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2020カウントダウン・ワーシップ

  • 2019年12月31日(火)

岡本信弘
「新しい決断」

 ハレルヤ! 主のみ名を心から賛美します。ここに立つのは二番か三番がいいと思っていたのですが、くじで一番になりました。この一年もあっとういう間に過ぎてきましたが、こうして二〇一九年最後の日に、元気でこの場所に立たせていただけることを主に感謝し、またいつも祈って支えてくださった皆さんにも心から感謝を申し上げます。
 二〇一九年のために私に与えられたみことばは、コリント人への手紙 第一 二章九節でした。

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

いつもこのみことばを心に留めてきましたけれども、個人的にもこの教会においても、新しい扉が開かれ、思いもよらない新しい出来事がたくさん起こった年であったように思います。
 個人的には、息子と娘のところにそれぞれ孫が生まれ、孫が三人になって本当ににぎやかになり忙しくなりましたが、大きな恵みです。
 またプレイズ出版におきましては、社名を「プレイズ」と変更し、先ほど映像に出ましたが、十月には一階がシャロームの事業所、二階がプレイズの事務所となった新しい社屋ができ、新たなスタートを切ることができました。
 それ以外にもたくさんの恵みがあり、今日もその一つひとつを思い返し、恵みを与え導いてくださった主を覚え、心から感謝しました。

 そういう中で祈り、来年に向けて、私がどのように過ごしていったらいいか、どのように進んでいったらいいか祈っているなかで与えられた二〇二〇年に対するみことばは、ルカによる福音書五章四〜五節です。

『話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、綱をおろして魚をとりなさい。」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」』

 皆さんもよくご存じのみことばであると思います。
 この前の章、ルカの福音書四章を見ますと、イエスさまが荒野で悪魔の試みにあわれ、その誘惑を退けられ打ち勝ち、ガリラヤ地方において本格的な宣教活動を始められ、力強い業を現されたことが記されています。イエスさまの教えを多くの人が聞き、また奇蹟を見ました。そして、五章一節には、ゲネサレ湖の岸辺に立っておられるイエスのところに群衆が押し迫ってきたと書かれています。
 十年もたてば、建物や周りの環境は大きく変わるものですが、イスラエルには二千年たった今も、昔もこのままだっただろうなぁと思われるような場所がたくさん残っています。私はイスラエルに何度か行かせていただきましたが、ゲネサレ(ガリラヤ)湖も、そのような場所の一つだと思います。
その岸辺には小舟が二そうあり、群衆が押し迫っているような状況の中でも、漁師たちは、『舟から降りて網を洗っていた』のです。イエスさまは、そのうちの一つのシモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼み、舟から群衆を教えられました。
 ここに出てくるシモンという人は、この時初めてイエスさまに出会ったわけではありません。悪魔の試みにあわれ勝利し会堂で教え始められた後、イエスさまはシモンの家に行っています。そこにはシモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんでおり、イエスさまは人々の願いに応じて、その枕もとで熱をしかりつけられました。するとすぐに熱が引き、彼女はすぐに立ち上がってもてなし始めたのです。また、多くの病人が連れてこられましたが、イエスさまは一人ひとりに手を置いて癒されたのです。その数々の奇跡を、シモンは見ていたわけです。
 群衆がイエスさまのところに押し迫ってくるような状況の中でも関心を持たず、おかまいなしに自分の仕事を淡々としているようなシモン。その様子を見て、イエスさまは、あえてシモンの持ち舟の中で新しい奇蹟を行おうとしたわけです。

 イエスさまは、陸から少し漕ぎ出したところで、群衆に向かってメッセージをしました。話が終わった後でイエスさまはシモンに、『深みに漕ぎ出して、綱をおろして魚をとりなさい』と言われました。単に、「網をおろしてみなさい」と言ったのではなく、「綱をおろして、魚をとりなさい」とおっしゃったのです。それを聞いたシモンはどう思ったでしょう。一瞬迷ったと思います。魚をとることは、シモン生活そのものであり、得意分野であり、漁に関しての知識もあり、譲れないところであったと思います。しかし、そこにイエスさまは介入されたのです。
 このように言われたのは昼間でした。彼は考えたと思います。魚が捕れる時間帯は夜中から朝で、その日も夜通し網をおろしていたのに、何一つとれなかったのです。「こんな時間に網をおろしても魚が捕れるはずがない。私たちプロがやっても一匹も捕れなかった。そんな日に、今さら網をおろしても無理に決まってるじゃないか。あり得ない」と彼は思ったことでしょう。しかも、すでに漁師たちは、舟から降りて網を洗っていたのです。ということは、もうその日は諦めて、次の日の準備をしていたわけです。
 そのような中で、もう一度舟を出して網をおろすというのは、彼らにとってとてもリスクがあります。せっかく洗っていた網をもう一度洗わなきゃいけないし、片付けなくてはいけないし。そんなとれるかとれないか分からないような状況で、網をおろすなんてばからしいことだと思ったかもしれません。
 一方でプロである漁師が、一晩中やっても魚が一匹もとれなかったということで、「何故とれなかったのか」と、失望があったと思います。

皆さんは困った時、問題にぶつかった時にどうしますか? 私はプレイズでビジネスをさせていただいていますが、時々、納品先を間違って送ってしまったり、印刷物にミスがあって、印刷し直さなければならなかったり、といった問題が起こったりします。そんな時にまず祈りながら考えるのは、どうやったらその問題を最小限に食い止めて、お客さまに迷惑がかからないようにできるか、ということです。どのようにしたら問題を解決できるか、即座の判断が要求されることが多々あります。ビジネスにおいては、知識や経験が大いに関係してくると思いますし、ビジネスマンの技量もあると思います。
クリスチャンであっても問題は起こります。人生には、どうしたらいいのだろう、どうにもならない、というように、行き詰まりを感じる時があると思います。時にイエスさまは、私たちに対して、自分たちの限界を知らせるために、神に頼ることを教えるために、試練を与えられることもあります。
 シモンも自信を喪失し、ある意味、限界を感じていたかもしれません。しかしシモンは、イエスさまが奇蹟を行われたのをたくさん見てきました。ですから、「絶対無理だ」という状況の中でも、「先生が言われるなら、やってみよう。何か起きるかもしれない」という期待があったと思います。その期待が、「でも」という言葉に込められていると思います。
 私がこのルカの福音書四章、五章を読んでいて、いちばん心に留まったのは、この「でも」という言葉です。私だったら何と答えていたかなと考えました。きっと、「一晩中やったの『だから』、今さらやっても無駄『だから』嫌です」と、言ったと思います。皆さんは何と答えられますか?
イエスさまに言われて、どのくらいの時間がたってから答えたのかは分かりませんが、ルカ五章五節でシモンはこのように言っています。

『するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」』

シモンが今までの自分の経験、自分の知識、そういったものをフル回転させても、魚は一匹も捕れませんでした。しかし半信半疑ながら、イエスさまが言った言葉に対して、『でもおことばどおり、網をおろしてみましょう』と答えて網をおろしました。そして従った結果はどうであったかというと、『たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった』とあるように、たくさんの魚を獲得することができたのです。
 
エレミヤ書三十三章二~三節には、このように書かれています。

『地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』

 シモンが経験や知識では得ることのできなかった、今まで考えもつかなかった理解を越えた大いなることが起きたのです。
 それと同じように、私たちにも、神さまによって、考えもつかなかったようなことが現されるということです。

皆さんはイエスさまを信じ、イエスさまのみことばに従いたいと願っていますね。今晩、私のあとに六人の先生方がメッセージをし、また明日は新年礼拝でもみことばを頂きます。また皆さんが日々聖書を読んでいる中でも、みことばを頂くと思います。
 皆さんは、頂いたみことばを本当に自分のものとしていますか。「素晴らしいみことばだ! 信じて進みたい!」と思いながら、従えない自分がいて、「なんて不信仰なんだろう」と思うことがあります。シモンは、強い信仰の持ち主だったのでしょうか。そうではありません。この『でも』という言葉は、不信仰を表している部分でもあります。絶対に信じていたら、「先生、そうですよね! 今私は先生の言ったとおり、網をすぐにおろします!」と言ったと思うのですが、『でもおことばどおり』と言ったところを見ると、不信仰とまではいかないまでも、半信半疑で網をおろしたと思います。しかし、この時、網をおろさなかったら魚はとれなかったし、神さまの業を見ることもありませんでした。それは、理解をはるかに越えたことでした。
 皆さんも、みことばを頂いても、それを信じ切れない時があるかもしれません。なんて自分は不信仰なのだろうと思う時があるかもしれません。そんな時、「『でも』信じてみます」と、私たちが一歩踏み出す時、主はそれに答えてくださいます。「あなたは完全に百パーセント信じなかったじゃないか。だから私はあなたの願いどおりにはしない」とは言われません。私たちが、「どうだろうか」、「大丈夫かな」と思いながらも、「イエスさま、従います! やってみます!」と一歩前に進むならば、主が約束どおりに祝福してくださいます。

