「緊急時の恵み」

2020年4月19日(日)
新城教会牧師 四元雅也
創世記26章22節【新改訳2017】

『イサクはそこから移って、もう一つの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった。」』

ハレルヤ!主のみ名をほめたたえます。こうしてネットを通じてですが、皆さんと礼拝を守ることができることを心から感謝を致します。
この日本においては四月七日に緊急事態宣言が出されました。そして先週は全国にその適用が広げられたわけでありますが、この教会ではそれに先だって四月五日からインターネットの形式で礼拝が届けられております。
皆さんも毎日の生活の中、外出の自粛だったり、また仕事や学校のお休みだったり、さまざまな影響を受けておられることだと思います。
政府の呼びかけも去ることながら、最近は医療現場の方から悲痛な叫びのような声明が出されたりしております。本当に今私たちがいる状況は緊急事態であります。
このような中、政府やメディアなどから以前より要請されています、いわゆる「三密を避ける」「手洗いうがいを徹底する」「マスク着用」が大切だと言われてきているわけですが、今さらに重要な問題なのが、医療現場に就いておられる方たちの状況であります。このような時、私たちはクリスチャンとして医療現場におられる方たち、また保健所に勤めておられる方など、病との瀬戸際で戦っておられる方たちのためにお祈りしていきたいと思います。
そして私たちができることは、「家にいること」と言われています。「人との接触を八割減らす。」なかなかこれは大変なことでありますが、これを本当に重く受け止めなければいけない状況があるわけです。
自分だけはまぁいいだろう、自分がかかるくらいは大丈夫だろうとか、そういうふうに簡単に考えてはいけないというのです。自分に関わる周りの方々や様々な社会との繋がりの中で感染弱者と言われるような弱い方たちに病気が及ぶことのないように、また医療現場に過度な負担が強いられるようなことがないように、私たちはしっかりと心に受け止めなければなりません。
ストレスが溜まったり、経済の問題も心配でありますし、気持ちも暗くなる時です。でも、ここはみんなで我慢をして、五月六日までの間は家から出ずに、そしてこの感染をできる限り防いでいくことを心がけながら、そして私たちはクリスチャンですので、主に祈りながら、この難局を共に乗り越えていけたらなぁと思っております。

今日はこの礼拝の後、午後から賛美セミナーが行われます。私たちはこういう困難な時にこそ主に賛美をささげていきたいものだと思うわけですが、セミナーをこの礼拝と同じようにネットで提供しますので、是非午後からも参加していただきたいと思います。

先ほど上條先生に読んでいただきましたが、創世記二十六章、イサクの人生を描いた聖書の物語の中から学んでいきたいと思います。
イサクと言いますと、イスラエルの始祖である「アブラハム、イサク、ヤコブ」、その三人の一人です。この三人の中でも、イサクという人は比較的目立たない人です。アブラハム、またヤコブは、なかなか劇的な人生を歩んでいるのですが、イサクの人生の中ではそこまでドラマチックなものが聖書に描かれていません。比較的イサクは温厚な人だったようです。あまり自己主張しないタイプの人間だったかもしれません。
そんな彼の人生の中にも、大きな「試練」と言える出来事がありました。今日はその中から、どのように彼らしく向かって行ったか、そして困難を乗り越えていったか、ということについて学んでいきたいと思います。

先ほどお読みされたのは創世記二十六章二十二節でしたが、創世記二十六章一節【新改訳2017】を読んでみたいと思います。

『さて、アブラハムの時代にあった先の飢饉とは別に、この国にまた飢饉が起こった。それでイサクは、ゲラルのペリシテ人の王アビメレクのもとへ行った。』

イサクの時代に飢饉がありました。そして彼は宿営を持っていた族長でありましたので、彼と家族たちは家畜たちも含めてアブラハムの時代から住んでいたカナンを少し離れてゲラルの地、ペリシテの地へ非難をしました。そこで生活をしていくのですが、そこで彼は妻であったリベカをペリシテの王アビメレクの前で、「彼女は私の妹です。」と偽り、もうあと一歩で奧さんを取られそうになったのです。でも神さまのみ手が働いてリベカを取られずに済んだのですが、そのことで彼はペリシテの地で立場が危うくなったのではないかと思います。
そんな中で、彼は神さまの祝福をペリシテの地でも受けるのです。飢饉の地から非難してきたペリシテで、彼は種を蒔いたらその年に百倍の収穫を見ました。創世記二十六章十二節〜十三節【新改訳2017】に書かれています。すると今度は彼はペリシテの人たちの反感を買うようになります。創世記二十六章十四節〜十五節【新改訳2017】、

