「神の国よ来たれ!」

2020年11月8日(日)
新城教会牧師 滝元開
マタイの福音書6章9節~13節

『だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕』

 ハレルヤ!主のみ名を賛美します。それでは早速みことばを学ぶ時を持ちたいと思います。今、「神の国よ来たれ!」と賛美をささげましたが、今日のタイトルは、「神の国よ来たれ!」というテーマでみことばを取り次ぐことをさせていただきたいと思います。
 今日こうして皆さんの前で健康で立たせていただける、この大きな恵みを本当に心から感謝しています。コロナの大変な時期の中にありますが、日々の歩みが守られていることを心から感謝します。
 コロナ以前はいろんな所に神さまが導いてくださり、世界宣教の働き、また国内宣教の働き、レコーディングの働きなど、いろんな形でいろんな所に伺わせていただきましたが、今になって、やっぱりその時の恵みは恵みとして大きかったなぁということをすごく感じています。

 ちょうど二年前の今日は南米ペルーにおりました。皆さんとご一緒にペルー宣教ツアーの働きをさせていただいて、そしてワッチョという魔法使いの町での働きでしたが、二年前の明日は、ワッチョの街の中心にある山の上に登って、そこで賛美して、大きな祝福と勝利の時だったんですけれども、その山から下りて来る時に大事件が起こりました。
 私に向かって、突然一匹の犬が走り寄ってきたかと思いきや、私の足にガブリと噛みついて、本当に大変な状況になりました。もしその犬が狂犬病に冒されていたら、噛まれた人の命は百パーセント助からないというものでした。二日、三日で死ぬ人もいるし、最長二年だと言っていましたから、あれから二年経ちまして、今日ここで皆さんにお会いできることを本当に心から感謝しています。やはり主の守りの中で生かされているなぁということを、ただただ心から感謝するばかりです。イエスさまは素晴らしいお方であることを、もう一度本当に心から感謝していきたいと思います。

 また先週はリバイバルミッションで、「ALL DAY REVIVAL」という二十四時間の働きがありましたが祝福の時であったことを感謝します。
 今回いろんな先生方からのメッセージが届いた中で、リバイバルを求めて来られたレジェンドの牧師先生方からのメッセージタイムがあったのですが、奥山実先生という八十後半の先生と、そして尾山令仁先生という九十代の先生、お二人の先生がメッセージを届けてくださいました。もうお二人ともお歳を召しておられますので、そうそう滑舌が良いわけではないのです。少し聞き取りにくい感じで言っておられたのですが、スタッフの皆さんが、今回そのメッセージに全部文字を入れてくださったので聞き取ることができました。しかも先生方、頭がいいので、横文字をぽんぽん入れてこられるのです。なので、「なんて言ったの?」というような言葉もちゃんと文字に入れてくださったので、すごくよく分かりました。そしてすごく恵まれました。
 お二人とも、「必ずリバイバルは起こると信じます!」と熱く語ってくださいました。奥山先生はインドネシアでリバイバルを体験されていて、イスラム圏の大変な中で村ごとがひっくり返るようなリバイバルが起こったということを語っておられましたが、奥山先生といえば常々、「リバイバルは突然くるんだ。」とおっしゃっておられる方なのですが、そのリバイバルを信じ続けていきたいと思います。
 今回の二十四時間のその集会のために、スタッフの皆さんがすごく労をとってくださいました。一人の方は二十四時間、一睡もせずに労にあたってくださったそうです。またその日は朝六時に起きて、そして二十四時間がんばって、そして夜は十時に寝たので、トータル四十時間寝ずにがんばられたそうです。これから世界がどうなるのか分からないような、そんなただ中にありますが、私たちはもう一度、主に目を向けてがんばって進んでいきたいと思います。