 二〇二〇年、皆さんの人生においても、さまざまな問題や試練にぶつかることがあるかもしれません。でもどんな時にも私たちが信じている神さまは、皆さんを見捨てることはありませんし、また見離すこともありません。今がどうであれ、神さまは百パーセント皆さんの祈りをちゃんと聞いて、時が来たら必ず応えてくださる方であることを覚えてください。

私たちには明日のことは分かりません。しかしイエスさまは、私たち一人ひとりにどのように進んでいったらいいかという道しるべを与え、導いてくださいます。それを教えるのは、「みことば」です。ですから、今私たちに必要なことの一つは、みことばを蓄えることです。二千年前は、イエスさまが直接、シモンに対し「深みに漕ぎ出して魚をとりなさい」と言われましたが、今は、イエスさまがあなたの前に現れて直接語ってくださるわけではありません。しかし、助け主である聖霊さまを通し、みことばによって「右に行きなさい。左に行きなさい」と、私たちの行くべき方向を示してくださいます。
 少し前までは、分厚い聖書を持ち歩いていたので大変でしたが、今では、スマホで簡単に聖書が読める時代です。私も新改訳第三版と新改訳2017の二つの聖書を入れていて、スマホで読んでいます。ただ、最近になって思うのですが、検索もできるしコピーもできて便利になった反面、昔は聖書を読んでいる時、「あのみことばは、あのページの右上だった、とか、あのあたりだった」と覚えていたのですが、そういうことがなくなり、いつでも調べられるので、覚えるという意識が希薄になった気がします。
 皆さん、どうですか? 「あのみことば、どこにあったっけ? どんなみことばだっけ?」と調べたくても、スマホの電池が切れて見られない。「今必要なのに」といった状況の中で、「みことばが出てこない」というようなことにならないように、みことばをぜひ覚えて蓄えておきましょう。

『ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。』(ヤコブの手紙一章二十一~二十二節)

 自分の経験ではあり得ないようなことを体験したシモンは、イエスさまから『これから後、あなたは人間をとるようになるのです』との召しを受け、何もかも捨ててイエスさまに従うという、ペテロとしての新しい生き方をスタートさせました。人生の方向性が変わったのです。

 主は、シモンに語られたように私たち一人ひとりにも『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい』と語っておられます。それぞれに、主から語られている深みがあると思います。人によって、深みがどこにあるかは違います。皆さんにとっての深みは何でしょうか。私たちが主の前に出て祈る時、主が出ていくべきところを教えてくださいます。自分では難しいと思っても、主がしなさいと語られたことを、半信半疑で信仰も持てないようなところがあるかもしれませんが、『でもおことばどおり、網をおろしてみましょう』と、主に従い一歩踏み出す時に、主が約束どおり、多くの収穫を与えてくださると信じています。

二〇二〇年、主の語られることに耳を傾け、深みに漕ぎ出し、示されたことに従い、多くの魂を獲得して、主のもとに喜び勇んで持っていきたいと心から願います。


公畑フェルナンド師
「祈り信頼しましょう」

 ハレルヤ!感謝します。私が二〇二〇年のために受け取ったみことばは、詩篇五十五篇十六節〜十七節です。

『私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる。夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。』

 二〇一九年を迎えたとき、やっと祈りが聞かれる年になると期待していた方もいらっしゃるかと思います。その祈りは、一度ならず、一ヶ月間だけのものではなく、長いこと祈っていたものだったかもしれません。

 ある時に、アメリカのクリスチャンの本屋さんに行ったとき、一つの壁かけが目に入りました。そこには“Pray more, Worry less”と書いてありました。その意味は、「もっと祈れ、心配は減る。」という意味です。
 神さまはその壁掛けのみことばを通して、私に多くのことを語られました。私はすでにたくさん祈っていましたが、しかし神さまは、「もっと祈りなさい、信頼しなさい」と言われます。もっと祈れば私たちの心配は減るのです。これが神を信頼するということです。
 ですから、あなたがもしも、しばらく自分の祈りの答えが来ていないなと思っているのであれば、今日、主はあなたにこう言われます。「祈り続けなさい。」「信頼し続けなさい。」それもたくさん、と。

 祈りとは何でしょうか?たくさん信頼するとはどのような意味でしょうか?祈りとは、単純に神さまと話をすることです。神さまと交わりを持つことです。神さまに自分の状況を自分の言葉で打ち明けることです。また一日のうちのいつでも、どんな場所でもできるのです。なぜなら神さまはいつでも私たちの祈りを待っておられるからです。それが祈りです。

 詩篇五十五篇十七節、

『夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。』

 この聖書個所はたくさん祈るという意味をよく説明していると思います。朝、昼、夕方、夜、明日、毎日、毎週、毎月祈るのです。これはたくさん祈ることを意味します。たくさん神さまに信頼するということを意味します。
 イエスさまは祈りの力を体験されました。神さまに多くの信頼をおいていました。またそれをご自分の弟子たちに話し、またそれを今晩私たちに見せようとしておられます。そしてその祈りの祝福がどんなものか私たちに伝えたいと願っておられます。

 それをイエスさまは一つのたとえ話で説明しています。あきらめないやもめのお話です。ルカ十八章一節〜八節、

『いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。」主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

 ここで学ぶことは、タオルを投げるしかない状況の時、希望を失い、気落ちし、何も起きなくて失望しているときでも、まだやることがたくさん残っているということです。
 ここには一人のやもめが登場します。このやもめは助けが必要でした。彼女を心配する人が必要でした。彼女には大きな必要がありました。彼女は繰り返しそれを要求し続けました。なぜあきらめず要求し続けたのでしょうか?彼女には確信があったのです。裁判官に要求し続ければ、最後には聞いてくれるという確信です。
 ですからあなたが、「でも神さまはもうわかっているでしょう、もう祈りましたから。」と言うときでも、しつこく、何回も繰り返して祈ってください。何回も何回も繰り返し祈って、最後に自分の望みを受け取るまで続けてください。それこそこのやもめがしたことなのです!

 第一ヨハネ五章十四節〜十五節、

『何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。』

 このやもめには戦う相手がいました。そして神さまはあなたにも戦う相手がいることをご存じです。もしその戦う相手というのが病気であるなら、神さまはいやすことができます。なぜならそれがみこころだからです。
 もしもあなたの戦う相手が、うまくいっていない夫婦問題であるなら、神さまにその家庭が修復されて子どもたちとの関係が回復されるように祈ってください。それこそ神さまのみこころだからです。
 もし苦しみや悲しみ、孤独の中で生きているなら、また罪の生活をしているなら、信頼して神さまに助けをお願いすることができます。なぜなら神さまのみこころというのは、あなたがそれから自由になることだからです。
 そして神さまは私たちの祈りを聞いていると言ってくださっています。あなたの戦う相手が神さまより大きいと信じてはいけません。神さまは私たちを祝福するために働いておられるからです。

 もしこの神さまを知らない裁判官でも、このやもめの要求に応えたとしたら、私たちは子どもであるので、子どもたちのために父である神さまが応えないことがあるでしょうか?もしあなたが神の子であるなら、あなたのために神さまが与えないことがあるでしょうか。あなたが信頼して神さまに祈っているのに。それもたくさん祈っているのに、与えないことがあるでしょうか

 七節にはこう書いてあります。『選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。』と書いてあります。神さまは二〇二〇年、あなたに祈りの答えを与えたいと思っていらっしゃいます。
 あなたはもしかしたら、今元気をなくしているかもしれません。タオルを投げる状態かもしれません。祈り続けましょう。
 神さまは完全なるみこころの中であなたに応えたいと願っておられます。それによって、あなたと神さまとの関係を特別なものにしたいと願っておられます。

