「あなたの人生を変える言葉」

  • 2020年4月5日(日)

新城教会牧師 公畑フェルナンド
第一サムエル記 2章8節

『主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせます。まことに、地の柱は主のもの、その上に主は世界を据えられました。』

 ハレルヤ!感謝します。いつも私のために、またインターナショナル部会のためにお祈りを心から感謝します。
 最後にここで私がメッセージをしたのは二〇二〇年のためのみことばを話す、カウントダウンの時だったと思います。そして私がその時に神さまからいただいたみことばが、詩篇五十五篇十六節〜十七節です。

『私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる。夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。』

 私がこのみことばを受け取った時には、誰もコロナウイルスとか世界的な流行のことは考えませんでした。そしてこのコロナウイルスの影響によって、後で経済的な大きな危機が来るかもしれませんが、しかし主はもうすでに私たちにこのみことばを与えてくださいました。私たちに朝も昼も夜も祈りなさい!と。そして私は今こそ、この朝昼夜と私たちが祈る時だと思っています。
 そして今日ここに礼拝に集まっている方々や、お勧めを受けておうちでインターネット礼拝を守っておられる方や、またもしかしたらコロナウイルスにかかってしまうということを恐れてここに来るのを控えられた方もいるかもしれませんが、それらみなさんを含めて、主は私たちにこう言われます。「朝も昼も夜も私たちは祈り続けなければならない。」と。そして神さまは私たちのこの叫びを聞いてくださり、答えを与えてくださるのです。
 私たちは神さまのみことばを信頼する必要があります。恐れる必要はありません。
神さまの約束とみことばの中に私たちは休みを得ましょう。

 それでは今日のメッセージに移りたいと思います。今日のタイトルは、「あなたの人生を変える言葉」というタイトルです。
 今日は人生を変える四つの言葉について皆さんにお分かちしたいと思います。
最初のことばはヤコブ一章五節からです。

『あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。』

 あなたの人生を変える第一番目の言葉は「知恵」という言葉の定義です。
 知恵とは何でしょうか?それは違いを見分ける能力であり、機会を見分ける能力です。知恵とは、決断や振る舞いの結果を先に予想する能力です。知恵がある人は、まず自分が行動しようと思う時に、それをする前にどんな反応があるかというのを考えます。それが良いものか、悪いものかを予想します。それが良いものであれば行動に移し、悪ければ止めます。しかし愚かな人は何も考えずに行動し、物事を台無しにするのですが、それすら気づきません。
知恵とは、前もって自分のふるまいの報いや結果を予見する能力なのです。
 さらに知恵とはどんなものでしょうか?それは神さまのみことばであり、問題に対して正しく適用された神の律法です。では問題を解決するためにはどうしたらいいでしょうか?
 例えば、「牧師先生、私にはお金の問題があります。お金が要ります!」と言う方がいるかもしれませんが、私はその方にこう言います。『あなたに必要なのは知恵です!』「私は夫婦の問題があります。どうしたらいいですか?」という方には、『あなたには知恵が必要です!』と言います。「私は子どもと問題があります。」と言われる方にも、私は『知恵が必要です。』と言います。「仕事の中でいろいろな問題があります。どうしたらいいでしょうか?」と言われる方にも、『知恵が解決です。』と言います。すべての問題に対する解決策とは、知恵を持って行動することだからです。

 「知恵とは、人間の問題に対する神の解決策である。」私はこの定義がとても好きなので、もう一度言いたいと思います。「知恵とは、人間の問題に対する神の解決策である。」
 知恵は探す必要があります。知恵を見つける必要があります。箴言には、広場や通りで知恵を見つけることができるとあります。また人々の間に見つけることができるとあります。箴言にははっきりと、知恵ある者と共に歩むものは知恵を得ると書いてあります。しかしまた、愚かな者と歩む者は滅びるとあります。
 あなたに聞きたいと思いますが、もし人生において知恵ある者となりたいなら、なぜ愚かな人と行くのですか?もし知恵ある者になりたいのであれば、あなたは知恵のある人と共に歩むべきです。それによってあなたはもっと知恵のある者となることができます。ですから、知恵とは見つける必要があるもの、また見分ける必要があるものなのです。

