「本当に不思議なことだな。神さまが導いてくださったのだなぁ」と思い、神さまに感謝しています。
友人や業者の方々にこの件を話すと、ほとんどの方に「それはすごい偶然だね」と言われました。しかし、ある古い付き合いのある方にこの話をした時、その人もノンクリスチャンですが、「それは不思議なことだね。岡本さんはやっぱり持ってるよね」と笑いながら言われました。続けて、「でも、あなたたち教会の人からしたら、それは神の御加護と言うんだろうね」と言いました。私はすかさず、「そうですね。神さまの恵み以外何ものでもないですよ。私たちが神さまを信じているからみなさんが言う、『不思議だよね、偶然だよね、良かったよね』というようなことが起きるんですよ」と証しをする時が与えられて、そのことも心から感謝しています。
今は、土地を購入しただけで、これからまだまだ決めなければいけないことや、やらなければならないことがたくさんありますので、ぜひお祈りください。

時に人は、ビジョンを持ちます。それは悪いことではありませんが、神さまの思いの中でビジョンを抱くことが重要です。そうでなかったなら、それは時に自分の力を過信し、高ぶりを生み、自己実現の野望になってしまいます。仮に成功をしたとしても、自分に力があったかのように錯覚してしまうことがよくあります。それでは単なる自己満足にすぎません。私も、そのようなところに陥らないように、いつも心に留めて気をつけています。
私たちが「こうしたい」と強く思っていることがなる時もあれば、反対に、そんなに深く考えていなくても、また「こうしたい」と思っていなくても、神さまが別のところで準備をされているということもある、ということをあらためて教えられました。

多くのイスラエルの民をエジプトから導き出したモーセのことを、みなさんもよく知っていると思います。へブル人にもかかわらず、エジプトで王子として育てられました。しかし、一つの事件を通して彼は荒野で四十年間生活をし、そして八十歳になった時に神さまに呼び出されこう言われました、

『今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。』(出エジプト記 三章十節)
神さまはモーセが生まれた時から彼を選び、王宮で育て、荒野で育て、それぞれ四十年ずつ経験させ、そしてその後で彼をもう一度呼び出して、「おまえを遣わす」とおっしゃいました。不思議なことですよね。
モーセは神さまに申し上げました。

『私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。』(同十一節)とてもそんなことはできないと訴えています。荒野に逃げ出したとき、まさか再びエジプトに戻ることがあろうとは、モーセは夢にも思っていなかったことでしょう。
しかし神さまは、

『わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。』(同十二節)。

その言葉に押し出され、モーセは戸惑いながらもパロの元に行って、イスラエルの二百万以上の民を導き出しました。しかし、パロはすぐに心変わりをし、後を追ってきました。紅海を前に、うしろからはパロの軍勢が来て逃げ道がない。「もうだめだ!」と八方ふさがりのような状態の時にどうなりましたか。詳しくは出エジプト記を読んでいただきたいのですが、神さまに命じられたとおり、杖を上げ、手を海の上に差し伸ばしてモーセが祈った時に、目の前の紅海は二つに分かれて、その海の真ん中の渇いた地を彼らは渡って行ったのです。民が渡り終えた時に、海は元に戻って、パロの軍勢はみな水の中に投げ込まれたとあります。
目の前の紅海を見て、「紅海が二つに分かれて、歩いて渡れたらいいよね」などと考えた人は誰もいないと思います。しかし、神さまは誰も思いつかないような方法を用意し、そのことを実行させてくださいました。

また、イスラエルの偉大な王となったダビデ王のことを見てみましょう。ダビデは、羊飼いとして育てられ、羊飼いとして一生を終えると思っていたでしょう。もちろん、イスラエルの王になりたいと思ったこともなかったと思います。しかし主は、誰も考えもしていなかったダビデを選び、イスラエル再興のために王にしようと、備えておられたのです。
この個所は、みなさんもよくご存じだと思います。彼が「イスラエルの王になるんだ!」とビジョンを掲げたわけではありませんね。父のお使いで兄さんたちの弁当を届けに行って、そこでイスラエル人が劣勢となりペリシテ人に今にも倒されそうな状況を見て彼が言った言葉があります。

『ダビデは、そばに立っている人たちに、こう言った。「このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。」』(サムエル記第一 十七章二十六節)

このように、人々を励まし鼓舞しています。でも彼らは「到底無理だよ。おまえみたいな若造に何が分かる」というような感じだったわけです。でもその後、

『ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」』(同十七章三十二節)
と言って、敵である巨人ゴリアテをたった一つの石ころで倒し、イスラエル側に勝利をもたらしたことが書かれています。そしてそのことを機に、サウル王に召しかかえられ、最後には王となったことを見る時に、私たちの思いとは関係のない所でも、神さまはすでに用意されていることがあると知るのです。みなさんが何をしたいということではなく、神さまがみなさんをどう使おうか、何をさせようかと用意されていることがある、ということを私たちは心に留めておかなくてはいけません。

