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「エクレシアは神の栄光の輝き」

2020年10月25日(日)
21世紀キリスト教会・主任牧師 増山浩史師
エペソ人への手紙 1章20節~23節

『神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』

 シャローム!皆さまに祝福がありますように。今日は新城教会、リバイバルの聖地に私をお招きいただいて感謝します。昨年から開先生ご夫妻が、ザワメキの東京集会を私たちの教会で毎月してくださる恩恵にあずかって、お会いさせていただく中で、「一度新城教会にお越しください。」とお招きいただき、深く考えないままに承諾をしてしまいました。
 よくよく考えてみたら、とんでもないことを約束してしまったと思ったのですが、神さまのお導きであると思いましたので、今日は勇気を振り絞って来させていただきました。
 また順先生とも親しくお交わりをさせていただきました。実は私の印象では先生が真剣にメッセージしている時の写真を拝見していたので、怖い人ではないかと思っていました。でもお会いしたら本当に優しいお方で、お父さんの愛が溢れている先生で、昨日は安心してぐっすり眠れました。

 今日は「エクレシアは神の栄光の輝き」ということで、お話をさせていただきたいと思います。ちょっと大げさなタイトルに感じるかもしれませんが、お話しさせていただきたいと思います。一言お祈りします。

 愛する恵み深い父なる神さま、感謝します。天のお父さん、本当に感謝します。あなたは良いお方で、私たちを愛してやまないお父さんであることを感謝します。イエスさま、あなたがこの地上に来て、天のお父さんの愛を、余すことなく私たちに見せてくださり、語ってくださり、教えてくださったことを感謝します。聖霊さま、あなたを歓迎します。今あなたが私たちのうちに住んでくださり、この父の愛と、イエスさまの愛と恵みを、すべて私たちの内に知らせ、そして住んでくださっていることを感謝します。聖霊さま、どうぞ教えてください。私たちの心の目と心の耳を開いて天のお父さんの愛の深さをもっと教えてください。天のお父さん、感謝します。この時間を本当に感謝して、イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン。

 先ほどご紹介にありましたが、私はずっと仕事をしていました。でも正直申し上げますと、最初の十年間は、父の運送会社で仕事をしていましたが何をやってもうまくいかず、最後には本当に死にたいほど落ち込みました。人生の最悪じゃないかと思われる、個人的にも仕事にも行き詰りを経験しました。私の家庭はクリスチャンファミリーではあったのですが、私はずっと教会を離れていました。そして本当にどん底に落ちたところを見計らって、父が「教会に行ったらどうだ?」と言ってくれました。機会をうかがっていたのだと思います。
 本当に久しぶりに栃木県の宇都宮にある峰町キリスト教会という、安食弘幸牧師という先生の教会に行きました。もう二十二年前のことになりますが、私は別の教団の教会で洗礼を受けていましたが、それまで、涙が出るということは経験したことがありませんでした。ところがその教会に行ったらどういうわけか涙が出て止まりませんでした。当時、私はまだ若かったので、三十代のぴちぴちしたお兄さんが教会に来て泣いているので、周りの人が喜んでしまいました。「きっと聖霊に触れられている」と思われたのです。
 私は、やはり聖書の神さまは本当にいるかもしれない、それまで自分が不信仰で、この神さまと自分の人生につながりが見つけられていなかったことがわかりました。聖書はすばらしい話だけれども、自分の人生とは関係ないと考えていました。
 それからは、この神さまが自分の人生に介入してくださる、そのようなことが起きるのではないかと思い祈り始めました。
 半年ほど「神さま、いるんだったらはっきり教えてください。はっきり示してくれないなら私はもう教会に来ません。」と祈り続けていた時に、安食先生から、「増山君、イスラエル旅行に行かないかい?」と誘われて、夏休みにイスラエル旅行に行くことになりました。
 先生を含め教会員の方たちと旅行しました。ガリラヤ湖のペテロの召命教会の所で、みんなで手を握ってお祈りを始めた時に、私はいつものように、「神さま、本当にいるならはっきり教えてください。」と祈りました。本当にその瞬間、神の霊が天から下ってきたのを感じました。そして何かに身体が覆われたのを感じました。なんであったかというと、それは愛でした。本当に自分が愛されている。神さまの愛を感じたその瞬間に私は、「神さま、本当にごめんなさい。今まで自分が高慢で『いるんだったらはっきりしろ』なんて、とんでもないことを言っていたことを悔い改めます。これから何でもしますから使ってください。」とお祈りしました。
 すると、心の深い所に、「来なさい。」という言葉が語られ、その時、一九九八年ですが、その瞬間から私の人生は変わって今日に至っています。あの時の感動は今日もまだ変わりません。これが聖霊体験って言うんだなぁと感じました。

