「彼らに主の名をほめたたえさせよ!2019
〜全世界に出て行って、
すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ!〜」

2019年2月17日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
使徒の働き1章4節〜8

『彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」』

ハレルヤ!みなさん、おはようございます。クワイヤーの賛美よかったですね。感謝の拍手をしましょう。ありがとうございました。
教会に来ると真の勝利が与えられます。月・日はどんどん進んでいきますが、そんなただ中、主の勝利も進んで行きます。

もうしばらくすると三月になります。三月になりますとネパール宣教が始まります。みなさんに祈っていただき、献げていただき、先日はキムチを販売していただいたり、先週はパクチーを提供してくださいました。あれ本当に高いんですよ。私はパクチー大好きで、二、三株入っただけで三百円くらいなのに、あの量で二百円というのは、良かったですね。でもカメムシの臭いがすると言って嫌っている人もおられましたが、私は大好きです。

「全世界に出て行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」とありますが、全世界に宣べ伝える「福音」とは、マルコの福音書十六章十五節を見ますと、前にもお話ししましたが、新改訳聖書では、「すべての造られた者に」と、「者」という人を表す漢字が使われていますが、英語の聖書を見ますと、「All Creation」、「すべての被造物」です。
ギリシャ語では「クティシス」という、被造物を表す言葉が使われていて、福音は、神が造られた被造物全体に対して宣べ伝えられる知らせです。
人類が救われることによって何が起こるのか、それは神が造られたすべての被造物も救いと回復を受けるのです。そのために私たちは全世界に出て行って、福音を宣べ伝えなければならないのです。
賛美は、人だけのものではないのです。すべての被造物が主をほめたたえるのです。最近、「主の回復の時が」というざわめきをよく歌っていますが、山も木々も空も風も、花も、鳥も、獣もすべて、回復され主を賛美するのです。
三月になりますと、韓国からチェ先生の教会の方々が、新城教会に来てくださいます。チェ先生の奥様は毎週、新城教会の礼拝にインターネットで出てくださっています。今日も、インターネットで結構多くの方が礼拝に出ておられると思います。
それで韓国に住んでいても、いろいろな被造物に対して、「主を賛美しろ!」と宣言しているそうです。今日も花が飾られていますが、先週、教会で何があった証拠です。葬式か結婚式のどちらかですが、先週は結婚式がありました。この花に対しても、「主を賛美しろ!」と宣言すると、主を賛美するのです。
チェ先生の奧さんが一つの動画を送ってくれました。それは何かというと、家で飼っている鳥に向かって主を賛美しろ!と宣言して賛美したら、鳥も一緒に歌って躍っているのです。ちょっとその動画を見て下さい。全世界に出て行き、すべての造られたものとは、すべての被造物であり、私たちクリスチャンが出て行く時に、他の被造物たちも喜んで主を賛美するのです。



いや〜、鳥も歌っていますね。家でペット飼っていたら一緒に賛美を歌ってください。
人がイエスさまによって救われると、今度は他の被造物もすべて、主をほめたたえるようになるのです。そのために、私たちは全世界に出て行って福音を伝えなければならないのです。

今日読んだ聖書の箇所に、『聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』とありました。
聖霊の力によって押し出され、地の果てにまで福音を宣べ伝えるのです。

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ネパールの子どもたちが待っています。ジャングルの中に、一般の文明社会と一線を画しているチェパン族が住んでいます。しばらく前までこの人たちは、皆、裸でした。しかし、宣教師たちが入って行って、服を渡したので、この頃は服を着るようになりました。
この森には、トラも住んでいます。私が初めて、この山に行った時に、ちょうど夜になって夜中に登山することになりました。すると、「懐中電灯の光を上げるな」と言われました。足下だけ照らして登れというのです。なんでかな〜と思ったら、懐中電灯を高くすると、トラがよって来ると言われてちょっとびびりました。
途中で乗っていった耕耘機が溝にはまって動かなくなり、ジャングルに私と家内は、置き去りにされました。本当に怖かったです。家内がトラが来るんじゃないかとおびえていました。しばらくしたら、ガサガサと音がしたのでびっくりして、懐中電灯で照らしたら、裸の子どもたちが二人、目の前に立っていました。
真夜中にですよ。子どもたちが森の中にすっと立っていました。嬉しかったです!トラが出たって、絶対、じいちゃんばあちゃんより、こっちを食うだろうなと思ったのもありましたが、ジャングルの中で子ども達に出会って、本当に嬉しかった思い出があります。

それ以来、このジャングルでの伝道が始まりました。今年も、多くの方が行ってくださるのですが、是非とも祈ってください。今年私は、背後で祈らせていただきたいと思うのですが、全世界に出て行って福音を伝えるには、やはり聖霊の力が必要です。

聖霊さまとは、どういうお方かと言うと、三位一体なる神さまのお一人です。人格を持つ神ご自身です。この方は、私たちを助けるお方です。力を与える神です。また、励ましてくださるお方です。
天地宇宙を造った創造主なる神さまとは、どれほど大きな方か分かりません。創造主から見たら、私たちなんか虫けらみたいで、微生物みたいで、吹けば飛ぶような存在かもしれません。しかし、聖霊さまは、実際的に、私たちの生活を助けてくださる神さまです。その方に私たちは関心を持ち、その方の力に満たされると、人生は変えられるのです。

