「宣教70周年-2020-
明日に向かって 『将来と希望』パート4 
〜主イエスはよみがえられた!〜」

2020年4月12日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
エレミヤ書29章10節〜11節

『まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐主の御告げ‐‐それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』

コロサイ人への手紙1章19節〜20節

『なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。』

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。人生には予期しない出来事が突然、起きるものです。全世界に、今まで起こった事がない、信じられない出来事が起こっています。新型コロナウイルスの拡散が止まりません。昨年の暮れくらいから話題になったのですが、全世界に広がり、あっという間に世界の枠組みが変わってしまいました。

 今日は「復活祭」です。復活祭は、イエスさまが墓からよみがえられた日を記念する日です。死んでよみがえったような人はいないです。仮死状態から蘇生した人はいるかもしれません。しかしイエスさまは確実に死亡し、三日間墓に葬られていたわけです。しかし、よみがえられたのです。
 心から願うことは、今日から、世界はコロナウイルスの脅威から脱し、新しい扉が開かれる事です。
 医療関係者の皆さん、本当にたいへんだと思います。医療関係の方々のために祈らなくてはいけないです。是非とも、医療関係の方々の守りと、祝福を祈ってください。
 神奈川県が「がんばれ!コロナファイターズ!」というエンブレムを作ったみたいです。医療関係の方々は命がけです。コロナの患者さんと相対して、見えない敵と戦っています。
 今や世界中が暗くなっています。笑いを失っている、今日この頃です。今日は少し、皆さんに明るくなって頂きたくて、医療関係の小話を用意しました。

 「先生、大変です。体のあちこちが痛いんです。ここを押さえても、ここを押しても、ここを押しても、ひどく痛いんです。」
『どれどれ見てみましょう。あぁなるほど。指の骨が折れていますね。』

 「先生、助けてください!毎晩同じ夢を見るんです。」
『詳しく話してくださいますか。』
「何かが書いてある大きな門の前にいつもいるんです。その門を押すのですが絶対に開かないのです。」
『妙な夢ですな〜。で、門には何と書いてあるんですか?』
「引く」

 もう一つは海外旅行の話なんですが、海外旅行にも行けなくなってしまいました。

 海外旅行に出かけた老夫婦。飛行機が離陸してまもなく妻が叫んだ。
「あら大変、アイロンをつけっぱなしにしてきたわ。」
すると夫はあわてず、「安心おし、大事には至らないよ。わしが浴槽の蛇口を閉め忘れたから。」

 昨日、孫にこれを聞かせたら、「おもしろいね。」と言ってくれたので紹介しました。
 つい最近まで、成田空港は多くの人たちで溢れていました。しかし今ではここに誰も来なくなってしまいました。現在、セントレアは国際便の全てがキャンセルです。成田は少しあるみたいです。飛行機も飛ぶ時は、マスクをしないと飛ぶことができないようです。

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 本当かどうかは、ご自分で確かめてもらうしかないですが。ちょっと冗談です。

 世界の経済が復活するとか、これからの景気はどうかとか、悪いニュースを多く聞いています。今日は復活祭。イエスさまが死からよみがえった、最大の良いニュース記念日です。この日を契機に、私たちはもう一度立ちあがりたいです。
 イエスさまは墓を破ってよみがえられたのです。ほとんどのイエスさまの姿は、白人系ですが、今から二〇〇〇年前、パレスチナに住んでいたイエスさまを含めて、男性の顔はアジア系でした。

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 昔の骨を、犯罪捜査の手法で再現すると、こんな顔だというのです。イエスさまは庶民的なお方で、私たちと共におられます。

