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「あなたにふさわしい礼拝をささげよう」

2019年4月28日(日)
新城教会牧師 四元雅也
ローマ人への手紙12章1節【新改訳2017】

『ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。』

 ハレルヤ!今日こうして皆さんの前でメッセージを取り次ぐ機会が与えられ、心から感謝します。
 昨日から十連休、ゴールデンウィークに入りましたが、みなさんどのようにお過ごしになるでしょうか。遊びに行ったり、帰省したり、海外に飛び出たり、いろいろ計画されている方がいらっしゃるかもしれません。今週は教会でも行事が予定されていて、そのためか今日は外部からもお客さまが来られています。私も教会の玄関先で来られた方に挨拶させていただいていましたが、何人か初めて教会に来たという方にも出会うことができて、嬉しく思っています。
 皆さん、この礼拝の後にでも周りを見回して、見かけない方がいらっしゃるなと思ったら、ぜひご挨拶して仲良くなって、ゆっくりと教会で一日過ごしていただければと思います。
 今日は交通の混雑もあるようでして、まだ到着していない方もいらっしゃるみたいですが、みなさんよくお越しくださいました。
 今日もいろんなプログラムがありますが、ぜひゆったりとお過ごしになっていただきたいと思います。

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 明後日から四十八時間の連鎖賛美が行われます。三十日の午後三時から始まって、そして二日の午後三時まで賛美がなされます。

 これは去年の一場面であります。多彩なプログラムも用意されています。山に登ったり、ガーデンプレイズやウォーキングプレイズ、年代別、子ども、外国人など、多くのプログラムが用意されています。また、先生方のメッセージも用意されていますので、ぜひ楽しみにしていただければと思います。

 この期間、マスコミなどでも連日報道されていますが、元号が変わり「平成最後の・・・」と、今年になってからずっと言われ続けております。連鎖賛美中に天皇の退位・即位がなされるということであります。
 これをクリスチャンとしてどのように受け止めて、日本のためにどんな祈りをささげることができるのか、ささげるべきであるのか、ということについて連鎖賛美の中でも語られ、祈るときがありますます。でも、今日の午後は教会の霊的戦いセミナーで瀧元望先生が講義してくださることになっています。クリスチャンとして必見ではないかと思いますので、ぜひともお時間を合わせてご参加いただきたいと思います。
 元号を使っているのは世界で日本だけだと言われていますが、昭和だった時代、私は明治生まれの人を、昔の人だなぁと思ったのですが、これから生まれる人は、令和時代になります。その人から見ると同じようにすごい古い世代の人だなと見られるわけです。
代替わりの持つ意味、そして聖書の教えている価値観から外れている闇の世界、祈って勝ち取っていかなければいけないものがあります。そのことについてぜひ学んでいただきたいと思います。

 そして今週末は遠足もあります。
 神さまがこの地に現されたリバイバルの軌跡、歴史を辿って、またリバイバルのために新たな扉が開かれるようにみんなでお祈りしながら、バスで巡っていきたいと思っています。

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 地図の一番上に書いてある、津具グリーンパークではみんなでバーベキューをして、そして青空の下で賛美をして、帰って来る、そういったプログラムになっています。行きたい方はぜひ今日申し込んでください。よろしくお願いします。
 来週の日曜日もゴールデンウィーク中になります。みなさん神さまを求めて、この期間にも主の前に出て行きたいと思います。

 話は変わりますが、僕の好きな話題です。先週は「はやぶさ2」が小惑星に弾丸を撃ち込み、人工クレーターを作りました。

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 人工クレーターの写真です。右ができる前、左ができた後です。世界初の快挙だそうです。小惑星に穴ぼこを作っただけのことで、何の役に立つのかなぁと思います。でもこういうので僕はときめいたりするのです。

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 それからもう一つ、四月十日にこんなのもありました。これも世界初の快挙だと言われていますが、ブラックホールを視覚的に捉えたということです。どんなふうに捉えたかというと地球規模の目を作って捉えたのです。

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 これは見る前にブラックホールをイメージしたイラストだそうですが、こんな感じだろうと思って見てみたら、オレンジのドーナッツのように見えたということであります。ブラックホールと言いますから、宇宙に開いた穴ぼこと思うかもしれないですが、一つの天体・球体であります。