 そして八節では、イエスさまは弟子たちの質問に答えています。神さまは正しい裁きをしてくださると書いてあります。あなたが祈る時、神さまとの関係を保っています。交わりがあります。それらをたくさん行うことで、もっと神さまを知ることができます。そして神さまを理解することができるようになります。神さまと時間を過ごすうちに、神さまをもっと愛するようになります。あなたが神さまをもっと愛するようになると、祈りの答えは自分にとって二の次になります。なぜならその答えがどんなものであろうと、YESでもNOであっても、あなたは神さまを信じ続けるからです。あなたの信仰が成長し、あなたの信仰が強くされるからです。
 これこそたくさん祈ることの目的であり、あなたと神との関係が成長し強固になるためのものなのです。
エレミヤ書二十九章十節〜十一節、

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐主の御告げ‐‐それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。』

 イエスさまは弟子たちにこのやもめのたとえ話をしただけではなく、ご自分を手本にして、今日私たちに語っておられます。祈りのあふれた人生や、神さまに大きな信頼を持つことをただ語られただけでなく、ご自分の人生の中でそれらを実践して見せてくださいました。そして父である神さまとの親密な関係を築き上げられました。
 イエスさまが実践できたのであれば、私たちもそれを実践することができるのです。

 神さまは私たちが祈り続けるように励ましておられます。タオルを投げないように、打ち負かされることがないように、希望を失わないように望まれています。
 祈りの答えがなく何年か過ぎると、何も起らなくて、どうしてかなと思う時もあるかもしれませんが、神さまはあなたの祈りを聞いておられるのです。

 あなたの祈りが一体どこに行っているかということをお教えしたいと思います。黙示録五章八節、

『彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。』

 あなたは、たくさん祈ったけれど何も起こらなかったと信じているかもしれませんが、実はあなたの祈りは、天の金の鉢を満たしているのです。たぶんこの鉢はとてつもなく大きいので、まだこれを満たし続ける必要があるかもしれません。

 神さまは二〇二〇年、日本人も、インターナショナル部会も、教会として、祈りによって求め続けることを願っておられます。そして神の完全なみこころに従って祈りを答えてくださることを私たちが信頼することを望まれておられます。



上條実師

 ハレルヤ!二〇一九年は様々な出来事がありましたが、皆様のお祈りによって支えられています事を心から感謝します。
 
 私が二〇二〇年のために与えられたみことばは、マルコ六章四十五節~五十二節です。

『それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。夕方になったころ、舟は湖の真ん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。』

 今お読みいたしました四十五節の始めに、『それからすぐに、』と書かれています。それは、イエスキリストがなされた有名な奇跡、「五つのパンと二匹の魚」のところを指しています。この奇蹟は各福音書に書かれていますが、ヨハネの福音書六章九節、

『「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」』

とあります。少年が持っていた弁当「大麦のパンを五つと小さい魚二匹」から、男だけで五千人の人々に食べさせて、満足させ、更に十二のかごにいっぱいになったという、不思議な奇跡です。その「五つのパンと小さな二匹の魚」が一人分のお弁当だとしたらとしたら、五千人ということは、五つのパンが二万五千個のパンに、また二匹の魚が一万匹もの魚に増えたという奇跡です。またある人は、女性と子どもを含めると二万人くらいの人々がいたのではといっています。二万人としたら、パンが十万個になり、そして二匹の魚が四万匹にもなったという奇跡をイエス様が起こされました。ヨハネの福音書六章七節

『ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」』

ピリポは少なくとっても二百デナリでも足りないと言っています。一デナリは一日の日当だと言われていますから、日当一万円と換算しても二百万円でも足らないパンだと言っています。考えると本当にすごい奇跡です。少年が持っていた五つのパンが、十万個に増えたという奇跡が行われました。

 その後さきほど読んだマルコ六章四十五節~四十六節

『それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。』

と書かれています。イエス様はなぜか群衆よりも先に、弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、ガリラヤ湖の向こう岸であるペッサイダに行きなさいと出かけさせ、イエス様お一人で約二万人の人々を解散させられたのです。普通考えれば、弟子たちが解散させて、イエス様は一人去って山のほうに向かうならばわかるのですが、群衆よりも強いて弟子たちを舟でベツサイダに行かせたのです。これには大きなイエス様の意図があったと読み取ることができます。

その後弟子たちはどのようになったでしょうか?四十八節

『イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。』

夕方弟子たちは舟に乗って出かけ、ガリラヤ湖は周囲五十三キロメートル、南北に二十一キロメートル、東西に十三キロメートルの大きさだそうです。夕方向こう岸のベツサイダに行けと言われました。しかしイエスさまが夜中の三時頃見たら、まだ必死に風に悩まされて漕ぎあぐねていたというのです。

 当時の夜中の三時というのは現在の午前三時から六時くらいだと注解書にありました。という事は夕方六時ごろ出発したとしても、半日、十二時間たっても、風に悩まされてたどり着けないという事態にあっていました。弟子の中には漁師がいますから、この湖の地形や、気象状況もよく知る、ある面プロの人たちが舟を出していますが、そのような熟練した人たちでも、どうにもならない状況、風に苦しめられていた時でした。

 イエスさまは湖の上を歩いて、弟子たちに近づいて来たとあります。しかし、弟子たちは、イエスさまを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげたとあります。夜中舟を漕いでも、風で舟は進まず、また幽霊を見ておびえたという事は、最悪の状況です。

 私たちの周りを見ても、犯罪や政治は暗闇だらけ。何の希望も見いだせない状況。状況が悪くなる一方。同じ状況かもしれません。

そんな場面でイエスさまが言われたことばを注目したいと思います。マルコの福音書六章五十節、

『「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」』

 しっかりしなさい。そしてわたしだ。恐れるなとイエス様は語っています。二〇二〇年、新城教会に、また私に与えてくださったことばだと信じます。

 まずこの「しっかりしなさい」ということばは「おまえたち何をしている!しっかりしなさい!」と叱責している言葉ではないというのです。この「しっかりしなさい」という
ことばはギリシャ語で「しっかりしなさい」の「サルセイテ」ということばの命令形、「サルセオー」だそうです。この「サルセイテ」ということばが出てくる他の聖書箇所は創世記十九章十六節

『しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。──【主】の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。』

ソドムに住むロトの家族を救い出すために、み使いたちが「ためらう彼らの手を、つかんで連れ出した。行為」を意味するというのです。神が彼らとともにいて、手を握って下さるという激励用語だそうです。「自分の力で何とかしなさい。がんばれ!」という意味ではありません。主の愛により、苦しみの時、苦しみの状況から、主自ら手を差し伸べ、救ってくださるというのです。私たちと共にいてくださる主。真夜中の、何をやっても動かない、進まないという苦しんでいるような状況にあって、主は「しっかりしなさい。」と愛の激励。イエスさまが直接手をつかんで助けて下さるということを覚えてほしいと思います。

 その後、「わたしだ。」と言っています。この「わたしだ。」とことばは出エジプト記三章十四節、

『神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」』

口語訳聖書には、「あってあるもの」と訳されています。「わたしはある」ということは、永遠に存在している主だということです。私たちは、「わたしはある」という存在ではなく、「いつかはなくなる存在」です。しかし主は永遠から永遠まで、ずっと変わることがありません。主を信頼することは、「わたしはある」という、永遠に変わらない神を信じることです。『イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも同じです』とあります。
暗闇の中、湖の真ん中で前に進まず、どうしたらよいかという状況でも、「わたしだ」と語ってくださっています。私たちの主はどんな方でしょうか?救い主であり、癒やし主です。また助け主であり、創造主、贖い主、慰め主、祈りに応えてくださる神、問題を解決してくださる神、それが私たちが信じているイエスキリストです。全能者です。

ヘブル十三章八節には

『イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。』

今日も主がともにいることを覚えましょう。

 そして、「恐れることはない」と言っています。私たち人間は常に「恐れる存在」です。また先ほど読んだ弟子たちは、湖で風に悩まされて、前に進まず、イエスさまなのに、彼らは幽霊だと勘違いして叫んでいました。私たちも同じことをしていないでしょうか?苦しい時、どうしたらよいかわからない時、助けに来られたイエス様さえも、幽霊だと恐れてしまうことはないでしょうか?マタイ十四章二十八節から三十一節にはペテロが、本当にイエス様なら水の上を歩いてイエス様のところに来いと命じてくださいと言っています。

『すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」』

 ペテロは水の上を歩いたのです。ありえない事です。全能なる神、主であるイエスキリストだと分かり、奇跡を体験したにも関わらず、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言ったとあります。私たちも風を見ていませんか?沈みかけてしまい、助けてくれと叫んでいませんか?

『そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」』

 主がすぐに手を伸ばしてくれています。そして「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
「恐れることはない」と語ってくださっています。そしてマルコ六章五十一節

『そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。』

イエスさまが弟子たちの舟に乗り込まれたとき、妨げていた風は止んだのです。今年はイエスに、舟に乗り込んでもらいましょう。

 二〇二〇年、どんな大波。暴風雨が来るかもしれません。しかし私たちはもう一度、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」このみことばを信じましょう。
 今ある問題も、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」このみことばにより、圧倒的な勝利、暗闇の嵐の中でも、圧倒的な勝利をいただくことができるとことを期待して、進んでいきましょう。全能なる神があなたとともに、新城教会とともにいてくださいます。

最後にみことばを皆さんで宣言しましょう。

「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」




四元雅也師
「これから後のこの宮の栄光は、先のものに勝る」

 ハレルヤ!感謝します。お祈りに支えられて、こうしてまた二〇一九年最後にメッセージを語らせていただけますことを感謝します。
 昨年、カウントダウンで私がお話しさせていただいたみことばは、第一コリント人への手紙九章十六・十七節【新改訳2017】でした。

『私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。』

 このみことばからお話をさせていただきました。その中で、二〇一八年を振り返って、一年を通して個人的に献身以来もっとも弱さを覚えて、弱さと向き合う一年になったとお話しました。

 今お読みしたみことばから分かるのは、パウロでさえも宣教に対して自発的でないことがあったということです。ある意味では当然かもしれないです。彼は福音宣教を通して命の危険、迫害、貧困など、いろんな困難を経験していたわけですから。この状況で福音を宣べ伝えて大丈夫だろうか?と、人間的には考えることがたくさんあったと思うのですが、彼はそんな苦難を通ってもなお、福音宣教を止めることは「できない」と言いました。福音宣教をしないことは「わざわい・不幸」だと。そして、福音宣教をしない不幸に比べたら、福音宣教に伴う困難は軽いものだと告白しているのです。本当にそうだと思います。教会がもし福音を宣べ伝えなくなったら、教会は生き続けることができません。私たちは心から進んで、いや、「強いられたにしても(新改訳第三版)」と書いてありますが、この使命を全うする、その必要が私たち自身のためにあるのです。

 そして今年、二〇一九年を振り返ってみても、やはり昨年と同様に、教会も、またリバイバル・ミッションも、そしてプレイズ出版も、先ほど写真でさまざまな報告がなされていましたが、超が付くほど活動的な一年だったと思います。忙しい一年でした。それでも先を走る先生方はスピードをゆるめずに一心に突っ走っていました。本当にすごいなぁと思わされました。

 そんな中で、私も一緒に走らせていただいたのですが、申し訳ないことに今年も私は、個人的に弱さを感じることが何回かありました。
 今年の七月十七日の水曜日、水曜主日礼拝の最中、私は司会をしていたのですが、こともあろうに司会をしながら意識を失うということがありまして、本当に皆さんに心配をおかけしました。その時に「私も弱くなったなぁ」と思いました。それ以来、兄弟姉妹の中でも特に私の体調に心を配って声をかけてくださる方が多くなったことを感じます。

 最近、眠りが浅いなぁと思ったりするのです。夜中に動悸で目が覚めたりとか、時計を見たらまだ朝の三時とか、そういうこともあるわけです。
理由は単純に年齢のせいだと思うのですが、朝早く目覚めるようになって、代わりに夜が弱くなりました。夜の家庭集会などがない日は、ご飯を食べて夜八時くらいになるともう眠くなり、先に寝ようとか言って床に入ったりします。
 また逆に夜遅くに寝ても、朝は五時くらいに目が開いてしまうという、そんなふうになりました「うんうん、わしもそうだ。」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。朝ゆっくり主と交われるようになったのは良いことだと思いますが、肉体的に弱くなっている。僕も他の牧師先生方と比べたらまだまだ若い方なのですが。

 十二月にはクリスマスの伝道会が続いて、二十五日にクリスマスコンサートがあって、すべての集会が終わりました。本当に今年も感謝なことに素晴らしい祝福をいただいたのですが、その前日、二十四日、先週の火曜日のことですが、私は高熱が出て一日中ずっと横になっていました。クリスマス疲れが出たのかもしれません。
 でも二十五日には絶対に休むわけにはいかないので、私の二人の姉たちに「熱が出て今寝ているから、明日熱が下がるように祈ってください。」とお願いして、「よし!祈ってる!」と返事が来て、その夜は勝先生がわざわざ往診に来てくださって、熱冷ましの頓服と、葛根湯と、もしインフルエンザだといけないからと、リレンザをくださいました。私も人に移してはいけないと思い、リレンザと葛根湯を服用しながらコンサート当日はなんとか乗り切ることができました。
 祈りによって、その後、熱が上がることも休むこともなく、先週後半は二〇二〇年のためのとりなしがありました。今月初め、教会ニュースで順先生が「二〇二〇年をクリスマスから始めましょう!」というメッセージを書かれていましたが、その信仰のもと、イエスさまのみ名によってクリスマスの時に年が改まって、私たちはこの二〇二〇年の始めに主の勝利を宣言する!それも宣教七十周年、リバイバル・ミッション五十周年の、新城教会とリバイバル・ミッションの歴史を、この時間の流れ全部を主のみ名によって勝ち取ろう。教会の歩みの中には、良かったことも、悪いと思うような事柄もたくさん、いろんなことがありましたが、全部ひっくるめて、主にあって勝利だ!と言って、いろんな場所に行ってとりなしの祈りをさせていただきました。私も東京に行って祈りました。

 その後、別の教会の方で、天に召された方があり、私が召天式で奉仕させていただきました。そして、この七十周年記念集会もあって、忙しい日々が続いていますが、なんとか守られています。
 実は弱さの中で、大変だと思いながらの歩みだったのですが、倒れずに来られて感謝だった。そんなこの十二月、またこの二、三日でした。

 一昨日の十二月二十九日、日曜日の朝目が覚める前、一つの声が響きました。「弱さも強さも両方恵みだ!」と、びっくりマークが付くような強い宣言の言葉が頭に響いて、はっとして目が覚めました。

 先週、二十二日の礼拝の中で、上條先生は「パワーアップ!」という言葉をタイトルにしてメッセージされました。先ほどもお話しされていましたが、今年先生は病で数日間でしたが入院されました。入院される前、脳梗塞の症状が出て、救急車を呼び、これからどうなるんだろうという不安の中祈られて、そして癒やされたのですが、数日間の癒やしの過程で、病院で主から教えられ「今弱いから感謝だ」と思うに至ったとお話されていました。自分が弱いからこそ主の恵みがあるんだと教えられたそうです。
 実は、私たちが救われたのは「弱かった」から。もしも私たちが強かったら、私たちには救いはなかったのです。救われた多くの兄弟姉妹は弱さを覚える中で主の元へと導かれたことでしょう。

 私たちはとかく世の中の喧噪の中、資本主義社会、市場主義社会、金がものを言う、力がものを言う、知恵がものを言う、そういう社会で、どうしたら最強になれるのか、どうしたら他の人よりも一歩先んずることができるのかと考えながら生きているわけです。
ですから私たちは「強い」ことに憧れるものです。強いもの、太いもの、長いものになりたい、そういう思いを持ちながら歩んでいるので、聖書の中にある弱かったからこそ救われたんだ!そういったみことばの法則に対して心から同意することに難しさを覚えるのではないかと思います。