 イエスさまはこの地に来てくださり、本来、私たちが滅びなければいけないのを、自ら身代わりになって下さいました。神が人の身代わりになったわけです。
 例えば私が死刑囚で、刑務所で刑の執行を待っていたとします。ある日、神が人の姿になって現れ、私の身代わりに死刑になってくれたのと同じです。
 なぜにここまで、人類のためにしてくれたのか?それが神の愛だと説明されても、正直言って、なかなか理解できません。ちょっと腑に落ちないのです。人は神によって造られた被造物にしか過ぎません。被造物の為に、神が身代わりになるなんて、本末転倒です。よほどのことがない限り、あり得ません。

 先日、ヘブル人への手紙の専門家である「デイビッド・モーフィット」という聖書学者の記事を読みました。彼がこのように述べていました。

“御子は人となられ、人々を罪からきよめ、また悪魔の支配から解放してくださった。人間がこのような大きな祝福に与ったのは、その本来の使命、「地を治める」という召命を果たすためだ。地を治めるためには私たち人間には「からだ」が必要なのである。死んで霊の状態になってしまえばその召しを果たすことができない。”

 時々、早く天国に行きたいという気持ちになることがあります。私もこの頃、今まで思ったことはなかったのですが、たまに思うのです。もう嫌だなぁ〜早く天国に行きたいな~と。
 天国はどこにあるのかというと、「死後の世界」と多くのクリスチャンは理解しています。しかし聖書が告げる天国とは、死んでからの世界ではないのです。それはやがて地上に実現する、神の国です。
 私たちが「人間であるため」にはどうしたらいいのか、それは、からだが必要だというのです。からだがなくなったら、人間ではなくなってしまうのです。死んでしまったら、人間の機能は失われるわけです。

 本日、本当なら「召天者記念会」があるはずでした。新城教会、今年で七十年の歴史ですが、七十年の間に、多くの兄弟姉妹が天に帰って行かれました。死後の世界も、神の支配下にありますから、「天国」と表現しても間違いではありません。私の両親もそちらに去って行きました。
 私たちはなんとなく、死ぬと人はグレードアップして、スーパーマンのようになれるような気がするのですが、聖書をよく読むと、そうではないのです。神が人を「人として」認めて下さるのは、地上にあって肉体を持っている期間だけなのです。その間を、人間として評価してくださるのです。
 なぜなら人には、「地を治める」という目的があるからです。その為に地上に創造されたからです。からだがあってこそ、地を治めることができるわけです。

 人間は物質界を治める役割として、神によって創造されたのです。人が神に従い、正しい方向に進んで行くなら、他の被造物はすべて、神のみこころの方向に向かいます。
 しかし管理人であるべき、地を治めるはずの人類が、悪魔の誘惑により罪を犯し、神の前から堕落してしまったのです。

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 以前によくこの画像を出して説明しましたが、人類は親亀みたいな存在です。その他の被造物を背中に乗せて、神の声に従い正しい方向に進んで行くと、神が造られたすべての被造物は、みこころの方向、最善の場所に行き着くはずでした。
 しかし残念なことに、人が神から離れ、堕落したがゆえに、「親亀転けたら、子亀も転けた」となったわけです。

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神は全ての被造物を人類の背中に乗せて、みこころの方向に進んでほしいと願われていました。けれども、親亀が転けたから、その他すべての被造物も、「巻き添えを食らって」、堕落してしまったわけです。
 そんな状態に直面した神は、回復の為に何をしたらいいのでしょうか?親亀だけではなく、被造物全体を助けるためには、まず人類を助ける必要があったわけです。

 今日、コロサイ人への手紙の一章十九節〜二十節を読んでいただきました。イエスさまが十字架にかかって死に、よみがえってくださったのは、究極的にはどのような目的があったのか。それがコロサイ人への手紙一章十九節〜二十節ら記されています。

『なぜなら、神はご自分の満ち満ちたものをすべての御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからである。』

