「宣教70周年 -2020-
明日に向かって、将来と希望 パート3」

  • 2020年3月15日(日)

新城教会主任牧師 滝元順
エレミヤ書29章10節〜11節

『まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐主の御告げ‐‐それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』

イザヤ書61章1節〜3節

『まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐主の御告げ‐‐それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』


 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。大変厳しい状況の中でもありますが、皆さんと共に礼拝をささげることができますことを、心から感謝します。

 今、世界は目に見えない敵と戦っています。世界中で同じテーマで戦いが進んでいます。本来、世界は常に見えない共通の敵との戦いの中にあるわけです。そのことを理解したら、世界から戦争も紛争もなくなるはずです。様々な問題もなくなると思います。世界中を震撼させている、新型コロナ・ウイルスの問題が、結果的に人類共通の敵認識へと向かうように祈ります。

 聖書全体のテーマについて、最近、よく話させていただいているのですが、聖書は天地創造から始まり、新天新地創造への、壮大な物語です。
 今、羊子さんが賛美して下さいましたが、「約束の地はもうすぐだ!」と歌われました。私たちはどこをゴールとしているのか、それはやがて訪れる「新しい天と新しい地」をゴールにしています。
 神は人類にメッセージを送られます。「あなたがたは一度、立ち止まって考え直しなさい!もうすぐわたしは訪れます!」というメッセージを送っておられる時代ではないかと思います。

 最近、テレビやメディアに流れる情報は、良いニュースはほとんどないです。本当に悪いニュースが多すぎます。
 しかし今日お読みました聖書の箇所は、「あなたがたに将来と希望を与える」と告げられています。
 イザヤはエレミヤと同時代に活躍した預言者でしたが、「良い知らせを伝えます!」と神のみ言葉を預言しました。私たちの神さまは良い知らせを告げて下さいます。
 「福音」という言葉をよく耳にします。「福音」とは一般でも、よく使われます。「癌患者に福音」とか、「頭のはげた人に福音」とか、私もそれらの福音にあずかりたいと思うのですが、それは「普通では無理なことが可能になる」事を意味します。それが福音と理解されています。
 福音は「ゴスペル」とも呼びます。「グッドニュース」とも訳されます。それは「良い知らせ」という意味です。
 聖書が私たちに投げかけている知らせは、決して、悪い知らせではなく、良い知らせです。それをまず、確認しておきたいと思います。

 毎日、悪い知らせが洪水のように流れています。新型コロナの情報もメディアの報道の仕方は、ちょっとおかしいと思います。なぜ、あんなに悪い知らせばかりを流すのでしょうか。「患者が一人増えました。二人増えました。三人増えました。」と速報でながしています。
 しかし一方では退院する方々も大勢いるわけです。少しは良い知らせを流して欲しいものです。「今日は新型コロナで入院していた人が何十人退院しました!」と速報を出してくれたら、少しは明るくなるのではないかと思います。
 患者数だって「累計」を出しているじゃないですか。累計なんか、はっきり言っていらないです。例えば世界中でインフルエンザにかかった人たちの累計なんか出された日には、何千万人にもなるはずです。死亡率だって中国が医療崩壊して二パーセントです。日本では死亡率は〇・二パーセントと言われます。しかし日本では隠れ新型コロナ患者が十倍いると言われます。怖いですね。でも、一方から見れば、十倍いるということは、死亡率は〇・〇二パーセントになるということです。だから、むやみやたらに恐れないほうがいいですね。
 もちろん予防はしたほうがいいです。一番予防に効果があるのは、手洗いらしいです。マスクはあまり効果がないそうです。気持ち的には、なんとなく守られている感じがするのですが、やはり手洗いが最も効果的だそうです。私の一番不得意なところで、昔から手を洗わないと怒られていました。しかし最近は手をよく洗うようにしています。今年はインフルエンザの患者さんが、すごく少ないらしいです。
 本当に何がいいのか分かりませんが、早く終息するよう、真剣に祈らなくてはいけないです。そして私たちが信頼している神は「良い神さま」です。良い知らせを備えてくださる神さまである事を、しっかりと受けとめて、恐れに支配される事がないようにしたいものです。