 近頃、新城教会で語られていることは、「主よ、祈りを教えてください!」という、「祈り」についてです。私たちはそれを毎週のように受け取っていますが、さらに祈り深くしなければいけない時に来ていると思います。私たち、一人一人、個人的に神さまのみ前で祈って、主を求めていく者でなかったらいけないと思っております。

 一箇所、聖書をお読みしたいと思います。マタイの福音書六章五~八節、今日の主題のテーマは六章九~十三節ですが、前半のところでイエスさまが語られたみことばをお読みしたいと思います。

『また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。』

 イエスさまが山上の垂訓で語られたみことばですが、「祈る時には偽善者たちのようではあってはいけない」というのです。ここで言う偽善者というのは、律法学者、パリサイ人、そういう人たちに向けてイエスさまは、おっしゃっておられると思うのですが、祭司とか律法学者、宮で仕える、神殿に仕えるという人たちは、人前で、儀式的に祈っているというのです。でもそれでも彼らは自分の報いを受け取っているとあるので、それなりの報いはあると思うのですが、しかしそのような祈りではいけないと。その祈りはどうしたらいいのかというと、もう一度、六節をお読みします。

『あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。』

 私たちは奥まった部屋に入って戸を閉めて祈らなかったらいけないというのです。でも奥まった部屋がなくて戸を閉める部屋もない方もいるかもしれないのですが、これは祈り方の「ここで祈りなさい。」という、そういったこと以上に、祈り、その当時は「神殿で祈る」ということが普通だったのが、「家庭の中で祈りなさい。」
 今にしたら、今の時代はどこででも皆さんお祈りされていると思いますが、家の中の押し入れとかクローゼットの中で祈るような、そういった表現だとある参考書に書かれていましたが、私たちが祈る祈りにおいて大切なことは、誰に祈るかということで、天の父なる神さまに祈ることです。
 そして天の父なる神さまに私たちが祈る時に、見せかけの祈りではなくて、心からお祈りするということが大切だよと、お教えくださっています。隠れた所で見ておられる主ご自身のみ前に、「自分の奥まった部屋」という場所で祈らなければなりません。
 これが今の時代だと、もしかしたら皆さんにとっては、通勤中の車の中が奥まった部屋になるかもしれないですし、学生の皆さんにしたら、自転車で学校に向かう途中の祈りです。「奥まった部屋で祈るのはお父さん、お母さんで、僕たちは関係ない。」じゃなくて、やっぱり皆さんお一人お一人が天の父なる神さまに「イエスさま、今日も学校を守ってください。祝福してください。行く所に神さまの祝福、栄光が現されますように。」という祈りと共に、学校に行ったらいいと思います。

 昔は早天祈祷会がこの教会でありました。私が子どもの頃は部会別というか、「この曜日は大人たち、この曜日は青年たち、この曜日は婦人の人たち。」と、そういう仕分けがなされていて、小学生以下は土曜日にお祈りするということが行われていました。
 ですから子どもたちは土曜日の朝に早天祈祷会に出る。その頃、朝五時半だったのか六時だったのか定かではありませんが、私も毎週出席していました。
 そして朝起きてそこまで行くことができないので、毎朝五時半をどこで迎えたかというと、その早天祈祷会が行われるその場所で迎えました。早天祈祷会が行われる部屋に、O家のKさんというお母さんがいらっしゃいましたが、キヨさんや私の母が布団を敷いてくれて、そこで私と私の友達のO家、の末のY君と一緒に、いつも一晩泊まって、そして朝になると、「早天祈祷会始まるよ。」ということで、小学生ながら祈っていました。とても良かったなぁと思います。
 その頃、私はそのY君をあだ名で何と言っていたかというと、特に冬場の彼のあだ名があったのですが、「パリサイ人」と呼んでいました。Y君のことを、「おい、パリサイ人!」と。
 聖書からしたら、イエスさまはパリサイ人を目の敵にしていますから、まるで悪者呼ばわりみたいですが、どうしてかというと、彼は冬場、肌が荒れるのです。今と違う時代なので、寒い時は寒い。だから顔も真っ赤になるし、肌ががさがさになるし、特に彼は足がバリバリに亀裂が入ったような足になるのです。それでいつもその足を見てバリバリ、パリパリだということで、どういうわけか「パリサイ人」と彼は呼ばれていたのですが、どうでもいい情報になってしまいましたが。
 でもその頃の子どもたちと聖書の距離感って、結構近かったなと思います。その時代、いろんな他の情報がなかったものですから、クリスチャンホームの子どもたちにしたら聖書物語しか聞かされていなかったということもあるのですが、父からは聖書のことをいろいろと教えられたりしていたので、でも、やっぱり今の時代の子どもたちと比べたら聖書に近い生活をしたのではないかと思います。今の子どもたちが教会で集まって、そこで何を話すかといったら、今どきのちょっと危ないアニメの話とか、ゲームの話とか、そういうことで教会で盛り上がるのではなくて、やっぱり聖書に関わる話題が自然になったらどんなに素晴らしいことかと思います。

