「宣教70周年-2020 
明日に向かって『将来と希望』パート7 
〜主が立ちあがられた日〜」

2020年6月21日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ゼカリヤ書2章10節〜13節

『シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。‐‐主の御告げ‐‐その日、多くの国々が主につき、彼らはわたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住む。あなたは、万軍の主が私をあなたに遣わされたことを知ろう。主は、聖なる地で、ユダに割り当て地を分け与え、エルサレムを再び選ばれる。」すべての肉なる者よ。主の前で静まれ。主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるからだ。』

 ハレルヤ!おはようございます。二部制の礼拝になり、三回目になるでしょうか。すでに一部礼拝は終わりましたが、大変恵まれた礼拝を持つことができました。近いうちに一つになって、みんなで礼拝が守れるといいなと思います。
 しかし、やがてイエスさまが地上に帰って来られたら、先に天に帰ってしまった兄弟姉妹も戻って来て、宴会があると聖書は告げています。その日を目指して教会は働きます。主がお帰りになった日は、花婿なるイエスさまと、花嫁なる教会の結婚式でもあります。

 今日、午後一時半から結婚式があります。メッセージが長くなると全てが崩れるので、気を付けていただきたいと思うのですが、いや、自分が気を付けなければいけないのですが。
 結婚とは、不思議なものです。今日は杉浦雄治君と中村亜央衣さんが結婚されます。ここに一つのみことばがあります。箴言三十章十八節〜十九節、

『私にとって不思議なことが三つある。いや、四つあって、私はそれを知らない。天にある鷲の道、岩の上にある蛇の道、海の真ん中にある舟の道、おとめへの男の道。』

 結婚は神秘です。ここには多くのすでに結婚された方々がおられると思いますが、「あの日がなければ結婚しなかった!」というドラマってありますよね。信号一つの違いで出会いが変わり、将来が変わるわけです。その背後に、神の大きなみ手があります。「あの日の出会いさえなければ…。」と言う人もいます。
 川柳に、「プロポーズ あの日に戻って 断りたい」というのがありますが、そういうことはできないわけで、結婚とは神の摂理によってなされるものです。

 杉浦雄治さんは杉浦家に生まれ、クリスチャンホームに育ちました。
 中村亜央衣さんはリバイバル聖書神学校に来られ、卒業してからの事を悩んでおられました。実家の九州に戻るのか、それとも、新城に留まるのかで、私の所に相談に来られました。彼女の大方の決断は、「故郷に戻る」決断でした。その頃私は、神学校の舎監をやっていましたので、そんな相談を受けました。
 私は彼女に言いました。「帰るのと、留まるのと、どちらがいいのか祈っているとは思うけれど、メリットとデメリットを表にしてみたらどう?」とアドバイスしました。例えば九州に帰った場合、信仰面においてはどうなのか?仕事、経済、出会い、いろいろとリストを作り、○×で評価しました。二・三週間したら彼女がリストを持って来ました。そうしたら新城に留まるほうが勝っていたわけです。それで新城に留まったのです。それで、雄治君と出会い、結婚する事になったわけです。あの日に私が「リストを作ってごらん。」と言わなかったら、この出会いはなかったわけです。牧師はいろいろ責任もあるのですが、すべては主が導かれます。
 ソロモンが、「おとめへの男の道」は不思議なものと語りましたが、主のみ手がそこにあるということです。

 今年、新城教会は「宣教七十周年」で、一つの節目の年です。特にこの六月は、私の両親が七十年前の六月十七日に結婚して、すぐにこの地方に来て伝道を始めました。六月が宣教開始記念月です。そんなわけで、六月は重要な月だと考えています。
 「二〇二〇年は七十周年」ということで、昨年から期待して祈っていたのですが、私たちの期待に反してというか、家内は病気になるは、コロナは出てくるは、礼拝もできなくなるはと、「これって、どういうこと?!」というような、期待とはまったく違った事柄が起きて、混乱気味であるのも確かです。一生懸命祈ってきたのに、どういうことだろうか・・・、ちょっと神さまの心を疑いたくなるような、ところもあったわけです。
 しかし神さまに働いていただきたかったら、「我々が弱くなると、神さまが強くなる」という原則がある事に気づかないといけません。我々が強くなると、神さまの働きは弱くなり、「あんた自分でやれば」となるわけです。
 しかし我々が弱くなると、神さまはご自分の力を発揮されるのです。
 今、世界的に人類は弱くなっています。それは世界に主をお迎えする、大変重要な時期なのです。