実は一九九二年二月十三日の夜の事でしたが、当時、甲子園ミッションの一年前で、ミッションを目前にして、準備活動のただ中でした。その為に活動し始めたら本当に大変で、本当にやっていけるのだろうかと、途方に暮れました。
この働きは、日本の全教会に呼びかけて、まだ救われていない方々が救われるための伝道会という目的で始まったのですが、多くの反対者に出会いました。誰が反対したかというと、まずは仏教界でしょう、神道でしょう、創価学会でしょう。・・・しかしそのような団体は、全く反対しませんでした。反対したのは、唯一、キリスト教会でした。なんじゃこれ?という感じでした。同じ仲間がなんで反対するの?という感じで、本当に心暗くなってしまいました。

それで、愛知県民の森に入って、一週間の徹夜祈祷会を計画しました。仕事が終わってから、森の中に入って、二時間、三時間と、「力がありませんから力を与えてください」と真剣に叫んで祈ったことがあります。
初めは三十人くらいが来て、一緒に祈りました。力強かったです。
しかし一週間も経つと、だんだんと人が減って、最後の祈祷会は、私を含めてたったの八名しかいませんでした。みんな疲れて、私も疲れて、いつもは二時間、三時間と祈っていたけれど、その夜は三十分くらいで切り上げようと考えました。私は祈祷会のリーダーでしたから、祈祷会のリーダーにはすばらしい特権があります。リーダー次第で祈祷会を、長くも短くもできるという特権です。私は三十分で終わって帰ろうと思っていました。
祈り始めて三十分経って、さぁ帰ろうかな・・・と思った頃でした。みんな疲れていて、誰も声を出して祈っていなかったのですが、祈っている場所から少し離れた所から音がし始めました。どんな音がし始めたかといったら、飛行機が飛んでくるような、「ゴーーーー」というような響きが起こりました。県民の森の上空は結構飛行機が飛ぶので、私はてっきり、飛行機が飛んできたと思っていました。しばらくしたら行っちゃうだろうと思っていましたが、祈りと共に、その音がこっちに近づいてきている感じがしました。
すると、それまで声を出して祈っていなかった人たちが、徐々に、力強く祈り始めました。「主よ!リバイバルを与えてください!リバイバルを与えてください!聖霊さま来てください!」なんて、声を出して祈り始めました。私は声を出して祈り始めた人たちを見ながら、「なんで声を出して祈るんだ。声を出して祈り始めたら、帰れないじゃないか!」と、ちょっと腹が立ったのを覚えています。「早く祈りをやめてくれ。俺、帰りたい」みたいにね。
すると、ゴーーーという響きが、私たちが祈っているただ中に入って来たのを感じました。その途端でした。私の周りにいた人たちが一斉に倒れました。コンクリートの床に、すごい勢いで倒されました。
私はそれまで、人が倒れるのは病気以外に見たことがありませんでしたから、本当にびっくりしました。
リバイバルは、祈っている時はみんな期待しているけれども、本当に主が訪れられると逃げ出すと聞いたことがありますが、まさにそうでした。前情報がないことが起こると、人って、恐怖なのです。それは聖霊さまの訪れでしたが、その時に私は何と言ったかというと、「おーい!祈祷会中止!この場から逃げるぞ!」と言って、全員を連れ出して逃げました。
倒された人たちは、タコみたいにぐにゃぐにゃになって、起き上がれませんでした。しかし強いて起こしたら、今度は走り出しました。すごい体験がありました。それが一九九二年二月十三日の深夜でした。

先週は二月十三日がありましたので、愛知県民の森で記念の祈祷会を行いました。あれから二十七年が経ちました。二十八年目に入りました。本当に今まで主が助けてくださったなぁと、もう一度感謝をしました。
二十七年間を振り返えると、聖霊の働きは私たちをどこに向かわせたのかというと、「世界宣教」でした。
そして福音理解も、ただ人だけではなくて、「すべての被造物に対して福音」は宣言されなければならないということが、みことばから明らかになりました。

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私はその時の体験を、本にまとめました。「主が立ち上がられた日」という本を書きました。まだ読んだことがない方は、読んでください。英語にもなっています。また韓国語にもなりました。世界中がこの田舎町、新城市で起こった聖霊の激しい働きに興味を持って、読んでくださっています。主が私たちに訪れてくださったことによって、今があることを、心から感謝します。

私は聖霊が注がれた週、絶対にその週からすごいリバイバルが起こると思いました。何もしないでも、人々が続々と教会に来て救われるような、他の国で起こっているリバイバルが、新城でも起こると確信しました。それで鼻息がちょっと荒かったです。
しかしその週から何が起こったのかというと、「個人の霊的解放」でした。それが二月のことでした。
そして七月からは、地域に働く暗闇の力に対して立ち向かい戦う、「地域の霊的戦い」が始まりました。そしてその戦いは、今や、「世界規模」になりました。