 今年は私の両親がこの地域に入って伝道を始めて、七十年の記念の年です。一つの節目です。今日読んでいただきました聖書のことばも、「七十年が満ちる」という、韻を踏んだメッセージが込められています。
 また父と田中政男先生が始めたリバイバルミッションは、今年で五十周年になります。
 イザヤ書に「主の恵みの年」と出てきますが、これは「ヨベルの年」という、五十年に一度訪れる、特別な解放の年でした。
 今年は私たちにとっても、七十周年、五十周年と、韻を踏んだ節目の年ですから、主が良いことをしてくださると期待して祈っています。この年を意識して祈り続ける時に、主はなんらかのみわざを、現してくださると信じます。

 この教会には七十年の歴史にあって、父の働きを私が受け継ぎ立たせていただいています。しかし今回、家内が病気になって、私の仕事が制限された事により、一方では、新しいことも起きています。
 先週はすごかったですよね。瀧川充彦先生がメッセージを語ってくださいました。結構、恵まれましたよね。良かったですよ。でも、メッセージって、第一回目はだいたい恵まれるのです。難しいのは、二回目以降です。歌手でもそうです。一作目はヒットしても、二作目は、難しさがあります。毎週ヒット曲を出すのは、なかなか、メッセージでも同じで難しいです。今後も、新手が登場しますから、是非、応援していただきたいと思います。みんなが成長している姿を見て、本当に嬉しいです。

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 先ほども語りましたが、聖書は天地創造から始まり、新しい天と新しい地の創造への、壮大な物語です。それぞれの時代にあって、それぞれの人たちに神は役割を与え、働きを遂行されます。

 七十周年ということで、少し昔話っぽいところもあるのですが、両親が信仰に導かれたのは、戦後まもなくの事です。一九四五年に戦争が終わり、その後アメリカから穐近祐、初野という日系人の宣教師が、GHQ関係で来日しました。その働きで父と母が東京でクリスチャンになりました。

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 私の父はクリスチャンになって一年も経たない内に、「私はキリスト教の伝道者になる!」と言って、この地域に入って宣教を始めました。穐近夫妻は、クリスチャンになって一年も経ってない父に、この地で活動することを許可したのです。
 ちょっと考えたらどうですか?聖書も一通り読んでいるかどうかも分からないような、キリスト教をあまり知らない人が教会を始めるなんて、危険きわまりないですよね。

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 その後、オーケ・レナンデルというスウェーデンから来日した宣教使夫妻が豊川におられて、父を伝道集会のメッセンジャーとして採用してくれたのです。日本語ができるというだけで、用いてくれたのです。それで新城教会に勢いがついたわけです。
 でも、クリスチャンになって一年目なんていう人が、よくも使われたものだなと思います。しかし、すべての事柄にはバックストーリーがあります。そこに行き着くまでの様々な背景があります。

 戦後の日本は荒れていました。なぜなら、国民は地獄を体験したからです。スウェーデン宣教師は豊川市で働いていたのですが、豊川市民は恐ろしい地獄を体験しました。一九四五年八月七日、海軍工廠に爆弾が落とされ、一瞬にして二千名以上の若者たちが死にました。傷ついた人たちは一万人以上、目の前に一瞬にして地獄が広がったわけです。
 そんなただ中に、白人の宣教師と父が何を話したのかと言えば、「イエス・キリストを信じなければ、地獄に落ちる!」という激しいメッセージを語ったわけです。今なら、パワハラと言われそうです。しかし当時の人々は、目の前に地獄を見た後でしたから、これ以上、地獄に落ちたらたまらん!ということで、戦後、日本で大勢の人たちがクリスチャンになった歴史があるわけです。