 イエスさまの十字架の目的は、人を救い出すことによって、神が造られた被造物全体の救いと和解に繋がったのです。
 人が罪から救われて元のポジションに戻れば、「親亀が立ちあがれば子亀も一緒に付いて来る」はずです。イエスさまの十字架と復活は、人類にとって大きな恵みですが、取りも直さず、神が創造された被造物全体の救いと和解、回復であったのです。「福音」とは「良い知らせ」です。「福音とは何か」に関して、N.T.ライトが「シンプリーグットニュース」という著書の中で次のように定義していました。

 “良い知らせというのは魔法の合い言葉で窮地を脱して天国に入る少数の人間のためのものではなくて、被造世界の全体についての知らせであり、被造世界全体のための良い知らせなのです。”

 復活祭とは、人間のためだけでなく、「被造物全体の回復」という大きな目的があるのです。ということは、新型コロナウイルスも、元々は、神が造られた被造物です。「ウイルス」とは、ラテン語で「毒」という意味らしいです。悪い名前を付けられてしまいましたね。
 しかしバイ菌でも、善玉と悪玉があるのと同じように、ウイルスにも善玉と悪玉みたいのがあるらしいのです。ウイルスがいないと哺乳類は生きることができないそうです。また生態系も、ウイルスによって保たれている部分もあるというのです。
 しかし人類が管理するどころか、生態系を壊したりと、人間中心的な勝手な行動によって、ウイルスは人に敵対する、突然変異を余儀なくされましたが、元々は、必要な存在として神が造られたものです。ですから私たちは管理人として、人類の背中に乗っているウイルスをも、管理、回復出来るはずです。
 その原点となったのが、イエスさまの復活と関わりがあるのです。復活祭は、イエスさまが死を打ち破り、復活された記念日ですが、それは神と万物、同時に、万物間の和解が成立した日なのです。

 そして、からだのよみがえりとは、先ほどお話しましたように、人はからだあっての存在なのです。今日、私たちには、からだがあります。からだがあることを、感謝しなければいけません。
 この間も話をしましたが、キリスト教神学に、中世期、グノーシス主義が強く影響をもたらしました。それ以来、霊的なものは優れているけれど、肉体は牢獄であり、良いものではない、という考えが入ったのです。
 本来神は、「霊も、たましいも、肉体」も、すべて良いものとして、健やかであるように創造されました。肉体は神が必要として、造られたわけです。それは万物を管理する為であり、その為には「からだが必要」だということです。

 実は今、人類は「生き残りをかけた戦い」を繰り広げています。私は教会ニュースに記事を書かせていただきました。今朝は地域の皆さんに届けられたと思うのですが、「新型コロナウイルス〜人類存続をかけた戦い〜」というタイトルを付けさせていただきました。

 今、人類の価値観が、大きく変わりつつあります。今までの最大の目標、目的は、「一円でも多く儲ける」事でした。すべてが「経済中心」にありました。
 しかしどうでしょうか。今、「金なんかどっちでもいい、生き残れるか否かだ」という戦いを繰り広げています。今までの価値観であった、経済中心主義が崩れています。生き残るためには、「Stay Home!家にひきこもっていてください!」と強く勧められています。

 今や人類は共通の敵と戦っているのです。人類は昔から、戦争ばかりを繰り返して来たのですが、いくら平和会議を開き、平和条約を結んでも、すぐに戦いを始めるのです。こんな人類ですが、一つだけ、戦争や紛争を瞬間的に止める方法があるというのです。私はそのことを聞いて、どんな方法かと思ったら、地球外生物、宇宙人が地球に攻めて来たら、人類はお互いに戦うことをやめ、一致して、共通の敵、宇宙人と戦うようになるというのです。今や同じ事が起こっています。人類共通の敵、それも目に見えない敵と激しく戦っています。

 先ほどエレミヤ書を読みましたが、エレミヤ書二十九章では、神はバビロンに捕囚されたユダに一つの約束を与えました。「七十年経ったら回復してあげます!」という約束の預言でした。
 そこで約束されているのは、災いの計画ではなくて、将来と希望を与える計画です。そのような預言を、神はエレミヤを通して、ユダの人たちに与えました。「七十年間、待ってください。そうしたら解放してあげますから。」と。