私は忘れることができないのですが、そんな混乱の中、祈っている時、一つのみことばを示されました。私は毎年、このみことばを語ることにしています。みなさんもよく覚えておられると思うのですが、それが第二列王記四章一節〜七節です。
主は、このみことばと共に、聖霊の油そそぎの大切さと、聖霊に満たされるために、何をしたらいいのかを教えられました。

第二列王記四章一節〜七節のことばをちょっと読んでみたいと思います。ここはご存じのように、預言者エリシャがやもめの家族の所に行って、油を増やす奇跡を行った物語です。実際に、油が増えました。本物の油が増えたわけです。
しかし聖書の理解は、旧約聖書で最初に言及された事柄が、新約聖書でどのような扱いを受けているかで、最初の解釈を変えることができるという、聖書解釈の基本的法則、「初回言及の原理」があります。ここに「油」が出てきますが、新約聖書で「油」の扱いが、ただのオリーブオイルとか、ごま油とか、そういうものなら、やはり油ですが、新約聖書では「油」は、「聖霊ご自身」に置き換えられています。そして「油が増える」とは、「聖霊に満たされる」ことです。
ですからエリシャが起こした油を増やす奇跡は、どのようにしたら聖霊に満たされるのかという手順、プロセスを同時に教えていると思われます。そのような視点で、この所を読んでみたいと思います。第二列王記四章一節〜七節、

『預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。家に入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった。彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」』

この家庭は預言者の家であったと告げています。たぶん死んだ主人は、預言者エリシャの弟子だったと思われます。一家あげて主に仕える家族でもあったのです。こんな家族の中に、大きな問題が起こりました。
どんな問題が起こったのかというと、主人が死んでしまいました。それも借金を残して死んでしまったみたいです。みなさん、死ぬ前には生命保険にでも入っておきましょう。借金を残して死なないでくださいね。保険金くらい残したら、家族は困らないと思うのですが、この預言者、なんと借金を残して死んでしまったみたいです。それで毎日のように借金取りが来て、残された家族は苦しめられていました。当時、二人の子どもたちは、借金の形として奴隷に売られそうになっていたのです。

これは現代に置き換えるならば、熱心なクリスチャンファミリーの中に起こった問題みたいなものです。時々、私たちも矛盾を感じることがあります。こんなにも主に、真剣に仕えているのに、なぜ問題が起きるのか?と。一生懸命祈っているじゃないか!一生懸命、主に奉仕しているじゃないか!
しかし家の中には、依然としてさまざまな問題がある、こんな経験があります。しかし、この箇所はある意味、クリスチャンの家庭、それも熱心な家庭の中に起こった問題をどのように解決したらいいのかという、手順さえも教えている箇所であると信じます。

何が起こったのかと言うと、預言者エリシャがやってきたのです。そして奇跡を行いました。
エリシャはどこから奇跡を行ったのかというと、エリシャが持ち込んだ品物から起こしたのではありません。やもめの家にあった「油つぼ」から奇跡が始まりました。「あなたの家には何かありますか?」と聞くと、やもめは「何もありません。強いて言えば、油のつぼ一つしかありません。」と答えました。すると、「その油のつぼを持ってきなさい。」
この、ほとんど切れかかった、涸れかかった油のつぼを原点として、多くの油が増える奇跡が起こったのです。
ここから何が言えるのかというと、油は聖霊さまご自身を指しています。時々、問題が起こったりすると、聖霊さまが共におられることを忘れてしまうのです。
しかし、イエス・キリストを自分の救い主として信じるならば、聖霊さまがあなたと共に住んでおられますよ!ということです。

聖書に、「誰も聖霊によらなければイエスは主です!と告白できない」とあります。今日、みなさんが心の底から「イエスは主です!」と宣言できるならば、自分で宣言しているようだけれど、聖霊さまによって告白させられているのです。
ちょっとみなさん、確認してみましょうか。聖霊さまが共におられるかどうか、内側に油のつぼがあるかどうかを確認する為に、「イエスは主です!」と宣言してみましょう。
「イエスは主です!」主に大きな拍手をおささげします。恵まれるのって難しくないですね。「イエスは主です!」と宣言するだけで、内側におられる聖霊さまが喜ばれる、なんか喜びが湧いてきます。ではもう一回、ワン、トゥー、スリー!「イエスは主です!」主に大きな拍手をおささげします。
「イエスは主です!」とはっきりと告白できたのは、聖霊によって告白しています。すでに内側に聖霊さまが住んでくださっていて、油のつぼがあるのです。
これを原点として、聖霊の油そそぎは始まります。聖霊が私たちを支配し始めることが、聖霊の満たしです。

