HOME > 2011年バックナンバー > カウントダウンメッセージ2011年12月31日

カウントダウン・ワーシップ

2011年12月31日(土)

滝元開 牧師、公畑フェルナンド 副牧師、滝元明 牧師
岡本信弘 牧師、四元雅也 副牧師、上條実 牧師

滝元開 副牧師

開師.JPG ハレルヤ!2011年のこの最後の日をこの場所で、健康で迎えられることを心から感謝いたします。

来年に向けて与えられた御言葉をお読みしたいと思います。コリント人への手紙第一 九章十九節〜二十三節、

『私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。律法を持たない人々に対しては、‐‐私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが‐‐律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。』

 二〇一二年に向けこの御言葉が主によって与えられ心から感謝しています。私たちは今日、平和な内にこの日を迎えていますが、二〇一一年は激動の年だったように思います。そして、本当に大変な年であったと思います。毎回この年を越すこの瞬間、例年ただただ主に感謝の言葉だけを捧げて来たのではないかと思うのですが、今年は、何かが違っているように感じます。三月十一日の大震災を通して、日本に未だかつてなかったことが起こったことのゆえに、まさしくこの終わりの時代の最終章が幕開けしたようなそんな印象を持ったことと思います。そんな中で、私たちは、「これからどうしていけばいいのか」と、誰もがそんな気持ちになったと思います。受け取りきれない、そして、消化しきれない出来事の故に、神様は何をされようとしているのかと思い巡らすものです。二〇一一年、リバイバルを信じて、今年こそ、主の新しい御業が起こされると期待しました。希望に満ちた御言葉をたくさんいただいて出発したものですから、今年こそ主は何をしてくださるのだろうという、大きな期待の中で始まった二〇一一年でした。けれども、あの三月十一日を通してすべてが一変してしまったわけです。しかし、神様が約束された御言葉というものは、たとえ天地が滅び去っても一点一画、何一つ変わらないものなので、神様の約束とその御言葉に立って歩んで行かなければならないと強く感じています。

 個人的なことなのですが、十月七日に我が家にとって大事件が起こりました。私の娘の大親友が突然、交通事故で命を落としてしまったのです。娘がとても仲良くしていた子だったゆえに、大きな悲しみに襲われました。彼女は、よく教会に来ていましたし、高校時代には必ずレッツプレイズにも来、さらに、高校を卒業してからも、何度も何度も一緒に遊びに行ったり、韓国に一緒に行ったり、度々教会に顔を出していました。この夏の私の娘の誕生日にはピンポ~ンと家に来て、手作りのバースデーケーキを持って、「お誕生日おめでとう!」って言って明るく来てくれた子が、突然天に帰って行きました。ただ彼女はまだバプテスマを受けてなかったのですが、彼女はイエス様の元に行ったという確信を持ちました。でも、ただ、どうしてこのような事が起こってしまったのかと、受け取りきれず、消化しきれない現実がありました。そんな中ある日、私の娘に与えられた御言葉が、伝道者の書三章十一節でした。

『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。』

 娘がその大きな悲しみの中、この御言葉が与えられたと言って来ました。『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。』神様のなさることはすべてのことが時にかなって美しいんだと。
 この大きな悲しみを通して、三月十一日の出来事も、神様の手にもう一度お返ししようという、そのような気持ちになりました。この三月十一日の日本の現状も、永遠という神様の時の中の一つの出来事で、目に見えるものは一時的だけれども目に見えないものこそが大切なのだと、第二コリントに書かれていますけれども、目に見えるところでは、どうなってしまうだろうと思うようなことも、永遠という神様の手の中に、その家庭に起こった出来事から、日本に起こった出来事に至るまで、神様の手にお渡しする時に、すべてが時にかなって美しい出来事に変わる日が来ることを固く信じています。『神はまた、人の心に永遠を与えられた。』とありますが、永遠を支配される神様ご自身の手の中にすべての出来事をお返しするとき、やがて私たちが日本のリバイバルを手にした時に、「あの日、あの時があったから今があるんだ」という時が必ず来るんだと、そのようなことを強く教えられました。

 二〇一二年に対する神様のご計画というのは、二〇一一年以上に素晴らしい祝福の年であると信じます。新たに多くの約束の御言葉をいただき、リバイバルの大きな計画があることを堅く信じています。詩篇 六十一篇二節、

『私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。』

 これはダビデが語った言葉ですけれども、ある意味、この年は、この日本が痛めつけられて、大きな苦しみの中で、私たちの心は衰え果ててしまったようなところがあったと思うんですけれども、主がこれからくださろうという祝福は、この御言葉にあるように、『私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。』と、私たちの考え及ぶことのできないほど、高い所に主は私たちを導こうとされていることを堅く信じています。
 そしてまた、申命記 一章十一節、

『どうかあなたがたの父祖の神、主が、あなたがたを今の千倍にふやしてくださるように。そしてあなたがたに約束されたとおり、あなたがたを祝福してくださるように‐‐ 』

 及びがたいほどの祝福。神様がくださるリバイバルの祝福と約束は、私たちが信じられないほどの大きな恵みなのです。ここでは、今の千倍に増やしてくださるとあります。三十倍、六十倍、百倍の祝福を神様は与えてくださいますが、それどころではなくて、千倍の祝福を与えるんだと。それほどの神様のご計画が、この末の日のリバイバルという計画の中にあるということを、一つ一つの出来事の中で、この御言葉が与えられて心から感謝しています。そして、神様がこれから与えようとしているリバイバルのためにさらに心を備えて、主に期待すると共に、主がお与えくださるものを受け取ることのできる者にさせていただかなければならないと強く思っています。

 先日はレッツプレイズがありましたが、今回は本当に祝福されました。中高生の兄弟姉妹ががんばって友達を誘って、ノンクリスチャンの子だけで、百三十九名、全部で二百五十名の人たちが集って行われました。レッツプレイズが始まったのが一九八四年なのですが、過去最高の中高生が集い、大きな恵みが注がれた集会でした。
 レッツプレイズのとりなしの祈りのためにいろんな所を回りました。中高生のみんなと近くにある東高校の前にも行って祈って賛美しました。レッツプレイズが始まった頃からよくあの学校の前で祈ったのですが、今回祈った祈りは、「今までここで祈られた祈りのすべての祈りの上に、祈りが積まれ、今回はかつてない恵みが注がれるように。二十数年分の恵みが一気に注がれるような集会となるように」という祈りをしました。
 そして、その当日を迎えましたが、その朝与えられた御言葉が、第一コリント人への手紙 二章九節、

