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2021カウントダウン・ワーシップ

2020年12月31日(木)


上條実牧師

ハレルヤ!今日こうして皆さんの前に立って二〇二一年に対して与えられたみことばを語ることができます事を心から感謝いたします。また、今年一年間は皆さんのお祈りに特別支えられた一年であったことを、改めて心から感謝申し上げます。
昨年、二〇二〇年に私が与えられたみことばは、マルコ六章四十五〜五十二節のみことばでした。

マルコ6章45節~52節
『それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。夕方になったころ、舟は湖の真ん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。』

『弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。』

そして五十節には

『というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。』

このみことば、「何を怖がっているんだ!駄目じゃないか!」と怒って言われたのではなく、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。大丈夫だ。」と優しく励まし語ったことばです。

私は今年このみことばに支えられてきました。弟子たちが嵐の中でイエス様を幽霊だと見違えて、恐れ怯えたように、今年一年間は私にとって、また家族にとっても、ある意味で恐れや不安が襲ってくる大変な年でした。それは私が手術しなければならなかったり、家内も三回程、治療のために入院しました。また長男の家庭も同居していた義兄の里田登兄と義母ちかえ姉を、相次いでに天に送りました。まるで嵐の中を進んで来たような年でした。そのようにいろんな事がありましたが、イエス様が船に乗り込んだ後、風がやんだように、この年の瀬、ふり返ってみると「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」このみことばに支えられ、本当に主の守りの中で、祝福を頂いた一年でした。すべて主に栄光をお返しします。

今年新城教会は七十周年を迎えました。エレミヤ書二十九章十〜十一節、

『まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐主の御告げ‐‐それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』

七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。とありますが七十年の満ちる頃、すばらしい祝福を与えてくださるという約束のことばを頂いておりました。また熱き祈りがささげられて来ました。

二〇二一年のみことばを求めて祈っている中で詩篇六十八篇一〜四節が与えられました。お読みしたいと思います。

『神よ。立ち上がってください。神の敵は、散りうせよ。神を憎む者どもは御前から逃げ去れ。煙が追い払われるように彼らを追い払ってください。悪者どもは火の前で溶け去るろうのように、神の御前から滅びうせよ。しかし、正しい者たちは喜び、神の御前で、こおどりせよ。喜びをもって楽しめ。神に向かって歌い、御名をほめ歌え。雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は、主。その御前で、こおどりして喜べ。』

このみことばを二〇二一年の為に頂きました。私たちの教会は霊的戦いの祈りをしてきました。暗闇の力に対抗して戦ってきました。様々な出来事の為に祈り、様々な所に出かけて祈ってきました。今までも勝利を見せて下さいましたが、この七十年の満ちた二〇二一年は、一節、二節に書いてあるように、

『神よ。立ち上がってください。神の敵は、散りうせよ。神を憎む者どもは御前から逃げ去れ。煙が追い払われるように彼らを追い払ってください。悪者どもは火の前で溶け去るろうのように、神の御前から滅びうせよ。』

二〇二一年は更に、皆さんが、悪魔悪霊に立ち向かい、霊的戦いを進めていく時、煙が追い払われるように、私たちは、聖霊さまの風によって圧倒的な勝利を治めることができる。またろうそくのろうが溶けていくように私たちは圧倒的な勝利を見、二度と元のろうそくに戻らないように、二度と悪魔悪霊に支配されることがないというのです。
今年も一年間、私たちは悪魔と戦って、勝利を勝ち取る一年になると信じています。

そして特に三節、四節のみことばは、私が今年の中心的なみことばとしていただいたみことばです。

『しかし、正しい者たちは喜び、神の御前で、こおどりせよ。喜びをもって楽しめ。神に向かって歌い、御名をほめ歌え。雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は、主。その御前で、こおどりして喜べ。』
『正しい者たちは喜び、神の御前で、こおどりせよ。喜びをもって楽しめ。』

私は手術してまだ二ヶ月半しか経っていませんので、まだ咳やくしゃみをしたりすると胸の傷が痛む時があります。また重たいものを持ったり、走ったり、躍ったりする事はできません。医師からは約半年すれば大丈夫だと言われています。ですが、今年は霊的戦いの勝利を体験し、圧倒的な勝利を見て感じて、最高の主の喜びの年となって、早く体が元通りとなり、こおどりして主の栄光をほめたたえたいと願います。
そして四節は、

『神に向かって歌い、御名をほめ歌え。雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は、主。その御前で、こおどりして喜べ。』

ここには「神に向かって歌い、御名をほめ歌え。」とあります。今年こそ主が創造された被造物とともに、思い切って主を賛美し、そして「雲に乗って来られる方のために道を備えよ」とあるように、「マラナタ」「主よ来てください。」私たちは主のお帰りを待ち続け、道を備えたいと願います。そして「その御名は、主。その御前で、こおどりして喜べ。」、主の御名を心から賛美し、主のみ前で思い切ってこおどりして喜びたいと願います。

私にとって二〇二〇年は苦しみの中で、主が様々なことを教えて下さった年です。二〇二一年は、七〇年が満ちた時です。主は私を、新城教会を顧み、主の幸いな約束を果たして頂く年である。そしてわざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えて下さる一年であると信じます。
七十周年が満ち、この二〇二一年は素晴らしい主の喜びでこおどりする一年となると信じます。新型コロナウイルスの現状がどうあろうとも、私たちは戦いましょう。さらに戦って

『神の敵は、散りうせよ。神を憎む者どもは御前から逃げ去れ。煙が追い払われるように彼らを追い払ってください。悪者どもは火の前で溶け去るろうのように、神の御前から滅びうせよ。』

とあるように、圧倒的勝利を頂き、新型コロナウイルスも主のみこころがなされるように。また、主が勝利を取って下さったと、誰もがわかるような奇跡、勝利を見てこおどりしたいと願います。

この二〇二一年は私たちが祈り続けてきた問題が勝利し、主の前でこおどりする一年であるように、霊的戦いの勝利を見てこおどりする年となるよう信じましょう。

さまざまな病も癒やされ、リバイバルが起こされるように。圧倒的な勝利をいただいて、「マラナタ」「主よ、来てください。」私たちは主のお帰りをさらに待ち続ける一年にさせて頂きたいと願います。
私はこのみことばを二〇二一年の為に与えられましたので、皆さんとともに分かち合いたいと思います。ハレルヤ!


四元雅也牧師

ハレルヤ!今年もこうして一年間過ごし、カウントダウン・ワーシップに、こうして健康で参加させていただくことができて、心から感謝いたします。

みことばをお読みさせていただきます。私が二〇二一年に向けて受け取ったと信じているみことばは、詩篇百三篇一〜五節【新改訳二〇一七】です。

『わがたましいよ 主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ 聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主はあなたのすべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やしあなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせあなたの一生を 良いもので満ち足らせる。あなたの若さは 鷲のように新しくなる。』

この詩はダビデの感謝の詩です。ダビデが主に向かって心からの感謝をささげていることを文面から受け取ることができますが、私たちが「主に感謝をささげる」ことは、礼拝する上で大変重要な要素であると思います。

今月も「七十年の満ちる頃祈祷会」ということで、七日間にわたる特別な祈りの時が持たれて、朝に夜に、私たちは主の前に祈りをささげたわけですが、どの祈祷会でも、スタッフが立てられ、祈りを導きました。全ての祈祷会で判を押したように、その祈りの最初に「感謝をささげましょう」と勧めがなされ、主の前に感謝がささげられました。
七十年が満ちるという、新城教会における記念すべき時に、主に感謝をささげるのはふさわしい事ですし、また神さまの前に出る時に、なくてはならないものです。感謝の心とは、「神さまのおかげで今の私があります!」という神の恵みを理解し体験していることの現れです。
一日を顧みて、一週間、一年を顧みる。新しい年を迎えようとしている今日は、そのために都合が良い時であります。神さまが共にあってくださったということをひしひしと私たちは覚えさせられます。