 七十年経った頃に、バビロンに住んでいた一人の人物がいました。彼がエレミヤの預言を見つけ出すのです。「あっ!こんな預言がある!そろそろ七十年経つじゃないか!」
 そして彼は立ちあがったのです。それが誰かというと、ダニエルでした。ダニエルはネブカデネザル王が見た夢を解き明かしました。

 ネブカデネザルはある夜、恐ろしい夢を見て、バビロンの知者たちを集めて、「俺の夢を解き明かしてくれ。」と頼みました。『じゃぁ、どんな夢だったか教えて下さい、王よ?』「いやいや、俺の見た夢までも当てろ。」と言ったわけです。そんなの絶対に無理だと思われました。しかしダニエルは、同じ夢を神さまから見せられました。
 どんな夢だったかと言うと、巨大な像が出て来て、頭は金、胸は銀、腰は青銅、両スネは鉄でできていました。しかし足首は「鉄と粘土が混ざった」足首でした。

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そこに山から小石が飛んで来てあたると、巨像は倒れ、砕け散ったというのです。その後、人手によらずに切り出された石は大きくなり、地球全体を覆ってしまったという夢でした。この夢を見たネブカデネザルは、相当怖かったに違いないです。ダニエルはその夢を解き明かしたわけです。
 この像には弱点があって、それは足首でした。「鉄と粘土」でできていました。これは普通では一致しない国々が、一致している姿を現していました。その時代が来ると、人間支配は終わりを告げるという、終末の国際情勢を表していたのです。
 ネブカデネザルが見た夢とは、「人の支配の終わりと、神の国の実現」を教えています。
 山から人手によらずに切り出された小石とは、イエスさまのことです。イエスさまは、人手によらずに処女マリヤから、鉄と粘土の混じっている時代にお生まれになりました。それはイエスさまの十字架と復活以後の時代をも含みます。

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 最近、話題にならなくなった「TPP」。歴史も宗教も言語も、全て取っ払って、経済発展ために共同体を作りましょう!と叫ばれてきました。経済が一番大事なんだから、経済のためなら、儲かるためなら、国境は取り去って一つの世界を作りましょう!みたいな国際的流れだったのが、今ではどうでしょうか。まさに、新型コロナという小石がぶつかって以来、鉄と粘土の足首が砕かれたみたいです。それぞれの国が、「もう他国の人、来ないで!」と自国だけでひきこもっています。「国境線を取り除くなんて、ありえない!」となっています。

 昨日、ヤフー・ニュースを見たら、国どころか県ごとで、そういうことが起こっているらしいです。山形県は県境で、他県から来る人たちの体温を測るそうです。三十七・五度以上の人がいたら、「帰ってください。山形に入らないでください。」と追い返すそうです。

 愛知県はどうでしょうか。愛知県は、国の「緊急事態宣言」の七つの都府県の中に入れてもらえなかったのです。それで大村さん自ら、緊急事態宣言を出しましたが、なぜ出したのかと言ったら、「東京の人とか、大阪の人が来ると愛知県が危ない」というのが大きな理由です。
 今までは県境も取り払って経済のために一つになりましょう!と言っていた、かけ声が壊れているのです。

 新型コロナの問題はたいへん悲しく、苦しい現実ですが、人が持っている価値観を根底から探られているような気がします。神は人に、「価値観を変えたほうがいいですよ。金よりも、からだが大事ですよ!」と語っておられます。「からだあっての物種ですよ!」と。「からだを地上に残すために、最大限の努力をしてください!」という、神からのメッセージではないかと思われます。
 今や、長い間続いてきた戦争や紛争、諸問題を解決するために、神自らが歴史に介入されている瞬間かもしれません。少し痛みはあるかもしれないけれど、この時にこそ、私たちは神の前に出て、人類の罪を悔い改め、祈りをささげなければならないと思います。第二歴代誌七章十四節、

『わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。』

 神は緊急事態に対処する為に、既に、人のからだの中にアプリをインストールされています。そのアプリは、普通時には作動しません。どんな時に動くのかというと、緊急事態に働くようにセットされています。そのアプリが「祈り」です。エレミヤ書三十三章三節、

『わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる。』

 これもエレミヤが語った預言です。「わたしを呼びなさい。そうしたらあなたに答えます!」と。
 英語の聖書だと、「Call to me and I will answer you!」となっています。「わたしに電話して!そうしたら答えますから!」と告げています。
 交通事故とか、急病人が出た時、スマホから119と、三つの番号を押すだけで、救急車がすぐに来て助けてくれます。それと同じです。
 今、私たちは、何をしなければいけないのか、それは「わたしに電話して!わたしはあなたに答え、助けますよ!」と神は語っておられるのではないでしょうか。
 今こそ人類は、創造主なる神を認めて、死を打ち破り、からだを再生されたイエスさまに目を留めて、祈らなければなりません。今こそ祈りの時です。祈りがあったら、必ず、神は答えてくださいます。

 先ほど、新型コロナの終息のためにご一緒に祈りましたが、それは人ごとではなく、今や自分の生き残りのためにも祈らなければいけない、重要なテーマです。
 祈りが始まる瞬間は、決してバラ色の時ではありません。大きな問題が起きた時にこそ、神はあなたの体内にインストールしているアプリを起動して、「祈りなさい!」と語られます。

 皆さんにお祈りしていただいているのですが、私の家内は去年の十月、体調が悪くて近くの病院に行きました。すると、たいへんな病である事がわかりました。青天の霹靂とはこういうものだ、と思いました。
 でもクリスチャンって、そんなことがあっても最終手段があるのです。それは本当にすばらしいです。祈ることができる。私もそれ以来、生活が一変してしまいました。彼女のサポートと、あとは、祈り切るしかないのです。皆さんにも祈りをお願いして、自分でも必死に祈っています。朝に、昼に、夜に、真夜中に、主の前にうめいて、「主よ、助けてください!」と日々、叫んでいます。

 そんな叫びの中で、最近、徐々に、主は祈りを受け取ってくださっている印象を持ち始めました。まだまだ、戦いは続いているのですが、祈っていただいている結果として、主が家内に、触れてくださっています。油断はできませんが、祈りは必ず、神に届きます。

 現在、私は、新型コロナ諸問題も加わって、三重苦以上です。しかし真っ暗闇の中でも、主は、光を見せて励まして下さいました。もっともっと祈らなくちゃ!と心を引き締めています。新型コロナのことも、真剣に必死に祈るべきです。自分のからだを地上に残してこそ、人間です。地上に肉体を長く残して、管理人として、被造物全体を管理する為です。新型コロナ問題は、祈りと共に主の前に出る、大きなチャンスだと信じます。
 本日、インターネット礼拝に出られている方々、強い祈りの要請が、主から届けられています。別に、「よっしゃ、分かった。こうしてやるぞ!」という声が聞こえるわけではありません。しかし、結果を出して下さるのです。新型コロナ問題が起きる前、主は、家内の病によって、私の祈りスイッチをあらかじめオンにされ、祈りのエンジンスロットを、全開にされたような気がします。

 けれども反面、祈りは大事だと分かるのですが、ちょっと腑に落ちない点もあります。なんで?みたいなところがあるのです。それは何かというと、「神はすべてを知っているはずなのに、なぜ、わざわざ人の祈りが必要か?」という疑問です。
 神は全知全能じゃないですか?だから我々の願いなんか、祈る前に全て知っているし、祈らなくたっていいじゃないか・・・。しょせん神が決めた通りにしかならないのだ、という人もいます。
 皆さんはどうでしょうか。なぜ、祈らなくてはいけないの?ただ、「みこころがなるように」と祈っておけばいいじゃないか、という意見も実際にはあるわけです。
 「神さまは、いじわるいなぁ。苦しい試練を与えて、我々に一生懸命祈らせておいて!最後は、神が決めたとおりにしか事はならない・・・」みたいな不満もあるわけです。