今お話ししたアブラハム、モーセ、ダビデに共通することは、彼らの思いとは関係なく、ただ主を信じて従ったということです。そしてその結果、「あぁこれは主が計画してくださったんだ、主が用意してくださったんだ」というような素晴らしい祝福を得ることができたということです。
しかし、聖書に出てくるこれらの素晴らしい人物が特別というわけではありません。私たち一人ひとりにも神さまが備えられているものがあるということを是非覚えていただきたいと思います。

新城教会では、常に「日本のリバイバル、世界のリバイバル」を掲げ、私も救われて以来、リバイバルの意味も分からないような頃から祈ってきました。様々な問題も起きましたが、振り返ってみると、神さまからの数々の祝福を与えていただいてきたことを思うとき、すべてが神さまの計画の中にあり、すべてが神さまが備えてくださったと感じるのです。

日本は度重なる戦争で、武力をもって世界征服を企て、一時は広大な土地を手に入れました。でも最後は惨敗しました。しかし今度は、私たちに与えられた霊的戦いという武器をもって、日本に、そして世界にまで出かけて行って、本当の意味でリバイバルを見させていただきたいと思います。今年は、ヒマラヤミッションをはじめ、イスラエル、韓国、その他いろいろな国への宣教ツアーが予定されています。最前線に出て行く人もあれば、後方で祈り支援をする人もいます。この前はキムチの販売がありましたが、今日は、パクチーの販売があるそうです。その利益は宣教のためにささげられます。そのように、それぞれができることをして、宣教の働きをサポートすることによって、リバイバルが前進することを覚え、もぜひ祈りつつできることを行っていきましょう。

また、日本のために祈っていきましょう。今年は、平成が終わり新しい年号になります。皇太子が天皇に即位するのですが、それには莫大なお金がかかります。私たちがそんなお金を使うのはもったいないと思っても、どうにかなるものではありません。
しかし、お金の問題よりも私たちが関心を持つべきことは、この一連の行事において、数々の偶像礼拝がなされるということです。私たちクリスチャンはそのことを心に留め、とりなし、祈らなければなりません。
また、多くの人が年号が変わり、もっと豊かになることを望んでいるかもしれません。しかし今日本はどんどん右傾化しています。日本人は「平和ぼけしている」と言われますが、このままではいつ戦争が起こるか分かりません。日本で戦争が起きなくても世界のどこかで戦争が勃発したら、すぐに日本は巻き込まれることになります。
私たちが日本のために祈らなければ、逆の意味で私たちの考えもしなかったような災いの日々が訪れるかもしれないということを覚えて、祈っていきたいと思います。

また、エレミヤ書三十三章三節には、このように書かれています。

『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』

私はクリスチャンとなって五十数年になりますが、最近順先生が語られるメッセージに、「今までそんなこと聞いたことなかったなぁ」ということがたくさんあります。世界の創造や宇宙の誕生、今までの概念を打ち破るような話に、「なるほど。あぁそういう観点からしたら、納得できるな」ということがたくさんあります。いろいろなことを主が開いてくださっていると思います。

昨日、カウントダウンから先週までに語られた先生方のメッセージを読みかえし、この二〇一九年は、神を愛するみなさん一人ひとりのために、今まで、目が見たことも、耳が聞いたことも、人の心に思い浮かんだことのないような素晴らしいわざが、この所に、この日本に、この教会に起こるのではないかと思いを新たにしました。
私たちは委ねられた福音宣教を語り続け、神さまが結んでくださった契約は変えられることがないということを信じ、信仰をもって動き続けてまいりましょう。今サタンの手にある領域を神の国に奪回できる、そのような期待を持って進んでいきたいと思います。

神さまの恵みの中で今日、私たちはここに集められました。今インターネットで礼拝されている方もいます。そして病の中にいる人もいますが、主は生きておられ、主は働いておられます。今まで私たちが歩んできた人生、これからどのようになるか私たちは明日のことは分かりません。しかし主は昔も今も未来も変わらず生きておられ、そして私たちのすべてを知っておられる神さまです。今はまだ分かっていないかもしれない、望んでいないかもしれない。しかし主は、みなさん一人ひとりに使命を与えておられることを覚え、今一度、置かれている場所において再献身をし、自分のやるべきこと、自分にができることを、「主よ私に教えてください」と主の前に祈りの時を持ちましょう。私たちは弱い者であり、足らない者であり、そして何もできない者ですが、主は私と共におられ、みなさんと共におられ、そして私たち一人ひとりに志を与え、素晴らしいわざを現そうとおっしゃっています。
では、心を合わせてお祈りしましょう。