「希望の主」

  • 2020年3月8日(日)

新城教会スタッフ 滝川充彦
ルカの福音書17章21節

「『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

 今日こうして、このように皆さまの前に立たせていただいて、みことばを語らせていただく、このような機会が与えられていることを感謝します。
 本当のところは、あまり感謝な思いが湧いてこないのですが、本当に感謝します。神さまに感謝します。

 先ほどの素晴らしいB→Zの賛美、本当に感動しました。本当に神さまの希望が湧いてくるような賛美で感謝を覚えました。

 また、今、新型コロナウイルスが猛威をふるっていますが、様々な対応を私たちはしていかなければならないのですが、その中でも、私たちはやぐらであり、砦である神さまご自身に身を避けることができる、そのような主を私たちは知っている、また主がおられるということを覚えて感謝していきたいと思います。
 巷ではいろんなイベントが自粛モードであるわけですが、そんな中でも神さまの守りの中でこのように私たちが一つ所に集まって、この神さまからの恵みを受けることができる、この神さまの大きな恵みをまず感謝したいと思います。

 今私がこの場所に立っているわけですが、皆さん、もう既に恵まれていませんか?どうでしょうか。牧師でもない、ただの教会スタッフである私がみことばを語るなんていう、こんな新しい神さまのみわざは近年稀に見るのではないかと思います。
 皆さん、もう恵まれていますか? 「アーメン!」
 あ、アーメンと言ってくださったので、もうメッセージ語らなくてもいいかなというふうに、ちょっと用意していたのですが、それではいけませんので、みことばを皆さんで学んでいきたいと思いますが、本当に神さまがこのように私をこの地域から救い出してくださってここに立たせてくださる、本当に不思議な方であるわけですが、今日はそんな神さまを、真実なみことばを、皆さんと共に受け取っていきたいと思っています。

 最初に順先生が私の紹介をしてくださいましたが、少し私も自己紹介も兼ねて救いの証しを皆さまにお分かちしていきたいと思います。

 私は名古屋で生まれ育ちました。こう見えてもシティーボーイだったということですね。私の父親の実家がすぐ近くにあり、小学校三年生の時にこの新城市に引っ越してきました。
 私が通ったのはこの近くの小学校だったのですが、そこで運命的な出会いがありました。それは滝元順先生の息子さんの滝元堅志君と出会ったことです。運命ではなくて、神さまご自身のご計画であったわけなのですが、とても良い友達になりました。順先生のおうちに夜に泊まりに行ったりするくらい、本当に良い友達になってくれました。
 そして彼との出会いがあり、彼が教会へよく誘ってくれるようになりました。子どもクリスマス会や、様々な教会でのイベント、コンサートに誘ってくれました。

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 そして幼い頃はよく教会に通っていました。特に子どもクリスマスは本当に楽しみでした。今もプレゼントが当たる大抽選会をやっていますが、当時も大抽選会をやっていまして、その時の抽選の商品が昔あったファミリーコンピューターというファミコンのソフトでした。今の子どもたちは知らないかもしれませんが、こんなマリオのソフトを目当てに、毎年私はこの教会に足を運んでいました。本当に当たるのを楽しみにしていましたが、一度も当たることはありませんでした。

 幼い頃の教会の印象は、今もそうなのですが、「この場所は明るい所だなぁ。光があるなぁ。」ということを感じました。またクリスチャン一人ひとりの方々が輝いて見えました。皆さん、お一人おひとり、今日もこの場所から見させていただいて本当に輝いて見えます。どうですか?お互い、お隣の方を見合って、どうでしょうか?輝いていますよ。そんな光を感じていました。本当に教会っていいなぁという思いでいました。

