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2002.12.31(SUN)
「ニュー・イヤー・イブ・キックオフ聖会」
メッセージ集 
〜パート1〜

公畑フェルナンド 副牧師

四元雅也 副牧師

滝元 開 副牧師

 公畑フェルナンド 副牧師

 ハレルヤ!去年に引き続き、御言葉を語るのが一番目でとても緊張します。御言葉は、第一列王記の十九章十八節です。

しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」

 第一列王記の十七章と、十八章でエリヤという預言者が出てきます。彼は旧約聖書で有名な預言者です。彼は強い信仰と力を持っていました。彼が祈ると、三年半雨が降らず、また祈ると一つも雲のない空から雨が降りました。預言者エリヤの話の中で一番有名な話は、四百人のバアルの預言者との戦いです。それは、天から火を下すことができる方が本当の神であるという挑戦でした。バアルの預言者たちは朝から真昼まで、バアルの神を呼びましたが、天から火が下りませんでした。それでエリヤの番が来たときに、その挑戦をもっと難しくしました。彼は十二の石で祭壇を作り、祭壇の周りに溝を掘り、薪をくべて、その上にいけにえを置いてから十二杯の水を上にかけました。そしてエリヤが祈ると、天から火が降ってきていけにえと石と塵を焼き尽くし、その水もなめ尽くしました。勝利をとったエリヤは、バアルの預言者たちをすべて捕まえて殺しました。
 しかし、十九節に来るとエリヤは変わります。王妃イサベルはエリヤがしたことがわかると怒って、彼を殺すとエリヤに告げました。すると、多くの奇跡をしてバアルの預言者たちに挑み、本当の神を証明した勇敢なエリヤは、おそれて自分のいのちを救おうと荒野に逃げました。そこで彼は主に会いました。主は言われました。「エリヤよ。ここで何をしているのですか。」エリヤは答えました。「あなたの預言者たちは皆殺され、私だけが残りましたが彼らは私の命を狙っています。」
 そして十八節で、主はこう言われました。「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」それは、七千人の信徒たちです。十八節の御言葉は、エリヤはただ一人残された信徒ではなく、まだ七千人の信徒が残っているというのです。しかし、この七千人の信徒はどのような人でしょうか。それは、七千人の静かな信徒たちです。だれもその存在を知りません。預言者エリヤも知りませんでした。
 預言者とは、今でいう牧師です。その牧師でさえ、この信徒たちを知りませんでした。静かな信徒たちはその時働いていた、悪霊の力に対して何も行動しませんでした。それには仕えなかったのですが、それ以上、なにもしませんでした。それで誰もこの人たちがイスラエルの神を信じているとは知りませんでした。
 聖書の中で、この箇所だけが七千人の信徒について触れています。それはバアルというサタンに対して対抗せずに、何もしなかったことが書かれています。
 私たちは教会として、エリヤの時代の七千人の信徒たちのようにならないようにしましょう。黙っていることがないために、三つのポイントを分かち合いたいと思います。
 まず第一は、サタンの前で静かにならないことです。一人一人が声を上げて、悪魔の力を打ち破りましょう。私たちにはイエス様の名前による勝利が与えられており、私たちに悪魔を追い出す権威を与えてくださっていることを確信しましょう。これは、牧師だけではなく、あなたにも与えられている権威です。
 また第二に、世に対して静かにならないことです。二〇〇三年はイエス様のことを、できるだけ多くの人に宣べ伝えましょう。友達や家族、会社の同僚に伝道し、皆に私たちのことを知らせましょう。イエス様は言われました、

『「もし、誰でもわたしのことを人の前で恥じと思うなら、わたしもその人のことを天の父の前で恥とします。」』

 来年は名古屋でミッションがあります。私たちの友だちを連れて行く良いチャンスです。それはあなたと私が静かにしていてはできません。
 第三に、教会の中でしずかにならないことです。私たちは主の哀れみと、恵みを言い表すために私たちの口をもっと使いましょう。御言葉を聞いているときにも、神の約束を聞いたときに「アーメン!」と宣言しましょう。御言葉を語っている人は、そのような元気の良い言葉を聞くと、聞いている人が恵まれていることがわかり、また寝ていないこともわかります。ですから、静かなおとなしい聖徒にならないようにしましょう。黙示録では、昼も夜も神様をたたえて賛美したり、主は聖なる方ですと宣言しています。だから天国では、私たちの口はとても忙しくなります。今から練習しましょう。静かな信徒ではなく、うるさくて、どこでも知られる信徒になりましょう。私たちが口を開くときに悪魔は倒れ、世は倒れ、私たちの王であるイエス様の名前を高く掲げることができます。日本の王としてです。

四元雅也 副牧師

 ハレルヤ!今晩メッセージを取り次ぎ、皆さんと恵みを分かち合うことができることを感謝します。二〇〇二年、個人的にも数々の恵みをいただき、私はクリスチャン歴十九年になりますが、毎年神様からの恵みにより、今年が人生最高の年だったという思いを与えられていることを感謝します。
 今年もこの集会の中で御言葉を語るだろうと思い、「主よ、御言葉を与えてください」と祈っていましたが、一二月二二日の主日礼拝の最中に、突然心に、「準備しなさい」と言葉が来ました。驚きとともに、何を準備するのだろうかと思いましたが、“リバイバルを起こすから準備しなさい”と、神様からの言葉として自分の中で捕らえ、今、皆さんの前でドキドキしていると同じように、リバイバルの来臨を思いドキドキしたのを覚えています。今日この場所で“リバイバルが起きる”なんて宣言していいものかと不信仰も持ちましたが、あえて申し上げているわけです。
 二〇〇二年を振り返っても、神様が、二〇〇一年以上に日本のリバイバルの働きを進めてくださったと思い起こすことができます。宣教においては、夏に大阪で四十日間における集会が行われ、何千人もの方が福音に接し救いに預かることができました。教会の中でも、今までに例を見ないような解放の業が現され、多くの魂が救われて来るという御業を見ました。最近も子どもクリスマスで私たちの思いを越え、七百名の方が来られたり、クリスマス・ゴスペル・コンサートでも、一週間前に会場を満たす動員が与えられ、チケットの販売をお断りしなければならない事態になったり、私たちの思いを越える御業を見せていただきました。また、祈りにおいては、全国各地、海外においてもとりなしの祈りへと導かれました。北海道から霊的戦いを学びに来たり、アメリカからとりなしの祈りを学びに来たりで、とりなしの祈りのネットワークが日本規模、世界規模で広げられています。また、賛美の働きにおいても、ざわめきの働きはもちろん、ゴスペルクワイヤーがコンクール全国大会まで行ったり、レビの兄弟たちや滝元開先生夫妻が、他教会から賛美の奉仕に招かれるようになりました。また、学びにおいては、霊的戦いセミナーが時期にかなってもたれ、とりなしのポイントが明らかにされ、祈りの実践がなされてきたと思います。神様はこの教会を二〇〇一年以上に素晴らしい恵みを持って導いてくださっていると感謝しました。そして、来年更に、神様がリバイバルを進めてくださると思わされています。
「準備しなさい」と申しましたが、私たちはリバイバルに向け、どのように準備されるべきでしょうか。今回、祈る中で二つのことを教えられました。
 第一番目は、更に低くされるということです。何年か前に解放の祈りが新城教会の中で行われるようになった時、教会のスタッフの間でこんな話題が盛り上がりました。それは、「私が解放されてしまったらどうしよう。」ということでした。解放に伴い色々な現象があり、ある人は大声を上げたり、会衆の中で取り乱したりしました。それを見ながら、自分がこのような状態になったら体裁が悪い、そんなふうにはなりたくないと、話題になったのです。しかし、考えてみると、解放されないで悪魔の束縛が残るよりも、たとえ現象が現れたとしても、解放され勝利をいただく方がよほど素晴らしいはずです。ある時そのことを気付かされ、「私も解放してください。」と祈るようになりました。そして、解放の働きに携わらせていただく中でも、解放されるのは相手だけではなく、祈っている自分自身にも解放のテーマが当てはまることがあり、権威をもって祈っているはずの自分が取り扱われ、解放されることもしばしばでした。要するに、自分の体裁を保ちたい、周りから良いクリスチャンだと思われたいという気持ちがあると、解放されるものも解放されない、いただける勝利もいただけないと思うのです。エリヤが、カルメル山でバアルの預言者たちと戦って大勝利を収め、バアルの預言者が一人残らず殺された記事がありますが、すぐその後で、イスラエル王妃イゼベルが、「エリヤが明日の今頃までに、あのバアルの預言者と同じ目に遭わなかったら、神々が私を幾重にも罰するように」と宣言し、追っ手を送り込みました。エリヤは、恐れおののいて、つい先ほど大勝利を収めたにも関わらず、懸命になって逃げたのです。そしてシナイ山という遠いところでたった一人になって、「神様、もうたくさんです。私の命をとってください。」と絶望の中で言いました。しかし、その時に神様に触れられ、もう一度新しくされて更に大きな主の働きに携わっていきました。私たちが今この教会で恵まれ、大きなことが起き、素晴らしいリバイバルと言うべきことが現されていますが、この時に私たちはもう一度自らを低くし、へりくだって仕えていかなければなりません。神様、もう一度自分自身を取り扱ってくださいと、御前に出ていかなければなりません。主の前に辱められることを恐れずに、身を低くすることを喜んで、主の前に仕えることが一つ目の準備であると教えられています。
 第二番目の準備は、更に高められるための準備です。低くされると高くされるとは相反することです。私たちは、リバイバルを、と叫んでしますが、私たちが求めているリバイバルは、もっと多くの人が救われて欲しい、私たちの家族もまた周りの人々も新城の町の人も、もっと多く救われて欲しいということです。そしてリバイバルが起こったときには、その通りに神様が新たな魂を、もっと送ってくださると思います。ということは、ここにいる皆さんの後に続く人が起こされて来ることです。わかりやすく言えば、皆さんが先輩クリスチャンになるということです。皆さんを模範にクリスチャン生活をスタートする人たちが現れて来ます。ですから、リバイバルが起こることは、キリストの体全体の底上げだと思います。牧師も信徒も全体が底上げされ、そこに多くの方が加えられることです。そのためには、私たちは更に高められる必要があります。もちろん、後の者が先になると聖書に書かれているように、後から救われた方の中から、更に大きな働きのために用いられる方が起こることがあるかも知れません。その時にはそのことを受け入れなくてはなりません。しかし、それはそれとして私たち自身、更に底上げされることが必要です。リバイバルを与えられる受け皿が私たちに用意されたとき、はじめて本格的なリバイバルが起こされていくと思います。更に高められることを二〇〇三年に向け互いに求めていきたいと思います。
 以上の二つのために何が必要かと考えていた中で御言葉が与えられました。ルカの福音書五章三十七節から三十九節、

