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「主の声が聞こえませんか?」

  • 2020年2月23日(日)

新城教会牧師 上條実
エレミヤ書10章13節

『主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。』

 ハレルヤ!今日こうして皆さんの前に立って、みことばを語ることができることを心から感謝します。まず一言、お祈りさせていただきます。

「愛する天のお父さま。あなたのみ名を、心の底から賛美いたします。新城教会が今年、七十周年を迎えることができましたことを心から感謝します。この七十年間様々な出来事がありました。そんな中であなたはいつも助け、また守り、新城教会を支えて来て下さいました。これからの新城教会が衰退するのではなく、大発展を見せていただけるように願っております。
 今日のみことばを通して、一人ひとりに勝利と力を与え、更に強められる時となりますように、主よ、支えてください。今からの時間を主にお委ねいたします。愛する主イエスさまのみ名によって、お祈りをおささげいたします。アーメン。」

 いつもお祈りを心から感謝します。まずリバイバルミッションのために、いつもお祈り下さり、支えてくださいます事を心から感謝します。「リバイバルミッション2020」という伝道集会を今日は熊本県で行っております。平岡修治先生とサックスの安武兄。そして音響スタッフと三人で奉仕をしております。本日の礼拝は熊本市にあります熊本ナザレン教会において。そして夕方の四時より葦北郡にありますイエス栄光芦北教会という所で行われます。祈り下さい。来週の日曜までありますので、是非覚えて支えて頂ければ幸いです。
 また我が家のためにも、お祈り下さり感謝しています。家内も少し体調を崩して、動きも良くない時があり、少し入院したこともありましたが、今は元気で、今日も家でこの礼拝をインターネット礼拝をしていると思います。皆さまにお祈りいただき、支えられています事を、高い所からですが、感謝しております。

 それではみことばを学んでいきたいと思います。エレミヤ書十章十三節をお読みしたいと思います。

『主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。』

 このみことばは、多くの方がご存じであると思いますが、一九九三年の十一月五、六、七日の三日間。兵庫県西宮市にあり、あの高校野球で有名な阪神甲子園球場にて、「全日本リバイバル甲子園ミッション」という集会をいたしました。、ある意味日本のキリスト教界の歴史を刻む大集会をいたしました。その大会のテーマのみことばが、今日読んでいただきましたエレミヤ書十章十三節なのです。

 このみことばは新城教会の働きが大きく変化したといっても過言ではない、みことばです。その当時も二百名以上の方々が礼拝に集っていました。このエレミヤ十章十三節によって新城教会が祈るようになりました。あの大きな阪神甲子園球場に多くの方々を集めるには、祈りしかないという事で、日夜祈るようになりました。そして一九九二年二月、私たちの教会に聖霊さまが訪れてくださいました。霊的な大きな扉が開かれ、霊的戦いをこの教会に開いて下さいました。そして聖書にあるような不思議としるしを見せていただくことができるようになりました。あの全日本リバイバル甲子園ミッションの大会の最終日、西宮市の周りは土砂降りの雨でした。最後滝元明牧師がメッセージをし始めた時、ぽつりぽつりと雨が降りはじめた時、みんなで祈りました。すると奇跡を見せてくださいました。大阪の市内の方から大会本部に電話があり、「大阪市内はどしゃ降りなんですけど、集会は開催しているんですか?」と問い合わせてきました。しかし甲子園球場の上は、みんなで祈った後、雨もやみ、何も雨を気にすることなく賛美し、メッセージを聞くことができました。集会が終わり、最後の最後、荷物をすべてのトラックに積み終えて、解散して、今からホテルに帰ろうと思った時、甲子園球場に土砂降りの雨が降り出しました。私たちは奇跡を体験しました。それを見、体験した時、主に栄光をお返しすると同時に、主を恐れました。聖霊の力を体験することができました。

『主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。』

 今日私たちの教会の中に、問題や病なとどうしても叶えて頂きたいことがあります。全日本リバイバル甲子園ミッションの時、主の声を聞いて、新しい扉、聖霊の大きな力を体験したように、今再度、主の声を聞いて、更なるリバイバルの業があらわされるように、新しい扉が開かれるように祈りなさい。と教えられています。

 少し話は変わりますが、リバイバルミッションニュースに平岡修治先生が去年の十月号に書いて下さった文章に、とても感動しました。その文章をお読みしたいと思います。

“「伝道」は 教会の最重要使命です。救われた者が果たさなければならない主からの「命令」であり「責任」です。私たちがこの地上に生かされている最大の理由は、福音を伝えるためです。伝道は「人間の命」がかかっている「緊急案件」です。これからも「リバイバルミッション」は 救霊の働きに邁進していきます。「祈り」も「賛美」もやがて再び天国で体験できます。でも「伝道」だけはこの地上で、しかもクリスチャンしかできない特権です。時も限られています。”