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 ブラックホールを発見するために中心的な役割を果たした本間希樹という方です。国立天文台の教授で、彼が開発した方式だそうですが、地球大の目の玉みたいのを作ったのです。

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 こんなふうに世界中の電波望遠鏡をスーパーコンピューターでネットワークを組んで、あたかも地球大のレンズみたいのを作り、普通の光学的な望遠鏡ではなく、電波望遠鏡というパラボナアンテナを幾つもつなげて、五千五百万光年かなたのブラックホールを見た、これはM87銀河という所にあるそうです。私は宇宙戦艦ヤマトがジャストな年代なので、Mナンとかと聞くと、ときめいたりするわけです。
 五千五百万光年かなたにある地球大の目でないと見ることができないような天体。それも光を見ているのではなく、そこから発せられる電波を受けて見ているというのです。
 私たちの周りにはそれこそ無数に電波が飛んでいます。テレビの電波もあれば、携帯の電波もあれば、様々あるわけです。
 そのなかで、宇宙の四方八方から飛んでくる電波が、無数にある天体が放っている電波です。何光年、何百何千何万光年かなたから地球に到達する、本当に本当に微弱な小さな電波を大きなパラボラで増幅して、固有の電波だけを濾過抽出するのです。それで初めてこの目で見ることが可能になったのです。

 そこには人間が生きている限り持ち続けていくであろう、万物の不思議を読み解き理解したい!という願望、そして達成したときの喜びがあるわけです。

 これは、人間が神によって与えられた、また任された、被造物を管理していく役割、また特権であるわけです。
 私たちが何気なく使っている電気の灯りとか、このマイクも、服の材料である布、聖書の紙とか、眼鏡のレンズは、人間が過去の歴史の中で発見、発明して、私たちの生活に受け入れられ、便利なものとして存在しています。いろんな発明を人間はして、今私たちは用いています。

 ではブラックホールの発見、あるいは人工クレーターを作った、世界初の快挙といわれたことが、人間に何の役に立つのでしょうか。本間希樹氏をインタビューした記者が尋ねました。「世紀の大発見といいますが、これが何の役に立つのですか?」と。すると先生はふふっと笑って、こんなふうに答えました。「私たちがどこから来てここに存在するのか。という問いに対して回答をもたらすための一つのヒントが、この発見の中にあるかもしれない。」そう答えていました。私も聞きながら、「そうだ」と思いました。

 ブラックホールの存在は、今から百年前くらいにアインシュタインという人が予言して、「相対性理論によるとあるはずだ!」と言ったわけです。そんな時代に誰も見たこともなければ、イメージもない、でも計算によると宇宙にあるはずだと言ったわけです。
 それから百年間、世界中の物理学者や天文学者、科学者たちがこぞって存在が本当かどうか証明しよう、この目で確認しようとやってきました。その努力の結晶が、先ほどのぼんやりとしたオレンジ色の天体であるわけです。
 このことを見ると、この世界が科学によって解き明かすことができるような仕組みで成り立っている、ということに改めて感動します。
 科学とは人間が考え得る中で最も公正で、きちんと筋道の立った方法で万物を分析・解明して理解しようとするものです。科学を通して理解することができる、宇宙はそういうもの、統制のとれた秩序ある世界だと言うわけです。

 実は私たちが今住んでいる宇宙が始まった時に、いろんな物理法則が成り立って宇宙の形が決まっていったといわれています。その物理法則の変数がほんのちょっとだけずれただけでも、私たちが住めるような宇宙にはならなかったということが最近分かってきました。空間が保持できなくて壊れてしまうとか、重力の値が大きくなりすぎたりして、私たちの体を支えることができなくなってしまうとか、本当にとんでもないことになってしまうというのです。
 宇宙を支えている各要素が、どのくらいのバランスで調和が保たれて成り立っているのか、その調整値を数値で表すと、なんと十の六十三乗分の一という超きわどいバランスで微調整されて保たれているということになるそうです。

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 一の下にゼロが六十三個ですね。こんなきわどい微調整がされています。この十の六十三乗分の一が十の六十三乗分の二になっただけで、もう私たちはこの地に生きることができないということであります。
 ものすごい両側が断崖絶壁のナイフエッジの上でバランスを取っているようなものです。