 旅行から帰って来てすぐに、近くの東京や関東の神学校を探して、夜でも勉強できるJTJという神学校に行くことにして二年間勉強しました。
 その二年間、勉強している間、本当に祝福をいただき、卒業を迎え、今度は「よし!僕は宣教師か、牧師か、何か、神さま何でもやりますので、私を使ってください。」という覚悟で、岡崎市にある断食祈祷院で一週間祈りました。
 ところが祈っても何をしても全く、神さまの声が聞こえませんでした。神さまがいないのではないかというほどの沈黙が続いて、意気消沈したまま一週間終わってしまいました。
帰るときに、バス停の前に来た所で、神さまから応えが示されました。
断食に来る前日、母に「僕は断食に行って来ます。」と伝え、教会の皆さんにも「僕はこれから献身します。断食行って来ます!」と言ったのですが、母は当時、人材派遣の会社、アウトソーシングの仕事をしており、私に「仕事を手伝ってくれないか」と頼まれていて、私は母に「神さまの祈りに一応加えておくね。」と言って出て行きました。
 祈りでは「宣教師」「牧師」「お母さんの仕事の手伝い」という三択でお祈りしていたのです。そして、帰りのバス停に来たとき、はじめて神さまが、「お母さんの仕事を手伝いなさい。」と語られたのです。沈黙されていた神がついに言葉を発せられたのが嬉しくて、「はい、分かりました。」と言ってしまいました。
 戻って来てすぐ教会に行き、先生に、「すいません。僕献身するのを止めました。神さまが『家の仕事をしなさい』と言うのでします。」と言って、先生も、「えっ!?」となったのですが、理解してくださり、それから十年間、仕事をしました。
 その十年間、私は仕事をしている間も、「神さまいつ辞めさせてくれるのですか?いつ僕は牧師や宣教師など、神さまの働きをさせていただけるのですか?」と祈り続けていました。結局、十年目に祈りの中で、「もういい。」という声がした感じがしました。そして両親も、「もういい。」と言ってくれて、そして無事に仕事を終えることができて、教会を始めることになったわけなのです。

教会の持つ素晴らしさを今日はお話しさせていただきたいと思います。

 「エクレシア」とは、ギリシャ語で「教会」を意味します。「エクレシア」という意味は、当時のイスラエルでも、ローマ・ギリシャの影響を受けた自由市民の集会を「エクレシア」と呼んだそうです。
 ところが中世になって、キング・ジェームスが聖書を作った時、「エクレシア」を教会の建物「チャーチ」という言葉に翻訳した。集会を現す「アッセンブリー」ではなく、建物の「チャーチ」という言葉に翻訳してしまった、と先日学びました。そうなって、いつの間にか教会が建物中心になってしまったというのです。
 でも本来の教会の意味は、罪の奴隷から解放され、主にあって自由にされた子どもたちの集会、これがエクレシアなんだと。
そして、先ほどお読みしたエペソ書一章二十節の所で、最後の三行の所では、

『また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』

と書いてありますが、教会がキリストのからだで、いっさいのものをいっさいのもので満たすお方が満ちておられる場所、すべての問題が解決可能な場所が「教会」なのです。
 だから私たちは教会につながった。そして今朝も教会で一緒に礼拝できる、ここに人生のすべての問題の解決があることを感謝したいと思います。
 この解決はどこから来るかというと、私たちの肉の努力ではなく、主から来る。キリストが私たちの問題のすべての解決をしてくれる。このことを本当に感謝したいと思います。