エリシャは油が増えるまでに、いくつかの条件を出したと以前にも、お話しさせていただきました。
まず最初の条件が、「油のつぼを持って来い」ということでした。小さな油つぼを目の前に持ってきました。
次に出された条件が、「外に出て行って、空の器を借りて来い。一つ、二つではいけない!」と言いました。三つ以上借りてこい!と言うことです。これは何を意味するのでしょうか。
第二番目の条件が出た時、この家族は少し躊躇したと思います。イスラエルは部族社会から始まっています。ですから、お互いに知り合い同士で住んでいました。だから案外、日本人と似たところがあって、周囲を気にする性格の人たちなのです。
私は先週、ブラジル人教会で奉仕をさせていただきました。ブラジルで、お隣近所の人たちのことを気にしますか?と聞くと、あんまり気にしないと言うのです。隣が何をしていても、何を食べたかとか、昨日は何をしていたのかなんて、気にしないで自由に生きていると言うのです。
でもこの近所では、そういうわけにはいかないです。この近所の人は、前を見ているようでも、両横をちゃんと知っています。本当に住みにくい社会ですよね。私はブラジル人の人たちに、「日本に住むのは大変でしょう」とお話しして、日本人ってゴミ出しに行きながら、隣のゴミをちょっと覗いたりして、「昨日はたくさん卵を食べたな・・・」みたいな感じで、結構気にするから気をつけてくださいね、と話しました。
イスラエルもそういうところがあって、やもめの家族が外に出て行って、空の器を借りてくるのは、結構、勇気がいったと思います。「あんたんち、何もないじゃん、なんで空の器が必要なわけ?」と言われますから、ちょっと躊躇があったと思います。
しかしその躊躇を越えて、出て行って、空の器を借りてきたら、借りてきた器の分だけ、油がいっぱいになったというのです。

さてこれは、現代的に言ったら、何が言えるでしょうか。聖霊さまに満たされるためには、越えなければならない壁があるのです。聖霊に満たされるためには、祈りが必要です。それも普通の祈りではなく、聖霊さまに満たされるために、飢え乾いて真剣に祈る時、訪れてくださるのです。
一九九二年も一週間、聖霊さまを求めて祈る中で、訪れてくださいました。聖霊さまに満たされるためには、特別に時間をとって、主の前に出て祈っていただきたいと思います。
同時に、空の器とは何を意味するのかというと、油が入っていない器ですから、まだイエスさまを知らないたましいを指すと思います。これは宣教です。まだイエスさまを知らない人たち、聖霊さまが心に住んでおられない人たち、空の器を持って来い、借りて来い、出て行って福音を伝えることにつながります。

しかし、いろんな問題があったりすると、なかなか外に出て行って福音を伝える気持ちにはならないです。今週から、リバイバルミッションのほうでは、伝道集会が平岡先生を中心として行われます。今日本の教会の問題は、伝道集会が激減した事です。
私の子どもの頃、私の父は伝道者で、ウィークデーは全国をまわって、伝道集会をしていました。教会のスケジュールはどこでも、ウィークデーは伝道集会、日曜日は礼拝というスケジュールでした。だからウィークデーは天幕を張ったり、公民館を借りたり、いろんな形で福音を伝えるキャンペーンを毎週のようにやっていたので、私の父もいろいろな教会で奉仕をさせていただけたわけです。
しかしこの頃では、伝道集会をやる教会って少ないのです。なぜかというと、教会も高齢化して、また、教会の中にいろんな問題があったりして、出て行って福音を伝える気持ちにはなれないからです。
みなさんもどうでしょうか。家の中にいろんな問題があって、隣の人の所に行って、「イエスさまを信じるとすばらしいことがありますよ!」とは、なかなか言えないじゃないですか。まずは自分の家の中の問題を解決しないと、イエスさまのことなんか語れないなというところがあります。
いつも話すのですが、私が、「これ、毛生え薬です。使ってみてくれますか?良く効きますよ。」と売りに行っても、誰も買ってくれないと思います。「おまえ、自分が使ってから来いよ!」と言われてしまうと思います。
自分が変えられてから伝道しなくっちゃ!と、思うかもしれませんが、霊的な法則は、自分の問題はさておいて、出て行って空の器を集めてくる、宣教の働きは重要です。
しかし福音を伝えるとは、ただ人だけではなく、被造物全体に渡ることですから、まだ賛美していない被造物の所に行って、「主を賛美しろ!」と宣言することも福音宣教です。少しは問題があっても、外に出て行って、賛美していないだろうなという領域に対して、「主を賛美しろ!」と宣言したら、被造物は息を吹き返し、賛美するようになります。

最近、県民の森祈祷会によく出かけるのですが、不思議なことが起きるのです。いつも祈る前に、県民の森のすべての被造物に対して、「一緒に賛美しろ!我々の祈りに参加しろ!」と宣言してから始めます。
特に土地に対して宣言します。土地は生き物です。「土地の上で罪を犯すと、土地がのろわれ、土地の上で血が流されると、土地からのろわれる」と聖書にあります。土地は生き物で、うめいているわけです。その土地に対して、「主を賛美しろ!」と宣言するのは、たいへん大切です。
日本では家を建てる時、地鎮祭なんかやって、土地がうめいています。土地に賛美させることはすごく重要です。
この頃、県民の森の土地に、「主をほめたたえろ!」と宣言して、賛美し始めたら、みなさん嘘だと思ったら一緒に来て下さい。土地が光るんです。土地が光るんですよ。夜光虫とか、そういうものかどうかは知りませんが、土地にLEDを仕込んだかのように、土地がぴかぴか光るのです。みんな祈りながら、光っている土地に気が取られて、何が光っているのか?という感じです。スマホを落としたんじゃないかくらいの光の強さで光るのです。いや〜、これは土地が主を賛美しているんだろうなぁという感じです。
どんな問題があっても、空の器を借りてくる、福音を宣言する働きから離れてはいけないですね。

