「永遠への種まき」

  • 2020年3月1日(日)

新城教会牧師 岡本信弘
第二コリント人への手紙9章10節〜14節

『蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。このわざを証拠として、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、彼らに、またすべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめることでしょう。また彼らは、あなたがたのために祈る時、あなたがたに与えられた絶大な神の恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになるのです。』

ハレルヤ! 主のみ名を心から感謝します。新しい年になってもう二カ月が過ぎました。今も祈りましたが、年初から発生した新型コロナウイルスにより、これからどうなるんだろうと心配している方も大勢おられると思います。
私も出始めの頃は他人事のように思っていたのですが、大勢の人が罹患し、突然、小中高校の休業が要請され、さまざまなところにも影響が出たりして、これは大変なことになったと思わされています。多くの情報が出回り、それらの情報を収集することは必要ですが、必要以上に恐れることなく、慌てることなく、いつも祈っているように、すべての被造物、すべてのウイルスまでもが主をほめたたえるように祈っていきたいと思います。そのような武器が私たちにはあり、共に戦っていけるものがあるということは本当に感謝なことです。

さて今年は、新城教会宣教七十年ということで、多くの昔話が語られています。それを聞きながら(私は七十年前には生まれていなかったので、そこまでは振り返ることはできませんが…)、懐かしく、「そんなこともあったなぁ」と思っていますが、皆さんどうでしょうか。五十年前に加わった人、三十年前に加わった人、数年前にここに加わった方もおられますが、今ここに共に礼拝できるのは、本当に主の恵みだなと思わされています。

しかし、私たちは思い出ばかりに浸っていてはいられません。今年、私に与えられたみことばはルカによる福音書五章で、イエスさまがシモン・ペテロに対して、「深みに漕ぎ出して網をおろして魚を捕りなさい」と言われ、網をおろしたらたくさんの魚がとれたというところから、私たちはこの場にとどまるのではなく、さらに一歩前進させていただいて、主のみこころを現していきましょうと、前回語らせていただきました。
そして今日は、先ほど読んでいただいたみことばから、『永遠への種まき』と題してお話ししたいと思います。

聖書には、種にまつわる例え話が随所に出てきます。種という単語は、聖書中、二百三十五回、新訳聖書だけでも七十三回出てきます。
 その中の一つ、マルコの福音書四章二節〜八節をお読みします。

『イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」』

種は神さまが創造されたものですが、不思議なものだなといつも思わされます。地に蒔くことによって、様々な色の花が咲きますし、実をならせる種もあります。しかし、種を持っていても、蒔かなければ種のままです。冬服のポケットに入れたままの種は決して芽を出すことなく、次の年にも同じ状態の種がポケットから出てきます。何も変化していないのです。あんな小さな種なのに、あの中はどうなっているのだろうと思ったりします。
また、蒔く場所によっても成長が違います。
新約聖書出てくる「種」について調べてみると、多くは、主食になる小麦の種のことを言っているようです。収穫するためには、まず種を蒔く必要があります。
現在の小麦栽培の効率は極めて高く、一粒蒔くと五十粒程度の収穫ができると言われ、約五十倍の収穫が期待できるそうですが、新約聖書が書かれた時代では、驚くことに小麦一粒を蒔いても二粒程度しか収穫できないほど効率が悪かったようです。百粒持っていてそれをすべて蒔くと二百粒になりますね。でも二百粒食べてしまったら次の年に蒔くものがなくなってしまうということです。ですから、自分の食べる分を減らして、次の年の種まきのためにとっておくことが必要だったようです。とすると、多く蒔かなければ多くの収穫ができませんから、『少しだけ蒔く者は少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は豊かに刈り取ります』(コリント人への手紙第二 九章六節)というみことばには、このような事情があったのです。