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

 神様がくださるその恵みというのは、まだ『目で見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。』その御言葉が与えられて、レッツプレイズの当日を迎えましたが、今回は本当に今までにない主の祝福が注がれました。この二〇一二年に対して神様が用意しておられることは、まさしくそのような祝福であると、堅く信じて、前進していきたいと心から思っております。
 ですから、私たちはこれからいよいよ魂の救いと収穫の御業を見させていただく年に入って行くことと思いますが、そのような流れの中で与えられた御言葉が今日お読みした御言葉で、第一コリント九章十九節〜二十三節です。
 これはパウロが「一人でも多くの人を獲得するためには、すべての人のようになった」と書かれていますので、私たちがこれからの福音のためにすべての人を獲得するための働きをさせていただきたいと心から願っております。

 今年もザワメキの働きでいろんな所を巡らせていただいて、いろんな主の恵みが与えられました。今年は、そんな中でいろんな人たちに出会う機会が与えられました。ある集会では、カトリックの信者の方たちが来てくださって、ザワメキの賛美集会で手を挙げて歌っておられたり、また、様々な他の宗教の方たちが多く来てくださいました。創価学会の人だったりして、そういった人たちは歌うことはしないんですけれども、一生懸命歌は聴いているんですけれども、聖書を持って話し出すと、なんか唱え出すというような人がいらっしゃったりしました。抵抗しつつも喜んで帰られるのです。また先日は、甲府の駅の構内で歌いました。その時、主催された牧師先生が心配しておられて、「宗教色を出してしまうと困るから」ということを言われたそうなんですが、そのコンサート中、市の職員の方がずっとおられました。でも、私たちはいつも通り賛美をし、そしてイエス様のことも伝えつつ歌いました。二回のコンサートを行ったのですが、二回とも市の職員の方が来られて監視されていました。その方がコンサート後にこう言われました。「今日仕事でなかったら良かったんですけどね。『勇気を出して♪』本当に良かったです。」と、すごく喜んでおられました。その時はまた、ホームレスの方も来てくださっていて、ホームレスの方もすごく真剣に聞いておられました。四人の方がいらっしゃったので、最後に「お祈りしましょうか?」と言うと、「俺はいい」とひとりは逃げて行くんですけれども、その他の三人は一緒に手を繋いで丸くなって祈りました。「イエス様の祝福が注がれますように。アーメン!」と言ったら、彼らもすごく喜んで「ありがとう」と言っておられました。
 またある教会では「共産党を二十年間してきた。そこでは何もいいことがなかった。今日来て良かった」と言って賛美の中で触れられ、涙を流しておられる方がいらっしゃいました。「これからもう一度、神様というものを探して行きたい」と言ってイエス様のところに来られた方がいらっしゃったりと、この他にも、この年の暮れのいろんな場所での集会を通して、いろんな宗教の人であったり、いろんな種類の方々と出会わせていただく中で、聖霊さまは強く押し寄せるかのように、その様々な方々に届いておられました。このような中で、二〇一二年に対して、神様がくださった御言葉は、『すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。』でした。これから、さらに、様々の方々が、主によって送られてくると信じています。私たちは、そのすべての方々を獲得するためには、すべてのものとならなければならないのです。
二十六章の最後の御言葉に、『私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。』と書かれています。新共同訳では、『福音のためなら、わたしはどんなことでもします。』と書かれています。また、口語訳を見ますと、『福音のために、わたしはどんな事でもする。』と書かれています。
 『福音のために、わたしはどんな事でもする。』そのような二〇一二年にさせていただきたいと本当に心から願っています。主のリバイバルの約束は変わらず、必ず大いなるリバイバルのご計画が始められていくと信じております。そのような中で、主に与えられた私たちの命をもって、「私は福音のためにどんなことでもする!」そのような一年にさせていただきたいと心から願っています。以上です。ハレルヤ!

公畑フェルナンド副牧師

フェルナンド師.JPG ハレルヤ!この二〇一一年、神様は私たちを守ってくださいました。本当に感謝します。そして、みなさん、私たちのために、インターナショナル部会のために祈ってくださり、本当に感謝します。
 通訳をつけないといけないので、他の先生たちよりも僕の時間は半分くらい短いですけど、メッセージに入りたいと思います。私は、普段そんなに話す人ではありませんが、メッセージの時にはたくさん話しますので、短くまとめるのは本当に大変ですけれども、がんばります。

 今晩、私に与えられたメッセージは、「あなたの最高の時は今!」というタイトルです。このメッセージは、イザヤ書 六章一節~八節を元にしています。

『ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。』

 預言者イザヤがその召しを受ける前、ウジヤ王が死んだことを悲しんでいました。ウジヤ王が死んだことで、彼の希望が去ってしまったと考えていました。なぜならウジヤ王はイスラエルの中でも最も良い王の一人であり、神に対してまっすぐであったので、神は他の王たちよりも彼を祝福したからです。ウジヤが五二年間、王であったときが、イスラエルの歴史の中でもっとも繁栄していた時期でした。しかし今イザヤは心配をしていました。なぜならその子ヨタムが王座を継ぐことになっていたからです。 そしてヨタムにはアハズという息子がいましたが、すでにその悪名は王宮で知られていたのです。それがイザヤを不安にさせていました。なぜならアハズが王になった時には、必ず飢餓、戦争、敗北、疫病、破壊などが起こるだろう、と考えたからです。悪い王が統治するといつもこの様な事が起こってきたからです。
 イザヤがこの様なことに思いを巡らせ、ウジヤの王座が空の状態になっている時、神はイザヤに一つの幻を見せました。それはちょうど神ご自身の王座でした。イザヤはもはやウジヤ王の空の王座ではなく、神ご自身の王座を見ていました。

