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「彼らに主の名をほめたたえさせよ!2019
 〜あなたのみこころゆえに〜」

2019年5月26日(日)
新城教会 主任牧師 滝元順
ヨハネの黙示録4章11節

『主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今のサラちゃんの演奏、素晴らしかったでしょう。彼女はミュージックシーン第一線で働いています。牧師の娘で、六人兄弟の一番上だそうです。なんとなく親しみを感じます。私は七人兄弟でしたから。
 教会は音楽が溢れています。最高の音楽の賜物は教会に与えています。今日は新城教会出身の三人のプロミュージシャンたちが演奏してくれました。

 みなさんのお祈りに支えられ、先週まで、北インドに行かせていただきました。
 遠い所でしたが、祈りを背後にひしひしと感じながら、働きを終えることができ、心から感謝します。

 『全世界に出て行き、すべての造られたものに福音を伝えなさい。』と聖書は告げています。しかし『全世界に出て行きすべての造られたもの』という、「もの」が「新改訳聖書」では漢字の「者」になっています。本来は、“Preach the good news to all creation.”です。すべての被造物に対して福音を伝えろという意味です。
 人とすべての被造物では、対象の範囲があまりにも違いすぎます。神は人を救って、次に、被造物全体に解放を宣言したいと願っておられます。それは私たちが神のみことばを正確に捉え、どう実行していくかにかかっているのです。
 全世界に出て行く時に、創造の偉大さを体験できます。

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 これは私が撮った写真ですが、綺麗でしょう?ヒマラヤ山脈の西の端です。ヒマラヤ山脈は、ご存じの通り、七千メートル以上の山々が続いています。ネパールに沿って山脈は続くのですが、西の端はどんなふうになっているだろう?と思っていたのですが、不思議な導きがあって、今回、訪れることが出来ました。

 神さまは地球に、数え切れないほどの被造物を創られました。何のために創造されたのかの理由が、ここに記されています。黙示録四章十一節、

『主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。』

 『みこころゆえに』と訳されていますので、神さまのこころって何だろう?と疑問に思います。しかし原文のギリシャ語を見ると、「みこころ」という単語は、「喜びのゆえに」とも訳すことができます。
 神さまがどうして、多くの被造物を造られたのか、それは神さまご自身が楽しむためです。被造物によって喜びを受けるために、万物を造られたのです。
 人が物を作る時だって同じです。人の喜びのゆえです。百円ショップに売っているアイテムでも、生活をサポートする品物ばかりです。神さまも同じです。ご自分の被造物は、喜びゆえに造られたのです。

 では、「喜びのゆえ」とは、具体的にどういうことでしょうか。それは、「創造されたすべての被造物を通して、神を賛美するオーケストラを編成された」ということです。
 すべての被造物は神を賛美する役割を持っています。今日ここにおられるお一人一人、神を賛美するオーケストラの一員です。
 あっ、光太君と愛満ちゃん、いますね。紹介しておきましょう。お立ち上がりください。ご結婚おめでとうございます!
 昨日結婚式を挙げられた彼らゆえに、今日はステージに花が飾ってあるのですが、これらも神を賛美するために造られました。ということは、すべては神によって造られ、その目的は神を賛美するためです。聖書はその事を初めから、人類に情報提供しているわけです。

 残念なことに現代のクリスチャンは、聖書の情報だけだと不安な人が多いようです。しかし今や、現代科学は、神がおられることを証明しています。
 時々、NHKなどで紹介されている、日系の理論物理学者がいるのですが、以前もこの人の動画を紹介したのですが、カク・ミチオという人物です。彼が最近、「人類学と文化研究の地球哲学協会」で行った講演の中で、こんな事を語っていました。

「人はある知的存在が創造した法の支配する世界に存在している、という結論に至った。ともかく偶然と呼ぶ一切のものは、もはや意味をなさない。神の存在こそがこの事を説明し得る。我々は宇宙的知的存在が創造し、形成した法によって支配されている、ある計画の中に存在しているのであって、偶然に存在しているのではない。これははっきりしている。」