 私はこの文章を読んで、伝道は「人間の命」がかかっている。「緊急の案件」ということを強く教えられ、いま全国の教会で開催している伝道集会は、「人の命」がかかっているとても大切な働きだという事を再認識しました。。

そんな中で、つい最近テレビにおいて、このようなニュースが流れました。一度見ていただきたいと思います。

終末へのカウントダウン

 多くの方がこのニュースを見られたかと思いますが、人類滅亡まであと百秒だというのです。今の見ていただいた映像は五十五秒でした。ということは、今の映像を二回見たらもう人類は破滅してもおかしくないのです。

 今は新型コロナウィルスのニュースで消えてしまいましたが、つい最近イランとアメリカがものすごく緊張状態でした。いつ戦争が起こってもおかしくない状況でした。しかし新しい問題が出て来ると、その緊張感が消えうせてしまっています。人類が滅亡するかもという最悪案件でありながら、今は全く緊張感のない状況になってしまったというか、目隠しにさせられてしまっています。

 そして今は、コロナウイルスだという事で心騒ぎ、アルコール消毒やマスクなどで予防すれば大丈夫だとか、いろいろなことを言われて必死になっていますが、世界の時計は今も動いています。現実はあと百秒で終末時計は滅びるのです。もし今のアメリカ大統領選挙が始まっていますが、人気取りのように大統領が「戦うんだ!」と一言歯車を外してしまったら、核ボタンを押してしまったら、もうこの地上は百秒後にはなくなってしまう時代です。

 また少し話が違うのですが、去年私はとあることで救急車にて運ばれました。そう言ったことがあったためか、今年一月の初めにネットの記事で「道を譲ってください」というタイトルで、今緊急車両が通っても歩行者や車が進路をふさぎ、どいてくれないという、そういう文章に目が留まりました。ベテラン消防署員から「緊急自動車の運転が難しくなり困っています。特に横断歩道を渡っている歩行者はなかなか協力していただけません」とありました。
「救急車に対しての道の譲り方が不十分」とか「救急車が来ているのに全く気にせず横断歩道を歩く人」をよく見かけるようになったそうです。私はそんなことが本当にあるのだろうか思いましたが、今から三つ、映像を見ていただきたいと思いますが、本当の出来事でした。

<映像2>
救急車輌-1

<映像3>
救急車両-2

<映像4>
救急車両-3

 最後の映像は二年前、ロシアにてサッカーのワールドカップがありました。初戦、日本が強豪コロンビアに勝って、渋谷のスクランブル交差点は民衆で大騒ぎでした。ちょうどその所に救急車が通りました。しかし勝利に酔いしれた群衆のバカ騒ぎの為に、警察がどれだけアナウンスをしても救急車はなかなか進むことができませんでした。一秒でも早く、重篤な人は、病院に到着して治療をしなくてはなりません。しかし自分勝手な行動によって、助かる命が助からなかったらだれの責任になるのでしょう?
 また交差点などでも、緊急車両に道を譲ることは当たり前のことであるにもかかわらず、ここでも自分勝手な行動を行い、緊急車両が来ていても無関心。自分の行動が第一優先にしてしまう今こんな時代になり下がってしまいました。終末時計を考えると、もうまもなくこの世が破滅してしまう時でありながら、緊急性がほけてしまっています。

 では私たちはどうでしょう。自分や教会が無関心になっていないかと、問われたような気がしました。多くの方々が永遠のさばきに向かっている現状。また多くの問題を持ち、病や人間関係などなど、イエスキリスト以外に解決することができない事がたくさんあります。
 しかし私たちは霊的な救急車が、私たちの周りを通り過ぎようとしているにも関わらず、その救急車や緊急車両の進路を邪魔をしていないだろうか?いや、主が命がかかっている最重要案件だ、すぐ対応しなさいと主が声を出し、様々なサインを送ってくださっているにもかかわらず、全くの無関心、自分中心の生活で、主の声が聞こえない。そんな事態になっていないか確かめなさいと語られた気がしました。自分の趣味や、興味のある事、必要なものに関しては、どんなに忙しくても時間を取ってそれを行います。自分のことが一番で、イエスさまがその二、その三になっていないか、今日点検し、主に喜ばれる者にさせて頂きたいと願わされます。ルカによる福音書十章二十七節に

『すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」』

 これはとても有名なみことばです。主を愛するということと同時に、隣人をあなた自身のように愛しなさいというみことばです。しかし私たちは隣人が見えなくなってしまっています。隣人がどんなに苦しんでいるか、病んでいるか、問題を持っているのか関心がないのです。大変な状態である事も知らずに、呑気に自分の趣味、仕事、生活に対しては、必死に動き、隣人の事は全く動かない。しかし聖書は『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』と語っています。

 ヨハネ三章三十六節に、

『御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。』

とあります。「御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」とあります。隣人を自分自身のように愛さないなら、神の怒りがその上にとどまるとあります。みことばは神のことばです。六十六巻、一言一句主のことばとして、私たちの霊的なマニュアルとして、従い、生活していかなければいけないにも関わらず、知らない間に、そのみことばに聞き従わないで、自分優先の毎日になっている。

 イヤホンをして自転車に乗車してはいけないという法律が数年前ですが、施行されました。その法律が施行された時、私は自転車で教会に通勤していました。高校生に混じって自転車を走らせていると、交差点で警察官が私に向かって、「おまえ何やっとるだ!」と、すごく怒りました。私はすぐに自転車を降りて、「すいません!」と言ったら、私ではなく、すぐ前にいた高校生でした。その高校生がイヤホンをして自転車に乗っていたので、「イヤホンを外せ!」とすごい威圧感で言っておりました。イヤホンをしていたら、周りの音が聞こえず、とても危ないのです。私たちは悪魔悪霊に知らず打ちにイヤホンを取り付けられ、主の声を聞こえなくしてしまっているのです。今日、主はあなたにだけ聞こえるサイレンをあなたに聞かせていると信じます。あなたは一つの器官を担っています。その器官しかできない働きがあり、あなたに主が働きなさいと声を出していると思います。それは緊急案件です。人の命に関わるものとして、いや、この世界の滅亡のためにも関わる事であり、あなたはこの為に働きなさいと語っておられると思います。今日私たちクリスチャンが主の声を聞き、行動できる器になるよう求めています。

 今一つ示されていることがあります。それは何かというと、まず罪を悔い改めなさいという事です。マタイ六章三十三節、

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』

とあります。第一のものを第一にしていないというのは罪です。主が忌み嫌う事をしながら、主の働き、教会の一つの器官を担うことはできません。主は「まず、隠している罪・悔い改めていない罪を、今日イエスキリストに告白して、聖めて頂きなさいと耳元で、大きなサイレンを鳴らして、主が声を出しているのです。ヨハネ五章二十四節、

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。』

 主のことば(声)を聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。しかし罪があったら、主の声に従わなかったならば、さばきに会い、死に移されてしまいます。イエスキリストの十字架をないがしろにしないでください。「今このことを悔い改めなさい。」と主が声を出しているのであれば悔い改めの祈りをさせていだきましょう。

 ルカ十二章四十六節、

『しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません。』

 主はまもなく帰ってこられます。それも思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。とあります。主が帰ってきてしまったら遅いのです。今日悔い改めましょう。主は聖さの中に働かれます。

 主が声を出している、もう一つのサイレンは、「伝道しなさい」という事です。聖書の中にローマ十章十四節、

『しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。』

 あなたが語らなかったら、聞くことができない人がいます。今主は私たちに伝道しなさいと伝えています。趣味や楽しみを優先し、伝えなければならない時を逃してしまっている。だから今週、主の声を聞いてイエスキリストを伝えて行きましょう。第一コリント十章三十一節、

『こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。』

 私たちは何をするにも、生かされているのは、主が私たちを生かしてくださっています。だから何をするにもただ神の栄光を表すものにしていただきましょう。

 時々2030年問題という事が、ここで語られます。あと十年もすると、日本キリスト教団の統計では、ほとんどの方が七十五歳以上になり、教会員の三分の二が七十五歳以上になる。教会もほぼ半分以下、もう教会が成り立っていかないという問題が出ています。

 また今の牧師先生方の年齢層という統計があります。それによると三十代の牧師先生が二パーセント。四十代は八パーセント、五十代は十八パーセント、六十は二十四パーセント、そして七十が二十九パーセント、八十代がなんと十八パーセントだそうです。五十歳以上の牧師が八十九パーセント。牧師たちも高齢化です。祈ってください、八十代が十八パーセントというと、普通から考えればこの数年で牧師先生がいなくなる教会が約二十パーセントぐらい生まれるという事です。また今神学校に入る神学生がいなくて、各神学校は困っています。日本の教会の危機です。日本から牧師がいなくなってしまいます。主が声を出しています。あなたに主が声を出しています。聞く耳を与えて頂きましょう。

