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「宣教70周年-2020
明日に向かって『将来と希望』パート9
聖餐式の神秘と目的」

2020年7月26日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
コリント人への手紙第一 11章26節

『ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。』

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。
二部制ではありますが、礼拝を守ることができ、本当に感謝します。今日は久しぶりに早織さんの演奏を聴くことができました。最近はアメリカとか、他の国々に帰られた方々や、赴任されている方々も、ネット礼拝に出席してくださっています。世界と繋いで主を礼拝できる恵みを感謝します。

 長雨がやっと治まったかなと思ったら、今度はコロナの感染者がぐっと増えて、なんだか訳の分からない今日この頃です。ある意味、私たちは常に緊張のただ中にあります。

 そんな中、今日は「聖餐式の神秘と目的」について、前回に続けてお話しさせていただきたいと思います。
 子どもたちが小さな頃、息子や娘が私に、「お父ちゃん、これ買ってくれ。」と、よく頼まれました。私は、「分かった、分かった。また買ってやるからな。」と言って、知らんぷりをしていると、「買ってくれるって言ったよね?約束したじゃん!」と言うので、「そんなこと言ったっけ?」と、とぼけたりすると、今度は紙を持って来て、「約束した事をちゃんと書いてくれ。」と言われたりして、「買ってあげます。」と一筆書かされたような、なかったような、人間の約束は、口約束では不確定ですが、文書に残されると重くなります。さらに署名捺印すると、動かすことのできない約束となるわけです。署名捺印をしてしまうと、法的領域に入ってしまいます。
 この法則は元々、神が定めた法則です。神が人と約束を交わす時、このようなプロセスで取り交わすのかという手順です。
 新約聖書、旧約聖書の「約」とは、「約束」の「約」、「契約」の「約」です。神は人と契約を結ばれます。

 前回のメッセージで、神はアブラハムがどのようにして契約を結だのか について話させていただきました。
 アブラムは神の声を聞きました。「アブラムよ。あなたの家を出なさい。そうしたら、あなたを祝福します。」と神の声を聞いたわけです。どのように声が聞こえたのかは分からないけれど、その声を神の声として信じました。それで彼は行動に移しました。すると神は彼を義と認め保証されて、次の段階に移されました。
 しかし口頭だけで約束は実現したのかというと、そうではなく、最終的には動物が生け贄として血が流された事により、神とアブラハムとの間に契約が結ばれました。神が私たちと結んでくださる契約は、ただの口約束ではなくて、最終的には血の契約書が交わされるというのが聖書が示すところです。これが神と人との間の法則です。旧約聖書の時代、神との契約は、なかなか大変でした。

 神と人との契約の典型は、モーセがシナイ山において神と結んだ、「シナイ山契約」です。それについても話しました。シナイ山における契約は、「血の契約の儀式」と共に、「神の前での食事」によって結ばれたと言うのです。
 出エジプト記二十九章三十二節、

『アロンとその子らは、会見の天幕の入口で、その雄羊の肉と、かごの中のパンとを食べる。』

 これは儀式に使った肉とか残ったパンを、「もったいないから食べろ。」みたいに現代人は考えるのですが、そうではないのです。神の前で食するのが「契約」の一部であったとお話ししました。

 同時に、モーセが神と結んだ契約は、口頭での契約だけでなくて、神は約束を文字化して、文書に残されました。それが石版に刻まれた「モーセの十戒」です。神はご自分が語られた言葉を書き残されたのです。
 しかし、文書に残してくれただけでも、完全な契約締結には至りませんでした。その後、神の前での食事があり、最終的には「契約は血によって成立した」のです。
 神との約束が確実に動かないものとなるためには、「血の契約書」が必要なのです。

 しかし現代教会は、この事をよく理解していないというのです。キリスト教会が始まり、すでに二千年以上が経ちました。その間に、大切な領域を数多く落としていると言えます。
 特に宗教改革以後、キリスト教会は、神のことばと、文書として残されたみ言葉を強調するようになりました。それは本当に大切なことです。しかし神との契約は、神の前での食事と、血の契約が必要であることを見落としています。
 この忘れ去られた領域を、奪回しなければいけないと指摘されています。主は私にも、コロナのただ中で、もう一度、それらに目を向けるようにと、告げて下さいました。