 おもしろいのは、イザヤは王の助言者としての居場所を失ったと考えていたのですが、歴史を見ると、イザヤがこのほんの少しの栄光を体験した後、次に続くの四人の王たちにも助言者として仕えました。王位を継いだその王たちの右腕として活躍したのです。彼は最も不安な人生から、神にあるもっとも良い人生へと変えられたのです。それは、今日、あなたの最悪な時を、神にあって最高な時へと変えることができるということです。
 そのために必要な事はただ、神の栄光を見ること、ただ神の聖さの美しさを見ること、誰が本当に世界を治め、王座に座っているかを見ることです。問題、不確かな事、来ようとしている大変な時期ばかりに目を留めていると、「預言されたような良い一年ではなく、あなたにとって気が重い一年だった、またおそらく失望の一年だった」というかもしれません。「なぜ答えがないのか?」と思っている人もいるかもしれません。
 しかし神はそれを変え、転換される方です!神は最悪な時を最高の時に変えるお方なのです。

 私には、あなたの「答えがない問題」というのが何であるのか知らないですし、あなたを気落ちさせる問題や、失望も何であるか分かりませんが、しかし確かに言えることは、この年は最高の年となる、ということです。なぜなら神様があなたの王座に座っておられ、だれも神をそこから動かすことができないからです!
 たぶんこの中には自分の子供のことで悩んでいる親ごさんや、悲嘆にくれている方などがいるかもしれません。しかし、神様はそのような苦悩を祝福に満ちた時に変えてくださいます!人間に目を留めるのではなく、ウジヤではなく、本当の王座に座っている方を見ましょう!神こそがあなたの希望なのです!主の道に歩まない子供たちも、主の道を行くようになります。なぜなら最悪な時から最高の時が来るからです。神は時をとり変え、また時を変えてくださいます。
 イザヤはウジヤの次に誰が王座に就くのだろうと不安になっていました。そのとき神は天の王座の幻を見せました。他の言葉で言いかえるなら、神様はイザヤの視点を変えられたのです。そして彼に言いました、「地上の現実の世界を見ないで、天の世界を見なさい」と。「あなたに見えなくても、最高の時は今であるよ」と言われたのです。

 私の祈りは、今晩ここにいるすべての人の目を神様が開いてくださり、苦しい問題を見ている目を、祝福を見る目ににとり変えてくださることです。

 また、一つの幻があなたを変えます!エリシャの召使であったゲハジはアラムの軍勢に包囲された時、そこには3万の軍隊と馬が町を囲んでいるのを見たときに、彼は、「どうしたらいいのでしょうか?」と聞きました。エリシャは「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と答えました。そして、エリシャはこの神を信じない召使のために祈りました。すると神は、この召使の目を開き、何千何万もの天の軍勢がエリシャたちを取り囲んで守っているのが見えたのです。そして彼らは助かりました。
 それと同じように、神はあなたに一つの幻を見せてくださいます。神はあなたのすべての家族を救われます。また、神はあなたを養います。神はあなたのために正義を行われます。言い換えるなら、「心配しなくていい、私はあなたを私の右の手で支え、あなたを離れず、あなたを見捨てない」と主は言われているのです。

 今お読みしたイザヤ書のところには、「セラフィム」というのが出てきますが、セラフィムのひとりは、火ばさみでとった祭壇の燃えさかる炭をイザヤの唇に触れさせたと書いてあります。『燃えさかる炭』とは何の意味でしょうか?燃えさかる炭とは神があなたの言葉使いを変えられるということで、新しくするということです。
 もし私たちの唇に燃えさかる炭があるなら、私たちは批判などしません。また不平を言いません。しかしもしないなら、主に燃えさかる炭を私たちの唇に触れさせていただく必要があります。悪いうわさ話や、批判や、人に指をさすことはやめましょう。人を指差す時には常に、指3本で自分をさしているのをご存知でしたか?
 すぐにこの地上のことを見ずに、王座にいる方を見るなら、あなたは家族の救いを見ることでしょう。あなたの蓄えが豊かにあることや、あなたの健康や、いろいろな祝福を見ることができるでしょう。たぶん今、あなたの財布は空っぽかもしれないですが、神はあなたのすべての必要を、キリスト・イエスの栄光の豊かさの中で備えてくださいます。神の王座を通してあなたのお父さん、お母さん、そしてあなたの子供たち、家族全員を見てください。神は王座に座って、常にすべてを支配しています。あなたの家族が神を賛美している姿を見てください。あなた自身が人生の危機から抜け出しているのを見てください。神は最悪な時を、あなたの人生のうちで最高の時に転換してくださるからです。
 神は病気にさせる方ではありません。いやす方です!神はあなたを祝福される方です。神はあなたを穴から救いだされる方です。神はあなたのすべての不義を赦してくださり、すべての病をいやしてくださる方です。なぜなら神は今もその王座に座っておられます。
 聖書にこのような御言葉があります。ヤコブ書 一章十七節、

『すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。』

 私は、神がこの日本をその王座から支配されていると知っています。私たちはこの国の大きなリバイバルを見ることになるでしょう!

 このメッセージをこれで終わりたいと思いますけれども、おぼえてください。兄弟姉妹たち。あなたの最高の時は今です。この年はあなたの勝利の年、また征服の年になります。神は私たちに新しい幻をあたえ、新しい言葉を与え、新しい力を与えてくださいます。それは神のために働き、仕えるためです。また私たちは高く上げられ、回復が与えられ、元気が与えられ、働きの実を見ることができるようになり、聖霊が私たちの中に動きまわるのを見て、この教会に今までなかったほど、新しい葡萄酒がそそがれるようになります。教会にとって、また私たち一人ひとりにとって、救いと奇跡の年になります。おぼえてください。あなたの最高の時は今です!

滝元明 牧師

明師.JPG ハレルヤ!まず感謝したいと思います。今年もみなさんが私たちのために祈ってくださって、こうして健康でみなさんの前に立つことができ、心から感謝します。
 今年は、全日本リバイバルミッションの働きは韓国でありましたし、九州でもあったわけですけれど、本当に感謝なことに韓国もすごく恵まれました。特に、私の家内も一緒に韓国に行くことができたことは、恵みでした。それから、九州の集会もすごく恵まれまして、良い集会を持つことができたことを感謝します。
 そして、みなさんが、私のために祈ってくださって、特に、「滝元明ミニストリー」で忙しい時を持ちましたけれど、正直言ってこの教会にいる時間が少ない年でしたけれども、感謝なことに、主によって守られ導かれたことを感謝します。

