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「彼らに主の名をほめたたえさせよ!2019
〜ひとつになって共に住む幸せ〜 

  • 2019年10月27日(日)

新城教会主任牧師 滝元順
詩篇133篇

『見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。』

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。ご無沙汰しています。一ヶ月ぶりに皆さんの前で語らせていただけますことを、心から感謝しています。「仲一バンド」がグロリアシンガーズの「ひとつの道」を演奏して下さいました。本当に感動しました。私の青春時代の歌です。彼らが受け継いでくれているのは、たいへん嬉しいです。

 先ほど、みことばを読んでいただいたのですが、『見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。』とあります。
 ここに「兄弟」という言葉が出てくるのですが、これは実際の兄弟という意味もあるのですが、同時に、「主にある兄弟・姉妹」という意味もあるわけです。そこには「教会」という意味があります。教会とは、共に集まり、共に主を礼拝し、喜びが溢れる場所です。
 古代のイスラエルにおいて、人々は安息日には必ず、神の宮に集まり、主を礼拝していました。それはどういう考えに基づいていたのかに関して、以前にお話しさせていただきました。

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 彼らは「神の宮、神殿」は、「特殊空間」だと考えていました。日本人にも多少、それに似通った考え方があります。ある空間や場所に行くと、なんとなく気分わるいとか、暗い雰囲気の森だとか、ちょっと気味が悪いなという感覚があります。
 しかし西洋的世界観で言えば、「空間はすべて同質」であるという考えです。けれども、古代イスラエルの人たちは、神の宮は特殊空間だと考えていました。
 そこは、「天が下りてきて、地、すなわち人に接する場所」であると考えていました。天とは、神が住んでおられる場所ですが、神が下りてきて、人と出会ってくれる空間が「神殿」であると、彼らは信じていました。

 同時に、神が降りてくる「神の時」があって、この時に神殿に行けば、神が下りて来て、人と会ってくれると信じていました。それが「安息日」でした。
 私たちは毎週、日曜日に集まっていますが、これは主がよみがえられた日を記念して集まるものです。しかしある意味この概念は、古代イスラエルの人たちが持っていた概念を土台としています。
 今日、私たちは神の宮に集まりました。ここは「特殊空間」です。そしてここには「神の時」があります。日曜日の朝十時半、新城教会ではそのように決めています。インターナショナル礼拝では、午後の四時からです。その時、会堂は特殊空間となり、主が下りて来られるのです。天と地が出会う場、これが教会の基本的役割です。

 弟子たちはこの基本的概念を持ちつつ、その空間を外に持ち出して行ったというのです。彼らはイエスさまのよみがえり後も、神の宮に集まり、共に礼拝し、同時に、自分たちの働きが、人々が神と出会う時であり、場であると考えていたのです。
 先日も紹介した、N.T.ライトが、こんなことを述べています。

“イエスは神殿を何よりも天と地が出会う場所であり、そこで重要なことが成される場であると考えていた。
 ところが現代のクリスチャンの多くは、神殿は壮大な教会のような建造物に過ぎないと考えている。礼拝の場であることは確かであるが、小宇宙、つまり天と地が非常に小さな空間でまとめられた世界の縮図であるとは理解していない。
 初期のクリスチャンたちは神殿に集まり礼拝を続けていたが、自分たちの新しいムーブメント自体が、ある意味、新しい神殿であると考えていた。”

 この概念をしっかりと理解し、受け取ったらすばらしいですよね。日曜日、朝早くから集まるのは、ちょっと大変だと思うかもしれませんが、この概念を知るならば、教会って本当に大切です。

 同時に、私たち自身が神の宮として行動できるなら、皆さん方の住む家も、会社も、学校も、ある時は病室だって、神殿に変えることができるはずです。
 今日はインターネットでも多くの方々が、礼拝に出られています。新城教会のインターネットサービスは、新城教会に関係している方々にのみ、パスワードをお知らせして、参加していただく形式です。毎週、何十人もの方々が、同時刻に世界中で礼拝を守っておられます。今、インターネットで見ておられる、その空間が、神殿であり、神の時となるのです。