 旧約聖書の時代、血の契約書に至るためには、多くの動物たちが犠牲になりました。また、神の前での食事とは、ファーストフードを食べるようなものではなくて、大宴会を催さないといけませんでした。それは大変な儀式であったことを、旧約聖書は記録しています。
 しかしイエスさまが来られて、壮大な儀式を簡素化してくださったのです。古い契約ではなく、新しい契約に置き換えてくださったのです。それも、古い契約のプロセスをしっかりと押さえた上で、新しい契約に置き換えてくださいました。
 それが何であるかというと「聖餐式」です。イエスさまが十字架に付けられる前の晩でしたが、ちょうど過越の祭りの最終日でした。過越の祭りとは、イスラエルがかつて経験した、エジプトからの脱出を思い起こし、感謝する、年に一度のお祝いでした。
 その食事会の中で、イエスさまが何と語られたのかというと、ルカの福音書二十二章十九節、

『それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。』

 ユダヤ人たちが毎年行っている、祝いの食事の席で、イエスさまは突然、カップに満たされている「ぶどう汁」を取って、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約だ。」と語られました。
 「食事と血による契約」とは、かつてモーセによって、シナイ山で壮大な規模で行われた、神との契約を思い起こさせます。なんと新しい契約下においては、祝いの食事会の中で、新しい契約を結んでくださるのです。イエスさまは、旧約の神との血の契約を、大きく変えてくださったのです。

 過越の祭りは、今でもユダヤ人たちに祝われています。過越とは、原点において、一歳の雄の子羊が屠られ、その血をかもいと柱に塗りました。その夜、エジプトに神の裁きが臨んでいたのですが、血が塗られたヘブル人の家は「過ぎ越された」のです。そのことが、出エジプト記十二章十三節にあります。

『あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。』

 血が塗られた家には、「滅びのわざわいは起こらない」と約束されたのです。
 現在、コロナのウイルスが蔓延して、いつ何時、自分の所に来るのか分からないような今日この頃です。しかし皆さん、血の契約書があったら、あなたの家に滅びのわざわいは起こらないのです。
 そのためにはどうしたらいいのでしょうか。新しい契約下では、食事のただ中で契約は結ばれる、「聖餐式」です。

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 過越の祭りは、寝転んで食事をしたそうです。寝転んで食事なんかしたら、日本では怒られます。有名な「最後の晩餐」というダビンチの絵画は、普通のテーブルに弟子たちは着いています。あれはヨーロピアン的視点で描かれています。本来、ユダヤ人たちの食事は、寝転んで、リラックスして、飲んだり食べたりしたわけです。
 こんなに楽しい食事会のただ中で、イエスさまを通して「新しい契約」が与えられ、結ばれたということは、すごいことですよね。
 それを原点として、初代教会は聖餐を守るようになりました。どんなふうに守って行ったのか、その歴史を聖書辞典から引用すると、

“キリストとの交わりを求めつつ、彼ら(初代教会の人たち)は、イエスの定めが聖餐のことばと所作に従ってパンとぶどう汁にあずかるようになり、かつて普通の食事をいわゆる「主の晩餐」をも含めたものに変えていった。”

 「普通の食事を主の晩餐へ変えていった」というのです。
 私たちは日に三度、食事をします。普通の食事です。それを初代教会は「主の晩餐」へと変えたのです。
 現在、私たちは出歩いたり出来ず、外食もできない日々が続いていますが、家での普通の食事を、主への晩餐と変えるチャンスです。

 “しかし間もなく聖餐と愛餐とが分離し始め、二世紀半ば頃までには,礼典としての聖餐と親睦の食事としての愛餐は別々に持たれるようになった。”

 このあたりから、聖餐式がちょっと変わり始めました。普通の食事が聖餐式そのものだったのが、聖餐と愛餐が別々になったのです。いろいろな教会で、「愛餐会」があります。現在、教会で昼のカレーが食べられないのは残念です。私たちも別々になっていますが、本来は一つです。