 ローマ人への手紙八章三・四節【新改訳2017】、

『肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。』

 このみことば、何を言っているのかというと、私たち自身は律法が要求するところの「正しい歩み」を全うすることができなかった。しかし人となったキリストが、私たちと同じように肉をまとっていながら、その人生を通して律法の要求を完全に全うされた。完全に成し遂げられた。そして、私たちのできなかったところを代わりに成し遂げてくださったイエス・キリストご自身が、肉において神の処罰を受けられた、すなわち十字架の刑罰を忍ばれた。私たちがイエス・キリストを信じる時に、イエスさまを内に宿す、すなわち聖霊を内に宿すことを通して、私たち自身の力によってではなくて、私たちの内にある聖霊によって、律法の要求が満たされることになるわけです。私たち自身の努力や力ではなくて聖霊さまによる。

 それとは逆のようですが、二十九日の礼拝メッセージは開先生によって語られました。ヨシュア記一章五~六節【新改訳2017】、

『あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。』

 私たちがもし強いとしたら、これは主の恵みであって、また主の戦いの中で聖霊によって与えられる勝利であります。これが忘れてはならない大切なことであります。強さの中にあることも弱さの中にあることも、同じように神の祝福である、ということであります。

 私はこの十二月、二〇二〇年に向けて、みことばを求めて祈っておりました。いろいろなみことばが与えられました。十二月二十七日に行われた一日とりなしで、私は東京に行かせていただき、他のチームも、ある人は教会で、ある人は新城の別の場所で、SNSのグループ通話を使いながらお祈りの時を持ちました。その中で心に来たみことばをご紹介して、このメッセージを終わりにさせていただきたいと思います。

 ハガイ書二章、本当は一節からお読みしたいのですが、九節【新改訳2017】だけお読みします。

『この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさる。──万軍の主は言われる──この場所にわたしは平和を与える。──万軍の主のことば。』」』

 七十周年、五十周年の始まりにあたり、皆で祈っていた時に、私の心の中にこのことばが響いてきました。
 当時、イスラエルの民は、バビロンの捕囚から七十周年経って、捕囚から解放され、自分たちの国への帰還を果たしました。
エルサレムに戻った民はまず何をしたかというと、主への礼拝を捧げる場所である神殿の再建に取りかかりました。

ところが、神殿の基が据えられた時、それを見たある人たちは悲しくなった、惨めな思いになったというのです。
それは捕囚前の、ソロモンが造った神殿の、その威光に満ちた佇まい、貴重な品々で飾られた荘厳な姿を見たことのある人たちにとっては、この新しく造られようとしている神殿は粗末に写ったからでした。「こんな小さな神殿。」そして悲しくなった。「見るからに質素。あの時の威厳はどこへやら。」と。

しかし主は、『この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさる。』と言われました。

 新城教会宣教七十周年、リバイバル・ミッション五十周年、私たちは主と共に歩んできて、戦いの中で、しかし数々の大きなみわざを見せていただきました。先日は、七十周年記念集会で七十周年を振り返るスライドを皆で見ましたが、本当に神さまが私たちの教会を素晴らしく導いてくださって、今日まで祝福してくださっていることを覚えることができました。
 しかし、これから後の宮の栄光は先のものに勝ると、主にあって語られていると私自身、祈りを通して、「受け取らせていただきます!」と主の前で祈った者であります。
これを主が私たちに与えてくださったみことばとして、これからこの教会、またミッション、プレイズに、さらに主が大いなる業を現してくださることを心から信じて、信頼して歩んでいきたいと、そのように思います。ハレルヤ!



鈴木陽介兄

 ハレルヤ!今日この場所で、こうしてお話しさせていただける恵みを心から感謝します。七人の中の五番目というのはなかなか良い順番かなと思いましたが、ただ一つ、我々、瀧川充彦さんと私が話すことが、今年から初めてのことですので、その点についての導入の話を先に充彦さんがしておいてくれたら良かったなと思い、充彦さんの後のほうが良かったなと思いました。もし皆さんの中にこの事に関してご意見がある方は是非主に申し上げていただいて、私は「やれ」と主によって命じられたことを全うしていくということの中で、今回のこの役割もしっかりと果たさせていただきたいと思います。

 二〇一九年、実は私個人にとっては、結婚十年目という年でした。二月に結婚記念日を迎えて、三月には七回目のネパール宣教に行かせていただきました。そして五月にはインド宣教、九月には韓国ミッションのほうに、こちらは初めて家族として参加することができました。振り返ると、やはり今年も色々なことがあって、多くの恵みを主によって与えていただいた年だったと思います。
 ただ今年は、それだけではなく、このようなことが小さなことに思えてしまうような出来事が他にもありました。一つは、我々夫婦としてアイスクリーム屋を任される立場になったということです。これが今年の結婚記念日を前後して起こった出来事でした。ヘブンズカフェが日曜日以外の営業を終了し、少し寂しい状況にありました。そのような中で、やはりあの場所が用いられないのはもったいない、何か方法はないかという話から、具体的な話になったらあっという間に、現在に至っています。数ヶ月の間で「ヘブンズアイスクリーム&コーヒー」の立ち上げに向けて突っ走って行ったという、そういう中での結婚記念日でした。これは、本当に大きな挑戦をともなう使命であって、今現在でもそこに責任を持って立たせていただいております。皆さんにも助けていただいて、お祈りいただいて心から感謝します。ヘブンズカフェの朏さんをはじめ、プレイズの元で行われていた主の働きの「遺産」、残してくださったものをしっかりと受け継いで、今は私たち夫婦が責任者として立たせていただいている、そのことも本当に感謝します。夏の時期にはたいへん多くの方が来店され、教会の施設として大きく用いられています。

 二つ目に、この事も私の立場では触れないわけにはいきません。夏を終え、秋をむかえた時期に、滝元順牧師の奥さまの享子さんの病気が発覚しました。享子さんは私の妻の母親、私の義理の母親ですので、教会にとってももちろんですが、我が家にとっても、本当に大きな衝撃でした。私たちの家族も、当事者として、日々その戦いが続いております。置かれている状況は少しずつ、それぞれ違うと思いますが、この二〇一九年の終わり、また二〇二〇年の始まりに際して、私たちに向けられているこの大きな試練に、本当に心して祈って戦い続けていかなければならないと思っております。
 私たちの家族のためにも本当にたくさんの人が助けていただいて、祈っていただいて、私たちも今こうして立っていることができることを本当に心から感謝します。

 では、みことばに入っていきたいと思います。私が二〇二〇年に対して、示していただいたみことばは、ヨハネの黙示録二十二章十六節です。

『「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」』

 このみことばは黙示録の最後の章、また、新約および聖書全体の最後の箇所にあたるわけです。
 ここに「明けの明星」という表現がありますが、これは聖書の中でも馴染みのある表現だと思います。これが何を示すのか、皆さんご存じでしょうか。イエス様が実際に、この世界に存在するものになぞらえられています。こたえは金星です。ご存知のように、金星というのは、太陽系において地球の内側にある惑星です。「水金地火木土天…」の「地」が地球ですので、水星、金星というのは、地球よりも内側、太陽側にある惑星なのです。

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 そのため、金星というのは、基本的には地球から夜には見えません。星というのは、昼間は空に見える位置にあっても、太陽の明るさで、見えないです。夜にならないと目で見て認識はできない。先程の図の青い丸が地球で、ここではその下半分が夜と考えていただいて良いです。金星というのは地球よりも内側にあるので、夜の方向に金星というのはありません。そのため、夜に金星は見えません。金星が見えるのは日没後の西の空と、夜明け前の東の空で、少しの時間です。夕方のほうを「宵の明星」、明け方のほうを「明けの明星」というふうに呼びます。
 また、金星は、太陽との位置関係によって、地球から見ると、太陽、月に次ぐ明るい星です。ものすごく明るいです。ちょうど今の時期、「宵の明星」がきれいに見えます。何気なく夕暮れ時に西の空を見て、ぱっと目に入る輝く星、それはほぼ金星だと思っていいです。とにかく本当に明るい星です。地球と金星の公転周期によって、地球から金星が見える時間と、その見え方が変化します。2020年6月下旬頃までは宵の明星が見えます。その後7月上旬頃から明けの明星が見えるようになります。

 さて、先程の聖句に戻りたいと思いますが、「明けの明星」という表現で、イエスさまがご自身を示しています。ご自身を「明けの明星」になぞらえているわけです。この事が何を示すかということを考えていきたいと思います。

 ご説明したように、明けの明星というのは、夜明け前、太陽が昇る前に輝く金星のことです。言い換えるならば、太陽が出る前の、夜明けのしるしとして現れるような星ということです。明けの明星が見えたら、その後、何が起こるか。必ず朝が来る。夜明けが来るということです。
 では、イエスさまが明けの明星ということはどういうことでしょうか。それは、イエス・キリストの到来とともに、この地上の闇が完全に破られる「夜明け」が来ることがすでに約束されているということです。

 ここで、今私たちがどのような時代を生かされているのかということを考えたいと思います。私たちは現代の日本という国に生かされています。そこで受ける教育を中心に、縄文時代、弥生時代、、、平安、鎌倉、、、江戸時代、そして明治時代以降というような歴史観を意識させられます。また、二度の世界大戦や2011年の大地震とそれにともなう原発事故などの重大な出来事に目を向けます。
 そういった地上の歩み、歴史観・世界観の中で歩んでいるわけです。もちろんそのような事をしっかり認識し、そのような時代の中で現実の生活を地に足をつけて生きることは大事なことです。しかし、私たちがもっと意識すべき歴史観、世界観というのは、神さまの歴史観です。神の国の歴史観です。それは神学用語では「救済史」という言葉で表現されます。私たちは神さまの歴史の時間軸の中で生きている者である。この事実が、私たちがより意識して生きるべきことです。
 私たち自身をその歴史の中に置く時に、どこに生きているのか。私たちは何者であって、どこに生かされていて、どうして生かされていて、どこを目指して生きているのか。そのような事をしっかりと認識することがとても重要です。それがはっきりしていないと、私たちの祈りや賛美、今回行われている70時間の集会のような主の働きも、ある意味において、本当に小さなところに押し込められてしまうような可能性があると思います。
 
 神さまの歴史というのは、聖書が示すとおり、天地創造から始まり、人類の堕落、その罪によりこの地が悪魔の支配に渡り、その人類を救うためにイエスさまが来られて(初臨)、十字架による救いが達成され、やがて天に帰られたイエスさまがこの地上に再び来られる(再臨)。私たちは、その間に生かされているわけです。まずはこの立ち位置をしっかり受け取りましょう。
 イエス様が再び来られる再臨を待ち望み私たちは祈り求めています。再臨は誰の目にも明らかなかたちで訪れます。そして完全なる神の支配がもたらされます。私たちの生かされている初臨と再臨の間の時代においては、イエス・キリストを信じるものには神の国の支配がおよびますが、それは完全ではありません。この世はいまだ悪の支配です。その悪の支配の中で神の国の支配をもたらすために働く、これが私たちの使命です。
 ところで、救済史におけるイエスさまの役割というのは、救いをもたらすことです。実はその役割は、再臨までです。その後どうなるかというと、イエスさまは父なる神に国を渡されると書いてあります。
「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。」1コリント十五章二十四節
 その後、父なる神の完全な支配がこの地にもたらされます。すべてにおける完全なる救い、開放、回復です。この地上が全く変えられるのです。新天新地です。完全なる神の勝利です。このことを聖書はゴールとして我々に示しています。これは旧約から新約まで一貫しています。私たちもそのゴールを目指して生かされているわけです。

 新約聖書の最後は黙示録ですけれども、旧約聖書の最後はマラキ書という書物です、その最後の章にこのような箇所があります。
 『しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。』マラキ書四章二節
 ここに「義の太陽」という表現があります。これは黙示録の最後に出てくる「明けの明星」なるイエスさまに対して、この地上を完全に照らし、完全なる支配をおよぼす父なる神さまを示していると読み解く事ができます。旧約の最後と新約の最後で、実に鮮やかにこの対比が表現されています。聖書は本当に奥深く素晴らしいです。

 私たちはこの地上の信仰生活において、魂の救いや、霊的な祝福、いやしや奇跡、問題の解決を求めて祈ります。もちろんそれらも大事なことです。しかし、今日みことばから学んだように、私たちの最終的なゴールはイエスさまの再臨と、その後もたらされる完全なる神の国の支配、新天新地です。私たちは、その事こそ常に意識し、見失わないようにしなければなりません。

 明けの明星なるイエスさまが輝く夜明け前。この世はまだ闇の中です。イエス・キリストを信じる者として救われて、いつも喜びを持って、恵みを受けて、何もかも祝福されて歩むことができたら、本当に一番すばらしいですが、私たちの内にも苦しみ悲しみ、嘆きうめきがあり、病があり、死があります。この世はまだ悪魔の支配の中です。しかし、私たちにはイエス・キリストが与えられ、夜明けの空が白んでくるように、闇を破る光の支配が少しずつ確実私たちの祈りを通して拡大し、その後夜明けが来るのです。義の太陽なる父なる神の完全な支配、この地に死も苦しみも悲しみもない完全なる神の支配が来ます。

私は今日夕方に、宵の明星ですが、実際に金星が見える時間に少し教会の周りを歩きました。祈り心で宵の明星を見つめながら、輝く光を見つめながら、イエスさまのこと、父なる神さまのことを思わせられました。私たちは何者なのでしょうか。父なる神さまのみこころとイエス・キリストの光がなければ何もできません。
 二〇二〇年、明けの明星なるイエスさまを見上げて、義の太陽がのぼるその時まで、一歩一歩、主の道を歩んでいきましょう。それが私たちの地上における使命です。新たな年、共に集う者として、精一杯力を合わせて進んでいけたらいいなと思います。



滝川充彦兄

 ハレルヤ!メッセージ前に嬉しい励ましの言葉をいただきました。感謝します。こうしてこの二〇二〇年、新城教会に与えられる主のみことばを私が受け取って皆さまに分かち合う、このような役割、機会が与えられたことを感謝いたします。
 と言いたいのですが、すごくプレッシャーを感じて、重責で押しつぶされそうですが、私が主から受け取ったと信じるみことばを分かち合っていきたいと思います。
 私は牧師でもないですし、一スタッフです。そのような私がここに立っている。本当に弱さの塊、人の前で話すことは大嫌い、本当に緊張しまくりの私なのですが、そんな私がここに立っているということはもう主のわざでしかないと思います。本当に不思議な神さまご自身のわざが、ここに私が立っているだけで、皆さん、もうそれを目撃しています。二〇二〇年は新しいことがすでに始まっていると、皆さんは信じていいと思います。そのことを宣言したいと思います。
 これでみことば語らなくても、本当に十分じゃないかなと思うのですが、語らせていただきたいと思います。

 十一月下旬くらいに、このカウントダウン・ワーシップで「あなたもメッセージしなさい。」と、突然降って来た話なのですが、そこから本当に少し落ちこんだというか、どうしようかなぁと思いまして、クリスマスシーズンで本当に忙しい時期であり「神さまからのみことばを受け取るなんて、どうしたらいいのか」と思い、本当に真剣に毎日祈り続けていました。
 そんな中で、ふと私の心の中に神さまが語ってくださったような気がすることばがありました。それは、「あなたはどこに立っているのですか。」と聞かれたような気がしました。
 そのことばを聞いた時に、すぐに思い浮かんだみことばがヨシュア記五章十五節のみことばでした。これが私が二〇二〇年、神さまから与えられたと信じるみことばですが、お読みします。ヨシュア記五章十五節、

『すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。』

 このみことばなのですが、私は二〇二〇年、本当に主がさらに私たちの前を進んで、大きな勝利を取ってくださる、本当にすばらしいことをしてくださる、その新しい主の戦いに備えて、「私たちに新しい武器を与え、新しいみことばの剣を与えてください!」そのように求めて祈っていたのですが、神さまが語ってくださったことは、「あなたの足のはきものを脱げ。」と言われました。私が求めていた形とは全く逆のもの、逆の方法を神さまは示されました。
 しかしこのみことばを読んだ時に、確かに主が語ってくださったということを不思議に感じる平安がありましたので、このみことばをよく読んで思いを巡らせてみました。