 古代のイスラエルの人たちの世界観が分からないと、現代人は、信仰を見失うというわけです。
 いろんなことがあった時、その場が神殿としての特殊空間であり、天と地が出会う場となり、主が祈りを聞いてくださるという、信仰に立つことができたら、どんなにか幸いでしょう。それと共に、

『見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。』

というのです。集まった者達が「心を一つにする」と、さらに、すばらしい祝福があるのです。どのような祝福があるのかというと、

『それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。』

とあります。神の宮に、私たちが心を一つにして集う時に、「油が注がれる」のです。
 古代イスラエルにおいては、王になる時とか、権威を受け取る時は、神の霊が下る象徴として、オリーブ油を頭に注ぎました。
 ここには「アロンに注がれた油」とありますが、アロンとは、「大祭司」といって、イスラエル全体を代表して神の前に出る、重要な存在でした。
 祭司の中にも階級があって、「大祭司、祭司、レビ人」が神殿で仕えていました。しかし大祭司とは、イスラエル十二部族の代表として、罪と汚れを、すべて神の前に悔い改めることができ、年に一度、実際に神と出会うために会見の天幕の中に入って、神の前に直接出る役割を持っていました。

 実は、この祭司としての役割は、イエスさまの十字架と復活によって、信じる者たちすべてに与えられたのです。それを専門用語で言うと、「万人祭司」といいますが、祭司となり、神との仲介に立つ事ができるようになったのです。それがイエスさまの十字架の勝利です。
 今日、私たちクリスチャンが持っている油そそぎは、祭司として、神の前にとりなし祈る役割が与えられています。
 だから様々なことがあった時、私たちは祭司としての役割がありますから、神の前に出て、とりなし、祈ることができるのです。

 同時に、『兄弟たちが一つになって共に住む』という、その中に「一致」がある時、「祭司」が「大祭司」、すべての民を代表する、大祭司としての油そそぎとなるのです。
 アロンの上にそそがれた油が、アロンはひげを生やしていたようですが、頭からひげに流れて、衣の裾にまで流れる様子を、詩篇百三十三篇は描写しています。

 いろいろな試練がある時、聖書は何と告げているのかというと、第一ペテロ五章九節に、

『堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。』

 ここにも「兄弟」という言葉が出てまいります。様々な問題が起った時、両面を考えなければいけないと思います。その一面は人間としての営みの中で、人は肉体を持っていますから、いつかは終わりがくるわけです。
 しかし同時に、堅く信仰に立って「悪魔に立ち向う」という視点も持たなければいけないわけです。
 第一ペテロ五章九節の前後を読んでいきますと、こんなふうに記されています。
 五章七節〜十節ですが、まず第一に、

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』

 これはすべてに対する前提であると思います。様々なことがあったら、自分で抱え込むのではなく、いっさいを「主にゆだねろ」と勧めています。様々な問題があったら、全てを主に丸投げするのが前提です。
 そして次に勧められていることが、

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。』

 様々な問題があったら、主にすべてをゆだね、同時に、悪魔に立ち向わないと負けてしまいます。なぜならば、様々な不幸の背後に、暗闇の力が働いている事実を、聖書は示唆しているからです。
 「サタン」とは、以前にもお話ししましたが、ギリシャ語では「ディアボロス」と言います。その意味は、「中傷者、告発者」という意味です。神に告発する者だというわけです。ここに、『あなたがたの敵である悪魔が、』と記されていますが、「敵」という言葉が、どういう意味であるのかもお話しさせていただきました。「敵」とは、「アンチデコス」、「訴訟を起こす者」という意味であるというのです。天で訴訟が起ると、地に様々な問題が起こる可能性があることを示唆するわけです。