 しかし私の家庭は一般的な、いわゆる日本の家庭でして、家には仏壇や神棚があり、また八百万の神々が混在しているような、そんな家庭でありました。
 その中で私はよく親に連れられて寺へ行ったり、神社へ行ったりしたわけなのですが、その場所において私が感じたことは、暗いなぁというイメージがありました。「なんでうちはそのような暗い所へ行くような宗教を守っているのだろうか?」と、とても不思議に思って、「私の家も教会へ行けばいいのに。」そんなふうに思っていました。
 本当に私は教会が大好きだったのですが、中学生になると「キリスト教=宗教」というイメージを持つようになり、「あれはただの宗教なんだから、私とは全く関係のないものだ!神さまを信じている人は自分に自信のない弱い人なんだ!」と、そんなふうに思うようになりました。すごく否定的になって、神さまに背を向けました。そして教会へ足を運ぶこともなくなりました。同時に滝元堅志君との交友関係もそこでストップしてしまいました。

 しかし、不思議に教会のことが心の中から消えませんでした。先ほども順先生が紹介してくれましたが、私の実家は教会からすぐ近くにあり、私の部屋から教会が当時は見えました。そして賛美が聞こえてきて、「あ、教会楽しかったなぁ。良かったなぁ。」なんていう思いになるのですが、中学生になってから成人するまでの八年間、全く教会に来ることがなくなりました。
 そんな中で成人を迎えて、当時、同窓生が小学校に集まるという、そんなことがありました。しかし私は人間関係をあまりうまく構築していくことのできない者でした。ですので、小学校に一緒に行く友達が一人もいませんでした。寂しい男でした。
 そして、そんな所に一人で行くのは寂しいなぁなんて思っていたところ、忘れられなかった教会、忘れられなかった滝元堅志君のことを思い出して、思い切って堅志君に電話をしました。「堅志君、一緒に行ってくれないか?」と聞くと、快く私を受け入れてくれて、一緒に行ってくれました。そしてまた再び良い友達となってくれて、そしてまた教会に誘ってくれるようになり、私は教会へ足を運ぶようになりました。

 大人になってから教会の印象は、幼い頃に感じた印象と全く変わらず、教会は本当に明るい、光のある場所、クリスチャンの方々一人ひとりは本当に輝いて見えました。大人になってから教会に通うようになったその当時、私は大学生でした。就職を考える時期でした。

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 当時、二〇〇〇年代前後というのは、就職氷河期と呼ばれるような時代でした。二〇〇〇年が、一番就職率が低いですよね。そういった中で、本当に私はいろんなことを考え、悩んだ時期でした。やりたくもない仕事を一生やって、この人生を終えていく。人生はなんてむなしいものか。そんなふうに思ったりしました。
 そしてまた人生を考えていく時に、終着点がありますね。それは死という問題があります。その答えのない死に対して私は恐怖を抱くような時もありました。
 そんな心境の中、私は教会へ来るようになって、本当に不思議とこの教会の中に来ると、そのような不安や恐れが取り除かれていく、何か希望のようなものをいただくような自分に気がつき始めました。
 またザワメキの賛美の集会にもよく開先生が連れていってくれました。東京や大阪にも連れて行ってくれたのですが、賛美の中にいると、クリスチャンではないので賛美で何を歌っているか、歌詞の意味は全く分からないのですが、賛美の中で心がすごく温かくなり、また希望が湧いてくるような、そんな体験をしていきました。
 そして教会に通い続けて、主が私と出会ってくださって、二〇〇一年八月五日でしたが、この日に順先生から受洗を受けました。八月五日、この日は、何の日か、皆さんご存じですか?はい。順先生の誕生日です。この聖なる日に私は順先生から洗礼を受けた、そんな恵みはないですね。本当に感謝しています。

 そして救われて一ヶ月後に滝元堅志君とアメリカのロサンゼルスに留学しました。堅志君は今ミュージシャンをされていますが、彼は音楽を勉強したいということで音楽の専門学校に行きました。また私は英語を勉強したかったということで、英語を学ぶために語学学校に通いました。当時は二十三歳という若い時でしたが、一緒にアパートに住めば家賃も安く済むしいいよね!なんていう、そんな浅はかな考えで決まった話だったのですが、そのような中でもアメリカにおいて、神さまを深く知る、いろいろな体験をさせていただき、そして帰国してきました。

