「見よ。わたしは新しい事をする」

2020年8月23日(日)
新城教会牧師 上條実
イザヤ書 43章18節~21節

『先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。』

 ハレルヤ!今日こうして皆さんの前に立って、みことばを学ぶ時が与えられていることを心から感謝します。

 今日はイザヤ書四十三章十八〜二十一節より、「見よ。わたしは新しい事をする」というタイトルでみことばを学んでいきたいと思います。ヨハネの福音書一章十二節に、有名なみことばがあります。

『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』

 イエスキリストを信じるとき、私たちは神の子どもとなる特権を与えて下さったとあります。私たちは神の子ども。そして私たちの神は親であるというのです。素晴らしい特権を私たちは頂いています。日本のことわざに「親の心、子知らず。」という言葉があります。親の子に対する深い愛情がわからず、子が勝手気ままにふるまうこと。また、自分が親になってみなければ、親の気持ちはわからない、という意味ですが、私は七人兄弟の四番目として生まれました。子どものころの思い出は毎日楽しい日々を過ごしていたと思います。親がどれだけ私の事を心配し、愛してくれていたかという事は全く考えたこともありませんでした。学校の学費、制服、食べる物、着る物、その他必要なものは当然親が準備してくれていました。なんの苦労もなく、守られて、育って来ました。当たり前なことだと思っていました。しかし今、自分が親になり考えると、よくぞ七人も子どもを育てながら、教会を牧会し、私を育ててくれたと思うと感謝でしかありません。私と下の弟とは年子ですので全く構ってもらえない状況で、よく小さい時の話を聞くと、「あんたが小さい時は、ベビーベッドの中にいれられて静かにしてたよ。」と母は言っていました。しかし手がかからないというか、手をかけられず、ほかっておられたとも言えます。しかし自分が親になって、わかることは親の大きな犠牲により、育てられたと心から感謝だと思います。

 私たちの霊的な親である父なる神さまは、私たち子どもを愛し、御子イエスキリストをこの世に遣わし、十字架にかかり葬られ、三日目によみがえり、私たちを救い、今も私たちの為に良きことを備えて下さる方です。私たちに祝福を下さる方。私たちは何も知らずに生活していますが、父なる神は常に私たちの事を気にかけて、最高の状況に導いくださっていることを心から感謝し、賛美して行きたいと願わされます。

 そんな中で、今は大変な時代です。新型コロナウイルスがいまだ持って猛威を振るい、多くの感染者が日本のみならず、世界中で多くの感染者が出ています。正直ここまで長引くとは考えもしませんでした。すぐにおさまるのではと、安易なことを考えておりました。しかし今だ出口の見えない状況です。先が見えず、世界中が苦しんでいます。またこの夏酷暑の日々が続いています。この夏休みの時に、子どもさんたちを連れて家族で、荷物を持って出かける姿を見ると、今までは当たり前でしたが、申し訳ないんですが、私の心の奥底で、「こんな時に出かけて、こういう人がいるから感染者が増えるのだ…。」とさばいてしまっている自分がいます。またレストランに入ると、多数でわいわい会話しながら食事している姿を見ると、「危ないなぁ…。」と、自分の中で裁いてしまっていることがあります。

 またいつも家族の為にお祈りし支えて頂いております事を心から感謝します。東京で過ごしております次男も、仕事がないようです。長野県長野市にあるホールのレジデント・プロデューサーという立場でお仕事をさせて頂いております関係で、感染対策をしっかり取ったうえでコンサートをさせて頂いたそうですが、その他コンサートは全くなく、非常に厳しい状態だそうです。そのためライブ配信を木曜日の九時から一時間だけ配信しております。様々な音楽仲間と一緒に演奏して「本当に久しぶりにみんなと演奏した!」と、水を得た魚のようにすごく喜んでいました。先週も有名な歌手の方も来られていましたが、その方も久しぶりだとおっしゃっておりました。新城教会から多くのミュージシャンがプロとして東京で働いております。ぜひ彼らの為にお祈りしてあげて下さい。昨年まではコンサートツアーやレコーディングなどで忙しい日々を過ごしていましたが、今年は仕事が全くなく大変困難な時代になってしまったと思います。次男と電話で話すのですが、「この頃、お金がなくて…。」なんて言うようになり、本当に大変だなぁ思います。