 去年から、主が一つのことを私たちに教えて下さっています。それは何かと言えば、我々は「被造物の管理人」であると言うことです。ならば、神が造った被造物はすべて管理の対象となるということです。
 我々が取り戻すことができないと考える、時間とか空間に関しても、今や、物理学の世界では、物質であることが分かってきています。神が造られた被造物であるわけです。

 去年もお話しさせていただいたのですが、第二列王記二十章に、ヒゼキヤという王様が出てきます。彼は癌になりました。そして「あなたはもう命がのこっていません!死ぬ準備をしてください。」とイザヤに言われたわけです。しかしこの時に、ヒゼキヤ王は何をしたのか。彼が持っていた地位も、名誉も、何もかもかなぐり捨てて、神の前に出て、鼻と涙でぐちゃぐちゃになって、「神さま助けてください!私の命を助けてください!」と、命乞いをしました。そうしたら神さまが、「十五年、齢を延ばしてあげますよ!」と告げられ、なんと寿命が十五年延びたのです。

 極限の状態に追い込まれても、クリスチャンにはまだ、希望が残されています。神の宮に来て、主の前に出て、真剣に叫んで主に祈るという手が残されています。私たちは神の前に出て、真剣に祈ることができます。そして、皆が心を一つにして、一つのテーマを祈る時に、神は祈りを聞いて下さるのです。

 その時にどんな奇跡が起こったのか。それは影が十度、瞬間的に後戻りしたという奇跡です。これは以前にもお話ししたように、「時間が戻った」ことを意味します。聖書を見ますと、時間が止まるとか、時間が瞬間的に未来に移動するとか、時間が過去に戻るという奇跡がレポートされています。
 それも、神が一方的に起こした奇跡というよりも、『預言者イザヤが主に祈ると、』とあるように、イザヤの祈りによって、時間が過去にバックしているのです。
 去年、この箇所から話をした時、この教会に来ている一人の兄弟の時計のガラスが割れていたのが、直ってしまうという信じられない奇跡が起きました。その時、主がその方に、「ガラスが割れる前の状態にまで戻しておきましたよ。」と語られたと聞きました。
 第一に、ヒゼキヤ王様のように、まずは神の前に出て真剣に、涙を流して祈る事です。続いて、「立ち向かう」という領域が残されています。
 しかし、それが「心を一つにして」とりなし、祈る時に起こるということです。

 二週間ほど、アメリカで奉仕がありました。そんな中、いろいろと主から教えられました。
 まずは人生って不思議だと思いました。今回のアメリカ奉仕のすべてのきっかけは、今から三十年前にまで遡ります。以前に何度もお話しさせていただきましたが、綾子ビラップスさんとの出会いがきっかけでした。