 そして先ほどのみことばの続きです。七節、そして八節をお読みしたいと思います。

『また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。』

と書かれています。祈りそのものが、異邦人のように、異邦人というのは、ユダヤ人が選民でそれ以外の人たちは異邦人と呼ばれました。
 また昔話しですが、私たち、昔は排他的な教育を受けていたのかどうなのか、「私はクリスチャン。そしてクリスチャンでない一般の子どもたち、彼らは異邦人。」と呼んでいました。お茶の間の話題で、「あの異邦人の子がね。」と言っていましたから、ちょっと変わっていましたね。そういう中に生きていましたが、ただその異邦人のように同じ言葉を繰り返す祈りでは駄目なのです。やっぱり神でない神々に念仏だのなんだのかんだのというのを唱えるのも、同じ言葉をいっぱい繰り返したら聞かれると思っているけど、そうではないと。八節に、

『だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。』

 すばらしいですね。私たちの天の父なる神さまは、私たちが願う前から私たちの願いを知っていると。だから神さまに対して信頼して祈りなさいということをイエスさまは教えてくださいました。

 そんな中で、今日は、イエスさまが教えてくださった祈り、主の祈りについて学んでいきたいと思います。先ほど司会者の先生がお読みくださいましたが、マタイ六章九節~十三節を見ていきたいと思います。
 せっかくですので、皆さんで一緒にお読みしたいと思います。

◆主の祈り◆
天にまします我らの父よ。願わくはみ名をあがめさせたまえ。
み国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

 イエスさまが祈りを教えてくださった祈りがこの祈りですね。これ今、主の祈りの下、七行あります。イエスさまは七つのポイントで祈りを教えてくださいました。

 一つ目、【❶天にまします我らの父よ。願わくはみ名をあがめさせたまえ。】

マタイ六章九節、

『だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。』

 祈りの最初がこれです。これは何かというと、神さまを賛美し礼拝する。「イエスさま!助けてください!主よ、これください!」という祈りの導入ではなくて、祈りはどこから祈るかといったら、「天の父なる神さま!あなたのみ名があがめられますように!」という、神さまへの賛美、そこから始まらなかったらいけないということがここに記されていますので、私たち、天の父なる神さまに向かって、まず神さまへの賛美をおささげする、そのような者でありたいと思います。

 詩篇百三篇、とても有名なみことばですが、このように言っています。

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』

 このみことば通りに、主に祈りをささげられたらいいなと思う賛美の祈りです。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。わがうちにあるすべてのものよ主をほめたたえよ。」と、私たちの頭のてっぺんから、足のつま先に至るまですべてが、「もう天の父なる神さま!あなたはすばらしい!」という、そういった賛美の祈りを毎朝起きた瞬間に、それをおささげできたら、どんなにすばらしいかと思います。