 私は箴言がとても好きです。なぜなら神さまは箴言を三十一に分けて私たちに与えてくださったからです。これによって、毎月、毎日一章読めるからです。例えば、四月一日、五月一日、六月一日に箴言一章を読むことができます。もちろんそれに加えて聖書の他の箇所も読まなければいけませんが。しかし毎日箴言を読むべきです。なぜなら箴言の一章には『箴言によって知恵を得る。』と書いてあるからです。この箴言を読むことで私たちは知恵を得ることができます。
 そしてもう一つあります。あなたがどれだけ同じ箴言を読んだかというのは重要ではありません。なぜなら読むたびにいつも新しく学ぶことがあります。いつも何か示されることがあるのです。あなたを再び立ち上がらせる言葉があるからです。あなたを説得し、あなたの考えを変える、そんな言葉が書いてあるからです。
 ですから、人生を変えるために、すべてのクリスチャンが持つべき第一番目の定義は「知恵」です。

 二番目の言葉は、詩篇二十九篇二節に書いてあります。

『御名の栄光を、主に帰せよ。聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ。』

 第二番目の言葉は「誉れ、名誉」です。スペイン語では「誉れを与えること」と、「敬う、尊ぶこと」が同じ言葉で表現されます。
 私たちは様々な方法で人々を尊びます。よく知っている人と知らない人を同じようには尊びません。また権力のある人々とそうではない人たちを同じようには尊びません。私が今言うことは、尊敬ということとは少し違います。私が言うのは尊ぶ、敬うことです。私たちクリスチャンとして、すべての人を尊敬しなければいけません。しかし尊ぶというのとは違います。それは、尊ぶとか誉れを与えるという言葉は、その人の中に人とは違う何かを見るから尊ぶのです。その違いを認識してその人に報いることが、尊ぶということです。
 例えばあなたがその人の差を認識して、その人に報いる時に、その人に誉れを与えている、尊んでいるということになります。

 ちょっと理解するのに難しいかもしれませんが、聖書の中には私たちが尊ばなければならない人のことについて書いてあります。
 それが四人いるのですが、まず第一番目に誰よりも優先して神さまが来ます。全てに優先して神を敬うべきです。なぜなら神は私たちとは異なる存在だからです。真実で唯一の神さまです。神々の中にあって彼こそ神です。聖書には主の主であると書いてあります。アルファでありオメガである方です。始まりであり、終わりである方です。それゆえ私たちは誉れを与えるのです。なぜなら神さまは他の誰とも違う存在だからです。
 全ての道が神さまにつながっているでしょうか?いいえ、違います。神さまに導くただ一つの道があります。それはイエス・キリストです。それゆえすべての誉れと栄光は彼のものです。
 神に誉れをささげる、尊ぶ方法の一つに、十分の一献金があります。この十分の一献金を献げるということは、神さまの中にある人間との差を認識して献げるということなのです。この十分の一献金というのは人間に与えるものではありません。それは人の物ではないからです。それはただ主のものであるからです。

 そして第二番目に私たちが敬うべき人というのが、私たちの父であり、母です。それが良い親であったかどうかは問題ではありません。また子ども時代に両親の存在があったかなかったかは問題ではありません。それはその人の身分に関係していることであって、その人が父であり、母であるゆえに敬わなければならないと書いてあります。その人自身を敬うのではありません。その人の、父であり、母であるという、身分を敬うのです。ですから、あなたの父親が良い父であったか、悪い父であったかは関係ありません。あなたは父と母を敬うのです。なぜならこの地上で長生きするのは、私が敬うと決心した人によるからです。それはエペソ六章に書いてあります。