 私は仕事を辞めた時、十年間も献身の志を置いて過ごしてしまったので、「もう説教なんかできません。」と思っていました。「教会をサポートします!とにかく日本の宣教のサポートの仕事をさせてください。」と祈っていました。
そんなある日、台湾の先生で預言の賜物を持っておられる方の聖会に行きました。
集会の合間にうろうろしていたら、先生たちが皆でカフェで休んでいる所に間違って入ってしまいました。慌てて「失礼しました」と退出しようとした瞬間、先生たちが私のことをじっと見て、「待ちなさい。」と言うのです。「あぁ、しまった!」と思ったのですが、「そこに座りなさい。」と言われて、口裏を合わせたかのように、一人ずつ私に向かって祈り始めました。
 そして最後、女性の預言者のような先生が、「あなたは教会を始める。あなたの心の中には教会を始める志があった。」と言われたのです。「今、神さまは教会を始めなさいと言っています。」と言われた瞬間に、「主よ、分かりました。」と答えました。
 でも心の中の深いところでは、「そんなこと言われても無理だ」と思いました。
次の日もセミナーだったのですが、その女性の先生が朝一番に現れて、「今日は三人の人に言いたいことがある。」と言われました。一人は私が連れて行った末期癌の姉妹でした。そしてその姉妹を見て、「あなたは癒される。」と宣言してくれました。実際に彼女は十年間治療を続けましたが、去年、癒やされて完治しました。
 そして、その先生は私の所に来て、「昨日、私はあなたに教会を始めると言った。あなたは『はい』と言った。しかし、あなたは心の中で『ノー』と言いました。自分にはできないと。それを神さまは見逃していません。あなたにもう一度言います。あなたの罪はすべて赦されているから、安心して教会を始めなさい。」と言ってくれました。アーメンですね。私はその時に、「神さまごめんなさい。あなたはすべてご存じです。」と、それから教会を始めました。

 エペソ書のみことばを読む時に、「教会は、神の子どもの集まりであって、頭はキリストであり、主が責任を持って導いてくださり、成し遂げてくださる。これが教会なんだ!」と思った瞬間に、本当に肩の荷が下りました。
 そして「神さま、あなたがくれるものをいただくだけで十分です。東京で教会を始めさせてください。」と祈り、教会を始めました。

 恐らくみなさんは教会に対して深い愛情を持っておられると思います。しかし、それ以上に、天のお父さんが、愛するひとり子をお与えになるほど愛された教会なので、キリストと父が全面的にバックアップしてくれる、教会はそのような場所であることを信じ、今日は教会に与えられている使命を果たすことができるようにお祈りさせていただきたいと思います。そして励ましをさせていただけたらと思っています。

 マタイの福音書十八章の所で、神の集会とはどういうものかについて、イエスさまご自身がおっしゃいました。マタイの福音書十八章十九節〜二十節、

『まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。』

 アーメン。キリストご自身が、私たちが二人、三人集まるところに共におられるとおっしゃってくださいました。まさにこれがエクレシアの力の源泉になっていると私は本当に確信していますし、皆さんもそうだと思います。

 アルゼンチンにエド・シルボソという実業家で、「エクレシア」の解釈を一つのミニストリーとしている先生がいらっしゃいます。どのようなミニストリーかというと、「神の子どもが二人集まって祈る時に、そこにキリストが来られる。キリストがおられるところにはみ国がやってくる。み国があるところには不思議としるし、奇跡が伴う。どんな祈りも聞かれる。」この信仰をあらゆる家庭の中に、職場の中にもたらそうという働きがあります。
 そのことに私はとても感銘を受けて、この働きを日本中に紹介できたら素晴らしいと思って、今本を翻訳したり、いろいろと準備しています。
 家の中で二人の夫婦であったり、親子であったり、子どもたちかもしれないです。二人が集まって祈るところにキリストは来られる。特に私たちの教会は、働いている人たちがほとんどなので、日曜日が終わると皆、職場に帰っていくのですが、職場にもう一人、誰かに伝道したり、隠れているクリスチャンを引っ張り出して、一緒に祈り始め、会社を祝福したり、同僚を祝福する。すべての社内の問題をキリストの前に持っていく時に、そこにキリストがやってきて、み国が会社の中にやってくるので、会社が変えられていく。み国のように変えられていく。会社が祝福される。
 これを是非やりましょう!とお話ししたところ、みんな盛り上がっちゃって、急に伝道が始まりました。「会社の中で伝道したら、実はその人クリスチャンだったんです。隠れてたみたいです。良い人だと思っていたらやっぱりクリスチャンでした。」とか。また教会に一緒に来られるようになり、洗礼を受けられました。