 しかしそのまた背後にも伏線としての歴史があり、アメリカの覚醒運動、リバイバルで用いられたディ・エル・ムーディーという人物の影響がありました。彼の時代は、「教えの正しさは、実践の場で使えるかどうか、すなわち、どれだけ人を救えるか」と論じるなど、神学的な厳密性は重要視されませんでした。ただ、「イエスを信じたら天国に行ける。地獄の火に焼かれなくて済む。」というメッセージに特化された時代でした。
 そうなるとどうでしょうか。このぶ厚い聖書で、必要なページは一ページも満たなくなるわけです。他の箇所は必要が無くなります。
 しかし、その時はその時で、世界に様々な問題が繰り返し起こっていました。ムーディーが語ったように、第一次世界大戦、第二次世界大戦と、地獄が世界に広がって行きました。そのような時代的背景もあって、聖書の一断面のメッセージでも、人々は心動かされ、主を信じ、リバイバルにつながったわけです。神は、すべての事柄を益として、人類を救いに導こうとされるのです。

 しかし聖書は、こんなにぶ厚い書物ですから、聖書の告げる良い知らせとは、本来は何を意味しているのだろうかを、しっかりと捉えなければ危険です。

 つい最近、新しい本が出版されました。訳本ですが、私がよく紹介しています、N.T.ライトという、現在、世界で最も注目されている神学者の著作です。「Simply Good News」という「なぜ福音は良い知らせなのか」という本です。

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 すでにこの本は、アメリカでベストセラーになりました。その日本語版が出版されました。翻訳者は誰かというと、山崎ランサム先生です。皆さんに是非読んでいただきたいと思います。これ読むと、聖書の良い知らせはすごいものだと感動します。
 本の帯に、こんなふうに書かれています。「キリスト教のメッセージはイエスを信じれば死んだ後に地獄から救われ天国に行けることだと多くの人が考えてきた。しかし聖書は果たして本当にそう教えているのか?イエスと使徒たちが伝えたグッドニュースが天国行きの方法について教える単なるアドバイス以上のものだとしたら。N.T.ライトは本書で福音とは何であるか、何でないか、そしてそれが私たちの将来と現在にどんな意義を持つのかを明らかにする。」とあります。

 聖書のメッセージは、ただ単に人が地獄に行かないで天国に行けますよ!というだけではないというのです。それ以上のもっと広く深いものがあるというのです。
 そして人には大きな役割が課せられているのです。もちろんイエス・キリストを信じなければ滅びに向かってしまうのですが、実は、人が造られたのには、さらに大きな目的があることを知らなければいけないと指摘しています。
 この本の結論にもなると思うのですが、次のように記されています。

 「良い知らせとは魔法の合い言葉で窮地を脱して天国に入る少数の人間のためのものではなく、被造物世界全体についての知らせであり、被造物世界全体のための良い知らせなのです。」

 「良い知らせ」とは、ただ人間だけが、それも特定の人だけが、イエスに出会い、天国にエスケープできます!というのではなく、さらに広い良い知らせであって、それは人のみならず、被造物全体の救いにつながるというのです。それは新しい天と新しい地の創造に結びついています。
 教会の伝統的な教えで強調されてきた点は、個人の救いにフォーカスが当たっていたのですが、実は、聖書全体から見ると、人の救いは被造物全体の回復につながる、重要な鍵であるのです。私たちだけでなく、神が造られた被造物全体の救いと回復につながるわけです。

