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「彼らに主の名をほめたたえさせよ!2019
教会とは何でしょう? パート2」

2019年3月31日(日)
新城教会 主任牧師 滝元順
エペソ人への手紙1章20節〜23節

『神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』

 ハレルヤ!おはようございます。ゴスペルクワイヤーのすばらしい賛美を聴きましたが、賛美の歌詞にあったように、主の愛のうちにとどまり、みことばのうちにとどまり、今週も進んで行きたいと願っております。

 みなさんのお祈りに支えられ、ネパール宣教チームももう間もなく、名古屋に到着します。ネパールでは道中大変危険な箇所を通過しますので、私も本当に心配して、真剣に祈っていましたが、すべてうまくいったみたいです。今日は三時ごろ帰って来ますので、三時からはネパール宣教報告会を開催させていただきます。三時に神学校二階に集まっていただけますと、一番ホットなところで聞けるのではないかと思います。
 ネパールから、いろいろ写真が送られて、LINEに登録されていた方々はご存じだと思いますが、これはチトワンのホテルの様子です。

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 今回はこんな感じで山を車で登って行ったみたいですね。車で登りましたから結構楽だったと思います。これもスリルがあって楽しいです。

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 山羊さんにも出会いました。

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 そして夜の夕食、この肉は何の肉でしょうか。すばらしいツアーだったみたいです。詳しくは三時から聞きたいと思いますが、引き続き、主がネパールに働き、この勝利が新城にも日本にも現されますよう、お祈りいただきたいと思います。

 私も先週は結構忙しくて、前半はピースメーカーフォーラムという会に参加しました。衆議院議員でクリスチャンの女性議員の方がおられます。山川さんと言われるのですが、ご主人もクリスチャンで、すばらしい信仰を持っておられます。天野先生の教会で教会員として、忠実に仕えておられます。
 その方を中心とした集まりがあって、私も顧問になっていて、毎年そこに出席するのですが、クリスチャン政治家たちが増えないとなかなか日本も変わらないと思います。みんなで日本の政治のために祈る機会がありました。
 私も祈りを導かせていただいたのですが、今日は三月三十一日、明日からは新しい年度に変わり、五月には天皇も変わります。いろんな面で、この機会にかこつけて変えてしまおうとする勢力もありますから、国の未来が明るいものとなるように祈る、教会の役割は大きいと思います。

 「教会とは何でしょう?」というテーマ、三週間くらい前にも一度、語らせていただいたのですが、その続きとして語らせていただきたいと思います。「教会」とは読んで字のごとく「会衆を教える」という漢字が使われていますから、教室のようなイメージを最初に持ちます。
 しかし聖書から見ると、教会とは全く別の意味なのです。旧約聖書の中に「教会」というイメージがすでにあります。それは「カーハール」という言葉で、「呼び出された者たちの群れ」という意味があります。
 新約聖書になると「教会」が、「エクレーシア」という言葉が使われます。
 ですから教会とは、二つの概念を含んでいます。それはギリシャ的世界観とヘブル的世界観の両面を持っているわけです。「エクレーシア」とは元々、ギリシャ社会の議会を表す言葉でした。その議会とは「種々の軍事行動に対する作戦と宣戦布告に関する決定機関」でした。
 「エクレーシア」という言葉が「教会」と訳されましたが、エクレーシアとは、元々ギリシャの議会でした。そんな社会の中に、クリスチャンの群れが形成されてきたわけですが、誰かがその群れを見に行ったわけです。「イエスを信じた者たちの群れは、ギリシャ社会の中にあるエクレーシアと呼ばれる議会によく似ているな!」ということで、クリスチャングループに対して、ギリシャにあるエクレーシアという議会の名前を「そのまま当てはめた」わけです。それは、種々の軍事行動に対する作戦と宣戦布告に関する権限を持つ機関でした。
 ということは、教会の真の意味は「戦いのために呼び出された者たちの群れ」という意味になります。お一人一人、なぜ教会に集っているのかといえば、戦いのために呼び出されたからです。
 では、何のための戦いかと言えば、人間的な戦いではなく、霊的戦いのために呼び出された者たちの群れであるのです。
 教会には、もちろん教室的な概念もあり、ファミリーという概念もあるのですが、そこで立ち止まったら教会にはなりません。
 教会とは戦いのために呼び出された者たちの群れですから、そのような存在として敵と対峙しなければならないわけです。