この詩篇一〇三篇を見ると、「あなたの一生を良いもので満たされる。」とか、「主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。(十七節)」と歌われているわけです。
これは、神さまが神を愛する者をお導きくださる。これからも導いてくださるという、将来への信仰の告白でもあるのです。「あなたの一生を良いもので満たされる。だから私は主をほめたたえる。」と。神の恵みを思い返すことは、神への信頼を将来に向けて繋いでいく。過去を振り返って感謝することは、これからも導いてくださる、ということに繋げられていくことだと思います。
しかし私たちは、一年を振り返って、いろいろな不足を覚えたり、すべて良いもので満たされる、と言われても、到底そのように思えない出来事もあったかもしれません。また未来に残されている課題もあるでしょう。今年一年を振り返るとき、心にうずいている痛みをお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。詩篇百三篇三〜五節、

『主はあなたのすべての咎を赦し あなたのすべての病を癒やし あなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせあなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。』

時に、私たちはこのみことばを素直に受け入れることがなかなかできない者であることを覚えます。
しかし、今日ここにあるということは、神さまの恵み以外、なにものでもないということを私たちは覚え、そして今日まで導いてくださった神さまが明日からも必ず導いてくださることを告白していくことが大変重要です。
私たちは、とかく不足しているものに目を奪われてしまって、苦しみに心が覆われてしまうということがあると思います。祈っていても主への感謝よりも、主への嘆きが中心となってしまうような者であるわけです。それが悪いことではありません。神さまの前では嘆きをぶちまけてもいいですし、むしろ神さまの前だったら、私たちの心底からの、隠すことのできない思いをささげることは結構なのです。でも、それは私たちが神さまを信じる信仰の半分の面でもあります。
私たちは、その現状から信仰を働かせて、神さまを見上げて、神さまに信頼して、前に進んでいかなければなりません。

今日この時、私たちは神さまの前に感謝をささげると共に、神さまへの新たな信頼、そしてまた神さまに従っていこうという思いを新たに受け取って、この一年を始めていきたいと思います。

話は変わりますが、今年はある意味で多くの感謝を実感した一年ではないかと思います。なぜならこの新城教会の宣教七十周年として、一年を通して、これまでの新城教会の歩みを振り返る機会が多かったからです。
ほとんどの方は信仰人生においては七十年の歴史を持っていない者であります。ある人は数年、いやそれ以下の方もいらっしゃいます。
そんな私たちが知ることのできない先人達の労苦。その結果もたらされた霊的、精神的、物質的な遺産。これを私たちが知らずして享受しているということを、この一年を通して知ることができたのではないかと思います。この七十年の間に先人が建て上げてくれたものの上に、私たちの信仰の歩みがあることを深く学んだ一年でした。

そして、この一年間、私たちは問題に直面して、祈りと共にどのように対応すべきか苦慮することが多くあったのではないかと思います。二月頃からあっという間に世界中に蔓延して、そして今なお猛威をふるっているコロナの問題は、社会に新しい価値観とモラルを植え付けて、また生活様式の転換を迫り、また人々の不安を煽って、私たちを困窮させています。

それに加えて、この一年間、私たちにとって最も大きな関心事となったのは、主任牧師夫妻を襲った病との戦いでした。享子さんの今年一年の病との戦いを通して、もちろん今も戦いの最中にあるということを前提として、これからも戦い続ける必要があるということを認識しつつ、その上で、神さまから三つの励ましがあることを教えてくださっていると感じました。それを一つずつご紹介したいと思います。

二〇二〇年の戦いを通して、神さまが新城教会に与えておられる三つの励まし、一つ目は、「霊的戦いはあるよ」ということであります。
「何を今更」「あなた、私がどこで信仰生活を守っていると思っているの。」と言われるかもしれませんが、果たして本当にそうでしょうか。霊的戦いと言っても、「やらないよりはやったほうがいい。祈らないよりは祈ったほうがいい。」と、いつの間にかその程度のことと考えてしまったり、「毎週毎週、戦い戦いと、耳にタコができるほど聞くけど何がそんなに大事なの?」と受け取られているかもしれません。
霊的戦いがあるよと「聞いている」だけと、敵を見据え、焦点を合わせて「実際に戦う」とは大きく違うと思います。しかし、今年、先生ご夫妻はもちろんですが、我々もこの課題を、霊的な戦いとして、この問題に対して真剣に取り組んできました。

そして二つ目、「霊的戦いには勝利があるよ」
この二〇二〇年、ここまでの十二ヶ月に、ひとりの人の人生の中に、ガンが瓦解したということ、ステントがなくなったこと、ガンの痕跡が小さくなったこと、三度にわたって主治医の理解を超えた超自然的な出来事が起きたわけであります。これほど鮮やかな祈りの応えを、霊的戦いを通して見ることができたことを、私たちは知っていたでしょうか。戦いを実践できていたでしょうか。これは驚くべきことでしょうか。それとも主がなされたのだから当然であると受け止めるべきなのでしょうか。いずれにしてもこの事実は私たちの中にあるわけです。

そして、この事実は私たちにとって希望であります。私たちの遭遇した問題が、人間的に見るとどんなに絶望的なものであったとしても、私たちが祈る時に神さまが勝利へと導いてくださるということを現実に体験したわけです。

今年一年間、この教会ではエレミヤ書二十九章十〜十一節のみことばを掲げて歩んできました。先ほど上條先生がお読みくださったので、私は省かせていただきたいと思いますが、新城教会のホームページをご覧いただくと分かるのですが、今年のニューイヤー・セレブレーションで、滝元順先生はこのみことばからメッセージを語られて、「二〇二〇年に向けた主からの預言的メッセージ」と宣言し、私たちは信仰によってそれを受け取りました。
この一年を通じ、このみことばからメッセージが語られ続け、この十二月も同様であります。七十周年が満ちる祈祷会も、このみことばがテーマで上げられておりましたし、一年を振り返ると、本当に神さまがこのみことばを成就してくださったと思います。主の恵みを覚えて感謝します。
もちろん、いろんな問題があり、課題があり、苦しみもあります。しかし、このみことばを、私たちはやはりしっかり握っていきたいと思います。私たちには将来と希望が約束されているのですから。

そして三つ目、この戦いを通して教えてくださっている励ましは、「私たち全員がそのことの証人だよ」ということであります。

先月の話なのですが、私はある必要を感じて、豊川市を周りながらお祈りをしていました。その時、いろんな所を周りながら一つの病院の前でお祈りをしました。その病院で祈っている時、一つのことに気づきました。その病院は享子さんの病気が見つかった時に、初めに入院された病院でした。そこで「ここまで祈りに応えてすばらしいことをしてくださった神さま、本当にすばらしい。そしてこれからも最善に導いてくださる。」という感謝と共にお祈りをささげました。
そして祈りをささげながら気付かされたことは、これまでの戦いが、初めから個人の戦いでとどまるものではなく、この教会の戦いである。またその枠組みをも超えた戦いであったということです。
世界宣教でも祈りの課題があげられて、本当に世界中のいろんな先生方、兄弟姉妹が共に戦って祈ってくださいました。
ならば、ここまで与えられた勝利も個人のレベルにとどまるものではなくて、教会の勝利であって、神の国の勝利であるということです。幅広くこの祈りが共有されて、皆で真剣に「祈る」ということは、大きな勝利をもたらすと改めて思わされました。戦いの過程も、そこに現される結果も、関わったすべてのパートで共有されるものではないか。
私たちは神さまから将来と希望を与えられる約束の証人であるということなのです。

今年受験をされる受験生の方、また、年頃の方とか、就職を控えた方とか、また家族の救いのため、あるいは病の癒やしのためにももちろん、私たち人生全般の戦いのために、あるいはコロナウイルスとの戦いのため、日本のために、社会のために、そして神の国のために、リバイバルのために、この将来と希望を約束された者として信じ、みなさんと心を合わせて祈っていく。その時にこの戦いの勝利も幅広く共有され与えられるものであるということを信じて、前進していきたいと、そんなふうに思います。

最後に詩篇百三篇をもう一度お読みして、終わりにしたいと思います。詩篇百三篇一〜五節、

『わがたましいよ 主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ 聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主はあなたのすべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やし あなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは 鷲のように新しくなる。』

本当に今年一年の感謝と共に、将来への告白として、このみことばを将来の宣言として受け取って前進していきたいと思います。
私の話は以上です。ハレルヤ!


滝川充彦スタッフ

 ハレルヤ!皆さん、こんばんは。新城教会のスタッフをさせていただいております滝川です。いつも皆さまの祈りに支えられて教会で奉仕させていただいております。高い所からではありますけれども、感謝申し上げます。

 この二〇二一年に対する神さまのみことばを、私のような小さな者が取り次がせていただけることを感謝しています。神さまは私にみことばを語り、用意させてくださいました。本当にそのことに私自身感動を覚えつつ、皆さまの祈りに支えられながらここに立たせていただいていることを感謝したいと思います。

 今年、二〇二〇年、私が与えられたみことばは、ヨシュア記の五章十五節でした。「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そのようなみことばが与えられました。「二〇二〇年、私たちは新しいヨシュアの世代としてサタン、悪霊から神のみ国を奪還するという大いなる主の戦いに備え、私たちは私たちのすべてを主に放棄し、主に委ね、主に信頼し、全き信仰を主において、主に従うしもべとして整えられ、そしてまた平和の福音の履き物を主から履かせていただき大胆に戦いの前線へと進み出て行くその時、主の不思議な方法で神のみ国を受け継ぐという主の大いなる大勝利を受け取る年となる。」そのように今年、神さまが語ってくださいましたけれども、二〇二一年に対して、私が神さまから示されていることは、決してシリーズ化しようと思ったわけではないのですが、「履き物を脱ぐだけでなく、あなたは服をも脱がなければならない。」そんなふうに神さまから語られています。

 第二サムエル記六章二十~二十二節、

『ダビデが自分の家族を祝福するために戻ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えに出て来て言った。「イスラエルの王は、きょう、ほんとうに威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、きょう、あなたは自分の家来のはしための目の前で裸におなりになって。」ダビデはミカルに言った。「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで主の民イスラエルの君主に任じられた主の前なのだ。私はその主の前で喜び踊るのだ。私はこれより、もっと卑しめられよう。私の目に卑しく見えても、あなたの言うそのはしためたちに、敬われたいのだ。」』

 この箇所はバアラ、それはキルヤテ・エアリムの別名でありますが、エルサレムの西方十一キロの所にある町です。その町のアミナダブの家に神の箱、すなわち契約の箱が安置されていました。そしてその神の箱をエルサレムのダビデの町へダビデが運び入れた時の出来事でありました。ダビデはイスラエルの王様であり、威厳と権力があり、国の頂点に立つ人物でした。彼の命令は絶対でした。そのような王であったダビデが神の箱、それは主の臨在を現すものであり、主ご自身と言ってもいいと思います。その神の箱を運び入れる時に、彼は王であったにもかかわらず、その王服を脱いでまるで裸のようになりました。実際は裸ではなくて、亜麻布のエポデ、それは祭司の服ですが、その祭司の服を着ているのを露わにしました。それは主に仕える者として、主の前にへりくだって、力の限り喜び躍って賛美して、主を迎えたという、その聖書箇所であります。

 今の新約の時代に、私たちはイエスさまが帰られることを待ち望む者であり、イエスさまを迎える者としての役割が与えられています。私たちは神の国の完成、完全な回復のために、まもなく帰られるまことの王なるイエスさまを迎えるために、まず私たち自身が着ている王服を脱がなければならない。そんなことを神さまから私自身が示されています。

 私たちは恵みによって救われて、神の国の民となりました。王なるまことの主に仕える者とされているのにも関わらず、「自分」という王国を築いて、時に自分が王のような立場に立つ時があるのではないかと考えさせられます。自己の欲望を満たすために自己中心的になったり、自己のためのコントロールをあらゆる方法を持って図ろうとする時が、誰しもにあるのではないかと思います。その自己中心的な自分自身を制御するということは、本当に難しいことです。

 またその王という、この世の権威や権力、それは私たちの職場での高い立場であったり、地域社会での高い地位、また自分の家庭での優位な立ち位置などが思い起こされますが、そのような地上の世界観や価値観や、人間的な力をまとって、その力を私たちは時に振りかざして自己を守ろうとしたり、安心感を得ようとしたり、また自己を満足させようと努めてしまう、そんな弱さが私たち人間にはあるのではないかと思わされます。

 しかし、この宣教七十周年を迎えるこの年、二〇二〇年、そして二〇二一年、「将来と希望を与える」と約束され、その将来と希望を与えるためにまことの王なる主がまもなく帰って来られる。その主を迎えるために、私たち自身が今まとっている、それぞれが脱がなければならない王服というものを脱いで、主をお迎えする準備をしなければならないということを語られています。

 私たちが「服を脱ぐ」というのは、イエスさまを迎えることなのです。マルコの福音書十一章をまた読んでいただければと思いますが、イエスさまがエルサレムに入場する時に、弟子たちは自分たちの上着を脱いで、鞍代わりにろばの上にかけました。そしてまた群衆たちは自分たちの上着を脱いで道に敷いてイエスさまをお迎えしました。

 それは第二列王記の九章にもそのような記事が見られます。イスラエルの王のエフーという王が即位する時に、人々はすぐさま上着を脱いで、エフーの前の足下に入口の階段があったのですが、そこに服を置きました。これは何を表すかというと、王に対しての絶対的な服従を意味します。私たちはもう一度、この二〇二一年に向かって、王なる主への全き献身、また服従を心に決めて、それぞれが脱がなければならない王服を脱いで、主を迎える準備をする時であると、神さまから語られています。

 そしてまた「服を脱ぐ」ということに対して、もう一つ学ぶべきことがあります。「それは敵との戦いにとっても大切なことである」ということを示されています。
 ダビデは、かつてゴリアテと戦いました。その時に少年ダビデはサウル王から剣と武具を着せられました。少年ダビデは羊飼いでした。そして神さまが獅子や熊から羊たちを守り救ってくださり、また自らも救ってくださっていることを経験していました。彼は、主に全き信頼を置き、鎧や剣のような人間的な力に寄り頼むことをやめて、その鎧は脱ぎ捨てて剣を置き、そしてただただ万軍の主のみ名によって、この絶大な王権と共に戦いに出て行き、勝利を与えられました。
 まさに私たちが服を脱いでいく。人間的な力を脱ぎ去っていく。そして主に信頼していくということは、大きな霊的な戦いとなっていくということを神さまから教えられています。

 そして「私たちは脱ぐべき王服があるということを覚えさせられている」と話してきましたが、神さまご自身が私たちに着けさせてくださる王服があるということを、もう一つ、皆さんと覚えていきたいと思います。

 少年ダビデはゴリアテと戦う前にすでにサムエルから油を注がれていました。そして主の霊がダビデに下っていました。ですからダビデはこの絶大な主の王権をまとった王服を着て、その戦いに出て行って、それゆえに主から大きな勝利をあのように与えられたのではないかと思います。

 新約時代の私たちは、イエスさまの十字架の恵みと愛によって、聖霊が私たちに注がれています。そしてキリストを着せられた者であると聖書に見ることができます。また古いものは過ぎ去って新しい創造を受け取っているともあります。また私たちはイエスさまを信じて、神の子とされて、朽ちることのない神の国を、この父なる神さまから相続する者として、朽ちないものを私たちは神さまから着せられているという箇所もあります。私たちはそのようなすばらしい王服を着せられて、この地上に今あるわけです。

 そしてこの地上にあって、私たちはどのようなポジションに立っているかと言いますと、エペソ人への手紙二章六節、

『キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』
とあります。
 私たち、イエスさまを信じる者は、よみがえりの勝利をこの地上にあっていただいており、イエスさまが神の右の座に着いておられる。それと同じように私たちはこの地上にあっても天の所に座らせていただいている。イエスさまが神さまと共におられるように、イエスさまと共に私たちはこの地上にあって天の座にすわり、神さまは絶大な権威のある王服を私たちに着せてくださっています。
 それゆえに、その神さまが着せてくださった王権の力が現されるためにも、私たちは自らの王服を脱いでいかなければならないと教えられています。

 二〇二〇年は、享子さんや、実先生、また寛太君、また数え切れないほどの新城教会の兄弟姉妹、本当に多くの方々に病との戦いがありました。
 そしてまた新型コロナウイルスの問題など、この宣教七十周年に、新城教会の兄弟姉妹お一人お一人の中に、それぞれの激しい七十周年の戦いがあったことを振り返ると覚えさせられます。

 それはまるでエステル記のようです。あのエステル記ではユダヤ人が滅亡させられる死の危機に直面していました。そして粗布を着て、灰の上にひざまづいて、断食して泣き叫ぶ祈りの時を過ごした。そのような二〇二〇年であったことを覚えます。
 しかし、このエステル記の結末はどうであったかというと、モルデカイは王服を着せられました。そして王の権威ある指輪の印を持って命令を出し、ユダヤ人虐殺は免れ、そして死を定められた日が喜びの日、命の日と変えられました。

 主からの王服を着せられた私たち一人ひとりを通して、このような回復と勝利、命と喜びが二〇二一年に現される!そんなことを神さまから受け取らせていただいています。

 最後にもう一つ、与えられているみことばをお分かちしたいと思います。このカウントダウンのメッセージを神さまに求める中で、もう一つ与えられたみことばは、イザヤ書六十章十八節です。

『あなたの国の中の暴虐、あなたの領土のうちの破壊と破滅は、もう聞かれない。』

 こんなことばが私の耳に響いてきました。イザヤ書六十章はエルサレムの回復でもありますが、終わりの日の新しいエルサレム、神の国の到来の終末的預言とも言われる箇所ですけれども、二〇二一年は神の国の到来という、単なる私たちの祈りの課題が聞かれる、病が癒やされる、問題が解決する、人間的な尺度による回復ではなく、神の国が、この新城教会のただ中に、私たちのただ中に侵入し、神の国の中にある私たちにとって奇蹟と思われるような事が起こってくる。今まで私たちの国、世界、また家庭で起こってきた暴虐と破壊と破滅はもう聞かれない日が到来すると神さまが語ってくださっているように感じ、このみことばをいただいた時、また準備をしている時、涙が出てきました。

 そしてそのために私たちがすべきことが、イザヤ書六十章一節にあるということです。

『起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。』
とあります。

 これはシオンに住む、エルサレムに住む、神の民に対する神さまからの命令です。永遠の光なる主が帰られようとしているこの時代に、私たちは神の民として自らの朽ちていくような王服を脱ぎ捨てて、祭司の服をまとい、主の前にへりくだって、主に従い仕え、力の限り主を喜びおどり賛美しイエスさまを迎えていく者となっていきたいと思います。

 そして自らの王服によって主の栄光を覆ってしまうことがないように。主の栄光を照り輝かせていくことができるように。そして主からの王服をまとわせていただき、敵と戦う者とさせていただく。その時に主の訪れと共に主の絶大な回復、神の国を受け取っていく二〇二一年になると、そのように新城教会に与えられたみことばとして受け取らせていただいております。

 最初の聖書箇所に戻りますが、バアラ・キルヤテ・エアリムという町のアビナダブの家に神の箱は安置されていたわけですけれども、その神の箱が安置されていた年月は何年であったかというと七十年余りだということなのです。

 新城教会、今、宣教七十年が満ちる頃に、神さまがこのみことばを語り、与えてくださったと、堅く信じております。共に信じて、二〇二一年を主に期待して歩んでまいりたいと願わされます。私が与えられているみことばは以上です。


鈴木陽介スタッフ

 ハレルヤ!昨年に引き続き、新しい年に向けてのみことばを取り次ぐ役目を与えられ、その恵みを感謝します。

 二〇二〇年は言うまでもなく激動の年でありました。一般の社会においても、今日こうして越年礼拝で語られている中でも、我々はこの二〇二〇年を振り返っていますが、本当に多くのことを考えさせられる年でした。

 二〇二一年に向けてのみことばということで、まずは聖書をお読みさせていただきたいと思います。ローマ人への手紙四章十八〜二十二節、

『彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。』

 この聖句は十一月に私が水曜礼拝でメッセージさせていただいた時にも示されたみことばです。今私に与えられ、めぐっているみことばがこの箇所になります。この一年を振り返り、そして新たな年に向けて思いを馳せる時にやはりこのみことばが心に大きく響いてきました。
 二〇二〇年は、多くの変化があった年でありました。私たちの生活様式も変えられました。そして、実際に新たなウイルスによってもたらされる病に対しての戦いは、いまだ続いています。それは現実に迫っている困難です。それぞれがするべきことをし続けなければならないという状況が続いています。
 その現実を考える時に、私たちにはやはり不安があり、おそれがあり、そしていつ終わるんだろうという、先を案じる思いがあります。それが現実として、私たちに、今も突きつけられている状況で、新しい年を迎えます。
 しかし、今、私たちに突きつけられているこの現実は、私たちの信仰生活においてはどういった意味を持っているでしょうか?そのような視点でみことばから学んでいきたいと思います。

 先ほど引用したみことばは、アブラハムという人物について書かれた箇所です。彼は信仰の父祖と呼ばれる人物です。彼を通してイスラエル民族が増え広がり、旧約聖書の歴史が展開され、新約聖書に至り、イエス・キリストを通した信仰に繋がっています。ご存知のように、聖書を見ると、私たちも霊的なイスラエルであるといわれています。このようにアブラハムという人物から私たちの信仰というものが生え出ているわけです。我々の信仰の父祖です。
 そのアブラハムに神さまが、「あなたには子どもが与えられる。」と、「そしてその子どもからあなたの子孫は空の星や海辺の砂のように多く広がる。そしてあなたはあらゆる国の人々の父となる。」という約束をされました。

 しかしその時のアブラハムの現実というのは、自分も百歳であるし、そして奧さんのサラも九十歳であるというものでした。本当に子どもを産む、子どもが与えられるということにおいては、まるっきり現実的ではない、希望のない状況があったわけです。
 しかしアブラハムは「望みえないときに望みを抱いて信じた。」とあります。そして二十節のほうに移っていくと、そのような絶望的な中で、アブラハムは、

『不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。』

と書かれています。
 これは、今読んでわかるように、アブラハムが約束の子どもを与えられた後に、神さまがすばらしいことをしてくださったのでますます信仰が強くなって神に栄光を帰したということではありません。それが起こる前の、絶望的な、そんなことが起こるなんて到底信じられないその状況の中で、彼は不信仰にならず、ますます信仰を強めたという記事なのです。そのことを私たちは受け取る必要があります。
 私たちは神さまから何か与えられたから、神さまがすばらしいことをなさるから、信仰がますます強くなるというのではない。それはそれで、もちろんすばらしいことです。
 しかしそれは極端な言い方をすれば、信仰ではないです。誰でも喜べるし、誰でも感謝できるし、誰でも神さまはすごいと賛美できるわけです。
 ここで書かれていることは、そうではないのです。まだ先も見えない、そんなことが起こるとは到底考えられない、目の前に突きつけられた現実の中で、それでもアブラハムは不信仰にならず、それどころかますます信仰が強まって、神に栄光を帰したとあります。私たちも、信仰の歩みを続ける中で、このような姿勢を持つべきではないでしょうか。
 今、このコロナウイルスというものによってもたらされているあらゆる困難な状況、あるいはそれぞれの個人的な身のまわりの困難な状況、そのただ中で、私たちは信仰を失い、弱らされるどころか、ますます信仰を堅くして神に栄光を帰していくべきものとなりたいと思います。
 人生、順風満帆な時に神に感謝するということは容易なことかもれしれませんが、困難の中で、いかに希望を失わず、不信仰にならず、神の約束を信じ、神に栄光を帰すことができるかということが、ここで語られている信仰の側面の本質ではないでしょうか。

 私達の生活様式が変えられる中で、価値観というものにも変化があったのではないかと思います。以前は当たり前だと思っていたことを感謝する思いも与えられました。一方で、以前では当たり前だと思っていたことが取るに足らないことだと気づいたことも少なくありません。世の中においては、多くのことが神の国の価値観以外で動いていており、私達もその荒波の中で生かされています。今日、みことばを通して私が示されていることは、突き詰めて言えば、私たちは、目の前の現実にどのような変化があろうと、常に神の国の価値観で生活する、生きていくということを第一の目的として歩み、神に栄光を帰していかなければならないということです。

 昨年、私はこの場で、「私たちが何者であって、何をするために、どこに立って、どこに向かっているのか。」ということをお話しさせていただいきました。四月に初めて日曜日に語らせていただく時も、そのような視点で語らせていただきました。神さまの計画、歴史において、今私たちはどこに立っていて何をするべきなのかということです。
 その神の国の視点に立った時に、二〇二〇年の変化というものは言うなれば、取るに足らない変化です。この程度のことで、我々が神さまから託されている使命が変わるかというと、なんら変わるものではないし、変わっていてはいけないわけです。
 みことばのとおり、何か事があるから神に感謝するのではなく、すでに約束されている、けどもまだ目に見えない、それが起こることさえも信じることができない状況にあっても、その中で常に神に栄光を帰し、神に対する信仰を深めて歩んでいくということです。二〇二〇年によって、私たちにもたらされた変化があると強いて言うならば、我々の信仰がますます強くなったという事でなければならないのではないでしょうか。

 仮に二〇二一年、今よりも困難な状況になったとしたらどうでしょうか。「もう少し我慢すれば・・。」というようなところが、私たちの中にあるかもしれません。しかし、それどころか二〇二一年、さらなる困難が私たちを襲うとしたらどうでしょうか。その時に私たちはどう戦い、歩み続けていくことができるのか。それが私たちに問われている大事な点ではないかなと思います。

 宗教改革をしたルターが語った(諸説あり)とされる有名な言葉があります。「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、今日私はりんごの木を植える。」
 たとえ明日世界が滅びるとしても、今、私たちがすることの原則は何一つ変わりません。それぞれが自分の任されている領域で、神である主からの約束を信じ、その使命を全うし、ますます信仰を強め、主に栄光を帰して行きたいと思います。
 二〇二一年に向けて、私に語れと言われたみことばは以上です。ありがとうございました。


公畑フェルナンド牧師

 ハレルヤ!感謝します。今年も終わろうとしておりますけれども、二〇二〇年に神が私に与えてくださったみことばは、詩篇五十五篇十六、十七節でした。お読みします。

『私が神を呼ぶと主は私を救ってくださる。夕べに朝にまた真昼に私は嘆きうめく。すると主は私の声を聞いてくださる。』

 このみことばは教会全体にとって現実のものとなりました。神に最も叫び求めた年となったと言えるでしょう。一月末からのコロナウイルス流行のために叫び求めましたし、また享子さんの病気のため、実先生のため、またその他の兄弟姉妹たちの病気のため、経済のため、教会の宣教七十周年のため、そのほか多くのことのために叫び求めた一年となりました。

 そのような中でも主は私たちに誠実でいてくださいました。インターナショナルメンバーの誰も、また教会の直接の家族は誰もコロナに感染することなく、また仕事量の減少によって経済的に損害を受けた家族もいませんでした。仕事を失った方は少しはおられましたが、神の恵みにより、ほとんどすぐに新しい仕事に就くことができました。享子さんのいやしや、実先生の手術の成功など、この二〇二〇年、神さまは私たちに誠実であられました。

 そして二〇二一年のために神さまが私に与えてくださったみことばはネヘミヤ八章十節です。

『さらに、彼は彼らに言った。「行って、ごちそうを食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった人には食べ物を贈りなさい。今日は、私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」』

「主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」という部分は、スペイン語や英語の聖書だと、「主の喜びは私の力です。」と書いてあります。少し日本語だと変わってしまいますが、しかしこのみことばをもって皆さんがこれを見失わないよう、励ましたいのです。

 人間的には今起こっている様々なことの中で、心から笑うことが難しいかもしれませんが、神が与えてくださる喜びを思い出すことは、私たちにとって重要なことです。それは厳しい状況下にあるときは、私たちの内側の支えになります。

 ネヘミヤ八章の背景は、イスラエルの民にとって不安な時でした。深い悲しみの中にいた状態でした。七十年以上その土地を追われて後に帰ってきたところであり、エルサレムに戻り城壁を立て直したときでした。そこでの生活はひどく大変なものでした。しかし、そのような状況下で彼らは城壁の補修をやり遂げたのです。

 しかし、聖書には、律法のことばが開かれ、読み始めると、イスラエルの民はみな泣き始めたと書いてあります。それは過去に起こったことに気づかされたからです。この土地から追われて生活しなければならなくなったことは、神の律法に従わなかった結果によるものだと気が付いたからでした。それで彼らは泣いたのです。再建された城壁を見た達成感で喜ぶことができませんでした。
 そこでネヘミヤは、彼らにとっての歴史的瞬間であるこの時に、一つの言葉を民に語ります。それはまた私が皆さんに語りたい言葉でもあり、励ましの言葉です。ネヘミヤは次のように語りました。ネヘミヤ八章十節後半、「悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」と語りました。

 もしこの始まろうとしている新しい年に力強い人になりたいと思うなら、そしてまだまだ続くであろうこのコロナ感染流行の中で、また経済的困難な中、家族の問題の中、力強い人になりたいと思うなら、神の喜びが必要です。

 ピリピ四章四〜五節をお読みします。

『いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。』

 パウロがこれを書いたとき、人生でいちばん良い状況とは言えませんでした。牢に入れられている中、他の人を励ますために手紙を書きました。パウロは、「いつも主にあって喜びなさい」と言っています。物事がうまく行っているときだけに喜びなさいとは語っていません。パウロは、「いつも」と言っているのです。
 クリスチャンであるなら、喜ぶことは神が与えた賜物であり、様々な状況下でもそれを乗り越えていける力であり、主を賛美する力です。それは私たちが望むように動かない状況下にあっても力となります。

 私が心の底から信じていることは、内側に宿っておられる聖霊さまの力により、起こっている事柄よりもさらに向こう側へ行くことができるということです。そして私たちの生活の中に主の喜びを持つことができるということです。
 しかし今、「私には悲しみがある」という方、また、「極度の不安がある」という方、「どのように喜びを取り戻すことができるかわからない」と言われる方、そういう方にはこのことを思い出していただきたいです。これは主にある喜びを持ちたいとお考えなら、するべきことです。

 まず第一番目に、神を信じること。多くの人は信仰を失う時に喜びを失います。信仰とは人生の喜びを支えるものです。クリスチャンの人生、まず私たちは神に信頼しなければなりません。その約束を信じなければいけません。私たちが神の約束を信じなくなった時、神の言われたことを信じなくなった時、人生が不安になります。
 例えば、すでにコロナウィルスワクチンが開発されましたが、すべての人たちが摂取できるまでにはまだ数か月かかるでしょう。そしてあなたはその来るべきワクチンを打つことで、もっと安心するかもしれません。しかしそれが問題なのです。私たちは神の約束にではなく、人間の約束にもっと安心を感じているのです。しかし主は、あなたの神、主を信じなさいと語っています。毎日起き上がって、人生を続けるのに必要な安心・安全は何が与えてくれるのでしょうか?それは主にある信頼なのです。

 二番目に、祈りと感謝をささげることです。祈りは感謝につながります。それはもう一度神の喜びへ私たちの霊をもどす働きをします。ピリピ四章六節、

『何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。』

 あなたの心が心配でいっぱいな時に祈っていると、まず何をしますか?心配なことを言い連ねる祈りや、不満や苦情で満ちた祈りをしていませんか?そうではなくて、祈りは、最も力強いとされる感謝を伴うものでなくてはなりません。

 三番目は、私たちはこの世に属していないという意識、自覚です。覚えてください。この世はあなたの最終目的地ではないのです。私たちが神の子どもとして、ただこの地上の幸せを待っているだけなら、またそれが、キリストの再臨までのことなら、哀れな人生です。
 なぜなら、私たちが希望を置いている地上とは、日々悪くなっていく一方だからです。しかしあなたが天に目を向ける時、あなたに永遠のいのちにある希望があるとき、またあなたが、キリストの再臨に希望を置いているとき、あなたの人生から喜びは出て行きません。

 愛する兄弟姉妹、二〇二一年に与えられたこのみことばがあなたにとって慰めと励ましになりますよう、祈ります。そして私たちクリスチャンが、神の子どもたちが、この世の光となり、元気のない人や、落ち込んでいる人たちや、恐れがある人たちに、コロナウイルスの流行下にあっても、他の状況下にあっても体験できる喜びがあることをあかししていき、イエスさまのことを伝えていきましょう!

私が主から受け取った二〇二一年に対するみことばです。以上です。ハレルヤ!


滝元開牧師

 ハレルヤ! 感謝します。こうして年の終わりにこの場所に立たせていただける恵みを本当に心から感謝しています。二〇二〇年、一言で言って、「大変だった。」と、いろんな先生方が、最近よくおっしゃっていましたが、本当にいろんなことで大変な一年でありました。でも今ここにあることを覚える時に本当に感謝だと心から思わされます。

 リバイバルという大きな旗印を掲げて、働き続け戦い続けてきましたが、七十年目のこの年、かつてリバイバルのバトンがここまで重いと感じたことはなかったのではないかと思わされた一年でした。

 ある意味、現実的に大変な境遇の方々は周りにたくさんおられました。私自身は健康も支えられましたし、ザワメキの働きがストップし、ずっと家に居られ幸せな環境にあったのですが、どういうわけか苦しい思いを毎日のように覚えて、これもキリストのからだとしての一部分であるがゆえだろうと、そんなふうに感じ過ごしてきました。
 でもなんとかリバイバルのバトンを落とすことなくここまで来ることができたということは、本当にイエスさまの恵みと助けのゆえであったと覚えて感謝しています。

 この年を思い返すとき、戦いのただ中でも主の恵みがたくさんありました。ザワメキの働きのためにお祈りいただいて、五月一日、ちょうど非常事態宣言のまっただ中でザワメキ十三のCDをリリースさせていただいたことは本当に神さまの恵みでした。

 またバプテスマを受ける方々もたくさんいらっしゃったことも恵みでした。私たちの家庭集会で長年に渡って一人の方のためにお祈りしていただていました。それは知人の「美容師の方が救われるように。」ということでした。そして今年、その方の奥様まで一緒に洗礼を受けられました。彼らがキリストのからだに属してクリスチャンになっておられるということは本当に大きな恵みです。昨年の今では考えられないことで、私たちの祈りに期待以上のことを主が成してくださいました。

 昨年、私に与えられたみことばは、マルコの福音書一章三節でした。

『荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』』

荒野で叫べ!という、そのような話をさせていただいたのですが、まさしく荒野の一年間だったと思います。でもそんな中で本当にたくさんの賛美を主におささげし叫ぶことができました。半ば強制的でしたが、一週間ずっと毎日のようにどこかで歌うという機会が与えられて、これは神さまのみことばの実現であったと思います。

 また昨年の年末の私のメッセージを読み返したら、最後の最後に一つのみことばを私が語っていました。「もう一つのみことば与えられています。」と、紹介したみことばがヨハネの黙示録二十一章五節で、

『すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」』

 このみことばを最後に読んで、それに対するコメントなしに祈りに入っていたのですが、「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」ある意味、新しくこの世界の構造が変えられたような年だったと思う時、主が備えるために語りかけてくださったと主のみ名をあがめました。

 主が新しい領域へと私たちを導いてくださっています。これから、どんな領域にまた入るのかわかりませんし、もっと激しい戦いになるのか、私たちは分かりません。でも終わりの時代であることには変わりはないので、もっと激しい戦いに入るのではないでしょうか。

 二〇二一年のために与えられたみことばはこのみことばです。詩篇百五篇十一節、

『そのとき主は仰せられた。「わたしはあなたがたの相続地としてあなたに、カナンの地を与える。」』

 すばらしいみことばですね。神さまがこの新城教会に与えてくださっているみことば、「二〇二一年、あなたがたにカナンの地を与える!」と神さまがおっしゃってくださっています。このみことばを、私たち与えてくださったと受け取りましょう。

 この年はずっと、エレミヤの二十九章を読み続けてきましたが、十節に、


『まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。』

『この所に帰らせる。』とエレミヤに対して主は語られたわけですが、『この所』というのは、他でもなくカナンの地、エルサレムに帰らせてあげるよというのが主からの約束だったわけですが、そのエルサレムの地、カナンの地に帰らせていただく、それがこの二〇二一年であると信じます。

 我が家を掃除していた時に一つの置物が出てきました。イスラエルの旅行に行った時に買ってきたのか、どなたかにもらったのか分からないのですが、この置物が見つかりました。

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 JERUSALEMと書かれています。ぶどうの木を二人の人が担いでいる絵が描かれた置物ですけれども、これは民数記のみことばからのもので、モーセが、ヨシュアとカレブと、その他十名の各部族の代表者を遣わせていった時に、民数記十三章二十節、

『土地はどうか、それは肥えているか、やせているか。そこには木があるか、ないかを調べなさい。あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取って来なさい。」その季節は初ぶどうの熟すころであった。』

 そして民数記十三章二十三節、

『彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが一ふさついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかついだ。また、いくらかのざくろやいちじくも切り取った。』

このみことばにあるように二人でぶどう一ふさをかつぐ。信じられないことです。一つのぶどうの実がグレープフルーツくらいあるような、大きなぶどうの粒、それほど大きなものがこのカナンの地にはありました。神さまがこれから私たちに行かせようというところの祝福は、人間の考えを超えたすごい大きな祝福と恵みが溢れているところだよ!というのが、神さまからのみことばなのです。

 ザワメキ十三のCDが与えられた時に与えられたみことばが、民数記十八章十二節です。

『最良の新しい油、最良の新しいぶどう酒と穀物、これらの人々が主に供える初物全部をあなたに与える。』

 「最良の新しい油、ぶどう酒と穀物をあなたに与えるよ!」と主が与えてくださったみことばのゆえにザワメキ十三のCDが与えられました。本当に人間的に考えられないような、世界にこれ以上ないというすばらしいミュージシャンの方々が協力してくださって、あのCDができあがり、皆さまの祈りの結集で与えられました。神さまがくださるものは、私たちの思いを遙かに超えた本当に大きな祝福であるわけですが、それを受け取るか受け取らないかは私たちの信仰にゆだねられていますので、「このところに帰らせる。」という、二〇二一年のそのところに立った時に、その祝福を受け取る信仰を持ち、受け取っていきたいと心から願います。

 神さまの癒やしや奇跡は、神さまご自身のみ国の価値観の中にあり、神さまの中から出てくる祝福というのはあまりにも大きいのです。

話しは変わりますが、非常事態宣言以来、ザワメキで二つの教会に行きました。一つは岐阜で、もう一つが先日の秋田でした。

 行って、強く感じたことが一つありました。秋田空港に到着すると秋田は猛吹雪でした。そもそも飛行機が飛ぶか飛ばないかというところから始まったのですが、無事到着し、牧師先生ご夫妻が迎えに来てくださいました。すごい吹雪の中暗い夜道、そして車の前は雪で真っ白で何も見えないような中、車を運転しくださいました。先生は、「私たち慣れていますから。」とおっしゃっていたのですが、あまりにもひどく、久しぶりの雪だったこともありあっちこっちでいっぱい交通事故だらけでした。それで大丈夫だろうかと思いながら、「主よ、主よ」と祈りつつ、「これも主の戦いだ」と思って進みました。

 そして、車の中ではリバイバルの話になって、「リバイバルは戦いだ。そして霊的戦いが必要だ。」という話を始めてまもなくでした。目の前の車が凍った道路の上でくるっとスリップしました。そしてぽこんっとガードレール当たってしまいました。目の前の車がぶつかったので、これはもう助けに行くしかないと思って見ていました。するとその車、くるくると回って、自力で動き始めた瞬間、次に何が起こったかと言うと、後ろからバンッと、私たちの乗っていた先生のヴォクシーという立派な車に追突しました。ガーンと目ん玉が出てしまうようなすごい衝撃でした。秋田の悪魔が「来たな、おまえたち。」と脅された感じでした。本当にリバイバルはやっぱり戦いですね。神さまが託してくださっている戦いというのは、それぞれの地域そのものの土台を勝ち取らなければいけない戦いなので、甘くはありません。やっぱり託されているリバイバルの働きは戦いであることを改めて感じました。リバイバルのただ中では、神さまのご栄光があらわされ、私たちは喜び躍って感謝しつつ進まなければいけないのですが、でも忘れてはならないのは、本当に戦いが伴うということを、もう一度しっかり認識しなければいけないと思わされました。

 カナンの地に入って、信じられないほどの恵み、祝福をこれから収穫する時が来ると思うのですが、しかしサタンもなんとかしてそれをとどめようとします。でもその事故の中にも主の助けがありました。すぐに一一〇番すると、その日は、あまりにも激しい吹雪のゆえに、あちこちで交通事故があったので、一時間以上待たされるかもしれないと言われました。でも何と五分、十分くらいで警察官が来られて対処してくださいました。
 またその警察官が良い人で、「あぁ〜大変ですね〜」と言いながら近づいてきて、若い方でしたが、温かく、思いっきりの秋田弁で親しみ深くしてくださいました。私が「どうしてこんなに早く来てくださったんですか。」と聞いたら、「他の現場が終わって、さぁ本署に帰ろうと、すぐそこのコンビニに居たから来ることができたんです。」と話し、まるで本当に遣わされた天使のようで、神さまの助けであると実感しました。

 そしてそのスリップした若い青年は、本当に心を痛めていて、「ごめんなさい。ごめんなさい」と言うのです。牧師先生がまた優しい先生で、「やってくれたな」という空気ゼロなのです。「しょうがないよ。大丈夫?」と声をかけておられました。そして私たちが奉仕を終えて帰ってからLINEが来ましたが、その青年は母子家庭の青年だったらしくお母さんと一緒に教会に来られ、いろいろなお話をして、最後は会堂に入って一緒にお祈りして、「これから教会に来たい」と言って帰って行かれたそうです。いや神さまの恵みは大きいと、私も感謝しました。

 これから私たちはカナンの地に入って、カナンの地にある祝福を手にしていくと思いますが、それと同時に、主の戦いが進んでいきますので、主の勝利と助けを信じ戦い続けていきましょう。

 もう一つのみことばだけ、お読みしたいと思います。ゼカリヤ書八章九節、

『万軍の主はこう仰せられる。「勇気を出せ。あなたがたは、万軍の主の家である神殿を建てるための礎が据えられた日以来、預言者たちの口から、これらのことばを日ごろ聞いているではないか。』

 ここで再建のための働きに取りかかるわけですが、十三節、
『ユダの家よ。イスラエルの家よ。あなたがたは諸国の民の間でのろいとなったが、そのように、わたしはあなたがたを救って、祝福とならせる。恐れるな。勇気を出せ。』

 このみことばは「勇気を出せ」から始まって、「勇気を出せ」で終わっていますが、本当にこの主の戦い、必ず大きな祝福の収穫を見る二〇二一年に私たちは入っていきますけれども、勇気を持ってこの戦いを主にあって戦い続けていきたいと心から願います。以上です。ハレルヤ!


岡本信弘牧師

 ハレルヤ! 主のみ名を心から感謝します。くじの話が出ましたが、私は毎年、「一番か七番以外に!」と思っているのですが、去年は一番で、今年は七番になりました。しかし、これも神さまの導きだと信じて感謝します。

 二〇二〇年、ここまで皆さんのお祈りに支えられ、主の恵みによって守られ、今日、ここに立つことでできていることを心から感謝いたします。

 昨年、私に与えられこの場所で語らせていただいた、二〇二〇年に対するみことばは、ルカによる福音書五章四〜五節でした。イエス様がシモンに

『「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。』

シモンは半信半疑ながら、イエス様の言われたとおりにした時に、たくさんの魚が入り、網は破れそうになったとあります。

 このみことばを心に留めて二〇二〇年が始まりましたが、あっという間に一年が過ぎ去り、十二月になってからこのみことばを読み返して、主の前に祈りました。「神さま、たくさんの魚が捕れる、収穫ができると祈ってきましたが、コロナやいろいろな問題があり、網を下ろす前に様々な障害物に当たり、網を下ろすことすらできなかったではありませんか」、と主の前に訴えた時に、主から、「人の物差しでは測れない物差しがあり、主の働きによる大きな収穫がある」という応えをいただきました。そして、この一年間を振り返って、神さまの恵みによって収穫させていただいた大きな祝福を思い起こし、感謝しました。

コロナは様々なところに影響を及ぼし、礼拝も二部制を強いられたり、いろいろなことが制限されたりしています。

このカウントダウンの集会も、ここにおられる方は、「いつもより少ないんじゃないの?」と思っているかもしれませんが、今、ネットでこの集会に参加している人は百人以上います。今までは、ここに来られた方だけが聞くことができましたが、今はネットを通して、遠くてここに来ることができなかった方々もみことばを聞くことができるようになったのです。そこに、大きな広がりを感じます。

 また、私が担当している一つの家庭集会は、月に一度、近くに住む家族が集まって行われています、コロナの影響があり、受験生もいることを考えてリモートで行うようになりました。集まれずに、テンションが下がってしまうのではないかと心配しましたが、かえって、三重や静岡に住んでいる家族も家庭集会に出られるようになり、今まで八人、九人くらいだったのが、昨日、丁度家庭集会があったのですが、数えてみると十五人が参加できました。家族皆で一年間の恵みを分かち合い、感謝をささげることができたということを考える時に、これも大きな収穫だなということを感じました。

リバイバルミッションにおいても、今年コロナが始まった時に、伝道や聖会に、こちらから出て行くことはできないし、セミナーにしても、こちらに出掛けていただくことができないというような状況になって、「どうしよう、経済的なことは大丈夫かな」と心配をしたのですが、多くの方の献金があり支えられてきました。

十一月には関東で、会場を借りて聖会を行う予定だったのすが、コロナの影響でキャンセルを余儀なくされました。しかし、ALL DAY REVIVALと銘打って、リバイバルミッションの五十年を振り返る映像が流されたり、海外のミュージシャンによる賛美があったり、リバイバルメッセージが語られたり、全国各地をつないで祈りの課題を挙げて一緒に祈ったり、子供たちが出演したドラマがあったりと、二十四時間いつでもどこでも参加することのできる集会がネットで行われました。会場を借りたなら、そこに集まれる人は二百~三百人くらいだったと思いますが、千人以上の人がそこに参加して恵みをいただくことができました。この企画も大きな反響があり、これも大きな神さまの祝福だったと感じました。

 このように、インターネットというものが、これからより多くの収穫を得るための一つの武器となるということを覚え、感謝しました。

 そのような中で、「主が備えられた道がある」というテーマをつけたのですが、私がこの二〇二一年に与えられたみことばは、イザヤ書三十章二十一節です。

『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。』

 今、日本だけでなく世界中の人々がこれからどうなるのだろうと心配し、不安を抱えています。

 プレイズのために皆さんにいつも祈っていただいていますが、この働きが始まって以来の三十年間で、経営的にはいちばん大変な年となりました。連日、テレビをつければニュースもワイドショーも新型コロナ一色です。そういう状況の中で、政治家や医療従事者、様々な人がそれぞれの立場でいろいろなことを言っています。その意見の違いで、多くの人は何が正しいのか、何を目当てに進んでいけばいいのかわからず迷走し、出口のない暗いトンネルに迷い込んでいるような状態で、「誰か、この道が正しい、これを選択したら絶対に間違いないと言ってくれる人がいたら、どんなに心強いことか」と思っているのではないでしょうか。

 私はそんなことを考えている中で、先ほどお読みしましたイザヤ書三十章が与えられました。

 イスラエルの民は、目の前の情勢が悪くなったとき、主の御声を聞こうとせず、頼りにならない大国エジプトに頼ろうとしていました。これはちょうど、明日も多くの人がこんな状況の中でも初詣に行くと思いますが、日本人の多くの人が困った時の神頼みとして、目先のものに囚われ、そして間違った神々に手を合わせているのと同じだと思います。

一節では、神に頼らずほかのものを頼りにしているイスラエルの民を、神は「反逆の子ら」と呼んで、このように語ります。

『神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。あなたがたは言った。「いや、私たちは馬に乗って逃げよう。」それなら、あなたがたは逃げてみよ。「私たちは早馬に乗って。」それなら、あなたがたの追っ手はなお速い。』(十五~十六節)

神に信頼すれば力を得ると言われたにもかかわらず、情勢が悪くなったら、当時では一番早いとされていた「馬に乗って逃げるからいい」と言って主の警告を無視したのです。神は、「追っ手はもっと早いよ」と忠告しています。

 世界が混乱している今、誰の言っていることが正しいのかを、世界中の人々が真剣に考える時が来ているのではないでしょうか。この世の終わりが近い時、「わたしに信頼しなさい」と神さまは私たちに訴えているのではないかと思います。

 話は少し変わりますが、私の車にはカーナビが装備されています。皆さんの車にもついていると思いますが、今はスマホでも、ほぼ正確に目的地まで連れていってくれるような時代です。私たちクリスチャン人生も同じです。神さまが私たちのすべてを知っておられ、そして私たちの目的も知っておられる神さまが、『これが道だ。これに歩め』と、私たちの行く道をナビゲートしてくださるのです。
ある人は、「私には何にも聞こえない」と言われるかもしれません。私ももちろんイエスさまから直接「ここに行け! あそこに行け!」というふうに聞こえているわけではありませんが、祈りの中で、賛美の中で、主に心を向けるなら、その御声を聞くことができます。

 そして、新しい二〇二一年、主が語られている道をしっかり受け止めていくことこそが、祝福への最大の近道です。
 それにはまず、主を待ち望むことが大切です。

『それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。』(三十章十八節)

ここで、主は、主を待ち望むすべての者に対して恵みを与えようと待っておられ、あわれもうとして立ち上がっておられると約束してくださっています。
しかし、その時のイスラエルの民はどういう状態だったかというと、主に対して反抗していました。

『彼らは予見者に「見るな」と言い、先見者にはこう言う。「私たちに正しいことを預言するな。私たちの気に入ることを語り、偽りの預言をせよ。道から離れ、小道からそれ、私たちの前からイスラエルの聖なる方を消せ。」』(三十章十〜十一節)

 詩篇百十九篇百五節には、

『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です』

と、主のみことばは、いつも私たちの行く道を照らしてくださるのだとあります。それは、強制的に私たちを右に行かせたり左に行かせたりするのではなく、主は私たちの傍らにいて、私たちの肩をたたくように、「こっちに行ったらいいよ。あっちに行ったらいいよ」と、私たちに自由意志も与えてくださっています。
 そして、私たちがその示された道に歩むなら、
『しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。』(イザヤ書四十章三十一節)

とあるように、新しく力を得て、疲れることなく、喜んで主と共に走り続け、戦い続けることができると約束されているのです。

 ここで大切なのは、主に従うことです。

二〇二一年は、まず主を待ち望み、『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろからこれが道だ。これに歩め』と教えてくださる御声をしっかりとキャッチし、従っていきましょう。そうすれば、鷲が翼をかって上ることができるように、力強く歩むことができるのです。
主が示してくださった道をひた走り、主の栄光を表していきたいと心から願います。