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 どっちに落ちても死んでしまうという。絶妙のバランスが宇宙に私たちが存在するためには必要だったということです。

 あまりにもゼロが多すぎて実感が湧かないのです。

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分かりやすくすると、これはナンバーズという宝くじですが、数字を埋めていって百万円が当たるというものであります。

 一から九九九までの数字の中で一つが当たりのくじがありました。どの数字でも一つ選んでいい、一から九九九。ある数字を選びました。そうしたらなんと一発で当たりが出ました。
 それから同様な別のくじがあったのですが、それも一発で当たりました。またまた違うくじでもまた一発で当たりが出ました。そしてまた次も一回で当たりが出ました。そのようにして21連勝できたら、十の六十三乗分の一が当たったということなのです。
 途中一回でも外れたらリセット。始めからやり直しです。二十一連勝。三桁の数字で当たり二十一連勝できたらOKです。一回間違えたらやり直しです。
 二十一連勝できる人はなんと幸運なことか。やり続けて一生に一度当たるかどうか・・、いえいえとんでもない。一般的な宝くじの当選確率は数百万分の一と言われています。十の六乗分の一くらいですね。その宝くじであっても、やり続けても一等賞なんて一生当たらない人がほとんどなのです。十の六十三乗分の一というのは本当にありえない数字なのです。
 世界の七十億人全員が、このくじをずっと一生やり続けても決して大当りはないのです。一般的には十の二十乗分の一よりも小さな値は、確率の上で誰も目にすることができないほど小さな値、もう無視していい値だと言われているそうです。それが十の六十三乗分の一というのは、一体どんな値だろうかということになるのです。
 でもこのくじを二十一回連続して完璧に当てることができる人がいます。それはどんな人かというと、その当選番号を設定した人、知っている人だったら簡単にこれを当てることができるのです。二十一連勝することができます。この宇宙の成り立ちというのは偶然に片付けることはもはやできないのです。誰かが意図を持って、宇宙の物理法則を微調整した。だからこそ今我々が生きる世界というものが成り立っているということです。
 これは、神さまが造られた世界が、秩序ある世界として造られたということです。だからこそ、私たち人間が知恵を絞って、今回のブラックホールでもどのくらいの人が関わったか。それこそ天才と呼ばれるような人が何百人と関わっていると思います。ブラックホール、これがどんなにすごいのか僕の頭では到底想像も付かないのですが、見ることができました。
 宇宙が無秩序だったら絶対に見ることなんてできません。計算を頭の中でして、それで割り切れるからこそ、地球大の望遠鏡をあっちに向けたら見れるはずだ!と算段がついて、何十億か何百億か知りませんが、高い投資をして、見れなかったらとんでもないことですが、見れる!という確信があったから、やってみて、実際に確認できたということなのです。頭の中で割り切ることができる、そういったものがここにあるのです。
 はやぶさ2にしても地球から何億キロも飛び続けて、太陽の周りを回っている小惑星に辿りついて、地球と交信しながら惑星の周りを登ったり降りたり回ったりしながらデータを送り、命令を受けながら活動し、人工クレーターを作ることができる。どんな複雑な計算がなされているか見当も付かないです。でも人間が考えてやったことなのです。
神様は宇宙をとても調和のとれたものとして造られたのです。
 そうならば、こういうこともできるのです。宇宙ができた時に、初めから私たち人間が生まれることは計画されていた。私や、ここにいらっしゃるみなさんが生まれることも。
宇宙が始まった時に、神さまが「こういう宇宙にしよう!」と計画され、後の日に人間を誕生させて、この地球に住まわせて、いろんな業を行わせる。ある人は宇宙を観測したり、いろんなことをするわけですが、計画をした神さまがおられるということです。
 初めて教会に来られた方もいらっしゃると思いますが、神さまが確かにおられる証拠はこの世界を見る時に、いろんな所に散らばっているわけです。
 私たちはこの神さまがすばらしい方だ!良い方だ!ということを知ることができます。神さまによって、その計画の中で私たちは生まれ、生かされているのです。