 「初めに神が天と地を創造した。」と記されていますが、神が創造された天と地は、「甚だよくできた、良いもの」であったわけです。
 そんな中に、人を造り、人を管理人として、地を治めさせようとされたのです。しかし人類は神の声を聞くのではなく、悪魔の声を聞いて罪を犯した結果、すべての被造物は巻き添えをくらい、堕落してしまったわけです。
 今や、すべての被造物は神の前でうめき悲しんでいます。「こんなはずじゃなかったのに。人のおかげで俺たちは、こんなふうになっちゃった。」と。
 しかしイエス・キリストの十字架と復活によって、人が救われると、巻き添えをくって堕落したすべての被造物も、回復する可能性があるのです。だから被造物は、クリスチャンに期待しているわけです。
 しかし被造物の回復は、クリスチャンが被造物の叫びを聞くかどうかにかかっています。あまり聞いていないのではないでしょうか。救われたら、人は被造物の叫びに耳を傾けなければなりません。被造物全体の回復に目を向けければいけないのです。Simply Good News、よろしければ一度読んでいただきますと、「福音とは本当に幅広いものだ」と理解できます。そして救われるということは、大変大きな意味と責任があることを理解できるのではないかと思います。

 キリスト教会は、二千年前から始まったのですが、何度も絶滅の危機にさらされました。迫害があって根絶やしにされるような事柄も多く起こりました。
 日本の歴史を見ても、十六世紀に、カトリックの領域ではありましたが、大勢のキリシタンと呼ばれる人たちが殺されました。
 それと共に、「異端」と呼ばれる間違った教えが入って来て、多くのクリスチャンが惑わされた歴史もあります。初代教会から、すでに異端の勢力はすごかったのです。

 「異端」と「異教」という言葉があります。どう違うかというと、例えばイスラムでも聖書を使います。旧約聖書を使うわけです。しかしイスラムは異端ではなく、異教です。なぜなら「キリスト教」という看板を上げていませんから。しかし異端とは、「キリスト教」という看板を上げながら、中身は間違った教えに満ちています。それを異端と呼びます。
 初代教会に最も脅威を与えた異端は、「グノーシス主義」でした。聞いた事があるかもしれません。「グノーシス」とは、ギリシャ語で「知識・認識」、東洋的に言うなら、「悟り」です。この人たちが教会をかなり荒らしました。初代教会はグノーシス派の脅威にさらされたのです。それは一世紀から三世紀くらいまで影響が続いたといわれますが、世界の諸宗教、日本の宗教もグノーシスの影響を強く受けています。そして現代を生きるクリスチャンにも、大きな影響を与えています。

 ではどんな所に影響を与えているのかを見ていきたいと思います。「グノーシス」という考え方は、徹底した「霊肉二元論」の立場を取っていて、「霊は純粋で神秘的なもの、肉、物質は罪悪性を持ち、堕落したもの」と教えました。なぜならば、物質世界を創造したのは絶対者としての神ではなく、「悪魔」で、「肉体こそ魂の牢獄である」と教えたからです。
 どうでしょうか。私たちの考えの中にも、霊的な世界はすばらしいもの、肉的な世界、特に物質世界はそれ以下のもの、あまり良いものではないと考えます。暗に、そういう考え方ってありますよね。
 その一番の特徴は、地上には苦しいことが多くあるけれど、やがて天国に行くことができるから、その日に希望を持ち、待ちましょう!みたいな考え方って結構強いと思います。
 しかし神は物質の世界も「良いもの」として造られたのです。けれども、グノーシスの人たちは、霊的世界は良いもので、物質世界は悪魔が創造したのだと。そもそも人は悪魔によって創造された肉体の中に霊と魂が宿っている、肉体は牢獄なんだ!と主張しました。肉体から抜け出さなくてはいけない!そのためには「グノーシス」、「悟りが必要だ」と、ある意味で、仏教にも通じる考え方です。