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 当時、新城教会の建築委員会の方々と共に、ロサンジェルスの成長した教会を視察に行きました。その帰りにハワイに立ち寄り、ハワイから日本に帰る途中、機内で彼女と出会いました。綾子さんは日本に短期宣教に行く途中でした。
 しかし彼女が日本に旅立つ一日前、彼女はメインランドの病院から電話を受け取ったそうです。「あなたの息子が危篤です。すぐに病院に来て下さい!」という電話でした。
 どうでしょうか。息子が死にそうだから、「病院に来い!」というメッセージが届いたら、息子と日本のどちらを選ぶでしょうか?そんなの選択の余地は、まったくないですよね。すぐに息子の所に飛んでいくと思います。
 しかし彼女、その時、神さまの前に出て祈ったそうです。「神さま、どうしたらいいですか。息子が死にかけています。息子のところに行った方がいいですか。それとも日本に行ったほうがいいですか。どちらを選択したらいいですか。」と祈ったら、主がこう語られたそうです。
 「息子のことはわたしに任せなさい。日本に行きなさい。明日、飛行機に乗ると、重要な出会いがあります。よく祈ってから飛行機に乗りなさい」と語られたというのです。それを信じて、日本に旅立つ決断をしたそうです。
 翌日彼女は緊張して、祈りつつ、飛行機に乗り込んだそうです。
 今でも忘れることができないのですが、大韓航空の機内でした。綾子さんは、飛行機に乗り込むと、すぐにまわりをキョロキョロ見回したそうです。けれども神々しい神の人に見える人物は、どこにも見当たらなかったそうです。斜め前の席には、白いパンツに青いアロハシャツ、パンチパーマをかけている、変な男が座っていたそうです。その人物は問題外でした。
 神さまに、「昨日の言葉は何だったのでしょう?」と祈り始めたら、斜め前の変な男が、黒い表紙の本を取りだして読んでいました。よく見ると、それは聖書だったというわけです。それでも信用出来ずに、すぐに読むのをやめるだろうと思ったら、その男、一時間、二時間と、ずっと読み続けていたのです。それでも信用できなかったそうです。
 「神さま、この男、聖書を読んでいますが、まさかこの男ではないですよねぇ?」と二時間くらい太平洋上で私を見ながら祈っていたら、「そうだ。この男だ。彼に話しかけろ!」と語られて、それが私で、会話が始まりました。
 その出会いがきっかけとなって、彼女を通して新城教会に聖霊について教えられ、やがて、聖霊の働きが始まりました。
 そして今回、タコマの竹内先生の教会で奉仕させていただいたのですが、彼女とのつながりで、竹内先生とも出会いました。また当時、綾子さんが通っていたタコマの教会の副牧師がジョーハイト先生でした。今では、その息子のピアスとヤエは結婚しましたから、ハイト家と滝元家は親戚になりました。私はいつもヤエに言います。「俺が飛行機の中で聖書を読んでいなかったら、おまえはピアスとは結婚出来なかったぞ!感謝しろよ!」と言います。あの日、機内で聖書を読んでいた偶然のような行動が、こんなにも広がりました。
 当時、新城教会にいろいろな問題があって、本当に心が暗くなっていました。「日本に戻ったら、また、新たな戦いが始まるなぁ、嫌だなぁ」と思いながら、暗い思いで私は神のみことばを慕い求めて祈っていました。
 しかしその日、大きな出会いがあり、三十年も経って、こんなに広がったのです。案外、最悪の時って、裏を返せば「大チャンス」じゃないかと思います。私の人生、六十八年の経験の中から言える教訓です。

 今回、ヤキマでの働きをさせていただいたのですが、ジョー先生と一緒に牧会しているジョン牧師がいるのですが、ここにも来てくださった背の高い先生です。彼はカナダ人ですが、アメリカ人の奧さんをもらって、アメリカで生活しています。ジョー先生の教会で、今や、中心的な働きをしています。