 彼はクリスチャンではないと思います。しかし理論物理学を突き詰めていくと、万物には法則性があるのに気づいているわけです。「宇宙的知的存在」が支配しているのに違いないと結論づけているわけです。
 この宇宙は、知的存在、すなわち神が定めた「法」によって運営されているというのです。誰も揺るがすことのできない「法」によって動いているというのです。
 しかし本来、こんな情報はなくとも、聖書ははっきりと語っています。「神のみこころのゆえに、喜びのゆえに、万物は造られた。」と告げています。これで十分です。

 みなさん、神さまって、どこに住んでいるのかって、考えたことはありますか?神さまはどこにおられるのか?もちろん、私たちと共におられます。天地宇宙を造られた神が、私たちと共におられ、人類に期待し、愛して下さっているのです。なぜなら人類が立ちあがる時、被造物全体も解放されるからです。人がイエス・キリストを救い主として信じ、正しい立場に立つならば、他の被造物も正しい位置に着いて、被造物オーケストラが完成するのです。
 神は私たち人類に大きな期待を持っています。神はどこにおられるのでしょうか。見えたらいいなぁと時々思うのですが、聖書的に言って、神はどこにおられるのかを知ることは、たいへん重要です。

 神さまは天国におられるのではないですか?と言われるかもしれません。しかし、神の国、天国がどういうものかの理解は結構、曖昧です。「神の国」とは何か。それは、「神の支配」です。
 「神の国」の概念を調べると、ギリシャ語では「国」を、「バシレイヤ」というのですが、これは「バシレウス、王」という言葉から造られた言葉です。ゆえに神の国とは、「王の支配」、「王の支配が及ぶ領域」という意味になります。
 「神の国」、「天国」「み国」という用語を使いますが、真の意味は、「神の支配」です。
 ということは、「今まで支配が及ばなかった領域に、神の支配が及ぶ」というのが、神の国の概念です。

 今回私たちは、カングラ砦に行きました。ここはどういう場所かというと、かつてギリシャという国は小さな国でしたが、そこにアレキサンダーという王が生まれて、彼は東のほうに攻めて行きました。どこまで攻め込んだのかというと、その支配はインドにまで達しました。彼はインドを越えて、アジア全体にその支配を広げたかったのです。しかしカングラ砦の王がアレキサンダーの東進をくい止めたのです。それで歴史は大きく変わりました。

 神の国の基本的概念も同じです。神の支配が及ばなかった領域に支配を広げるという概念です。
 ということは、「神の国」=「天国」=「神の住まい」と考えてしまうのですが、アレキサンダー大王にはギリシャという本拠地があったように、神が支配を拡大する「本拠地」があるわけです。
 ということは、「神さまは天国におられますよ。」と言うのですが、実は、神さまはご自分の本拠地を持っておられるのです。それが何かを、今日はお話をさせていただきたいと思います。

 黙示録四章を読みますと、一つの言葉に心が留まります。みなさんで読んでみたいと思うのですが、黙示録四章一節〜十一節です。どういう言葉が多用されているかと言いますと、「み座」という言葉が多く出てきます。
 今から私が読みますので、「み座」という言葉がいくつ出てくるのか、数えていただきたいと思います。

4:1 その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」
4:2 たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、
4:3 その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。
4:4 また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。
4:5 御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。
4:6 御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。
4:7 第一の生き物は、獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった。
4:8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」
4:9 また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、
4:10 二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
4:11 「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

 「み座」という言葉が、何回出ていましたか。「十三回」出てきます。

 「み座」という場所は、神が住んでおられる場所です。「み座」とは「王座」とも訳すことができるのですが、神が着座されている座です。
 神はどこに住んでおられるのか?それはみ座におられるということです。み座から、ご自分の支配を拡大しておられるのです。
 天国とは何か、神が支配されている領域を神の国と呼びます。では神がおられる本拠地はどこか、それは「み座」、「王座」にあるのです。
 神の王座がどのようになっているか、四章の中に出ていました。

 み座の周りには、四つの生き物がいます。鷲の顔、獅子の顔、雄牛の顔、人の顔をした生物で、目がいっぱいついています。また、その周りには二十四人の長老たちが座っていて、さらにその周りに無数の天使たちが賛美しています。千の幾千倍、万の幾万倍というような天使たちです。み座とは、ちょっと想像できませんが、「賛美が満ち溢れている場所」なのです。
 四つの生物とは、様々な解釈があるのですが、「すべての生き物の代表」という意味があるそうです。動物たちの代表であったり、鳥たちの代表であったり、家畜たちの代表であったり、また人を代表していたり、すべての生き物の代表がみ座の周りを取り囲み、二十四人の長老たち、無数の天使たちが、日夜賛美している場所、それがみ座であり、神の住まいです。
 神はそのような本拠地を持って、そこからの支配をすべての領域に広げようとされているのです。