 先日、「なぜ私たちは祈らなければいけないのか。」なぜ、神は人の祈りを要求されるのかに関して、ある神学者の書いた説明を読んで、たいへん納得しました。その理由は、

 “神はこの世の所有権を人には与えなかったが、人に統治の責任を任せられた。全能の支配者でありながら、神が「自らを制限」されたのだ。それは、「この世のことに関しては、人を通して働かれる」と、ご自分を制限されたからである。”

というのです。
 人間が被造物の管理人として造られたという、根本的な理由と、「なぜ祈りが必要なのか」は重なり、リンクしているというわけです。
 神が「自らを制限された」というのです。神は何でも知っている。何でもできる。しかし、神が自らを制限されたのは、「この世のことに関しては、人を通して働かれる」と、ご自分を制限されたというのです。
 神さまは全知全能、何でも知っている、何でもできる。しかし一部の権限を制限され、その権限を管理人に委託したのです。
 では管理人は何をしなければいけないのかと言うと、神から委ねられた、神さま側から言えば、制限された権限を駆使して、祈りによって神の領域で制限された部分を満たす必要があるのです。神が制限された権威、すなわち欠けた部分を満たす作業が、すなわち、祈りであるわけです。欠けた部分を満たせなければ、結局、答えにつながらないわけです。神の答えは地上に届かないということです。
 神はすべてのことがおできになるのですが、地上の事柄に関しては、ご自分を制限され、管理人に委ね、管理人は祈りによって、神が制限された領域を満たすのです。それが祈りであり、神が人の祈りを必要とされる理由です。
 権限を委ねられた人は、神の空白部分を、祈りによって満たす必要があるのです。そうでなければ、祈りの答えはやってこないのです。

 その原則は聖書の中に、例として多く見られるというのです。「バビロンで七十年過ごしたら、あなたがたを解放してあげます!」と神は約束されました。やがて七十年が経って、先ほども紹介したダニエルが、エレミヤの預言を発見したのです。
 ダニエル書九章を読むと分かりますが、「ダニエルはエレミヤの預言を読んでいる間にイスラエルの捕囚が終わる時期が来たことを見つけ、その期間が七十年であることを知った。」というのです。
 神が「七十年経ったら解放してあげる」と言うわけですから、これでいいじゃないですか。「やったぜ!やっと七十年経った!これで解放される!」と、ダニエルは喜んだのかというと、そうではなかったというのです。
 「その預言を知ったダニエルは、神が自分の関与を必要としていることを知っていた」というのです。ダニエルは、「やったぜ!七十年経った!これで安心、万々歳!」ではなく、ダニエル書九章三節、

『そこで私は、顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた。』

というのです。
 神の計画はあったのです。しかし、自分の役割があるとダニエルは理解し、その役割とは、真剣な祈りでした。ダニエルは神が権限を制限されている事を知っていたのです。神の欠けた部分を祈りによって満たす必要について、気づかされていたということです。それで彼は、顔を神である主に向けて、祈り、断食し、粗布を着て、灰をかぶって、できる限りの祈りをもって神に近づいたのです。
 その時に何が起こったのかというと、クロス王が動いて、捕囚されていたユダの人たちは、自分の国に戻ることができたのです。
 こういう場面は聖書の中に、いろいろと見ることができます。

 エリヤもそうでした。三年間雨が降らずに苦しむサマリヤの人たちに対して、神は「雨を降らしてあげる!」と約束しました。神が雨を降らしてくれると言うんだから、もう心配ない。それで、雨が降るかどうか、カルメル山に上って、空模様を見に行きました。しかし一向に雨は降る気配はありませんでした。それでエリヤは祈り始め、七回も見に行きました。七回目になった時、手ほどの雲が現れて、やがて大雨となりました。神の約束と、雨が降るという約束の実現の空白部分には、祈りが必要であったのです。またその間には、バアルの預言者たちとの壮絶な、「霊的戦い」がありました。

 ダニエルも同じです。ダニエルが七十年の預言を発見し、預言は実現するかと思いきや、先ほど話した巨大な像と共に、ペルシャの君やギリシャの君と呼ばれる、国々を支配している悪霊の軍団との戦いがありました。彼は二十一日間、真剣に祈り戦った記事もあります。
 神は天で約束をして下さいます。しかし祈りの答えが地上に実現する過程には、祈りが必要です。同時に、霊的な戦いがあることを教えています。それはどうしてかと言えば、「神がご自分の権限を制限されて、人に譲渡している」からです。主を信じる者たちに権限を渡されているからです。私たちは神から委ねられた権限を十二分に駆使し、空白部分を祈りで満たさなければいけないのです。
 神は新型コロナに関しても、私たち管理人に祈るべき領域を任せておられると信じます。
 「神さまがそのうち、なんとかしてくれるんじゃないの?神さまは全部知ってるから。」ではなく、神はご自分の権限を制限され、私たちに手渡しておられるのです。そしてこのやり取りの中には、「霊的戦い」が含まれていることを、知らなければならないのです。それは人類が被造物の管理人であるという、意味合いがあるがゆえの戦いです。

 ドーベルマンという犬がいます。本当に怖いです。私は南米に何回も行ったことがあるのですが、南米は強盗とか多いので、ドーベルマンを放し飼いにしている家が結構あります。超怖いです。へたすると、かみ殺されてしまいます。しかし家の主人が来ると、おすわりなんかしちゃうわけです。ペットを正しい主従関係で管理していたら、強盗から守ってくれる存在にもなるのです。管理しなければ害を受けます。
 人と他の被造物との関係も同じです。新型コロナウイルスも、本来は神が必要として造られた存在のはずです。しかし、人が管理を怠ったゆえに、今や、人に牙を剥いている、今日この頃です。
 しかし人が管理人であることをしっかりと理解し、立ち向かっていったら、神が創造した原点に、ウイルスも戻っていくのではないかと思います。
 そのためには、私たち人間が何のために造られたのかをはっきりと知らなければいけないです。そのことが理解されていないがゆえに、世界中に様々に問題があるということです。

 “御子は人となられ、人々を罪からきよめ、また悪魔の支配から解放してくださった。人間がこのような大きな祝福にあずかったのは、その本来の召命、「地を治める」という召命を果たすためだ。地を治めるためには私たち人間には「からだ」が必要なのである。死んで霊の状態になってしまえば、その召しを果たすことができない。”

とありましたが、今や人類は、「からだを地上に残す戦い」、すなわち「管理人であり続けるための戦い」にシフトされています。
 経済中心の世界から、「からだを地上に残して、本来の使命である管理人として働いてくれ!」と神からの強いメッセージが、新型コロナウイルス問題には込められているような気がします。
 イエスさまのよみがえりは、被造世界全体の良い知らせであったということをよく理解して、私たちがどのポジションにつかなければならないかを、よく考えなければいけない時が来ています。

 今回の教会ニュースに、「皆さんで実行してみましょう!」とお勧めしたのですが、まず第一に、祈りの機能を使うです。
「天地宇宙を造られた神、イエスさま、今私たちを新型コロナウイルスの脅威から守り助けてください!」
 そしてもう一つは、神から委ねられた権限で命じる事です。
「新型コロナウイルスよ!私は管理人としておまえに命ずる!これ以上、世界に拡大してはならない!人類に危害を加えてはならない!管理人の命令に服従せよ!即刻、人類から手を引け!」