 ある意味で、みなさんも同じだと思いますが、今年は私にとって、今までになく涙を流した年ではないかと思います。やはり三月十一日のあの震災があって以来、本当に悲しいというか、東北の人たちのことを考えると、本当に涙を流しました。
 三月はアメリカに行って、アメリカの教会を回りましたが、白人の教会、韓国の教会、日本人の教会、黒人の方々の教会にも行きましたが、どこでも日本のために泣きながら祈ってくださいました。ミニストリーの時には震災の映像を出して、東北の状態をみんなに見せたのですが、東北のためというよりも、日本のために涙を流した時でした。しかし、そういう中でも感謝なことは、日本人の心がだいぶ変わってきたということだと思います。
 私とロンさんが回ったミニストリーだけでも、だいたい六千人の人たちが集まりましたが、最後にイエス様を求める人、決心する人たちに私の本を差し上げたのですが、大勢の方が心を開いて受け取りました。苦しみを通して、日本に何かが起こっています。「これから主が、大きなことをしてくださるに違いない」と一つの期待をしています。

 世界のことを考えても、これから一体どういうことが起きるのかと、非常に大きな希望があります。
 つい最近、十二月二十九日の晩に、私は家内と一緒にテレビを見ていました。その番組は、ビン・ラディンが殺害された映像でした。みなさんも見たかもしれませんが、前編、後編とアメリカが長い間ビンラディンを追跡し、ついに居所を見つけて、パキスタンで殺してしまったという映像でした。すごいと思いました。アメリカでテロ事件があって九年間の間、犯人を探し続けてついに殺してしまったのです。
 それから、チュニジアでは一月に民主化運動が起きて、大統領が失脚したり、考えてもいなかったのはリビアのガダフィ大佐が死去したことです。
 ガダフィが天下を取った時分に、私を導いた先生がこんなことを言いました。「反キリストになる人物はガダフィかもしれない」と。しかしガダフィも四十年、独裁政治をやったわけですけれど、ついに失脚し殺されてしまいました。それからエジプトの大統領も失脚したとか、つい最近は北朝鮮の指導者も死んだとか、世界を悪で牛耳ったような人物たちが死んだのが二〇一一年でした。二〇一二年は一体何が起こるか。これは神様に期待すべきだと思います。

 きっとイエス様の再臨の前に、大きなリバイバルが起きるに違いないと思います。私はそのような確信を持っています。
 私たちが願い求めていることは、リバイバルです。この教会にも大きな神の業が現されることを期待していますが、全世界に主が素晴らしいことを始めてくださると信じています。

 特にこの度のいろんなことを考え、二〇一二年に対して、いろいろと御言葉を準備したわけですけれど、私は「使徒の働きの二章」のところからお話ししようと準備していました。特に、『青年は幻を見、老人は夢を見る』と書いてありますから、私も老人ですから夢を見て、夢を話そうと思っていました。
 しかし今朝、私と家内がエレミヤ書を毎日読んで祈っているのですが、今日の聖書の箇所が、『夢の話をするな』とありました。「いやいや、これは駄目だ・・・」と思い、私も祈り直しまして、もちろんこれは偽預言者の夢の話ですが、そこを読んで『夢の話はするな』とありましたから、今晩話す御言葉を変えなければいけないように感じ、祈り直しました。
 すると新しい御言葉を与えて下さいました。その御言葉は、ルカの福音書十六章十節〜十二節です。この御言葉がこの度、与えられました。ルカの福音書十六章十節〜十二節、

『小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。』

 この御言葉を私の心に示してくださって、「小さいことに忠実でありなさい。人のものに対して忠実でありなさい」と教えられました。
 私自身、日本の教会を五十五年ぐらいの間、巡回して来たわけですが、十六年間くらいはスウェーデン人と一緒に、いろんな教会を助けました。

 ある時のこと、北海道の教会に行った時ですけれども、一つのことを考えたことがありました。いろんな教会に行くと素晴らしく恵まれるのですが、その時分、新城教会は開拓教会で、非常に人数が少ない時代でした。
 ある時、ポケット聖書連盟の人たちが、新城中学校の前にあった四軒長屋の教会の礼拝に来て、そこの牧師先生がこう話したそうです。「いや〜、この教会は近くに鳳来寺山があるけれども、仏法僧が泣くような教会でございますね」と言われたということで、私が帰った時に家内がすごく悲しんでいました。「礼拝には礼拝する人が三人くらいしか来なかった。悲しかったよ」と。
 それから毎週のようにお祈りして、私もあちらこちら行くと宣教師の教会というのは、その時分よく集まったので、ふっと考えたことがありました。「こんなに人の教会ばかりを助けるよりも、自分の教会のことを一生懸命やったほうがいいのじゃないかな・・・」と思ったことがありました。
 そうしましたら、北海道に行った時、ある宣教師が「先生。先生は伝道者として召されていますから、やっぱり巡回伝道は続けなければいけませんよ。日本のために働いてください」と言われました。
 それから聖書を読んだ時、この御言葉が与えられました。『あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。』

 開拓時代、私は、火・水・木・金と他の教会に行き、土・日・月は新城教会で働いていました。火水木金と他の教会に行くことが、ずっと今まで続いて来ました。けれども、感謝なことに、今日こうして恵まれているということは、なぜ恵まれたかというと、ある意味、よその教会に対して忠実に働いたということで、神様がこの教会を恵んでくださったと思うのです。
 ですからみなさん、今年も私は外に出るようになると思いますし、主任牧師の順牧師も、最近はあちらこちらから引っ張りだこです。「もう少し順牧師、新城教会にいる方がいいじゃないのか」と思うかもしれませんが、『他人のものに忠実だったら、あなたのものを委ねる』とありますから、リバイバルのために神に召され使命を忠実に行なっていくことは、非常に大切なことだと思うのです。

 それから私も、来年に向かって一つ原点に立たなければならないと思っています。私がこの新城教会に開拓に入った時に、四軒長屋の一画のダンスホールを買って、教会にしていました。その時にある一人の娘さんが教会に来ました。その娘さんは、すみれ屋さんの娘さんですけれど、「先生、うちの姉の娘が今、結核で死にかかっているから、来て伝道してください」というのです。今は違いますが、あの当時、「結核」といったら、本当に恐ろしい病気でした。そこで、私も行って伝道してあげました。としこさんという方でした。よく心を開いて、イエス様を信じました。何回か訪問をしました。
 それである時のこと、私が岩手の教会から帰って来た時に、私の家内がこう言うのです。「あんた!すぐにとしこさんの所に行って!」「どうして?」と聞くと、もう召される寸前だというのです。朝早くにお父さんが来て、「としこに会ってください」と言ったそうです。
 としこさんが召されそうな時に、こう言ったそうです。「としこ。誰か会いたい人はいるか?」と聞くと、「滝元さんに会いたい。」そこで、「ぜひとも会ってください」ということで、家内が長男と長女を連れて会いに行ってくれたのです。それで「まだ生きている。会いに行って!」ということで、私は飛んで行きました。

 すると、としこさんがすごく喜んでくれました。それから私がイエス様のいろいろな話をしました。最後にお父さんが「としこ。良かったな。滝元さんに会うことができて良かったな」と言うと、その時にがばーっと血を吐いて、しばらくして召されました。
 その時に、彼女が詩を書いたそうです。「秋の黄昏を名残惜しみつつ、我は主イエスの元に。」
 それから友達に手紙を書いていました。「まもなく、冬が来るけど、今年の冬は私は天国でイエス様の所に行っています。」と書いてありました。
 私はその時に、「良かった。新城に来て。一人救われただけでも来て良かった。」と思いました。あの時の感動は忘れることができません。新城に来て、としこさんが天国に行った、やはり、私たちのこれからは、小さいものに忠実であるということは、一人の魂のために、真剣に働かなければならないと思っています。
 私に与えられた賜物とは、やはり伝道者ですから、今年も、一人の魂を追い求めて伝道する者でありたいと願っています。

 つい最近も、このクリスマスが終わった後、私に一つの重荷がありました。それは私の兄の奥さんが九十三歳になりますが、津具に住んでおります。彼女もいつ召されるかわからないので、なんとか会わなければならないと思っていました。ちょうど津具にとりなしの祈りに行くということでしたので、私も連れて行ってもらいました。もう九十三歳ですから、もうろうとしているところもありましたけれども、「姉さん、明だよ。新城から来たよ」というとわかって、「新城の明さんか。いろいろと書いたものを読んどるけど、このごろあんまり顔を見ないから。だけど思い出した」とすごく喜んで、一緒にお祈りしてあげました。
 小さいことというのは、主から示されたことを忠実に行なうことだと思います。

 私は今日と昨日、大きな喜びがあります。なぜかというと、良い手紙が来たからです。今日も来た手紙の中で、ハワイから手紙が来ました。ハワイの冬木という牧師先生からクリスマスカードが来ました。そこにこう書いてありました。奥さんが、「私は先生の伝道で救われました。」と書いてありました。高校生の時に救われたのです。しかし今は、ハワイで伝道をしています。「とても感謝しています。先生、またハワイに来てください。」というお手紙でした。やはり、みなさん、一人の魂が救われるということは、本当に大きなことです。「良かったな」と思いました。

 それから、もう一つ、嬉しかったことは、先ほど、開副牧師が話していましたけれども、あきの友達が亡くなりました。私も孫娘がどうかなってしまうかと思うほど悲しんでいましたから、私も祈っていました。そして私も、「そうだ。手紙を書こう。」
 その亡くなった娘さんのお父さんとお母さんに手紙を書きました。「一粒の麦が地に落ちて死ななければただ一粒でしかない。死んだら多くの実を結ぶ。娘さんは一粒の実として地に落ちたのだと思います。天国で待っているでしょう。お父さんもお母さんもこれから、イエス様を求めてください」と四枚くらいの手紙を書いて、私の「我土方なれど」という本と、「どうしても知って欲しいこと」と、「天国は本当にあるのか」という本を三冊送りしました。
 今日、あきがきて、「おじいちゃん!あのお父さんとお母さん、そして、おじいさんも本を全部読んでくれた!」そして、今日はおいしいお菓子を私のところに届けてくださったのです。良かったなと思いました。

 私が与えられた仕事というのは、やはり福音を伝えることです。みなさんの中でも手紙を書くことができるなら、書いて下さい。大きいことはできないかもしれないけれど、手紙を書いて、悲しんでいる人を慰める、それは大切なことだと思います。

 もう一つ昨日は私のところに手紙が来ました。どこから来たかというと、宮内庁から来ました。皇后さんから、私たちの手紙とクリスマスカードを受け取ったことに対する感謝の手紙でした。
 十月には、電話で三つのことをお知らせしますということで、私の家内のためのお見舞いの言葉とか、いろんなことをお電話してくださいましたけれども、今度は宮内庁から手紙が来ました。これは私に与えられた小さな仕事です。
 来年、私もどう人生がなっていくのかわからないですが、小さいことに忠実に、イエス様に示されることをやっていきたいという願いを持っています。

 ですから、みなさんも与えられた賜物があると思いますから、大きいことではなくて、小さいことに忠実であるように祈っていきたいと思います。
 ということで、私の話は終わります。ありがとうございました。

岡本信弘 牧師

信弘師.JPG ハレルヤ、主の御名を賛美します。
一年間守られて、二〇一一年の最後の日を迎えることができました。今年は、一月から三月までと、震災から今日までと、二つの違った時代を生きてきたような、激動の一年であったような気がします。
そのようななかでも皆さんの祈りに支えられ、神様に守られてきたことを心から感謝いたします。
個人的には、四月に家内とともに十数年ぶりにイスラエルに行くことが許され、大変恵まれた時を過ごさせていただきました。そして帰って来てすぐに息子の結婚式、韓国ミッションと、慌ただしく続きましたが、充実した一年でもありました。

さて、初めに、私に与えられた二〇一二年の御言葉をお読みします。
マタイの福音書二四章四五~四七節です。

『主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。』

二〇一二年のための御言葉を求めて祈りながら、昨年この場所で語らせていただいた、申命記一章の御言葉を読み返してみました。
イスラエルの民が出エジプトしてホレブまで来たのですが、そこで彼らは長らくとどまってしまった。そのような時に主が「向きを変えて出発しなさい」と語られましたが、彼らは躊躇してしまい、即座に神の言葉に従順に従うことができませんでした。それゆえ彼らは、多くの災難に遭い、結果的に約束の地(カナン)に入ることができなかったとあります。ですから、神の時を逃がさず、神の御言葉をしっかりつかんで進んでいきましょう、とお話し、メッセージの最後に、「二〇一一年は、皆さんにとって険しい道が待っているかもしれませんが、主がともにおられるなら必ず勝利を勝ち取ることができます」と締めくくりました。
その時点では、これから何十年と語り告げられるような大地震と津波が日本に襲いかかり、原発の脅威にさらされるとは、夢にも思わなかったことでしょう。しかし、これから先、もっと大きな問題や事件が起きないとも限りません。でも、私たちはどんな時にも主に信頼して進んでいきましょう。