 このヨシュア記五章十五節の後は、皆さんもご存じの約束の地、カナンの地にイスラエルの民が入っていく、その重要な戦いで、エリコの戦いが展開されていきます。
 新約の時代を生きる私たちにとってのカナンの地、約束の地はどこか。それはイエスさまがこの地に帰られて完成してくださる天のみ国、この地上に現されるみ国ですね。そして私たちはそのみ国の到来のために一人ひとりが召されているわけです。
 ですからこのヨシュア記五章十五節のみことばは、本当に大きな戦いの前に受け取るべき重要なみことばであるのではないかということを思わされました。
 ヨシュアに神さまが、天の軍の将を通して語られたわけですが、ヨシュアに、「神さまが共におられる、聖なる所に立っている。」ということを語られました。
 私たちはどこに立っているか。新約時代の私たちはイエス・キリストの十字架の贖いによって、聖霊の住まう宮とされています。また私たちは神の中に生き、動き、存在しているともあります。
 また、他のみことばでは、「イエス・キリストの血によって、真の聖所に入ることができる。」ともあります。私たちは神の宮、聖なる所に立っているということですね。
 それも一人で立っているわけではないですね。主の宮に、み座におられる神さま、イエスさまと共に立っているわけですね。そのことを私たちは覚えていきたいと思います。

 そしてそれゆえ、「あなたの足のはきものを脱ぎなさい。」と言われているのですが、はきもののことを少し考えて、受け取っていきたいと思います。はきものは私たちの足を守ってくれる存在であるわけですね。旅する者にも足を保護してくれますし、戦いの時にもし裸足であったらすごく危険ですよね。ですから本当に必要なものであるわけです。
 しかし、そのように一見、私たちの身を守ってくれるような、支えてくれるように思えるようなものを、主と共にいる私たちに対して、主は、「そのはきものを脱ぎなさい。」と言われているわけです。

 現代の私たちにとって、そのはきものは何かということを思い巡らす時に、一つ思い浮かんだのはお金でした。私たちの生活を支えてくれる、好きなものを買える、好きなものを食べられる、旅行に行けたり、より快適に過ごすことがお金があったらできるかもしれません。しかしそのお金は、究極的にはいのちを与えることも、保つこともできないものですね。
 また私たちが身に着けているようなもの。スマホみたいなものですね。スマホがあれば情報収集に役立ちますし、知らない所に行ってもナビ代わりにして迷うことなく目的地に着けたり、電車にも簡単に乗り換えができたり、本当に役立ちます。そしてSNSで友達につながったりします。またYouTubeやゲームなど、いろんなアプリがあって、自分自身を楽しませてくれるようなものであるかもしれないのですが、そのようなものでネット依存になって体を壊したりする原因ともなります。このようなものが私たちを満足させるというようなことは決してないわけです。
 人それぞれ、その「はきもの」は、いろいろ異なると思うのですが、そういった頼りにならないものに頼りきるのではなくて、それを脱ぎ捨てて、主を第一にして、主に信頼していくことが必要であるということを、ここで教えられます。

 そしてもう一つはきものということで、ルツ記四章の話があります。ボアズはルツと結婚したかったのですが、ボアズよりも近い親類がナオミの夫のエリメレクの土地を買い戻す権利を持っていました。そしてその親類がもしその土地を買い戻すなら、未亡人となったナオミを養って、ルツと結婚し、そしてエリメレクの子孫を起こす義務があったということを知って、その親類は尻込みをして、その権利を放棄することにします。その象徴として自分のはきものをボアズに渡したという記事を見ることができますが、その自分のはきものを脱いで手渡すという行為は、すべての権利を放棄する、「あなたに渡すよ。」という意味があります。イスラエルにはそういった習慣があったようですが、ここで、ヨシュア記の所で言われている「はきものを脱ぎなさい。」という意味の一つは、私たちのすべての権利を主に放棄する、私たちのすべて、知恵や知識や経験、私たちの持っているもの、何もかも主に委ねていくということを、教えているのではないかということを覚えます。

 そしてもう一つ、はきものを脱いでいる人、履いていない人というのは、どのような人かということを考えていきたいと思います。新約聖書になりますが、放蕩息子のたとえ話を思い出してほしいと思います。
 父親は戻ってきた息子に「靴を履かせなさい。」と言っています。その息子は放蕩をしていったわけですが、裸足でした。彼はイスラエルで最も嫌われる豚の世話をする奴隷のような存在となっていたというわけです。奴隷や貧しい人たちは裸足であったということですが、はきものを脱ぐということは、私たちにとって、主の奴隷となる、主のしもべとなるということも教えていると思います。
 ですから主と共にいる私たちが「はきものを脱ぐ」というのは、主を第一として、主に私たちのすべてをささげ、全権を主にゆだねる、神さまに従うしもべとなっていくという事だと思います。

 二〇二〇年、私たちは敵に奪われている約束の地、神の国を奪還する戦いの直前に立っているのかもしれません。その大きな戦いの前に、私たちは私たちのすべてを放棄して、主にゆだねて、ただただ主に信頼して、全幅の信仰を主において、主のしもべとして整えられる必要があるのだということを私自身、神さまから語られているような気がします。
 それはたとえ、目の前にエリコのような難攻不落の要塞都市がはばかっても、そのことをしなさいと神さまは言われているのではないかと思います。
 そしてヨシュアたちは人の目には奇妙とみられるような行進をしました。そしてそのような中で、聖書の中にはありませんが、いろいろと悪口を言われたりしたかもしれません。でもヨシュアたちは黙って、主のことばを信じ従ってエリコを回って、そして七日目に時の声を上げて、主の不思議な方法でエリコの町が奪還されました。

 また聖書の中で、ギデオンたちは兵士を圧倒的に減らして、主の剣、ギデオンの剣だと角笛を吹き鳴らして、主から勝利を与えられました。
 また少年ダビデは不慣れな鎧を脱ぎ捨てて、万軍の主のみ名によって戦い、ゴリヤテを倒しました。
 そして漁師であったペテロは、信弘先生のメッセージの箇所の後、ペテロは網を捨てて、すべてを捨てて、主に従って行ったという記事があります。漁師であったペテロは経済的な基盤もすべて投げ置いて主に従って行った。主のしもべとして主についていったわけです。その後、ペテロは大いに福音宣教の戦いのために用いられていったことを私たちは見ます。
 人間的なもの、現実的なものを捨て去って、主に全権をゆだね、信頼して、主の大いなる勝利を与えられてきた信仰者たちを聖書の中にたくさん見ることができます。

 また七十周年の記念の集会で、スライドを私は七十年の歩みを知らないのに、七十年のスライドを作らせていただいたのですが、とても大変でしたけれども、そんな中で、この七十年の新城教会の歩みを見る時に、本当に感動して、涙が出るほどに主の一歩一歩の歩み、主のなされたみ業を見させていただいて、本当に感謝でした。
 この新城教会七十年の歩みを振り返ってみても、大きな、様々な戦いがあったことを見させていただきました。しかしそのような中でも主は私たちの前を進んで、すばらしい勝利と栄光を現し続けてくださったことも見させていただきました。
 ですから、私たちはこの主の大いなる戦いの直前にあって、勇気をもって、私たちの足のはきものを脱ぎたい、そんなふうに私は思わされています。

 そして、これでメッセージが与えられて、やった!と思って、安心していたのですが、神さまはもう一つ、声を聞かせてくださいました。それは、「脱いだら履きなさい。」と言われました。脱ぎっぱなしではいけないということを、ふと言われたような気がしました。それは、エペソ人への手紙六章十五節、
『足には平和の福音の備えをはきなさい。』

 このみことばが心に飛び込んできました。神さまは最高のはきものを、二〇二〇年、私たちに備えてくださっていると信じます。平和をもたらす、サタンの頭を踏み砕く、勝利の福音のはきものです。

 ヨシュア記五章十五節は、出エジプトをする前に燃える柴からモーセに主が語られた、モーセを召し出す時に語ったことばと全く同じことばであるわけですが、モーセの次の世代であるヨシュアの世代、新しい世代である私たちに、このみことばが二〇二〇年、与えられていると信じます。
 二〇二〇年、私たちは新しい世代として、不法占拠している敵であるサタン、悪霊から神のみ国を奪還するという大いなる主の戦いに備えて、私たちは私たちの一切のものを主に委ねて、そして主に信頼し、全き信仰を主に置いて、主に従うしもべとして整えられていく、そして平和の福音のはきものを神さまから履かせていただいて、大胆に戦いの前線へと進み出て行く。
 その時、主の不思議な方法で、私たちが予想だにもしない方法で、神の国を受け継ぐという、大いなる勝利を私たちに与えてくださる。
 このメッセージが、私が神さまから新城教会に与えられたと信じるみことばです。これでメッセージを閉じさせていただきます。ありがとうございます。