『彼が羊の群れや牛の群れ、それに多くのしもべを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に父のしもべたちが掘った井戸を、すべてふさいで土で満たした。』

ペリシテ人たちの嫌がらせの中で、イサクはやはりペリシテの地では異国の民、旅人・寄留者、弱い立場だったので、彼はその性格もあって、あえて争おうとはしなかったのです。そして自らペリシテの地から後退していくのです。
後退して行きながら飢饉中でありますので水が必要で、井戸を掘っていきます。しかし、この井戸についても困難な試練が襲うわけです。創世記二十六章十八節〜二十一節【新改訳2017】、

『イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘られて、アブラハムの死後にペリシテ人がふさいだ井戸を掘り返した。イサクは、それらに父がつけていた名と同じ名をつけた。イサクのしもべたちがその谷間を掘っているとき、そこに湧き水の井戸を見つけた。ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼いたちと争った。それで、イサクはその井戸の名をエセクと呼んだ。彼らがイサクと争ったからである。しもべたちは、もう一つの井戸を掘った。それについても彼らが争ったので、その名をシテナと呼んだ。』

このようにペリシテ人たちは、どんどん後退していくイサクを追うようにして、せっかく掘った井戸に難癖を付けて、「これは俺たちのものだ!」と奪い取るわけです。
飢饉の中で井戸を掘るということがどれほど大切なことか、苦しい思いで、何十メートルも穴を掘ったのではないかと思います。そして、やっとの思いで貴重な水を手に入れてやれやれと思ったらペリシテ人たちが来て、「これは俺たちのものだ!」と言うのです。それも一度ならず二度までも、本当に大変な思いをしたわけでありますが、イサクはそれでも争おうとはせずに退くのです。どんどん後退していくわけです。

そして先ほど冒頭にお読みしたみことばですが、創世記二十六章二十二節【新改訳2017】、

『イサクはそこから移って、もう一つの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった。」』

ついに三度目の正直で井戸が掘られた場所では争いがありませんでした。そこで彼はこう言った。「今や、主がこの場所を私たちに与えてくださった!そして私たちがこの地で増え広がるようにしてくださった!」
大変な、本来なら遭わなくてもいいような困難を受け、退きながら、彼は主に信頼していたのです。そしてついに、「私たちを主がここに導こうとされていたんだ!」と、そんなことまで言ったのです。

新型コロナ・ウイルスは、突然世界中を震撼させました。三ヶ月前とは全く違う状況が世界に来てしまったわけです。
インターネットを見ると皆さんも簡単に調べることができますが、AFPの発表などによりますと、新型コロナ・ウイルスの感染が確認された国と地域は、四月十八日の時点で、百九十三ヶ国となっています。
そして日経新聞の発表によりますと、昨日の時点で感染者数は、世界で約二百二十万人。

約二百二十万人の感染者、そして死者が十五万人。この二週間ほどで世界の感染者、死者数も三倍くらいに増えているのです。

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これはNHKが出しているグラフですが、日本の累積の感染者数ですね。これもこの三週間、四週間くらいの間に四倍くらいの増加を見せています。

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昨日の夜十時までに、一日で国内での新たな感染者は五百七十七名ということになっております。
現状、私たちの周りに感染者を出さないことが一番大事だと言われております。それが医療の崩壊を防いで多くの死者を出すことを防ぐために一番大事なものだと。自分のためにかからないようにしましょう!ということももちろん大事なのですが、むしろ、人のため、社会のために、重要な私たちの認識として、役割として、「かからない」ということを心がけていかなければならないということであります。そのために「家にいてください」