今日は、最初にお読みした二四章四五節から「終末における忠実な思慮深いしもべ」と題して、お話ししていきたいと思います。

マタイの福音書二四章全体には、この世の終末について語られていますが、前半では、弟子たちの質問に対して終末の前兆について、その時には、にせ預言者が現れること、戦争や戦争のうわさを聞くこと、地震やききんが方々に起こるとイエス様は答えられました。
まさしく現代は、このことが現実となって現れており、世の終わりが近いことを感じさせられます。そんな終末を迎えている今も、私たちには安心があります。
マタイ二四章三五節には、『この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。』と神様が語ってくださっています。私たちには、信頼すべき、御言葉があるのです。

四五節には『主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。』とあり、主人の思いを知り、きちんと食事を整えることができ、主に信頼して準備ができる忠実なしもべを求めておられることがわかります。
この時代には、食事は生活の中でも最も重要なことのひとつでした。
皆さんも毎日食事を楽しみにしていることでしょう。私も時々、我が家で餃子を振る舞います。みんなが美味しいと言って食べてくれるのは何より嬉しく、疲れがいやされる時でもあります。皆が集まって食事をすることは本当に楽しいことです。一月二日のミッションの新年会では、クリスマスの時にも好評だった海鮮丼や、様々な料理が用意されていますので、皆さん是非お出かけください。

日本では、食べる物がなくて困るというようなことはないと思っていましたが、東日本大震災大震災において、被災地では、何日間か食料が手に入らないという事態が起きました。当初、人々は食べる物がないということより、家が流され、親や子どもが行方不明になり、安否もわからないような不安のなか、生きる気力さえ失ってしまうような大変ななかにおられたことでしょう。このことは、見えるところの豊かさを求めて、今まで絶対必要と思っていたものが、実はたいして重要でないことに気づかされた時でもありました。
先日も、新城教会の若者数名がボランティアに行ってきましたが、被災地ではこれからまだまだ多くの支援を必要としています。このように、実際的な支援が続けていかれることももちろん必要ですが、終末を迎えた今、私たちクリスチャンにしかできない働きがあることも忘れてはなりません。

さて、このたとえ話に出てくる「食事」とは何でしょう。
イエス様が四十日間の断食をされ、空腹を覚えられた時、サタンが近寄ってきてイエス様に「石をパンに変えてみろ」と言いました。その時、『イエスは答えて言われた。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」と書いてある。』(マタイ四章四節)と、実際に口にする食べ物ではなく、霊的食物が必要であることをイエス様は教えられました。
教会は霊的な食物の食卓であり、食事を整えるのは牧師でありスタッフです。共に賛美し、共に祈り、メッセージを聞き、兄弟姉妹との楽しい交わりがある。これはさしずめ、霊的フルコースといったところでしょうか。皆さんも毎日、霊的食物である御言葉を読み、養われておられると思います。

先程お読みした四五節から学ぶことは、あなたにも任せられたしもべ(魂)があり、そのしもべに、どんな状況でも食事(御言葉)を与えることのできる忠実なしもべになることを、主はあたなに望んでおられるということです。
私たちの周りには、食べる物よりも霊的食事を求めている人が大勢いることを覚えてください。私たちは、いつでももてなしができるように、主が語ってくださる御言葉を蓄え、霊的食材を用意して、必要としている人に、愛情を持って霊的な食事を与えてこそ、与えられた人にその味が分かり、それが最も必要な食物であることに気づくのです。その必要な食事を与える人こそ、思慮深い忠実なしもべと言われるのです。

次に四六節には『主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。』とあるように、世の終わりの時に主が来られることを知っている私たちは、そのために準備をしなくてはなりません。
あなたに任せられた家族、友人、兄弟姉妹。自分だけがお腹を満たしても、それだけは十分とはいえません。主人から家を任せられたしもべは、自分の食べる物より、預けられたしもべに十分な食物を与えることを求められます。そして、その役目を果たしたしもべに対して、『その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。』(四七節)と、主人の信頼を得ることができることが書かれています。私たちも、そのような忠実なしもべになってまいりましょう。

続く二五章にはいくつかのたとえ話が書かれていますが、タラントのたとえ話に目をとめてみましょう。
ここに、五タラントを預けられたしもべがいました。彼は勤勉に働き、さらに五タラントを儲け、十タラントを主人の前に出しました。そして『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(マタイ二五章二一節)と主人から声をかけられています。
 反対に、マタイの福音書二四章四八節からは、主人がまだ来ないと油断して怠けていたしもべのことが書かれています。主人が思わぬ時に帰ってきて、『そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。』(五一節)と、怠け者に対する厳しい処遇が語られています。

震災後、多くの人が本当に必要なものはわずかであることに気づかされました。しかし、今なお多くの人が、偽りであり、頼りにならない偶像の神々にひざをかがめ、サタンに縛られている状況があります。そのためにも、クリスチャンである私たちが御言葉を宣べ伝え、人々の目の覆いが取り除かれるように祈らなくてはなりません。
 また、『受けるより与える方が幸いである』、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』と御言葉は語っています。二〇一二年は、私たちが自分のためではなく、あなたの周りにいる食事を必要としている人のために、油断することなく、常に食事を整えるために、主人であるイエス様に仕え、忠実な思慮深いしもべとなっていきましょう。

四元雅也 副牧師

雅也.JPG ハレルヤ。今年も年の終わりにこの場所に立たせていただけることを感謝します。先ほどから先生方が昨年のこの集会で語られたメッセージを振り返っておられますが、私も何回か昨年メッセージを読み返しました。僕が昨年お話ししたメッセージは、

コリント人への手紙Ⅰ 一〇章一二節
『ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。』

このみことばからお話ししました。二〇一一年を振り返ってみますと、日本が転んで倒れたような一年だったような気がします。三月十一日に東日本大震災という思いもよらない出来事が日本を直撃しました。日本中が大きく揺さぶられ、立て直しのために奔走しているような状態が今まで続いてこの年末を迎えています。世間では、まだまだこれからという復興が今後うまくいくかどうか、日本がここから立ち直って行くことができるのか、不安の中での年末年始かも知れません。もう一つ昨年お話ししたみことばは、

ユダの手紙一章二〇節
『しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ・・・』

と言うみことばです。

ここでちょっとみなさんにクイズを出したいと思います。今からお見せする映像は、さて何でしょうか?