新城教会においては、明先生が郷里に戻り、この地で伝道を始められて今年で七十年となりますが、多くの種を蒔き続けてこられました。人間的に見ると、絶対に芽が出るはずのないと思われるようなところに種を蒔き続け、そのことによって、見城しずえ姉が救われ、そして私の母や田中政男先生はじめ徐々に人々が救われて初期の新城教会が誕生しました。
ビジネスにも同じようなことが言えます。物を売って儲けるためには、宣伝という種まきが必要です。皆さんはテレビを見ていて、CMがなければいいのにと思うことがあると思いますが、CMによって番組が成り立っているので仕方ないわけです。CM一本で何十万、何百万とかかっていると聞いて、それだけの金額に見合う効果があるのかなと思ったりします。ただ、スポンサー企業が業績不振になった時、テレビCMをやめたらその分の経費が浮くのですから経営は楽になりますが、売上は一気に落ちるそうです。それを聞いて、なかなか難しいものだなぁ、やり続けなければいけないのだなぁと思いました。
私もビジネスで、なんとか多くの収穫をしたいと思ってチラシを新聞折り込みしたりDMを送ったり様々な宣伝をしていますが、蒔いたもので、どれだけ収穫できたかは、すぐには数値に表せません。蒔いた種が芽を出し、収穫するまでにはかなりの期間を要するからです。

私はメッセージを考えながら、自分に与えられたみことばを、全国の牧師先生がどんなメッセージをしているのだろうとネットで検索することがあります。今は便利ですよね。検索ワードを入れると、すぐに結果が出てきます。
今回、「種」という言葉で検索したところ、メッセージがたくさん出てきました。内容は開かないとわからないのですが、二〇〇七年に誰かが語ったメッセージに目が留まりました。二〇〇七年は、ハワイリバイバルミッションが行われた年であり、私の母 キヨが天国に召された年でしたので、そのメッセージを開いてみることにしました。すると、それはなんと、二〇〇七年三月に滝元明先生が語った礼拝メッセージでした。「おお〜」と思いながら、懐かしくそれを読ませていただき、すごく恵まれました。その中で私のメッセージに関連するところを少しだけお読みしたいのですが、このようにありました。

“クリスチャン人生が祝福される道は、『受けるよりも与えるほうが幸い』とあります。この教会がいつから祝福され始めたかを私は知っています。
私が新城に開拓伝道に出てダンスホールを会場に集会をしていた時、私は、まだ麻工場で働いていましたが、当時新城教会では、ある人が、「滝元さん、新城の人はケチだから献金させると人が来なくなりますよ」と言われ、礼拝献金をしませんでした。ある時、宣教師のシメオンソン先生が来られた時も献金をしなかったら、先生が、「どうして献金がないのですか」と言われました。私は「この町の人はケチなので、献金させると来なくなるので献金させないのです。だから、私は献金を取らない主義です」と言いました。すると、「先生、取らない主義と言いましたが、取るとか取らないとか、献金は先生が取るのですか。神さまにささげるものではありませんか」と言われました。そして、「そういう教えは聖書のどこにありますか?」と聞かれ、「まあ、聖書はともかくとして…」と言いました。
「先生、宝を天に積めと書かれてあるでしょう。またマラキ書には十分の一をささげたら天の窓を開けて溢れるばかりの祝福を与えると書いてあるでしょう。献金したら神さまが祝福されます。先生はクリスチャンから祝福を奪っているのです。傲慢ですよ」と言われました。
その時に私の目が開かれ、初期の教会は二十人くらいでしたが、「教会堂を建てよう。予約献金をしよう」と話し、一カ月に一万八百円が必要なところ、予約したら一万一千円でした。それを五年間続け、ついに二百九十坪の土地を買い、百人入れる教会が建ちました。この教会は、ささげるようになってから祝福されました。ここにいる先輩クリスチャンたちはケチではなく、喜んでささげたのでこの教会があります。献金とは種を蒔くことです。”

「ケチ」と誰が言ったのか知りませんが、新城の人はケチではありませんね。私はこの文章を読んで、あらためてこの教会の祝福の基を知って、「アーメン!」と思いました。

『このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。』(使徒の働き二十章三十五節)