この問題への新城教会での対応は二月中旬頃から始まりました。まずは教会の入口に消毒液とマスクを置くことから始まりました。そして週を追うごとに、毎週のように新たな対応に迫られて、それを打ち出してこの教会の中で実施していくことが行われてきました。
国々が対応に追われ始めた三月の頭頃でしょうか。教会の中でも、この教会でなされている活動自体が延期されたり中止になったり、あるいは海外宣教の働きが中止になるということ三月には起きました。
四月には現在も同じ状況ですが教会に集まることができないということが起きたのです。今日も皆さんがインターネットで礼拝を守っています。

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先週の水曜礼拝の写真です。こんな感じで、会場にいるのはスタッフだけ、集会の運営に関わる者たちがほとんどという状況ですね。今この会堂の中もそういう状態で、ネット配信遂行のために必要な最低の人数でやっている。正直言って寂しいものがあります。本当に親しい兄弟姉妹と顔を合わせることができず残念だなぁと。
ちょうどペリシテを追われて飢饉の中荒野に逃れるように出た。そして一生懸命対策をして、井戸を掘って、「やれやれこれでどうだ。」と思ったら、新たな問題がでて対策に追われる、そういう状況ですよね。そんな日々が続いているような気がします。

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井戸を掘って、また掘って、大変な思いで。

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目に見えないような小さなウイルスなのですが、その前で私たちは自由を奪われてこれまでのような活動をすることができずに対応に追われて毎日を送っている。教会に限らず、社会全体がそのような状態であります。見方によっては、後退するだけ、そのように見えるわけです。

しかし本当にそうなのでしょうか。この時だからこそ、私たちが居るべき場所へと主ご自身が導いてくださる。そして祝福を与えてくださるということを私たちは今日このみことばを通して学んでいきたい、そしてそのことを信じて進んでいきたい、そんなふうに思うわけです。

インターネット礼拝はインターネット礼拝ならではの祝福もあるということを、この三週間、私もインターネットで集会に出ながら実感しております。
その一つは場所、空間的な制約がないということです。世界中どこででも参加できるというのは、インターネットのメリットでありますよね。
新城教会ではザワメキの賛美集会が恵みによって、この三週間、毎週土曜日にネットで行われることになっています。また皆さんもザワメキのホームページをご覧いただくと、その集会の参加方法が出ていますのでご確認ください。それは四月の週末に予定されていた各地のザワメキ集会が中止になったので、代わりとしてインターネットでやりましょうということになって、ここで毎週土曜日に行っているわけです。ある意味しかたなく、という感じです。
だいたい新城教会でザワメキ集会を行うと、参加人数は約四十名くらいでしょうか。でも先週、十一日の日に行われたザワメキの集会はなんと二百名参加したそうです。遠くはドイツでも参加されていたという話がありました。これは素晴らしいことだなぁと思います。

ところで、ザワメキ十三がいよいよ発売されます。また報告の時にご案内がされると思いますが、皆さんも是非期待して買っていただきたいと思います。

話は変わりますが、四月五日から日曜日の礼拝をネット礼拝主体にしますと、主任牧師のからお話があったとき、このご時世だから仕方がないという気持ちもありましたが、「本当にやるんだ、大丈夫かなぁ」いろいろと心配が頭をかすめました。主との関係が薄くなるんじゃないかなぁ、なんか教会との距離が遠くなるんじゃないかなぁとか感じて不安がありました。
でも、我が家に限っての話なのですが、それはいらない心配だったようです。むしろ以前よりも集会に参加する頻度が多くなっています。
四元家では、我が家を会場として開催される集会は、新城北部家庭集会というのがあるのですが、だいたい二ヶ月に一回くらい順番が回ってきて、我が家を会場に集会を持っていただくことになっています。
ところが先週について言うと、日曜日から日曜日礼拝にはじまり、月曜日、火曜日、水曜日は昼と夜、木曜日、土曜日と、合計七回集会が持たれました。全部インターネットで参加しました。その写真があります。

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これは先週行われた家庭集会の写真です。画面を見ながら集会を持ったわけです。火曜日はある所で月に一回、家庭集会を持っているのですが、三家族が集まって行われる小さな集会です。我が家はパソコンの画面をテレビに映して、そして音も家のオーディオの音を使って非常に臨場感のある集会を持たせていただいています。家で集会を持てますし、家族も外出できませんので全員参加しました。