 四世紀になって、ローマ・カトリック教会が台頭しました。ローマ・カトリックは、本来のイエスさまの教えをめちゃくちゃにし、跡形もなく変えてしまい、現在に至っています。

“聖餐のパンとぶどう酒は司祭の聖別によって「実体的に」キリストのからだと血に変化する。”

 この理解を「化体説」と呼びます。これはギリシャ哲学やギリシャ神話の世界観が混じり、オカルト的要素が入り込んで出来上がった説です。それも法王や司祭がパンとぶどう酒を祝福すると、イエスさまに変身するというのですから驚きです。
 カトリック教会に行きますと、パンとぶどう酒の前に、信者たちはひれ伏して拝むのです。これは偶像礼拝です。彼らが行っている聖餐式を見ますと、手に持っている丸いのはパンですが、太陽神をシンボルしています。聖書とは全く違った、異教の習慣を聖餐式の中に取り入れてしまっています。イエス様が始められた聖餐式とは、全く違った方向へ変化したのです。

 そんな歴史が長く続き、十六世紀、ご存じのように、マルチン・ルターがきっかけを作り、宗教改革が起こったわけです。それは長いカトリック支配に対する、戦いでした。その結果、化体説の理解に立つ聖餐は、宗教改革においては当然、きっぱりと退けられることになりました。

 しかし宗教改革者たちは、聖餐式の深い意味をよく理解していました。ですから彼らは、「神のみことばを説き明かすメッセージと、聖餐」を、「礼拝の主要な柱」としました。

 しかし、それから数百年経った現在、プロテスタント教会はどうなったのか。説教に重点を置くあまり、聖餐はともすれば軽視される傾向にあるまま、今日に至っていると指摘されています。

 “我が国のプロテスタント教会も同様であって、信徒の実際の意識においては、説教だけで十分といった思いの中で聖餐が礼拝の単なる付録のようになっている。”

 どうでしょうか、新城教会でも、「聖餐式はなくてもいいかな・・・。」みたいな雰囲気がありますよね。
 「今日のメッセージは良かったね。恵まれた。」と、メッセージ中心です。
 本来、礼拝とは、神と新しい契約を結ぶことです。ゆえに聖餐式は重要な位置を占めているわけです。なぜなら血の契約によって、神との約束が実現するからです。十字架と復活によって新しい契約が発行されたわけです。聖餐式は重要な真理を含んでいます。

 同時に、聖餐式には、「ゴールと目的」があります。目的について述べているのが、先ほど読ませていただきました、コリント人への手紙第一、十一章二十六節です。

『ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。』

 聖餐式の目的は何かというと、「宣教」と「主の再臨を待ち望む」ことにあります。ここに、『主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。』という言葉があります。「告げ知らせる」とは、英語では「proclaim、宣言する」という言葉が使われています。宣言するとは、福音宣教そのものです。イエスさまが私たちの罪の身代わりとなって、十字架にかかって死に、三日目に復活してくださったことを宣言すること、それが目的です。すべての被造物のために、血を流してくださったことを宣言する、聖餐式は「宣教そのもの」なのです。

 明日から、「霊的戦い専門課程」があります。私も奉仕させていただきますが、教会スタッフたちが総出で、私の欠けた所を助けてくれています。その中で瀧川充彦さんが一緒に奉仕するのですが、彼も聖餐式のことを取り上げていました。先週、ダイジェストのメッセージを聞かせていただいたのですが、使徒の働きの二章四十六〜〜四十七節、

『そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。』

 ペンテコステの時に聖霊が注がれて、多くの人が救われ、主の弟子に加えられて家に帰ってパンを裂き、聖餐式を行っていたのです。そうしたら、すべての民に好意を持たれるようになって、「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」というのです。このことを彼は、このように表現していました。それを聞いて感動しました。
 「聖餐式は沈黙の宣教である」
 いいですね〜。現在、コロナで教会もなかなか宣教活動が難しいです。しかし、なんと沈黙の宣教法があるのです。最高ですね。家で聖餐式をしていると、すべての民に好意を持たれて、毎日、救われる人々を仲間に加えられる。
 コロナ禍にありましても、最近、いろいろな方が洗礼を受けられて、仲間に加えられています。ある意味、沈黙の宣教ではないかと思っています。皆さん、是非とも、家に帰ったら、普段の食事を聖餐式と位置付けて、主の前に新しい契約を結んで下さい。