私の母はこのみことばを大事にし、私にもいつも「受けるよりも与えるほうが幸いなんだからね」と話してくれていたことを思い出します。
『受けるよりも与えるほうが幸いである』、私たちは、このことばを簡単に言ったりしますが、不思議な言葉だと思います。与えたら自分は失うわけですから損をしたように思いますが、そのほうが幸いだと言っているのです。それは、私たちが犠牲を払って与え続けることが、受けることより尊いことだ、と語られているようです。これがクリスチャンの祝福への近道の一つであり、永遠への種まきの原点だと思います。

新城教会 宣教七十年の歴史の中で、会堂建築のことが時々語られます。
先ほどの明先生のメッセージの中のあったように、新城教会初期の二十名ほどのクリスチャンが、持てる中より精一杯の予約献金をして、この土地を買い、皆さんも写真で見たことのある赤い屋根の教会を建てることができました。今となっては、その当時のほとんどの方が天に召されましたが、その方たちが犠牲を払い献金してくださったことによって、この教会の基礎が据えられ、ここまで導かれたことを心から感謝したいと思います。
その後、赤い屋根の教会が増築され、それも古くなってシロアリに食われたりとかして、「新しい会堂を建てよう」と、建築委員会の方がアメリカにも視察に行って学んできてくださり、今から四十年前にこの会堂に建て替えられました。私はその頃まだ二十歳そこそこの若造でしたが、「新しい会堂ができる!」と思うと心がわくわくして、喜んで献金したいと思い、力いっぱい献げたことを覚えています。
この会堂の献堂の時におられた方は少ないと思いますが、四十年経っても古くさいと感じないこの会堂で、冷暖房の効いた快適な環境で礼拝を守ることができることは、恵みです。この会堂も、多くの人が献金してきてくださったことにより今があることを、私たちは忘れてはならないと思います。

第二コリント九章十節に、こうあります。
『蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。』

神さまが蒔く種と食べるパンを備えてくださるとあります。私はこのみことばを読む度に、「自分に与えられた種をちゃんと蒔いているだろうか。神さまが蒔けと言われた時に蒔いているだろうか?」と思います。一年を終える時、「ポケットの中に手を入れたら、たくさん種が残っていた! 私に預けられた種が残っていた!」となったら、神さまに申し訳ないと思います。
では、神さまが語られている「あなたに託された種」とは何でしょうか。

第二コリント九章十一節に、
『あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。』とあります。

ここに、「あらゆる点で豊かになって」とありますが、皆さんが豊かさを感じるのはどんな時ですか? 美味しいステーキを食べた時、新しい家ができた時、子どもや孫が生まれた時ですか? 
辞書で「豊かさ」という言葉を調べてみました。
“真の「豊かさ」「しあわせ」とは、その人の価値観によって二つに分かれていて、一つは、「物質的豊かさ」であり、もう一つは「精神的豊かさ」です。豊かになったとは、これという定義があるわけではなく、一人ひとりの価値観や心の持ち方であり、言い換えれば、自分で満足できる「形」を見つけ、実践できるところに真の「喜び、豊かさ」を感じることができるのです。”と書いてありました。何に豊かさを感じるかというのは、もちろん人それぞれですが、お金は豊かさを表す一つと考えている人は多いと思います。
皆さん、現在いくらくらい預金を持っていますか? 私はたいして持っていませんが、日本人の一世帯平均の貯蓄額は、千七百五十万円だそうです。すごいですよね。日本人って金持ちだなぁと思ったりします。でも一方で、お金があることが豊かであるとは限らない、ということを皆さんはご存じだと思います。
毎年、日本の何万人もの人が自殺をしています。発表されている年間自殺者数は、約二万人。一時は三万人以上でしたから、減ってはいます。しかし、変死者が年間約十五万人いて、その半数以上が自殺と判断されるそうなので、合わせると毎年十万人近くの人が自らの命を絶っていることになります。これは交通事故死者数の約三十倍です。それだけ自殺者が多いということは、精神的に豊かでないとも言えると思います。
「鰯の頭も信心から」ということわざを聞いたことがあると思います。取るに足りないつまらないものでも、信じる人にとっては、ありがたく価値のあるものとなる、ということを意味していますが、多くの方が精神的な豊かさ、日々平安に過ごすことを望んでいるなかで、何を信じていても平安を得られればいいじゃないかと、間違った信仰心を持っています。間違った神々に手を合わせることによって不幸を招いている。これこそサタンの策略であって、豊かさとはほど遠いものになってしまうことを覚えていただきたいと思います。 
私は、喜んでいる人を見る時に、豊かさを感じます。ですから、私の周りにいる人を、一人でも多く喜ばせたいと思います。また同時に、私たちを誰よりも愛してくださっている神さまを喜ばせたいと願い、神さまの夢をかなえたいと思っています。そして、そうすることが私自身の喜びとなり、本当の豊かさを体験することになるのではないかと思わされています。
十一節後半には、『豊かにされた者が惜しみなく与えるようになる』とあります。豊かになって献げるとは、お金だけの問題ではありません。「ない袖はふれない」ということわざもありますが、もちろん、持っていなければあげることはできませんが、本当は持っていても自分がないと思っている人もいるのではないでしょうか。持っているのにもかかわらず、持っていることを自覚していない人は、誰かにそれを与えるということはできないということです。
自分には何もあげるものがない、何も役に立たない、と感じることがあるかもしれませんが、ローマ書十二章四〜五節にこんなみことばがあります。