 詩篇百三十九篇十三節〜十六節には、このようなみことばがあります。

『あなたこそ私の内臓を造り母の胎の内で私を組み立てられた方です。私は感謝します。あなたは私に奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいはそれをよく知っています。私が隠れた所で造られ地の深い所で織り上げられたとき私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られあなたの書物にすべてが記されました。私のために作られた日々がしかもその一日もないうちに。』

 現代になって、DNAが人間の設計図として存在していることが発見されましたが、この百三十九篇十五節はDNAのことではないか?という言う人もいます。『私が隠れた所で造られ地の深い所で織り上げられた』、そして、『すべてが記されました。』
 詩篇百三十九篇のこの節を見ても、私たちを造られた神さまがおられる、ここにいらっしゃるみなさんお一人お一人がその神さまによって素晴らしく造られている。とても美しく、そして価値ある存在として造られていることを知っていただきたいと思います。
 ここにおられるお一人お一人、神さまから愛されて生きているのです。どうかそのことを信じていただきたいなぁと思います。

 お隣の方に言ってください。「あなたは神さまの計画によってここにいるのですよ!」と。
 もう一つ、「あなたには神さまの良い計画がありますよ!」と言ってあげてください。聖書には、神さまは光であって、神には暗い所が一つもないと書いてあります。神さまの計画も、ここにいる私たちにとって光の計画であるということです。そのことをぜひ信じていただきたいと思います。

 前置きが長くなりましたが、先ほど読んでいただいた聖書のみことばをもう一度読んでみたいと思います。ローマ人への手紙十二章一節、

『ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。』

 これ、2017で先ほどもお読みしましたが、新改訳改訂第三版も読んでみたいと思います。

『そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。』

 いくつか違う点があります。上の聖句を見ますと、『あなたがたに勧めます。』これは下を見ると、『あなたがたにお願いします。』
 上を見ると、『神に喜ばれる、』とありますが、『神に受け入れられる、』。
 そして三番目、『あなたがたにふさわしい礼拝です。』と、『あなたがたの霊的な礼拝です。』こんなふうに書いてあります。
 2017になると言い回しが少しソフトになったりして、もう少し鋭く言ってほしい!と感じるところもあります。『霊的な礼拝です。』というとかっこいい感じがしますが、『ふさわしい礼拝です。』ん?ちょっと表現がやんわりされたような気がします。

 この聖句を見ると私たちの体を神に受け入れられる聖い生きた供え物としてささげる。分かりやすく言うと、神さまへの生け贄という意味です。神への生け贄として、体をささげなさい!なんかすごく強いことばになります。それが霊的な礼拝、体をささげるのが霊的な礼拝。なんか深い意味のありそうな言葉ですね。
 生け贄を屠ってささげるのは現代社会の中ではあまり見慣れないことです。近くにある神社で、今でも祭りの時に動物を生け贄にするような神社があると聞いたことがあります。
聖書の時代のイスラエル、ユダヤ、聖書の舞台となった場所では日常的に生け贄がささげられていました。この時代の人々にとって生け贄を見るのは、特別なことではありませんでした。
 ささげられたものは聖として神の前に出される。ここにあるようにです。だから当時の人にはこのみことばはぴんと来るところがあったと思います。

 先月末、ネパール宣教ツアーが持たれましたが、山の奥の先住民、文明文化からは隔離された世界に住んでいる方たちの所に私たちは毎年行って、そこで福音を伝えたり、医療の提供をしたり、さまざまなミッションをしているわけです。そのミッションの一つにフードミッション、今回はバーベキューミッションをやりましたが、そういった働きも毎回持たれています。
 今年は、ちょっと写真を出していただきたいと思いますが、これがフードミッションの食材でした。

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 ヤギです。生きたまま連れて来られて、みんなが見ている前で、大きな刀で首をばさっと。その場で血が注ぎ出され、解体されて肉になった。それが次の写真であります。

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 このようにいろんな部位に分けられて、後でバーベキューがされて、次の写真、このようにみなさんに提供されて、みんなで解体したヤギを食べたわけですよね。おいしくいただいた。

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 子どもたちも骨付き肉にしゃぶりついている。本当に美味しかった!と言っていました。