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こんなふうに参加されている方たちが笑顔で向き合って集会を持つことができております。

礼拝には、うちは二世帯で私の両親も住んでおりますので合計七名で賑やかに集会を持っています。昨日もザワメキの集会に全員で参加しました。外出自粛要請も家で家族皆一緒にいる中で集会に出られるという意味では良いものだなと思いますね。

ある意味で、この緊急事態宣言が出されているこの期間はチャンスかもしれないと思います。どうしてかと言うと、家族が未信者のクリスチャンにとって、この機会に、未信者の家族も一緒にネット礼拝に参加するというのはいかがでしょうか。うちもそうなのですが、この期間、特に子どもたちは一日中パジャマで過ごしていたりと、本当に暇なのです。外に出ることもないですし。「こんな暇な時くらい、一緒に礼拝見ましょうよ。」とか、「一緒にこの集会出たらどう?」とか、ネットだったらパジャマでも何でも関係ありませんので気楽でしょう。そう考えたらチャンスになると思います。皆さん、真剣に考えてみたらいかがでしょうか。ネット礼拝を家族が祝福される機会とする。そのために用いていただけたらいいと思います。「暇だしなぁ、まあ一緒に見よう。」ということになったら、素晴らしいです。それでその家の一週間が変わること請け合いですよね。ネット礼拝に出たら一週間が祝福されること間違いなしです。これはコロナがもたらす祝福です。福音であります。ですから皆さん、是非そのことを覚えていただきたいと思います。

また聖餐式も各々の家庭で持たれるようになりました。僕も主任牧師から聖餐式を教会で止めると言われた時、「えっ?!そうなのか!」と、ある意味、ショックでした。聖餐式は教会でやるものだと思っていましたので。
でも使徒の働きの二章四十六節のみことば、先週も開かれましたが、ペンテコステの日に三千人が救われ、そして教会がこの地上に現れました。そして教会生活もその時から始まるわけですが、その時の人々、初代教会の人々は、宮で礼拝をして、家でパンを裂いていたということが書かれております。
私たちがおのおの家で聖餐式を行うという聖書的な裏付けになるのであります。
実際に家でやってみて、これは意味があることだなぁと思いました。
キリストのからだと血にあずかる聖餐式というものは、家庭にとどまらずに、その家庭が置かれている地域に祝福をもたらす可能性があるのではないかと思いました。
家で聖餐式を持つ、家というのは、第二コリント人への手紙六章十六節【新改訳2017】、

『「・・・私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」』

とあります。
私たち自身が既に神の宮だと、この新約の聖書的価値観の中で言われています。ということは、私たちが置かれている家であったり、領域というものは、教会の最前線なのです。神の国の最前線であります。そこで私たちは祈ったり賛美したり礼拝をささげたりすることができるのですが、今までは聖餐式までやろうとなかなか思わなかったかもしれません。でも今は聖餐式を家でやることができる。これも福音のさらなる拡大だと思います。地域に、世界に、福音が拡大している表れとして、家で聖餐式が行われる、これはすばらしいことだなぁとを思います。この時をそのように受け止めていくということが必要だと思います。

社会のためにも世界のためにも、この病気に対応している国家、行政機関、医療機関、保健機関、経済界、そういったすべての領域が主によってコントロールを受けて、しっかりとみこころの知恵を受け取って、そして役割を果たしていくことができるように祈ると同時に、教会も、教会としての役割を、出て行って、この地域の中で果たしていくことができるように、ウイルスを暴れるのを許さず、神の国の平和、支配を宣言するということが大切なことであり、教会の使命でもあります。

創世記には神さまがこの天地を造られた創造物語が書かれています。この時、神さまはすべての被造物を造って、「あぁ、いいのができたなぁ。」と、その後で、「そうだなぁ。時間もあるし、全部造り終えて暇だから人間でも造ろうか。」といったわけではありません。ちゃんと目的を持って人間が造られています。創造の目的というのがあります。この教会では、度々、毎週のように言われています、全被造物を管理することためだということであります。これは創世記一章二十七、二十八節等に書かれています。
ここにおられるすべての人が神さまによって与えられた役割、被造物の管理者としての権威が与えられています。私なんか何の目的もない、生きる甲斐がない、何のために生きているか分からない、という人がもしもいらっしゃったら心配することはありません。絶対にあなたにも、またここにいるお一人お一人、インターネットでご覧になっているお一人お一人にも神さまは目的を持っていらっしゃる。そしてその人にしかできない天職のような働きがあるわけですね。

