「宣教70周年 -2020-
明日に向かって「将来と希望」パート5
〜苦しみ。それは栄光への戦い②〜 」

2020年5月24日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ローマ人への手紙8章18節〜23節

『今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。』

 ハレルヤ!おはようございます。インターネット礼拝になり、すでに二ヶ月近く経つわけですが、皆さまとお会いできなくて、本当に寂しい毎日が続いております。しかし、この様な機会は、そうめったあるわけではないです。世界中が同じ環境で苦しみを共にしているわけです。このような中にこそ、主が恵みを与えてくださると信じます。
 新城教会も六月になりましたら、礼拝をこの会堂で再開しようと願って準備しています。新城教会の会堂、ちょっと懐かしいとお思いになりませんか?

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 椅子も寂しく泣いているような感じがしますよね?

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 ある時、親孝行な息子が教会の牧師の所に来て言ったそうです。「私の父が不眠症で苦しんでいます。そこで、一つお願いがあります。」『どんな願いですか?叶えてあげたいです。』「教会の椅子を一脚くださいませんか?私の父は不眠症ですが、教会に来て椅子に座ると、すやすや眠ることができます。だから教会の椅子をぜひ、一脚もらって家に設置したいのです。そうしたら、父の不眠症が治るかもしれない・・・。」と息子が話しました。
 すると牧師がこう答えたそうです。『分かりました。それでは教会の椅子を一脚、お父さんに差し上げましょう。そしてもう一つ。私のメッセージの音源も一緒に付けてあげますよ。そうすると、もっと効果があります。』

 教会に来られて、おやすみになることも良し、何しろ、この特殊空間に入って主を礼拝するのは意味があります。
 しかしながら今回、新型コロナの問題で、会堂に集まることができなくなりました。会堂の意味について、以前、お話をさせていただきました。
 イスラエルの人たちがなぜ、安息日に会堂にせっせと集ったのかというと、特定の時間に、特定の場所に集まると、そこに主が天を引き裂いて下りて来られると信じていたからです。
 特定の日とは、安息日であり、特定の場所が神の宮でした。そこに主が下りて来て、祈りを聞き、答えてくださると信じていたのです。

 しかし聖霊が注がれてからは、この特定の場所が、ただ単に神の宮だけではなくて、すべての場所が神の宮となったわけです。
 今回、教会の特殊空間と特殊時間が、家庭に共有されるようになりました。これはすごいことだと思います。今の時の様々な苦しみは、それだけで終わらず、将来と希望につながるのです。

 クリスチャンにとっての苦しみは、ただの我慢大会ではなく、産みの苦しみです。母親が子どもを産む時、ただ単に苦しんでいるわけではありません。ローマ書八章では、『共にうめき、共に産みの苦しみをする。』と表現されています。
 私もお産に立ち会ったことがあります。家内が苦しんでいる姿を側で見ながら、共にうめきました。それはただ、「痛い痛い!」と苦しむのではなくて、その後に、大きな望みがありました。

 苦しみの後に、新しい命が生まれるのです。だから苦しみにも価値があるわけです。
 現在、コロナのことで人類は苦しんでいます。これは新しいものを生み出す為のうめきです。神は人類に共通の苦しみを与えて、メッセージを送っておられるのではないかと感じます。

 私たちは今、家庭で聖餐式を行っています。家族での聖餐式はたいへん重要だと、毎回、お話しさせていただいています。
 使徒の働き2章46〜47節、

『そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。』

 聖霊が注がれた後、人々は宮に集まって礼拝するだけでなく、家に帰ってからパンを裂いていたと記録されています。それは、ただの食事ではないのです。聖餐式を意味します。聖餐式とは、主の再臨を待たずして、主が来てくださるという、神の宮を象徴しています。家が神の宮となるのです。
 新型コロナで様々な苦しみを経験していますが、この苦しみは決して無駄になることはないのです。コロナが終わったら、どのような素晴らしい計画を主は実行してくださるのか、大きな期待を持って祈り続けたいです。しかしその為には、うめきが伴うわけです。