 そして二番目の目的としてあげられているのが、「主の再臨を待ち望む」ということです。我々クリスチャンのゴールは、主がこの地にもう一度帰って来られる日です。イエスさまが世界の王となってくださり、神がすべてを支配してくださる事です。主の再臨が、教会の掲げる最大の目標です。
 聖書の最後は黙示録ですが、黙示録の最後の最後に次のように書かれています。二十二章十六節〜十七節、

『「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。』

 最後の最後に聖書が述べているのは、「主イエスよ、来てください。」という言葉です。聖餐式とは、どのような意味があるのかというと、「主が来られる日まで」とあります。聖餐式は「主よ、来てください!」と、主の再臨を待ち望む契約でもあるのです。

 鈴木陽介スタッフがここでメッセージをして、その中で、イエスさまは輝く明けの明星になぞらえられていると語っていました。「明けの明星」とは「金星」です。なぜ聖書はイエスさまを金星になぞらえているのかという理由も、語っていました。それを思い起こしていただきたいのですが、明けの明星とは、やがて再臨されるイエスさまに象徴されます。

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 金星のこと、ご存じかもしれませんが、冬の期間は、西の空に「宵の明星」として姿を現します。そして夏になると、東の空に「明けの明星」として姿を現すのです。
 地球と太陽、そして金星の位置関係が影響して、そのような振る舞いをします。宵の明星は、夜がふける寸前に姿を消します。そして明けの明星は、夜明けの寸前に輝く星として、姿を現すのです。
 明けの明星は、まもなく夜が明けますよ!というサインです。イエスさまは、明けの明星のようなお方です。この地にやがて帰って来られますよ!と、暗い人類の歴史が終わり、夜明けが来ます!と暗示しているわけです。

 現在、世界は暗闇の中に閉じ込められています。いつ夜明けが来るのか、コロナもいつ終わるのか?と、皆、夜明けを待ち望んでいます。「コロナが早く終結しますように」という祈りも大切ですが、最も大切な祈りは、夜明けとしてイエスさまがもう一度、この地上に来られる「再臨」です。再臨を待ち望む、この祈りが最も重要です。
 その為には、聖餐式の中で、毎日、「主よ来てください!」と祈らなければならないのです。それが主のお帰りにつながることを、聖書は告げています。

 世界も大変ですが、私は個人的にも結構大変で、毎週のように病院に行って怖い話を毎回、聞かないといけないし、家内は抗がん剤を飲んでいると副作用もあり、毎日がびくびくです。本音を言えば、「ちょっと疲れたなぁ・・・」というところもあります。なにせ、去年の十月からずっと続いていますので・・・。
 実は、昨年の十二月から今年の一月頃まで、家内の状態は本当に悪かったです。もう死ぬかな?と思いました。腹水も溜まって、そんなに長くは持たないと言われました。覚悟を決めないといけないと思いました。
 12月のある日の夕方、家内を車に乗せて、バイパスを走っていました。すると突然、家内がある星を見て、「あっ!空に十字架が見える!」と言うのです。星って滲むと十字架に見えたりします。涙に滲んで見えたのだろうと思いました。
 「どこに見えたの?」と聞くと、「西の空に見えた。」と言うのです。それで翌日も同時刻に見たら、また、その星が輝いているのです。西の空でした。