『一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。』

人間の体には様々な器官があります。体はそれぞれ違う働きをしていので、一つでも欠けると不都合です。不必要なものは一つもなく、役割があるのです。
ちょうどジグソーパズルのようなものです。例えば三百ピースのジグソーパズルがあって、その絵を完成させようとします。同じような形、同じような色の一つひとつがはまる場所は、ただ一カ所しかないのです。たった一つのピースでもなくしてしまったなら、そのパズルは未完成なのです。
同じように、ちょうどここには三百人以上の方がいらっしゃいますが、主は、お一人おひとりを神さまの働きの一つの器官として選んでくださいました。一つでも欠けたらパズルが完成しないように、神さまの働きも未完成になってしまうということです。ですから、私たち一人ひとり絶対に欠けてはならない者であり、皆、役に立つ者であることを、是非覚えていただきたいと思います。
ここには幼い子どもたちからお年寄りまで、様々な年代の人たちがいます。また住んでいるところ、職業、国籍が違う方もおられますが、それぞれに託されている種があります。どんな種があり、どんな実を結ぶ必要があるのか、いくつかを学んでいきたいと思います。

その一つの種は、「伝道」だと思います。
イエスさまがこの地上に来られた目的が、ヨハネの福音書三章十六節にかかれています。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

一人ひとりに真の神を知らせ、永遠のいのちを持たせることが、神さまの最大のミッションなわけです。そして、先に救われた私たちには、まことの神さまを知らないすべての人に「伝道する」という種が預けられています。中でも、人と話すのが好きな人、人を楽しませることができる人、そのような人は、神さまから伝道の種をたくさん託されているかもしれません。かといって、人と話すのが得意でない人も、伝道の種を持っていないわけではありません。この「伝道の種」は、すべての人に与えられています。
皆さんの蒔いた種がどれだけの時間がかかって実を結ぶのかはわかりませんが、少なくとも、誰かが蒔いた種によって、誰かが伝道してくださったことによって、私たちが今ここにいるということも、覚えておきたいのです。

もう一つの種は、「祈り」です。
皆さんは、日々祈っていると思いますが、特に、誰かのために心配し寄り添ってあげられる人、また日本や世界の情勢を見て、そのためにとりなし祈り続けることができる人。寝食を忘れて祈ることができる人もいますね。そんな人は、「とりなしの祈り」の種を預かっている人だと思います。しかし、「祈りの種」も、多かれ少なかれ、すべての人に与えられています。