 新城教会に二ヶ月くらい来られていないと思うのですが、教会の中庭を見てください。

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 綺麗でしょう。芝生がふさふさ緑色に色づいています。去年はこんな感じではありませんでした。私や誰かの頭のようでした。けれども、今年はこんなに青々しています。どうしてかというと、管理人が毎週のように来て、管理してくれているからです。鈴木剛さんが、仕事の合間に来て、小さな雑草も抜いて、手厚く管理しているのです。ゆえに見てください。こんなにも去年と違って美しい芝生になったわけです。
 私は剛さんが芝生の世話をしているのを横目で見ながら家に入って行くので、申し訳ない気がするのですが、管理は結構大変な仕事です。暑さの中、汗を流しながら、小さな草を根気よく抜いて管理しています。その努力の結果として、このような美しい芝生庭園が出来上がるわけです。やはりそこには人知れない、剛さんのうめきがあるわけです。

 人には管理人としての役割が与えられていると、何度も語っています。「人とは何者なのでしょうか」、人が造られた時に神が、「すべての生き物を支配しなさい」、これは「管理しなさい」とも訳すことができるのですが、すべてを管理する役割を与えられたのです。
 しかし管理の仕事は、一朝一夕で成り立つものではないのです。常に関心を持って、微に入り細に入り手厚く管理していく時に、実を結んでいくのです。

 今も祈りの勇士たちが日夜、新型コロナの問題に関して祈ってくださっています。また、私のためにも、家内の癒やしのためにも、祈ってくださっています。しかし祈りには結構、エネルギーが要ります。
 私は、毎朝、世界宣教LINEグループにメッセージを送信しているのですが、「賛美してください。」とか「祈ってください。」という勧めに対して応答するのは、時間も取られますし、結構ストレスがあるかもしれません。
 しかし日頃の小さく見える積み重ねが、神の前に形となっていくわけです。

 私は祈りの結果であると信じますが、皆で真剣に祈るようになってから、これは愛知県のデータですが、ある時期を境に、どーんっと感染者数が減り、収束に向かい始めています。最近は感染者数ゼロの日が続いています。日本全体におきましても、下がって来ています。

 もちろん、様々な理由を総合しての結果となっているのですが、祈りの結果でもあると、私たちは信じたいです。
 今の行動が二週間後に反映されると言われますから、二週間後、祈りの結果なのか、ただ人々の努力なのかが分かります。「祈りの結果だったね!」と感謝できる結果を見せていただきたいと願っています。ですから祈りの手を緩めてはいけません。

 実は新型コロナのウイルスって、本当に怖いです。死亡率は低いようなことを言われますが、日本で新型コロナで亡くなっている方、どのくらいおられるのか毎日発表があります。感染者の中での死亡率は五%以上です。五%ってすごいじゃないですか。百人いたら五人死ぬことです。高いですね。
 世界の死亡率は六・五%です。それで愛知県を計算してみたら、世界水準よりも上回っています。六・六%です。結構死亡率が高いです。だから見くびってはいけないわけです。どういうものかをよく知らないといけないと思います。

 今日は午後一時半から、二つのセミナーがあります。この頃、解禁ムードで、もういいかな?みたいな気の緩みもあります。でも、どういうものかを、しっかり抑えて祈らなければいけないと思います。風邪引くくらいに思っていたら、たいへんなことになります。新型コロナがどういうものかについてよく知って、二週間、真剣に祈り続けるならば、祈りによって結果が出ると信じます。私たちは管理人として、毎朝のように、「新型コロナウイルスよ!よく聞け!」と、「人類に関わってはならない!」と、叫んでいますが、日本において大きな功を奏していると信じます。

 新型コロナウイルスが蔓延したことで、私たちはうめき苦しんでいますが、普通では絶対にありえない事を、主が今、行ってくださっていることも知らないといけないと思います。
 日本の歴史は、言い換えれば偶像礼拝の歴史です。歴史が分かる二千年くらい前の縄文時代から今に至るまで、偶像礼拝は途絶えたことはありません。
 特に日本の偶像礼拝は、一口で言うならば、自然崇拝です。自然とは、「自ら然り」で、進化論的な言葉です。本来は被造物です。日本では被造物を神として拝んでいるわけです。