実はウイルスも世界になくてはならない存在であり、創造の目的があるわけです。

ちょっと話が変わるのですが、地球上では私たちが知らないところで、毎日毎日、何兆もの生き物が殺されています。何兆です。その大量に殺されている生き物は何かというとバクテリアです。細菌の類です。
そしてこのバクテリアを殺している犯人が実はウイルスなのです。皆さん、バクテリオ・ファージというウイルス、ご存じですか?

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この形は皆さんご覧になったことがあるかもしれません。なんか人間が作った造形物みたいで、どこかの芸術家が作ったんじゃないの?と思われるかもしれませんが、こんな形をしたウイルスです。大抵、ウイルスの頭の部分は、二十面体、三角形が二十個集まった立体です。
このバクテリオ・ファージは、バクテリア・キラーなのです。例えば海に住む細菌の内一日あたり、なんと四十パーセントがこのバクテリオ・ファージによって殺されているそうです。全部の海にいる全てのバクテリアの四十パーセントがバクテリオ・ファージによって毎日殺されているということです。
逆に言うと、このバクテリオ・ファージは、微生物が過度に増殖するのを抑えている。そして生態系のバランスを保つ役割を持っていることになります。

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これが断面図です。中の頭の部分に、うねうねとしているのが、これはDNAであります。

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地球上の全ての生き物のうち、ほとんどが、バクテリオ・ファージです。生き物が存在する所であれば、地球上のどこにでもいる、私たちの手や腸やまぶたにも数十億という単位で存在しているといわれています。
でも、人間の細胞は、バクテリアとは全く構造が違うため、バクテリオ・ファージの脅威にさらされることはありません。バクテリオ・ファージに触れあっていても、なんら影響を受けません。しかし、バクテリアにとっては非常に危険な存在です。

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このようにバクテリアに取りつきます。

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その細胞の壁をかぶって、DNAを流し込んでいくわけです。

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そして細胞の中でバクテリオ・ファージは増殖していきます。そしてわずか数分間の間に細胞の中で一杯になって、今度は細胞壁を溶かす物質を出して、

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ぱちーんっと細胞が割れて、中からバクテリオ・ファージが飛び出す。出てきたらまた他の細菌を探していくのであります。この辺はコロナ・ウイルスともよく似ています。コロナ・ウイルスが増殖する方法と同じ方法で彼らも増殖のサイクルを繰り返すわけです。

そんなバクテリオ・ファージが近年注目されています。どの領域かというと、医療の領域です。
かつて、百年くらい前まで人間にとって、感染症は大変恐ろしい病気でした。
例えば、手を切って不衛生な状態にしておくと、それが元で簡単に死んでしまうということが起こりました。あるいは水を浄化せずに、池から汲んでそのまま飲むとか、そういうことをしただけで、人間は死にかねなかった時代があります。細菌による感染が、多くの人を死に至らしめたのです。だから抵抗力のない子どもなどは育つ前にどんどん死んでいったという現実がありました。
ところが二十世紀の始め、人間は抗生物質を発見するわけです。バクテリア、細菌に対する対抗手段です。それで人が細菌によって死ぬことは劇的に減ったのです。

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感染症の恐怖を人間はほとんど感じなくなりました。老人等、抵抗力が弱まった人の他は抗生物質を飲んでいれば大丈夫、というふうになったわけです。
そんな状態が何十年続いていたわけでありますが、

そんなある日、抗生物質が効かない、『抗生物質耐性菌』が世の中に現れたのです。

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これは死亡原因となる病気のグラフでありますが、紫のなだらかな線、これは癌ですが、今は死亡原因の第一位です。でも、ある情報によると二〇五〇年頃には、抗生物質耐性菌による方が癌によるよりも死ぬ人が多くなるのではないかと言われているそうです。