 しかし聖書によれば、物質の世界は神がお造りになった良い世界です。すべてのものは、『それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。』と記されています。神が造られた物質の世界は、初め、決して悪いものではなかったのです。人間の堕落と共に、巻き添えをくらったのです。原点においては、物質は良いものとして造られたわけです。
 しかしグノーシス派が出てきて、「目に見えない世界は、良い世界ですよ。しかし物質界は悪い世界だから、抜け出さなきゃいけない!」と教えたわけです。そのような考え方は、一般社会にも根強くあります。
 日本では、年間二万人から三万人の人たちが自殺します。しかし日本の統計は変死者を加えていませんから、実際は、日本では十万人以上が毎年自殺します。どこに原因があるのかと言ったら、グノーシス的思想です。肉体という牢獄から出たら幸せになる。問題や苦しみがあったら、「早く肉体を脱いじまいなよ!」みたいなところがあるわけです。
 しかし神は決して、私たちの体を悪いものとして創造されたわけではないのです。神は良いものとして、世界を造られたのです。

 人間の構造について、こんなことばが聖書にあります。第一テサロニケ五章二十三節、

『平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。』

 主が私たちに願われていることは、霊と魂だけではなく、『霊、たましい、からだが完全に守られますように。』と願われています。三領域には決して差はないのです。すべての領域を祝福しようとされています。
 しかしグノーシス派の考え方が教会の中に入って、初代教会は揺れに揺れたわけです。
 こうなるとイエスさまの神性も認められなくなるわけです。悪魔の創造物の中に、神の子が宿るわけがない!となります。エホバの証人はグノーシスの影響を受けています。
 聖書を読めば、神は霊と魂だけを尊重されているわけではなく、物質の世界も同様に、良きものとして創造されたのです。

 そもそもイエスさまの行われた奇跡は、物質世界に、神にしかできない新創造の奇跡を現しました。イスラエル旅行で、ガリラヤ湖に行きますと、そこはイエスさまが様々な奇跡を行われた地域です。最も有名な奇跡は「五つのパンと二匹の魚の奇跡」です。そこから五千人に食べさせたという奇跡です。
 皆さん、これをどう考えますか。普通では考えられません。当時は男しか人数を数えませんでした。女性や子どもたちを含めると、たぶん二万人くらいはいたと思われます。イエスさまが五つのパンと二匹の魚を祝福して裂いたら、どんどん量が増えて全員が満腹したというわけです。
 イエスさまは弟子たちに、「あなたがたがこの人たちに食物を用意しなさい。」と言われたわけです。弟子たちは驚いて「私たちには五つのパンと二匹の魚の他何もありません!私たちが出かけて行ってこの民全体のために食物を買うのでしょうか。」と言っています。
 宇宙には神が定めた、熱力学の法則というのがあります。第一法則は質量保存の法則です。物質は様態が変わっても質量は一定です。
 五つのパンと二匹の魚から二万人に食が振る舞われたならば、ガリラヤ湖から魚が飛び出して、集まったのか、もしくは宇宙に新しい魚が創造されたのかの二つに一つです。

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また近くのパン屋から、パンが消えて、イエスさまのところに集まり、振る舞われたとなると、イエスさまは泥棒になります。パン屋からクレームが来て、問題になったはずです。

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 そうじゃなかったならば、質量保存の法則に反する、物質の世界に対する、神にしかできない新創造の奇跡になるわけです。またイスラエルに行って、この場所に立って、新創造を行ってくださる主に、祈る時が持てたらいいなぁと思います。

 歴史の中でグノーシス派により「物質界は悪いもの」という考えが教会の中に浸透していきました。
 キリスト教用語にも影響を与えています。「たましいの救い」とか、「救霊」という用語が頻繁に使われますが、一般の人たちが聞くと、霊魂しか救われないイメージを持ちます。本来キリスト教は、「肉体と霊とたましいの全人的救い」です。
 神は、たましい、霊だけでなく、肉体をも完全に救うことができる良いお方です。

 最近、いやしの為に真剣に祈っている中で、歴史の中におかれた霊魂は救われるが、暗に、肉体は滅びてもかまわないというような、サタンの策略が潜んでいるのではないかと思わされています。

 実は、ヘブル人への手紙は、もしかしたらグノーシス派の影響を受けて書かれたのではないかと主張する学者もいます。そんな視点でヘブル人への手紙を読んでいただきますと、そう感じるかも知れません。
 ヘブル人への手紙十一章十六節、

『しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。』

 この箇所は霊肉二元論的な、物質界から脱して、他の天体に用意された天国に行くイメージの記述のように感じます。

 先日、「舟の右側」という雑誌の、時々私も記事を書かせていただいているのですが、二月号を読みました。

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そこに「神の王国」というパートがあります。私は、大変好きなのですが、ヘブル人への手紙の専門家である、デイビット・モーフィットという神学者の見解が紹介されていました。それを読んで、私はたいへん納得しました。ここには次のように説明されていました。

 “しばしばヘブル人への手紙はプラトン主義的な霊肉二元論の世界観を持つ書巻として理解されてきた。”

 プラトン主義的な霊肉二元論というのが、グノーシス主義のことです。しかし、ヘブル人への手紙について、

 “だが実際はヘブル人への手紙は、霊肉二元論どころか、むしろ人間は肉体と霊の両方が備わってこそ人間なのだという、霊肉一元論を強く主張している書巻である。”

 ヘブル人への手紙を、詳しく研究してみると、神は肉体を大変重要な要素として創造されていることが分かります。結論として次のように述べられていました。

 “み子は人となられ、人々を罪から聖め、また悪魔の支配から解放してくださった。人間がこのような大きな祝福にあずかったのは、その本来の召命、地を治めるという召命を果たすためだ。地を治めるためには、私たち人間には体が必要なのである。死んで霊の状態になってしまえば、その召しを果たすことはできない。”

 人とは、肉体から出たら、人としての機能は失われるのです。人は肉体に宿っているがゆえに、人としての使命を果たすことができるわけです。
 イエスさまがこの地に来られた時、何をなされたのかと言えば、悪霊どもを追い出し、病をいやされました。病のいやしとは、人がより長く肉体にとどまり、生きる為の奇跡です。そこには人の使命が関わっていたのです。
 人はなぜ、この地上に肉体を持って生まれたのでしょうか。ある時は不自由に感じるかもしれないけれど、体があってこそ私たちは管理人として、被造世界を管理することができるのです。“地を治めるためには、私たち人間には体が必要なのである。死んで霊の状態になってしまえばその召しを果たすことはできない”のです。

 私たちは病気になった時に、「いやしてください!」と、真剣に祈るのですが、ただ個人的な幸せのためにいやしを願うことが多いように思うのですが、いやしを願う時、人類に与えられている使命を宣言して、「ゆえに体のいやしが必要です!」と主に祈ったらどうでしょうか。いやしの奇跡に繋がるのではないかと期待しています。

 祈っている中で、主がその事を教えてくださいました。不思議と専門家の理解が載っていて感動しました。私が語っても、あまり説得力はないですが、聖書の正しい情報が出てきて感謝です。体は脱ぎ捨ててしまったほうがいい、と暗に考えるけれど、そうではなく、体に宿っているがゆえに神の使命を果たすことができるのです。死んでしまったら、使命を果たすことはできないのです。

 今回、与えられたみことばがあるのですが、詩篇三十篇を与えて下さいました。詩篇三十篇八節〜十二節、

『主よ。私はあなたを呼び求めます。私の主にあわれみを請います。私が墓に下っても、私の血に何の益があるのでしょうか。ちりが、あなたを、ほめたたえるでしょうか。あなたのまことを、告げるでしょうか。聞いてください。主よ。私をあわれんでください。主よ。私の助けとなってください。あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。』

 ダビデがこのように歌っています。『私が墓に下っても、私の血に何の益があるのでしょうか。ちりが、あなたを、ほめたたえるでしょうか。』
 人とは、体あってこそ、人として機能します。ゆえにイエスさまは病のいやしをなされたわけです。私たちには使命がある。それは何かと言ったら、地を治める使命です。そのためには「体を必要としている」のです。