 太陽を拝んだり、木を拝んだりするわけです。それらには神が与えた命があるわけです。しかしそれらに対して礼拝したらどうでしょうか。

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 「やめてくれ〜俺たちは神じゃない・・うっっ」とうめくはずです。神社の祭りも、全て、自然崇拝に行き着きます。
 しかし今、日本人はこの行為を中止しているわけです。祭りも全て中止になっています。その結果として、霊的空気も澄んでいます。
 悪しき覆いが取りのけられているがゆえに、被造物世界も明るくなっている。鳥なども元気にさえずっています。カエルの声も一段と高くなっているような気がします。
 これはなぜかと言ったら、被造物全体が悪しき力の圧迫から解放されているからです。
 現在私たちは、新型コロナでうめいていますが、このうめきには価値があるのです。今、霊的世界の風通しがよくなっています。今こそ私たちクリスチャンが聖霊の風を吹かせる、絶好のチャンスなのです。「風よ吹け!息よ四方から吹いて来い!」と叫ぶ時、殺されたものたちを立ちあがらせるのです。

 先週、セミナーがありまして、岡本信弘先生が七十年をちょっと欠けるけれど、よく知っている人物として、新城教会の歩みについていろいろレポートしてくれました。本当に懐かしかったですね。
 でも、私は話を聞きながら、心が痛かったです。私も七十年ちょっと欠けますが、父母から始まった働きをずっと見て来て、私の世代まで引き継いでいるわけですが、「宣教三十年」という記念誌があって、それを見ると、滝元家と岡本家と伊藤家を除けば、あと十人くらいしか残っていないと話していました。あんなに大勢あの頃いたのに、どこへ行っちゃったのかと。様々な理由で教会を去ったり、信仰を捨ててしまったり、人生に様々なことが起こったのです。いや〜悲しいなぁ。
 実際、日本の教会って、クリスチャンの平均信仰寿命は、だいたい二、三年だというのです。二、三年は教会に来るけれど、三年くらい経つと教会に来なくなってしまうというのです。教会には人の流れはあるけれど、定着しないというわけです。
 七十年間、うめきにうめきながら働いてきたわけですが、七十年間に殺された者たちに息が吹いて来て、彼らを霊的に立ちあがらせよ!と主は語られています。一度救われたけれど、悪魔に倒された人たちの骨々が満ちていますが、それらがくっついて、立ちあがるように、この時にこそ、真剣に祈りなさいと、最近、語られています。

 ですから霊的に軽くなった今、管理人たちには使命があります。そもそも管理は痛みを伴い、苦しみを共にするものですが、この苦しみは、決してただの苦しみに終わることなく、将来の栄光につながるのです。
 今朝も、皆さんと一緒に、ローマ人への手紙八章十八節を読みました。

『今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。』

 パウロは相当苦しんだ人物ですが、「将来啓示されようとしている栄光に比べれば、今の苦しみなんか取るに足りない」と語っています。私たちもゴールを目指して、歩み続けなければなりません。

 前回も、『将来私たちに啓示されようとしている栄光とは何か?』についてお話しさせていただきました。
 そしてうめきとは、人類だけがうめいているのではなく、『被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいる』と、人だけでなく、被造物のうめきについても、お話ししました。被造物のうめきに気づかないと、将来啓示されている栄光にはつながらないのです。

 不思議なことに、三、四年前から教会に「福音とは何か」について主は語って下さいました。それは人だけではなく、被造物全体の救いであると、語られました。
 それで私たちは、魚に「賛美しろ!」と命じたり、鳥に「賛美しろ!」とか、花に「賛美しろ!」とか命じて、「ちょっと大丈夫かい?」と思った人もいるかもしれません。私がそういうことを話しても、なかなか信用してくれないところがあるのですが、それに呼応してというか、それ以前から、有名な神学者たちがその点を指摘するようになりました。N.T.ライトという神学者が、

“良い知らせとは、魔法の合い言葉で窮地を脱して天国に入る少数の人間のためのものではなく、被造物世界の全体についての知らせであり、被造物世界全体のための良い知らせなのです。”

 聖書は人だけの救いを語っているのではない、人とは管理人であり、人が正しい立場に立ったら、それに伴い、他の被造物も回復してくる!福音とは、「被造世界全体の良い知らせ!」なのです。しかし悪魔は福音を、人だけのものかのように矮小化させたのです。