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このままいくと恐ろしいことになる。
ある統計では、アメリカではすでに、二〇一七年に年間二万三千人、抗生物質耐性菌が原因で死亡していると言われます。あらゆる抗生物質が効かないという菌です。このままでは百年前に逆戻りというわけです。
そのような中で、何百万というバクテリオ・ファージを体内に注射するという試みが医療の中で真剣に研究されているそうです。僕も詳しいことはあまり分かりませんが、このまま行くと、抗生物質耐性菌は人間にとって大きな脅威となりつつあるのですが、バクテリオ・ファージは希望となるかもしれないのです。

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細菌の脅威に打ち勝つ希望となるかもしれないということです。

このように、ウイルスもさまざまな役割があるのではないかと研究されています。私が今申し上げた以外にも、さまざまな役割があると言われています。地球の生命全体の秩序を守るという重要な働きを、今もこのウイルスはしています。ウイルスも必要なのです。

ならばなおさら私たち人間も、スポーツ選手でも、主婦でも、会社員でも、学生でも、職人さんでも、肉体労働者でも、漁師さんでも、農夫さんでも、また学者も、社長も、みんな、政治家であっても、健常者も、障害者も、子どもも、大人も、老人も、日本人も、外国人も、すべてこの地上に神によって命が与えられて、使命が与えられるということであります。そして現実的に、我々人間によって世界が管理されているわけです。

イザヤ書十一章一節〜五節、

『エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。』

ここで、「エッサイの根株から生えた新芽」という言葉が出ていますが、これは「イエスさま」のことを表しています。預言者イザヤが、イエスさまがお生まれになる七百年前にイエスさまのことを預言した言葉であります。
イエスさまはこの地上を歩まれた時にまさにこのみことばのように振る舞われました。主の霊に満たされて、正しい裁きをして、また貧しい者や虐げられている者たちの友、解放者になった。そして自然の法則に対しても、権威を持って命じたら、自然さえも従う。そして真実と正義で治められたということであります。このみことばを確かに成就されたのがイエスさまです。そしてイエスさまが十字架についてくださって贖いを完成してくださったということを通して、私たちにも救いの道を与えてくださって、神さまと共に生きる歩みをすることができるように、恵みにおいてしてくださったわけであります。
このイエスさまにおいて、天において地において、一切の権威を持っておられると言われたイエスさまの権威を、私たちも与えられた者であるのです。
ですから、今読んだイザヤ書のみことばというのは、イエスさまのためのみことばでありますが、そのまま私たちのためのみことばでもあるということです。
私たちが主の霊に満たされて、そして知恵の霊と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識の霊、主を恐れる霊、この霊を受け取っていく時に、悪魔の支配するこの世の中にあって、神の権威を持って私たちは働いていくことができる。悪魔に勝利して、この地を管理することができるようになるということですね。

そして今読んだみことばの続きを読んでいくと、イザヤ書十一章六節〜九節には、このように書かれています。解放された結果としての世界の描写が出ています。

『狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。』

ここに「狼は子羊とともに宿る」とか、「乳飲み子はコブラの穴の上で戯れる」とか、「乳離れした子はまむしの子に手を伸べる」とか、常識で言ったら、これは「猛獣」とか「危険生物」とか言われるような生き物で、近寄ったら大変なことになってしまう、檻で隔てなければ近寄ることはできないような存在であるわけです。それが神の国がこの地上に訪れる時におとなしくなるというのです。そして小さい子どもでもペットと戯れるように猛獣を追いかけていくというわけです。そして安全だというわけです。究極の平和、そういう世界が、神の国の訪れと共にこの地に来る!と言っているのです。神の国の中では、このような危険な生き物がなくなるということですね。
このみことばが書かれた時代には微生物とかウイルスとか、そういう概念はなかったわけでありますが、もしもこの時代に細菌とかウイルスの概念があったら、このイザヤ書十一章六節〜九節に、こんな文句が入っていたと思います。「新型コロナ・ウイルスは人に高熱をもたらさない。」そんなふうになると思います。すごいです。素晴らしいですね。
私たちが信仰を持って歩み、神さまを信頼して生きていく、そしてこの地上を神の知恵によって、神の霊によって管理していく時に起きるというわけですね。本当に素晴らしいですね。
そのようにして私たちはこの地でそれぞれの役割を果たしながら働いて神さまをお迎えしなければならないわけです。

ここ数年、被造物をどのようにして扱うべきなのかということについて私たちは学んできましたし、今まさにそのための実地訓練を受けているような状況であります。
二年前頃、二〇一八年だったと思いますが、台風二十一号が来た時に、その当時、詩篇百四十八篇、『ハレルヤ、天において主をほめたたえよ。いと高き所で主をほめたたえよ。』このみことば、いろんな被造物が出てきて、「彼らに主の名をほめたたえさせよ!」と私たち人間は宣言しなければならない、そんなメッセージが語られました。その中で、「みことばを行うあらしよ、主をほめたたえよ!」というみことばから順先生が教えられて、まさに台風二十一号がこの日本列島を直撃しようとしている時に、順先生は一人で台風に向かって、「みことばを行うあらしよ!風や雨で災害なんか起こさずに、おまえも主のみことばを行え!主をほめたたえろ!」と宣言したということがありました。
順先生は新城市で宣言をされていたわけですが、新城市を雨雲も風も避けて通り抜けていったと、そういった証しをされていました。そのメッセージの時に使われた写真がこれです。

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この台風が来た時に、四国から東北まで、日本のあらゆる地域で暴風警報が発令されたわけですが、一箇所だけ、そよ風、小雨という場所があった。それがどこかというと、この愛知県の東三河地区、新城教会が置かれている地域だったっという話をされたことがあります。
本当にその頃は僕も、「本当にそうかなぁ?」と、半信半疑のような、「今回だけじゃない?」みたいな気持ちもないわけではなかったのですが、でもそれから二年間ずっとそのようなテーマでみことばも語られて、私も心が変えられました。

この礼拝をネットで配信していることにも意味があります。主にある兄弟姉妹が、その置かれた場所で管理者として働くのは、教会という場所に限定されたことではなく、すべての領域でそのようなわざが起こされるわけですのでね。ピリピ一章十二節〜十四節【新改訳2017】を見ますと、こんなことばがあります。

『さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。私がキリストのゆえに投獄されていることが、親衛隊の全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことで、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました。』

今、すごいことが起こっています。世界宣教とりなしLINEグループが大変騒がしいことになっています。毎日、世界中のいろんな所から、「主をほめたたえろ!主をほめたたえろ!」と、高台に登って、また川や海に行って、「被造物よ、主をほめたたえろ!」と、毎日毎日祈りが、宣言が、ささげられているわけです。
コロナも勢いづいているように見えますが、私たちにもこの時火が点いているわけです。これもコロナ効果であります。緊急時の恵みがあると思います。

そのような中で、神さまは様々なわざを現されています。

先週、順先生がこの礼拝でメッセージされましたが、この半年間、私たちは享子さんのためにお祈りを真剣にささげています。この数週間の間、回復の数値が表れたと報告がなされました。まだまだ完全に回復されるまで私たちは祈り続けなければならないわけですが、本当に感謝なことであります。本当に主に信頼していきたいなぁと思わされます。

教会の中にもいろいろ証しがあります。先週ある方から聞いた証しなのですが、その方は乳幼児のための福祉施設で働いておられる方です。最近そこに一人の子どもが入って来たそうです。その子はひどい肌荒れがある子だったそうです。かわいそうなくらい肌荒れがありました。
先週、その方は、一日その子を抱いて仕事をする日があったそうです。抱きながらその肌に対して、細胞に対して、「主を賛美せよ!主を賛美せよ!」と、ずっと言い続けたそうです。すると翌日に治り始めて、二日目にはほとんどつやつやの肌になったというのです。わぁ、すごいなぁ!と、本当に感謝しました。