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 彼はどういう場所に住んでいるのかというと、「大草原の大きな家」に住んでいます。超でかい家です。今回、このジョン先生の家で祈ってほしいと頼まれました。そのとき、ちょっとしたセミナーもやってほしいというのです。
 何をやったらいいのかなと思っていたら、家に着くと、この地域の人たちとか、結構、大勢集まっていてびっくりしました。そして、全員が深刻な顔をしているわけです。どうしてかというと、今年の四月くらいのことらしいのですが、実はジョン先生の家に、四人組の強盗が押し入ったからです。全員、銃で武装して、大きなナイフを持って押し入ったというのです。
 そして外にいた、スティーブン君という中学生の息子を捕まえて、頭に銃を突きつけて、拉致したのです。スティーブンはピストルを突きつけられたまま、連れて行かれたというのです。そしてジョン先生にもナイフと銃が突きつけられて、本当に危機一髪の状態だったそうです。
 なんとこの四人組、前日に四人を殺害し、その日の朝、二人を殺して、その後、ジョン先生の家に来たのです。もう絶体絶命!
 しかし一家は助かったのです。どうして助かったのかというと、事件の起きる一週間くらい前、奧さんが祈りの中で主から、「家族の守りのためにとりなして祈れ!」と語られたそうです。「特に、地域の悪しき力に対抗して祈れ!」と語られたそうです。地域の問題とつながり、何か悪い事件が起きそうな予感がして、真剣に祈らされたというのです。
 そして事件が起きる前夜、家族で一つの映画を見たというのです。どんな映画を見たのかというと、テロリストたちに拉致され、銃を突きつけられ、殺される寸前の家族が、騒がず、冷静に行動したことにより、テロリストたちが発砲せずに家族が助かったというDVDを見たというのです。それを家族全員で見たそうです。
 スティーブンはまだ中学生です。銃を突きつけられ、犯人に首を掴まれ、トラックの荷台に引きずり込まれたけれど、騒がなかったそうです。静かにしていたというのです。
 ジョン先生も騒がないで、落ち着いて、犯人と交渉をしたというのです。犯人たちは逃走用に、車を要求したそうですが、奧さんは小さなトラックの鍵を持ってきたそうですが、ジョン先生は、性能の良い車に変えてあげたそうです。本当に、聖霊によって落ち着いて対応出来たそうです。それで発砲せず、スティーブンだけを乗せて車は発車したというのです。
 しかしスティーブンは、隙を見て飛び降りて助かったのです。
 ちょっとでも、誰かの行動がおかしかったら、全員殺されていたのです。この犯人たちはすでに六人殺していて、簡単に人を殺す連中でした。そして、この四人組の犯人グループは全員、原住民、インディアンたちでした。
 しかし主が、突然の出来事の中にあっても、ちゃんと助けを用意してくれていたのです。

 しかしこの事件を考える時、何か霊的なものがあると感じるから、「ぜひ、順、なにか感じることがあったら語ってくれ。」と言うのです。私は主に祈りながら、語ったのですが、アメリカには悲しい歴史があります。元々、アメリカ大陸は、インディアンの人たちの土地でした。そこに白人たちが入ってきたわけです。
 1492年、コロンブスがアメリカ大陸を発見したと言われます。コロンブスはアメリカ大陸を発見する気は全くありませんでした。彼はインドに行きたかったのです。当時、喜望峰を回って、インドに行く航路しかなかったので、地球は丸いから、逆回りをすればもっと早くインドに着けると彼は考えました。当時、世界地図にアメリカ大陸はありませんでしたから、インドにすぐ着くと考えていたみたいです。それで西回りに進んで行くと、大陸と出会いました。彼はてっきりインドに着いた!と喜んだそうです。そこに住んでいた人々の肌の色も黒っぽいから、「インディアン」と呼んだわけです。
 やがてこの大陸に白人たちが、ヨーロッパから銃で武装して入って来ました。そして原住民のインディアンたちを捕まえ、殺し、やがて彼らを、「インディアンリザベーション」と呼ばれる特別な地域に閉じ込めたのです。
 この青い箇所ですが、全米にあるインディアンたちを押し込める場所です。「ここ以外には住んではいけない!」と条約を結び、閉じ込め、現代に至っています。