 そして三番目に私たちが誉れを与えるべき人は、私たちの上司、リーダーです。上司とは、一般的に働く人たちの話のタネになります。しかし、その人があなたの毎月の給料を払うことを認めていることを私は言いたいのです。ですから尊びましょう。尊敬しましょう。その上司の誉れを打ち壊すような、その名前を地に落とすような、悪口を言っているような会話から離れましょう。そういった会話に入ってはいけません。そのような悪い集団に入ってはいけません。
 もしあなたが会社の方針に同意できないなら、あなたの上司、リーダーに同意できないなら、仕事をやめてください。誰もあなたを強いてその仕事に就かせたわけではないのですから。
 しかし、やり方、方法があります。姿勢があります。私が確信するものがあります。もしあなたが正しい態度でいるなら、正しい目的があるなら、正しい心を持っているなら、あなたは上司、リーダーに近づくことができます。そしてもっとこうしたらいいと思うことがあるなら、神の恵みと愛によって、あなたの上司は、あなたの話を聞いてくれると確信します。しかし上司の悪口を言う会話に入ってはいけません。また会社の悪口や、会社を非難したりしてはいけません。なぜなら神は悪口を好まれないからです。

 四番目に聖書が敬いなさいと言っている人は、牧師です。聖書はただその信仰に習いなさいと言っているだけでなく、牧師に誉れを与えなければならない、尊敬しなさいと命じています。
 ですから、悪口を言ったりして誰を侮辱しているのか、注意してください。会話の中に牧師を侮辱しているような言葉があるか、無礼でないか、不誠実がないか、非難がないか、注意する必要があります。
 なぜならその背後には第三者の声があるからです。この第三者の声とは、悪魔の声です。この声はエデンの園に現れた声です。そこにはアダムとエバが彼らだけでいました。その彼らだけでいる時に、第三の声を聞くようになりました。その第三の声が二人の中に口論をもたらしました。その第三の声は二人の中に争いをもたらしました。またこの第三の声は二人の中に陰口をもたらしました。その第三の声というのが、二人の中に噂話、また中傷をもたらしました。
 この「噂話」という言葉の由来はギリシャ語の「ディアボロス」という言葉からきているそうで、ラテン語で「悪魔」という意味です。噂話、中傷は耳で聞くときには心地よいものです。ですから人間は噂や中傷を好みます。しかし最終的には分裂し終わります。苦しみの中、痛みの中で終わります。ですから聖書は、「噂話から離れなさい。」と言っています。このような会話から身を避けなければいけません。その後ろには第三の声があることがはっきりしており、それが悪魔の声だからです。

 そして三番目にあなたの人生を変える言葉は、コロサイ人への手紙三章二十三節〜二十四節、

『何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。』

 第三番目に人生を変えるために知らなくてはならない言葉というのは、エクセレント、優秀さ・素晴らしさです。優秀とは何でしょう?それは仕事を正しく行うことであり、非常に高い質の仕事をすることです。ただ非常に高い質の仕事をするだけではなく、それを必要な時に行うことです。なぜならあなたの仕事がどんなに素晴らしくても、示された時間内にできなかったら、優秀な人とは言えません。平凡な人であると言えます。良い仕事人とは素晴らしい仕事をするだけではなくて、言ったことを守る人のことを言うのです。約束の時間内でする人のことを言うのです。
 例えば、もしあなたが報告書を渡したり、仕事などを終えることを、上司や、その仕事を依頼した人にいうとき、水曜日の朝九時に渡しますと約束したとします。ご存知ですか?その場合、水曜日の朝八時五十五分にはその報告書や仕事などを手に持って、上司や仕事を依頼した人に渡すのを待っていなければなりません。なぜならあなたは約束したからです。そしてあなたが言ったことが仕事の優秀さ・すばらしさを現すのです。
 またあなたは卓越して相手に伝えることを学ばなければなりません。また人に話を聞く時も、卓越して聞かなければいけません。またあなたの生活そのものが、ただ教会の中にいる時だけでなく、教会から一歩出た世界でも、素晴らしい、卓越した、優秀であるということを伝える者でなければいけません。