 教会でも、今まで当たり前のように日曜日十時半より、皆さんが集いこの会堂いっぱいの方々が集まって、賛美し、みことばを頂く礼拝を持っていました。そして昼食を頂きながら、とても素晴らしい交わりをさせて頂いておりましたが、今は感染予防の為にできなくなってしまいました。いつまで続くのでしょうか?安心して礼拝し、会食をする時が来るのだろうか?と思います。

 また、リバイバルミッションのためにもいつもお祈りいただき感謝しております。先週岡本先生も語っておられましたが、去年の夏キッズキャンプを、この新城教会を会場とさせていただいて、一泊二日で行いました。しかし今年は集まることはできず、どうしようかと様々な話し合いをしてきました。そんな中で、「リモートでキッズキャンプをしようという事になりました。リモートで、子どもたちがじっと各家庭で、画面の前に座り見る事は難しいのではと思い、実際イメージがなかなかできませんでした。しかしスタッフの兄姉が知恵を絞って行いました。とても楽しい雰囲気の中で、恵まれた時を持つことができました。孫に聞きましたら、「めっちゃ楽しかった!」と大変喜んでおりました。

001.jpg002.jpg

 S姉が司会をしてくださり、Y君とうちの孫が一緒に司会したりして、とても素晴らしいひと時を持つことができました。

 また、去年の夏は、日本のために祈ろうという事で、東京に全国から集い、二日間、日本をとりなす集会を開催いたしました。そして今年も再度行おうと計画しておりましたが、コロナの影響でできなくなってしまいました。それでどうしようかと話し合い、知恵を絞って、この集会もリモートで行われました。

003.jpg004.jpg

 滝元順先生が霊的戦いのセミナーをしてくださり、その後お昼は世界と日本の為に、現地とつないでとりなしの祈りをし、夜の部で、Hope & Lightという名前で伝道集会を行いました。本当に恵まれた時を持つ事ができました。どのくらいの方が見てくだるのだろうかと心配でしたが、各集会とも千人以上の方がアクセスしてくださって、ともに祈る時を持つことができました。去年の夏は東京に二百名くらいの方々が集まり集会をいたしましたが、今年はその五倍もの方々が参加したこととなりました。本当に感謝しました。

 今年リバイバルミッションが計画して、日本の各教会で開催しようとした伝道集会も、すべて中止となりました。また十一月には、二〇二〇年という事なので関西と関東で各二十箇所の集会をさせて頂きて、そして最後に千葉県、東京都、神奈川県にて合同の伝道集会を開催しようと計画いたしましたが、それも中止となり、二〇二〇年は、外に出かけていっての集会はできなくなってしまいました。リバイバルミッションは宣教団体ですので、全国からの支援の献金で活動をさせて頂いている団体です。ローマ人への手紙十章十四節に

『しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。』

とあります。「宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」とあるように福音を語れないということになれば、この先日本の福音宣教はどうなるのだろうと心配します。「今年限りですよ!」と分かっていればいいのですが、来年はどうなるのだろうか、そう思うと本当に不安で、忍耐と困難の時代だと思わされております。

 イザヤ書は一章から三十九章まではアッシリアを背景としての警告と預言。四十章以下はバビロンを背景に書かれています。始めはアッシリアの脅威と戦う時代でした。その後台頭してきたバビロニアによってアッシリアは滅ぼされ、エルサレムの住民はバビロンに奴隷として引いていかれるのです。当時の年表をご紹介いたしますと

紀元前722年 アッシリア帝国がイスラエル王国を滅ぼす。
紀元前625年 メソポタミアで新バビロニア王国が成立。
紀元前609年 アッシリア帝国が完全に滅亡。
紀元前598年 新バビロニア王国が、ユダ王国を滅ぼし住民を強制移住&奴隷化(バビロン捕囚)。

