「備えよ!備えよ!」

2020年9月20日(日)
新城教会牧師 滝元開
エペソ人への手紙 6章13節~18節

『ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』

 ハレルヤ!主のみ名を賛美いたします。早速みことばを学んでいきたいと思いますが、今日は「備えよ!備えよ!」というタイトルで、メッセージを準備させていただきました。今日ご紹介しまいました新しい賛美、「戦いの時が来た」という曲の中で「備えよ!備えよ!」と歌いましたが、実はこの歌は家内が与えられた歌で、賛美が与えられ、その歌を初めて聞かせてもらった時に、「備えよ!備えよ!」という言葉に、一度ではなく二度にわたっておっしゃっておられる主の声にとても強いインパクトを受けました。
 私たちはリバイバルを求めて戦い続けておりますが、「備えよ!備えよ!」という言葉の通り、いよいよ主は新たな働きを始めようとされていると思います。

 今日はエペソ書の六章のみことばがテキストとなっていますが、十三節に、

『ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。』

 神さまは、この邪悪な日に際して対抗できるようにと言っております。邪悪な日、今本当に世界中でいろんなことが起こって大変な状況の中にありますが、語原のギリシャ語を見ると、「邪悪な日」という言葉の意味の中に、「困難な日」とか、「苦難の時」というような意味があるそうですが、私たちこの困難な状況、苦難の日の中で、備えなければならないということを、神さまが今私たちに語っておられ、またこの教会に対して語っておられる時かなと、そのように受け止めて準備させていただきました。

 聖書の中に、二度にわたって強調している、そういったみことばがあります。イザヤ書五十一章九節~十一節、

『さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。さめよ。昔の日、いにしえの代のように。ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、あなたではないか。海と大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではないか。主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。』

 このようなみことばがありますが、『さめよ。さめよ。力をまとえ。』と、本当に神さまは語っておられます。神さまは一九九二年に霊的戦いという大きなことを私たちの教会の中に始めてくださって、そして目を覚まして戦いはじめ、その後ずっと戦い続けてきました。本当に神さまが「あそこに行って戦ってとりなしなさい。」と言ったら、あそこに行き、また「こちらに行け!」と言ったらこちらに行き戦って、ということをずっと続けてきましたが、今、この二〇二〇年、七十周年という、この節目の時に、もう一度、神さまが私たち一人一人に、「備えよ!備えよ!」と、あの一九九二年の時に、「さめよ。さめよ。」と語られたように、今もう一度、主は語っておられるのではないかなと、そのように思います。

 イエスさまも、私たちに語ったことばの中に、「まことに、まことに、」と表現されたことがヨハネの福音書の中に書かれています。ヨハネの福音書十四章十二節、

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。』

 イエスさまはこの地上を歩いて、私たちに対して、「まことに、まことに、」と何度も語られたわけですが、イエスさまはよみがえられた後に天に帰られましたが、『わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。』これがイエスさまが約束してくださったみことばですので、そのことを信じて、私たち、備えていきたいと、心から願います。

  さて、このエペソ書六章の中には、七つの武具と武器が出てきますが、今日はその七つの武具を身にまとって歩むことができればと、そんなふうに思っております。
 七つの武具の映像を作りましたので、ご覧いただいて、一緒に、今日はこの七つを身にまとって、そしてそれぞれの場所に遣わされて行ければと思っています。

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 一つ目は、腰には真理の帯ですね。ベルト、真理の帯を着けなさいと。二つ目は、胸には正義の胸当て。そして足には平和の福音の備え、そしてさらにそれらの上に信仰の大盾を手に取りましょうということですね。そして頭には救いのかぶとをかぶり、そしてみ霊が与えるみことばの剣を受け取りなさいと言われています。そして最後は祈りですね。「忍耐の限りを持って祈りなさい。」という、この七つの武具を私たちは身にまとって、リバイバルのために備えて、そして主は事を始められますので、主のなさろうとしておられることに、共に付いて行く者となるために、心から「備えよ!備えよ!」と、イエスさまが私たちに今語っておられることばだと、私はそう信じていますので、ぜひ受け止めていただければと思います。

 一つ目の武具、「真理の帯」。神さまが、私たちに真理の帯を与えてくださいますので、その真理の帯を受け取っていきましょう。腰には真理の帯ですが、イエスさまが言われたことばは、ヨハネの福音書十四章六節、

『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』

 イエスさまご自身が道であり、真理であり、いのち。イエスさまが真理ですので、私たちこの真理の帯をしっかりと締めておかなければなりません。戦いにこの帯なしで出ていくとズボンがずり落ちてしまいますので、真理の帯をしっかりと身にまとって歩んでいきたいと心から願います。

 七十周年ということで、今年はいろんな事が語られて、またいろんな場所に光が投じられていると思います。私たちの信仰の土台そのものに対して、イエスさまが光を投じてくださっています。過去、私たちの教会は「イエスさま」で始まって「イエスさま」で終わるような祈りをして来ました。イエスさまはその天の父なる神さまの右の座に座しておられますが、今、祈りを受け止めてくださる天の父に対して「アバ父」と、心から愛を持って交わり、そしてそのアバ父が祈りの答えをくださること、その祈りへと主は導いてくださっていること、本当に心から感謝します。
 七十年を振り返って、信仰の土台の欠けた所を補いましょうということを先週も語られましたが、私たちの欠けた所はもう一度、主から造り直していただいて、そして強固にしていただいて、そして、力強い神さまのみわざをこれから現していただくために、この真理の帯をしっかりと、神さまがくださる真理というものを身にまとって、欠けのない状況で、主の戦いに出ていくことができればと、そのように思います。

 明牧師が二〇一五年八月一日に天に帰りましたが、今年で五年になりました。八月一日、やっぱりその日になるとその日で、「あぁ、親父さんが天に行った日だな。」と思い出すのですが、今年も八月一日に、「あぁ親父さんが天に帰ったのは明け方の四時何分だったなぁ。」と、そんなことを思い出しながら、「あの時は私はネパールにいたなぁ。」と考えたのですが、そんな時に、私はみことばを読んでいたら、一つのみことばを与えられました。それは第一テモテのみことばで、パウロがテモテに対して言ったことばでした。第一テモテ六章二十節の前半でしたが、

『テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。』

ということばでした。神さまが、私たち一人一人に、またこの教会に対してゆだねてくださっているものがあるわけですが、それはリバイバルだと思います。リバイバルの旗印を掲げているというのは、やはり半端なことではないなとすごく思います。信仰の先輩たちが、「リバイバル!」と言って、その旗印を掲げ続けたというのは、すごく大きなことでしたが、その「ゆだねられたものを守りなさい。」というみことばが、八月一日に与えられました。なんだか私の父が、主のみ座の前に行って、「もう一度このことばをうちの息子に語ってやってくれませんか。」ととりなしをして、その結果として、このことばが下りてきたような、そんな気持ちになりました。私たちに与えられた、ゆだねられたもの、リバイバル、霊的戦い、そして被造物を賛美させることですとか、また私たち賛美を通して主の勝利が現されるというその信仰に立って、主の働きに励むという、そのゆだねられたものをもう一度掲げていかなかったらいけないなと思います。

 第一テモテと第二テモテの間には一年間くらいの空白があるらしいですが、テモテに対してパウロが、「ゆだねられたものを守りなさい。」と言った後に、第二テモテ一章六節で、パウロはテモテに何と言ったかといったら、

『それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。』

と、そのように言っています。テモテには神さまがくださった委ねられたすばらしい祝福、その使命というのがあるのにも関わらず、一年後にちょっとトーンダウンしていたと思います。そうした時に、パウロがまた再び、「あなたに注意したい。」と、「私の按手を持って、あなたのうちに与えられた神の賜物を、委ねたものを、再び燃え立たせなさい!」と、そのように言っています。私たちも、このリバイバルの戦いのために、もう一度燃え立たせていただいて、歩ませていただければと、心から願います。

 第二コリント十三章八節に、こんなみことばがあります。

『私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。』

と書かれています。私たちは真理のためには何でもできるのです。イエスさまご自身という真理に立って、リバイバルのため、イエスさまために、備えて戦い続けていくことができればと思います。

 そして第二番目が「正義の胸当て」ですね。『胸には正義の胸当てを着け、』と書かれています。正義の胸当てですから、聖い胸当てを私たちは着けなければいけなりません。今の世の中、不義に満ちてしまっており、罪に溢れている時代です。いろんな方々がこのみことばに対して語っておられたのは、正義の胸当てというのは、それを着けていないと何が起こるかといったら、心臓を射貫かれるような、急所を射抜かれることになってしまうので、正義の胸当てを着けなさいというふうに、そう解釈して語っておられる方がたくさんいらっしゃいました。ですから、私たちは正義の胸当てを身にまとって、この不義の世の中で歩んでいきたいと思います。
 ただ私たち人間は、本当に罪深い者です。けれども、そんな中で主のみことばに立って歩み続けていきたいと思います。ローマ三章二十三〜二十四節、

『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』

 すべての人は、罪を犯した。「義人はいない。一人もいない。」と他の箇所に書かれていますが、すべての人は罪を犯して、神さまの栄誉を受けるに値しない者ですが、ただ神さまの恵みにより、今日も「主の恵み」という賛美をささげましたが、本当に主の恵みによって私たちは罪赦されて、また病が癒やされて今があるということを、もう一度心から感謝して、正義の胸当てを、主のみことばの胸当てをしっかりと着けて歩んでいきたいと心から願います。

 そして三番目は「平和の福音の備え」を履きなさいと六章十五節に書かれています。やはり私たち、福音宣教という、平和の福音の備えを絶えず履き続けていかなかったらいけないと思います。このごろ、聖餐式によって、沈黙の宣教が進んで、主のわざが進んでいますが、私たちの存在そのものが福音宣教、イエスさまのご自身の栄光を現す存在であるべきだと思います。
 そのためにはまずは私たち、旗上げをしなかったらいけないと思います。私はクリスチャンだと、どの場所においても、「私はクリスチャンです!」その中で、「イエスさま信じないと地獄に行っちゃうよ。」という、そのメッセージを語ることも大切ですが、それ以上に、私たちがそこにいることがやはりこの終わりの時代、主の時が近い時に、何か違う!と、皆さんを見て、皆さんの周りにおられる方々は感じておられると思います。そしてきっと時が満ちたら、もうすでにその兆候はありますが、「あなたと一緒におられる神さまの元に私行きたいので、教会連れて行って!」という方がこれから必ず増やされていくと信じています。

 明牧師が書いた本の中に、「神に会う備えをせよ」という本があります。

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これは二〇一三年八月に父が書いています。ですから父が天に帰る二年前に書かれたものですが、実は今回、初めてこの本を読みました。すごく薄い本なので、あっという間に読めますし、また伝道のためにも使うことができるので、是非使われたらいいと思います。六百円くらいだったと思います。
 父は「私は死ぬ気がしない。」みたいなことを二〇一五年正月に言っていたにも関わらず、この本をよく読んだら、なんか思いっきり着陸態勢に入っているのです。「私はまもなく…」みたいな、そういったことを、なんだ書いてたじゃん!みたいな、そんな感じの印象を受けたのですが、でも「最後の最後まで私はその福音を宣べ伝え続けていきたい。」と、そのことを熱い思いとともに書いていました。
 「神に会う備えをせよ」の中で、中心のみことばがアモス書四章十二節です。

『それゆえ、イスラエルよ、わたしはあなたにこうしよう。わたしはあなたにこのことをするから、イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。』

 すべての人が、神さまに会う備え、神さまの前に立つ備えをしなければならないので、ということがこの本の中に書かれているのですが、この本の中に一つのことが書かれていました。父の友人の長野の牧師から聞いたことだということですが、
 一つのクリスチャンホームのご家庭のおじいちゃんがまもなく天に召されるという状況になったというのです。それで病室の中で意識がない状況の中で、おじいちゃんが横たわっていて、それでクリスチャンホームですので、みんな集まって、おじいちゃんの周りに立って何をしたかと言ったら、何をしたわけでもなく、そこで話し合ったことは葬式の打ち合わせを始めたらしいです。「おじいちゃんは間もなく天に帰るけど葬式はこうしよう。ああしよう。」という、そんな話をしたんですって。
 そうしたら、おじいちゃんその後、元気になって意識を取り戻したんですって。そして意識取り戻して、おじいちゃんは何と言ったかというと、「おまえたちにはがっかりした。」と言ったそうです。「おまえたち、私の病室のベッドの周りで讃美歌でも歌って、平安な気持ちにさせてくれるのかと思ったら、なんだ葬式の打ち合わせかよ!」と、そんなことが書かれていました。
 ですから、「例え、意識のない人にも福音を宣べ伝えなさい。」ということが、この本の中で書かれていました。どんなにこれは人間的には届かないなぁと思うところでも、神さまの福音を宣べ伝える。とても大切なことです。第二テモテ四章二節に、

『みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。』

と書かれていますので、みことばを時が良くても悪くてもしっかりと宣べ伝える、そのような歩みをしていきたいと思います。

 そして四番目ですが、「信仰の大盾」です。私たちは信仰の大盾を手に取らなければなりません。エペソ六章十六節、

『これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。』

と書かれていますので、私たち、信仰の大盾、これがまた大切なのです。これらすべてのものの上に信仰の大盾を取っていないと、悪い者が放つ火矢があるのです。だからサタンは隙あらば、私たちの祝福を奪おうとして、悪い火矢を放ってきますので、それを止めるのは信仰なんですって。「私はイエスさまによって守られている!」という信仰をがっちり持つと、主は大きな守りを私たちに与えてくださるというのが、このみことばですので、信仰を持って、リバイバルという信仰、必ず神さまはみわざを現してくださる、すべての欠けた所が覆われて、整えられて、備えられていく時に、主のわざが起こされると信じていきたいと思います。

 先日、ザワメキワーシップシャウトのライブ配信を今月の最初の土曜日に行われたのですが、本当に恵みの時でした。その時に私はすごく恵まれたのですが、何に恵まれたかといったら、その時に、滝元堅志君、順先生のご長男で今東京でベーシストをしている彼ですが、彼が届けてくれたメッセージにとても恵まれました。
実は、彼、果たしてメッセージ届けてくれるかな?と思うとちょっとだけ不安でした。私はこの地で生まれ育ちましたが、彼が生まれた当時、私は十九歳でした。私は教会の敷地内に住んでおりまして、彼も隣に生まれて来ましたので、ずっと一緒でした。その時の写真、私が十九歳、彼が〇歳児の時の写真です。とっても仲良しでした。

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 彼が今回、聖書のことば、メッセージを届けてくださったのですが、彼に電話して、「ざわめきで今、毎月一回ライブ配信してるんだけど。」『知ってる知ってる。』あぁ、知ってんだと思って、「それでその中で、なんかメッセージ届けてくれないかな?」と言ったら、『お、いいよ。』とすぐに言ってくれました。彼の性格上、「いや、それはちょっと勘弁してよ。」と言うかなと、八割方、そうふんでいたのですが、彼は「お、いいよ。」とすぐに言いました。でもその後、彼が何と言ったかと言ったら、『今、でも本当に大変で。音楽の仕事、全部なくなって、すごく大変で、周りの人たちもすごく大変。でもメッセージは届けるよ。』と言って電話を切りました。
 きっとその後、彼はみことばをいただいたのかな?と思ったのですが、その時に彼が語ってくれたみことばが、イザヤ書二十六章三節のみことばでした。

『志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。』

 志の堅固な者、堅志君の名前はここから取られました。彼がそのビデオの中で「じいちゃんが使っていた聖書がここにある。」と言って、そして彼がそこを開いて、その聖書のみことばを開いて読んでくれました。ちょうどじいちゃんが使っていた聖書に、この場所に赤く丸く囲ってあったというのです。それが自分の心に不思議に留まったというのです。『志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。』「本当に自分は今回のコロナのことで、すごく大変だけども、神さまはこの時に何かしてくださると信じています。だからそんな中で一生懸命お祈りして、一生懸命聖書を読んでいたらこのことばが与えられた。だから絶対神さまは守ってくださって必ずリバイバルが起こされます!」という、そういう熱いメッセージでした。
 本当にもう一度、私たち、信仰の大盾をしっかり持っていかないといけないなということをすごく強く教えられた時でした。ですから、必ずリバイバルは起こされる。そのことを信じて、信仰の大盾を手に持っていきたいと思います。

 私は一九六〇年十一月に生まれました。どこで生まれたかと言ったら、この愛知県新城市富沢字市神という、この場所のすぐその辺りで生まれたそうです。病院に行って産み落とされたのではなくて、その当時、家で産んだそうです。時代が随分昔の時代で、産婆さんが来たらしいですが、そこで私は産み落とされて、一九六〇年十一月二十七日に生まれたのですが、この場所に会堂が建てられて献堂式があったのが、一九六〇年十二月です。だからここに移り住んできて、私が産まれて、そして献堂式になったということなのです。
 ですから、今年はちょうど七十周年ですが、私にとっては六十周年という、そういった六十年の節目の時だなと思っています。

 そんな中で、私の、滝元家のことが何度も話されていますが、八人兄弟で、でも一人天に帰ったという話がよく聞かれる話ですが、私のすぐ下の妹が天に帰ったのですが、彼女は一九六一年十一月二十六日生まれです。ちょうど一年後、私は二十七日ですが、二十六日に産まれたというのです。それから三ヵ月後に天に帰って行きました。疫病にかかって天に帰ったということで、本当に父はすごくその時の悲しみについて、その事に関しても、先ほどの「神に会う備えをせよ」の本にも書いてありますが、「ますみという子が天に帰った。分からないこともあるけれども、神さまはすべて益とするということと、後になって分かる。」ということが、その本の中で書かれていましたが、天に帰りました。
 ある意味、新城教会、この場所に建てられて、この場所で一年三ヵ月後に本当に教会としても大きな悲しみの時だったのではないかなと思います。

 その時に、もう一つの事件があったらしくて、それは何かと言ったら、私も同じ疫病に感染したらしいのです。それでますみが天に帰って悲しくて、本当に悲しくて悲しい時に、今度は開も同じような病気になってしまって、「またですか!」と、父の中ではなったと思います。その時に、父は神さまからみことばをいただいたそうです。そのみことばが、イザヤ書六十章二十節、

『あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。』

 このみことばが与えられたというのです。その会堂のすぐそこに父と母の記念の部屋があります。皆さん入ることができるので、出入り自由となっていますので、ご覧いただければと思いますが、そこに父が使っていた聖書が何冊かある内の一冊があるのですが、そこを開くと、六十章の二十節のみことばの所を開くと、こうなっています。

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 「開のため」と書かれています。『あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。』
 これが今から五十八年ほど前に父に語られたみことばですが、なんかもう一度、このみことばを、この新城教会に対しても宣言しなかったらいけない時かなと、そんなふうに感じました。『あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。』このみことばを信仰を持って私たち、歩んでいかなかったらいけないなと、そんなことをすごく感じさせられました。

 次は第五番目ですが、「救いのかぶと」。エペソ六章十七節に、『救いのかぶとをかぶり、』とありますので、私たち、「救われた!」というこの救いのかぶとをしっかりとかぶり続けていきたいと心から願います。
 サタンは私たち一人一人の信仰の根源を狙って戦ってくると思います。一番の願いは救いそのものを奪う、それほどの戦いに挑んでくると思うのですが、ですからしっかりと救いのかぶとをかぶり続けていきたいと思います。ヨハネの黙示録三章十一節に、

『わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。』

と書かれていますので、私たちの救いのかぶとも決して奪われないように、救いというこの冠を奪われないようにしっかりと持ち続けなければなりません。
 さらに黙示録十二章十一節には、

『兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。』

と書かれていますので、日々訴えるサタンの力に打ち勝つためには、子羊の血、イエスさまの流してくださった血潮によって、ただ恵みです。その恵みの血潮を仰ぎ、そして『自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。』と書かれていますので、やはり私たち福音宣教、証しのことばを宣べ伝え続けることがとても大切なことだと思います。

 そして六番目は「みことばの剣」です。エペソ六章十七節、

『御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。』

 これが、「備えよ!備えよ!」と、神さまが私たちに対して、今言っておられることばですので、やっぱり神さまのことば、しっかりと握りしめて、歩んでいきたいと思います。

 私はこの教会で中高生の兄弟姉妹のための働きをさせていただいていますが、もうその働きを始めて三十数年、ずっと同じことをしていることがあります。それは何をしているかと言ったら、「聖書を読みなさい。聖書を読みなさい。」ということで、みことばチェックということをしています。一冊のファイルがありまして、もう何年も前からのファイルで、誰々が今日はどこまで読んだというのをチェックして書いてあるのがあります。だから、中高生会を昔、新城教会で過ごした方々のファイルがあります。
 見ると、「何月何日、どこまで読んだ。」というのが記してあります。そしてその次の週になると、ある子になると、矢印になるのです。読んでないということなのです。そしてまた次の週になると、また矢印になったりするのです。そしてその次も矢印だったりすると、矢印が下になったりするのですが、そういうふうにチェックしながらでも、「みことばを読みましょう。」ということをずっと言っています。
 中高生の集会は、ユースプレイヤーというのがあるのですが、そのユースプレイヤーは今はリモートでしているので、いろんな所から参加してくれて、決して多い人数ではないのですが、皆さんと一緒に過ごしています。それで彼らに、「それでは今週のみことばチェック!」と言って、聞いて書くのですが、結構最近の子どもたちはよく読んでいます。
 一人の少年は、この四月に中高生に入って、一日一章、四月一日からマタイの福音書をスタートしました。一日一章とずっとくるのですが、彼に限ってはパーフェクトなのです。必ずずっと読んでいる少年がいるのですが、ぜひ私たちも、日々、主のみことばをいただくというのは力になりますし、糧になりますので、人間的にご飯を食べないと食べない時の禁断症状って、私なんかはちょっとご飯食べないと駄目な人間です。食べることと寝ることをすごく大切にするほうなのですが、ただみことばを読まなくて禁断症状になることって、なかなかなくてですね、「読まなくたって忙しいからこの世界、なんとか生きていける。」と思ったら、これ、大間違いだなと思います。
 やはりみことばを読んだからこその祝福というのが、私たちの人生にありますので、是非、皆さんも毎日、少しずつでも結構ですので、ある中高生のメンバーにいたっては、「今日どこまで読んだ?」と聞くと、「どこどこの何章何節。」と言うのです。だから先週から今週の一週間の中で十節読んだとか、そういう子もいますが、でも読まないよりはいいので、毎日みことばを読んで歩んでいただきたいと思います。
 詩篇百十九篇百五節、

『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』

と書かれていますので、みことばを読んで歩んでいきたいと思います。

 そして最後に「祈り」。この祈りを私たちは受け取って歩んでいきたいと思います。エペソ書六章十八節、

『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』

 祈りというのが、どんなに大切か。聖霊さまによって祈って、そして目をさまして、忍耐の限りを尽くして、また祈りなさい、祈りの上にさらにまたということばが付いていますので、私たち祈り続けていきたいと思います。

 八月は県民の森の祈祷会ができなくて、毎週月曜日、いろんな所でスタッフが祈ったのですが、私はこの会堂で祈らせていただきました。それで会堂で祈った時に、一つの言葉が与えられました。何回かここで祈ったのですが、一回目、ここで祈った時に、マタイの福音書二十一章十三節、

『そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」』

 すごくどきっとしたみことばが与えられました。やっぱりここは祈りの家ですので、祈り続ける者であり続けたいと、本当に心から願います。今、本当にこの戦いに備えるために祈る者でありたいです。

 そして、会堂での祈祷会二回目の祈りの時に与えられたみことばが。第一コリント十二章二十六節、二十七節でした。

『もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』

 今、様々な戦いがあって、苦しみがあって、このキリストのからだそのものが本当に苦しみうめくような、そのような状況の中にありますが、そのような中で「祈りなさい。備えなさい。」と主は語ってくださっていると信じています。今、キリストの身体が一つとなって祈るべき時が来ているように感じています。

 エペソ書一章二十三節に、

『教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』

 キリストが頭で、私たちはそれぞれ各器官です。各器官がそれぞれの主の働きに動き出す時に、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方が満ち溢れる。それが教会ですので、その働きのために、私たち一人一人、祈っていきたいと思います。

 あと二つ、みことばをお読みして終わりにしたいと思います。ヨハネによる福音書十六章三十三節、

『わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。』

 私たちの信仰生活、リバイバルの戦い、確かに患難がありますが、『しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。』

 そして第一ヨハネ五章五節、

『世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。』

 イエスさまご自身が、私たちの救い主、神のみ子だ!と信じた私たち、世に勝つことができます。勇敢に戦い抜くことができます。ですからそのために信仰を持って戦い抜くために、今日は七つの武具を身にまとって、歩んでいきたいと思います。

 最後、皆さん、お立ち上がりいただけますか?立ちあがってお祈りしたいと思います。最後にこの七つの物を身にまとって歩むことができるように、ご一緒に声を出してお祈りしたいと思います。
 腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当て、足には平和の福音の備え、信仰の大盾、頭には救いのかぶと、そしてみことばの剣、そして祈り。この七つの武具を身にまとって今週過ごすことができるように、ご一緒に声を出してお祈りしましょう。お祈りします。

 イエスさま、感謝します。本当にあなたが「備えよ!備えよ!」と私たちに語っておられることを信じて感謝します。どうぞ、主よ、この七つの武具をもう一度、身にまとって備え、そしてあなたの栄光を仰ぎ見ることができるように助けてください。今、イエスさまが私たちの教会にその武具を与えてくださることを信じ、宣言し、イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン。