2002.12.31(SUN) 「ニュー・イヤー・イブ・キックオフ聖会」 メッセージ集 〜パート2〜 |
滝元 明 牧師 ハレルヤ!皆さんのお祈りに支えられていることを感謝します。今年は、詩篇九十二篇の十節の御言葉が私の中にいつもありました。 『しかし、あなたは私の角を野牛の角のように高く上げ、私に新しい油をそそがれました。』 これは今年私が与えられていた御言葉で、関西40daysのために与えられた御言葉でもあります。角は権威ですが、イエス様が上からの権威を高く上げてくださったことを感謝しました。 『彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。』 と書かれています。私は年老いている方ですが、年のことをあまり考えずにみずみずしく生い茂った集会ができたことを、心から感謝します。また、四十日の集会の中で、全国の方々が祈ってくださり、経済的にも支援してくださったので感謝でした。私は、祈ってくださり、ささげてくださった方々にお礼をしたいという気持ちがいっぱいでした。それで、それらの方々に、クリスマスカードを書きました。今年は一八〇〇人の方々にカードを送りました。小さなことですが、祈ってくださり、支えてくださったことを、少しでも感謝することが大切だと考えています。 『ダビデが自分の家に住んでいたとき、ダビデは預言者ナタンに言った。「ご覧のように、この私が杉材の家に住んでいるのに、主の契約の箱は天幕の下にあります。」すると、ナタンはダビデに言った。「あなたの心にあることをみな行ないなさい。神があなたとともにおられるのですから。」』 と書かれています。ダビデは祝福された王でした。彼自身が語ったことは、自分が杉材の家に住みながら、主の家・主の契約の箱が天幕にある、というのです。今まで神様がダビデに、「わたしは、天幕に住んでいるのに、おまえたちはなぜ、良い家に住んでいるのか」と言われたことはありません。しかし、ダビデが素晴らしい杉材の家に住んだときに、「私は杉材の家に住んでいるのに、主の家は天幕にある」と言いました。 『万軍の主はこう仰せられる。わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場からとり、わたしの民イスラエルの君主とした。そして、あなたがどこに行っても、あなたとともにおり、あなたの前で、あなたのすべての敵を断ち滅ぼした。わたしは地上の大いなる者の名に等しい名をあなたに与える。』 と言われました。ダビデ自身が祝福されたことは、「自分の家よりも、もっと良い神の家を建てたい」と願ったことでした。 『すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。』 上條 実 牧師 ハレルヤ!みことばをお読みいたします。創世記二十二章一節から十四節です。 『これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。』 今お読みいたしましたみことばはこの一ヶ月間私の心に語られている箇所です。アブラハムとサラの間には長い間子どもが与えられませんでした。そしてローマ人への手紙四章一九節「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。」とあるようになんとアブラハムは百歳で自分の体が死んだも同然、サラの胎は死んでいることを認めていても信仰が弱らず、神様の約束通りに待ち続け、待望の子イサクが生まれました。私はここで信仰について教えられます。たとえ人間的には絶対だめであっても、神が語られたことは絶対に実現する。「神にとって不可能は一つもない」というみことばを信じ続けて待ち望むとき、たとえどんな状況になっても神は答えてくださる。みことばは一点一画変わらない権威ある言葉。必ず実現すると信じなければならないことを再確認させられました。しかし素晴らしい神様の栄光を見た後、神様はアブラハムに考えることのできないことを語られました。与えられたイサクをささげろというのです。イサクを殺して私(神様)にささげろと言われたのです。血も涙もないような命令をアブラハムに語りました。しかしなんとアブラハムは翌朝早く神様の言葉を実行したのです。神様が言われたようにイサクを縛り、祭壇の上にのせ、ほふろうとした時に神様からストップがかかり「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。」と語られました。イサクの代わりに一頭の雄羊を主が用意しささげました。「アドナイ・イルエ」主の山に備えあると語っています。私はこの一ヶ月間語られ続けているのは、「主の山の上に備えがある」ということです。自分でがんばろうとりきんでも、何もできない。私たちはただ御言葉に従っていくということ。自分で何かをしようと、自分が動き、自分で考えてしまっている。「アドナイイルエ」主の山の上には備えがある。だから力を抜き、ただ御言葉に従うこと。原点に返って、ただ単純にどんなことが起ころうとも御言葉に従うことを神様に教えられました。