 帰国してから、イエスさまのことをもっと知りたい!という、ただその思いだけで、二〇〇五年にリバイバル聖書神学校に入学させていただきました。神学校は三年間のプログラムなのですが、私は四年間かかって卒業しました。劣等生だったわけですが、卒業をなんとかさせていただいて、そして二〇〇九年から教会スタッフをさせていただいて、今十一年になります。今年で救われて十九年ということですが、そんな滝川充彦という人物であります。神さまがいなければ何もできない弱い私なのですが、これからも変わらず皆さま、祈り支えてくだされば感謝であります。

 私は神さまに敵対し、神さまなんていない!と思っていた者だったのですが、そのような私が今こうしてこのような場所に立たせていただいて、イエスさまのために働く者とされている。これはただただ神さまのみわざしかありません。
 そしてまた、この主ご自身のご計画をこの地に現すために新城教会の多くの先生方や兄弟姉妹が私を神の家族として受け入れてくださって、そして祈り支えてくださって、本当に愛を注いでくださったゆえに今私がここに立っているとも思っています。高い所からですが、新城教会の皆さまに感謝申し上げます。

 本題に入っていきたいと思いますが、今日は私が救われる過程で受けた、教会にある希望、クリスチャンにある希望、それは聖書の語る希望というものですね。それが何かということを受け取っていきたいということを主から導かれておりますので、皆さまと共にこの聖書の語る希望を学んでいきたいと思っています。

 辞書で一般的な「希望」を調べると、こんなふうに書かれています。“あることの実現を望み願うこと。またその願い。”「この会社に入社を希望する。」とか、「皆さんの希望を取る」とか、あることを願うこと。また将来に対する期待、また明るい見通し、そんな意味もあります。
 希望に燃えるとか、希望を失う。現在よりも未来に対して、より良くなる状況に期待する気持ちを表した言葉だと言われます。

 しかし聖書の希望というものは少し異なるわけですが、それを今から見ていきましょう。旧約聖書の「希望」と訳されている言葉は、たくさんあるのですが、今日は二つの主なものを紹介していきたいと思います。
 一つは、「ヤハール」という言葉です。これは「待つ」という意味なんですが、ノアが洪水の時に洪水の水が引くその時を待ったわけですが、その「待つ」ヤハールという言葉が使われています。
 またもう一つ、「カバー」という、期待する気持ちを表すのですが、この「カーブ」という言葉は、ひもを表すのですが、そのひもがピーンッと伸ばされたような緊張状態を表すのですが、将来に起ころうとしていることに対して、「待ちます!待っています!」そんな期待感を表す意味を持った言葉であります。このヤハールと、カバー、待つ、期待するという意味が、旧約聖書の主な「希望」と訳される言葉であるわけです。

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 農夫に例えると、農夫が畑に種を植えて、そして種が芽を出し、葉をつけ、成長し、そしてやがて実をつけ収穫の時を迎えていく。それを農夫は待ち望むわけですが、そんなような意味合いの言葉が「希望」と訳される、旧約聖書の言葉なのです。

 では私たちは何を期待し、何を待つのか。誕生日プレゼントでしょうか。クリスマスプレゼントか。愛する妻か、愛する夫か、愛しい恋人か。何を待ちますか?もちろんそれは神さまご自身ですね。
 聖書の語る「希望」という言葉は、「神さまを待つ。」そのような意味があるということなのです。今日はそのことを覚えていきたいと思います。一般的な希望とは全く異なるものであるわけです。
 一般的な希望は、この事がこうなって、あの事がこうなってと、将来に予想されるような、また今直面しているような事柄をパズルのピースのように自分でうまく組み合わせていって、自分の願うように取り繕って、そのことを願っていく、待っていくという、そんなような意味合いがあり、状況により頼んだものであるわけなのですが、聖書の希望は、そのような頼りにならないパズルのピースを組み合わせていくような展望を持っていくものではなく、神さまご自身にある、神さまご自身を待つという意味のある希望であるということを今日覚えていきたいと思います。