 今年はコロナウイルスが流行し教会も試練がありました。悪魔は教会が一番嫌いなのです。悪魔が一番嫌うのは私たちですね。
 でもそれを一番知っているのは、天のお父さまであり、イエスさまですから、神の軍勢が私たちを日々守ってくれているのもアーメンです。
今、大きな集会ができなくなってしまった時に、神さまが与えてくださった知恵は、二人、三人の集まる所にみ国がやってきて、そこにしるしと不思議と奇跡が伴うことであり、神さまはこのことをすべての家庭に、職場に、私たちがいるところにみ国を来たらせてくださる。そのような時代に入ったと思っています。是非、一緒にそのように祈っていただきたいと思います。

 第一ヨハネ三章八節後半に、

『・・・神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。』

と書いてありますが、まさに新城教会の先生方や皆さまの働きは、日本の戦いのフロントラインにおられると思います。主が戦われる時に圧倒的な勝利がやってくるのを、私たちは毎日、毎朝受け取っていきたいと思います。

 奇跡が起こることが当たり前であり、奇跡が起こることが私たちの生活のスタンダードになる。主が共におられるからそれは当然なのです。イエス・キリストが地上に来られた時に、イエス・キリストが村の中に入って行けば、すべての病は癒やされ、葬式に行けば、死んだ人は生きかえり、五千人の人は五つのパンと二匹の魚でお腹いっぱいになる。こんなことが日常的に行われました。
 その主が、今も私たちと共におられるという事実から、私たちが目をそらしてしまう時に、何か奇跡が時々しか起こらないように感じますし「起こったらいいのに」という「願い」に変わってしまう。しかし、キリストが私たちと共に職場に行き、共に家庭の中にいるとすれば、そこに奇跡が伴うことは当然であり、あるべきことであり、そうあると信じなければなりません。
 もちろん教会の中でも何年間も祈りの中で病と戦っておられる兄弟姉妹もいます。しかし私たちは決してあきらめてはいけません。私たちのいるところは、必ず主が何か意味を持っておられて、その事を通して何かをなさろうとしておられるのです。だから私たちは「待ち望む」信仰を持ち、そのことを感謝したいと思います。

 二番目には、「エクレシアでは奇跡が当然」「神の子どもは全員がスーパーナチュラル」です。ヨハネの福音書十六章、最後の晩餐のところでイエスさまがおっしゃったことばですが、ヨハネの福音書十六章七節〜

『しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。・・・しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。』

 アーメン!聖霊なる神さまはキリストと共に働かれました。全く同じ聖霊さまが、私たち一人ひとりの内に住んでおられることが奇跡なのです。アーメンですね。
ちょっと君はランク低いから、この聖霊でいいよとか、そんなことはありません。イエス・キリストと共に歩まれた、キリストの上にとどまられたのと同じ聖霊が、今私たちの内に住んでおられるという現実を、朝に夕に思う時に、「神さま、今日は何が起きるんですか。」と、「神さま、この祈りの先にどんな応えが待っているんですか。」とエキサイティングしてくるのが本当に感謝です。
 神の子どもたちほどエキサイティングで、なにか狂った人たちは他にいないと思います。普通ではない、非常識な人たちだと思います。この世の人たちからすれば非常識でも、神の国からすれば当然でしょうと、天のお父さんからすると、「アーメン。その通り。」感謝したいと思います。

 神さまの語ることば、預言の働きについては、この教会でも起きていると伺いました。この町でコロナウイルスが発見された時に、「保健所のために祈りなさい。」という思いが来て祈ったところ、その検査の結果が全部間違いで全員陰性だったという話を伺いました。祈りが扉を開き、祈りを通して間違った問題を解決してくださり、「実は間違いでした。」とレポートが来る。それは神さまのことばを信じ祈った結果です。
 これはまさに、これから起きること、私たちが知らないことに対して聖霊さまが語る。聖霊さまが語ったことばを受け取って祈っていく時に、何かが起きる。本当に神さま、聖霊なる神が私たち全員に語っているのです。