 三週間前にもお話しさせていただいたのですが、教会は「二つある」とお話ししました。天には「勝利の教会」があり、地上には「戦闘の教会」があるのです。地上には勝利の教会がそのまま現れているかというと、そうではないのです。
 地上には霊的戦いがあります。天の勝利の教会がこの地上に現されないように、真剣に立ちはだかる勢力があるのです。
 先ほども主の祈りの中で、「み国を来たらせてください!」と祈りました。「天のみ国、天のみこころが地上に現されますように!訪れますように!」と祈っていることは、天では神のみこころが百パーセント現されているけれど、「地上ではそうではない」ことを意味します。だから教会には、大変な面もあるわけです。
 しかし戦いの教会となるならば、立ちはだかる悪しき勢力を一掃できるのです。天で現れているみこころを地上に引き下ろすことができるわけです。
 ですから教会とは、「天が地に侵入する門」なのです。天が地に侵入する唯一の門、それが教会です。

 「エペソ人への手紙」は、性格的には教会に対して書かれた手紙です。個人に対して書かれた手紙ではなくて、エペソ教会と、当時の諸教会に対して宛てられた手紙です。今日はその中から読んでいただいたのですが、エペソ人への手紙一章二十節〜二十三節を、もう一度読んでみたいと思います。

『神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』

 教会とは、キリストのからだです。イエスさまがかしらで、私たちはそのからだに属していると語られています。
 しかし「いっさいのもの」って何なのか?、これも三週間前にお話しさせていただきましたが、「いっさいのもの」とは「全被造物」を指しています。人だけではないのです。全ての被造物、他訳だと「万物」と訳されています。教会とはイエスさまをかしらにして、人だけが連なるものではないのです。
 教会とは、主を信じた者たちの群れ、プラス、全ての被造物も繋がる存在であるとここで教えています。

 そしてパウロがエペソ人への手紙に込めた概念は、「教会とは宇宙規模のもの」として論じているのです。なんとキリストのからだとは、イエスさまを頭とし、宇宙規模のものだというのです。教会は宇宙全体を動かすほど、強力な天が侵入する門であることを教えているわけです。
 私たちも、ダイナミックな宇宙規模の教会に属している!ということを理解しなければならないと思います。
 悪魔は教会という概念を矮小化させ、小さくして、神さまが働く領域を狭めています。まずはクリスチャンが、「教会とは何か」をしっかり理解しないと、天のみ国は地上に降りて来ることができないのです。
 教会は人だけでなく、神が造られた被造物全体を包括し、宇宙をも包括するほどの権限を持っていることを、我々は理解する必要があります。

 悪魔・悪霊どもは、どういう働きをするのか、悪魔とは、「ディアボロス」という言葉が使われているのですが、「中傷者、告発者」という意味であると話をさせていただきました。
 悪魔・悪霊どもは、基本的には、神の前に教会を告発する存在です。
 ペテロの手紙 第一 五章八節、

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。』

 このことばから受けるイメージは、ライオンが放し飼いにされているように、同じように悪霊も放し飼いにされていて、運悪く側を通るとかまれるイメージを持つのですが、決してそうではありません。
 「あなたがたの敵である悪魔が、」という「敵」の意味についてもお話しさせていただきました。「敵」とは、ギリシャ語で「アンチ・デコス」という言葉が使われているそうです。意味的には「訴訟を起こす者」だというのです。天で訴訟を起こす者、それが悪魔・悪霊どもの働きの中心です。
 案外私たちは、地上での戦いにフォーカスを当てやすいのですが、天上での戦いに目を向けなければいけないわけです。エペソ人への手紙六章十節〜十二節、

『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』

 パウロは多くの書簡を書いていますが、エペソ人への手紙はパウロの晩年の手紙です。その他の書簡でも彼は、霊的戦いについて語っているのですが、そこには一つの特徴があるというのです。
 それは、「悪霊の働きは、人を中心軸にしている」という視点だというのです。私たちも同様に「あの人の後ろには、悪霊がいそうだね。ざわざわする感じがあるよ。」とか、「あの人の取った行動は、まさに悪霊的だ!」とか言います。もちろんこういう働きもあります。
 しかしエペソ人への手紙になると、パウロの論点が変わるというのです。それは、霊的戦いは、人間中心という意味合いも含みつつ、「血肉に対するものではない」とはっきり言明していることです。それは霊的戦いが「宇宙規模」だということを述べているというのです。

 先日、エペソ人への手紙のある注解書を読んで、大変、教えられたのですが、ここに、「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊」という表現があります。これは天使の組織に対応する、悪霊の組織だと言われるのですが、さて、この組織の中で一番力ある勢力はどこなのか?ということです。
 「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊」と記されていますから、最初に出てくる「主権」が最も強い勢力じゃないか?と思います。国を主権的に握っているような勢力が日本に働いているから戦わなければいけない!と、思うのですが、エペソ人への手紙をよく研究すると、主権とか力とは、すでに教会の権威の中に、完全に屈服している存在であるというのです。
 しかし、ややこしいのは、三番目からだというのです。「暗やみの世界の支配者たち」と、「天にいるもろもろの悪霊」という領域が、実は、私たちが戦わなければならない、重要な勢力である!と、その注解書では述べられていました。
 初めの二つ、主権と力はすでに復活のキリストの支配下に置かれており、主キリスト・イエスにある、神の知恵によって制御可能であるというわけです。

 しかし問題はこれに続く、暗闇の世界の諸力と、天にいる悪の諸霊が問題となるというのです。「暗闇の世界の支配者たち」とは、「コスモクラトール」という言葉が使われているそうですが、「星占い」のことを指しているそうです。
 どうでしょうか。この頃、星占いはかなりカジュアルになって、朝、「あなたの星座はこんなんですか?この星座の人は気を付けてくださいね!」とか、ネットやスマホでも、星占い関係のことが簡単に出てきます。イエスさま時代、使徒の時代は、占星術が最盛期の時代でした。星々の運行が、人生に最大の影響を与えると堅く信じられていた時代でした。
 人生に最も影響を与える悪しき諸力は、占星術に関わるものだとパウロは述べているというのです。
 今週もテレビなど「今日の運勢」みたいな所に、絶対に心を惹かれてはいけないです。ところでどうでしょうか?「自分の星座知っていますか?」と聞かれたら、即座に「はい」とクリスチャンでも答えるかもしれません。それはすでに、コスモクラトールという霊的戦いの中で、制御が難しい部類の影響です。
 暗闇の世界の諸力を簡単に考えるかもしれないけれど、それは真剣に戦わなければならない相手なのです。

 そして注解書の中で一番問題視されていたのがこれでした。
“最後に出てくるのは「諸天にいる悪の諸霊」である。言うまでもなくここで言う「諸霊」とは堕天使の働きであるが、問題は諸天である天上にも悪霊が働くのかという疑問が、初代の教父たちを悩ませた。”
とありました。
 今日、「み国が来ますように!」と祈ったのですが、天のみ国とは、「天」は複数です。そして王国は一つです。ですから正確に「天のみ国」を表すならば、「諸天によって構成される、神が支配される一つの王国」と訳すことができます。
 諸天はすべて神の支配下にあるはずなのに、なぜ、そこに「天にいる諸々の悪霊」が存在するのか。それは、神の国の諸天とかぶるのです。だから初代の教父たちは、なぜだろう?と、それを取り外して訳したり、「その下」と訳してみたり、悩んだそうです。
 天国に行っても悪霊がいたら困ると思います。実はこの「諸天にいる諸々の悪霊」というのは、諸天はすでに神さまによって、完全支配されているのですが、天には法廷があるという事です。

 前回もお話ししましたように、悪魔が私たちの罪や汚れを訴える窓口が天にあるというわけです。天で敗北すると有罪になって、それが地上に結果として現れるわけです。だから最も霊的戦いの中で意識しなければいけないのは、神の国の窓口に訴状を提出する、「諸天にいる諸々の悪霊たち」なのです。私たちを有罪にする、その勢力に対して、私たちは真剣に戦わなければいけないのです。

 しかし感謝なことに、私たちは有罪になることはありません。エペソ人への手紙二章五節、

『罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──』

とあります。イエス・キリストを信じる時、努力ではなく、恵みによってどんな罪でも赦されるのです。
 そしてその時に、どういう立場が与えられるのかというと、エペソ人への手紙二章六節、

『キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』

 この立場をよく理解しないと、知らないがゆえに、訴えられるのです。「神のことばに生きる」と今日も歌われましたが、神のことばに生きるとは、「神のみことばを正確に理解する」ということです。それが神のことばに生きることです。このみことばをちゃんと理解したら、どんなに悪魔が私たちを天で訴えようとしても、「悪魔よ、よく聞け!私たちはイエスさまと共によみがえり、共に天の所に座っている!」と言って、その訴えを取り下げることができるのです。
 いつも話していますが、日本語は単数・複数が曖昧です。「ともに天の所」という所は、「天」も「所」も複数です。神が天をいくつ創造されたのかは、聖書は正確に記していませんが、悪魔は神が造られた「諸天」に、すべて何らかの窓口を持っている可能性があります。
 天がいくつあるのか分かりませんが、一、二、三、四、五とあったら、それらの天の窓口に、私たちの罪をいろいろ訴えるわけです。
 しかし私たちも、すべての天に勝利の座を設けていますから、すべての天の法廷で、訴状をキャンセルできるはずです。
 ヨブ記を見ますと、ヨブ記一章六節、

『ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。』

とあります。サタンが神の領域に来て、ヨブを訴えた記事があります。これは諸天の中で起こったことであると思われます。

 家に帰ってから読んでいただきたいと思いますが、第二歴代誌十章に不思議な事が記されています。南ユダの王ヨシャパテと北イスラエルのアハブが結託して、戦争を始めようとした時に、預言者たちにいろいろと聞いたわけです。
 しかしアハブ付きの宮廷預言者たちは、「王様!上って行ったら勝利します!」と王の意思に沿った預言をしたのです。しかしミカヤという預言者が出てきて、まさにその時刻に、天の会議でどんなことが起こっているのかを見抜いて、王に伝えたのです。王様はそれを聞いてあまり気分が良くなかったようです。しかしその後、その通りになっていくわけです。それは何かというと、第二歴代誌十八章二十節〜二十一節、

『それから、ひとりの霊が進み出て、主の前に立ち、『この私が彼を惑わします』と言いますと、主が彼に『どういうふうにやるのか』と尋ねられました。彼は答えました。『私が出て行き、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。』』

 「偽りの霊」とは、明らかに神に属する霊ではありません。しかし天の法廷では、偽りの霊が共にいて、宮廷預言者たちの口に働いて偽りを言わせる決定がなされていたのです。それにより、イスラエルは敗北していくわけです。
またゼカリヤ書三章を見ますと、大祭司ヨシュアがサタンに訴えられている光景をゼカリヤが見ています。
 このように聖書全体を見る時に、天の領域でサタンは告発者、ディアボロスとして働いています。我々を罪に定めて、地上で敗北させようと、いつも企んでいるということです。

 「サタンは諸天の諸法廷に管理人の罪を訴え、諸天で敗訴すると、その結果が地上に現れる。」という構図があるのです。しかし私たちが天の法廷で勝利を宣言し、勝訴するならば、地上でも勝利できるのです。
 諸天での告発をキャンセルする場所がどこであるかというと、他でもない「教会」です。教会が悪魔の訴えを取り下げる場所です。
 私たちがイエスさまをかしらとして、被造物全体をも巻き込んで、天で訴えている悪魔の諸力に対抗する時、勝利が地上に与えられるのです。

 先日、霊的戦い専門課程があったのですが、私は何を話したらいいのか、いろいろと考えていたのですが、その時、エペソ二章のことばが私の心に響いてきました。最近の礼拝でも語っていますが、ここから語ろうかな・・・、でも何か良い資料はないかなと考えていました。
 そうしたらある日のこと、私のiPadを誰かがいじって、YouTubeを見たみたいです。YouTubeは、観ている人の趣味の動画が自動的に出てきます。私はキリスト教関係のものをよく見ますから、そういうのが多く上がって来ます。ちょうどYouTubeが開かれていて、何気なく手が画面に当たりました。
 そうしたらあるアメリカの先生が語っているメッセージが再生され始めました。どんな内容かな、としばらく見たら、まさしく「天の法廷で勝利する」というメッセージが語られていました。ちょっとびっくりしました。今からそのYouTubeをみなさんにお見せしたいと思います。
 その先生はロバート・ヘンダーソンという先生ですが、その方がいくら祈っても祈っても、天井があって突き抜けないというか、様々な問題があって苦しんでいた時に、主が、「まず、天の法廷で勝利してから地上で戦え!」と語られたというのです。天で敗北しているのに、地上で霊的戦いをしてみても、なかなか勝利できない。けれども、天で勝訴した証明書を地上で悪魔に突きつけてやれ!と、そうしたら勝利する!と主から教えられたというのです。
 このメッセージ、英語ですが、字幕なのです。
 ネットにはこのような良い映像も流れていますが、危ないな・・・というのも同時に流れていますから気を付けないといけないです。聖書のみことばに根を下ろして語っているメッセージなら良いですが、それが薄いと危ないかもしれません。気をつけて下さい。
 今から、天の法廷で勝利するというメッセージをご覧いただきたいと思います。重要なメッセージだと思います。またその権限が教会にあるということです。キリストのからだに属し、それも人だけでなく、被造物も、宇宙規模の教会に属するものだということです。そこまでは語られていませんが、少し見ていただきたいと思います。