 一つ試してみてください。買い物に行ってください。変な服で、汚い身なりで行ってみてください。誰もあなたに見向きもしないでしょう。しかしあなたが良い服でお店に入るなら、少なくとも二人の店員が近づいてくるでしょう。「何かお探しですか?」と聞くと思います。なぜでしょうか?それは素晴らしい、あなたの外見がその人をひきつけるのです。
 もしあなたが今、仕事を探していて得たいと思っているなら、面接の時に歯を磨かないで行ったらどうでしょうか?例えば変な服装で行ったらどうでしょうか?身なりが汚い格好で行ったらどうでしょうか?特に汚れた靴で行ったらどうでしょうか?それは服を新調しなさいとかそういうことではなくて、身だしなみの問題です。それが自分自身を紹介する、自己紹介になります。私たちは自分の人生全てにおいて、優秀・すばらしさを現すべきです!
 教会にいる間だけ、私たちが素晴らしさを示しているのは意味がありません。例えば家の中が汚くて汚れているのなら本当に意味がありません。私たちは自分の人生でエクセレント、素晴らしさを現していかなければいけません。もし、私があなたの家に行ってクローゼットを開けたとしたら、クローゼットの中の状態は、あなたの素晴らしさを語るでしょうか?
ですから、すべてにおいて私たちはエクセレントを現さなければいけません。どのように人に伝えているか、どのように服を着ているか、どのように話すか、どこで働いているか、どこで生きているか、そのどこにおいても私たちは「優秀さ・すばらしさ」を現さなければいけません。

 あなたの車はどうですか?あなたの車はあなたの優秀さを語っていますか?ある人の車に乗り込むと、どこに座ったらいいかわからないような車があります。どこに物を置けばいいかわからない車があります。とても汚れていて、食べ物のにおいがして、そこかしこに紙くずが落ちていて、ほこりまみれな車があります。こういうことがその人の素晴らしさとか優秀さを現します。本当に良い仕事をしているかということを現しているのです。

 もし人生、より上を目指したいと思うなら、神さまにあなたが信頼できる人であることを示さなくてはなりません。あなたに物事を任せる時にだめにすることがないということを神さまの前に示さなくてはなりません。
 なぜこんなことを言うかというと、まるで手が鉄でできているかのように、すべて任せたものをだめにし、壊す人がいます。それではだめです。私たちは注意深く取り扱うということを学ばなければなりません。他人の物ならなおさら、自分の物の様に注意深く取り扱うべきです。
 神さまのみことばで好きなことばあります。自分の物ではないものに忠実な人は、神がその人に持っている物以上の物を任せてくださるとあるからです。マタイによる福音書二十五章二十三節、

『その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』』

 神さまにあなたが優秀な仕事をする人だと証明してください。例えばあなたの靴です。家に着いた時、ほこりを払ったり、手入れしたりしますか?靴のかかとを踏むのが好きで、靴を全部だめにする人を見たことがありますか?だめです!きちんと管理して、きれいにしましょう。どんな靴かは問いません。多いか少ないかという数の問題ではなく、いつもあなたが優秀に見えるように、欠点のないように見えるようにしなくてはいけません。まるであなたが何か生活に困窮しているように見えないように、人に「あの人かわいそうだね。」と言われるような姿、そういう姿ではなくて、信仰を示す存在になりましょう。

 そして四番目の言葉は、詩篇三十七篇十一節、

『しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。』

 最後の人生を変える言葉は「繁栄」です。繁栄とは何でしょうか?繁栄とは物を集めることではありません。繁栄とは自分の使命を果たすために十分な蓄えを持つことです。それこそ繁栄であり、この地上で神から自分に与えられた任務を果たすために十分な備えを持つことです。
 繁栄は、ためる、買う、ためる、買う、そういうことではありません。繁栄とは私が神さまから託された任務ができるように、十分なものを持つことということなのです。
 この蓄え、スペイン語「プロビシオン」という言葉は、二つの言葉からできています。「プロ」と「ビシオン」です。英語で言うと、「プロビジョン」です。この蓄えという、プロビジョンの意味は、「ビジョンを与える」という意味です。
 ですからもしあなたがビジョンを持っていないなら、何のためにプロビジョン、蓄えを受けたいのでしょうか?ビジョンがないなら蓄えは要りません。蓄えがいると言うなら、あなたのビジョンを見せてください。体に対してのビジョン、あなたのビジネスに対するビジョン、あなたの家族に対するビジョンを見せてください。
 そのビジョンを書いたことがありますか?子供に対してのビジョンがあるのならば、それを書いてください。「牧師先生、私は頭の中に持っているからいいですよ。」という人がいますが、しかしあなたがそのビジョンを書く時に力があります。そしてその書いた物を読む時に、そしてその目的を持って走る時に力があります。これは聖書が言っています。ハバクク書二章二節、

『主は私に答えて言われた。幻を板の上に書いて確認せよ。これを読む者が急使として走るために。』

 例えば、あなたのビジネスに対するビジョンはどこに行ったのですか?神さまがあなたに与えた、書き出したビジョンはどこに行ってしまったのですか?もしビジョンがないなら蓄えを求めないでください。蓄えが与えられるのはあなたにビジョンがあるときだけです。それは、はっきりとしたビジョンでなくてはなりません。またそれがどんなビジョンであろうとも、会社を始めたり、新しいビジネスを始めたり、何であっても、そのビジョンというのが福音を広めることを伴っているなら、必ずあなたに蓄えが与えられます。
 繁栄とはボーナスのようなものではありません。繁栄とは幸運ではありません。繁栄とは宝くじに当たるということでもありません。繁栄とは神に従ったゆえの、結果の報酬なのです。従順な人は結果的に繁栄します。不従順な人は破滅します。神への従順というのは、いつも神への祝福とつながっています。
 また神への従順というのは、経済的な祝福ももたらします。それは運ではありません。繁栄することは神の命令であり、神さまが定められたことです。それゆえ、主が神の民を祝福するという時には、「あなたを祝福することを約束する。」とは言わず、「あなたを祝福すると誓う。」と言われました。「約束する」のと「誓う」とでは、とても大きな差があります。クリスチャンとしては何も誓ってはいけないと聖書は教えています。しかしクリスチャンではない外の人たちは「誓います」と言う時があります。その「誓う」という言葉を使う時というのは、それが最上であって、それ以上の言葉がないので「誓います」と言うのですが、彼らにとっては「誓う」ということは、「絶対にそうする」ということを表すために使うのです。
 そして神さまも、私たちが神さまから祝福されることを、人間的には信じるのが難しいということを神さまはご存じなので、「約束します」とは言わずに、「あなたを祝福することを誓います」と言われました。ヘブル書六章十三節〜十四節、

『神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」』

 「わたしは必ずあなたを祝福することを誓います。」と言われました。神さまは、そのように言うことが、私たちが信じる唯一の方法であるとご存知だったのです。

 この四つの言葉をあなたがいつも実行してくださることを期待します。そして神さまの祝福を受けることができることを私は期待しています。

1. 知恵を持って行動する人になること。
2. いつも栄光を帰す人になること。神を敬い、自分の両親を敬い、自
分の上司を敬い、自分の牧師を敬う人になること。
3. 何をするにも優れた仕事をする人になること。自分の人生のすべて
の領域において素晴らしさを持つ人になること。
4. 繁栄した人、人生の中ですべての面において祝福された人になる
ことです。

 それではお祈りしましょう。

 主よ。今朝のみことばを感謝します。今朝、この教会に集まってくださった方々を感謝します。またインターネットでこの礼拝を見ている兄弟姉妹たちも感謝します。なぜならどのような形であっても、私たちはこの礼拝に参加して、ただ祝福を受けることだけを期待しているのではなくて、神の人生における教えを受けるために集まれたことを感謝します。
 主よ、あなたをたたえ、あがめます。そして主よ、どうかこのみことばが私たちの人生における神の生きたことばになりますように。また、みことばをただ聞く者にならないで、行うことができる者になりますように。それを実行し、知恵にあふれた人になることができますように。そして誉れに満ちた人になりますように。優秀な人になることができますように。そしてあなたのみこころのように、繁栄して祝福された人となることができますように。今朝のこのみことばを感謝します。ここにいる一人一人、またこの礼拝をインターネットで見ている一人一人に祝福がありますように。イエスさまの名前によって祈ります。アーメン。