 巷で「食育」が流行っていますよね。食べ物を通していろいろと学ぼうと。生きているヤギをほふって解体して、そしてお肉にしてみんなで食べる。これは現代を生きる我々にとっては最高の食育ではないかなと思います。主が与えられた被造物を感謝してみんなで食べる。
 この新城教会には何人か狩人がいます。川に潜って魚を獲ったり、また山や野に行って山菜を採ったりとか、また木の中、土の中にいる虫を捕って食べたりとかですね。芋虫やセミも彼らの目にはごちそうに映るらしいです。これは今日午後から語ってくださる瀧元望先生のファミリーと、それに感化された一部の方たちはそういう文化を持っているわけです。私も時々いただきますが、刺身にしたり、干物にしたり、燻製にしたり、焼いたり、煮たり、贅沢ですね。

 先週は復活祭でしたね。イースターとか言われますが、我々は復活祭と言っています。これはイエスさまの復活をお祝いする日です。西暦紀元三十年頃ですが、イエス・キリストは十字架にかかられて、死んで三日後に復活なされました。この十字架の死は私たちの罪の身代わりとなって、イエスさまご自身が罪を背負われた。手足に釘を打たれて、頭にいばらの冠をかぶせられて、十字架に張りつけになって、死なれた。
 これらは私やみなさんの罪を贖う生け贄だった。イエスさまがご自身を生け贄とされて、私たちの身代わりとなって、この罪を贖う代価を払ってくれたのです。
 世間でも罪を犯すと裁判所から、「罰金いくら」とか、「実刑なになに」とか、そういった刑罰を受けなければならない。まして神様の前で罪を持った私たちは神の刑罰を受けなければならなかったのですが、その刑罰の代価を神の子であるイエスさまが身代わりになって払ってくださったのです。まさに命を賭しての生け贄、犠牲だったわけです。

 ヘブル人への手紙七章二十七節を見ますと、

『イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。』

 また同じヘブル人への手紙九章二十六節、

『もし同じだとしたら、世界の基が据えられたときから、何度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。』

 先ほどイスラエルで日常的に生け贄がささげられていたと申し上げましたが、これは繰り返し罪を犯す人間の罪を神の前であがないをし、神と和解して、罪を赦していただくための代価としてささげられていたものでした。
 しかし、動物の生け贄は不完全であったために、毎年毎年、また罪を犯す度にささげることが定められておりました。
 イエスさまは罪のないからだを自らささげてくださったことによって、ただ一回で私たちの贖いを完成してくださいました。だからイエス・キリストを信じる私たちは救われるのです。
 イエスさまは私たちの身代わりになったと言われましたので、その十字架の上で私たちが負うはずであった痛みとか苦しみとか、また神に捨てられた者としての絶望をその身に受けられたのです。そして死なれて三日後に死の力を打ち破って復活された、それが先週の日曜日、復活祭・イースターです。

 第一コリント十五章二十五節、この中で福音とは何かということについて『私があなた方に最も大切なこととして伝えたのはこのことです。すなわち、キリストは、私たちの罪のために死なれたこと、葬られたこと、そして、三日目によみがえられたこと。それからペテロに現れ、弟子たちに現れてご自分が活きておられることを明らかにされた。』と書かれています。これが事実であって、自分と深いつながりのある出来事である。二千年前に起きた知らない出来事ではなくて、神によって生かされている私自身と関係のある、私の罪を贖う力を持った出来事であることを認め受け入れる。それが私たちの信仰であります。
 そのようにイエスさまが自分を生け贄としてささげてくださった。そんなふうに聖書の中では見ることができるわけです。

 先ほどのことばに戻ると、ローマ人への手紙十二章一節の後半です。『あなたがたにふさわしい礼拝です。』と2017版では書かれていました。
 新改訳第三版では、『霊的な礼拝です。』と書かれていましたが、新改訳2017では第三版と違いがある場所に星印が打ってあって、先ほどお読みした時にも三箇所違う場所がありましたが、それぞれ紙の聖書を見ると、本文にアスタリスクが打ってあるわけです。そして欄外の注釈を見ると、「別訳として」とか、「あるいは」といった書き方で、この第三版の訳も並行して紹介されています。
 但しこの最後の『礼拝』という場所、この場所だけ、それとはまた違った訳が載っています。この三つの訳です。