話は変わりますが、一度礼拝時に子どもたちがいつも座っている所で礼拝に参加してみてください。普通礼拝に参加すると、霊的にも、精神的にも祝福されて心洗われる時です。しかし子どもたちには退屈らしく、いくら「静かにしなさい」と注意しても騒がしい主日礼拝です。自分はその騒がしさの中でイライラしてしまい、「本当に子どもたちは神様を愛しているだろうか」と疑ってしまいます。十二月七日に「子どもクリスマス会」がありました。一週間前の一二月一日の時点で子どもたちに何も友だちを誘っているか、また誘おうと考えているか確認しました。来ると決まっている確定者はほんとに少数であり、目標としている人数をたすと、目標にはほど遠い二七〇名程でした。クリスチャンの子どもたちが三十人たらずの人数の中で、去年は感謝の事に大人の方を入れて四百名を越したので、今回の目標は子どもだけで四百一人という目標を子どもたちが立てていました。しかしこんな一週間前にこんな状態ならば絶対にできない、無理だと確信しました。子どもたちの礼拝態度などを見ても、よく聖霊様が働いて下さっても三六〇名程だと思っていました。しかしその十二月一日の日曜日の午後、子どもたちと共に戦いの祈りをしました。その数週間前にも新城市にある七つの小学校にも祈りに行きましたが、子どもたちは真剣になって、動員を妨げている暗闇の力が打ち砕かれるように、戦いの祈りを真剣に祈りました。なんと当日五九〇名の子どもたち、また一緒について来たご父兄やスタッフをいれて七百名の方が与えられました。教育館ホールによくぞ入ったと思うほど入り切れないほどの子どもたちが集いました。集会中賛美をし、みことばを語り、最後にイエス様を信じる祈りをしましたが、何でこんなに静かにみことばを聞いてくれて、大声で祈ってくれるのと不思議なほどの時でした。この集会を持たして頂いて、子どもたちは何の力も入っておらず、自然体で御言葉に従い、ただ祈りました。六日前には子どもたち全員の目標二七〇人と言っていて、現実は二桁ほどの子どもしか確約が取れていなかったのに、電話をしたり、チラシを配ったりする中でなんと五九〇名の子どもが集まってしまいました。これは決して子どもたちではなく、聖霊様が働いてくださいました。祈りの答えです。「主の山に備えがある」この御言葉が現実となったのです。子どもたちの信仰。私から見たらこんな騒がしく、落ち着きがなく、イエスさまを愛しているかわからない子どもたち。しかし子どもたちの自分に力が入っていない、ただ神様を信じる単純の信仰がどんなに大きな力を現すか、霊的戦いの祈りで、宣言した祈りは必ず答えられる。みことばと祈りには主の権威があると言うことを見ることができました。御言葉を受け取り、必ず祈った事は答えられる。主の山には備えがあるということ信じていくことを教えられました。新城市には約二三〇〇名の小学生がいるそうです。五九〇名の中で幼稚科(保育園・幼稚園)と市外からの子どもが約百人でした。ですから感謝な事に新城市の小学生の五分の一程が来てくれた事になります。御言葉を聞き、真剣に祈る時、主の山の上には備えがあるということを覚えていかなければならないと教えられました。 『わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。――主の御告げ。――』 みこどばには力がある。信じた通りになる。だから今年はみことばを信じて実行するものでありたいと思います。みことばには力があります。剣であるみことばを宣言するとき、悪魔を打ち砕くことができます。また御言葉を信じて私たちが祈っていくときに、大きな力を出すことができます。人にはできないことでも、神にはできます。「私のことばは火のようではないか、」とあります。私たちには山のような問題があるかも知れませんが、御言葉で立ち向かっていくときにその山を焼き尽くすことができます。また大きな岩のような状況でも、みことばは「岩を岩を砕く金槌のよう」で岩を叩き割ることができます。アメリカのコロラド州に、春一番に咲く「サクシフラージュ」という花があるそうです。その花の根は岩の小さな裂け目に深く入って、そこに種を植え付けます。するとその種はものすごい力で成長して岩を砕いてしまうそうです。英語では「ロック・ブレイカー」日本語では「岩を砕く花」という意味だそうです。御言葉、それは小さな種かも知れません、しかしそれを信じたときに必ず火となり、岩を砕く金槌となると信じます。みことばを信じ、みことばを打ち立てて、暗闇の力である悪魔を打ち砕き、問題、悲しみなど今まで動かなかった事も勝利することができるよう祈りましょう。自分が何かするのではない。子どものように、ただ素直に祈ったことが、大きなみわざを現してくださいます。私たちも幼子のようになって、信仰を持って御言葉を受け取っていきたいと願います。みことばには権威があります。 岡本信弘 牧師 ハレルヤ! あっと言う間に一年が過ぎようとしていますが、こうして守られ、年末を迎えることができたことを感謝します。 |
メッセージ集 〜パート1〜 |