『また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い。』と言うのです。』』
新しいぶどう酒を受け入れるために新しい皮袋を用意するようにと、イエス様が言われました。新しいぶどう酒とはイエス様で、皮袋とは私たちの心を指しています。イエス様がこの地上でなされた御業や語られた教えは、どれも当時のユダヤ人にはない新しい概念でした。悪霊を追い出したり、教えにおいても旧約聖書の教えを更に発展して語られました。イエス様ご自身が新しいぶどう酒としてこの世界に来られました。あるユダヤ人はそれを受け入れ、あるユダヤ人は拒否しました。はっきりと二つに分かれました。私たちもイエス様をある時に受け入れ、それまで自分の人生を築き上げていた道徳観や世界観を、聖書に基を置くものに取り替えました。だからこそ私たちは、聖書は神の御言葉であると信じて信仰生活を守っています。土台が変わっていない昔のままであったら御言葉を聞いても受け入れることができません。同じように神様が行われる御業は、いつも新しいぶどう酒であるということを教えられます。十年前に霊的戦いが新城教会に始まりましたが、それ以前には「霊的戦い」という言葉さえありませんでした。また悪霊の存在も漠然とわかっていましたが、具体的な働きについては、はっきり理解されていませんでした。世界的に見ても、新城教会に霊的戦いが始まったのと同時期に、聖霊の力により頼んだ宣教の働きや、解放やとりなしのミニストリーが始まりました。それは、それ以前のキリスト教界にはない、新しい動きでした。それを新城教会は受け入れて祝福をいただくことができました。リバイバルは、新しいぶどう酒が更に注がれる時です。私たちが今持っている、神様はこういう方、主の働きはこういうもの、私たちの信仰生活はこういうものだ、ということが、神様によって取り払われることが、二〇〇三年、私やあなたの人生にあるかもしれません。その時に私たちが新しいぶどう酒を受けるための皮袋を用意していなければならない、ということをこのところから教えられます。

最後に、二〇〇三年のために、私が与えられた御言葉をご紹介します。アモス書九章十三節です。

『見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る。山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す。』

耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄るとは、どういうことでしょう。土地が肥えて気候が良くなり、収穫時期が早く来て、収穫期間も延び、収穫している間に次の種蒔きが始まっていくということです。これは霊的には、リバイバルの現われとして魂の収穫を起こしてくださる。新しい方が導かれ、救いに至る過程が今までよりも格段に速くなる。また、救われる方が格段に多くなることを意味しています。マタイの福音書十三章では、よく耕されたところの落ちた種はよく耐えて三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶと書かれていますが、よく耕された地に種が蒔かれることが二〇〇三年に起こることを、私はこの御言葉から厳かな気持ちで受け止めることができました。そのために更に低くされ、更に高くされ、一人一人が準備される者となっていきたいと思います。

 滝元 開 副牧師

 ハレルヤ!今日このように御言葉を開ける恵みを感謝します。私に与えられたのは、創世記十五章五節の御言葉です。

『そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」』

 毎年リバイバルと叫び、今年こそはという言葉で毎年始まっていますが、来年のために、はっきりと主が語られた御言葉だと信じています。
 創世記十五章一節の御言葉は、私にとって思い出深い御言葉の一つです。アブラハムがアブラム時代に語られた御言葉です。私は牧師の息子として生まれクリスチャン生活をしていました。しかし、御言葉が与えられるという経験を初めてしたのが高校生の時でした。よく、「御言葉が与えられました」と語られているのを聞いて、「与えられるって何だろう。心にぴんとくることかな。たまたまその時の心にフィットした言葉かな」と思っていましたが、高校一年生の冬でしたが、神様が語ってくださり、「御言葉が与えられるということはこういうことなのだ」と興奮したことを覚えています。その時に与えられた御言葉が、創世記十五章でした。今回、同じ十五章から御言葉が与えられたことを感謝します。
 アブラハムは約束のものを手に入れましたが、その前に、神様と彼との中で押し問答があったことが十五章に書かれています。神様が彼に現れ、「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」という言葉で臨みました。その後アブラハムは「とんでもない」というようなことを言っています。二節で、

『神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。』と言っています。神様がわたしはあなたに与えると言ったのに、だいたい、私は子どももいないしもらう手だては何もないではないですか」

 すると、『さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。』と書かれています。神様が、「あなたに祝福を与える」と言っているにも関わらず、「私は駄目だ」と二回に渡って言っています。そんなアブラムを神様が見かねてされたことは、五節の御言葉です。

『そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。』

 当時の人々はテント住まいでしたので、彼をテントから連れ出して、「そこまで言うなら外に出てきなさい」と言われて、空を見るように告げられ、「星が数えられるか、数えられないだろう。私はこのような大きな祝福を与える」と、神様がアブラムに言われました。
 私たちの日本に対する約束、またこの教会、私たち一人一人に対する約束は、このようなものだと思います。神様は数え切れない程の大きな恵みを与えているにも関わらず、それを私たちは信じずにいたと思います。しかし、二〇〇三年においては、神様が、「数え切れないほどの恵みを私はあなたに与える」という約束をしてくださっていると信じます。

『そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」』

と書かれています。
 私たちがこの大きな祝福をいただくための一つのポイントは、「外に出る」ことです。一つの枠の中にとどまり、こうではない、こうでは駄目だ・・・と神様に向かって祝福の御言葉を退けるような不信仰な思いではなく、外に出ることをしなければならないと思います。
 天幕はある意味で一つの囲いですが、私たちがリバイバルを受け取るために、私たちが持っている「信仰生活はこうあるべきだ」という、囲いの中から神様ご自身の大きな空の下の信仰生活に入るべきであると思います。クリスチャンはこうあるべき、キリスト教はこうあるべき、私はこういう性格だから、クリスチャンだから、という囲いの中で生活しているところがあると思います。しかし、神様は、「そう言わずに外に出なさい」と、私たちに語ってくださっていると思います。ですから、私たちは囲いから出て、神様のくださる恵みをいただきたいと思います。
 リバイバルは突然来ると言われます。先日、レビの兄弟たちと共に、名古屋の教会に行きました。そこでアルゼンチンで宣教されている在原先生の息子さん夫妻に出会いました。彼らがアルゼンチンのリバイバルについて語ってくださいました。彼らがいた教会は、初め八十人でした。しかし、ある時、霊的戦いが始まり、それと共に突然リバイバルが来て、八十人の教会が一年たって気付いたら、八百人になっていたというのです。それまでは一つの小さな枠の中で、皆顔を知っており、親密な交わりができていましたが、リバイバルが起こったら突然、知らない人ばかりになっていました。すごく大変なことでしたと語っておられました。そして今は次のステップに向かって、一生懸命頑張っていると言われていました。
 神様がくださろうとしているリバイバルは、私たちが受け止めるべきリバイバル、準備すべきことは、私たちが考えてもないような大きな形で来るということです。そのような中で、私たちはクリスチャン生活はこうあるべきだ、という律法の中での歩みではなく、神様が私たち一人一人に何を語られているか、聖霊様の御声を止める天幕の中にとどまることなく、御声をたえず聞くことができる「天の下」に出ることが必要です。
 また第二のポイントは、「さあ、。空を見上げなさい」と言われています。私たちはリバイバルというものを、本気で見上げなければりません。「リバイバルが起こって欲しい、でも起こると大変なことが起こりそうな気がしないでもない、見たいけれど見たくない」というような気持ちがあるかも知れませんが、「天を見上げなさい」と言われる神様は、私たち一人一人に大きな祝福を与えようとされています。ですから、信仰と勇気を持って天を見上げるときに、神様が与えてくださると約束してくださっています。
 天を見上げるとは、どのようなことだろうかと考えると、「信仰を持つこと」だと思います。神様がアブラハムに、「その天を見上げて星を数えることができるか」と聞かれた時に、「数えきることはできない」と答えました。すると、「おまえの子孫に、数えきることができないような大きな恵みを注ぐ」と神が語られたときに、アブラムは、その後、天幕に戻っていくことはしませんでした。六節には、

『彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』

と書かれています。アブラムが主を信じたように、私たちも堅く主を信じて主を見上げて前進していきたいと思います。この御言葉を信じ、必ず起こされるという約束、星を数えることができいないような大きな恵みが、私たちの教会、全日本に現されることを信じて進んでいく年となることを願います。

「ニュー・イヤー・イブ・キックオフ聖会」
メッセージ集 
〜パート2〜

滝元 明 牧師上條 実 牧師岡本信弘 牧師
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