 三年前、ドイツである集会があって、オリンピック会場を借りてみんなで神さまを礼拝する働きがあったのですが、私は行きたくありませんでした。大変ですし、遠いですし、お金もかかるので、「主よ、行きたくありません。」と言いましたが、『行け。』と言われるので、「わかりました。行きます。」と。
 その時に、ドイツ中の牧師たちが何百人と来ていました。朝十時頃からの集会に、七時から牧師たちが集まって祈り会をするというので出かけました。実際には牧師だけではなくて、教会のリーダーたちもたくさん来ていました。そして祈っていると後ろの男性が私の肩を叩くのです。
 彼は「神さまが君に言いたいことがある。祈っていいか?」と聞いてきました。「はい、祈ってください。」と言ったら、「神さまは、あなたの経済を祝福したいと言っている。」そしていろんなことを祈ってくれて、私の頭に残ったのは、「あなたの経済を神さまは祝福したいと願っているから受け取りなさい。」ということでした。「ありがとうございます。」と答えましたが、なんで経済のことを言うんだろうと思って家に帰って来ました。
私は今牧師をしていますが、会社も一つ経営しています。社員はいなくて、私一人の会社ですが、一応会社です。その集会の前の年、会社でものすごい損失を出してしまいました。私が間違った投資をしたのです。「神さまの声を聞かずにやってしまって、すいません。」と祈っていました。桁違いの損失だったのですが、翌年違う話がやってきて、その損失が全部解決して元に戻りました。
 その時、「あのとき後ろに座っていた人の言った通りになった!」とわかりました。
預言のことばは振り返ってみて、「あぁそうだった。」ということが多いです。彼と名刺交換していたのですが、その方は、ドイツのある自動車部品メーカーの取締役技術部長だったのです。ベンツやBMWに部品を納めている会社でした。素敵だと思いませんか?取締役の技術部長が預言的なお祈りをする。神さまのことばを取り次ぐなんて、いいですね。どうせならこんな部長の下で働きたいと思いませんか?「うちの社長、預言者なんだよね。」なんて言うと、その会社はかならず繁栄するでしょう。
 でもこれが神の子どもに与えられている現実なんだと思いました。私たちが神の子どもとして職場に遣わされる時に、神さまは必ず語ってくれる。これから起きることを教えてくれて、すぐに祝福がやってくる。こうありたいと思います。アーメンですか?
 神さまがくれる賜物については申し上げるまでもないと思います。第一コリントの十二章の中で、パウロが実体験したことを証ししているといつも感じます。彼にとってはこれは確かなことで、明らかなことを一つ一つ、手紙に書いて送ったんだろうと、いつも感動を覚えるのです。第一コリント十二章四節の所で、賜物について彼が言っています。第一コリント十二章四節〜七節、

『さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。』

 重要なことは、すべての人に、御霊から何か与えられているものがある、私たち全員に、ということです。皆の益となるためにおのおのに御霊の現れが与えられているのです。

『ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によっていやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。 』

 アーメンですね。教会「エクレシア」に私たちが集められる時に、エクレシアは皆同じではないというのです。全員違うんだと。一人ひとりが全員違うから、人と同じである必要はありません。だからシャロームがやってきます。平安がやってきます。
 そして、私たち一人ひとりそれぞれに賜物が与えられる。私たちは賜物をこの世を上手に渡り歩いていくためのスキルのように、小さく考えてしまったりするのですが、そんなレベルの低い話ではなくて、神の国から知恵の言葉や、知識の言葉や、信仰、癒やしの賜物、奇跡、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力、これからが与えられる。アーメンですね。
この会話は教会の中でしか成り立たない会話です。こんなことを外で聖書を読んだことのない人に語ってもなんの理解もできませんが、私たちは分かるのです。アーメンだと思いませんか?
 そして私たちがこれらの賜物を持ち合わせて、教会の中で互いに奉仕し合う時に、ここに神の栄光が現れてくる。これを体験するのだというのです。

 去年はラグビーでジャパンワールドカップがあり、日本は大健闘しました。十五人の選手が一丸になって戦うのですが、あの十五人はそれぞれのポジションがあり、それぞれの役割があるのです。そして与えられたポジションで選手たちは、自分たちの能力を発揮するために、違った練習をして準備を整え、心を一つにして戦いに行く時に勝利するのです。アーメンだと思いませんか?
 まさに教会も、私たち一人ひとりは全く違う存在で、賜物も違う。でも集まってこの賜物を持ち合う時に驚くべき勝利がやってくる。本当に感謝したいと思います。

 私には信仰の賜物があると思っています。特別な預言的な賜物もないし、癒やしもどうだろうと。しかし、教会の中には備えられているのです。
ある姉妹が祈ると、祈られた人がみな泣き出すのです。
あるときにその姉妹が「あなたはシンデレラみたい。」と言いました。なんのお祈りをしているのかと様子を見ていると、祈られている女性が泣き出すのです。「私、毎日シンデレラになりたいって祈っていたんです。どうしてそれが分かるんですか?」と女性が聞いていました。これは預言の賜物なのです。彼女が祈ると、来る人、来る人、泣いて出ていくのです。そしてみんな癒やされていきます。
 ヒーリングミニストリーがあるのですが、そこでもある兄弟が祈ると、みんな癒やされていくのです。どんどん癒やされていく。それぞれ賜物が与えられています。