そして次に述べられている条件が、四節です。それは、『家に入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。』です。「あなたと子どもたちの後ろの扉を閉めろ!」と言っているのですが、特に、一九九二年。聖霊がそそがれた時、主から一番強く教えられたのが、聖霊に満たされる秘訣として、また前準備として、「後ろの扉をしっかり閉めろ!」と教えられました。
なぜ、後ろの扉を閉めるようにエリシャは告げたのかというと、一節を読むと分かります。この家には常に貸し主が来て、借金を取り立てていました。しかし借金を返せなかったから、子どもたちを奴隷にしようと狙っていたのです。
昔は奴隷制度があり、一度奴隷に売られたら、横暴な主人の下で一生苦しまなければならなかったわけです。この家庭は借金を返すことができなかったから、貸し主が毎日のように来て、子どもたちを奴隷としようとしていたわけです。
そんな中で、家に扉が開いていたらどうなるでしょうか。子どもたちも一緒に加わって、油を増やす奇跡に関わっていますから、子どもたちも奴隷になり、またせっかく増えた油だって、全て取り去られてしまったに違いありません。だからしっかりと扉を閉めろ!と言ったと思われます。

私たちも今までの信仰生活の中で、一生懸命主に仕えて、聖霊の油そそぎを求めて、ある時は聖霊に満たされる体験もあります。しかし時間が経つと、油を取り去られる体験とか、真剣に主に仕えている家庭の子どもたちが奴隷になるような、さまざまな問題がクリスチャンホームの中に起こることを体験しました。
どこに原因があるのだろうかと思っていましたが、九二年二月十三日に聖霊が注がれたときに、それは「扉が開いている」と知らされました。
扉が開いているから、敵が家の中に出入り自由となっている、だから聖霊の油そそぎをもらう前、敵の通路を塞げ!扉を閉めろ!と教えられました。
具体的にはどうしたらいいのだろうかと祈っている中に、さまざまな体験を与えられ、悪魔と結ばれている契約書が残っていることを教えられました。

これは復習にもなりますが、罪とは一般的に神さまに対する不従順、神さまに従わなかったという領域だけだと思っているのですが、旧約聖書の中で、イスラエルの人たちが罪を、どのように扱っていたのかについて気づかされました。

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イスラエルの人たちが毎年「大贖罪の日、ヨムキプール」を守っているのですが、その時、どのような悔い改めをしているのかが、レビ記十六章六節〜十節に記されています。
ヨムキプールには二頭の山羊を用意して、一頭は主のために献げ、一頭はアザゼルのために献げました。これは何を意味しているのでしょうか。
一頭の山羊は、神に対してのいけにえであり、アザゼルとは、当時イスラエルの人たちは、荒野に悪魔が住んでいて、「その名をアザゼル」と呼んでいました。
悪魔に対してもいけにえを差し出さないと、罪の赦しは成立しないと考えていました。

話はちょっと変わるのですが、今回、ネパールに宣教旅行に行くのですが、今までは山の上までお医者さんたちを連れて行って、一日クリニックを開催していたのですが、この頃、村に道ができて、車で行けるようになったのです。それでこの山の人たちも、簡単に里の病院に行けるようになったのです。あえて山の上でクリニックをやることもないというところもあって、今回はどうしようかと祈っている中、一つのアイディアが与えられました。
それがなにかと言ったら、アザゼルの山羊バーベキュー大会です。二頭の山羊を購入して、二頭の山羊を屠って、バーベキュー大会をやることにしています。山の人たちの、大・大ご馳走って何かというと、山羊の肉です。山羊の肉が食べられるのは、何年かに一度くらいの一大イベントです。
でも日本人ならば、日本円って強いですから、案外安く山羊を買うことができます。二頭くらい山羊を買ってきて、それを殺してバーベキューです。生きたまま山羊をくれますから、誰が首を切るのかは問題です。でも案外、この頃の若者は結構簡単にやります。何年か前、「鶏買って来て」と言ったら、生きたまま来たのですが、「これ首を切らなければいけない」と言ったら、高校生の女の子たちが、「あ、そう」と言ってナタで、なんの躊躇もなく、首を切っていました。今度は山羊でできるかどうかですが、現地の方々にお願いしたいと思います。山を越えてみんな食べに来ると思います。その時に伝道するプログラムです。山羊にはちょっと申し訳ないですが、それこそ犠牲です。山羊二頭が犠牲になることで、多くの人たちが救われるので我慢してちょうだいみたいですが。

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このアザゼルの山羊は、どういう意味があったのかというと、一つは「主への悔い改め」、もう一つは「悪霊と結ばれた契約の解除」という意味がありました。実は罪とは、神さまに対するだけでなくて、悪霊と結ばれる契約書が発行されるのです。
特に偶像礼拝は、悪魔と契約が結ばれるわけです。契約書が相手に渡るわけです。だから神さまにごめんなさいと言うだけでは、不十分です。悪魔に渡った契約書がありますから、この契約書は無効だ!と宣言しないと、悪魔が侵入する侵入路が開く事になります。だからその侵入路を塞ぐ、「扉を閉める」とは、今まで犯した罪で生じた「悪魔と結ばれた契約書を無効にする宣言をしなさい!」と、九二年二月に聖霊がそそがれた後、主が教えてくださいました。