 ヤキマには大きなインディアンリザベーションがあります。インディアンの部族は多くあるのですが、ここには十二の部族からなるインディアンたちが押し込めているというのです。
 そこに現在、どういうことが起こっているのかというと、部族抗争が頻発しているそうです。十二もの部族は、元々、対立していたから各部族が出来たわけです。それを一緒にして、狭い場所に押し込んだ為に、様々な事件がインディアンたちの間で起こっているのです。
 そしてジョン先生の家は、インディアンリザベーションのただ中にあるのです。少数の白人たちが、インディアンたちから土地を借りて、ミント工場をやっています。インディアンたちは、リザベーション内の自治権を持っています。ゆえにインディアン同士の問題には、アメリカのFBIも、あまり深くは関与しないというのです。そこでは頻繁に人が消える事件が起きるというのです。特に、女性が姿を消すというのです。どこに行ったのか分からないそうです。誰がやったのか、インディアンの人たちは怖いので、犯人を知っていても絶対に何も言わないそうです。
 唯一、リザベーション内の事件について証言できるのは、リザベーション内に住んでいる白人たちだけだそうです。FBIに事件を報告できるのは、白人だけだから、白人が狙われるわけです。そういう所には住みたくないですよね。
 アメリカは銃社会で、銃が溢れています。ジョン先生も銃を多く持っています。「日頃から、何かあったときのために、家族で打ち合わせをしていたの?」と聞くと、「していなかった。事件後にした。」と話していましたが、本当に怖い所に住んでいるわけです。
 この地域の白人たちが集まって、口々に、「ここから出ていきたい。」と言っていました。そりゃぁそうですよね。でも、彼らも生きる為のビジネスがその中にありますから、複雑です。

 どうしてこういうことが起こっているのか、問題の原点について、皆で考え、祈りました。
 実はこの地域は、かつてワラワラという場所で、インディアン部族とアメリカ政府との間で条約が結ばれて、リザベーションが出来ました。アメリカ政府は「おまえたちはこのリザベーションに入れ!分かったか?」『はい、分かりました。』と、インディアンたちは屈服したのです。様々な部族の人たちが1カ所に押し込められ、住むようになったわけです。全く一致がない、抗争を繰り返していた部族たちが、狭い地域に住むようになったわけです。ゆえに何が起きたのかと言えば、インディアンの間の抗争と事件が溢れ、地域には強い恐れが満ちているのです。これは現代のインディアンたちの住居です。非常に貧しい地域です。

 インディアンたちは、悪霊との取引の方法や、「神の宮の逆バージョン空間」をよく理解しています。彼らは悪霊どもを土地に招くテクニックに長けています。彼らは土地が生き物である事をよく知っています。生き物だから手なずければ、人々を攻撃する武器にもなることを知っています。
 彼らは、リザベーション内で秘密の儀式をやっています。土地の真ん中で、悪霊どもを降ろす儀式を頻繁にやっています。土地には悪霊が下りて来て、人々に襲いかかる現実があるわけです。
 例えば、犬を訓練して、武器として使い、「白人に襲いかかれ!」と命じたら襲いかかるのと同じように、土地を手なずけたら、武器として、白人たちを苦しめることが出来る!と考えています。インディアン戦争は、現代も継続中です。
 どうしてこういうことが起こっているのかといったら、まずは、この土地に侵入した白人たちが、不平等条約を強制的にインディアンに結ばせたからです。「共に住む」のではなく、「分裂」というテーマの条約が結ばれたのです。

 しかし今日を生きるクリスチャンたちが、その罪を悔い改めて、「兄弟たちが共に住む幸せ」に置き換え、土地との和解を宣言する時、地域も変わっていくのではないでしょうか、という話を私はさせていただきました。
 それに応答して、地域の白人たちが集まり、「過去に、自分たちの祖先が犯した罪を赦してください。インディアンを差別し、殺し、いやしめた罪を赦してください。土地と和解します!被造物すべてが味方となりますように!」と、皆で、真剣にとりなして祈ることができました。
 本当にすばらしい祈祷会となり、感動しました。

 私たちが「共に住む」のか、それとも「分裂して戦いながら住むのか」で、全く、その後の歴史が変わるのです。今日のみことばにありますように、「兄弟が共に一つになって住む」ことは、教会だけではなく、世界に対してもどうしても必要な条件です。辿れば、問題はアダムとエバから始まっています。
 「共に住む」というみことばを実現していくならば、すばらしい神の業が広がっていくはずです。私たちはそれを信じます。
 様々な事件が起こった時は、皆で心を一つにして、「共に住む」みことばを宣言し、祈っていきたいと強く願わされています。
 ジョン先生の住むインディアンリザベーションの中に住む人たちが集まって、心を一つにして祈る機会が与えられたのは、たいへんすばらしいことでした。