 最後に一つの証しをしたいと思います。二年くらい前に沖縄の名護という所で、一度死んだけれど生き返ったおばあちゃんの話を聞いて、ここでもお話しさせていただきました。おばあちゃん、石畳に倒れて頭を強打して、魂が体から出たというのです。結構、死ぬのって簡単みたいです。自分の身体が横たわっているのを見たというのです。
 でもおばあちゃん、体から魂が出た瞬間、嬉しかったそうです。なぜかと言うと、脳梗塞を患っていて、身体に麻痺があったからです。体から出たら自由になって、嬉しかったそうです。「これで私はもう苦しまなくても済む」と思ったそうです。
 死後の世界とは、「第三の天」です。そこは神の支配下にある天国です。
 気がついたら、綺麗な花園にたたずんでいたというのです。おばあちゃん、花が大好き、花を育てる専門家で、「この花は何という花なんだい?」と天国の花園を楽しんでいたそうです。そうしたら、後ろから誰か近づいてきたそうです。第三の天に行くと、特殊能力が与えられ、誰が来たのかすぐに分かるというのです。イエスさまが来られたというのです。それでイエスさまと、いろいろと会話したというのです。
 そうしたら、イエスさまがこう話されたというのです。「おばあちゃん、あなたには地上にまだ使命がある。今から帰りなさい。」
 おばあちゃんは、「こんな年寄りに何の使命があろうか・・・。」と思ったそうです。その話をしてくれた牧師も「あのおばあちゃんに何か使命があるのかなぁ・・・。」と言っていました。しかしイエスさまは「あなたには使命がある」と言われたそうです。

 実は先週、そのおばあちゃんに、この教会に来ているある人が実際に会って詳しく話を聞いてくれました。それで、もっと詳しいことが分かりました。
 「イエスさまになんと言われたの?」と聞くと、「あなたは花が好きでしょう。地上に戻って、花にもっと話しかけてあげなさい。それが使命です。」と言われたそうです。
 それでおばあちゃん、生き返った時に、枯れている花に、「枯れていないで、ちゃんと花を咲かせてイエスさまを賛美しなさい!」と言ったら、その後、短期間に花が咲いたというのです。以前にもその話をしたと思います。
 また毎朝、おばあちゃんの家にはカラスの軍団が来て、ぎゃーぎゃーうるさくて、「カラス。あっちへ行け!」と言っていたそうです。
 我が家の近くに、カラスを撃ちに行く人がいます。昨日も「カラスのしゃぶしゃぶうまいよ。」と話していました。私の孫はカラス肉が好きです。
 おばあちゃんはある朝、カラスに「主を賛美しろ!」と命じたら、カラスが賛美するようになったとお話をしましたが、その続編を聞いてきました。

 なんとおばあちゃん、以来、自分の使命が分かったそうです。それは被造物に賛美させる事だ!と。おばあちゃんには、脳梗塞があって体が不自由です。天国でイエスさまに出会った時、こう話したそうです。「私には障害があって、地上では不自由な体です。ですから地上に戻るのは嫌です。」と話したら、イエスさまがこう言われたそうです。「不自由でも使命は果たせます。しかしあなたが転んだ時、支える天使たちを遣わして守ってあげるから、転んでも怪我しないから大丈夫。」と言われたそうです。あなたを治してあげるとは言われなかったそうです。
 おばあちゃんは生き返ってからも、何度も転んだそうです。しかし一度も怪我したことはないというのです。毎回、支えられるというわけです。
 そして、信じられないことですが、沖縄にはアセロラがあるらしいですが、ある時、アセロラの木が全く実を付けていなかったというのです。それで「アセロラさん。あんた、実を付けなくちゃ駄目だよ。ちゃんと実をつけてイエスさまを賛美しなさい!」と言ったそうです。そうしたら、翌日、アセロラは実を付けたというのです。おばあちゃんは確信を持っているというのです。
 そして「この間、順先生のメッセージを聞いたら、同じことを話していた!」と言って、さらに勢いづいているというわけです。
 またカラスと一緒に毎朝賛美しているそうです。朝、ザワメキのCDを持って外に出ると、カラスがいっぱい来て、一緒に「主が声を出すと♪」と歌うみたいです。
 この頃、ばあちゃん、マンションに引っ越したそうです。それでもベランダに出て賛美したら、あの連中が集まって来たというのです。そして毎朝、一時間、カラスと一緒に賛美大会をするそうです。おばあちゃんが外出すると、カラスが付いて来るというのです。「一緒に賛美しよう!」と。
 おばあちゃんには少し障害があるけれど、おばあちゃんは肉体を持っているのです。肉体を持っているがゆえに、人としての機能は完璧です。
 人は管理人であるがゆえに、多少、年を取ったって、肉体に少し麻痺があっても、被造世界に対して宣言すると、彼らは賛美するのです。それは体があるがゆえになせる業です。