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 私には丸くしか見えないのですが、家内には十字架ペンダントのように、キラッと光って見えるというのです。私は目が悪いから見えないのだろうと思い、孫たちに、「あの星、どのように見える?」と聞いたら、「十字架に見える!十字架に見える!」と言うのです。私には「丸にしか見えない。」、孫たちは、「なんで見えないの?十字架に見えるじゃん!」と言うわけです。
 でもこれがどのような星かは分かっていませんでした。調べると、それは「宵の明星、金星」でした。宵の明星というのは、「これから闇が深くなるぞ」という、深夜に向かうサインであるわけです。ある意味、「これから激しい戦いが始まるぞ!」というサインのようでした。
 しかし家内には、十字架のように見えて、希望を持ったみたいです。暗い夜道でも必ず、夜明けは来ると信じました。また家内は特に、「神に従い悪魔に立ち向かえ!」というみことばを主からいただいて、一生懸命、戦って祈っていました。私も真剣に、神の前に出て祈りました。
 そんな中、コロナが出てきて、聖餐式を家で行うようになりました。そして薬を飲む時、聖餐式と共に、新しい契約下で飲むようにしました。そうしたところ、家内の状態がどんどん良くなりました。もちろん今後どうなるかは祈り次第だと思うのですが、ここまでは奇跡です。医者もびっくりして、「こんなこと体験したことがない。」と言うのです。
 新しい契約について理解した結果だと信じます。「画面上では癌が消えてしまいました。」と言われて、本当に嬉しかったです。

 でも最近、今後の治療方針で二転・三転して、これからどうなっちゃうのか、手術をしてもリスクがあるというのです。これからどのように進んでいいのか分からなくて、私も少々、困っています。是非とも祈っていただきたいです。

 二週間前、「まだまだ戦いは続くな・・・」と落ち込んで、あまりその夜は眠れませんでした。その夜、家内は副作用で調子も悪くて、不安でした。私は、夜中の三時くらいに目覚めてしまい、眠れなくなり、会堂に来て真剣に祈りました。「主よ、助けてください!なんとかしてください!」と叫びました。
 祈りが終わり、外に出て、中庭のベンチに腰掛けました。中庭は剛さんがものすごく綺麗にしてくれたものだから、夜中もさわやかです。そこに座って、ため息をついていました。そして、ふっと夜空を見上げました。そうしたら東の空に、強く輝く星があるじゃないですか。

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 これです。あまりにも綺麗に輝いていたので、すぐに私は写真に撮りました。この星は何か?金星は西の空に出るものだと思っていましたから、調べてみました。そうしたら、なんと、「明けの明星」だったのです。
 この星を見て、私はたいへん励まされました。どんなに暗く長いトンネルが続いたとしても、必ず出口はある。夜明けはやって来る!そんな声が心に響きました。その象徴として、主が、私にこの星を見せてくださったのではないかと思い、感謝しました。
 現在世界は、様々な領域で行き詰まり、出口が見えません。大丈夫かな?と心配になる事が多いです。
 しかし、イエスさまは、「明けの明星」として紹介されています。ということは、必ず、夜明けは来ます!主は「わたしは夜明け直前に強く輝きますよ!」と語られます。そのようなメッセージを、私たちに送ってくださっていると信じます。
 家内も希望がない所から、ここまで支えられました。それはまさに、夜明け前に主が、強く輝いてくださっている証拠ではないかと思います。
 主の働きを具現化していただくために、何が必要なのか、それは聖餐式です。
 旧約聖書が全体的に述べている神との契約は、壮大なものですが、それをイエスさまは、普段の食事の中で、「新しい契約を結んであげます」と語られています。
 また、「その中で宣教を進めてあげます!再臨にも結びつけてあげます!聖餐式にしっかり目を留めて、それを回復してください。」と語られている気がしてなりません。
 聖餐式、本来はものすごく重要なものであったのが、悪魔に真理を奪われています。これを取り戻す時が来ています。その時、イエスさまが明けの明星として、この地にお帰りになると堅く信じます。
 最後に一言お祈りさせていただき、メッセージにかえさせていただきます。

 ハレルヤ。天の父なる神さま、み名をあがめて心から感謝します。イエスさま、あなたは明けの明星です。今、真っ暗闇ですけれど、主が帰ってこられる寸前であると信じます。そのために家で聖餐式を行いなさい、と語ってくださっていると信じます。主よ聖餐式を祝福してください。また今から献げる献げ物の上にも、祝福をお与えください。今週、誕生日を迎えられる兄弟姉妹にも、豊かな祝福がありますように。
 お一人お一人の上に豊かな祝福があることを宣言します。イエスさまのみ名によって祈ります。アーメン。