旧約聖書においては、レビ記十六章でそのことを語っているのですが、これが新約聖書にどう対応しているのかというと、コロサイ人への手紙二章十三節〜十四節です。イエスさまの十字架の勝利によって、一つはすべての罪が赦されるという、一頭は神に対して献げられる領域ですが、もう一つ、罪が赦されたことと並行して、「私たちを責め立てている債務証書を無効にされた」というのです。

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不利な債務証書があるから、それを無効にしろ!と、聖霊が注がれた時に教えられました。それが、「後ろの扉を閉めること」だよ!と教えられたのです。これがちゃんと処分されていないのに、ただ聖霊の油そそぎを求めても、扉が開いているから敵が侵入して、油は持ち去られ、子どもたちも奴隷になるのです。聖霊が訪れる以前にも増して、悲惨なことが起こる事もありうるわけです。
時々、「聖霊のバプテスマを受けたけれど、その後、もっとひどいことが起こった」なんて聞くことがあります。これはどこに原因があるのか、扉が開いているがゆえに、敵が侵入したということだと思います。
私たち人間はどのような構造かというと、「霊と、たましいと、肉体」の三つの領域からできていると記されています。第一テサロニケ五章二十三節から読んでみますと、

『平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。』

人間ってどんな構造をしているのかというと、霊、たましい、肉体の、三つが渾然一体となって形成されているのです。
霊って何かというと、霊的存在と結びつく「機能」だと説明されています。人間には目に見えない世界に結びつこうとする性格があります。
どこにそういう機能があるのかというと、「霊」という領域があるがゆえに、本物の神さまにも結びつくし、神のふりをした悪霊どもにも結びついてしまうわけです。これは動物にはありません。人間だけです。人間だけに霊という機能があって、目に見えない存在と結びつくわけです。
次に、たましいとは何かといったら、「その人自身」です。自分自身です。
そしてもう一つ、それを包み込むかのように肉体があるわけです。『あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。』
後ろの扉を閉めるとは、霊、たましい、体に攻撃を仕掛ける、敵の力、その通路をしっかりと塞げ!それらに対して扉を閉めろ!と、主から教えられました。

そして特に、この霊的な機能、目に見えない存在と結びつこうとする機能がしっかりと本物の神さまに結びついていればいいけれど、悪魔と結びつくと、悪魔の手に契約書が渡りますから、さまざまな問題が起きる可能性があるのです。

カナンの地に入る前に、出エジプトをしたヘブル民族に対して、神が何と語られたかというと、出エジプト記二十三章三十一節〜三十五節に書かれています。

『あなたは、彼らや、彼らの神々と契約を結んではならない。』

「彼ら」、また「彼らの神々と契約を結んではならない。」カナンの人たちは偶像礼拝をやっていて、偶像礼拝=悪霊礼拝であったわけです。イスラエルの人たちは自らもエジプトの偶像を作って、偶像を拝むことをしてしまいました。カナンの地に入っても、誘惑に負けて、さまざまな偶像礼拝に陥ったわけです。それは悪魔との契約書が発生する、大きな罪でした。霊という、最も人間の中で必要な機能を、悪魔に握られたのです。

しかし今、イエス・キリストを信じるならば、ただ、罪が赦されるだけでなく、私たちにとって不利な債務証書を無効にしてくださるのです。偶像礼拝の中で生じている契約書が残っていたら、「その契約書は無効だ!」と宣言しなければいけないのです。
悔い改めとは、一つは神さまに対してのお詫びと、もう一つは、契約書は無効だ!という宣言の二つによって成立することに気づかされました。
それで教会に来られるお一人お一人のために、特に、霊的な領域に残っている悪魔・悪霊どもとの契約書を、しっかりと無効にする宣言の祈りをするようになりました。
その時に不思議なことが起こってきました。多くの人たちの人生が変えられ、さまざまな問題も消えていきました。人生の中でどれほど悪魔と結ばれた契約書が、攻撃し続けて来たかについて気づかされました。
偶像礼拝から離れて、その時に結ばれた契約書を無効にする宣言は、本当に大切です。

特に日本人は、生まれたらすぐに偶像礼拝と付き合い始めます。赤ん坊が生まれると、すぐに神社に連れて行って宮参りです。その次には七五三、成人式、結婚式、また、四季折々に神社の神々、日本神話の神々に献げられるのです。それは偶像礼拝ですから、その背後に悪霊どもがいるのです。結局、悪霊どもが年間を通じて、日本人と何度も契約書を交わします。一生ものの契約書もあるのです。
人は死んだらこの地上にたましいを残すわけではありません。神がすべてを管理してくれます。でも、地上に先祖がいるかのように勘違いして、熱心に先祖を拝むわけです。それは先祖の霊ではありません。「オレオレ先祖」です。
ですから、死の霊と契約が結ばれるのです。人生の中に死と破壊というテーマが入りやすいわけです。でもそれらを無効だ!と宣言する時に、霊という領域の扉がぴしゃっ!と閉められて、霊という機能を通して悪魔・悪霊どもは侵入することはできない!と教えられました。

