ヤキマバレー・フェロシップ主任牧師
ジョー・ハイト師メッセージ

  • 2020年1月19日(日)

コリント人への手紙 第二 3章7節〜14節

『もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。そして、かつて栄光を受けたものは、この場合、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』

 おはようございます。火曜日の夜に日本に到着しました。成田に着き、息子のPたちと会うことができました。非常に混雑した電車で彼の家に到着しました。彼が住んでいる街の名前を覚えていませんが、そこで良い時を持ちました。
 そして新城に祈るために来ました。昨日は車で富士山の周りをぐるっと回って祈ってきました。T兄が運転してくれたのですが、彼とモンタナに行った時に非常に寒い思いをしたので、その仕返しをされたのかなと思っています。
 昨晩、新城に着きました。本当にここに来られて嬉しく思っています。こちらに電車で向かう時の写真です。

 おじいちゃんになって本当に嬉しく思っています。もう親ではなくおじいさんなのです。息子のPが親をやっているのですが、私はその横から笑っているだけです。電車に乗った時は、子どもはあっちに行ったりこっちに行ったりして両親が追いかけているところを見て、私は座って笑ってみているだけです。孫たちが私の家に来た時には「自分は彼らの親ではない。親は親がやるべきだから早く迎えに来なさい。」と娘に私はよく言います。
 ヤキマにいるハイト家を紹介します。

 妻のR、次女夫妻のA、T。この子どもたちは全員彼らの子です。そして長女のCと、Cの旦那さんのWさんですが、彼は日本に来たことがありません。彼が抱えているのがE、そしてB、L、Rです。
 非常に厄介な孫が二人、日本にいます。Oはちょっとびっくりさせられることが多いです。ヤキマにもこの二人の厄介な孫がいます。
 Cたちは今はフロリダにいますが、オハイオに引っ越すか、ヤキマに引っ越すか考えているところですが、Cはヤキマに引っ越したいと考えているので、そのようになれば良いと思っています。

 そして今日は、現在の私たちが生きている環境について話をしたいと思います。私たちはヤキマで、毎年、一ヶ月間の祈りの時をもって年を始めるようにしています。その祈りの時を「フレッシュエアー」と呼んでいます。そして、なぜ私たちは祈らなければいけないかということを思い出すために、この写真を使っています。

 この写真の中には、防護服を着た人が、非常に汚染されたような、火災が起こっているかのような悪い環境の中に立っています。今、私たちがいる環境というのは、まさにこの写真のような環境なのです。そのような環境に私たちは生きるようには創造されていませんでした。これはパラダイスではありません。これは神さまがご計画された本当のパラダイスではないのです。いろんな悪い環境の中でも、神さまは「そこで生活しなさい。」と私たちに言われています。このような悪い環境の中に住んでいる人たちにとって私たちがイエスさまのために光となるように神さまは私たちに願っておられます。パラダイスが必要な人たちに対して、そのパラダイスが見えるようにするために私たちは備えられているのです。

 今朝、ヤキマの天候について、通訳のMさんに話をしていました。ヤキマは年に三百日、太陽の光がある日だと言われています。ですが、十二月、一月は太陽が輝く日がありません。それを私たちは「インバージョン」と呼んでいます。どのような環境かというと、その平地に霧や雲や汚染された空気がすべて下りて来てとどまるのです。
 ヤキマには、薪で暖をとっている家が近所にたくさんあります。その薪の煙が下のほうに漂ってしまい、私たちはその煙を吸うことになります。ですから、その季節は太陽がないだけでなく、空気も汚染されてしまっています。先ほど見た写真のように、暗い汚染されたような地域になってしまいます。
 しかし数週間経つと、その環境に慣れてしまい、それが普通だと思うようになります。私自身、アレルギーが少しありますので、朝起きると頭が痛かったり、呼吸が少し難しかったり、気圧の変動によって耳に痛みを感じたりします。でもその太陽がなかったり、頭が痛かったりすることも、慣れてしまうと、それが普通のことだと感じるようになります。
 そして一月半ばくらいに突然風が吹きます。それで気候が変わります。そうすると朝起きても頭が痛くない。太陽も照り輝いている。そしてその時に「あ!これが本来の姿だった!」と気づきます。私たちは簡単に悪い環境に慣れてしまうものです。
 私がみなさんをヤキマに招待するなら、私はみなさんにヤキマの悪い環境を体験してもらいたくはありません。誰かが、「ヤキマってどんな所ですか?」と聞いた時に、もし私が太陽が照り輝いている時期を忘れてしまっていたら、「ヤキマの環境は本当にひどい所だよ」と否定的な言葉しか出てこないかもしれません。本来言うべき言葉というのは、「三百日も太陽が輝いている場所なんですよ。」と言うべきなのです。
 これが私たちクリスチャンとしてやるべきことなのです。時に環境があまり良くないこともあります。しかし、私たちは常に神の国の環境は非常に良い所だということを覚えている必要があります。