 そんな中で一つのみことばが、私の心の中に浮かんできました。それが詩篇三十四篇一節〜七節、

『私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください。」この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、主はすべての苦しみから彼を救われた。主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。』

 今回、神の前に出て祈った時、詩篇三十四篇を語ってくださったような気がしています。ここで強調されているのは、『私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。』と、「共に」とあります。私たちが共に、心を一つにして、主をほめたたえる時に、主がすべての恐怖から解放してくださり、私たちの顔をはずかしめで終えるのではなく、解放し、すべての苦しみから救われるという事です。

 『主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。』天使たち派遣され、私たちを助けると、ここに約束されていますね。ですから私たちはこのみことばを、実行したいと思います。
 「共に主をほめたたえる」、「賛美と祈りは表裏一体」です。詩篇を見たら分かります。主への賛美は、同時に、神に対する祈りでもあります。今、私たちは、被造物すべてが主をほめたたえるようにと導かれています。人だけではなく、被造世界すべてを含んで、共に、主をあがめ賛美する時、主は助けを与えてくださるのではないでしょうか。

『私をすべての恐怖から救い出してくださった。彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください。」この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、主はすべての苦しみから彼を救われた。主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。』

 このみことばを実行させていただきたいと、強く願っています。これはただ個人のことよりも、教会全体に共通することであると思っています。今日お話しさせていただいた課題に関しても、是非とも、祈りに加えていただきたいと願っています。
 兄弟たちが一つになって共に住む時、大祭司アロンにそそがれた油そそぎが与えられ、それが裾をつたわって全土に、ヘルモン山におりる露として象徴されているのですが、すべての所に祝福が及ぶことを、私は切に願っています。

 最後に皆さんと一緒にお祈りをして、聖餐式に預かりたいと思います。聖餐式には、「共に」というテーマがあります。ルカの福音書二十二章十九節〜二十節、

『それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。』

 イエスさまが十字架にかかって、肉を裂かれて、血を流されたのは、一人のためではなくて、世界中の人たちに共有され、被造物全体に共有される祝福です。
 ですから、聖餐式とは、「私たちは共に住んでますよ!」と、「共に主の食卓にあずかっています。」という宣言です。今日は同じ物を食べ、同じ物を飲みます。これは「共に住む」象徴です。「兄弟たちが一つになって共に住む」という行為は、聖餐式の中に現されていると信じます。今日の聖餐式を通して、共に住む祝福が共有されるよう、願ってやみません。
 最後に一言お祈りして、聖餐式に移らせていただきます。

 ハレルヤ、父なる神さま。み名をあがめて心から感謝します。今日、私たちは、「兄弟たちが一つになって共に住む」という祝福について学びました。感謝します。
 今日私たちは心を一つにして、神の宮で主を賛美して、主に祈っています。今日この空間は、あなたが準備された特殊な神の宮の空間です。そして今日は、神の時が訪れています。皆が心を一つにして、共に住んでいます。この中で共有する祝福をお与えください。
 あなたが私たちに分け与えてくださった聖餐を、心から感謝いたします。このパンは聖霊によって、みことばによって、イエスさま、あなたの肉であることを宣言します。またぶどうのジュースは、あなたの流してくださった血であることを、高らかに宣言します。
 皆が一つとなって主の前に出ています。大祭司の油そそぎをいただくことが出来ますように。あなたの奇跡を、この教会の中に始めてください。すべての悪い時間が止まり、過去に戻り、割れる前の状況に戻してください。すべての兄弟姉妹に、このことが起きますようお願いいたします。
 聖霊さま、あなたを歓迎します。イエスさま、あなたのみ名によって、父なる神さまに通じることができて感謝いたします。三位一体なる主がここにおられます。今からの聖餐式を祝してください。主イエスさまの名前によって、み前にお祈り致します。アーメン。