 今日読んでいただきました聖書の箇所は、ゼカリヤ書です。旧約聖書中の小預言書と呼ばれる中に入るのですが、小預言書と言っても結構ボリュームがあって、重要な内容が含まれています。
 「将来と希望」という言葉を、エレミヤは語りましたが、それは時代的には、ユダの民がバビロンに捕囚された初期に預言された言葉です。「七十年経ったら、あなたがたをエルサレムに戻して帰してあげますよ!」という預言でした。
 しかしゼカリヤは七十年が経った後に、すなわち、ユダの民が預言通りにエルサレムに帰還した後に活躍した預言者でした。一つの預言が成就した後、神が告げられた預言のことばであるわけです。
 この箇所を見ていきますと、大変重要な事柄が含まれている事に気づかされます。
 新城教会も七十周年という節目を迎えていますが、聖書の七十年とすべてを合わせることはできませんが、原則的に、なんらかの関連性があると考えています。七十年が過ぎる時に、神が働いてくださる原則があるのではないかと期待しています。

 先日、五、六十年前だと思うのですが、初期の信徒さんたちの写真を見つけました。
 現在、この中で生きておられるのは、数人ではないかと思われます。ほとんど天に帰られました。この方々ががんばってくださったことにより、会堂も建ちましたし、このように礼拝を継続できているのですね。彼らの祈りが、ある意味、七十年経って成就しています。そこでさて、これから何をしたら良いのか、という中で、ゼカリヤ書は大きな示唆を与える書物であると思います。

 第一に「ゼカリヤ」という人物が、どのような人物であったのかに関して、ゼカリヤ書一章一節に述べられています。

『ダリヨスの第二年の第八の月に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような主のことばがあった。』

 主のことばがゼカリヤに臨むようになったのが、ダリヨス王の第二年の第八の月だと記されています。
 ここに、ゼカリヤの家系も記されています。ゼカリヤのお父さんは「ベレクヤ」、おじいちゃんが「イド」であったようです。聖書に出てくる人物は、名は体を現すという原則と共にあります。
 そして「イド」おじいちゃんには、「彼の時」という意味がありました。また「ベレクヤ」、「ヤ」は「ヤーウェ」の「ヤ」で、神さまを現します。「ベレクヤ」とは「主は祝福される」という意味があって、「ゼカリヤ」は「主は覚えている」という意味があります。
 ただの系図を表しているように見えますが、この中に、ゼカリヤ書全体のテーマが隠されているのです。ちょっと学んでみたのですが、すべて合わせると、「主は覚えておられ、時が来たら、あなたを祝福される。」という意味になるというのです。

 時々、私たちは様々な課題を持って、神の前に出るのですが、なかなか祈りは聞かれないなぁ、状況は悪くなる一方だと失望する時があります。「神さまも忙しくて、俺の祈りには耳を傾けてくれない・・」と、私もそんな気持ちになったことが、最近、何度もありました。しかしゼカリヤ書を読んで励まされました。
 ユダの民も、バビロンに捕囚されて七十年も経過すると、先祖たちが祈っていた祈りを共有できなくなって、奴隷の身分でもいいや!みたいな、半ば諦めのムードがあったはずです。しかし「主は覚えておられて、時が来たら祝福された」のです。
 神は時を支配しておられるということを、ここから学ぶことができるわけです。

 また神の時が実現する瞬間には、必ず、天での戦いがあるのです。こゼカリヤ書の中にも見られます。ゼカリヤ書一章十二節、

『主の使いは答えて言った。「万軍の主よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたがのろって、七十年になります。」』

 ゼカリヤ書は、前回も話しましたが、「み使い」という、神さまの前で仕えている存在がかなりクローズアップされています。み使いは神さまのことばを記録したり、私たちの祈りも記録していて管理しているようです。
 ある日、み使いが主の前に行き、「ユダの民を解放するとあなたは語られましたが、七十年経ちましたよ。」と告げました。み使いがそのような進言を天で神の前にしたことにより、神が働かれ始めました。その結果、ゼカリヤの口を通して、主が恵みの預言を語られるようになりました。
 先ほどお読みしたことば、本当にすばらしいですね。

『シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。‐‐主の御告げ‐‐』

 ここには、『あなたのただ中に』と、「あなたがた」ではなく、単数で「あなた」と記されています。主があなたと共におられるのです。そして、最後の部分では、

『すべての肉なる者よ。主の前で静まれ。主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるからだ。』

 主が来られる時、私たちは厳粛な思いにさせられます。礼拝とは、主が私たちの所に訪れてくださる瞬間です。
 ここで、『主が立ちあがって、その聖なる住まいから来られる』と記されています。
 ゼカリヤ書は、ユダの民がエルサレムに戻って、その後、世界に何が起こるのかが預言されています。ここを読む時、主は時を支配しておられて、ご自分の計画を成し遂げられることを確信できます。

 ゼカリヤ書では、イエスさまの「誕生と再臨」が預言されているのです。ゼカリヤは、紀元前六世紀に活躍した人物です。今、私たちはイエスさまの誕生を、過去の史実として受け取ることができます。しかし、この時代、ゼカリヤは未来へのこととして、預言します。さらにイエスさまがもう一度、地上に戻って来られる再臨さえも、預言しているわけです。
 ゼカリヤ書は二つの山を一つの視点から見ているような預言書だというのです。

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 新城教会の前に雁峰山がありますが、ここから見ますと一つの山のように見えるかもしれません。毎日、私たちは山に登って町の祝福と世界のコロナ・ウイルスからの解放、勝利を祈っています。山の上から眺めると山が一枚だけではなくて、幾つも重なっているのが分かります。しかし下から山を見上げると、山は一つにしか見えません。聖書の預言も、同様な表現がなされています。

 ゼカリヤ書はイエスさまの初臨、イエスさまの誕生を預言していて、さらに、もっと高い山、イエスさまが再び地上に戻って来られる再臨をも同時に預言しているのです。
 イエスさまの誕生は、ゼカリヤによってどのように預言されたのかというと、ゼカリヤ書九章九節、

『シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。』

 今日も「ホサナ!」という賛美をしましたが、どの場面を歌っているのかというと、イエスさまが王として、エルサレムに入城された場面を歌っています。やがて王である主が、王となるために入城される場面を、ゼカリヤは主から教えられました。六百年後、その通りに実現したわけです。
 新約聖書においてマタイは、その光景を、ゼカリヤ書を引用しながら語っています。マタイの福音書二十一章五節〜七節、

『「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王があなたのところに来られる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。』

 ここからイエスさまがどのようなお方であるのかが分かります。そしてイエスさまのご性格もわかります。イエスさまは天地宇宙を造られた創造主なる神さまです。その方が肉体をまとわれて、地上に来られ、王としてエルサレムに入城されたのですが、王となるどころか、捕まえられて、十字架につけられてしまったのです。
 一般的に王が入城するとき、絶対にロバなんかには乗りません。それも荷物を運ぶロバの背にのって、エルサレムに来られたのです。
 当時、王が入場する時は、必ず、白馬にまたがって登場しました。今日ならば、首相とか大統領は、黒塗りの高級車に乗って入ってくるはずです。荷物を運ぶロバに乗ってきたという表現は、天皇が耕耘機に荷物を積んでやって来たようなイメージです。イエスさまは、本当にへりくだった柔和なお方で、私たちの味方です。私たちを決して忘れることなく、覚えておられるのです。
 こういう所を見ても、イエスさまは良い方であるのがわかります。この世の神々のように、よく拝んだら神になるけれど、放っておけば鬼になるような存在ではありません。そんなの初めから鬼じゃないか!です。イエスさまは、この世の権力者としてではなく、しもべとして、私たちを助けるために来られました。