祈りについて、一つの証しをしたいと思います。
ずいぶん前のことですが、日曜日の礼拝の時、毎週来ている一人のおばあちゃんが近づいてきました。私の所に来ると深々と頭を下げて「先生、ごめんなさい」と謝ってきたのです。私はわけがわからず、「どうしたの? 何のこと?」と問い返すと、「先生、私は毎朝四時には起きて、新城教会や牧師先生方の健康のためにいつも祈っています。先生のためにも祈っていますが、先生は、風邪をひいたこともなくいつも健康なので、先週は先生のために祈らなかった時がありました。そうしたら先生が風邪をひいたと聞いて、先生のために祈らなかったことをイエスさまに悔い改めました。それで、先生にも一言お詫びをしたかったんです」と言われました。それを聞いて私は、「私のような者のために毎日祈ってくださっている方がいる」と、とても感激しました。その方以外にも、多くの方が祈ってくださり、その祈りによって日々支えられているということを思い、あらためて感謝しました。
祈りの課題は尽きません。今は特に、新型コロナウイルス、それに伴う日本経済、世界情勢。また、火山の噴火や地震といった自然災害、憲法改正などの政治的問題、どうなるのかなと心配するだけでなく、私たちクリスチャンは、そのようなことのために祈るべきです。
また、新城教会においての最大の祈りのテーマは、「癒やし」です。享子さんや寛太君、そのほか、病気の方々のために、癒しの扉が開かれるように、主のわざ、神の栄光が現されるように祈っていきましょう。

そして、クリスチャン生活においての種の一つが「献金」だと思います。
聖書には、献金について、このようなみことばがあります。

『十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。万軍の主は仰せられる--わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。』(マラキ書三章十節)

皆さんも、生まれてくる子どものため、家を建てるため、自分の将来のため、老後のためにお金を貯めようと思っていると思います。もちろん備えることは大事ですので、貯めることも必要です。
しかし、ここには『わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ』とあります。今、定期預金をしても〇・〇一パーセントくらいしか利息がつかないですが、神のために蒔いたものはそのままなくなってしまうのではなく、良い地に落ちた種のように、三十倍、六十倍、百倍の実となって返ってきますから、ぜひ皆さん、与えられているものから、精一杯主に献げてみてください。必ず祝福されます。

また、お金を献げるだけでなく、皆さんご自身を主の前に捧げていくということはすごく重要なことです。
それぞれの年代にできることはたくさんあります。若い時には気力や体力がありますが、だんだん年を取ってくると体力が衰えてきて、できることが制限されたりします。ですから、特に若い人たちに言いたいのです。自分の楽しみや夢を実現させることもいいですが、人生を豊かに生きるために、神さまのために何ができるかを考え、自分が受けた恵みの中で神さまにどれだけのものを返せるかを考えていただきたいと思います。できることがたくさんあります。

さらにもう一つの種は、「賛美」です。

『それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。』(ローマ人への手紙十五章六節)

まず、私たちが声を合せて父なる神をほめたたえ、さらにすべての被造物に主をほめたたえさせることです。

皆さんはいつも主に賛美して、主に従っていきたいと願っておられると思います。しかし、いくらクリスチャンであってもいつも順調だとは限りませんし、窮地に立たされる時もあります。でも神さまはみことばをもって励ましてくれます。

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』(ペテロ第一の手紙五章七節)

「心配する必要はない」と主は語っておられます。
この問題は、いくら神さまでもどうにもならないでしょう、と思うようなことでも、理解を超えた神の助けがあります。私たちが神さまに信頼するならば、必ず神さまは祝福を与えてくださる。そしてそれは失望に終わることはないのです。
人間社会の種まきにおいては、台風が来たり、地震が来たり、雨が降らない日が続いたり、道ばたに落ちて芽が出ないことも多々あるでしょう。
しかし、私たちが神さまのために蒔いた種は、一つも無駄になることはなく、それは必ず芽を出し、必ず実をならせ、収穫できることを信じて蒔き続けていきたいと願います。

最後に今日のみことばをもう一度お読みします。
第二コリント人への手紙九章十三節〜十四節

『このわざを証拠として、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、彼らに、またすべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめることでしょう。また彼らは、あなたがたのために祈る時、あなたがたに与えられた絶大な神の恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになるのです。』