 聖書の信仰者たちは将来に全く望みのない、どのようにパズルのピースを組み合わせても人間的な展望は全く見出せないような状況においてイスラエルの約束の神さまを信じて神さまを待つ、聖書の希望を選択し続けてきたことを聖書に多く見ることができます。イザヤ書には、イザヤ書八章十七節、

『私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。』

と、イザヤは、捕囚になり滅び行くイスラエルの民族に対して、神さまご自身を待ちますと、神さまご自身に望みをかけると希望を語っています。
 またイスラエルの民族にとって、出エジプトという出来事はとても重要でありました。多くの信仰者はその出エジプトのみわざを成し遂げてくださった主がおられるのだから、これからの将来にも、この時と同じように私たちを解放し、回復し、救ってくださる、そのようなみわざを成し遂げてくださるはずだ!という信仰を持って、その神さまを待ち望む、その希望を握り続けていました。

 また詩篇には多くの「希望」と訳される言葉が、四十以上あると言われますが、そのような中で、ほとんどの場合が、「神さまを待ち望む」という意味で使われています。詩篇三十九篇七節、

『主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。』

 神さまご自身を待ち望むという、希望という言葉を詩篇の作者は詩っています。

 聖書の希望は、将来に予想される、また直面する事柄や状況、頼りのないパズルのピースにより頼んだものではなくて、神さまご自身にあるものだということを今日私たちは覚えていきたいと思います。

 そして、そのような希望を握り続けていくため、前を見つめて私たちが前進するために、時に私たちは後ろを振り返る時が必要であると言われます。約束の神さまを、また過去に神さまが成し遂げてくださった神さまのみわざ、神さまの恵みや愛や憐れみ深さ、また聖書にある神さまの、そのようなご性質を振り返って、神さまを深く覚えて、その神さまご自身を待ち望む、そのような真の聖書の希望を振り返る時にいただくことができるわけです。

 続いて新約聖書の「希望」という言葉を見ていきたいと思います。これは「エルピース」という言葉が使われています。これはギリシャ語です。「信仰」とも訳すことができる言葉なのですが、これも「期待する」という意味があります。
 初代教会の人々はこの希望をさらに豊かなものとしていきました。ペテロの手紙第一 一章三節、

『私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。』

 ペテロはイエス・キリストの十字架のゆえに私たちは全く新しく生まれ変わることができる、この生ける望みが与えられたと言っています。

 またパウロはコロサイ人への手紙一章二十七節、

『神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。』

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 パウロはイエスさまのこの十字架の福音、良き知らせを、栄光の望み、栄光の希望とよく語ったのですが、いずれもこの死と暗闇の力を打ち破られた、墓からよみがえられた救い主イエスさまにある希望を説いているわけです。この十字架の勝利が旧約の希望をさらに深め、豊かなものにしていったわけなのです。
 このイエスさまの十字架に新約聖書の希望がさらに深められたということですが、その希望は、ただ人類だけのために与えられたものではないというのです。最近もこの教会で教えられておりますが、

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 ローマ書八章ではパウロが説いているように、初代教会の使徒たちは、イエスさまの十字架の救いのみわざは全宇宙に対して成し遂げられた前触れであって、やがてイエスさまが帰られ、すべての被造物、山や川や海、そこに生きる魚たち、動物たちがすべて自由にされて神の栄光の中に入れられるためであった。そのことを信じていたわけです。
 そして終わりの日にイエスさまがこの地上に帰られて、この地上のすべての悪が滅ぼされて完全な神の国、天国がこの地上に到来し、そして死者の復活があり、そして主を信じる者はよみがえりのからだに変えられて、永遠の神の国に、神のみ国、天国に住まうことができる、この偉大な希望を信じていたわけですね。それゆえに初代教会の人々、使徒たち、弟子たちは、イエスさまを待ち望むという大いなる希望を持ち、死をも恐れずに福音を宣べ伝えることができた所以であると言えるかと思います。これが新約聖書において深められた聖書が語る希望であるわけです。