 またさらにみことばに、詩篇百四十六篇二節、

『私は生きているかぎり、主をほめたたえよう。いのちのあるかぎり、私の神に、ほめ歌を歌おう。』

と書かれていますので、私たちは生きている限り、命のある限り、「神さま、あなたはすばらしい偉大なお方です。」と祈り続けたいと願います。そして、そんな賛美の祈りから一日を始めて行きたいと思います。

 この七十周年の記念の年の中で、神さまがいろんなことをこの教会に示してくださって、特に父なる神さまと私たちの関係がすごくスムーズになり始めているのかなと思います。今までは私たち、新城教会が元属していたグループではイエスさまオンリーで来たので、「おぉイエスさま!」で始まり、「おぉイエスさま!」で終わっていましたが、今は「天の父なる神さま」という方に向かって、それを聖霊さまの大きな助けを受けて、イエス・キリストのみ名によって祈るという祈りが与えられたので、天の父なる神さまのすばらしさというのを今、皆さんそれぞれの祈りの中で体験し始められているのかなと信じています。
 天の父なる神さまの愛がどれだけ大きくて、どれだけ温かくて、どれだけ力強いものか、そのことを私たち、知ることができたらと思います。「天にまします我らの父よ、み名があがめられますように!」と、本当に「天のお父さま!あなたがすばらしいお方です!」という、その祈りから始まっていく時に、神さまの祝福というのがもっと溢れると信じています。

 最近与えられた新しい賛美の一つに、「天の父よ、偉大な神よ」という歌の中で、「アバ父よ、アバ父よ」という歌が与えられて皆さんと共に賛美させていただいています。
 あの賛美が与えられたのは、このテレワークの期間中に、部屋の中で、「アバ父よ」と、突然このフレーズが天から降って来ました。それを口にした瞬間、涙があふれて止まらなかったことを思い出します。「アバ父よ、アバ父よ」と、ただ「アバ父よ」と言うだけなのですが、天の父なる神さまの愛の深さ、温かさというのは、こんなに大きなものだったんだということを体験させていただいております。
 ですから、そのすばらしい主、私たちの天の父なる神さまを心からあがめて、称えて、賛美する祈りがそこから始まっていくことを心から願います。

 二番目が、【❷ み国を来たらせたまえ。】

 六章十節の前半ですが、『み国が来ますように。』これが今日のメッセージのテーマになっていますが、先ほども賛美しました「神の国よ来たれ!」
 私たちクリスチャンは神の国のただ中に生きる者であるわけですが、その神のみ国が皆さんを通して、私たちを通して、教会を通して広がっていかなかったらいけないのですが、「神の国よ来たれ!」と叫ぶ、そのような者でありたいと心から願います。
 この、「神の国よ、来たれ!」というメッセージは、以前、新城教会でも順先生を通して語られました。「み国が来ますように。」という祈りは、弱々しい祈りではなくて、この地を踏みしめて、「神の国よ、来たれ!」と宣言するものだと以前すでに学んでおりますが、この地はサタンの支配の中にありますが、神の国の支配がこの地に訪れるようにと、この地にあるサタンの支配が打ち砕かれて神の国の訪れを宣言する者でありたいと思います。

 先々週、増山先生が来てくださって、すばらしいメッセージを取り次いでくださいました。本当に恵まれて、後から先生のメッセージを読み返して、いや~本当にすばらしいことをこの教会に対して語ってくださったなぁとすごく強く感じました。ですから本当にあのメッセージを受け止めて、それぞれが神の宮としての働きを進めていったら、どんなにすばらしいことかと思います。
 先生がその中で語られたみことばが、エペソ人への手紙一章二十三節でした。

『教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』

 教会、すなわちエクレシアは、いっさいを満たすことのできる方が満ちておられるところということが語られました。
 そしてその教会というのが、「二人、三人集まった所に、わたしはそこにいる。」だから二人でもここに集まったら、そこが教会になって、そうするとそこに何が来るかと言ったら、神の国が来るということをおっしゃっていました。