 モーセについて今日、聖書の箇所を読んでいただきました。そこでは天国の良い環境が悪い地上の環境に侵入してくる様子が描かれています。

 デイビットという私の友達がいるのですが、彼はよく自分の教会にいる、ある人の話をしてくれます。デイビットはテキサスから来ている南部育ちの人で、その教会にはカウボーイのような人たちがたくさんいます。
 ある青年は非常に悪い家庭環境の中で育ちましたが、やがてクリスチャンになりました。そのお父さんはひどいアルコール中毒者だったそうです。ある日、アルコール中毒のお父さんがクリスチャンになり、そのことによって、家の雰囲気がガラっと変わりました。
 そしてある時、その息子にこう尋ねたそうです。「イエスさまは本当に水をぶどう酒に変えたと思いますか?」
 すると、その息子は、「イエスさまが本当に水をぶどう酒に変えたかどうかは分からないけど、私の家では、私のお父さんがクリスチャンになった時、イエスさまはビールを家具に変えてくださった。」と言ったそうです。父親はお金を使ってビールをいつも飲んでいたわけですが、彼が変わったことによって家具が買えるようになったというのです。父親がクリスチャンになり、その環境は変わりました。
 しかし息子は自分が育った環境について怒りが残っていて、父親が救われてから彼がクリスチャンになるまでに十年くらいかかったようです。でも彼は、自分の父親がどのように変わったか、そしてそれによって自分の家がどのように変わったかということを理解していました。そして時間はかかりましたが、イエスさまだけが私たちに素晴らしい希望を与え、私たちの人生を変えることができる方だということに気づくことができました。

 最初に読んでいただいた聖書箇所の中でモーセが体験した神の栄光について見る時に、私たちは環境について学ぶことができます。モーセは山に上り、神の栄光に触れる機会がありました。山から下りた時、神さまの栄光があまりにも強かったので彼の顔はその栄光を照り輝かせ、誰も彼に近寄ることができなかったと書いてあります。そのためモーセは顔におおいをかける必要がありました。ですが、この聖書を読んでいると分かるように、彼が山から下りるとその栄光は少しずつ薄れていきました。
 最初、モーセが山から下りて来た時には、神の栄光の輝きを見ることによって人々が死ぬことのないように彼は顔をおおいました。ですが時間が経つにつれて、彼はその栄光が薄れていくことに気づきました。しかし彼は顔のおおいをかけたままにしました。それは人々をその死から守るためではなく、神の栄光が去っていったことを人々に見せないためでした。

 私にも、神さまの栄光が薄れていくような時があります。「神さまは私を用いることができないんじゃないか。」「神さまは私をふさわしいと思っていないんじゃないか。」と思うような時があります。
 ですが聖書が教えているのは、栄光は私たちから来るのではないということを教えています。環境を変える栄光は神から来るものです。むしろ私たちは神の栄光を反映させる者でなければなりません。
 夜に月が輝いている時、月は月自身が光を放っているわけではありません。月は太陽の光を受けて、その光を照り輝かせているのです。私たちはその月のようにならなければならないのです。
 破壊されているこの地に私たちが遣わされる時、神さまは神の栄光を反映させなさいということを教えておられるのです。
 私の体験から言うと、この地上で生きることは大変なことです。私はあまり良いクリスチャンでもないし、良い牧師でもない。私自身にも問題はたくさんあります。私を通して人々は神の栄光を見ることができるのだろうか、私は神の栄光を反映させているのだろうか、と心配になることがあります。
 しかし神は言われます。「何があなたに起こったとしても、わたしの恵みによって、あなたは神の栄光を現すことができます。」
 何があっても、神の国は私たちと共にあります。神の国というのは私たちが買い求めるものではなく、恵みによって与えられるものなのです。
 神は言われます。「神の栄光が消え去っていくように感じるような時でも心配する必要はありません。わたしの臨在の中にある時、あなたは更なる栄光で満たされるからです。」
 イエスさまは「わたしと一緒にいなさい。」「わたしの恵みを体験しなさい。」「わたしの愛を体験しなさい。」と言われます。