自分は一体何の賜物だろうかと考えると、もう何があってもいい!という、捨て身になれる信仰の賜物だと思います。
 教会が始まる時、本当に祈りました。「自分は何もありません。」神学校を出てから十年間、仕事を朝の七時から夜中の十二時までしていました。家庭を省みない、とんでもない父親でした。悔い改めて、教会が始まってからは、聖書に書いてある通りの父親になろうと思って努力しました。でも本当に自分の力では難しかった。でも、神さまが成し遂げてくださるという信仰を働かせた時に、はじめて不思議なことを体験しました。
 教会を始める前に、神学校を出て牧師になるんだ!と決めた時に、貯金通帳を確認しました。「今どれぐらい蓄えがあるのだろう?」と。そして「どのくらい保つのかなぁ?」と。そしたら神さまが、「分かってるね?」と言うのです。「えっ?神さま、何のことですか?」「分かってるね?」と言うのです。「分かりました。」
全部献げろという意味なのです。「あなたの蓄えを全部献げなさい。」と。でも奧さんに聞かなければいけないし、ちょうど妊娠したばかりだから、駄目って言うかなと思って、奧さんに「神さまが今この手持ちの貯金を全部献金しないさいと言われたような気がするんだけど。」と言いましたら、「神さまが言うんだったら、いいんじゃないの?」と答えてくれました。女性はすごいですね。そして、よし!ということで、その場で全部献金してしまいました。
 神さまはできないことは絶対に言いません。信仰のボルテージがマックスの時に神さまは語るので、できて当然なのです。
 でも実際にしてみると、家の中から物がどんどん減っていくのが見えます。ダイニングキッチンにあったパンがなくなり、冷蔵庫の中の物がなくなりました。
 空っぽになった時に、心の中で、「パン食べたい。」と思いました。すると、数秒、一分以内に玄関がピンポーンと鳴りました。そこには一度も来たことのないおばさんが、「近くを通ったんだけどもパンを買った」というのです。食パンの長いのを、「これを食べなさい。」と持ってきました。普通だったらパンとバターとか、何か別の物もくれても良さそうなのですが、パンだけ持って来て帰って行きました。「神さまかな?いや〜でも偶然かも。」と思いました。
 パンを食べ終わって「メロン食べたい。」と思いました。私は五人兄弟で、両親とおばあちゃんがいて、子どもの時、八人家族でした。メロンとかスイカとかをもらって、みんなで食べようとすると、八等分でいつも細くて薄かったのです。だからお腹いっぱい食べたことがありませんでした。
「メロン食べたい」と思った時、家から電話がかかって来ました。母が「たまには家に来なさい。」と言うので「家の冷蔵庫も空っぽだし行こうか」ということで奧さんと家族を連れて家に行きました。すると母が部屋に入るやいなや、「浩史、冷蔵庫にメロンが入っているから食べなさい。」と言うのです。そして冷蔵庫を開けると、丸々一個、切ってないメロンだったのです。「これどういうふうに切ったらいい?」と聞くと、「全部食べていい。」と言うのです。生まれてはじめて、メロンを半分にして一人で全部食べたのを覚えています。
 その時本当に思いました。「神さま、もう分かりました。もう十分です。あなたは全部知っておられます。だからあなたが与えて下さった分だけで満足します。」ということで教会が始まりました。
 神さまはそのようなお方であって、私たちを絶対に見放すことがない。そして私たちが心で思うことさえも応えてくれる。そういう神さまであることを体験しました。

 それ以来、私は与えることが大好きになりました。献げることが大好きになってしまって、仕事をしていても、とにかく教会をサポートするとか、宣教団体をサポートする。教会にあるチラシを見て、「あの場所でジープが宣教で必要なんです。」と聞くと、神さまが「おまえがジープを買え。」と言うのです。貯金を全部使ってジープを献品しました。
 ところが献げても献げても、しばらくして振り返るとちゃんと残っているのです。そして二、三年経って振り返ってみると、倍になっているのです。そしてまた献げる、献げる、をやってくうちに、十年経ったら百倍くらいになっていました。本当に神さまの業を体験しました。神さまは与える神なんだ。これは自分じゃない。神さまが与える神なので、神さまの心に同意する時に神さまが喜んでくれて、神さまの祝福が流れてくるんだと受け取りました。