 もう三十何年か前の事で、当時霊的戦いなど全く開かれていない時でしたが、ある日精神的にとても疲れきったひとりの男性が、教会に訪ねてきました。
 その時私が対応してお話させていただいたのですが、その方は私と同じ年であり、ある家に養子に入られてなどなど、とても共通点があり、久しく交わりを持たせていただきました。その後礼拝にも参加するようになり、少し元気になってきたかなと思って感謝していました。
 しかし突然その方が教会に来なくなりました。なぜだろうと思いつつご自宅に訪問すると、彼の調子がとても悪く、暗く家に引きこもっていました。彼に話を聞くと、家の問題や様々な問題があり、とても苦しいと打ち明けてくださいました。最後に一緒に祈ろうという事でともに祈って別れました。
 その後何度か私の心の中に、彼の事が思い出されました。訪問しようかと思いましたが、忙しかったり、調子が悪い時にかえって行かない方がよいのではないかと思い、祈ってはいましたが、訪問することを控えていました。そんなことが何度かあったある日、彼が亡くなったという訃報を聞きました。とても辛い思いがしました。自ら命を絶ってしまったのです。私に主が何度か声を出してくださっていました。彼の事を思い出し祈ってはいました。しかし自分なりに配慮したつもりで訪問することを躊躇していました。先ほどルカによる福音書十章二十七節

『すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」』

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とありますが、私は隣人にはなれませんでした。主からの声を聞くことはせず、逆に自分は配慮があるかのような思いすらありました。しかし主の声を聞けず、彼の苦しみに寄り添う事すらできず、悲しい結末になってしまいました。今日主の声を聞くことのできる者とさせていただきましょう。

 またもう一つは主が戦いなさいと言われたら、戦う事の出来る者になりたいと思います。
とりなしの祈りをささげて行く者になりたいと思います。毎週礼拝にて素晴らしい聖書のみことばを伺っています。私たちはただ聞くものだけであってはいけないと思います。語られたみことばから、このことを祈りなさいと主が語っていると信じます。あなたは応答して祈っていますか?また様々なニュースや毎日の出来事を通して、主が声を出しておられます。あなたという器官。あなたが住んでおられる場所や仕事、さまざまな状況をご存じの主が、あなたに直接声を出して、このために祈りなさい。戦いなさいと声を出しおられます。是非声を聞いたらお祈りしましょう。
 特に今、ニュースを見れば、新型コロナウイルスのことばかりです。そして毎日何人感染した、また亡くなられたなど、目に見えないウイルスに怯えるばかりです。いつ終息するか見えず、様々なイベントや人の集まることは自粛しましょうなど毎日報道がなされています。新城教会も今日からいたるところにアルコール消毒液を設置しました。また必要な方は玄関にマスクが置かれていますので、ご使用くださいなどの対策がなされています。ぜひご使用していただきたいと思います。シンガポールでは教会が感染拡大の拠点となってしまったために、シンガポールは教会の礼拝が無期限で停止になってしまったそうです。韓国も同じようなことがあったみたいです。今日ある牧師先生の文章を見ていましたら、「もうこれで日本は終わりだ。コロナウイルスで大変なことになってしまった。」ととてもネガティブな文章が書いてありました。
 しかし私たちクリスチャンはそれでいいのでしょうか?私たちは全能なる神を信じています。今日、私たちクリスチャンには権威があります。武器であるみことばの剣があります。対策も必要ですが、ぜひ大胆に主の前に出て、新型コロナウイルスに対して、主にあって「早く終息するように」祈りましょう。また祈る中で主が声を出しておられると思います。ある方にはこの場所に行ってお祈りしなさいとか、このテーマで戦いなさいと語っていると信じます。私たちクリスチャンには主の権威が与えられています。信仰もって祈ろうではありませんか。マタイ八章八節

『しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。』

 これはカペナウムに入った時に百人隊長が来て、一人のしもべが中風で病んでいる。イエスさま治してください!と言った時の一文です。百人隊長が「わざわざあなたを自分の家にお入れする資格はないものです。ただことばをください。そうしたら必ず治りますから!」と言いました。主のことばをください。そうしたら治ると行ったのです。私たちもみことばを頂きましょう。そうしたら治りますからというみことばを信じて祈りましょう。