スライド1.JPG

化学の好きな方は見た瞬間に答えがわかるかもしれませんね。これは、この季節に関係のあるものの模型です。もうおわかりですね。

スライド2.JPG

答えは「雪の結晶」です。これを分子レベルまで拡大して顕微鏡で見ると、ひとつの酸素に二つの水素がくっついて成り立っている水の分子が互いにつながって、見事にこのような六角形を作り出すのです。これがどんどん大きくつながっていくと、写真のような「雪の結晶」になるのです。
もう一つ、これは何でしょう?これも、同じ系統の問題です。

スライド3.JPG

あちこちから正解が漏れて聞こえますが、これは「塩の結晶」です。

スライド4.JPG

塩化物とナトリウムが整列してこのようなサイコロのように真四角に結晶します。

私たちは、繊細に調整が施され均整の取れた「美しい」ものには感動を覚えます。今週は木曜日に教会の大掃除があり、金曜日には我が家で掃除をしました。掃除をするのは大変ですし、疲れるものですが、やり終えた後は何とも言えない爽快な気分になります。子どもが大きくなるに連れてより複雑なブロックの造作や、よりピースの多いパズルを完成させるのを見ると喜びを感じます。今年を振り返るスライドを先ほど見ましたが、クリスマスにはロン・ブラウンさんを始め、多くのゲストの方々のパフォーマンスを見て、その完成度の高さに感動しました。反対に今年は大地震と津波で街が破壊された風景を、いやというほど見せられました。何とも言えない痛々しさや悲しみを覚えます。

人間には智恵を絞り、心血を注いでひとつのものを磨き上げて築き上げて行く能力があります。これは、他の動植物にはない神様に似せて造られた素晴らしい力です。神様が持っている力を私たちが受け継いでいるのです。

「・・最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ・・」と書かれていましたが、神様は、立て直され築き上げられる方ですので、みなさんの家庭を、職業を、健康を、信仰を、人生を築き上げさせていただく、そんな一年であることを信じて生きましょう。

そこで、二〇一二年に向けて、私が与えられたみことばは、

ルカの福音書十二章四九節
『わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。』

分子の映像をお見せしましたが、「火」が燃えるということは、ある意味で非日常な現象なのです。例えば、私が手に持っている紙は、通常放っておくと徐々に朽ちてボロボロになっていきます。それは日常に起きている「風化」また「酸化」という現象です。物質が空気中の酸素と結合して無機質に変化していくことです。この「酸化」現象が極めて激しく起きているのが「燃える」という状態です。紙を燃やすと一瞬で炎と熱を発生させ、灰になってしまします。日常では徐々に何十年もかけて酸化しますが、燃やすとそれが一瞬で完了するのです。「火が燃える」というのはそのように長年かかることを一瞬でやり遂げるほど激しく、力のあるものです。神様のなさるみわざは、日常生活の中にも静かに現わされますが、ときどき激しい形で現わされます。キリスト教会の歴史を見ると、激しさを伴う大きな力によって世界を覆すような「うねり」が生まれたのです。
このみことばは、イエスさまが仰せられたのですが、イエスさまは、この地が「火」で燃えていることを「どんなに願っていることでしょう」と、いかにも感慨深く語られました。教会はイエスさまのみこころを行うところですので、イエスさまは「教会の中」で火が燃えることを熱く願っておられるのです。イエスさまがなされる業も、多くが激しい形でこの地に現わされています。

① 十字架の激しさによって救われた。
…十字架の状況は、激しい叫び、暴力、流血、混乱の中で、イエスさまは十字架のみ業を成し遂げられ死と復活を遂げられました。
② 教会はペンテコステの激しい聖霊の注ぎによって生まれた。
…激しい聖霊の働きが地を揺り動かし大音響が人々を引き寄せ、伴うしるしと奇跡が教会を後押ししました。
③ 宣教は激しい迫害の中で拡大していった。
…激しい反対者との戦いの中で、指導者が殉教し、権力を盾に押しつぶそうとする迫害の中、教会は命がけで世界へと宣教の場所を広げていきました。

また、リバイバルも激しい戦いの中で、成就していきます。

① 救いは罪に対して(悪魔に対して)激しく戦うことに基づいている
…罪との戦いを抜きに、クリスチャンの勝利はありません。
② 彼らに変わって激しく戦わなければならない
…隣人のために、彼らに成り代わって、激しくとりなし祈り、激しく伝道していく。

この激しい戦いを聖霊の働きによって私たちが戦っていくときに、どうなるかというと、神の国の現れである「リバイバル」が前進するわけです。みことばを読み進めると、火が投げ込まれたときに何が起きるかが描かれています。

ルカの福音書十二章五一-五三節
『あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」』

九二年に主が新城教会に訪れてくださったときは、大変激しいものでした。激しさに翻弄されて教会から飛び出てしまった方もいたぐらいでした。分裂が起きてしまったぐらい激しい油注ぎがこの教会を襲ったわけです。順牧師が書いた「主が立ち上がられた日」に描かれています。

しかし、火が燃えさかるようなその激しさの故に、甲子園球場で三日間延べ十八万人なんていう、今考えても怪物みたいな働きに命がけでぶち当たる力を与えられたのだと思いますし、その後現在まで世界中に広がりつつあるリバイバル運動につながったのだと思います。

私たちは二〇一二年、九二年から数えて満二〇年を迎えたこの年を迎えようとしています。
あの時に私たちの教会を襲った大きなインパクトは、今まで私たちを揺り動かし続けているのです。私たちは、新たに飢え渇きを持って「火」を神様に求めましょう。

ルカの福音書十二章四九節
『わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。』

その日が燃えていたらと、イエスさまは「どんなに願っていることでしょう」といわれます。このイエスさまの思いを、感動を持って受け取りたいと思います。わたしの火を、あなたの火を赤々と、また激しく燃やしましょう。信仰の火を、祈りの火を、賛美の火を、伝道の火を、奉仕の火を、愛の火を、それぞれが燃やすことができますように。その火があなたの人生に変化を与え、隣人に、教会に、地域に、社会に広がって変化をもたらすのです。まさに、混沌とした日本に神の国が築き上げられるのです。

火を求めましょう!

上條実 牧師

上條師.JPG ハレルヤ!いつも私と私の家族のためにお祈りくださり感謝します。私が二〇一一年の為に与えられたみことばが詩篇一〇三篇でした。特に一節から五節

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』

というみことばを頂きました。「あなたの一生を良いもので満たす」と頂き、二〇一一年は「希望の年、祝福の年だ」と期待し、喜びつつ一年を始めました。しかし先ほどから各先生方が語られています三月十一日の「東日本大震災」で、約二万人ほどの方々が亡くなったり、行方不明になってしまいました。また九月初旬には台風十二号で和歌山県などに多くの被害があり九十何名かが亡くなったり、行方不明になりました。また九月の終わりにも台風十五号がこの地域に上陸し、十数名が亡くなり、道路など多くの土砂崩れなど被害がありました。二〇一一年は「希望の年、祝福の年だ」と教えられ祈ってきたのに「なんでこんなことが」とショックを受けました。また私は一月中旬頃から肩が痛くなり、九、十月は、五十肩で苦しみました。感謝な事に今はだいぶ良くなってきましたが、一時は痛くて夜も寝ることもできない状態でした。私は時々「主よ、この年は祝福だと言われたのになんでこんなことが起きるんですか」と主の前に訴えて祈りました。すると『主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』というみことばを思い起こし、ハッとさせられました。まず自分には感謝が足らなかったと教えられました。またローマ書八章二十八節

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』

この時、何か神さまが教えてくださっている。必ず益として下さるということを祈りの中で教えられ、「主よ、これからの日本はどうなるんですか?教会や私がこれから何をしなくてはいけませんか?」と祈る日々が続きました。そんな中祈っているとき、詩篇八十五篇を教えて下さいました。

『主よ。あなたは、御国に恵みを施し、ヤコブの捕われ人を、お返しになりました。あなたは、御民の咎を赦し、彼らのすべての罪を、おおわれました。あなたは、激しい怒りをことごとく取り去り、燃える御怒りを、押しとどめられました。われらの救いの神よ。どうか、私たちを生き返らせ、私たちに対する御怒りをやめてください。あなたは、いつまでも、私たちに対して怒っておられるのですか。代々に至るまで、あなたの御怒りを引き延ばされるのですか。あなたは、私たちを再び生かされないのですか。あなたの民があなたによって喜ぶために。主よ。私たちに、あなたの恵みを示し、あなたの救いを私たちに与えてください。私は、主であられる神の仰せを聞きたい。主は、御民と聖徒たちとに平和を告げ、彼らを再び愚かさには戻されない。まことに御救いは主を恐れる者たちに近い。それは、栄光が私たちの国にとどまるためです。恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。まことは地から生えいで、義は天から見おろしています。まことに、主は、良いものを下さるので、私たちの国は、その産物を生じます。義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。』

わたしはこの詩篇八十五篇を二〇一二年のみことばとして受け取りました。この箇所はユダヤ人がバビロン捕囚からエルサレムに帰還したときに書かれたものです。バビロンに捕え移されたのは、イスラエルの罪の故でした。その後バビロンからの帰還は、イスラエルに対する罪のゆるしであり、罪に対するみ怒りが終わったことを意味しています。しかしエルサレムに到着し、再建に着手してみると、徹底的に破壊され幾年も廃墟と化し、再建は思う以上に困難であったと注解書をみてみると書かれてあります。ある方が八十五篇のタイトルを「完全な回復を求める祈り」とつけました。イスラエルがバビロンから戻って来て、完全な回復をしました。私は二〇一一年は祝福の中にありましたが、日本が大変困難な時、破壊された年であったかのように思います。しかしこの二〇一二年は、詩篇八十五篇を教えて頂き、今までのとりなし、祈りは無駄ではなく「二〇一二年は必ず回復して下さる」と神さまが語ってくださいました。霊的回復、神の国が回復すると教えられました。しかし詩篇八十五篇二節、三節は、

『 あなたは、御民の咎を赦し、彼らのすべての罪を、おおわれました。あなたは、激しい怒りをことごとく取り去り、燃える御怒りを、押しとどめられました。』

とあります。まず日本が回復されるために必要なことは、教会と自分が徹底的に悔い改めていかなければならないと教えられました。回復を求める前に、主の十字架をあおぎ、徹底的に悔い改める必要があると教えています。有名なみことば第二歴代誌 七章十四節、

『わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。』

「わたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ」なさいというのです。そして「わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら」主は「親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」地をいやす。それは回復です。まず二〇一二年はへりくだり、聖められることを祈りましょう。私の大好きなみことばヤコブ四章八節

『神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。』

神に近づきなさいとあります。聖さを求めることが、神に近づくことです。そうすれば神さまが近づいてくださるというのです。聖められるように祈り求めましょう。そして今回与えられた詩篇八十五篇の中で詩篇八十五篇十二節~十三節が目にとまりました。

『まことに、主は、良いものを下さるので、私たちの国は、その産物を生じます。義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。』

 聖さを求めていくとき、神は本物の回復をくださる。「私たちの国は、その産物を生じます」二〇一一年、日本は傷つき、苦しみ、涙し、多くのものを破壊されました。しかし二〇一二年は神の聖さの中で、回復される。そして大きな収穫、産物を与えてくださると信じます。主は奇跡なる神であり、いやし主であり、救い主であり、回復して下さる神です。
 私たちは、死んだ神を信じているのではなく、救い・奇跡・癒し・解放・そして回復が起き、悪魔、悪霊に奪い取られていたものを回復して頂ける年になると信じて求めていきましょう。へりくり、悔い改め、多くの産物を主から頂きましょう。『義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。』とあるように、義の指導者であるイエスキリストの足跡に従い、人生の道を平らに、そして安全に一年間進むことができます。このごろ東海・東南海・南海連動型地震、三つの地震が同時発生するなどと言われます。すると私たちは恐怖に包まれ、恐れや不安だらけです。しかし私たちは主に期待しましょう。主は回復してくださる方。地をいやして下さる方です。主から良いものを頂き、私たちの国は、産物を生じる一年となることを信じましょう。恐れや不安から回復され、私たちが愛する日本が、教会が、家族が、個人が主にあって回復し、産物。祝福をいっぱい頂ける年であることを期待しましょう。ハレルヤ!