 三番目に、「神さまの方法でエクレシアは繁栄する」とあるのですが、ルカの福音書六章三七節で、

『与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。』

 そして、ヨハネの福音書三章十六節では、

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

 神さまは与えるということに関しては、計算能力を失うのです。計算できなくなってしまう。聖書の神さまは一番良いものを与えたくてしょうがないのです。セカンドベストではないのです。神さまはいつも私たちに一番良い物を一番良い時に与えたい。これが神さまのみ心なのです。
 この興奮は、天のお父さんの隣にいたイエスさまはずっと天国で感じていたので、私たちのために地上に来てくださり、天のお父さんは自分の愛するひとり子さえもこの地上に遣わしてしまったのです。私たちに最も大切なひとり子をくださった。そして私たちにどれほど私たちを愛しているかということを教えてくださった。
 そしてイエスさまがおっしゃったのは、「与える」という神の心を私たちが同じように受け取って、もしも家庭で、職場で、あらゆるところで、神さまの声を聞いてささげていくならば、神さまは必ず「与える信仰」に対して、十倍、百倍にして報いてくださる。アーメンですね。

 私たちは世の光だとあります。マタイの福音書五章十四節、

『あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。』

 光は何も盗みません。光は与えるだけなのです。太陽を造った時に神さまは、きっと自分の栄光の輝きをどうやって彼らに教えるか、人間に教えるかと考えたでしょう。「そうだ、太陽を造ろう!」と、太陽を造って、太陽から発せられる熱も光も、私たちを祝福するだけなのです。そして太陽は何か「返せ!」なんて言いません。私たちはもらう一方なのです。
 天のみ国では、都があって神殿はない。イエス・キリストが都の光となって、すべてのものを照らす。光がすべてのものを照らしてくれる。光がないとすべてが闇です。光があるからすべてを私たちは見ることができるわけですが、神さまの与えるというご性質が光の中にあって、私たちが光の子どもとされている。
 私たちは光の子らしく歩みなさいと言われると、どうやって光ったらいいんだろうと思います。もちろん私たちの言葉を通して、行いを通して光を現すのですが、一つポイントを絞るとするならば、与えることによって、私たちは光を放っていくことができると思います。アーメンですね。

 最後に一つだけ。マタイの福音書六章三十節、

『きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。』

とイエスさまはおっしゃいました。
このみことばをどうして言われたかというと、私たちが美しい花を見る時に、「あぁ美しい」で終わっているからなのです。イエスさまは違います。神さまが見ている視点は、私たちは野の草よりももっと尊いものであって、野の草の美しさを見る時に、私たちを野の草以上に神さまは祝福したいと、もっと良くしてくださるということを忘れてはいけません。あなたがたが祝福されるのは当然であるとイエスさまは教えています。そのことが分からない私たちを、信仰が薄いと言われるのです。アーメンですね。
 聖書を見ているといつも感動するのですが、私たちを祝福してやまない神であります。

 新城教会はこれからも世界を祝福へと導いていただきたいです。日本の教会は滝元先生によって祝福されました。そしてこれからも祝福されると信じています。この祝福に今日、私たちの教会もあずからせていただいていて本当に感謝しています。皆さんの祝福を心からお祈りして、またこれからもよろしくお願いします。
 では、一言最後にお祈りします。

 愛する恵み深い父なる神さま。感謝します。イエスさま、あなたは私たちを愛してやまない、祝福の神であることを感謝します。神さま、どうか、私たちがこの世の物の見方や考え方、常識に汚染されることがありませんように。私たちは神の子どもです。私たちは光の子どもです。あなたが共におられることを感謝します。
 神さま、どうぞ私たちが、あなたが持っておられる「与える」というご性質にあずかって、地上にみ国をもたらすことができますように。そしてみ国の祝福を、それぞれの家庭に、職場に、友人に、知人に、家族にもたらす祝福の器として、祝福の管として、どうぞ祝福してください。今日、この場所に集まっておられる兄弟姉妹、またオンラインで見ておられる兄弟姉妹の上にみ国の祝福が満ち溢れますように。イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン。