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ニューイヤー・セレブレーション

2011.1.1(Sat)
新城教会牧師 滝元 順

DSC_2461.JPG ハレルヤ!みなさん、新年あけましておめでとうございます。2011年をみなさんと共に迎えることができ、心から感謝します。
 人間というのは、成長する動物です。かずき君が、きらきら星を演奏している時代から知っていますけれども、ここまで成長したわけです。すばらしい演奏でした。こうありたいな、と演奏を聞きながら思いました。この2011年、主にあって、主の前に成長させていただきたいと、心から願うものであります。

 今日は、1月1日ですが、私は毎年話しているのですが、一年は365日あります。どこから切って一年を始めてもいいわけですが、なぜ、この時期に1月1日なんだろうと思うかもしれません。しかしこれには、キリスト教会が関わっています。
 西暦とは、そもそも、イエス様がお生まれになって、今年は2011年ということですが、クリスマスは12月25日と定められています。イエス様が生まれたのは25日かどうかは、定かではないのですが、12月25日がイエス・キリストの誕生日と、便宜上定められています。

 イスラエルの習慣におきましては、男の子が生まれて8日目に割礼という儀式を授けました。その日から、赤ちゃんは名前で呼ばれるようになりました。イエス様は男として生まれたのですが、8日目に割礼を受け、イエスと呼ばれるようになりました。
 実は、イエス様が生まれて8日目を1月1日と定めたのです。12月25日から8日目、イエスと名前が呼ばれた日を、西暦においては一年の最初の日と定めたわけです。
 日本では、この時間、多くの人が初詣に行っていますけれど、日本が西暦を採用しているということは、人々は知らずして、一年をイエス・キリストの名前で始めているのです。
 ということは、今日、人々が偶像礼拝に行ったとしても、教会はこの日を、「イエス様の日」として宣言できるわけです。2011年は、「イエス・キリストの名前によって、始まった年である」と宣言できるわけです。
 私たちは高らかに、「この2011年は、イエス様の名前によって始められた年である!」と宣言しましょう。
 そうするならば、キリストの主権の中で、私たちは守られ、導かれて行くと、信じています。

 今年は、1月1日が土曜日に当たりまして、その前後、カレンダーが大変いい組み合わせになっています。昨日は越年集会がありまして、主を誉めたたえながら、年を越え、今日は、新年聖会があって、明日は日曜日で礼拝ということで、牧師にとっては少しつらい日程でもあるんですが、賛美しながら一年を始めることが出来、本当に感謝です。
 さらに明日は、午後4時から「全日本リバイバルミッション主催」の「24時間PPH」がありますから、是非とも、みなさんお出かけください。主を賛美しながら一年を始めるのは、大変素晴らしいことです。

 私たちの教会には、私を含めて7名の牧師がおりまして、毎年、12月31日のカウントダウン聖会の中では、主から、次の年に対して与えられた、言葉を受け取って語ることにしています。私は、その集会を大変期待していますし、楽しみにしています。
 昨晩、ここに来られた方はすでに聞かれたかと思いますけれど、先生方がこの前に出て来て、2011年に関して、主から導きを祈り、与えられた御言葉を語りました。それはある意味、預言的な集会でした。
 昨晩の集会には、神が与えてくださった一つのテーマがあるような感じがしました。
 そして、この1月1日の集会におきましては、私は新城教会の主任牧師として、先生方が語った御言葉をまとめて、みなさんに紹介する役割を持っています。

 6名の先生方が毎年、メッセージを語ってくださるのですが、順番も主が定めてくださると信じています。どうやって順番を決めていいのか、なかなか難しいです。年功序列か、あいうえお順で行くのか、頭の良い順で行くのか・・・、なかなか難しいところがあります。そんなのは主観的なもので、なかなか定めることはできません。やはり聖書的に行かなければいけません。聖書の中に、「主の御名によって祈ってくじを引く時、主が決めてくださる」とありますから、私たちはそれに従って、祈って、六本線を引いて、私が適当に順番を書いて、くじを引いてもらうのです。そうすると、簡単に順番が決まるんです。それも、主が定めてくださった順序であると信じます。

 昨日は、上條先生が一番くじに当たり、最初にメッセージを語りました。その次に、公畑フェルナンド先生、次に滝元明先生が予定の時間を大きくオーバーして、メッセージを取り次いでくださり、次に、岡本信弘先生、開先生。そして、最後は、四元雅也先生が締めくくってくださいました。
 一人15分という持ち時間、制限時間いっぱいの中で、真剣に語ってくださいました。ですから、いつも年末が近づくと、牧師達は主の前に、慎重に、御言葉を求めるわけです。やはり、主の前に求めて祈る時、主は御言葉を与えてくださる方であることを確信しました。

 上條先生が語った箇所は、詩篇103篇1節から5節でした。詩篇 103篇1節〜5節、

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』

 この御言葉が今年、この教会全体に与えられているテーマの御言葉であると感じました。これを主から直接与えてくださった言葉として、受け取る事ができたら、なんと幸いでしょうか。
 ここには「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」とあります。2010年のことを考えてみても、様々なことがあったかと思います。しかし振り返ってみれば、本当に感謝なことばかりだったと思います。
 私も年末になって、毎年、「本当に主が良いことをしてくださった」と感謝します。もちろん時には、「これからどうなるだろうか・・・」というような、手に汗握るようなことも教会には起こるのですが、何ヶ月も経って振り返ると、「あのことさえも使って、主は良い事をしてくださった!」と、感謝できるのです。
 今日、あまり感謝がないという人も、必ず良く変えられます。「全てのことをあい働かせて良くして下さる」と聖書は語っています。私たちは、主が今まで良くしてくださった事を、忘れてはならないのです。

 案外、人は、悪いことは長いこと覚えています。しかし、良い事はけろっと忘れます。それではいけません。この中に述べられていることは、「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせてくださる」とあります。この箇所と絡めて、昨年、チリで大きな落磐事故が起こったことを話しました。

 昨年の8月5日、チリのサンホセ鉱山という所で、8月5日は、私の誕生日ですが、その日に、大きな落磐事件が起きまして、地下700メートルに、作業員たち33名閉じ込められました。そして、なんと69日後に救出されました。
 考えてみてください。地下700メートルの坑道に、取り残されたとしたら、どんなに不安でしょうか。彼らはどんな生活を69日間、地下でしていたのでしょうか。本当に考えることができない、困難な69日間だったと思います。光は届かないし、本当にどこでどのように寝たのだろうか。トイレはどうしたのだろうか。いろいろと考えます。
 自力では絶対に救出不可能です。自分で自分を助ける事は、全くできない状況でした。

 しかし、地上で救助隊が結成され、なんと地下700メートルまでドリルで穴を空け、最終的には直径70センチの穴を開けて、フェニックスとか言うカプセルを入れて、全員を助け出しました。あれは本当にすごい救出劇でした。世界で大ニュースとなりました。
 ある意味で、それは、イエス・キリストによる救いとダブると彼は語りました。イエス様は自力で救出不可能な、どうにもならない所まで、地下の最も深い所までおりてきてくださり、私たちを助けてくださいました。
 今年は、命が穴から救われ、恵みと哀れみの冠がかぶされ、良いものを満たして下さる年でありますように。
 そのためには、まず、今まで主が良くしてくださったことを忘れずに、感謝する気持ちが大切です、と語られました。私もそのことを聞いて、昨年、チリで起こった出来事は、世界に対する、また、私たちに対する、預言的な事件であったかもしれないと思いました。

 私たちは地下にいるわけではないですが、霊的には、日本は地下のどん底で喘いでいるような国かもしれません。けれども、主は日本にも救出作戦を行ってくださることを、私は堅く信じます。

 その次に、公畑フェルナンド先生が語ってくださったのは、この2011年は、「神の奇跡の年だ」と語りました。
 みなさん、信じますか。2011年は、神の奇跡の年だと。奇跡の雨が降ると、そのようなメッセージを語ってくれました。そんな中で引用された御言葉は、マルコの福音書5章21節〜23節、

『イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」』

 これは会堂管理者のヤイロという人が、自分の娘が死にかけていて、イエス様の所に来て「助けてください!」と懇願している姿であります。
 その時、イエス様は「行ってなおしてあげる」と力強い言葉をくれたのですが、途中で、あの12年、長血を煩っている女が癒されるということがあり、少し手間取りました。
 そんな時に、何が起こったかというと、まだイエス様が話している内に、会堂管理者の家からやって来て、こう言いました。「子どもはなくなりました。なぜこの上、先生を煩わせることがありましょうか」と言って、女の子が死んでしまったという悲しい知らせでした。
 「イエス様、もうあなたが来てくださるには及ばないです。なぜなら娘は死んでしまいましたから」と。

 イエス様がちょっと寄り道していたとき、他のことをしている内に、本編となっていた娘が死んでしまったという、悲しい知らせが届いたのです。
 しかし、イエス様は何と言ったかと言うと、会堂管理者に、「恐れないでただ信じていなさい!」と語られました。
 イエス様はその家に行かれました。その家に着いた時に、どんなことが起こっていたかが記されています。
 マルコの福音書 5章38節〜43節、

『彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、中に入って、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へ入って行かれた。そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味である。)すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。12歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。』

 「人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になった」と言うのです。
 既に、その家では葬式の用意が進んでいて、子供が死んだということで、多くの人たちが駆けつけて騒然としていたのです。やはり子供が亡くなったりしたら、本当に悲しいですから、みんな取り乱して泣くのは当然だと思います。
 イスラエルの習慣では、葬式には、専門に泣いてくれる泣き女というような職業があり、そんな人まで来て、葬式の準備段階から現場は騒然としていたのです。そこには全く希望がなく、死の力だけがその場を支配していました。
 しかし、イエス様が来て何をされたかと言うと、全く希望のない、命のない少女を、「タリタ、クミ…少女よ。起きなさい」と言って生き返らせたのです。その奇跡がここに記されています。

 今年は、死人が甦るくらいの奇跡が起きたらいいと思います。今年は全く希望がない、命のないところにも主が働いてくださる年になると語られました。
 死人が甦るような神の奇跡を体験するためには、何が必要なのか、その条件が語られました。
 イエス様は奇跡を行われる前に、何をされたかと言うと、大声でわめいたり泣いたりしている人たちを外に追い出した、というのです。マルコの福音書5章40節、

『人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へ入って行かれた。』

 取り乱している人たち、大声で泣いている人たちは、イエス様の奇跡なんか期待していませんでした。イエス様が「この子供は死んだのではない。眠っている」と言ったら、あざ笑ったくらいですから。
 しかし、そのような人たちを追い出してから、奇跡を行ったというのです。これは何を意味しているかと言うと、奇跡のための条件があるということです。
 第一は、会堂管理者にイエス様が最初に言われた言葉です。「恐れないでただ信じていなさい」でした。恐れを乗り越えるということが語られました。

 そして、第二は、私たちの内側から、不信仰とか、つぶやきとか、神への不平・不満という、自分の中にある泣き声を捨てなければならない、と語られました。
 みなさん、私たちも時々、物事が動かなかったり、いくら祈っても答えがないと、不信仰になってつぶやいたり、神様に不平や不満を言うことがあるかもしれません。しかし、「それを放り出しなさい、その時に、主が奇跡を行ってくださいます。」と語られました。
 今年は、不信仰やつぶやき、神への不信感を持たず、イエス様が「ただ信じていなさい」と言われましたが、この言葉を握って、単純な信仰を持つ必要があると思います。

 そんな中でおもしろい話がされました。
 カエルたちがある時、競技会を行ったそうです。山の上まで競争して、一番になったカエルには、山盛りのハエのごちそうが提供されるという、競技会だったそうです。ハエなんかいらん、と言わないでください。これはカエルの世界のことですから。ハエは大ごちそうで、多くのカエルたちが、喜んで競技会に参加したそうです。
 よーいドンと、カエル達が、ぴょんぴょんと我先にと飛び出したのですが、最初に遭遇した場所は、岩場だったそうです。すごい急な岩場で、そこに差し掛かった時、多くのカエルたちが恐れたというのです。
 「恐ろしい。この岩場を上るのか。こんな高い所から落ちたら、死んでしまう」とか言って、ぶつぶつ言うカエルが出てきて、「俺、カエル」と言って、多くのカエルが帰って行ったそうです。それでも、恐れを乗り越えて、岩場を越えた集団があったというのです。
 しかし、その次に遭遇した場所が、なんと深い森の中だったそうです。けろっと鳴くと、けろっとこだまが響くような場所で、またみんな恐ろしくなったというのです。「こんなおばけが出るような森の中で、迷ったら死んじゃうかもしれない。俺はカエル。」と言って、またもや多くのカエルたちが帰ったそうです。集団はもっともっと小さくなったそうです。
 最後のパートは、いばらがいっぱいある所を、乗り越えなければならなかったそうです。
 そうしたら、あるカエルが言い出したそうです。「こんな所を歩いて行ったら、俺たちは串刺しになっちゃう」。またまた、多くのカエルが帰るはめになったそうです。

 しかし一等賞になったカエルがいました。ついに山頂までついたそうです。一番になったカエルの勇気を称えて、みんな大喝采。そして、ハエを山盛りもらったそうです。
 その時、インタビューアーが来て、「あなたは、よくぞ、恐れに打ち勝ってここまで来ましたね。あなたの周りの人はみんな帰ったじゃないですか。みんな恐ろしい、恐ろしいと、ぶつぶつ不満を言ったり、いろんなことがあったけど、あなたはそんなことに耳を傾けず、よくぞ来ましたね。あなたはあの人たちがどんなことを語っていたか、覚えていますか?」と、聞くと、そのカエルは「みんな何か言ってたんですか?」と言って、そのカエルは全く覚えていなかったそうです。また、聞いてもいなかったというのです。
 「なんであなたは聞こえてなかったんですか?耳が悪いんですか?」と聞くと、「いや、私はイヤホンで両耳にざわめきをガンガンかけて、歌いながら、また、新城教会のメッセージを聞きながら登って来ました。だから、そういう不平や不満を耳にしなかったんです」と答えたそうです。それで1着になったと言うのです。

 みなさん、私たちも同じです。私たちも信仰という領域の中での、戦いは、時々、不平があったり、不満があったり、神に対する不信感だとか、人に対する不信感だとか、いろいろと起こるかもしれませんが、常に主を賛美し、御言葉に耳を傾けていくならば、かならず勝利します。今年は奇跡の年です。イエス様をただ、信じていなさい。「ただ、信じなさい」ということが強調されました。なかなか素晴らしいメッセージでした。

 今日、私が代表してまとめを語っていますけれども、まもなく、先生方が語ったメッセージが、全て、文字になって皆さんに手渡されます。また、インターネットにもアップされますから、正確なところはそちらを読んでいただきたいと思います。

 次に、滝元明先生がメッセージを語りました。彼は、今、81歳ですが、今年は82歳になります。昨年、2010年では、「滝元明ミニストリー」で、6,749名の人たちが集会に参加したそうです。12月だけで、1,400百冊の「祝福への歩み出し」という本を配ったと言っていました。
 そんな中で、今年のための御言葉を求めて祈っている時に、マルコの福音書、4章1節の御言葉を11月18日の日に突然、「御言葉が打ち開かれて」与えられたと言うのです。
 みなさん、聖書の御言葉というのは、おもしろいです。普通に人ごとのように読んでいる時もあるのですが、突然、主が御言葉を通して語られる時があるのです。それが、「御言葉が打ち開かれる」時です。
 クリスチャンならば、一度や二度は経験があるかと思いますが、主が語りかけてくださるのを体験できるとは、素晴らしいです。
 そんな中で、マルコの福音書 4章11節、

『イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。』

とありますけれども、このところを読んでいる時に、「おびただしい数の群衆がみもとに集まった」と言う、このパートが主から直接語られたかのように、心に響き渡ったというのです。
 それが今年なのか、将来なのかわかりませんが、私は今年だと信じたいのですが、「おびただしい数の群衆」が、新城教会に、日本の教会に押し寄せるリバイバルが来ます、という、主からの言葉をいただいたと話しました。
 そして、マルコの福音書 4章26節〜29節、特に、29節、

『実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」』

 続けて「収穫の時が来た」と、主から語られたというのです。
 フェルナンド先生のメッセージでは、「私たちの内側から不信仰の涙を追い出しなさい」というメッセージですが、明先生のメッセージは、詩篇126篇5節、

『涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。 』

 主のために、涙を流して、誰かのために涙を流して祈る、そのことを主は覚えてくださるということを話しました。不信仰の涙はいりませんが、誰かのために、日本のリバイバルのために涙を流して祈る祈りを、主は覚えてくださいます。
 私の母親ですけれども、滝元明の妻ですが、少し病気で大変なことがあるので、彼は人前では泣かないけれど、昨年はよく泣いたと言っていました。自分の奥さんが病気だから、主の前に泣いて祈ったというのです。「助けてください。家を空けますけど守ってください」とか、やはり心が弱くなりますから、よく泣いた年でもあったと語りました。
 しかし、その中の一番の涙の祈りは、「リバイバルが起こるまで、私たちを生きながらえさせてください」という祈りであったと話しました。日本にリバイバルが起こるようにと、今までも長いこと祈ってきましたけれども、収穫の時が来て、チリの鉱山のどん底にいる人たちが救出されたように、サタンの手に捕まえられている人たちが、解放され、自由になる、そのために、私たちは、涙を流して祈るなら、必ず主は答えてくださいます。
 最後に、この箇所から語られました。詩篇126篇1節〜4節、

『主がシオンの繁栄を元どおりにされたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。」主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。主よ。ネゲブの流れのように、私たちの繁栄を元どおりにしてください。』

 これは、ユダが解放された時の喜びを歌っているわけですけれども、霊的にはリバイバルが起こった時の喜びを告げている言葉です。それは夢を見ているのかのようだと。
 みなさん、今年、目の前に繰り広げられる神の様々な業を見て、「これは夢ではないか。夢だったら覚めないで欲しい」と思うような、素晴らしい主の業が現されることを、大きく期待したいと思います。
 そして、悲しみの涙ではなくて、喜びの笑いで口が満たされるような年となります。主のネゲブの流れのように、私たちの繁栄を元通りにしてくださいとありますけれども、日本は元々、主が造られた国でありますけれども、悪魔に荒らされています。しかし神の国の繁栄が回復するように、我々は祈る必要があるのです。
 そして、最後に語った言葉は、今年は堤防が決壊するような年になると。今まで、リバイバルのために、祈りが積まれてきたけど、それが塞き止められていたけど、その堤防が決壊する年になると信じます、と語られました。

 その次に語ったのは、岡本信弘先生でした。岡本信弘先生は、2010年は結婚30周年、プレイズ出版20周年記念ということで、節目の年だと言っていましたが、年を取ると順応性がなくなるという話をし、子供たちは順応性が高いと話しました。年を取るとなかなか自分の場所から動くのを恐れるし、守りに入ると話しました。
 しかし、今回、メッセージで語られたのは、主から、「その場に安住していてはならない。向きを変えて出発しなさい」ということでした。主から語られて、はっとしたとい言いました。
 申命記1章6節〜8節に、こんな言葉があります。

『私たちの神、主は、ホレブで私たちに告げて仰せられた。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは、主があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である。」』

 実は、出エジプトを脱出したイスラエルの民は、ホレブという地で、一時、長く留まっていました。人は一つの場所に住み始めると、「住めば都」と言って、「ここでもいいんじゃないか」と安住するものです。神様はカナンの地に入れてくれると言ったけど、イスラエルはホレブまで来て、「ここもいいじゃん」という感じで、長く留まっていたようです。
 私たちも、そういう所があるのではないかと思われます。「もうこれで十分。これ以上、何を望もうか」という時があるのです。
 そんな時、神が、イスラエルの民に対してなんと語ったかと言うと、「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。そして、征服しなさい」と、神様の広大な計画を告げられました。
 彼らは神から直接告げられたのですから、すぐに出て行けば良かったのですが、彼らはそれでも心配になりました。「神様はそうは言うけど、本当にあのカナンの地を占領できるのだろうか?」と。
 そして、彼らは何をしたかと言うと、12人を選んで偵察隊を編制し、カナンの地に潜り込ませました。それで、どんなレポートが寄せられたかと言うと、申命記1章24節〜25節に記されています。その最後に、

『「私たちの神、主が、私たちに与えようとしておられる地は良い地です。」』

 それは乳と蜜の流れる地と呼ばれ、果物も大きく、素晴らしい土地でした。神様が与えようとしておられる約束の地ですから、当然のことかもしれません。
 しかし、神様から「今、攻め上って行きなさい」と語られたにも関わらず、イスラエルの民はスパイを送って、自分の目で確かめることをし、自分で判断しようとしました。
 そしてスパイたちから状況を聞きました。すると、12人の内、10人が「攻め上るのは、やめたほうがいい。あそこに住んでいる人たちは巨人で、強そうな人たちばかりだ。入ったら大変なことになるよ」と言って、反対しました。ヨシュアとカレブの二人は「攻め上りましょう!」と言いましたが、あとはみんな不信仰になりました。この事件が、イスラエルの将来を大きく変えたと話されました。
 本来は、全員が約束の地に入るという、神のプランが変えられてしまって、なんと何十万人もエジプトから脱出したのにも関わらず、カナンに入ることが出来たのは、ヨシュアとカレブの二人だけでした。古い世代の人たちは、皆、荒野で滅びてしまったのです。
 その後、彼らは上って行ったのですが、神の時に攻め上って行かなかったゆえに、勝利することが出来なかったのです。
 「攻め上るのにはタイミングがある」と話されました。私はそれを聞きながら、本当に感動しました。
 攻め上るにはタイミングがあります。主が「今、攻め上りなさい」と言われる時、即、行動を取らないと、その後、従ったように見えても、時を逃すのです。
 みなさん、私たちの人生にも「チャンス」というのがあります。今年は神様のタイミング、チャンスを決して逃さない一年にしたいものです。
 主が「向きを変えて出発しなさい!」と言われる時には、即、腰を上げて、主に従っていく、そんな者でありたいですね。
 そこで最後に語られた御言葉は、ローマ人への手紙 12章1節、

『そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。』

 自分自身を神に受け入れられる、聖い生きた供え物として神に捧げ、主の御心を求めて、時を逃さず上って行って勝利する、2011年は、主の与えられている使命を全うしなさい、と語られました。
 これは主からきた御言葉だと信じました。主は「同じ所にとどまっていてはいけません。向きを変えて出発しなさい!」と語られています。
 信仰生活も、「もう俺は、永遠の命を貰ったからこれでいい。天国にさえ行ければいい。」それではいけないと言うのです。主から与えられた使命を全うしなければなりません。
 エステルのように、「あなたがこの国に来たのは、もしかしたら、この時のためだったかもしれない」と、昨年も語られましたけれど、主がみなさんに時を与え、教会に時を与えてくださると信じます。

 続いて、メッセージを語ったのが滝元開先生でした。彼が語った御言葉は、自分の誕生日、11月27日に主から御言葉をいただいた、と語りました。開の誕生日は11月27日だったのかと、始めて兄として60年目に知ったのですが、兄弟が多くなるとそんなもんですが。
 彼は、今、ざわめきという働きをしていて、ある教会にチャーチ・ライブに行ったそうです。すると、そこは小さな教会ですが、毎回、2万枚のチラシを用意し、それも手配りで地域に配るというのです。「ざわめきチームが来て、賛美集会がありますから来てください」と。
 でも、毎回、誰一人、チラシでは来ないというのです。でも、2万枚、必ず配ると言うのです。費用対効果が悪く、全く無駄な事ですよね。そんなチラシは配らないほうがいいじゃないかと。
 しかし去年行くと、また配っていたというのです。でも、今回は、3人の新しい人が来たというのです。それで、すごく喜んでいたという話をしました。
 その教会に出かけて行く時、主が与えてくださった御言葉だと語っていましたけれど、エゼキエル 37章1節〜10節、

『主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」
主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」
私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。
そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。』

 これは、エゼキエルが見た幻です。谷間にひどく干からびた骨が満ちていたというのです。そこに対して預言しなさいと。「息よ四方から吹いてこい」と。「殺された者たちに吹き付けて彼らを生き返らせよ」と。
 普通ならば、絶対にありえないことで、絶対に不可能なことです。しかし、神はそれを命じられたのです。
 その時に何が起こったかと言うと、骨がカツン・カツン・カツンと繋がって、なんと筋がついて、肉が生じて、皮膚が生じて、人が形作られ、やがて神の息吹がそこに吹き込まれ、非常に大きな集団が立ち上がったという幻でした。

 開先生夫妻が、12月に、ある特別養護老人ホームに慰問のコンサートに行ったそうです。そこに行くと、おじいちゃんおばあちゃん達が50人くらい入所していたそうです。すると館長さんが、「ここの人たちは皆、認知症です。ボケています。だから、何を言ってもわからないですよ」と言われたそうです。
 案の定、彼らが歌い始めると、おじいちゃんおばあちゃんは、ほぇ〜という感じで、自由気ままにしていたそうです。だから、歌いながらむなしく感じたそうです。何のために歌ってるんだろう、というような感じであったそうです。50人のじいちゃんばあちゃんは不思議な動きをしていたそうです。
 しかし途中彼が、ぼけているおじいちゃんおばあちゃんに向かって、「皆さん。私は何歳だと思いますか?」と質問したそうです。すると、一人のおばあちゃんが開先生に向かって「25歳!」と言ったそうです。
 すると、その途端、みんながばっと彼のほうを向いて、「そんな馬鹿な!」という目で見たというのです(彼は50才です)。それから、彼らの中に息が入ったような感じで、その日のコンサートはたいへん祝福されたそうです。喜んで、聞いてくれたというのです。

 時々、この人に語っても絶対無理だ。止めたほうがいい、というような、ひどく干からびた骨のように見える領域でも、神の息がそこに吹きかけられる時、生き始めて、最後には大きな集団になるくらいの主の業が表される、というメッセージでした。これは、素晴らしい希望のメッセージじゃないですか。
 日本を見たらどうでしょうか。霊的には全員、認知症みたいなもので、何を言ってもわけがわからん人々の集団のように見えます。そんな状況の中で伝道しても無駄なように感じます。
 事実、日本の教会は本当に苦戦しています。感謝なことに、新城教会は祝福されていますけれど、日本の教会の3分の2は、数年間、誰一人として洗礼を受けていないという統計です。だから、日本の教会も疲れていて、「何をやってもだめだ。干からびた骨の谷、それは日本だ」と思っています。しかし、そんな所に「息に預言して言え」と、主は言われます。

 「息よ四方から吹いてこい!」と、私たちが全く不可能だと思うような、命がないところにも、「息に預言して言いなさい。」と言うのです。「息よ四方から吹いてこい!」と宣言する時、そこに命が吹き込まれるのだと。
 この2011年には、そのようなことが起きると、主が語られています。

 みなさんにとって、ひどく干からびた骨の谷はどこにありますか?いろんな所にあるのではないかと思います。「私の家族はひどく干からびた骨のようだ。救われるわけないよ」、「この問題、ひどく干からびた骨のようで、今まで長いこと祈ってきたけど、いくら神様でも無理だ。出来っこないよ」と、自分で決めてしまうようなところがあるのです。
 しかし、今年は、その不信感とか、私たちの内側の否定的な神への泣き虫を追い出せと、フェルナンド先生も語りましたが、不信仰を追い出して、息に預言して宣言せよと。「息よ四方から吹いてこい!」と。

 昨日は、彼のメッセージの最後は、4回、「息よ四方から吹いてこい!」という宣言で終わりました。
 みなさん、「息よ四方から吹いてこい!」と宣言して、今年は主の奇跡の年となるように、信仰を持って祈ろうじゃありませんか。大きな希望のメッセージでした。

 そして、最後は、四元雅也先生でした。彼は今回、初めてのラストバッターでありまして、ちょっと緊張したと語っていました。彼が導かれた聖書の箇所は、第一コリント人への手紙10章12節、

『ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。』

 この一つの御言葉からどういうメッセージをされるのかと思いましたが、なかなか深いメッセージでした。ぜひとも印刷物のほうも読んでいただきたいと思います。
 この「立つ」という言葉には、多くの意味があって、「ただ地面に垂直に立っている」という意味だけでなく、自分の立ち位置とか居場所という意味があると語られました。そして、「みなさんの立ち位置はどこですか?」と問われました。
 みなさんも教会に来られている時は、クリスチャンとして集まっておられますが、家に帰り、会社に行ったら、違ったポジションがあります。みなさんの立場、遣わされている場所は、それぞれです。新城教会には、日本にある職業ジャンルの7、8割はカバーしているかもしれません。大勢の方が来ておられますから、いろんな職業の方がいて、いろいろな領域で活躍されているわけです。
 「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」とは、まず自分の立場がどこにあるかを、しっかりと確認しなさいという意味だと語りました。
 そして、ルカの福音書 14章28節〜32節、

『塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、「この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった」と言うでしょう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。』

 「塔を築く」ということに関してですが、この話は、どのような文脈で話されているかと言うと、14章27節から見ると、「イエス様の弟子となる」とはどういうことかを教えていると言います。
 イエス・キリストを信じた者は、イエス様の弟子なのですが、イエス様の弟子とは誰かが、25節から27節に書かれています。
 ルカの福音書 14章25〜27節、

『さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。』

 なかなかイエス様は厳しいことを語られました。みなさん、私たちがイエス様の弟子となるということは、「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができない」と言われるのです。
 イエス様の弟子とは、自分の家庭、親族以上に、イエス様を優先しなくてはならないのです。なんと、それらを捨て去るほどの気力がなかったら、弟子になることはできないと、結構厳しい事を語られました。
 その話に続けて「塔を築く」という例えを語られました。イエス様の弟子となるというのは、ちょうど「塔を築くようなもの」だと言う事です。それは、全てを捨ててイエス様に従って行くとはどういう意味かを、そこで具体的に説明しているわけです。それは、自分の行ってる働き、立っている場所、それらすべてを主の手に委ね、捧げないといけないと話されました。

 私たちは、案外、自分の家族が最優先であったり、また、会社が自分の最優先であったりと、様々な優先順位を持っているのですが、最優先となっている自分の立ち位置を全て、神にささげて塔を建てる事、すなわち、その仕事に専念する事が、イエス様の弟子となることであるわけです。そして、そこから、主はリバイバルを始めると言うのです。
 私たちはいろいろな優先順位の中で生きているのですが、その中で、主の弟子としてのプライオリティーを持たなければなりません。今、私たちは、家庭に遣わされ、会社に遣わされ、学校に遣わされ、様々な場所に遣わされています。そこで私たちはイエス様を最優先順位にして、主の弟子として、塔を建てて行く、主に従い続けて行くのです。その時、主はそこで大いなる業を行って下さるのだと語られました。
 リバイバルはどこから始まるのかと言うと、教会の中から始まるのではなく、みなさんが社会において置かれている現場から、始まるのです。主婦ならば、家庭であり、ご主人なら仕事場であり、学生たちであれば学校であり、置かれている立場から、主は働きを始めたいと願っておられるのです。
 そのためにも、私たちは優先順位を主にささげる必要があります。
 最後に、ユダの手紙1章20節が引用されました。

『しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、』

 私たちが最も聖い信仰の上に塔を築き、そこに、神の栄光が現されるように、主にお仕えすることが大事ではないかと、聞きながら感じました。
 今年は、みなさん方が置かれている立場で、主は働きたいと願っておられると思います。そのためには、遣わされた場所で、主のための塔を建て、霊的戦いの勇士として働きましょう。そのために、主があなたをそこに送られたのです。

 このように、6人の先生方のメッセージを聞きますと、一つの流れがあるような感じがします。私たちが遣わされている場所で、主は業を行いたいと願っておられるようです。主から派遣された者として、最も聖い信仰の上に、自分自身を建てあげ、主に全てを捧げて働いていきたいと願います。

 最後に、私に、主から与えられた御言葉を少し付け加えさせていただいて、最終的にまとめた「2011年に対する預言的メッセージ」を紹介させていただいて、終わりにしたいと思います。
 どのような御言葉が与えられるのだろうかと期待していました。そしてこの頃、主から導かれている御言葉は、礼拝のメッセージの中で語らせていただいていますが、この年末、忙しかったのですが、さらに祈ってる中で、主が私に一つの御言葉を与えてくださいました。それが、エペソ人への手紙1章7節〜10節です。

『この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。』

 10節に「時がついに満ちて実現します」とありますけれども、エペソの1章は、やがて主の日が来ることを、預言している箇所でもあるわけですが、主が帰って来られる再臨の日も、神の前においては、神の時、そのものです。今回私は、この「時がついに満ちる」というキーワードを、与えられました。
 マルコの福音書1章14節〜15節を見ても、イエス様が宣教の第一声として、何を語られたかと言うと、

『ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」』

 「時が満ちました」と語られました。神様は時を支配しておられるお方です。そして「時が満ちる」という、瞬間があるというのです。
 ギリシャ語には、時の概念が二つあると聞きました。一つは「クロノス」という言葉と、もう一つは「カイロス」という言葉があるそうです。
 「クロノス」というのは、腕時計で「クロノス」という名前がついている製品がありますが、継続的な時の流れを表す言葉だそうです。
 私たちは、2010年、2011年、2012年と、時の継続の中で生活しているのですが、そんな中に、もう一つ、「カイロス」という、「特定の時」を神はお持ちになっておらます。
 「カイロス」とは、どういう概念かというと、コップに水を注ぎ始めると、だんだんとクロノス的に水の量が増えていきます。そして、最後に、コップに水がいっぱいになって、どっと溢れ出る瞬間があります。その溢れる瞬間は一瞬です。この瞬間を「カイロス」という言葉で表すそうです。
 今年は神様の中にある一つの「カイロス」、神の時が実現する年であるという印象を私は今、持っています。

 1992年に、愛知県民の森で祈っていた時に、突然、聖霊様が訪れてくださいました。それからこの教会に霊的戦いが始まり、大きく変えられました。それは、人の手によらず変えられていきました。今年で19年が満ち20年目に入るわけですが、あの時のことを考えると、突然起こったように見えますか、愛知県民の森では1970年から、毎年、冬になると全国から牧師たちが集まって、日本のリバイバルのために祈っていました。そして、新城教会においても、1988年からだったと思いますが、毎週、月曜日と水曜日、2回も山の頂上に行って、リバイバルのために真剣に叫び祈っていました。
 そんな祈りが積まれる中で、すると突然という形で、1992年、2月13日のことでしたが、主が訪れてくださいました。神は継続される時の中で、さらに特定の時を用意しておられるのです。
 そして、この2011年が、神が定められた特定の時であると、私は信じています。マルコの四章のところを、明牧師も主から示されたと言いましたけれども、
 マルコの福音書4章28節〜29節、

『地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」』

 「収穫の時」も、農業をされている方は分かると思いますが、特定の時です。種を蒔いて、作物というのは、だいたい四ヶ月くらいで実を結ぶそうですが、収穫の時期を逃したらどうでしょうか。作物は腐ってしまいます。「収穫の時が来た。でも、忙しいから、明日にしよう、明日にしよう、明日にしよう…」と言っていると、せっかく実が熟しているのに、熟しすぎて商品価値がなくなってしまいます。収穫には、特定の時があるのです。
 今、ここにあるように「実が熟すると、人はすぐに鎌を入れます。」とあります。神の特定の時を迎えたら、すぐに鎌を入れるという、神の時に即応できる者にならなかったらいけないと教えられました。
 今年、教会においても、また、ひとり一人の人生においても、神様が、「特定の時」、「カイロス」を持っておられると信じます。その時に、即、対応できるように祈りましょう。
 イスラエルも「向きを変えて出発しなさい!」と言われた時に、すぐに行動せずに、「スパイを送ってその地を実際に見てからにしよう」とか言っている内に、時を逃してしまったのです。
 絶対に、リバイバルの時を逃してはいけません。日本のリバイバルも同じだと思います。時を逃さないで、私たちは神の時を捕まえる、2011年になりたいものです。

 最後に、2011年に対して私を含め、7名の牧師たちに与えられた事柄も凝縮して、私の独断でまとめた「2011年に対する預言的メッセージ」をみなさんに紹介したいと思います。これは私が預言者としてみなさんに語るということではありません。語られた事柄を凝縮すると、こんなことではないでしょうかという「まとめ」です。その中には、私の願望も入っているかもしれませんが、吟味して聞いていただきたいと思います。

2011年に対する預言的メッセージ

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。』

 昨年、チリの鉱山で起こった事件を思い出しなさい。地下に閉じ込められた人々は、自分の力ではどのようにしても、地上に出ることは不可能でした。しかし、地上からの一方的な救援活動によって、全員無傷で地のどん底から救出されました。
 2011年はあの救出劇に象徴されるような、奇跡の年となります。人々の命が地獄の穴から救われ、病がいやされ、恵みと憐れみの冠が与えられる年となります。

 わたしは今年、多くの奇跡を用意しています。今まで、どうにもならなかった領域に奇跡を現します。ヤイロの娘が生き返ったように、不可能が可能となるのです。
 奇跡を止める不信仰、つぶやき、神への不平・不満の泣き声を追い出しなさい。恐れを捨て、ただ、わたしを信じなさい。

 あなた方が長年にわたって、リバイバルの為に流した汗と涙をわたしはよく、知っています。今年は、今までせき止められていた、リバイバルの堤防が決壊する年となります。
 準備しなさい。安住の地にとどまっていてはいけません。みこころをさらに求め、攻め上りなさい。絶対に不可能と見える領域に対しても、神の息を宣言しなさい。ひどく干からびた骨さえも生かす、わたしの霊によって預言しなさい。「息よ四方から吹いてこい!」と。

 あなたの立場、遣わされている場所を確認し、わたしについてきなさい。そこからわたしは働きを始めます。収穫の時を見逃してはなりません。実は熟しています。おびただしい群衆がわたしの元に来ます。なぜなら、神の時が来たからです。


 この言葉を新城教会に、また、皆様方に主から与えられた言葉として、信じられるでしょうか?2012年の1月1日に、「まさしく2011年から、主が業を始めてくださった!」とふり返り、言えるような一年でありたいと願っています。
今年、リバイバルの年であると信じて、希望を持って進んでいきたいと願っています。

 「息に預言していいなさい」と、「息よ四方から吹いてこい」と、その賛美を歌いたいと思います。
 最後に一言、お祈りさせていただいて、私のメッセージに変えさせていただきます。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。あなたが2011年に対して、語ってくださったことを心から感謝します。これは、主から、教会に与えられた御言葉であると確信して、主の御名をあがめます。
 主よ、私たちをそのために整えてくださいますように。あなたの業に間に合うものとさせてくださいますように。
 今年こそ、私たちが祈っているリバイバルを、見ることが出来ますように、お願いします。主の御業が、この2011年に、大きく広がって行きますように。深く広がって行きますように。
 そして、私たちが遣わされた場所において、業を行ってください。私たちが聖い生きた供え物として、主の前に出ることが出来ますよう、お願い致します。
 収穫の時を見逃すことがないように。聖霊様が、私たちを導いてくださいますように、お願い致します。
 この新年礼拝の時を心から感謝します。あなたの臨在がここにあることを、心から感謝します。尊いイエス様の御名を通して、祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。