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2002.12.31(SUN)
「ニュー・イヤー・イブ・キックオフ聖会」
メッセージ集 
〜パート2〜

滝元 明 牧師

上條 実 牧師

岡本信弘 牧師

 滝元 明 牧師

 ハレルヤ!皆さんのお祈りに支えられていることを感謝します。今年は、詩篇九十二篇の十節の御言葉が私の中にいつもありました。

『しかし、あなたは私の角を野牛の角のように高く上げ、私に新しい油をそそがれました。』

 これは今年私が与えられていた御言葉で、関西40daysのために与えられた御言葉でもあります。角は権威ですが、イエス様が上からの権威を高く上げてくださったことを感謝しました。
 今年、和歌山県に行くと、ある牧師先生の奥様が私を見て、「先生、先生の頭に角が生えています。高く天まで届いています」と言われました。とても嬉しかったです。この御言葉が与えられていたからです。イエス様の権威の中で働かせていただき、新しい油注ぎを与えられました。

『彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。』

と書かれています。私は年老いている方ですが、年のことをあまり考えずにみずみずしく生い茂った集会ができたことを、心から感謝します。また、四十日の集会の中で、全国の方々が祈ってくださり、経済的にも支援してくださったので感謝でした。私は、祈ってくださり、ささげてくださった方々にお礼をしたいという気持ちがいっぱいでした。それで、それらの方々に、クリスマスカードを書きました。今年は一八〇〇人の方々にカードを送りました。小さなことですが、祈ってくださり、支えてくださったことを、少しでも感謝することが大切だと考えています。
 最近、私の家に毎日、「化け物」が入ってきます。その化け物は、クリスマスカードが化けて、果物や魚になって送られてきます。先日も、函館から、「クリスマスカードをもらいましたから」と、紅鮭を送ってきました。その方の弟さんは牧師で、その方は他の宗教に入っていましたが、無理矢理甲子園ミッションに連れて来られたそうです。彼は目も悪く、体も悪い方でしたが、甲子園に入った途端、目が癒され、体も癒され、偶像礼拝が罪だとわかり悔い改めました。今その方は、函館で牧師をしています。
 またもう一人は、九州の久留米の方です。クリスマスカードと一緒に、ケーキを送ってくださいました。カードに、「祝・降誕。ハレルヤ、滝元明先生、清子先生、クリスマスお祝い申し上げます。ささやかでございますが、ケーキをお送りします。お召し上がりくださいませ。このたびは先にクリスマスカードをいただきましてありがとうございました。私は現在、六十五歳ですが、二十代の頃先生に、形原公民館で導かれ、救われたものです」と書かれていました。
 今から四十年前の伝道集会で救われたというのです。伝道して実を結んでいることは感謝です。四十日の時に、たくさん種を蒔きましたので、やがて天国に行くと、「あの時の集会で救われました」と言われる方がたくさんいると信じます。
 歴代誌第一の十七章一節に、

『ダビデが自分の家に住んでいたとき、ダビデは預言者ナタンに言った。「ご覧のように、この私が杉材の家に住んでいるのに、主の契約の箱は天幕の下にあります。」すると、ナタンはダビデに言った。「あなたの心にあることをみな行ないなさい。神があなたとともにおられるのですから。」』

と書かれています。ダビデは祝福された王でした。彼自身が語ったことは、自分が杉材の家に住みながら、主の家・主の契約の箱が天幕にある、というのです。今まで神様がダビデに、「わたしは、天幕に住んでいるのに、おまえたちはなぜ、良い家に住んでいるのか」と言われたことはありません。しかし、ダビデが素晴らしい杉材の家に住んだときに、「私は杉材の家に住んでいるのに、主の家は天幕にある」と言いました。
 結論的に、ダビデは主の宮を建てることができず、その後、ソロモンが主の宮を建てました。しかしダビデのその考えが、とても神に喜ばれました。そして、神が言われたことは、

『万軍の主はこう仰せられる。わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場からとり、わたしの民イスラエルの君主とした。そして、あなたがどこに行っても、あなたとともにおり、あなたの前で、あなたのすべての敵を断ち滅ぼした。わたしは地上の大いなる者の名に等しい名をあなたに与える。』

と言われました。ダビデ自身が祝福されたことは、「自分の家よりも、もっと良い神の家を建てたい」と願ったことでした。
 この新城教会のことを考えると、初めに作った教会は、この場所に百名入る会堂でした。次は、二百五十名入る教会を作ったときに、みんなに、「新城教会、ずいぶん安くできました。」と言っていました。しかしある時、心が責められました。「神の家が安くできた、これは良くない・・・もっと、最高のものを作りたい」と考え、今度は五百名以上入る会堂で、「最高のもの」を作って主にささげようと言いました。
 現在の教会は安く作ったのではありません。一九八〇年に、一億五百万かかって建てました。おそらく、日本中の教会を回ってみても、この田舎で最高のものをささげたと思います。それにより、イエス様がこの教会を祝福してくださいました。
 来年、祝福の秘訣は、神様に最高のものをささげることです。そうしたら、神様が素晴らしい祝福を与えてくださると信じます。
 また最近与えられた御言葉は、マラキ書三章十二節です。

『すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。』

 早天祈祷で、聖書を読む中で、この御言葉を神様が新城教会に語られたと確信しました。「すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。」
 来年は必ず、イエス様がこの教会を祝福してくださると信じています。神は、「十分の一を神様にささげなさい。天の窓を開けて溢れるばかりの祝福をあなたたに注ぐかどうかを見なさい」と言われました。神の前に正しくささげるときに、天の窓が開かれます。これから、私たちが喜んで神様のために最高のものをささげていくことができるように、そして、来年こそは大きなリバイバルを見ることができるように、新城だけではなく、日本全体に注がれるように、最高のものをささげていきたいと願います。

 上條 実 牧師

 ハレルヤ!みことばをお読みいたします。創世記二十二章一節から十四節です。

『これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。』

今お読みいたしましたみことばはこの一ヶ月間私の心に語られている箇所です。アブラハムとサラの間には長い間子どもが与えられませんでした。そしてローマ人への手紙四章一九節「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。」とあるようになんとアブラハムは百歳で自分の体が死んだも同然、サラの胎は死んでいることを認めていても信仰が弱らず、神様の約束通りに待ち続け、待望の子イサクが生まれました。私はここで信仰について教えられます。たとえ人間的には絶対だめであっても、神が語られたことは絶対に実現する。「神にとって不可能は一つもない」というみことばを信じ続けて待ち望むとき、たとえどんな状況になっても神は答えてくださる。みことばは一点一画変わらない権威ある言葉。必ず実現すると信じなければならないことを再確認させられました。しかし素晴らしい神様の栄光を見た後、神様はアブラハムに考えることのできないことを語られました。与えられたイサクをささげろというのです。イサクを殺して私(神様)にささげろと言われたのです。血も涙もないような命令をアブラハムに語りました。しかしなんとアブラハムは翌朝早く神様の言葉を実行したのです。神様が言われたようにイサクを縛り、祭壇の上にのせ、ほふろうとした時に神様からストップがかかり「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。」と語られました。イサクの代わりに一頭の雄羊を主が用意しささげました。「アドナイ・イルエ」主の山に備えあると語っています。私はこの一ヶ月間語られ続けているのは、「主の山の上に備えがある」ということです。自分でがんばろうとりきんでも、何もできない。私たちはただ御言葉に従っていくということ。自分で何かをしようと、自分が動き、自分で考えてしまっている。「アドナイイルエ」主の山の上には備えがある。だから力を抜き、ただ御言葉に従うこと。原点に返って、ただ単純にどんなことが起ころうとも御言葉に従うことを神様に教えられました。話は変わりますが、一度礼拝時に子どもたちがいつも座っている所で礼拝に参加してみてください。普通礼拝に参加すると、霊的にも、精神的にも祝福されて心洗われる時です。しかし子どもたちには退屈らしく、いくら「静かにしなさい」と注意しても騒がしい主日礼拝です。自分はその騒がしさの中でイライラしてしまい、「本当に子どもたちは神様を愛しているだろうか」と疑ってしまいます。十二月七日に「子どもクリスマス会」がありました。一週間前の一二月一日の時点で子どもたちに何も友だちを誘っているか、また誘おうと考えているか確認しました。来ると決まっている確定者はほんとに少数であり、目標としている人数をたすと、目標にはほど遠い二七〇名程でした。クリスチャンの子どもたちが三十人たらずの人数の中で、去年は感謝の事に大人の方を入れて四百名を越したので、今回の目標は子どもだけで四百一人という目標を子どもたちが立てていました。しかしこんな一週間前にこんな状態ならば絶対にできない、無理だと確信しました。子どもたちの礼拝態度などを見ても、よく聖霊様が働いて下さっても三六〇名程だと思っていました。しかしその十二月一日の日曜日の午後、子どもたちと共に戦いの祈りをしました。その数週間前にも新城市にある七つの小学校にも祈りに行きましたが、子どもたちは真剣になって、動員を妨げている暗闇の力が打ち砕かれるように、戦いの祈りを真剣に祈りました。なんと当日五九〇名の子どもたち、また一緒について来たご父兄やスタッフをいれて七百名の方が与えられました。教育館ホールによくぞ入ったと思うほど入り切れないほどの子どもたちが集いました。集会中賛美をし、みことばを語り、最後にイエス様を信じる祈りをしましたが、何でこんなに静かにみことばを聞いてくれて、大声で祈ってくれるのと不思議なほどの時でした。この集会を持たして頂いて、子どもたちは何の力も入っておらず、自然体で御言葉に従い、ただ祈りました。六日前には子どもたち全員の目標二七〇人と言っていて、現実は二桁ほどの子どもしか確約が取れていなかったのに、電話をしたり、チラシを配ったりする中でなんと五九〇名の子どもが集まってしまいました。これは決して子どもたちではなく、聖霊様が働いてくださいました。祈りの答えです。「主の山に備えがある」この御言葉が現実となったのです。子どもたちの信仰。私から見たらこんな騒がしく、落ち着きがなく、イエスさまを愛しているかわからない子どもたち。しかし子どもたちの自分に力が入っていない、ただ神様を信じる単純の信仰がどんなに大きな力を現すか、霊的戦いの祈りで、宣言した祈りは必ず答えられる。みことばと祈りには主の権威があると言うことを見ることができました。御言葉を受け取り、必ず祈った事は答えられる。主の山には備えがあるということ信じていくことを教えられました。新城市には約二三〇〇名の小学生がいるそうです。五九〇名の中で幼稚科(保育園・幼稚園)と市外からの子どもが約百人でした。ですから感謝な事に新城市の小学生の五分の一程が来てくれた事になります。御言葉を聞き、真剣に祈る時、主の山の上には備えがあるということを覚えていかなければならないと教えられました。
最後に今年私に与えて下さったみことばはエレミヤ書二十三章二十九節です。

『わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。――主の御告げ。――』

みこどばには力がある。信じた通りになる。だから今年はみことばを信じて実行するものでありたいと思います。みことばには力があります。剣であるみことばを宣言するとき、悪魔を打ち砕くことができます。また御言葉を信じて私たちが祈っていくときに、大きな力を出すことができます。人にはできないことでも、神にはできます。「私のことばは火のようではないか、」とあります。私たちには山のような問題があるかも知れませんが、御言葉で立ち向かっていくときにその山を焼き尽くすことができます。また大きな岩のような状況でも、みことばは「岩を岩を砕く金槌のよう」で岩を叩き割ることができます。アメリカのコロラド州に、春一番に咲く「サクシフラージュ」という花があるそうです。その花の根は岩の小さな裂け目に深く入って、そこに種を植え付けます。するとその種はものすごい力で成長して岩を砕いてしまうそうです。英語では「ロック・ブレイカー」日本語では「岩を砕く花」という意味だそうです。御言葉、それは小さな種かも知れません、しかしそれを信じたときに必ず火となり、岩を砕く金槌となると信じます。みことばを信じ、みことばを打ち立てて、暗闇の力である悪魔を打ち砕き、問題、悲しみなど今まで動かなかった事も勝利することができるよう祈りましょう。自分が何かするのではない。子どものように、ただ素直に祈ったことが、大きなみわざを現してくださいます。私たちも幼子のようになって、信仰を持って御言葉を受け取っていきたいと願います。みことばには権威があります。

 岡本信弘 牧師

 ハレルヤ! あっと言う間に一年が過ぎようとしていますが、こうして守られ、年末を迎えることができたことを感謝します。
 この年末、何を語ろうかと祈っていました。いつも御言葉を語るときに、一度これだと思っても、途中で止まってしまい、もう一度祈り直すことがあります。しかし、今回は、ずっと祈っている中で、「これだ」っと確信した御言葉、出エジプト記十四章十節から十八節をお分かちしたいと思います。
 この一年、私は戦って、走り続けてきたという印象があります。しかし時々、戦いの中で〈少し疲れた、チョット休みたい〉と思うことがあります。先週、ある人の前で「疲れた」と言ったら、「先生でも疲れることがあるのですか」と言われましたが・・・。先週はとても疲れて、十一時間くらい寝だめをしました。そうしたら次の日からは元気になりました。
 この御言葉の箇所には、イスラエルの民が四百年間の奴隷生活から解放され、カナンの地を目指して旅を始めたときのことが書かれています。彼らはエジプトで奴隷生活をし、何とか解放されたいと叫び続け、その救世主としてモーセが遣わされ、何百万というイスラエルの民を連れて、エジプトを出発したのでした。彼らは、〈もうこれで私たちは解放された。約束の地カナンには祝福が待ち構えている〉と希望を持って出て行きました。しかし喜んだのもつかの間、彼らは困難にみまわれます。目の前には紅海が広がり、後ろからはパロの追っ手が来て八方塞がりの状態で、どうにもならない状況の中、非常に恐れて主に叫んだことが書かれています。
 『そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」』(出エジプト十四章十一〜十二節)
 素晴らしい数々の奇跡を見て、モーセについていけば大丈夫だと思って出てきたにもかかわらず、問題が起こるとすぐに彼らは、「あなたが私たちをこんな所へ連れてくるから、こんな目に遭うんだ。私たちはエジプトにいた方が良いと言ったではないか」と文句を言っています。
 去年、私は『誇る者は主にあって誇れ』という御言葉からお話しをしました。
 私はプレイズの責任を持たせていただいているので、いろいろな決断をしなければならないことがたくさんあります。そのような時、いつも祈って決断をしていきますが、この一年間も神様がその決断を祝福してくださって、良い方向へと導いていただきました。しかし、気をつけなければならないことは、物事が良い方向に向かった時、ともすると、私たちは〈自分が選択したら、自分がこう言ったからうまくいった〉と思いがちです。
 反対に、いろいろな問題にぶつかり、その問題に立ち向かう時、〈なぜ私だけ、こんな戦いをしなければならないんだ。なぜ、私だけが苦しみに遭わなくてはならないのだ〉と思うこともあります。しかし、思い違いをしてはいけないのです。その決断を導いてくだったのは神様、戦ってくださるのも神様なのです。ですから誇るべきは、自分自身を誇るのではなく、神様だけなのです。
 イスラエルの民も同じ間違いをしました。自分たちがモーセを信頼し、幸せになれると思って出てきたけれども、追い迫ってくる敵に恐れをなし、つぶやいたのです。しかし、主はイスラエルの民に語られます。
 『それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」』(十三〜十四節)
 私たちは、何か問題が起こり、それに立ち向かっていく時、とかく自分が一生懸命戦っているように思いますが、そうではなく、「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない」とあるように、いつも主が戦ってくださっているのです。
 クリスチャンでない方は、普段神に祈らないような人達であっても、何か困ったことが起こると神に頼ったりします。「困った時の神頼み」の言葉通りです。クリスチャンもまた、問題にぶつかると、「イエス様、助けてください」と真剣に祈ります。それは悪いことではありません。しかし、私たちが主に助けを求める時、イエス様がスーパーマンのようにやって来て、助けてくださり、問題を解決してまた去っていくというわけではありません。『イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる』と御言葉にあるように、イエス様は私たちのただ中におられ、いつも私たちとともにおられるのです。そして私たちが戦うのではなく、主が戦ってくださるのです。
 先日、本を自費出版したいという韓国の方とお会いしました。その方は韓国での苦労、その後日本に来られてキャンパスクルセードの働きを始め、その大変な苦労の中で、神様がどんなに大きな恵みを与ええてくださったかを本にしたい、と言われました。証しを聞き、感動しました。また、いろいろな話をしている中で、私は「日本もこれから経済的にどうなるかわからなくて大変ですね」と何回も言いました。すると、その方は「いや、大変ではありませんよ。日本の経済家や政治家は、来年はこうなる、再来年はこうなるといろいろ分析していますが、私たちが信じている神様は、来年のことだけではなく、五年後、二十年後、三十年後、すべてを知っておられ、その一番祝福されたものを私たちに与えようと用意されているから、何の心配もありませんよ」と言われました。それを聞いて、〈そうだ、私が大変なのではない。神様がすでに準備し、戦ってくださるのだから〉と信仰を持ちました。
 ここには、『主があなたがのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない』と書かれていますが、私たちは黙っていればいいのかというと、そうではありません。この後、十五節から見ると
 『主はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真中のかわいた地を進み行くようにせよ。見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。彼らがそのあとからはいって来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現わそう。」』(十五〜十七節)と書かれています。
 主が私たちのために戦ってくださるのは確かです。しかし私たちは黙っているだけではいけません。ここに『前進するように言え』とあるように、私たちは前に進んでいかなくてはなりません。
 私たちにはこの地上において戦いがあります。来年も戦いが続きますが、この戦いは、主の戦いです。神様が戦ってくださいます。しかし、前進していくのは私たちです。私たちが前進しなければ、神様は助けを与えることも勝利を与えることもしてはくださいません。イスラエルの人たちは信仰を持って前進した時に、海が分けられ、海の真ん中のかわいた地を歩くことができ、約束の地に向かって進みゆくことができました。
 二〇〇三年、主に信頼し、なお前進していく時に、神様は必ず大いなる業をこの教会、また皆さん一人一人の生活の中に現してくださることを確信しています。主が私たちとともにいて戦ってくださることを覚え、主がどのように素晴らしい業を見せてくださるかを期待して、前進していきましょう。

「ニュー・イヤー・イブ・キックオフ聖会」
メッセージ集 
〜パート1〜

公畑フェルナンド 副牧師四元雅也 副牧師滝元 開 副牧師
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