「私たちは祝福するために祝福されている」

2020年9月6日(日)
新城教会牧師 公畑フェルナンド
創世記49章20節

『アシェルには、その食物が豊かになり、彼は王のごちそうを作り出す。』

 ハレルヤ!感謝します。いつもここにいられることは本当に誇りです。いつも私たちのために、またインターナショナルの働きのために祈ってくださり、本当に心から感謝します。
 先週の土曜日に、ペルーのワッチョ教会のためにメッセージをしました。まだペルーでは教会には集まることができないのですが、いつも霊的戦いセミナーを行っているワッチョの教会で、その教会の十三周年の記念の集会に私を招いてくださいました。ワッチョの教会から新城教会によろしくと挨拶が送られてきました。特に順先生やお祈りしてくださる方々によろしくということです。このコロナのパンデミックが早く終わるように、そして順先生をお迎えして、また霊的戦いセミナーをしたいと願っているそうです。

 それでは今日のメッセージにいきたいと思います。

 旧約聖書を私たちが見る時に、父親や、また族長たちが自分の子どもたちを祝福しているのに気づかれるでしょう。そしてそれは後の世代の将来を決めるものでした。
 ヤコブが百四十七歳の時、死ぬ間際ですが、一つの決断をしました。彼の次の世代を祝福することでした。今日は、私が強い印象を受けた祝福についてお話ししたいと思います。
 それはアシェル部族についての祝福です。どのようにアシェル部族が生涯にわたって祝福されたかをお伝えしたいと思います。しかしそれと同時に、私たちが神さまから与えられる祝福には目的があるということ、私たちがそれを味わうだけでなく、その祝福をもって何をすべきか、ということをお伝えしたいと思います。ですから、このメッセージを通してその答えを見出していただきたいと思います。私たちの人生を考えながら、神さまが私たちに与えてくださったものに対して、神さまが私たちに何をして欲しいかを考えていきたいと思います。

 創世記三十章十二〜十三節をお読みしたいと思います。

『レアの女奴隷ジルパがヤコブに二番目の男の子を産んだとき、レアは、「なんとしあわせなこと。女たちは、私をしあわせ者と呼ぶでしょう」と言って、その子をアシェルと名づけた。』

 レアはこの息子に対して祝福を刻みました。なぜなら「アシェル」という名は「喜びを生み出す」という意味だからです。彼は神がヤコブに与えた八番目の息子でした。しかし良い名前をもらいました。それはとてもすばらしい祝福です。
 そしてその後、父親からも祝福を受けました。ちょうど最初に読んだ聖書個所にあるように。(創世記四十九章二十節)
 この祝福というのは、王の祝福です。完全な祝福です。ヤコブはほかの息子たちに対しては苦しみを語っていますが、アシェルに対しては王の祝福を贈りました。
 ヤコブが彼を祝福しただけではなく、のちにアシェル部族はモーセによって祝福を受けています。モーセは亡くなる前に、イスラエルの部族を祝福しましたが、アシェル部族に対する祝福は、申命記三十三章二十四〜二十五節に書かれています。

『アシェルについて言った。「アシェルは子らの中で、最も祝福されている。その兄弟たちに愛され、その足を、油の中に浸すようになれ。あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように。」

 モーセがアシェルに語った祝福には五つの特徴があります。

 第一番目は、他の兄弟に勝っている祝福だということです。アシェルは長子ではありませんでした。ルベンが長子でした。しかしここには、アシェルの祝福が他の兄弟にも増して大きな祝福だと書いてあります。もっと素晴らしいことは、アシェルに与えられる権威の大きさ、祝福の大きさを、他の兄弟たちが知るということです。

 次に与えられている祝福は、人間関係の祝福です。ここには、アシェルは兄弟の誰よりも愛されていると書いてあります。同じ兄弟の中のヨセフは、他の兄弟から憎まれました。しかし、アシェルは兄弟たちから愛されたとあります。彼が人間関係の祝福を受けていたと言えます。

 三番目に、油に足を浸すようになるということです。この祝福の意味が私にはあまりわかりませんでした。たぶん詩篇百三十三篇にあるようなことだと思っていました。そこには、頭から衣の縁まで流れ落ちる油のことを言っているので、それだと思いました。しかしあまり平安がありませんでした。それでイスラエルの歴史を調べてみると、次のことを発見しました。
 みなさんもご存じの通りイスラエルは小さな国です。周りをアラブ諸国とアラブの海に囲まれています。そして、周りのアラブ諸国は油田を持っています。私は思いました。イスラエルはいつも神さまにこう言っていたのではないか。「なぜ敵は皆、油田を持っているのに、私たちにはないのですか?」と。
 しかし、二〇一五年十月に、あるニュースが流れました。それは初めてイスラエルで油田が見つかったというニュースでした。ちょうどゴラン高原の中で見つかりました。その見つかった油田の埋蔵量は、イスラエルに何十年も、石油を供給できるものでした。ですから、もしアラブ諸国がイスラエルへの石油供給を断ったとしても、今イスラエルは自ら石油を供給することができるのです。
 私はイスラエルの地図を見て、その油田はどこにあるのだろう?と確認しました。するとゴラン高原は、ちょうどアシェル部族とネフタリ部族の間に位置していました。これはまさしく、先ほど言った「その足を、油の中に浸すようになれ」と書かれてある通りです。すごいですね!

 次に、モーセがアシェル部族に言っている祝福、それは守りについてです。「鉄と青銅のかんぬき」とあります。神がアシェルに言っていることは、あなたが生きている限り守られるということです。そして、「主があなたの盾になる」と言っておられます。「神さまはあなたを祝福する。豊かさを与える。良い地位を与える。わたしはまたそれらの与えたものを守る。」と言ってくださっているのです。
 神さまは今、この時代にも同じことをされます。神さまがあなたを祝福する時に、神さまはあなたに与えたものも守られます。

 そしてこのモーセの祝福の言葉は、最後に力について語っています。「あなたの力が、あなたの生きる限り続くように。」と書いてあります。年をとればとるほど、力が与えられるという意味です。これが、モーセがアシェル部族に対して与えた祝福でした。

 しかしそこで終わりませんでした。また別の祝福がアシェルに与えられました。それは土地を分割する時でした。ヨシュアがイスラエルの各部族に土地を分ける時です。ヨシュア記十九章二十四〜二十五をお読みしたいと思います。

『第五番目のくじは、アシェル部族の諸氏族に当たった。彼らの地域は、ヘルカテ、ハリ、ベテン、アクシャフ、』

二十六〜三十節は、引き続き、その町の名前が語られています。そして三十一節は、

『これがアシェル部族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。』

 アシェル部族に与えられた土地は、地中海の沿岸でした。またそこからゴラン高原の近くまで、広大な領地で、また完全な素晴らしい祝福のある土地でした。きわめて豊かな土地で、豊富な資源のある土地でした。イスラエルに行きますと、国土のほとんどが荒れ地だということがわかるでしょう。しかしその土地は肥沃な谷でした。その谷をアシェルは与えられたのです。

 しかしアシェルの祝福にはまだ特徴があります。神がアシェルに与えた祝福、アシェルはそれを受け取ったのですが、その目的を果たさすことはありませんでした。神さまが私たちに与えるものすべては、目的を持って与えられるからです。
 アシェルは神さまから与えられた祝福をどうしたでしょうか?この豊かな恵みをどうしたでしょうか?神からの多くの恵みをどうしたでしょうか?祝福をもらったのですが、神さまの期待に添うことができませんでした。
 神の期待に背いた第一番目のことは、神に従わなかったことです。士師記一章を見ると、各部族は自分たちの領地を与えられました。すでにヨシュアが各部族に領地を分け与えたことが書かれています。この士師記一章三十一〜三十二節をお読みしたいと思います。


『アシェルはアコの住民や、シドンの住民や、またマハレブ、アクジブ、ヘルバ、アフェク、レホブの住民を追い払わなかった。そして、アシェル人は、その土地に住むカナン人の中に住みついた。彼らを追い払わなかったからである。』

 この時の神の命令は何であったでしょうか?土地を支配することでした。彼らがその土地に住む前に、ヨシュアがすでに王たちを滅ぼし、土地を分けていました。その時、各部族は領地に入ったら、まず敵を追い出さなくてはなりませんでした。まだ敵が住んでいましたから。敵が領内に残ることは許されませんでした。カナン人がそこに残っていてはいけませんでした。神さまはイスラエルと他の民族が混ざることを望まれなかったからです。
 しかし、アシェルが領地に入り、そこに住むようになった時、そこに住んでいたカナン人を立ち退かせませんでした。アシェル部族はそこに彼らと住み続け、神に従いませんでした。それは私たちの人生の領域についても言えることなのです。

 神は私たちのところに来て、私たちの人生に救いを与え、赦し、祝福を与えていただきました。しかし今、私たちが働くべき時が来ています。私たちの中から取り除くべきものがあります。それは肉の思いを問われているのです。時々私たちはすべての責任を悪魔に押しつけがちですが、そうでなくて、自分の肉的欲求を十字架にかけることをしなければなりません。
 例えば、私が悪い性格を持っているなら、それを取り除かなければならないのです。私は肉の思いに死ななくてはいけないのです。私の性格の中のカナン人を追い出さなければいけないのです。

 またアシェルが神さまに背いたもう一つのことは、イスラエルの他の兄弟たちの必要に答えなかったということです。士師記四章四節には、神が一人の女性、デボラを立てたことが書かれています。当時、イスラエルはとても激しい状態にありました。しかし彼女は主の名によって立ち上がり、神さまの知恵によって立ちあがりました。そして彼女はイスラエルを四十年間治めました。
 このデボラの話を読みますと、彼女が治めている間の四十年間、イスラエルに平和をもたらしたと書いてあります。そして五章には、イスラエルがとても深刻な状態であったことがうかがえます。それは敵のためです。
 そこでデボラが戦いに出て行くところが描かれています。彼女はすべての部族たちに呼びかけました。敵を打ち砕くために一つになるように呼びかけています。しかし悲しいことなのですが、彼女が呼び掛けた時に、士師記五章十七節をお読みしたいと思います。

『ギルアデはヨルダン川のかなたに住んでいた。なぜダンは舟にとどまったのか。アシェルは海辺にすわり、その波止場のそばに住んでいた。』

 ここにはアシェルは海辺にとどまったと書いてあります。デボラの呼びかけに反応しませんでした。アシェルは自分が受けた祝福を持って、そのままとどまってしまいました。危険を冒すことをしませんでした。「デボラ、私たちは部族として役割を果たします。私たちは準備ができています。何でも言ってください」とは言わなかったのです。自分の祝福の中にとどまってしまいました。民族として兄弟の最大の必要時に答えなかったのです。自分が受けた祝福を自分のために使い切ってしまったのです。

 神さまのあわれみと裁きがどのように働くかを見られることは、とても素晴らしいことです。月日は流れ、今度は第二歴代誌のヒゼキヤ王の時代を見ていきます。
 ヒゼキヤは偉大な王様でした。彼は国に改革をもたらし、回復をもたらしました。彼が王であった間に大きなリバイバルがあったと言えるでしょう。ヒゼキヤは全てを回復しました。祭司の仕事を回復し、主への礼拝を回復し、そして何年も祝われていなかった過ぎ越しの祭りをも回復しました。そして三十章には、彼が過ぎ越しの祝いをしようとしていることが書いてあります。彼は国中に使いを遣わしました。そしてすべての部族が集まって主を賛美するように呼びかけました。しかし第二歴代誌三十章十〜十一節、

『こうして、近衛兵は、エフライムとマナセから、ゼブルンの地に至るまで、町から町へと行き巡ったが、人々は彼らを物笑いにし、あざけった。ただ、アシェル、マナセおよびゼブルンのある人々はへりくだって、エルサレムに上って来た。』

 アシェルの部族のすべての人は来ませんでした。ただ、レムナントという「残された者」たちだけが来ました。その「残された者」たちは来て、へりくだって自分の部族のために赦しを請いました。そして過ぎ越しの祭りを一緒に祝いました。そのことを神さまは用いたのです。神さまがアシェル部族に与えていた祝福をあわれみによって働かせるきっかけとなりました。その部族の受けていた大きな祝福の、完全な成就をこれからもたらすためのきっかけとなりました。

 そのアシェルに対する主のあわれみは、新約聖書中で現実となります。それがルカ二章の中で実現します。ここにはイエスさまが生まれたことが書いてあります。
 イエスが生まれて八日目でした。両親に連れられ宮に行きました。そこにシメオンという、正しい、敬虔な人がいました。彼は、イスラエルが慰められることを待ち望んでいました。聖霊が彼の上に臨み、彼はその幼子について預言し、「この幼子イエスがメシヤである」という預言をし始めました。
 しかし、もう一人そこに居たのです。ルカ二章三十六〜三十八節、

『また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。』

 そこにイエスさまの誕生があります。その所に一人の女性がいました。「アセル族のアンナ」とあります。祝福がある時に、神さまは「残された者」がいるように奮闘します。その「残された者」が、その祝福を要求することができるようにされるためです。そこにその最初に与えた祝福が完成することができるように、合法性を与えようとされるのです。

 このメッセージをあなたにも適応することをお話しして、終わりたいと思います。
 それは神さまから受けたものに留まっていてはいけないという勧告です。神さまがアブラハムを祝福した時、アブラハムはその祝福に留まってはいませんでした。アブラハムは(受けた祝福について)その任務を果たしました。そこで今日、私たちは「アブラハムの祝福」として知っているのです。彼によってすべての民族、すべての人たちが祝福を受けるようにされました。
 神さまが私たちを祝福するのは、私たちが祝福となるためです。祝福を持ち運ぶ者となるためです。神さまがどのように祝福してくださったか、見てみましょう。エペソ一章三節、

『私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。』

 あなたも私も祝福されました。しかし「祝福」と聞く時に、私たちはすぐに物質的な祝福に考えが向いてしまいます。しかし物質的祝福というのはおまけにすぎません。神さまは、私たちを、全ての霊的祝福をもって祝福されたと書いてあります。例えば、私たちは主を知ることができました。赦されました。恵みの中で歩むことができました。神さまの好意の中を歩むことができました。神さまが私たちの人生を変えてくださいました。荒廃した人生を作り変えてくださいました。悲惨なものを栄光に変えてくださいました。恵みによって同じままではありません。私たちは変えられたのです!
 そしてもちろん、神さまは物質的な祝福も追加して与えてくださいます。神さまは多くのことを私たちにしてくださいました!第一ペテロ四章十〜十一節、

『それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。』

 この朝、あなたに質問をしたいと思います。神さまはあなたに何を与えてくださったでしょう?あなたの人生に何を置かれたでしょう?今まで、どのような祝福を受けましたか?時々私たちは、人助けをするために何百万ものお金が必要だと考えます。でもそうではありません。私たちには寛大な心が必要です。それを持って、私たちは人を助けるのです。例えば、あなたが慰められたように、あなたが他の人を慰めるのです。なぜなら、経験した人ではなくては、同じ経験をした人を助けることはできないからです。その中で癒され、回復を受けた経験がある人以上に、同じ経験をしている人を理解できる人はいません。言葉一つでその人を変えることができます。電話一本でその人に回復を与えることができるのです。主を知らない人たちに神さまに出会うチャンスを与えることができます。あなたが会社で、道で、スーパーで、どこにいても神さまについて分かち合う時間を持つならば、です。
 神さまは私たちを祝福してくださいました。それは私たち自身が祝福となるためです。私たちはアシェル部族から学ばなければなりません。神さまはアシェル部族を大いに祝福しました。しかしアシェル部族がその祝福に答えなければならない時に、結局何もしませんでした。自分たちの中にそれを保って、それで終わってしまいました。もし神さまがあなたを大いに祝福されているなら、どうかその祝福を持って、その場に留まらないでください。他の人を祝福してください。教会として他の人を祝福する者となりましょう。家族として、他の人を祝福する者となりましょう。そうすることによって、神さまがあなたを祝福する目的を果たすことができます。それではお祈りしましょう。


 主よ、あなたのみことばを感謝します。アシェル部族から学べたことを感謝します。アシェル部族が大いに祝福されたことを感謝します。しかし彼らはあなたに従いませんでした。その恵みにとどまってしまいました。私たちも主よ、あなたによって多くの祝福をいただいてきたことを認めます。救い、永遠の命、癒し、奇跡など、多くを与えられました。あなたが私たちを祝福してくださる目的を私たちが忘れませんように。そして私たちが他の人を祝福できますように。
 新城教会として七十年の間、あなたのみことばを伝えてきました。また多くの祝福をいただいてきました。しかしアシェルのように自分のことだけに留まりたくありません。そうではなく、あなたの祝福を持ち運び続ける者になりたいです。そして生きている真の神さまを他の人たちに伝えていきたいです。新城だけでなく、愛知県中に、また全日本に、伝えていきたいです。またいろいろな国々にも出て行き、あなたの祝福を持ち運ぶ者になりたいと思います。この新城教会として出て行きたいと思います。私たちにしてくださったあなたの業を持って。あなたが願われている祝福の器としてください。イエス様の名前によってお祈りいたします。アーメン。