・あなたがたにふさわしい礼拝です。
・あなたがたの霊的な礼拝です。
・あなたがたにとって理にかなった礼拝です。

 『あなたがたにふさわしい礼拝です。』と書かれていたその場所が、『あなたがたの霊的な礼拝です。』と、もう一つう、この2017の欄外注釈には、『あなたがたにとって理にかなった礼拝です。』と書いてあります。へぇ〜!と、なんかニュアンスが違うなぁと思い気になったので調べてみました。
 リビングバイブルを見てみるとこうなっています。

『愛する皆さん。そういうわけですから、あなたがたにお願いします。自分の体を神様にささげてください。それを、神様に喜んでいただける、生きた、きよい供え物としてください。神様がしてくださったことを思えば、これは、決してむりな注文ではないはずです。』

 また英語の聖書も見てみました。NIV(New International Version)という英語では一般的な聖書ですが、

『Therefore, I urge you, brothers, in view of God's mercy, to offer your bodies as living sacrifices, holy and pleasing to God--this is your spiritual (Or reasonable) act of worship.』

と書いてあります。これ、spiritualというのは、「霊的な」という意味でありますし、reasonableというのは「合理的な」、「理にかなった」と同じですね。二つ並記されているわけです。

 ちょっと古いKing James Version、これも今も用いられていますが、ここでは、

『I beseech you therefore, brethren, by the mercies of God, that ye present your bodies a living sacrifice, holy, acceptable unto God, which is your reasonable service.』

 「reasonable service」、これは「理にかなった礼拝」を取っているわけです。

 Reasonable「合理的」、またspiritual「霊的」と訳されている原語はどうなの?と見ると、ギリシャ語では、「ロジコス」という言葉であります。日本語に訳すと、やはり「合理的」、そして「霊的」です。

 ではどうこれを理解していったらいいのでしょうか。リビングバイブルの訳が参考になると思います。リビングバイブルは、原語の意味を汲み取って、より分かりやすく訳したものです。「イエスさまがしてくださったことを思えば無理な注文ではないでしょう。」とリビングバイブルには書いてありました。このことばを意味を更に掘り下げると、「イエスさまがまず十字架によって身をささげてくださいました。だからあなたがたが身をささげるということは無理な注文ではない。」ということです。すなわち「理にかなっている」ということですね。「あなたがたも自分の身をささげるのは理にかなっています。無茶な注文ではないのです。」そして身を捧げることが霊的な礼拝であるということです。
 私たちにとって理にかなった礼拝、そして霊的な礼拝が体をささげる=生け贄とする、ということだということが、これで分かっていただけるのではないかと思います。

 これが具体的に何かというと、ローマ人への手紙の十二章二節を見ると、こうあります。

『この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。』

 これを第三版で読みますと、

『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』

 「変えていただきなさい」か、「変えなさい」かという、そういう言い方の違いがあります。これは原語で見ると、メタモルフォーステという言葉でありますが、この言葉は受動態であります。「変えられる」というほうに近い言葉であります。
 だから2017のほうが、原語から言うと近いことになるわけですが、いずれにしても私たちの体を聖い生きた供え物としてささげる。それが霊的な礼拝で、具体的にどうだというと、この世と調子を合わせず、神のみこころは何か、何が良いことで、神に喜ばれ完全であるのかということをわきまえ知って、この世から私たちを聖く分けられた者として神の前に生きていくということが礼拝であるということなのです。
 礼拝というと、私たちはこの場所で日曜日の十時半から行われる、この時と空間に仕切られた行為が礼拝であると考えるかもしれませんが、このローマ人への手紙を見るとそうではないということです。
 実はそういった隔たりのない、私たちの人生そのもの、生活そのものに関わるものであることを言っているのだと分かります。
 私たちがこの世と調子を合わせずに、聖書に、神によって教えられた聖い歩み、みこころを知りそれを行う、神に喜ばれることを求めて歩むということ、そのような歩みをしていること、その歩みそのものが、神に自分をささげるということになる。そしてそれこそが神の前に受け入れられるふさわしい、理にかなった、そして霊的な礼拝であるということになります。
 本当にそのような歩みを私たちが神の前に歩む時に、イエスさまが先になしてくださった十字架の贖い、私たちの罪のためにご自身を犠牲にしてくださったという、その犠牲に応えることになります。
 私たちはこのことを求めて、神さまの前に歩んでいく者となっていきたいと思います。