イスラエルはアッシリア帝国から解放されたと思ったら、今度は更に強力なバビロニア王国の捕囚となってしまった。彼らは単に奴隷としての苦役に苦しんだだけではなく、選民として「生けるまことの神の民」 という自負を持っていたため、神様から捨てられたというショックも感じていたと思われます。

そんな中で、先ほどのイザヤ書の時代背景と対比してみて、今の時代も根本的な問題は違うかもしれませんが、とても本当に同じような状況かも分からないなと思います。目に見えない新型コロナウィルスに怯え、生活環境が奴隷のように制限され、外出時ではマスクをしなければいけない。今まで夏のマスクなんて考えることができなかったのですが、感染防止の為には酷暑の中でも必須アイテムになっています。また集まることもできない。会食することも、会話することにもリスクがある。今まで当たり前にできていたことが、新型コロナウィルス帝国とでも言いましょうか、脅威に支配されてしまっています。

また経済的にも大きな打撃を受けています。特別定額給付金を当初は一世帯に対して一律三十万円というものでしたが、もめにもめて個人に対して一律で十万円支給されるものになりました。入金した時は嬉しかったですよね。「もっと出してほしい。」と私たちは簡単に考えてしまいます。また様々な補助金を頂いて本当に何とか生活できています。しかし、日本や世界はリーマンショックよりももっと大きい経済的大打撃があると報じられています。イルナー通信によりますと、新型コロナウイルスの感染拡大により日本のGDPは二十八.七%減少。これは過去四十年間で前例のないことらしいです。資本部門への投資の成長率も過去十一年間で最低水準に達しています。二〇二〇年東京オリンピックが開催延期となり、中止の可能性もありそうだと言われています。これまでの膨大な出費により、観光産業を含む日本の経済部門は、大きな打撃がでており、これまでに四〇〇社の日本企業が破産を申請しているそうです。これから更にクラスターが起きたらどうなるのだろうかと考えると、不安で仕方がありません。トンネルの中に、入り込んだ状態。出口が全く見えず、さらに深い暗闇に入り込んでいくような状況です。

 しかし今日読んだイザヤ書四十三章は、とても素晴らしいみことばがたくさんあります。
皆さんもそうだと思いますが、私もこの四十三章はとても好きな箇所です。この個所をかっこいい言葉で言うと、「みことばの宝石箱」のような箇所です。四十三章の一節を見ますと、

『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』

とあります。私たちの神が、「恐れるな。」と言っています。主が守って下さる。わたしがあなたを贖った。そしてわたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」と語ってくださっています。今日主は私を覚え、私の名前を呼んでくださるというのです。

イザヤ書四十三章二節、

『あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。』

問題や苦難の時でも、私たちは押し流されない。また火の中を歩いたとしても焼かれず、炎は燃えつかない。主が私を守ってくださるという約束のことばです。そしてイザヤ書四十三章三節、

『わたしが、あなたの神、【主】、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。』

とあります。ここのエジプトとかクシュ、セバと書いてありますが、その当時、バビロンに捕囚された時ですが、まだエジプトは大国でした。クシュはエジプトを指していて、セバはエチオピアのことを指しているそうです。エジプトからエチオピア、その領土、人々、経済などすべてを身代金として出してでも、あなた一人を愛する。助けるという約束です。そして四節を見ますと、これはとても有名なみことばです。

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。』

 これは皆さんも暗記しているみことばだと思います。私を愛して、高価で尊いと言ってくださっているとあります。最高に祝福あることばです。

またイザヤ書四十三章十一節には、

『わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。』

 主は私の救い主。主以外に救いはないと断言しています。

素晴らしいみことばがこの四十三章に書かれてあります。しかし先ほども言いましたように時代背景を見ると、アッシリアに苦しめられて、やっと解放されたのに、またバビロンに捕囚されて、奴隷化されて、移住までさせられて、これでもか、これでもかという苦難の中にあって語られた言葉。困難があって、恐怖があって、もうどうしたらいいのだろうかと、そんな状況の中で、このイザヤ書四十三章の前半は書かれてあります。今の私たちの時代も最悪の状態の社会。また自分の事を考えても様々な問題、病気があっても助けて下さると宣言してくださっています。

 そして今日、最初に読んでいただいたイザヤ書四十三章十八節を、もう一度お読みしたいと思います。

『先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。』

これはどういう意味かと言うと、これは十六節~十七節に出てきています。

『海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した主はこう仰せられる。「彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消える。』

これを読むとお分かりになるかと思いますが、これはモーセが出エジプトした時のことが書かれています。目の前には紅海があり、後ろには強力なエジプトの兵が追ってくる。王であるパロが自ら軍を引いて、追いかけて来る。もう動くことができない。袋小路の状態でした。出エジプト記を読み返しますと、出エジプト記十四章十一節

『エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。』

とあります。大混乱。死を覚悟した状況でした。しかし奇跡が起こりました。水が分かれたのです。紅海が真二つに割れ、乾いた地、海底を歩いて渡ったのです。出エジプト記十四章二十六節~二十八節

『このとき【主】はモーセに仰せられた。「あなたの手を海の上に差し伸べ、水がエジプト人と、その戦車、その騎兵の上に返るようにせよ。」モーセが手を海の上に差し伸べたとき、夜明け前に、海がもとの状態に戻った。エジプト人は水が迫って来るので逃げたが、【主】はエジプト人を海の真ん中に投げ込まれた。水はもとに戻り、あとを追って海に入ったパロの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残された者はひとりもいなかった。』

エジプト軍は完全に全滅して、イスラエルは守られた。本当にすばらしい救いを見ました。

 そのみことばを振り返りながらイザヤ書四十三章十八節に、

『先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。』

と言っています。なんでこんなことを言っているかご存じですか?これはイスラエルの民に、バビロンの捕囚で一番苦しい状況の中で主が語ったのは、あのモーセの時代にあった奇跡を思い出すな。考えるなと言うのです。えっ?なんで主が助けてくださったことを思い出すな。考えるなと言っているのでしょうか?それは何かというと、もっとすばらしい主の祝福、奇跡、助けがあるから、もう先に起きたことは忘れて、これからもっと素晴らしい主を見上げなさいということです。そして今日のタイトルになっている聖書箇所ですが、十九節

『見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。』

 見よ。命令形で語っています。見よわたしは新しい事をする。主が私たちに更に、もっとすごい、驚くようなことをする。出エジプト記の奇跡はすでに起きた事。過去にとらわれるなと言っています。見よ。私は新しいことをする。今もうそれが起ころうとしていると宣言してくださっています。その神があなたは高価で尊いと。名指しで私をあなたを愛してくださる神です。そして十九節後半〜二十節を読んでみますと、

『・・・あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。」』

ということが書いてあります。私は一度イスラエルの旅行に行かせていただいたことがあります。是非皆さんも旅行ができるようになったらイスラエル旅行に行かれるとよいと思います。この目で聖書の舞台を見ることができることは本当に恵まれます。イスラエル旅行に出かけると通りますが、エルサレムなどの市街地も見学しますが、郊外に出かけて行くとき荒地や荒野がたくさんあります。

『わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。』

と主は言ってくださいましたが、この頃酷暑で三十七度だとか、お隣の静岡県浜松市はなんと四十一度という気温になりました。炎天下でお仕事をされる方々、本当に尊敬致します。熱中症にならないように対策してお気を付けていただきたいと思います。

『わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。』

荒野には道がありません。荒地は砂漠とも訳されています。昼間は酷暑の中で生きるか死ぬかという暑さの中、バビロン捕囚で自由の身ではなく、奴隷になってしまい、困難と苦難に民はであう状況。しかし主は、「新しいことをする。今もうそれが起ころうとしている。」と荒野に道を、荒地に川を設けてくださるという主の約束です。

 モーセの時代紅海が分かれて、エジプトから脱出しました。素晴らしい奇跡をイスラエルの民は見ました。また私たちの新城教会、今年で七十周年を迎えます。今まで七十年間を顧みると一九九三年、全日本リバイバル甲子園ミッションを開催することができた。またその準備の中で、暗闇に対して目が開かれて霊的戦いが開かれたこと。また会堂や教育館。リバイバルミッションセンター、プレイズなど素晴らしい建物や働きが広がった事等を考えると素晴らしい主のみ業だと感謝し、栄光を主にお返しいたします。また様々な教会の中に不思議やしるしが起き、癒されたり、様々な奇跡を体験してきました。しかし今、新型コロナウィルスによって一緒に礼拝ができない。全国に出かけて行っての宣教活動、伝道集会ができないなど、真っ暗闇の時に、「先のことを考えるな。」と主は言っています。今日、荒野のような状況、荒地にいるような状況、私たちはそんな中で、日照りの中苦しんでいるかもしれません。個人的な問題でも病や様々な問題で苦しんでいるかもしれません。経済的に困窮されている方もあるかもしれません。新型コロナウィルスはいつ終息するのだろう?たぶん「withコロナ」という言葉がありますが、これからはコロナとうまく付き合っていかなければいけないのではと言われています。普通の生活に戻ることはないだろうとも言われています。この先どうなるのだろうかと思いますが、今日私たちの神は、荒野に道を、荒地に川を設けてくださるという約束です。

005.jpg

 荒野というのは、画像がありますので、見ていただきたいと思いますが、こんなような、ここはイエスさまが四十日断食をされた時に、悪魔の誘惑にあったという場所です。また荒地とありますが、荒地というのは、こんなような状況です。

006.jpg

 水の全くないような状況の中に置かれて、本当に大変だなと思います。しかし今日、覚えていただきたいのです。みことばは必ず成就します。荒野に道を、また荒地に川を設けてくださる主がいます。今行き止まりのような状況でも、道を作って平和の内にその道を歩むことができ、乾いた砂漠で乾ききっていても川を与え、命を与えて下さいます。私たちは今日、主を見上げていきたいと思います。

 「荒野に道を」とあります。ヨハネの福音書十四章六節に、

『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』

 有名なみことばです。主が道だということです。絶対に、荒野でどこを歩んでいけば良いのかという状況下でも道を示してくださいます。その道こそ主であるイエスキリストです。私たちは親の心子知らずのような、子どもかも分かりません、でも父なる神は私を愛し、これからも成長できるように、助けてくださる方です。また箴言三章十七節、

『その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である。』

ということです。主が荒野に与えてくださる道は楽しい道であり、平安であるという、約束のことばを信じましょう。

 また「荒地に川を」と言ってくださっています。水のない状況の中に置かれ、命の危険の状況下にあったとしても、主は荒地に水を与えてくださる。砂漠に水を与えてくださるというのが約束なのです。
 水というのは、本当に命の源です。私たちは水がなくてはどうしても生きることができません。ヨハネの福音書四章十三節~十四節、これはサマリヤの女に語ったことばですが、

『イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』

 サマリヤとイスラエルというのは近くて遠い国、全く交わる事のない国でした。イスラエルは主に選ばれた選民、しかしサマリヤは異邦人として扱われていました。そんな中でイエスさまは自らサマリヤの女性に話しかけられ、その女性に対して、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」と言ってくださいました。またイザヤ書六十六章十二節に、

『主はこう仰せられる。「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の富を与える。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。』

 主が川のように繁栄を与えてくださるという約束です。またヨハネの黙示録七章十七節、

『なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。』

 いのちの水の泉に導いてくださるのが主です。そして、聖書の最終章は、ヨハネの黙示録二十二章ですが、十七節にこういうみことばがあります。

『御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。』

 私たちは「マラナタ。主よ、来てください。」と祈っています。主が来られることを私たちは待ち望み、祈り続けています。そして「命の水がほしい者は、それをただで受けなさい。」主を信じた時に、私たちはすばらしい祝福をくださるということです。

 先ほども言いましたが、イザヤ書四十三章十八節、

『先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。』

過去起きたこと。そんなことよりも、もっと素晴らしい救いを、勝利を、また奇跡を、素晴らしい恵みを主が与えてくださるという約束です。信じましょう。

 私は、今日のイザヤ書四十三節のみことばを一ヶ月前くらいに与えられました。良いみことばだと思って、いつも口ずさんでいました。そして今日メッセージの担当だという事が決まり「今必要なみことばを与えて下さい」と祈りました。一番新鮮な今必要なみことばを下さいと祈れば祈るほど「見よ。わたしは新しい事をする。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。」このみことばが私の心の中に迫って来ました。主がこの新城教会に、私に語って下さったみことばとして受け取り、今日語らせて頂いています。

 今日私たちは「カイロス」神の時をつかまえて、主が与えてくださる約束を待ち望みたいと思います。私のために父なる神さまは、ひとり子イエスさまをこの地上に送ってくださって、十字架にかかってくださいました。そして滅んで、三日目によみがえってくださいました。私たちの為に命をかけて救って下さった主です。

『見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。』

深い、暗闇のどん底、そしてさらに暗闇に落ち込んでいくのではないかと思ってしまうような今の世の中です。しかし主に目を向けていきたいと思います。神にとって不可能なことはありません。そしてみことばは生きています。

 私たちは神さまを矮小化してしまい、新型コロナウィルス感染者が、「祈ってきたのに三百人以上東京で出ている!」とか、「愛知県でもこんなに…」とか、「静岡県でもこんなに…」とか、感染者数を見て不信仰をいだきます。また新城教会も七十周年の目をむかえたのにもかかわらず、なんていう年だ!と思ってしまいます。でも主は今日、私たちに語っていることばがあります。

「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。」

 皆さん、今日みことばの剣を受け取りましょう。このイザヤ書四十三章のみことばを握って戦っていきたいと思います。宣言していきたいと思います。今週、高らかに、この四十三章のみことばを宣言して、

『見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。』

 宣言していきたいと思います。

 そしてイザヤ書四十三章二十節に、

『野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。』

と書いてあります。ジャッカルや、だちょうとあります。これらの獣は聖書では何と言ってるかというと、獣の中でも最悪の獣とたとえられています。聖書で人生どん底を味わったヨブが、ヨブ三十章二十六節から三十節にこんなことが記されています。

『私が善を望んだのに、悪が来、光を待ち望んだのに、暗やみが来た。私のはらわたは、休みなく煮えたぎる。悩みの日が私に立ち向かっている。私は、日にも当たらず、泣き悲しんで歩き回り、つどいの中に立って助けを叫び求める。私はジャッカルの兄弟となり、だちょうの仲間となった。私の皮膚は黒ずんではげ落ち、骨は熱で焼けている。』

と言いました。ヨブが最悪な状況の時、「私はジャッカルの兄弟となり、だちょうの仲間となった。」と言っています。しかし

『野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。』

最低な動物に見られているジャッカルやだちょうも主を賛美するものに変えられるとあります。私たちは被造物の管理人として宣言しましょう。『野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。』と宣言しましょう。

 皆さんで最後に、二つのみことばを声に出して宣言して終わりたいと思います。そのみことばはイザヤ書四十三章十九節です。信仰持ってまず宣言してみましょう。

『見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。』

 そしてもう一つ、新約聖書の中の、第一コリント人への手紙二章九節、私もすごく好きなみことばです。

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

 今日ここにいらっしゃる方々もインターネットで見ている方々も、この二つのみことばを握って、大胆に祈っていきましょう。今週常に宣言しましょう。新型コロナウィルスに対して宣言しましょう。そしてあらゆる問題に、病気に、困難に対しても宣言しましょう。みことばは生きています。さらに大きなことをしてくださる、驚くことを起こして下さる主。また経済的に大変であったとしても、見たことも、聞いたことも、思い浮かんだこともないことを主がしてくださることを信じていきたいと思います。最後にお祈りします。

 愛する天のお父さま、暗闇の時代の中にあります。どうしていいのか分からない時があります。しかし主よ、今日、あなたは語ってくださいました。「見よ。わたしは新しい事をする。今もうそれが起ころうとしている。」暗闇の中にいても、私は楽しみに待ち望みます。あなたは今も生きて働く神です。圧倒的な勝利をくださる主に期待します。更に戦い続けます。みことばを宣言します。「見よ。わたしは新しい事をする。今もうそれが起ころうとしている。」感謝します。マラナタ、主よ、来てください。主のみ名によってお祈りいたします。アーメン。