マタイの福音書十八章十九~二十節、

『まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。』

 二人集まって祈ったら、そこにイエスさまが訪れてくださるとイエスさまがおっしゃったので、そこに来てくださるということは、そこが神の宮、神の国なのです。だから神の国には圧倒的な主の勝利があると。
 増山先生のメッセージのタイトルの中に、いろんなすごいことが書かれていました。「エクレシア、神の教会は圧倒的な力と勢いが溢れている。」ということと、「神の子どもは全員がスーパーナチュラルだ。」と語っていました。
 私たち全員がスーパーナチュラル、超自然的なみ力が現されるところが神の宮なので、私たち一人一人がそれぞれの場所で、また二人が心を一つにすることがとても大切だとおっしゃっていて、会社に行って、クリスチャンがいなかったらクリスチャンを作る、クリスチャンを探す。東京ですと大きな会社に行くとクリスチャンに出会うらしくて、そこでお祈りする時にそこに神の国が来るから、そこで神さまの業が広がるようにということを語っておられました。
 そのメッセージで、先生が語られていたのが、「奇跡が起こることが当たり前であり、奇跡が起こることが私たちの生活のスタンダードになる。主が共におられるからそれは当然なのです。」と語っておられました。
 私たちの生活の中で、神さまが一緒にいてくださって、神さまがみ力を現してくださって、神さまがみ手を伸べてくださって、み働きを進めてくださる時に、そこにスーパーナチュラルな出来事が始まる。ですから、生活のスタンダードが奇跡、主の奇跡が私たちのスタンダードになるということを信じていきたいと思います。

 神さまのすばらしさを、さらに私たちは味わい知っていきたいと思いますが、一つのみことばをお読みしたいと思います。ルカの福音書十一章二十節、

『しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。』

 先週のメッセージで、「聖霊によって祈る」という祈りについて語られました。「聖霊によって祈る」ということが霊的戦いの祈りだと。そこでサタンの力が打ち破られる働きが聖霊による祈りなので、聖霊によって戦って祈りましょう!と、私たちは学ぶことができました。そうする時に、暗闇の力、サタンの力が打ち破られる!その働きを見ることができて、そうしたら神の国はあなた方の間に来ているんだ!というのが、先ほどのみことばです。
 ですから、今週の私たちの歩みの中に、「神の国が、もうここに来ているなぁ」ということを体験できる週であると信じます。

 最近ずっと証しされていますが、順先生の奥様の享子さんの癒やしのお証しがずっとされて、本当に心から感謝しています。昨年の十月二十五日に癌宣告を受けて、余命宣告まで受けて、本当に壮絶な戦いがずっと繰り広げられましたが、やっぱりこの戦いの中で神の指が動き、神さまの栄光が現され、神のみ国がそこに現された結果として、癒やしが起こされてきたと思います。
 ちょうど一年前、十月二十五日、その頃のLINEのやり取りの履歴を見ました。その当時からの履歴が本当に壮絶な状況でした。本当に苦しみがこのLINEの中から伝わってくるようなものばかりで、それを読むだけで涙が溢れました。十月二十五日に重篤な状況だという知らせを聞いて、その日の内に、私と家内とで病室にうかがわせていただきました。行って、そしていろいろと涙と共に祈って、一緒に賛美して帰ってきたのですが、順先生は、私が弟なので、私に対して何と言ったかといったら、「大丈夫だ。」と言いました。「今までいろんな修羅場を通り抜けてきた。だから大丈夫だ。」と、そう言われたのですが、大丈夫だと言えるような状況じゃない状況をその後、ずっと進んできましたが、でもその告白通りにイエスさまは祈りを聞いてくださったなぁと、本当に心から感謝をしています。
 その時の状況と今とを見比べたら、夢を見ているような、あの詩篇百二十六篇のみことば通りだと思います。私たちの口は笑いで満たされて、もう夢を見ているような働きが主によってなされていると思います。
 「Oh! Jesus is Wonderful!」という歌を、最近よく皆さんと共に歌っていますが、あの歌が与えられたのが、昨年の十月十五日でした。そして「夢を見ているような♪~Oh! Jesus is Wonderful!」という、すばらしい賛美だったのですが、そんな中で勃発したのが享子さんの癌の大変な大事件が起こってきたのですが、その歌が与えられて、私たちはレコーディングして完成するまでは皆さまの前で歌うのはやめようと思っていました。
 でもその病室に行った時に、「ここで歌わなきゃ!」ということで、実はCDになる前、順先生と享子さんの前で歌わせていただきました。「Oh! Jesus is Wonderful! 夢を見ているような神さまのわざがなされて私たちの口は笑いで満たされる!そのようなことが起こされる!」と歌いながら泣いていましたが、でも本当に今、神さまがみわざを成してくださって、癌が消えるだけではなくて、もちろんまだ本当に大変な戦いのまっただ中なので祈り続けていかなければなりませんが、先週も語られたように、ステントが消えるという、大きな奇跡がなされました。
 先週の水曜日の礼拝の中でも、鈴木陽介兄弟が「この奇跡がどれだけ大きなものか、皆さん分かりますか?」ということを、涙ながらに語っておられましたが、金属の長さ八センチで一センチの口径のものが消えるって、普通では考えられないことが起こっているわけで、これはOh! Jesus is Wonderful!以外、なにものでもないわけです。
 神の国の訪れということが、どれだけ大きなものかということを本当にここで神さまは示してくださっています。ですから、神の指そのものが動いておられるので、そのことをもう一度感謝していきたいと思います。

 ルカの福音書十七章二十~二十一節、

『さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」』

 「神の国はあなたがたのただ中にある」のです。ですからもうすでに、神の国が来ているということを信じていかなかったらいけない時に来ていると思います。神の国とはカイロスだと言われます。「時」というのがあって、その時を逃してはいけない。今「神の時」が来ているのが今だと思います。神さまは私たちが信じられないような、ステントを消すほどまでの大きな奇跡を成してくださっている時に、それを私たち、この教会として受け止めて、皆さん、お一人お一人、同じキリストのからだとして受け止めて、今神の国が来ているんだから、それぞれの場所に、「神の国よ来たれ!」と宣言すべき時が来ていると受け取っていただければと本当に心から思います。
 ですから信仰を持って叫ぶ時に、主のわざがなされるということなのです。「そこにある。あそこにある。」というようなものではなくて、神の国はあなたがたのただ中にあるのです。

 他のみことばには、マルコ四章二十六、二十七節、

『また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。』

 さらに神の国とは、そうこうしているうちに、知らないうちに訪れるというのです。朝寝て起きて、夜は寝て、また起きて、そうこうしているうちに気づいたら神の国、来てた!だから、「なかなか来ないじゃないか。」じゃなくて、「気づいたら来てる!」という働きがなされると信じています。

 三つ目が、【❸ みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。】
 これが三つ目の祈りですね。マタイ六章十節後半、

『みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。』

 天にあるみこころが、私たちのただ中で行われますようにと、そんな祈りをしていきたいと思います。天にある常識がこの地の常識となるように求めていきましょう。天の価値観がこの地上の価値観とることを求めましょう。この地はサタンの支配下にあるので、この地上の常識は天の常識と異なっているのです。だから私たちは神の国の訪れを宣言する中で、神の国の常識が、神の国の価値観が、神の国のスタンダードが私たちのスタンダードになるように戦い進んでいきたいと思います。