そして、たましいと肉体に関しても、主が教えて下さいました。たましいの領域の中で、悪魔が影響を与えるのは何かというと、感情的な部分です。
『怒っても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。』というみことばがあります。

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時々、誰かに対して頭にくることがあるでしょう。「あいつ大嫌い!」ってね。怒りは持ってはいけませんよ、とは聖書は語っていません。憎しみとか怒りを持ったとしても、「日が暮れるまで憤ったままいてはいけない」というのです。

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「怒りの賞味期限」があるのです。怒りの賞味期限は、二十四時間です。イスラエルでは日暮れから日暮れまでが一日でした。一日の中で悔しいことがあったり、誰かに対して憤ったり、憎しみを持つことがあっても、二十四時間経ったら赦してやれと言うのです。その人を祝福してあげなさいというわけです。なぜなら、怒りの賞味期限は二十四時間だからです。そうでないと悪魔のカイロスに出会ってしまうのです。
ですから、自分の安全のためにも憎らしい人を赦す宣言をしないといけません。これは告白です。今日どうでしょうか?「人生の中であなたを最も傷つけた人、誰ですか?」パンチを食らわしてやろうかと思わないで、二十四時間どころか二十四年以上経ってしまった人もいるかもしれませんが、「その人を赦します!祝福します!」と宣言すると、悪魔が機会を捉えないで、神の機会に置き換えられるはずです。
今週、頭に来るような、怒り心頭するようなことが起こったとしても、怒りの賞味期限は二十四時間だということを覚えておいてくださいね。一日経ったら忘れよう!と努力したら、悪魔が侵入する通路は塞がれます。悪魔の機会、悪魔のカイロスに出会うこともないのです。

そしてもう一つ、肉体を通しても悪魔は侵入することができます。これをアニミズム的に、体の中に霊が侵入するようには捉えないでいただきたいのですが、悪魔はどのようなメカニズムで働くのかというと、神が定めた法則の中でしか働くことはできません。神の律法に違反した悪の領域は、悪魔が活動する領域です。
一般的に罪と呼ばれる領域は、悪魔が自由に活動することができる領域であり、悪魔は神が人と人、神と人との間に与えた契約、法則をうまく逆利用して働くのです。その最たるものが、肉体を通して働く領域です。

エペソ人への手紙五章三十節〜三十二節、

『私たちはキリストのからだの部分だからです。「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。』

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昔、数学で等式を学びましたが、ここに霊的等式が出ています。「一人の男性と一人の女性の結婚=イエスさまと教会が一つになる」という、霊的等式です。
結婚しておられる方にお話ししたいですが、結婚はすごく重要な霊的テーマです。教会にイエスさまが来てくださり、教会の中で主のわざが現されるためにはどうしたらいいのかと言えば、「一人の男性と一人の女性が結婚する」という等式に秘密があります。
しかし悪魔はこの等式が成り立たないようにすればいいわけです。等式が成り立たない表現として「≠」と表記しますが、等式が成り立たないようにすれば、キリストと教会という一体が成立せず、教会の中で主は働けませんから、悪霊どもが働くことができるわけです。
悪魔は神さまの法則、『「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」』という、結婚の法則を逆手に取るのです。
パウロはコリントの教会の男性たちに対して、こんなことを語っています。これはクリスチャンに対して語られています。第一コリント六章十五節〜十八節、

『あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりは一体となる」と言われているからです。しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。』

コリントの教会に来ていた男性たちは、コリントの町にはギリシャ神話の神殿娼婦たちが多くいて、金を払ったら女性を簡単に買うことができる環境がありました。男達は、遊びの一つとして、簡単に罪を犯していたみたいです。しかしあまり罪意識がなかったみたいです。
神殿娼婦ですから、名前も知らないし、ただ金だけ払い、暗い所で犯す罪だから、まさかと思っていたけれど、「それは神殿娼婦と結婚することと同じだ」とパウロは告げたのです。なんと、一回でも神殿娼婦と関係を持ったら、一つのからだになってしまうというのです。神殿娼婦は、毎日どれだけの客を取っているのか分からないほど、多くの男性と関係している存在です。その女と一つになってしまうことになるから気を付けろ、と告げたわけです。
一人の男性と一人の女性が結ばれると、イエスさまと教会が一つになる。教会とは私たちのからだも表します。ゆえにイエスさまが持っておられる資産が、私たちのものになるのです。
しかしながら、その法則が崩れるとどうなるのでしょうか。例えばご夫婦、仲良く一人の男性、一人の女性でつながっていればいいのですが、最近は不倫だとか、浮気が多いですね。他につながれば、どんどん他の所にも一体の契約が結ばれてしまうのです。

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悪魔は結婚という、神が立てた制度を逆手に取って、結婚以外の結婚という肉体関係を通して、他の人たちの持っている霊的束縛と一体性を持たせて、どこからでも働くことができるような、人を拘束する「拘束回線」を世界中に張り巡らせているのです。
インターネットは世界中、どこからでも到達できるシステムです。同様に悪魔は人を攻撃するために、他の人の罪をも使っても攻撃できるシステム作りを日々、拡大して造っています。
現代は性的に乱れていますが、その行為は、一体の契約が結ばれることであり、世界中の悪魔が持っている「悪魔の資産」につながってしまうのです。私たちは聖く生きなければいけないです。
「しかし私は罪を犯してしまった。どうしたらいいか・・。」悪魔の不利な債務証書は無効にできるわけですから、断ち切ればいいわけです。複数あったら断ち切ったらいいわけです。結婚以外の契約を無効である!と宣言しないと、結局、契約書が生きていますから、悪魔から攻撃を仕掛けられるわけです。
現代社会は性的に乱れていますが、これは悪魔がどこからでも人を攻撃するために敷設した高速(拘束)ネット回線だということを、よく理解して、聖い生活をしなければならないです。
特にご夫婦で、一人の男性と一人の女性が一つとなる構図をしっかりと作るならば、教会がイエスさまと一体となって、イエスさまが持っておられる資産を、教会の中で自由に使うことができるのです。

霊、たましい、肉体を通して、攻撃をしかける悪魔の通路、それをすべて塞ぎなさい!その扉を閉めろ!と、九二年二月十三日に聖霊がそそがれた時に教えられて、後ろの扉を閉めるようになりました。過去に犯したすべての罪を悔い改めるだけでなく、そこで結ばれた契約書を無効にします!という宣言をして、後ろの扉をしめて、油のそそぎを求めた時、主が油を内側に残して下さいました。第二列王記四章六節〜七節、

『器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった。彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」』

後ろの扉が閉められて、増えた油を売ったことによって負債がなくなったのです。「負債がなくなった=敵がその人の家に来なくなった」ことを表します。そしてその残りで、やもめも家族も幸せに暮らすことができたはずです。
幸せになったのは、もちろん油が増えたという奇跡が起こったからですが、その前提として、「後ろの扉が閉められた」ことが大きな条件であったのです。
全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝え、すべての被造物に勝利を宣言するためには、後ろの扉をしっかりと閉めて、油を取られることなく、子どもたちを奴隷にされることなく、主に仕えていくならば、大きな主の働きが任されることでしょう。私たちの目の前に、多くの奇跡が起こってくると思います。

出エジプト記二十二章七節、

『金銭あるいは物品を、保管のために隣人に預け、それがその人の家から盗まれた場合、もし、その盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍にして償わなければならない。』

一度取られたものは、二倍にして返ってきますと約束されています。またイザヤ書六十一章七節(口語訳)では、

『あなたがたは、さきに受けた恥にかえて、二倍の賜物を受け、はずかしめにかえて、その嗣業を得て楽しむ。それゆえ、あなたがたはその地にあって、二倍の賜物を獲、とこしえの喜びを得る。』

一度奪われても、私たちが後ろの扉を閉めて、敵に立ち向かっていくならば、奪われた二倍のものを受け取ることができると聖書は約束しています。なぜなら、私たちはイエス・キリストにおいて、共によみがえらせ、共に天の所に座らされているからです。
後ろの扉を閉めるならば、悪魔は二度と訴えることはできないのです。天の所で私たちを訴えてきても、私たちはその訴えを却下することができるのです。

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悪魔が私たちに訴えてきても、異議あり!と言って、はね除けることができます。
そして天において、天の法廷において、私たちは勝訴できるのです。二倍のものを今日は取り戻しましょう。

私は人生の中で多くのものを悪魔に奪われた!と気づいた方は、今日は敵が誰であるかをしっかりと理解して、後ろの扉を閉めて、悪魔に「私から奪っていったものを二倍にして返せ!異議あり!」と宣言するならば、二倍のものが戻ってくる、これが聖書の真理です。
今からイエスさまの十字架の血潮をあがめて、聖餐式を行います。聖餐式は本当に大事なことです。よみがえりのイエスさまと一つになることです。今までの罪が赦されるだけでなく、よみがえりの権威、イエスさまと共に天の法廷に座らせていただけるのです。
一言お祈りして、聖餐式を始めていきたいと思います。

ハレルヤ、天の父なる神さま。み名をあがめて心から感謝します。聖霊に満たされたいと願っています。もう一度、自分自身の霊とたましいと肉体のすべてを、主の前に差し出して、後ろの扉を閉めて、油を求めます。
主よ、今日は一人ひとりに聖霊の油をそそいでください。そして奪われたものは二倍になって戻ってきますように。

みなさん私の後に付いて一緒にお祈りしていただきたいと思います。

イエスさま、今私は、あなただけが救い主であることを宣言します。聖霊さま、あなたは私の助け主です。父なる神さま、あなたは天と地を創造された、ただ一人の神であることを宣言します。私のすべての罪をお赦しください。霊も、たましいも、肉体も、その罪を赦してください。同時に、悪魔と結ばれた三つの領域の契約書を、無効であると宣言します!
「悪魔よ、よく聞け。おまえは私を霊の領域から訴えることはできない!たましいの領域から訴えることはできない!肉体を通しても、訴えることはできない。」すべて後ろの扉を締め切ります。
聖霊さま、私は飢え乾いています。空の器に油をそそいでください。聖霊で満たしてください。全世界に出て行って、すべての被造物に福音を宣言する者としてください。イエス・キリストのみ名によって、聖餐式を受け取ります。アーメン。