 ロジコスと先ほどお読みした「合理的・霊的」という言葉ですが、この言葉の元々の言葉がどこから派生しているかというと、「ロゴス」という言葉です。クリスチャンの方は聞いたことのある言葉かもしれませんが、ロゴスは、「言葉」という意味です。
 ヨハネの福音書一章一節には、

『初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』

というみことばがありますが、この「ことば」ロゴスです。そしてロゴスが始めからあって、ロゴスが神と共にあって、ロゴスが神であったと言っているのはどういうことか。ロゴスがイエス・キリストを指している一つの暗示であるわけです。ことばがイエス・キリストを表しているのです。

 ロジコスという言葉が、聖書の中でもう一箇所だけ使われている箇所があってります。第一ペテロの手紙二章二節、2017版

『生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。』

 これを第三版で見ると、

『生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。』

 「霊の乳」と「みことばの乳」というふうに、また訳が違っています。ロジコスが、「合理的、霊的、魂に関する」と訳すことができるのですが、第三版ではこれをロゴスに結びつけて、「みことばの乳」と訳しているのです。本当にみことばが重要であるということを知ることができます。
 私たちが聖書のみことばを受け入れ従って歩む時、それが神への霊的な礼拝に繋がっていく。その歩みそのものが霊的な礼拝になっていくのです。そのことを見ることができるわけです。

 私たちはこの地上においてさまざまな働きをしております。この教会においてはリバイバルのための戦いが続けられており、順先生がリーダーとして、牧師先生方、ザワメキの働き、望先生のとりなしの働きであったり、いろんな先駆者の先生方がリバイバルのために戦っておられます。
 そして我々はまた祈りながら、それらを支えながら、それぞれご自分のこの地上におけるポジションにおいて役割を果たしながら、神の前に仕えています。どれが先んじていてなにが後方支援であるということは重要ではありません。
 地上において神の栄光を現すために私たちは生き、存在しており、それぞれが神さまの前で仕える心を持って、正しいことが何であるのかみことばを通して知り、また実行していく、そのような一人ひとりになっていきたいと思います。私のメッセージはこれで終わりにさせていただきたいと思います。

 それでは最後にお祈りを持って神さまの前に出ていきたいと思いますが、立ち上がれる方はお立ち上がりください。

 今日のメッセージに応答して、神さまの前に出ましょう。神さまは不思議なお方であります。この天地を造られ、また私たちを造られて、そして私たちがこの地上において、様々な働きをなすことを良しとされ、喜んでくださる神さまです。私たちは地上でときに思い悩みながら、苦しみながら、しかし一生懸命生きております。
 神様は日々の努力や歩みを決して無碍になさるようなお方ではありません。神によって造られている私たちは神によって愛されて、良いわざに励むようにと、神さまから与えられている計画があります。その計画に従い、またみことばに従って歩むことができるように神さまの前に決意を持って進み出ていきたいと思います。
 この地上においては戦いがありますけれども、どのような戦いの中でも主を見上げて、主を信頼して、勝利させていただくことができるように、今日、神さまの前にもう一度出て、献身の思いを持って祈る時を持ちたいと思います。

 ハレルヤ。天のお父さま。あなたは不思議なお方です。私たちの存在の根源であられることを感謝します。私たちは偶然、無秩序の中で刹那に生まれたものではなくて、イエスさまが宇宙を造られ計画に従ってこの命が与えられ、生きることができることを感謝します。
 私たちが存在している意味をお一人お一人が握りしめることができるように、今日もしも自分の存在価値を見いだしかねている方がいらっしゃるなら、どうかあなたの愛を持って、み手をもって触れてくださいますようにお願いいたします。
 また、一人ひとりが、神のみこころを知り、神の良いわざを知り、それを行う者となることができるように。私たちがこの地上にあって経験するさまざまな事に動揺したり、落ち込んだりすることがあったとしても、主よ、あなたに目を留めて、あなたご自身のみこころを知って、そして主よ立ちあがって前に進むことができますように。
 今日お一人お一人の上に神の豊かな祝福がありますように。またすべての悪しき力の権能から守ってくださいますように。主イエスさまのみ名を心から感謝してこの祈りをみ前におささげいたします。アーメン。