滝元開師 

 ハレルヤ!感謝します。こうして咳き込むこともなく声が出ることを本当に心から感謝します。実は先週の水曜日に同刻プレイズが東京であったのですが、一時間は歌えたのですが、最後ダンシングの時、「ハレルヤ!ハ…!」と、このまま終わっちゃうかな?という感じで、終わった途端、私は控え室に行き、洗面所でうがいしましたが、これはまずいなと、これで七十時間は絶対にもたないなということで、クリスチャンドクターの助けを受け、薬を服用しましました。私、実はあまり薬が好きでなく、もともと貧乏牧師家庭で育ち、信仰と祈りで服用しない生き方でいますが、今回、コホンコホンとずっと止まらず、ぜんそく状況になってしまい、弱さの中にお働きくださる主の助けの中で、こうして声が出ていることを心から感謝します。それも主が造られたものであると信じております。

 本当に今日、すばらしいメッセージが既に語られて、神さまがこの教会にくださったみことばであると本当に信じています。
 今回にもみことばが与えられ、これはメッセージの順番が、一番目か七番目に語るのがいいのかなと思っていたのですが、なんと七番目が私の手元に来て、これはもうイエスさまだな!と思いました。

 私が与えられているみことばの一つは、マルコ一章三節です。

『荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』』

 私たち、荒野に住んでいますが、二〇二〇年は荒野で叫べ!と主が語っておられると信じています。なんか私、毎年同じようなみことばを与えられるなと思うのですが、昨年は、「主に覚えられている者よ。黙り込んではならない。だから黙り込まずに歌い続けましょう!叫び続けましょう!」とか言っていたのですが、私はこの間の礼拝のメッセージでもしたのですが、ニ〇一九年随分疲れたのです。それで背中に甲羅が付いちゃったみたいな感じで、家に行くと黙ってこうやってしていると、娘たちによく迫害されて生きていたのですが、結構黙っちゃったなぁと、みことばいただいていたのにも関わらず黙ってしまった二〇一九年だったなと思ったのですが、でも弱さの中に主が助けてくださって、今を迎えられること、本当に心から感謝しています。

 リバイバルって何かというと、土台を勝ち取る働きだなと思います。この日本の偽りという土台を勝ち取って、主ご自身にこの地に来ていただく。そしてこのリバイバルの働きの中で、世界宣教という道が開かれて、世界に行って福音を伝えましょう!というところだけじゃなくて、この悪しき者の霊的なルーツに行って、そこの土台を勝ち取って、世界を勝ち取りましょう!というふうに導かれて、やっぱり本当にリバイバルそのものは土台を勝ち取る働きだな!ということを、常々、近年すごくそのことを感じてはおりましたが、でもやっぱりその土台を勝ち取る働きの中で、この年は私たち一人ひとりの土台そのものに光をあてられたような、そんな年だったのかなぁと、そんなふうにすごく思いました。
 新城教会そのものの土台が、「いや〜本当に今までもいろんな試練があったけど、これ今回こそは…。」みたいな、今も戦いのまっただ中にありますが、土台そのものに対して、「それでもわたしに付いて来るのか。」とイエスさまがおっしゃっておられるような、そんな年だったなとすごく感じています。
 でも、イエスさまはみことばを通して、「わたしに従いなさい」とおっしゃってくださっていますので、「だから!」ではなくて、「でも!私はあなたに従います!」と、そのような年にさせていただきたいと本当に心から願っています。
 荒野のような時代の中にありますが、イエスさまは「わたしの真理を叫びなさい!」と、そしてまた「もう既に与えているその剣をかざして、叫んで歌え!」と、私自身に主が語ってくださっていると本当に今、すごく強く感じています。
 二〇二〇年は、つい先日の礼拝で語らせていただきましたが、二〇二〇年、さぁ約束の地へ!と、ヨシュアの時代という時代に神さまがいよいよ一歩足を踏み出そうとしている時に今来ていると、そういったことを本当に強く感じています。
 でもヨシュアの時代というのはどういった時代かというと、やっぱりモーセのようなカリスマ性に富んだ人がどーんと現れて、「俺に付いて来い!」と言って、その後を行ったらみんな楽だと思うのです。モーセのように顔と顔を主に合わせて祈っていたような、そういった人がいて、それで紅海も杖を伸ばすと、真っ二つに分けてくれたわけなので、そこを私たちは後から走っていけば良かったわけですが、ヨシュアの時代はそうはいかないという時代なんだと思います。
 だからそのカリスマ性に富んだ、この人に付いていく!ではなくて、ヨシュアの時代は私たち一人ひとりが、本当に聖別されて、「わたしに付いて来なさい」というイエスさまご自身のみ声に従って、皆が立ちあがるべき時がヨシュアの時代であると、そんなふうにすごく強く感じています。

 モーセからヨシュアの時代となって、ヨシュアが最初に行った戦いがなんだったかというと、エリコでの戦いでした。難攻不落の城壁を目の前にして何もできなかったのです。これはどうしようもないという状況であったわけですが、しかしそこに行って「叫べ!」とイエスさまがおっしゃったのです。ですから私たち、本当にそのことを信じて、私たちも叫んでいきたいと思います。

 ヨシュア記六章二十節、

『そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。』

と書かれています。ときの声をあげたのです。難攻不落の場所に行って、さぁ何をするか。「わたしに従いなさい。わたしが言った通りのことをしなさい。」ということを彼らは従って「ウォー!」と叫んだのです。そうしたら、その難攻不落の城壁が崩れ落ちるということが起こされました。

 でもそこを今日読んでいて、すごくまた一つ恵まれました。ヨシュア記六章十三節。
 今回の七名のメッセンジャーには、きっと意味があるだろうなと私は思っていました。「七名のメッセンジャー。何かな?」と思って、いろいろと思いを巡らせていたのですが、思い当たらなかったので、もうこれ以上考えるのは止めようと思っていたのです。
 そうしたら今日の夕方、みことばを読んでいて、ふと読んだみことばが六章十三節ですが、

『七人の祭司たちが七つの雄羊の角笛を持って、主の箱の前を行き、角笛を吹き鳴らした。武装した者たちは彼らの先頭に立って行き、しんがりは主の箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら角笛を吹き鳴らした。』

ということで、七人の祭司たちが角笛を持って叫んだのです。そうした時に、エリコの城壁はわーっと崩れたので、本当に二〇二〇年、七つのみことばが語られましたので、このみことばをしっかりと受け取って、今日のこのメッセージが宣言というか、もうすでにみことばが語られたので、みことばが宣言されて、吹き鳴らされたような状況ではないかと思います。そうしたら今度はあとは皆が喜びを持って、その崩された城壁の中に乗り込んでいくという、そのような時がこれから来ると信じています。

 賛美の中にある神さまのご臨在、素晴らしい大きな祝福と力ですが、ダビデ王様というのはやっぱり賛美の生涯だったと思います。いろんな戦いがあって、あらゆる困難の中でも、彼はそんな中でも歌い続けたのです。
 最近一つ、私の心に留まったみことばが、第一サムエル記十八章十四節で、

『ダビデはその行く所、どこででも勝利を収めた。主が彼とともにおられた。』

と書かれているのです。
 ダビデの勝利の秘訣というのは、彼がすばらしい器だったからということ以上に、やっぱり主が彼と共におられたがゆえの祝福と勝利でしたので、新城教会というこの大きな恵みの中で、与えられた霊的戦いという剣、そして賛美の剣、祈りの剣というものが与えられていますが、何ゆえ勝利するか、それは他でもなく、主ご自身が共にいてくださる。それが大きなしるしであると信じています。

 そしてもう一つ与えられているみことばが、黙示録二十一章五節です。

『すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」』

 「わたしは、すべてを新しくする。」このみことばが本当に今、私の心に響いています。二〇二〇年、主にあって、期待を持って、黙り込むことなく、荒野で「ウォー!」と叫ぶ時、すべてが新しくなる、そのような一年になることができることを信じて、このみことばをこの二〇二〇年に新城教会に与えられたみことばとして信じて宣言させていただきます。みことばは以上です。ハレルヤ!