 この聖書の「希望」というものを少しまとめていきたいと思いますが、聖書の希望は、可能性がありそうだとか、勝算がありそうだとか、状況に寄り頼むような、楽観主義や一般的な希望概念とは全く違うものであるということですね。
 聖書の希望は、神さまご自身に、イエスさまにある絶大なものであって、その神さまを待ち望むという意味でした。
 その神さまご自身がどのような方かというと、創造主なる神さま、全知全能なる神さま、イスラエルの民に出エジプトという解放と救いのみわざを現してくださった神さま、イスラエルの民の約束を成就してくださる神さま、十字架にかかられたイエスさまを死からよみがえらせることができる力あるお方、ひとり子イエスさまを遣わしてくださるほどに私たちを愛し、憐れみ、本当に恵んでくださる神さまである。また、イエスさまは死と暗闇の力を打ち破られてよみがえられ、勝利された方、罪の贖いを完成されたイエスさま。こうやって上げていけばキリがありませんが、そのすばらしい神さまが、私たちに良い未来を必ずもたらせてくださる、その神さまを私たちは待ち望むことを選ぶこと、それが聖書の語る希望だということなのです。

 そして私たちはその偉大な希望を握りつつ、終わりの日にイエスさまが帰られて、すべての悪と死の力から全宇宙、全被造物が完全に自由にされて、解放されて、神の栄光の中に入れられる。その神の国が到来することを、イエスさまが帰られるその日を待ち望むという究極の希望を私たちは今いただいているということを今日、皆さんで覚えていきたいと思います。

 新型コロナウイルスが世界を震撼させているわけですが、様々な領域に影響を与えており、私たちの生活を脅かし、不安や恐れに閉じ込められるような状況があります。治療薬もない、分からないことが多くある、出口のないような状況があるわけなのですが、私たちの人生の中においても、そのような状況に出会うことがたくさんあるのではないかと思います。
 どうして私にこのような出来事が起こるのか、考えても分からない、理解できない苦しい状況を通ることがあるかと思うのですが、先ほども申しましたが、私たちの希望、聖書の語る希望というのは、そのような状況に寄り頼んだものではなく、神さまご自身、イエスさまにある希望ですので、その希望は決して、私たちの中から消えることはないということを今日皆さんで心から信じていきたいと思います。

 詩篇百三十九篇八節〜十二節、

『たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。たとい私が「おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ」と言っても、あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。』

とあります。
 神さまの希望の光が、光なる主ご自身が私たちのただ中に輝き続けてくださっているということをこのような状況の中においてでも信じていきたいと思います。またお一人お一人が、様々な大変な状況を通っておられる方もおられると思いますが、希望の光は消えないということを覚えていきなさいと、そんなふうに神さまから教えられております。

 聖書の「希望」を学んでいく中で、私たちに与えられている聖書の語る希望というのは一般的な希望のような薄っぺらい、頼りにならないようなものではなくて、神さまご自身にある希望、その恵み深さというものを覚えて、本当に私自身恵まれました。
 この希望を選び続ける、そのような器となっていきたいということを私自身、心から願わされたわけですが、そんなことをこの数週間教えられ、思い巡らす日々を過ごしていましたが、普通の日常生活をしていたのですが、すごく不思議な体験をしました。それは唐突だったのですが、神さまが「希望は与えてるよ!」と、ぽんっと手に握らせてくださったような、そのような不思議な体験をしました。すごく感動を覚えました。「もうすでに希望を与えているよ!」と語ってくださいました。このメッセージを準備する中にあっても、神さまのこの語りかけを覚えて、実は私、三回くらい涙したのですが、そのような体験をさせていただきました。

 そしてまたみことばを開いていったのですが、イエスさまの宣教はこのみことばから始められていました。マルコによる福音書一章十五節、

『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』

 イエスさまはこの地上に来られて、やがて到来する神の国が近づいたわけです。そしてこの神の国に対してイエスさまが語り、そしてルカの福音書十七章二十一節、

『『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。』

 本当に感動しました。神の国は、あなたがたのただ中にある。私たちのただ中に神の国があるわけなのです。終わりの日に現される神の国が、かの日を待たずして、その神の国を私たちは受け取ることができるのです。この地上で私たちが人生を終える前に、完全なる、やがて現される神の国を私たちはこの場で、今、受け取っているということを神さまから教えられています。このことを、今日、ぜひ皆さんと覚えていきたいと思います。

 私たち一人ひとりは聖霊さまが住まう神の神殿とされ、そして私たちのただ中に神さまが住まわってくださっています。そしてその中に神の国があるわけですね。
 そこには神の国の中にある、主の圧倒的な恵みがあり、圧倒的な祝福があり、また圧倒的な勝利があるということを、皆さんと覚えていきたいと思います。
 神の国の中には、死も痛みも苦しみもない、また悩みもないわけです。本当に主の、よみがえりのいのちが私たちのただ中に今溢れているということを、これは真実な主のみことばですから、そのことを皆さんと今日覚えていきたいと思います。

 そしてその神の神殿とされた私たち一人ひとりが組み合わされて神のみ住まいとなるとエペソ人への手紙の中にありますが、それが教会なわけです。教会の中にも、この神の国は今もうすでに到来しているということを皆さんで覚えていきたいと思います。

 証しの中で、救われる前に私が教会に対して、またクリスチャン皆さま一人ひとりの中に感じた光、それは既に到来していた神さまご自身、そして神の国であったと思います。その中に現される神さまご自身にある完全な希望を私は受け取っていたんだなぁということを今強く覚えています。
 また賛美の中でいただいた不思議な温かさは、賛美を住まいとされる主がおられ、そこには神の国があり、その神の国の中に現される神さまご自身の完全なる希望と愛が私に注がれたゆえに、そのような体験をさせていただいたんだなぁということを覚え、今すごく感動しています。
 そのような中で主が私と出会ってくださって、主のみ元に引き寄せてくださって、私が救われたんだなぁということを覚えて、この神さまご自身の与えてくださった尊い恵みと愛の救いを心からもう一度感謝しました。
 このような素晴らしい偉大な希望はどこにもありませんね。私たち、主を信じる者に与えられている消えることのない希望、主ご自身を待ち望む、この希望を私たちは握り続けていきたいと強く願わされております。

 最後に一つの話をしてメッセージを閉じていきたいと思います。

 先週、月曜日の県民の森の祈祷会が夜行われたのですが、その県民の森祈祷会は特別でした。毎回特別ですが、私は今日の礼拝メッセージを与えられつつ備えたいという思いで県民の森に出かけて行きました。
 そんな中で、ある教会員の方が、昼間に県民の森へ祈りに行かれたというのです。それでその方がおうちに帰って来たら眼鏡をなくしたことに気づかれました。きっと県民の森に落として来たんだと思うということで、その日の夜の県民の森は、祈祷会の前にまず眼鏡捜索を始めました。真っ暗闇の、あの広い県民の森ですよ。その中で眼鏡を捜索し始めました。
 神さまは素晴らしい方ですから、見つけてくださると思うのですが、探したのですが見つかりませんでした。その方はその昼間に私たちがいつも県民の森の祈祷会を持っている広場より奥のほうにも行かれたということで、数名の方で眼鏡捜索を続けて、残りの者で祈祷会を始めていきました。
 十分くらい賛美をして祈っていたのですが、リードされていた開先生が、「今から十五分くらい眼鏡捜索をしながら個人祈祷をしましょう。」と言って、個人祈祷の時間になりました。真っ暗闇の中、私も祈りつつ、懐中電灯で周りを照らしながら歩き始めました。
 するとその間、三十秒くらいだったと思うのですが、二、三メートル前に、きらっと光るものが見えました。絶対に眼鏡だったのですが、あまりにも唐突で、簡単に私が見つけてしまってすごく戸惑ったんですね。「あれは眼鏡だよね!?」みたいに自問自答をしました。そして思わず、「開先生!」と開先生を呼びました。そして開先生に「眼鏡、見つけたんですけど・・。」と、すごく唐突に鮮やかに眼鏡が見つかったものですから、私はすごく半信半疑でテンションが低かったのです。
 それでその眼鏡が当人の物だったかどうかということなのですが、当人の物でなかったらこんな話はしないという、そういうことですが、当人の無くされた眼鏡でした。祈祷会の中において皆で感謝して、ハレルヤ!と叫んで、感謝の祈りをささげました。
 たかだか眼鏡が見つかったという小さな話であったわけなのですが、リバイバルを求めて、先生方が、兄弟姉妹が真剣に祈り続けたあの祈りの山、また聖霊さまが激しく訪れられて、今も聖霊さまが激しく働き続けてくださるあの祈りの山で起こったこの出来事に私たちはすごく感動しました。
 希望というテーマを神さまが私に与えてくださった中で、この眼鏡の発見という出来事を通して、神さまが私に語りかけてくださったような気がしました。「神の国がすでに到来しているクリスチャン、教会は、失うものは何もないんだよ!」と、また「失ったものさえ、わたしは回復するよ。」そして、「失ったと思っているものも実は失われていないんだよ。すべてはわたしのみ手の中にある。」「希望は失わないよ!」そんなふうに語ってくださったような気がして、すごく感動を覚えました。