 ユースプレイヤーという中高生の集会をしているのですが、今時の子たち、すごく良い子たちです。今時ではなく以前の子たちも良い子たちでしたが、この間、夕方車の運転して横断歩道を横切ろうとしたら高校生たちが自転車で通りました。危ない中だったので停まったのですが、何人かの高校生が通っていきました。すると最後の子が通りながら深々と頭を下げてくれました。なんていい子なんだろうと見たら、何とうちの中高生でした。いい子ですね。
 でもね、彼らはちょっと優しすぎて、学校の常識にはまりこむということがあるのです。だからやっぱりイエスさま第一、神の国が第一なので、どこにおいても、学校においても、会社においても、神の国を第一として、神の国の常識が、神の国の価値観、神の国の順序が私たちの順序であり、常識・価値観になっていったらいいと思います。

 そして、【❹ 我らの日用の糧を今日も与えたまえ。】
 これはマタイ六章十一節です。

『私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。』

 ここでやっと食べるものをくださいという祈りを四番目にして出て来ます。主はすべて必要なことをご存じですので、そのことを受け止めていきたいと思います。

 そして五番目、【❺ 我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。】
 マタイ六章十二節、

『私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。』

 私たちの罪、汚れ、過ち、そのためにイエスさまは十字架にかかってくださって、死んでくださって、その流された血潮によって私たちの罪が聖められるという、その信仰に立ってこの祈りをしていきたいと思います。

 そして六番目が、【❻ 我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ。】
 マタイ六章十三節前半、

『私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』

 「お救いください。」と祈れとイエスさまはおっしゃっておられます。やっぱり私たち本当にいろんな部分で罪の奴隷となってしまったゆえにサタンが合法的に入り込んだ領域から救われるように、そのためにはこの五番目の祈りも必要となってくるわけですが、六番目に「そこから救い出してください!」と、「試みにあわせないでください。」という祈り、大切です。

 そして最後、【❼ 国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。】
 マタイ六章十三節後半、

『〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕』

 賛美で始まった祈りですが、最後がまた賛美で終わります。私たち、本当に心から主を賛美し主を礼拝していく時に主のわざがなされていきます。

 最後にもう一箇所、聖書をお読みして、終わりにしたいと思います。ヨハネの黙示録五章十一~十四節、

『また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。』

 主によって贖われたものたちからみ使い、そしてすべての被造物が神さまを賛美する。これは天における賛美の姿ですが、先程「神の国はただ中にある」というみことばをお開きしましたが、全被造物と共に黙示録に記されている賛美が、今のこの時代に、私たちの生きているこの中でささげることができるのです。そのことを信じて、歌い続けて、祈り続けていきたいと心から願います。

 主が教えてくださった祈りについて学びましたけども、ぜひ、今週、皆さんが行かれるそれぞれの場所において、「神の国よ来たれ!」と宣言していただき、そして、神さまのすばらしさをほめたたえていくものでありたいと心から願います。

 一言お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ、愛する天のお父さま、あなたのすばらしいみ名をあがめて、心から感謝します。今日もこうして私たちはあなたのみ名を心からあがめ、あなたを賛美し、あなたを礼拝できるこの大きな恵みを心から感謝し、もう一度あなたを心からほめたたえます。あなたを賛美し、礼拝します。
 今も神のみ国が私たちのただ中に訪れますように。今、イエスさまのみ名によって宣言します。そして天にあるみこころ、あなたご自身のみこころがこの地の上に現されますように。あなたの価値観が私たちの価値観となりますように。主よ、お願いいたします。あなたの持っておられる常識が私たちの常識となりますように。天の常識がこの私たちの歩みの中の常識と変えられますようにお願いいたします。
 そしてただただこの事を通して、天の父なる神さま、あなたのみ名があがめられますように。み名があがめられますように。主よ、お願いいたします。
 今日のこの時を心から感謝します。栄光をすべてお返しし、尊き主イエス・キリストのみ名によって、この祈りを父なる神さまのみ前におささげいたします。アーメン