 そして、被造物には一つのテーマがあります。それは「み座を喜ばせる」というテーマで、そのために、すべての被造物は造られたのです。

 同時に「み座」には、もう一つの役割があることも分かります。それは、「さばきの座」という役割です。
 詩篇九篇七節、

『しかし、主はとこしえに御座に着き、さばきのためにご自身の王座を堅く立てられた。』

 最近私は、天の法廷について話をしていますが、諸天に悪霊どもがいて、神のみ前にいろいろ訴えるみたいです。しかし最終的な判決は、どこから出るのか。天の最高裁判所とも言える場所はどこなのかというと「み座」です。「み座」から判決が下るのです。そしてその判決は、誰も覆すことは出来ません。

 悪魔は、み座に訴えることができるみたいです。では、なぜ訴える事が出来るのかです。悪魔はみ座にまで来て、様々な訴えをします。その結果、み座から判決が出るわけです。なぜ神はこんなことをなされるのか?と、疑問に思います。
 神は、別にみ座から人を裁いたり、環境を変えたりしなくてもいいのではないか?と思うのですが、神が何のために被造物を造られたのかの意味を知ると、なぜ、み座から判決が下されるのかの理由が分かります。

 本来「み座」は、全被造物の賛美が集中する場所です。しかし全被造物の賛美が集中する場所でなければならないみ座が、今は、どうでしょうか。地球からもたらされる音楽は、神を賛美する音楽ではなくて、悪魔を賛美していたり、人を賛美していたりと、その音は、神のみ前にはブーイングのようにしか聞こえていないはずです。
 神は全被造物の賛美を調和させたいと願っているけれど、調和したハーモニーを聴くことができない、耳を覆いたくなるような音ばかりが神の前に届いているはずです。しかしそれは絶対に変えなければならないはずです。変えるためには、どうしたらいいのでしょうか。どこに原因があるのか?
 前回、聖書の中の代表的な人物、「ヨブとダビデ」を対比させてお話をさせていただきました。ヨブという人物は神の前に何の欠点もない人物でした。しかし天で悪魔に訴えられ、判決が出て、地上では大変な目に遭いました。
 しかしもう一人の人物、ダビデは、彼はイスラエルの王ですが、彼の人生を見ると、大きな失敗をしたりしています。しかしイスラエルの歴史の中で、ダビデ王の時代ほど、繁栄した時代はありませんでした。今でも、イスラエルに行きますと、ダビデは英雄です。なぜヨブが英雄にならずに、ダビデなんだ?という感じです。聖書を読んでいても、ちょっと疑問になるところです。

 ヨブとダビデは「人とは何者なのでしょう」という、同じ疑問を発しているのですが、その結論は違っていたのです。ダビデは「人とは何者なのか」という問いかけをして、受け取った答えは詩篇八篇四節〜六節です。

『人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。』

 ダビデは「人とは被造物の管理人」だと気づきました。ヨブも同様の発言をしているのですが、ヨブ記七章十七節、

『人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは。』

 しかし彼の理解は、ヨブ記七章十六節、

『私はいのちをいといます。私はいつまでも生きたくありません。私にかまわないでください。私の日々はむなしいものです。』

 同じ問いに対して、両者は異なった結論を持っていました。
 なぜヨブが天で訴えられたのかの理由を、前回もお話をしましたが、三十八章から神がヨブに告げている理由は、彼が被造物の管理人である事に気づいていなかった点を責められています。
 人が被造物の管理人であることを知るのは、本当に大きなことです。案外私たちは、「自分と神さまとの関係」は重要視するのですが、「人の役割」に関して気づいていないのです。