「地を治めるために、私たち人間には体が必要なのである。死んで霊の状態になってしまえば、その召しを果たすことができない。」

 様々な病で倒れたりして命が危ぶまれる時が来るかもしれないけれど、主は、「体はいらないよ!こっちにおいで!天国良いとこ、一度はおいで」みたいに声をかけられる事はないのです。「人の役割を果たしてちょうだい!」と、強く願っておられるのです。
 人間の役割、使命をしっかりと捉えた上で、「主よ、私にいやしと命を与えてください。」と祈ると、神さまはいやしを与えてくださるのではないかと期待しています。肉体を脱ぎ捨ててしまえば、ダビデが歌ったように、「ちりが主をほめたたえるでしょうか。」人間の機能は失われます。
 もちろん、死後の世界、第三の天でも、とりなしの祈りという目的があることも確かですが、人が人であるためには、肉体が必要であす。ここにおられる、皆、肉体に、たましいと霊が宿っています。確実に役割があるということです。肉体を通して主を賛美すると共に、神が造られた被造世界を管理し、主をほめたたえさせる役割があります。

 新型コロナウイルスも、ある意味、うめいていると思います。人間に敵対する形になって、不本意だと思います。しかし私たちクリスチャンが、新型コロナに、「おまえたちは新しい歌を歌え!人に危害を与えることはできない!」と宣言したら、コロナも変わっていくのではないかと期待しております。

 私たちの神さまは良い方である。将来と希望を与え、良い知らせを与えてくださる方です。霊、たましい、肉体が健康であることを神は願っておられます。
 グノーシスの主張とはある意味真逆で、神は物質世界に最も、関心を持っておられるのではないでしょうか。ゆえにいやしは重要です。
 今日は、いやし主、イエスさまの前に出て、いやしを受け取りましょう。その前に、自分自身の立ち位置、人間とはどういう存在かをよく理解した上で、神の前に出たいと願っています。最後に一言お祈りして、聖餐式に移らせていただきたいと思います。

 ハレルヤ、天の父なる神さま、み名をあがめて心から感謝いたします。私たちを地上に置いてくださり、肉体の中に置いてくださっていることを、心から感謝をいたします。主よ、肉体を強めてください。お一人お一人に力を注いで、いやしを与えてください。あなたは良いニュースを届けてくださるお方です。
 病んでおられる方々が多くおられます。いやしを与えてください。新型コロナで世界が苦しんでいます。ネット礼拝を守っておられる方々も含めて、すべての方々に、肉体的な守りと勝利を与えてください。健康を与えてください。そしてすべての被造物に主をほめたたえ、賛美させる働きを全うすることができますように。
 今ここに与えられた物質である、パンとぶどうのジュースを心から感謝します。受け取る時、新しい力を注いで下さい。イエスさまのみ名によって祝福して祈ります。アーメン。