神さまが私たちに願っているのは、私たちが自分のためにではなく、誰かのために、また神のためにどれだけのことができるか。惜しみなく種を蒔き、与えることができるかということです。

イエスさまは私たちを子と呼んでくださり、私たちを愛し、私たちに祝福を与え続けておられます。皆さんも愛する家族のためなら、自分のどんなことを犠牲にして何でもしてあげたいと思うでしょう。でも、私は時々、自分の子どもでも面倒くさいと思うことがあります。
昨年、孫が二人生まれました。息子のところに一人、娘のところに一人、皆さんにも祈っていただいて、無事に生まれて本当に感謝です。娘は、夫が四日市で教会の伝道師をしていて、日曜日は朝早くから出かけて行くので、この教会には来ていません。娘の子どもは詩(うた)と言って、ちょうど四カ月になり元気に育っています。娘はわが家に子どもをしょっちゅう連れて来るのでうれしいのですが、眠くなれば泣き、お腹がすくと泣き、構ってほしくなると泣き、と、しょっちゅう泣いているのを見ながら、私も自分の子どものおしめを替えましたが、自分がおじいさんになって客観的に見て、「こんなに子育てって大変だったかなぁ、面倒くさいなぁ」と思いながら、あらためて「自分の両親も大変だったんだな」などと感じている今日この頃です。人間はそんなことさえ面倒くさいと思ったりしますが、神さまは、私たちがどんな面倒くさいような要求をしたとしても、どんな難題を持っていったとしても、「そんなことは自分で考えろ!」とは言われません。神さまは皆さんを愛しておられ、解決を与えてくださる方だということです。

ヨハネ第一 四章九節〜十節には、

『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』とあります。

今の時代、会社のために命がけで働く人は、ほとんどいないしょう。でも一方、会社も同じように、会社が皆さんの生涯の面倒をみてくれるわけではありません。しかし、私たちの信じている神さまは、私たちをいつも愛し、私たちの将来、いや、これから永遠に責任を持ってあなたを守ってくださるのです。

最初に戻り、私たち一人ひとりには、神さまからの種が委ねられていることをもう一度確認してください。それぞれに与えられている種をしっかりと自覚し、それを蒔かなければ何も芽が出ることはないことを覚え、委ねられた種を無駄にしないようにしましょう。「こんな所に種を蒔いても花は咲かないだろう」というような場所でも、主に示された所ならば、神さまの助けによって蒔き続け、そして水をやり、肥料をやって、しっかりとした根を張らせ、至る所で実を実らせてまいりましょう。そして、一年が終わった時に、「託された種をまだ蒔いていなかった!」ということがないように、精一杯種を蒔き、そして主の前に多くの収穫をさせていただきましょう。

ご一緒にお祈りいたしましょう。
皆さん一人ひとりに神さまが預けている種があることを覚え、「主よ、私にどんな種を預けてくださっているのですか」と祈ってみてください。それは、一人ひとり違いますし、蒔く量も違います。そしてその時々に変わっていきます。しかし、その都度主の前に出て祈るなら、主が皆さんに、今やるべきこと、必要なことを教えてくださいます。
また、自分に種が与えられているのにもかかわらず、まだその種を蒔ききっていないと思われる方は、「神さま、私はまだここにたくさんの種を持っています。それを神さまのために蒔き続ける力を下さい」と祈って、蒔く力を頂いてください。

一言お祈りいたします。

愛する父なる神さま、み名をあがめます。今日、私たちに託された種まきという話をしました。私たち一人ひとりに主が種を与え、選ばれた一人ひとりに主が種を託されていると信じます。与えられている種をしっかりと蒔ききることができるように、そして主の働きのために前進することができるように導いてください。今日の恵みを感謝します。
今から聖餐にあずかります。私たちの罪のために、私たちに永遠のいのちを与えるために十字架にかかったイエスさまは今も生きておられます。私たちは聖餐にあずかり、このことを告げ知らせる者として、日々主の前に自分自身をささげていきます。今からの聖餐式を祝福してください。主のみ名によって信仰を持ってお祈りいたします。アーメン。