 私たちには霊的権威があります。私たちは一人ひとりがみことばの剣を握って告白しましょう。宣言しましょう。早くこの日本、世界からコロナウイルスがなくなるように。終結するように祈っていきたいと思います。

 詩篇九十一篇三節に、こういうみことばがあります。

『主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。』

 このみことばは、私がコロナウイルスの為に祈っているときに与えられたみことばです。恐ろしい疫病からあなたを救い出す。主のみことばです。このみことばを剣として今週ニューを見たりしたときに宣言しましょう。私たちは宣言して祈るだけです。しかしルカ一章三十七節には、

『神にとって不可能なことは一つもありません。』

とあります。主のみことばには力があります。『主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。』このみことばの剣で今週は是非、祈りましょう。その中で、主が必ず門を開いてくださると信じます。

 そして最後に、もう一つ、主が私に語ってくださっていることは、信仰による愛の行いがあるのか?「愛の行いをしなさい」と語られました。ルカ五章十八節~十九節に、こんなみことばがあります。

『するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真ん中のイエスの前に、つり降ろした』

とあります。四人の人たちが、中風の人の癒しの為に、愛の行動をしました。担ぎ上げて、屋上まで連れて行き、屋根をはがして穴をあけ、イエス様の前におろしたのです。中風の人の癒しの為にというその目的一つで、常識にとらわれずに行動したのです。ただその人のための愛の行動を行ったのです。自分はそれだけの愛の行動があるのかな?と思います。
主が「愛を示しなさい。」と言っても、自分が唐突にその人に祈ってあげたり、また愛の行動をすると、その人が何と思うか分からないとストップしてしまいます。愛の行動ができないのです。ルカ十章三十七節、これは良きサマリヤ人のところのみことばですが、

『彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』

 あのサマリヤ人は、敵のユダヤの人に対して、わざわざ自分から出かけて行って、その人を介抱し、宿まで取って連れて行き、一晩介抱しその後は宿の人に依頼し、お金がかかったら、帰りに私が出すからと、何のメリットもないのにも関わらず、敵を愛した姿、私たちは、お世話になっている方々に対しても愛の行動ができないで終わってしまっていることがたくさんあると思います。

「あなたも行って同じようにしなさい。」

もしかしたら、主が「あなたも行って同じようにしなさい。」と言われているかもしれません。あなたはいかがですか?受けるばかりの人生になっていませんか?愛の行動をしていきましょう。

更に主はあなたにもっと声を出して、主の声を聞きなさい。実行しなさいと語っておられると信じます。今、この日本に、愛するこの新城教会に新しい扉が開いてほしいと願います。新たな扉が開かれるためにも、再度。

『主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。』

主の声を聞き、聖霊の激しい訪れ、雲を登らせ、雨の為にいなずまを造り、その倉から風を出される。聖霊の風がこの地に吹きあふれるように祈りましょう。もうまもなく主が来られる時、緊急案件があります。
 私たちは主の声を聞いて、扉が開かれ、癒やしの扉、また解放の扉、すべての様々な扉が開かれて、主の業がこの地にあらわされるように期待しましょう。最後にもう一度、エレミヤ書十章十三節をお読みしたいと思います。

『主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。』

 一九九二年にこの教会に聖霊様の訪れがありました。主の声を聞いて、ここまで主が成長させてくださいました。さらに扉が開かれるように、皆さんの今一番の関心事「これを祈りなさい!」と言われることを今日は祈りたいと思います。また霊的な耳が開かれるようにお祈りしましょう。お祈りさせていただきます。そして聖餐式を行いたいと思います。

 愛する天のお父さま、今、私たちに触れてください。主よ、私たちの霊的な耳を開いて下さい。知らない間に閉ざされてしまいました。今日、『主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。』このみことばを信じて祈ります。主が生きていることを信じます。大いなる素晴らしい主のみわざ、奇跡、人間的には非常識なような主のわざがこの地に現されることを信じます。その為に主の声を聞かせてください。そして実行できる器とかえてください。
 常識的には無理だと思っても、あなたには不可能なことは一つもありません。主よ、声を聞かせてください。そして動いてください。聖霊の圧倒的な勝利と癒しと業がこの地に起こされますように。また何よりも主のみ名が高らかに賛美されますように。主の声を聞く器となれますように。
 今から聖餐式を行います。この聖餐のカップとパンは、御霊によってイエスキリストの血潮と肉であることを宣言します。今日、一人ひとりがこの聖餐によって主に触れていただき、大いなる勝利をいただく時でありますように。期待します。主イエスさまのみ名によってお祈りいたします。アーメン