 またイギリスの有名な神学者がこう語っています。これも何度か紹介しているのですが、

“御子は人となられ、人々を罪からきよめ、また悪魔の支配から解放してくださった。人間がこのような大きな祝福に与ったのは、その本来の召命、「地を治める」という召命を果たすためだ。地を治めるためには私たち人間には「からだ」が必要なのである。死んで霊の状態になってしまえば、その召しを果たすことができない。”

 イエスさまがこの地上に来られて、人のために十字架にかかって死に、よみがえってくださった。それは人間にとっては相当ありがたいことです。死刑にならないで済んだわけですから。
 しかしそれは、人間のためだけではないというのです。なぜここまでイエスさまは人にしてくれたのか、それは、「人が本来の召命、地を治めるという召命を果たすため」だというのです。地を治めるためには何が必要か、それは、「からだが必要」であるというのです。

 前回も話しましたが、今、全人類は「からだをこの地上に残す」ことを最優先順位にして生活しています。以前は、一円でも多く儲けたい!という経済活動が前面に出ていたのですが、今はもう、経済活動なんかどっちでもいい!からだを地上に残せるか否かです。
 新型コロナウイルスは致死率五%以上ですから、本当に恐ろしいです。有名人たちも次ぎ次と死んでいるくらいですから、相当な脅威です。ゆえに私たちは、ここまで自粛しているわけです。
 では、からだを地上に残して何をするの?ということが最も重要です。それは、「地を治める」ためだというのです。
 しかし悪魔は「この地上から去って、死後の世界に行くことが最も幸せですよ。死後の世界が天国、ゴールですよ!」と、クリスチャンたちに思い違いをさせています。
 しかし本来は、この地を治めるために生きて真剣に戦い、働かなければならないのです。「死んで霊の状態になってしまえば、その召しを果たすことができない」のです。

 私はこの事に、家内の癒やしのために祈っている時、気づかされました。またこのような神学者たちの文書にも出会わせていただきました。ただ単に癒やしを求めたり、問題解決を求めたりするのではなく、ゴールは何かをしっかりと捉える事を教えられました。
 「ともに」うめき「ともに」苦しみをしているとは、人は被造物とシンクロしてうめいているのです。
 人の癒やしや問題解決は、イコール、被造物の回復につながるという事です。今私たちがうめき苦しみながら自粛生活に耐えている中で、被造物世界は回復しています。私たち人間のうめきと、被造物のうめきがシンクロしている証拠です。それを見える形で、主は私たちに見せてくださっているのです。
 産みの苦しみのゴールは、赤ん坊が生まれることです。私たちクリスチャンのゴールは何か、それが、「新しい天と新しい地の訪れ」です。ヨハネの黙示録二十二章一節〜四節、

『御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。』

 これがどこに実現するのかというと、決して死後の世界ではないのです。「水晶より透き通る流れの側でお会いしましょう」と今日も歌いましたが、死後の世界に川があって、そこに集まると考えますが、そうではないのです。これは地上に実現するのです。

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 死後の世界、第三の天までは神の国になっています。しかし第二の天と、第一の天、我々が住んでいる天は、悪魔が支配しているのです。
 ということは、このまま終わったら、神さまの敗北です。「いや〜悪魔が強かったものだから、第二と第一は取られましたね。」となったら、神さまの負けです。
 第一の天まで貫いて、諸天が神の国にならなかったら敗北です。水晶のように透き通る流れの川は、どこに現れるべきかと言えば、地上です。新天新地はこの地上に下りて来るのです。
 かつてのエデンの園と同じように、神が人と共に住む楽園が、再度、地上に現れるのです。その為にイエスさまは再臨されます。

 終末についての話題が、再臨前後のことばかりにフォーカスされています。そのことに興味を持ちすぎると、最も大切なイエスさまの再臨フォーカスがぼけてしまいます。終末論にはいろいろ理解があるので、一つに決めたら他が否定されます。私は日頃、あまりしっかりと決めないほうがいいと思っています。「主は帰って来られる」ことだけを抑えておいたら良いと思います。その前後に様々な苦しみがある事はさておき、やがてイエスさまはこの地上に帰って来られ、地上を天国として下さるのです。