 それと共にゼカリヤはイエスさまの再臨さえも預言しています。今日は時間がないので、全体を学ぶことはできませんが、ゼカリヤ書にはそのような預言が幾つかあります。ゼカリヤ書十四章六節〜九節、

『その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。』

 これはイエスさまが、地上に戻って来られて世界の王となられる究極の場面を描いています。
 現代を生きる私たちは、ゼカリヤ以上に信仰を持つことができます。なぜなら、ゼカリヤにとって救い主の誕生、初臨は、まだ起こっていませんでした。しかしこれは現代の私たちにとつて、すでに成就したわけです。
 ということは、二番目の預言、イエスさまがもう一度お帰りになるという再臨は、聖書が示している通り、必ず、未来の時間軸上に起こるのです。

 今日は礼拝のメッセージ・タイトルを「主が立ちあがれた日」と付けさせていただきました。最初に読んでいただきました聖書の箇所に、『主の前で静まれ。主が立ち上がって、』という、ことばが使われています。聖書中で「主が立ちあがる」という表現は、究極的には主がこの地上に戻って来られる、再臨されるという意味で使われています。主はもう一度、この地上に来られて、世界を治めてくださるのです。

 ある意味で、今ほど主が帰って来てくださり、世界を治めてほしい!という心境になっている時はないです。
 日本ではコロナは少々収束気味ですが、中南米とかは大変です。昨日もブラジルの牧師先生から電話があったので、「本国どうですか?」と聞くと、「もう無茶苦茶だ」というのです。ブラジルは百万人の感染者がいるというのです。ブラジル人は大統領と市長たちと関係が悪くて、みんな自分勝手にやっているのでどんどん広がっていると話していました。今から中南米は冬に向かっていきます。私たちも収束ムードで油断するのではなく、祈っていかなくてはいけないです。今後、同じような疫病が流行らない保証は全くありません。本当に不安ですよね。
 イエスさまが帰って来てくださって、世界を治めてくださって、私たちのただ中に住んでくだされば、すべての悪と問題は一掃されます。

 新城教会の七十年の歴史の中で、私にとって最も印象深い出来事について、私は本を書かせていただきました。

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「主が立ちあがられた日」というタイトルの本です。何を書いたのかというと、一九九二年の二月十三日から始まって、六月、七月にかけて起こった出来事をまとめました。
 この本はすでに多くの方々に読んでいただきました。英語や韓国語にも訳していただいて、世界の方々が興味を持って読んでくださっています。それは、まさに「主が立ちあがられた」ような出来事でした。

 現在、リバイバルミッションでは、毎日、三分間メッセージをお届けしています。先日、この本の表紙になっている場所に行き、ビデオを撮って来ました。今から、皆さんに三分間メッセージを聞いていただきたいと思います。これはネットにアップされなかったものです。



甲子園ミッションを目の前にして、一九九二年のことでしたが、祈っていた時、主が私たちのただ中に訪れてくださいました。
 それまで私たちは、日本の宣教が難しいのは、文化的な理由だと思っていましたが、そうではなく、日本には悪魔・悪霊どもによる覆いがあることに気づかされました。その為に地がうめいているわけです。彼らと戦って、打ち破らない限り、日本は変わらないと、主が語ってくださいました。以来、この教会で霊的戦いが始まりました。
 それらが突然起こってきたので、受け入れることのできる人もいれば、受け入れることができない人たちもいました。

 まさにイエスさまの働きも同じでした。マタイの福音書十二章二十八節に、こんなふうに記されています。

『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』

 神の国はどのようにして現れるのかに関して、ユダヤ人たちは強い権力者が現れて、自分たちを治めてくれるだろうと期待していました。しかし、そうではなかったのです。イエスさまが来られて、人々の背後に潜んでいた悪霊どもを暴かれたのです。人々はそんな光景は見たことがなかったので、「これはなんだ!」と、当時、悪魔をベルゼブルと呼んでいて、イエスさまはベルゼブルという霊を操って、悪霊を追い出しているんじゃないかと、イエスさまに対して批判の目を向けました。
 そんな時にイエスさまが語られたことばが、次のことばでした。

『聖霊によって悪霊どもが追い出されているのなら、神の国はあなたがたのところに来ている。』

 一九九二年に新城教会に起こった出来事は、まさにこのことでした。聖霊が注がれた後、悪霊どもが暴かれて、霊的戦いが始まりました。それは神の国の訪れ、「そのもの」でした。
 やがて主はこの地上に帰って来られて、この地を治められます。私たちは顔と顔とを合わせて、イエスさまと会う日が来ます。それに先だって、神の国は、からし種のような小さな形で、この地に現れるのです。それは聖霊の働きと共に、悪霊が追い出される現象を伴うのです。

 雨が多くて堤防の決壊が懸念されています。私の専門は土木工学でした。河川の管理とか、設計に携わったこともあります。堤防が決壊するのには、いくつかのタイプがあるのですが、一つは堤防で守られている堤内地に、足下からちょろちょろ水が流れ出て、「あれ?水が流れてきている?」というのは、小さい水漏れでも危ないのです。それは既に堤防を貫いて、水が入って来ている証拠です。それが進行すると、ある時、大きな決壊に至るのです。

 神の国も同じです。まずは、聖霊が注がれて、第一の天に小さな穴が空いて、ちょろちょろかもしれないけれど、地を支配している悪霊どもが追い出される現象が起こってきます。それは既に、神の国の現れそのものです。それをあくまで続けていくと、やがて、霊的堤防が決壊するような、大きな神の国の現れにつながるのです。

 やがて天国はどこに出現するのかについても、何度もお話しさせていただいています。神さまは天を複数造っておられます。

 「第三の天」という表現が聖書にはありますが、それ以上の天が造られていることは確かです。今、宇宙物理学では、十一次元くらいまで設定しないと宇宙を定義できないと言います。第三の天とは、死者の世界だと思われます。そこまでは完全な神の国の現れがあるはずです。しかし残念ながら、私たちが住んでいる第一の天と、その上の第二の天は悪魔の支配下にあるわけです。
 しかし第二の天を貫き、第一の天に聖霊が注がれ、小さな穴が空き、だんだん穴が大きくなると、ある日突然、決壊が起こって、神の国の支配が完全に到達する日が来るのです。私たちは、その日を目前にしているのです。そのことを信じて、戦い、祈り続けなければいけないのです。

 今、世界規模の疫病で世界中が苦しんでいます。その次に来ることは、主が帰って来られる、霊的堤防の大決壊です。新城教会においては、すでに九二年から、その兆候を見ることが出来ます。それで今日まで、戦い続けてきました。次に起こるのは、霊的堤防の大決壊ではないでしょうか。

 霊的戦いが始まった九二年、この戦いを推し進めるために重要なポイントを二つ、主が教えてくださいました。それが何かといったら、天の軍勢についてと、聖餐式の重要性でした。
 前回もみ使いたちについて話しましたが、霊的戦いは天の軍勢が戦うのです。
 私は霊的戦いが始まった日に、「戦いたくない」と思いました。しかし主が言われました。「天の軍勢が先に行って戦っているから、あなたがたは行って、勝利を宣言するだけでいい。それで勝利が訪れる!」と語られました。
 霊的戦いは、配下にあるみ使いたちを敵陣に遣わして戦わせて、我々は戦いが終わった頃に出て行って「勝利を宣言します!」と、宣言するだけで決着が着くと教えてくださいました。

 そしてもう一つの重要なことが、聖餐式の祝福でした。最近、聖餐式を家で行うようになりましたよね。聖餐式はパンとぶどうのジュースを食べて飲む行為です。それになにか意味があるのかなと、疑問に思います。

 さて、聖餐式の土台にある概念は、過越の祭りです。ヘブル民族はエジプトに四百三十年も捕虜になっていました。神はヘブル民族をエジプトから救出する為に、エジプトの長男たちを、皆殺しにされました。天使たちが出て行って、エジプト中の長男たちを打ちました。そんな災いがエジプトに降りかかった時、主はヘブル人達に、「子羊を屠って、かもいと柱に血を塗るように」と指示されました。

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そして「種を入れない種なしパンを持って、すぐにエジプトから出なさい」と語られました。これが聖餐式の土台にあります。
 出エジプト記十二章十二節、

『その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。』

 聖餐式の原型、過越の概念は、「エジプトの神々に対するさばき」でした。エジプトを支配していた悪霊どもを打ち破るために、過越が用いられたわけです。
 聖餐式は、何を意味するのかというと、「これを通して過ぎ越される」ということです。出エジプト記十二章十三節、

『あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。』

 ご家族で聖餐式を行うことは、イエスさまの十字架の血潮の守りです。またエジプトの神々に対するさばき、言い換えれば、日本の神々に対する勝利の宣言に他ならないのです。

 九二年七月に、この地域での霊的戦いが始まった時に、「聖餐式を行い、それから戦いに出て行きなさい。」と語られました。
 私は当時、聖餐式ってあまり好きではありませんでしたが、実行するようになりました。
 今回、新型コロナを通して、家でパンを裂くという聖餐式に導かれているのは大きな意味があると感じています。

 前回もお話ししましたが、私はある意味でコロナに救われているようなところがあります。なぜならば家内が病気で、薬を飲むわけですが、薬を飲む前に聖餐式を行い薬を飲みます。
 こんなものでガンが治るのかな?という感じの薬です。気休めみたいなもので、初め家内は、三ヶ月しかもたないと言われました。それで座して死ぬわけにはいかないから、何か飲んでおいたら?みたいな感じでした。しかし薬を与えて下さった神に、薬にも感謝して、聖餐式を行い、主の血潮を仰いで飲むようになりました。
 そうしたら、奇跡が起こり始めました。これからも戦いがあるので是非とも祈っていただきたいのですが、今週も、重要な受診があり病院に行きます。家内の腫瘍マーカーは、先日、正常値になりました。健康診断で、この数字だったら、「何も問題ありませんよ」ということになります。医者も本当にびっくりしています。
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 抗がん剤って副作用があって、髪の毛が抜けたりするのです。私は抗がん剤飲んでいなくても抜けているのですが、家内、何が抜けたかって、髪の毛は抜けないで色が抜けて、茶髪になりました。染めなくても茶色になって、ヤンキーばあばになりました。
 今後どのように治療するのか、今週は話し合わなければいけないので祈りが必要です。しかしここまで良くなったのが、ただ薬の効果だけでなく、祈りの効果ならば、必ず、主は勝利まで到達させて下さると私は固く信じています。

 主が立ちあがられた日、「天の軍勢と共に戦え!」と「聖餐式は重要だ!」と教えてくださいました。聖餐式は、「主が来られる日まで」という限定付きです。聖餐式はイエスさまのお帰り、再臨を目指しているのです。

 ゼカリヤはイエスさまの初臨と再臨を同時に預言しました。それは、七十年が経って、さぁ次に何が起こるのか?を意図していました。今私たちはイエスさまの再臨を目指して、霊的な戦いをし、主の守りの中、生きなさいと語られていると信じます。
 主の再臨を地上でお迎えすることができたら最高です。

 最後に一言お祈りして、終わりにさせていただきます。

 ハレルヤ、天の父なる神さま。み名をあがめます。今日はこのようなすばらしい礼拝を持つことができて感謝します。今日は父の日でもあります。ここにおられるお父さん方、一人一人を祝福してください。
 また聖餐式の祝福についても語りましたが、家庭で行われている聖餐式を通して、かもいと柱に十字架の血潮が塗られて、すべての災いからお守り下さい。また、すべての病や問題が消えていきますように。
 あなたは私たちのことを知っておられます。心から感謝をいたします。主は覚えておられ、時が来たら祝福されるというみことばを信じます。
 主よ、一人一人の祈りに答えてください。また喜んで主に献げ物を祝福し、経済的にも守ってください。
 今週、誕生日を迎える兄弟姉妹の上に、主が特別な祝福を注いでください。すべての栄光をお返しして、イエスさまのみ名によって祈ります。アーメン。