 ローマ人への手紙五章五節、

『この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』

 私たちがどれだけ周りの状況が困難で、先の見えない、出口の見えないような真っ暗闇のただ中に置かれたとしても、先取りで神の国をいただいている私たちクリスチャン、教会は、神さまにある、イエスさまにある大いなる希望があるということを今日覚えていきましょう。
 そして私たちに用意されているのは、その神の国の中にある圧倒的な勝利であるということを今日信じていきましょう。イエスさまが帰られるその日まで、私たちは神の国のただ中で、またその希望のただ中で、神さまを待ち望み続けるという、聖書の語る希望を選び続けていきたいと思います。

 そして神の国の拡大と完成のために、私たちのただ中にすでにある神の国と、その神さまの栄光を照り輝かせて、このイエスさまが与えてくださった大勝利をこの地に掲げて戦い続けていきたいと、そのように願わされております。

 以上で、今日私が用意させていただいたメッセージは終わりです。感謝します。では最後にお祈りをして閉じたいと思います。

 父なる神さま、イエスさま、聖霊さま。今日こうして神さまが私たちに与えてくださっている真の希望というものを私たちに教えてくださり、そしてその希望をもう一度私たちが握る時を与えてくださっていることを心から感謝します。イエスさま、私たちがどのような困難な状況の中に置かれたとしても、真っ暗闇のどん底に落とされるように感じるそのような時があったとしても、イエスさま、神さまは、聖霊さまは、私たちと共におられ、そして希望の光を輝かせ続けておられることを心から感謝します。
 私たちには偉大な神さまがおられる、そしてイエスさまがおられる、そのことを心から感謝します。そこに私たちの希望があることを心から感謝します。
 やがて到来しようとしている神の国をめざして、私たちはさらにあなたご自身の神の国のただ中、恵みの中、神さまの大きな憐れみと愛の中、希望の中で、主よ、あなたを待ち望み続けることを主のみ名によって宣言します!
 希望がないとうそぶいて、私たちを誘惑し、また訴えてくる暗闇の力を、イエスさま、あなたが打ち破り、断ち切ってください。私たちには永遠に変わることのない、すでに与えられている希望があることをイエス・キリストのみ名によって、今日宣言します。
 この全日本に、また全世界に、また全宇宙にあなたの希望を宣言します。この大勝利を宣言します。インターネットで礼拝をされておられるお一人おひとりも、同じ恵みと祝福、勝利があることを、もう既にそこに神の国と希望が到来していることを信じ宣言します。
 神さま、これから成されようとしておられるあなたご自身のみわざにさらに期待して、あなたを待ち望みます。信じます。イエスさまのみ名によって、この祈りを父なる神さまにおささげします。アーメン。