 アメリカにハビーロビーというクリスチャンがオーナーの店があります。そのオーナーがワシントンDCに聖書の博物館を造りました。そして多くの宣教団体などにお金を寄付しています。そのハビーロビーという店は手芸屋さんなのですが、そこにこのようなサインがあります。“Live like somebody left the gate open.” =「誰かが門を開けたままにしたかのように生活しなさい。」
 これは西洋的な考えですが、その意味は、この犬は普段は門が閉ざされた庭の中でちょこっと遊べるだけですが、今日は主人が門を開けっ放しにしてくれて、「もう自由だー!」と飛び跳ねている姿です

 一番最初に日本に来た時は、Pは一歳でした。彼はもう三十歳近くになっています。その時に現在の義父である望さんと私は契約を交わしたわけです。五千ドルくらい渡しました。今Pは彼の娘と結婚し日本に住んでいます。日本語を結構話せるようになっています。
 彼が日本に来る前、私は日本で問題を起こしたことはありませんでした。問題が起こらなかったというよりも、誰も私にその問題を教えてくれませんでした。
 でも今は私が日本に来るとPが、「お父さん、それはやっちゃいけないことだよ。」「そういう言い方しちゃぁ、日本ではいけないんだよ。」と言ってきます。
 なので私には新しい計画があります。Pが繋がっている人々の所に行って、「私はPのお父さんですよ。」と言って、彼を辱めるために西洋的な日本ではやってはいけないことをすべてやろうと思います。そして私は家に帰り、Pはそれと共に生きていかなければいけません。
 そんなことを考えたのですが、やっぱりやめとこうと思いました。Pのためではなく、彼の奥さんのためです。彼女を守るためです。
 メッセージに戻ります。

 私たちは時に、悪い環境があるということを忘れて生活している時があります。神さまは私たちのために門を開いていてくださいます。私自身も悪い時がありますから皆さんにもそのような時があることが分かります。しかしどんな時でも、神さまは私たちのために門を開いて、自由を与えてくださっています。
 私に与えられている本当に好きな祈りはこれです。この祈りをよくします。このように言います。「神さま、私はこの環境を違うように感じるべきであるということを分かっていますが、それができません。私を助けてください。あなたの恵みによって、この環境の本来の姿を見させてください。」
 聖書の中で、悪い霊によって火の中に何度も投げ込まれる子どもの話がありますが、イエスさまは言いました。「あなたはわたしを信じますか?」そして父親は言いました。「信じます。信じることのできない私を助けてください。」彼は「信じたい。しかし難しい。」と言いました。時に周りの環境が私たちに「信じる」ということを難しくさせることがあります。しかし、神さまは門を開けておられます。

 詩篇二十四篇七節〜十節をお読みして終わりにしたいと思います。中村さんは日本語で読んでもらえればと思いますが、最初に私が英語で読みたいと思います。
 門が開かれるということがあなたの人生に起こるように、その宣言として、英語で読みたいと思います。私が英語で読んでいる時、皆さんには意味が分からないかもしれませんが、神さまは理解しておられるし、悪魔も理解します。これを宣言の祈りとして読みます。詩篇二十四篇七節〜十節、

Psalm 24:7-10 New Living Translation (NLT)
7 Open up, ancient gates! Open up, ancient doors, and let the King of glory enter.
8 Who is the King of glory? The Lord, strong and mighty; the Lord, invincible in battle.
9 Open up, ancient gates! Open up, ancient doors, and let the King of glory enter.
10 Who is the King of glory? The Lord of Heaven’s Armies
— he is the King of glory. Interlude

『門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。セラ』

 どうぞ皆さんお立ち上がりください。共に祈りましょう。

 皆さん考えてみてください。あなたの人生の中でどこに神さまの栄光がその門から入ってきていただきたいでしょうか? もうすでに門は開けたままにされ、あなたは自由になり、神さまと共にいるのです。そして、人のすべての考えにまさる神の平安が与えられ、神さまを信頼し、神さまと共に生きることができるようにお祈りしましょう。

 私たちの失敗をすべて知っておられる主よ、あなたと共に立つことができることを感謝します。神の栄光が私たちといつも共にあることを感謝します。
 今、この部屋の中にいる全ての人たちが祈ったすべての状況に対して祈ります。神の栄光がそこに現され、自由にされ、彼らが門から出て行くことができるように助けてください。そして恵みによって与えられる平安が一人ひとりを包みますように。平安は神の恵みによって与えられます。
 完全なる神の国が現れることを信じ求めます。今一人ひとりが祈ったすべての環境をあなたが変えてください。そして一人ひとりがその環境を変えていく者となりますように。あなたの力、あなたの恵み、そしてイエスの血潮によって。
 イエスさまのみ名によって祈ります。アーメン。