 ということは、「水晶のように透き通る流れの側」とは、どこの川になるのでしょうか。イスラエルに出現するのでしょうか。私はそれだけでなく、世界中が新しくなるわけですから、新城市を流れる川も、支流になれたら最高だと思っています。豊川が水晶のように透き通る流れに変わるように祈っています。
 いのちの木も、新城にある被造物があがなわれて、いのちの木に変わらなければいけないと思います。
 私は新城に、早く新しい天と新しい地が訪れてほしいと、いつも思っています。イエスさまが帰って来られたら、新城は変えられるはずです。皆さんが住んでいる街々、村々も変えられるはずです。
 天国とは決して死後の世界ではありません。死後の世界にゴールを設定してはいけないのです。
 この地上が聖書のゴールです。新城教会から、既に、百名以上、二百名近くの方々が死後の世界、第三の天に行かれました。水晶より透き通る流れの側で会いましょう!とは、地上が新しい地になって、全員が集まっていのちの川の側でバーベキュー大会をやりたいです。

 一九九二年にハートフルサパーで、豊川の側で千二百人集まってバーベキュー大会を開催しました。あれは新天新地を表しているのではないかと思います。被造物のうめきとは、新天新地に生息する、あがなわれた被造物になりたい!といううめきてあるはずです。
 あなたのそばに川があったら、水は、「俺はこんなどぶ川を流れる水じゃなくて、贖われて、新天新地を流れる水晶よりも透き通る水になりたい!」と願っているはずです。
 そして、「おまえクリスチャンだろ?そのために祈ってくれよ!」とうめいています。そのような神の子どもたちが現れるように祈って欲しい!と願っているということです。
 新型コロナで回復してきた被造物世界を目にしたら、「新天新地に生息する被造物になれ!」と宣言して下さい。

 昨日、孫たちにせがまれて魚釣りに行きました。全然釣れませんでした。でも最後に、川で一緒に祈りました。そうしたら、一人の孫が祈ってくれました。「この水がいのちの水の川となるように!」と祈り、「川よ!いのちの水の川となれ!宣言する!」と祈っていました。すごい祈りをするな、と感心しました。私たちは全員、管理人なのです。

 今日、皆さんとお分かちしたい、もう一つのことがあるのですが、神が天と地を創造した時に、何が起こったのか、ヨブ記三十八章七節、

『そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。』

と書かれています。初め、天と地が創造された時、人はまだ創造されていませんでした。その時に神さまと一緒に、創造の業を喜んだ存在がいるのです。それが誰かといったら、「み使いたち」です。「み使いたちと〜♪」という賛美が先ほどありましたが、天と地は誰のために造られたのかについて、パウロは語っています。コロサイ人への手紙一章十六節、

『なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。』

 この理解はたいへん重要です。すべての物質、すべての生き物、すべての被造物は、父、子、聖霊の三位一体の神の中で、み子イエスさまが造られたのです。その目的も、「イエスさまのため」だという事です。すべての物質、金属も何もかも、光も闇も何もかも、これはイエスさまが造られました。そして「み子のために」造られたという理解は重要です。
 それらができあがった時、それを見て、み使いたちが喜んで創造の業を賛美したのです。「神の子たち」という表現は、み使いを表しています。皆さん家に帰ったら、(すでにみんな家に帰ってますね…。)コロサイ人への手紙一章十三節〜十七節を読んでいただきたいと思うのですが、イエスさまが造られたのです。

 そして神は、み使いたちに管理を任せたのです。黙示録十六章五節には、「水をつかさどるみ使いたち」なんていう、不思議な表現が出てきます。また十四章十八節には、「火をつかさどるみ使いたち」、「風をつかさどるみ使いたち」という表現が出てきます。「光のみ使い」も出てきます。光も物質です。神学者たちが言うのには、イエスさまが万物を造られた時に、最初、み使いたちに被造世界を治めるように、管理を任せたというのです。

 しかしその後、何が起こったのかというと、み使いたちの三分の一が神に反逆し、地に落とされてしまったのです。
 み使いたちにこの地を管理させようと割り当てたけれども、その中の三分の一は、神から委託された管理権を自分のために使おうとしたのです。そんな反乱分子が発生してしまったわけです。み使いたちの自由意思の結果です。神さまはそのままにしちゃおけないですよね。
 どうされたかといったら、人を創造したのです。

 三分の一が堕落してしまったがゆえに、光のみ使いたちの上に、管理人を設けなければならなくなったのです。
 み使いたちの直属ボスは、それまで神さまだったのが、人類が創造された結果、み使いたちの直属ボスは人となりました。
 しかしアダムとエバは、この働きをすることなく悪魔に騙されて、堕落してしまったわけです。

 その結果、悪魔・悪霊どもが管理権を横取りしてしまったのです。
 しかし私たちがイエスさまを救い主として信じるなら、悪魔・悪霊どもをやっつける権限が回復するのです。
 堕落しなかったみ使いたちにも、うめきがあるはずです。なぜなら、仲間たち三分の一が悪魔・悪霊になり、直属のボスが神さまだと思っていたら、人がボスになり、そのボスもまた、失敗をやらかして地に落ちたからです。み使いたちにも結構、大きなうめきがあると思います。

本来、み使いたちにあがないは必要ない。しかしみ使いも被造物であるがゆえに、人の罪の影響を受け、本来の使命を果たせていない。ゆえにみ使いたちにもうめきがあるはずだ。

 ということは、私たち人類は管理人ですが、管理を私たちだけでするのではなく、最初に神はみ使いたちに管理権を与えたゆえに、み使いたちと人類がコラボして働く時、神の国は訪れるのです。

 私はみ使いのことについては興味ありませんでした。そもそも、プロテスタント教会は、カトリック教会が天使礼拝を行っているのを見て危険視し、み使いについてあまり語らなくなりました。
 み使いたちの存在は、旧約から新約まで、至る所に出てくる重要な存在です。でも教会では、その存在についてあまり語らなくなりました。

 一九九二年七月のことでした。教会で賛美集会をやっている時、激しく聖霊が注がれました。すると子どもたちが走り出しました。私はその走る姿を見て、「あれ?み使いが来ているんじゃないか?」という感じがしました。なぜならば、子どもたちは手を引っ張られるような感じで走っていたからです。
 私は「主よ、み使いが来ているのであれば、子どもたちが引っ張られているようですが、後ろから押してください。」と祈りました。
 そうしたら、引っ張られていたのが、突然、押される姿で走り始めたのです。「あっ!これはみ使いが来ている!」と気づかされました。そして霊的戦いは、人だけではなく、天の軍勢と一緒に戦うものだと理解し始めました。

 そして管理に関しても、人だけではなく、み使いたちと一緒に管理するものであることに気づかされました。贖われた人類の存在は、み使いの働きを回復するのです。み使いたちと一緒に管理していく時に、様々な領域が息づいてくると信じます。
 皆さんの所に、強い天の軍勢が来て、皆さんを励まし、支えていることを是非とも知って下さい。
 ヘブル人への手紙一章十四節、

『御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。』

とあります。あくまでボスは、あがなわれた者たちなのです。遣わされたみ使いと共に、被造物を管理する時、すばらしいことが起こると信じます。

 私の家内は、現在、抗がん剤を服用しているのですが、結構大変です。しかし皆さんに祈っていただいて、支えられています。薬を飲む時には、必ず水が必要です。
 水は、「水晶より透き通る流れになりたい。水になりたい。」と願っているだろうなとある時思いました。我々管理人が、「いのちの水の川の水となるように。」と宣言し、祈り、薬を飲むようになりました。
 薬も人間のために造られたわけですから、前回もお話ししましたが、「人間に仕えたい!」と願っているはずです。
 いのちの木の葉からできる薬は、万病に効く、人々を癒やす薬です。
 薬にうめきがあるとしたら、「私の機能を使って、人々の病を癒やしてあげたい!」と願っているはずです。私は薬にも、「薬よ。万病に効く、いのちの木から生まれた薬となれ。」と宣言し、祈るようになりました。

 そして水にも、管理のみ使いたちが遣わされるように祈りました。人と一緒に、み使いたちが管理を任されている事に気づかされたからです。黙示録十六章には、「水をつかさどるみ使い」という表現が出てきます。薬を飲む時に、水をつかさどるみ使いが一緒に加わってくれれば、もっと効果的な薬の服用ができるのではないかと考えました。
 家内は毎日毎日、朝と晩、抗がん剤を飲まなければいけないので苦痛ですが、このコロナのおかげと言ってはいけませんが、聖餐式を家で行うようになりました。それで聖餐式の中で薬を服用させていただきました。
 四週間、朝と晩、小さな抗がん剤を飲むだけです。その後、二週間が休薬です。でも、この二週間が精神的には結構辛いです。なぜならば、血液検査とCT検査があるからです。どきどきです。診断の順番を待つのは、たいへん緊張します。医者にとつては、大勢の患者の中の一人ですが、私たちは、本当に祈らされます。

 今、途中経過であり、家内がいやされたというレポートではありませんが、このような祈りをして、何が起きるのか、ちょっと楽しみなところもありました。今回、三クール目が終わって、血液検査がありました。腫瘍マーカーは、薬ではなかなか下がらないというのです。しかし家内の腫瘍マーカーが、今回、四十三・六まで下がりました。始めは四千近くありました。正常値(0-37)まで、あと六・六ポイントです。
 私たちが聖書に記されていることを、そのまま実行してみると、いろんな奇跡が起きるのではないでしょうか。まだまだ閉ざされている領域が多くあると思い、何とも言えませんが、人が被造物の管理人であり、管理が人だけでなく、み使いも一緒に管理し、すべての被造物は新しい天と新しい地を目指していることを意識して祈る時に、様々な問題、苦しみに打ち勝つことができるのかもしれないと、ちょっと希望を持っています。
 しかしこの背後に、皆さんの熱いとりなしの祈りがあっての結果、賜物であると固く信じています。宣教七十周年の二〇二〇年、とんだ宣教七十周年になっちまったな・・・という感じでいました。家内は病気だし、コロナは出てくるし、自粛はあるは、本当にこれからどうなるのかな・・・というところがあります。しかし、この苦しみこそ、明日に向かって将来と希望、栄光への戦いそのものであると信じています。
 苦しみがあることによって、我々は真剣に神に近づいて、祈りをささげます。また目に見えない敵とも真剣に戦います。そんな中、神はみことばの真理を一つ一つ、明らかにして、より真理に導いてくださるのではないかと思います。
 お一人お一人、様々な戦いがあると思いますが、この苦しみは決してこのまま終わるものではなく、栄光への序曲となっていくのです。

 今、世界中が共通のテーマで苦しんでいます。これは決して無駄ではないです。人間の命をこの地上に残して、人が苦しむことによって、被造世界は変わってきています。それを実体験させて、やがて来たるべき新しい天と新しい地の為に、今、最悪に見えるこの地が天国になるために、私たちは働いていることを深く理解したいと願っております。
 やがてイエスさまがこの地上に帰って来られた時、この教会から死後の世界に入って行った兄弟姉妹全員、この地上に帰って来るはずです。そして新城教会の信徒たちならば、エルサレムだけでなく、きっと新城市にも集まってくると信じます。その時は、豊川を水晶より透き通るいのちの水の川に変えていただき、九二年に預言的に再現されたように、イエスさまと一緒に食事する日が来ると信じます。その日を夢見て、私たちは戦い続けていきたいと思います。
 私の家内のためにも是非とも祈っていただき、七十周年の一つの記念となる、皆が喜びを共有する神の奇跡を体験できるよう、切にお祈りをよろしくお願いします。
 また、寛太のことだったり、その他兄弟姉妹、いろいろな苦しみの中におられます。その方々も覚えて、皆が祝福を受けることができるように、この戦いを戦い抜いていきたいと願います。
 最後に一言お祈りして、メッセージに代えさせていただきたいと思います。

 ハレルヤ、天の父なる神さま。み名をあがめて心から感謝します。新型コロナによって様々な制約がある中でも、私たちに新しい扉を開いてくださっていることを心から感謝いたします。家でパンを裂くことを教えてくださっていることを心から感謝します。これがリバイバルにつながりますように。全ての兄弟姉妹を祝福します。
 目の前にあるパンとぶどうのジュース、あなたの裂かれた肉と血潮を表しています。水はいのちの水であることを宣言します。またパンは新天新地の穀物から取られたパンであることを宣言します。病の方々が飲まれる薬は、いのちの木、すなわち十字架からイエスさまによって与えられた薬であることを宣言します。
 今日も聖餐式を祝福してください。お一人お一人が聖餐式を通して、祝福を受けることができますように。
 今、各家庭を神の宮として、主が下りて来てください。すべての栄光をお返しして、イエスさまのみ名によって祈りをおささげいたします。アーメン。