 なかなかすばらしいメッセージだと思うのですが、悪魔は私たちを天で訴えるのです。何を訴えるのかといったら、地上に生まれた人たちは全員、神さまからの使命をもらっています。ビデオでは、「destiny」と言われていましたが、宿命みたいな意味です。人は神から使命をもらって地上に生まれるけれど、時に、私たちは神から与えられた使命から外れて動いてしまうわけです。そうすると悪魔は、「こいつは使命を果たしていない」と天で訴えるというのです。
 しかしイエスさまはすでに十字架の血潮で、私たちの罪をすべて贖ってくださっていますから、罪を越えて、私たちは神の前に出て、天に座する者として、その訴えを却下する権限があるわけです。
 特にこの先生は、息子さんが使命から外れて、神さまのための働きもできなくなって、その結果鬱になって苦しんでいる時、息子さんは自分で祈ることができなかったので、父親として権限があるということで、とりなしの祈りで天の法廷に出たと語っていました。その時、回復が起こったのです。
 私たち一人ひとりは、神の前にとりなす者たちですから、誰かの代理人として法廷にも出ることができます。そして悪魔の訴えを却下することができるのです。

 人間の一番果たさなければならない使命は何なのか。やはり人とは「被造物の管理人として造られた」ということです。
 しかしそれを果たしていない。被造物に主をほめたたえろ!と宣言していない。それが大きな枠組みの中で、人を訴えるものではないかと私は思います。もちろん個人的なさまざまな罪とか、さまざまな要素もあります。しかし、それらは当然のこととして、同時に「人類全体の使命」を忘れているがゆえに、人類は天で訴えられている可能性が大です。
 しかし今私たちは教会を通して、それらの訴えを却下する権限を神さまは与えてくださっているわけです。

 エペソ人への手紙は教会に対して与えられたものです。『キリスト・イエスにおいて、共によみがえらせ、共に天の所に座らせてくださいました。』この「天の所」というのは複数です。すべての天の法廷において、私たちはよみがえりのイエスさまと共に座って、訴えを却下する権限が与えられています。
 今から聖餐式を行いますが、イエスさまの十字架と復活によって、この立場が与えられました。私たちは神の教会に属する者として、教会が、被造物全体も巻き込み、宇宙規模で霊的戦いを遂行するために、神が造られた地上の組織です。
 今日私たちは、この広大な教会に属する一人として、天の法廷に出て戦う者になりたいと願っています。

 みなさんの中で、「私は諸天で訴えられているかも?」とか、いくら祈っても解決できない問題があったら、この方法を、みことばの真理に則して試していただきたいと思います。一言お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ。父なる神さま、み名をあがめて心から感謝します。私たちは宇宙規模の広大な権威ある教会に属させていただいていることを感謝します。あなたがかしらとして、全ての被造物を従わせて教会は成り立っていることを感謝します。
 今日はこのような立場の中で、天の法廷に進み出て、私たちは祈ります。いくつ天があったとしても、我々はそのすべての天に座を設けている者であることを感謝します。
 今、そこで訴える者たち、悪魔とその組織たち、特に「天にいる諸々の悪霊ども」に挑戦します。悪魔よ、よく聞け!おまえたちは絶対に、私たちを諸天の法廷で訴えることはできない!今いかなる訴状が天で出されていたとしても、それらは無効であることを宣言します。敗北するのはおまえたちだ!私たちは天で勝訴します!その勝訴をこの地上にもたらす者として使ってください。
 今から聖餐式を行いますが、イエスさまが裂いてくださった肉体、流してくださった血潮、そして、よみがえりによって私たちも共によみがえさせられ、共に天の所に座らせてくださっていることを、心から感謝します。宇宙規模の神殿の中で、主を賛美する者として、今日の聖餐式を行わせてください。尊きイエスさまのみ名によって祈りをみ前におささげいたします。アーメン。