 ヨブは自分と神との関係においては、完璧な人でした。しかしながら、被造物の管理に関しては、全く気づいていませんでした。
 ダビデは失敗や荒っぽい所があったものの、自分の存在がどういうものかをよく知っていました。そして、賛美について良く理解していた人物でした。ゆえに、彼は人生に勝利したと言えるのではないでしょうか。
 人の存在意義とは、本来は被造物の管理人です。しかしその仕事を怠っているのです。それが誰によってレポートされるのでしょうか。悪魔によってみ座にレポートされるわけです。悪魔の訴えが合法ならば、み座からの判決が出されるのです。
 判決が下ったら、人はヨブのように深く考えます。「自分は、被造物全体に関して配慮しなければならない存在だったんだ!」と気づかされ、その結果、み座の判決が変わるのです。
 天で悪魔が訴える事柄は、合法的な訴えです。「彼らは被造物を管理していない!」と、悪魔が神にレポートするならば、神はそれを改善しなければならないわけです。改善させるための判決文が、地上に降りてくるということです。

 特に悪魔は、管理人としての立場が回復した、クリスチャンを訴えます。その結果、主の民がさまざまな試練の中で練られ、聖められて、「人とは何者なのか」をはっきり理解するならば、このサイクルの中、今までみ座に届いていた、不協和音がだんだんと心地の良い和音に変わって行くはずです。
 そして最終的に、み座が賛美で満たされる時に、イエスさまは地上に帰って来られるのでしょう。

 「霊的戦い、とりなし、そして、クリスチャン生活の究極的な目的は何か?」それは「み座を賛美で満たすため」です。
 神はみ座を賛美で満たすために、「ご自分の喜びゆえに」万物を造られたのですから、人が果たさなければならない役割は、賛美してない領域に出て行って、それらに主の名をほめたたえさせる役割です。その働きは人類にとって、本来、欠かすことができない、重要な使命であるのです。
 なぜならば、やがてイエスさまが帰って来られた時、すごい賛美集会が計画されているからです。黙示録五章十三節、

『また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」』

 すべての生き物が、み座に座る方を賛美する日が来るのです。私たちはその日に向けて働いているのです。
 「人生の目的とは何ですか?」と聞かれたら、「み座を賛美で満たすため」に、私たちはこの地に遣わされているのです。
 いろいろな問題が解決に向かっているとは、何を意味するのか。それは、み座が賛美で満たされることにつながるのです。

 私たちは、み座が賛美で満たされていない状態を「改善するため」に存在しているのです。み座の賛美の拡大というゴールを意識してすべての働きを進めるならば、天の判決は変わるはずです。
 すべての訴えは、人が被造物の管理を怠っている点に集約されます。この事に関しての判決が地上に、様々な形で反映される可能性が高いのです。

 私たちが主をほめたたえる時、み座に座る二十四人の長老や、万軍のみ使いたちに連なって主をほめたたえる!そして、未だに賛美していない領域を賛美させるために働く!それが人生の大きな目的です。今回私は、北インドに行かせていただき感じたことは、私たちはみ座を賛美で満たすために存在しているということでした。
 神が造られた雄大なヒマラヤ山脈も、それらが神々にされて拝まれています。石でも木でも、動物でも、すべての被造物を神として人が拝んでいる姿を見て、本当に神は悲しんでおられると感じました。
 しかし、私たちクリスチャンが出て行って、彼らに主の名をほめたたえさせるように宣言するようになったら、み座は賛美で満たされます。目的は果たされるのです。

 「神さまはどこにおられますか?」と聞かれたら、「み座におられます」と答えて下さい。「主はみ座におられる」という賛美をしますが、結構、ぼやけています。主はどこにおられるのか。もちろん私たちと共におられるのですが、神さまの本拠地、王座、み座があることを知って、そこを賛美で満たすために、我々は存在しているということを是非とも、知っていただきたいと思います。

 今週は、神が座っておられるみ座を意識して、四つの生き物と、二十四人の長老たちと、無数の天使たち、三位一体なる神がおられる、そのみ座を意識して歩みたいと思います。
 最後に一言、お祈りをさせていただきます。

 ハレルヤ、天の父なる神さま。み名をあがめます。あなたはみ座におられるお方です。私たちの人生は、み座におられる子羊イエスさま、聖霊さま、父なる神さま、三位一体なる神さまを礼拝する為にあります。み座を賛美で満たすために、私たちを使ってください。イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。