一ヶ月くらい前の話になると思いますが、礼拝で誰も言っていないと思うのでお分かちします。
三月十六日の月曜日、県民の森祈祷会が、まだ外出自粛規制が出されていない時期だったので、県民の森に行って祈っていました。何人か祈りの勇士たちと共に新型コロナのために真剣に祈っていたわけです。
ある方が祈っていた時に、ビューッと強い風が吹きました。そこにいた全員が、「ただごとじゃない風だ」と感じました。それくらい強かったです。台風並の風でした。その前後はそんなに風は吹いていませんでした。穏やかな日でした。でもその祈りの時だけ吹いてきたので、ちょっと度肝を抜かれた感じがしました。
みんなで喜んで、「祈りが答えられて、聖霊の風を吹かしてくださった!」と思いました。でも私はちょっとトマスみたいなところがありまして、帰って来てから本当に神さまがそのような現象を起こされたのか?と、確かめたくなりました。それで帰ってから天気図を確認しました。これはその日の天気図です。

祈っていたと同じ夜九時頃の天気図でありますが、日本列島を挟んで東に低気圧、西に高気圧、西高東低の気圧配置でありますので、西から東に風が吹くのですが、実は私たちがいた場所に吹いた風は逆だったのです。その風は東から西に吹いたのです。

これは同じ時間の愛知県の風向きの地図ですが、新城市はここですが、これを見ますと北東の風となっています。東からの風です。これを見て僕も、見ずに信ずる者が幸いなのですが、見て信じたわけです。「あれは聖霊さまの風だったのだ!」と。
僕のように目で見ないと分からないような者にも神さまはこうやって現象を起こしてくださって、なかなか私たちは祈って祈りっぱなしで何も起きないと不信仰になったりしやすい者なのですが、でも神さまがこのように様々な事柄を通して、「祈りは答えられているよ!」と励ましてくださっているのを見るわけです。そのことを感謝しながら、大変な局面で、経済的にも尋常じゃない危機が社会で来つつあるようなときであるわけですが、主を信頼して歩んでいきたいと思います。

最後に第一テサロニケ人への手紙二章十三節【新改訳2017】をお読みします。

『こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。』

このみことばは、テサロニケの教会の人たちにパウロが賛辞を送っていることばです。「あなたたちが私から聞いた福音のことばを、ただ人の言葉とか、「あぁ良いメッセージ聞いたなぁ」で終わるのではなくて、そのまま神のことばとして信じて受け入れて、その信仰によって今あなたたちは救われて神の恵みの中に入ってますよ!」とパウロは言っているのですが、今この局面こそ私たちは本当に神のことばを権威あるみことばとして実践していかなければならない時だと思います。
平時ではない、有事であるからこそ、私たちがさらに主に近づき、主に信頼して、祈りを持って、この地を管理させていただき、このコロナ・ウイルス問題に対して戦っていきたいと思います。
この時にこそ、神さまが全地の造り主である、支配者である、私たちに恵みをくださる主なる神さまである、そのことをすべての人々が、被造物が、知ることができるように、主の前に励んでいきたいと、そのように思います。
今日の私のメッセージは以上にさせていただきたいと思います。

では一言お祈りさせていただきます。

ハレルヤ。あなたのみ名をあがめて、心から感謝します。イエスさま、私たちはコロナ・ウイルスを恐れ、後退しているかのように見えるかもしれません。しかし、そうではなく、この状況であるからこそ、あなたのみこころがあり、この状況であるからこそ注がれるあなたの恵みがあることを信じます。そのことを皆が心に留め、受け止めることができますように。
今問題の中に、困難の中にあるすべての兄弟姉妹の上にあなたの豊かな祝福がありますように。
そしてお一人お一人が持っていらっしゃる主から委ねられた権威を通して、どうか主よ、新型コロナ・ウイルスに対して宣言し、地の祝福のために祈る者としてお一人お一人が用いられますように。
この時であるからこそ神の国がさらに前進し、それぞれのおられるその領域が、主によって、悪魔の手から奪回され、それぞれが置かれていらっしゃる、ご家族、周りの方々、属しておられる機関、組織の中にあなたの祝福と恵みが流れていきますように。
そのような権威を私たちに委ねてくださったことを、この時こそ私たちは揺るぎなく信じ、あなたに信頼して参ります。どうか聖霊さまがお一人お一人の中に励ましを与え、祈りの答えを与え、主の勝利を現してくださいますように。
すべてのことをみ手にお委ねします。主に感謝し、尊きイエスさまのみ名によってお祈りいたします。アーメン。