 これらを実践する時、神が制限された天の権限が回復され、地上に答えがやってくると信じます。
 人とは何者なのかという、人類の原点を問われているのが現在体験している新型コロナウイルス問題であると思います。主を信じる者たち、管理人として権限が回復されている者たちが、権威を行使する時が来ているのです。
 今日、インターネットで世界中で礼拝に参加されておられると思います。それぞれの国に主は勇士を配備し、この難局を乗り越えさせるために、祈りを持って仕え、管理人として悪魔に立ち向かい、新型コロナウイルスを元あったポジションに戻す働きを行うことを願っておられるように思います。

 今日はイエスさまが死を打ち破り、よみがえってくださった日です。この日から実行しましょう。主に助けを求めて祈ってください。それと共に、与えられている管理人としての権限を使っていただきたいと願います。

 今から聖餐式を行います。現在、聖餐式が家で行われています。これは初代教会が行っていたことです。三千人に聖霊が注がれた後、弟子に加えられた人たちは、使徒の働き二章四十六節〜四十七節、

『そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。』

と記録されています。今私たちは、宮に集まる、教会に集まることが出来ません。しかし主は、それぞれの家を神の宮に変え、託された権限を地域に広げようとされていると思います。そのために必要なのが「聖餐式」です。『家でパンを裂き、』と書かれていますが、聖餐式のことを別名、「パン裂き」と呼びます。弟子たちが聖餐式を各家庭で行っていたということです。

 私も、家で聖餐式を行うようにしています。特に家内が朝と晩、薬を飲むのですが、薬を服用する前に、聖餐式を行います。イエスさまと一つとなってから薬を飲んだら、もっとよく薬が効くのではないかと思って実行しています。実験というのは言葉が悪いですが、きっと主が、何かを行って下さると期待しています。
 聖餐式とは自分を省み、罪を悔い改め、主に救われた管理人であることを確認する時です。

 第一コリント十章十六節、

『私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。』

 聖霊とみことばによって、パンとジュースを祝福すると、パンがイエスさまのからだとなり、ジュースがイエスさまの血になるというのです。

 カトリック教会は「化体説」を受け入れています。一回パンを祝福すれば、パンがイエスさまの身体そのものに変わり、ぶどうのジュースはイエスさまの血そのものになるというのです。この説は間違いです。この聖なるパンをある時、ねずみが食べたというのです。それで論争が起こったというのです。「イエスさまのからだに預かったねずみは、聖なるねずみ。」という論争があったのですが、「みことばと聖霊が臨まれる時」にのみ、連動してパンとぶどうのジュースは、イエスさまのからだであり、血となるのです。
 みことばに沿って、今から私がお祈りさせていただきますから、ご家庭のパンとぶどうのジュースを頂いてください。私は家に帰ってから家内と一緒に、聖餐式を行うことにしております。一言祈らせていただきます。

 ハレルヤ、天の父なる神さま、み名をあがめます。今、私たちは人間であるという本質を問われています。今日はイエスさまがよみがえられた記念のすばらしい日です。この日に聖餐式にあずかることができ感謝します。
 『私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。』
とあります。
 また聖餐式が試練からの脱出というテーマもあります。主よ、試練のただ中にありますが、聖餐式を通して脱出させて下さい。一人一人の問題が解決しますように。
 私たちは地上にからだを長く残し、管理人として働きたいです。みことばと聖霊によって、あなたと一つとなる機会とさせてください。
 ご家庭でパンとぶどうのジュースをいただく兄弟姉妹に、祝福を宣言します。
 新型コロナウイルスなど、目に見えない敵のただ中で、主の守りを宣言する瞬間として下さい。イエスさまのみ名によって、パンとぶどうのジュースを祝福し、お祈りします。アーメン。