「みことばを行う嵐よ。主をほめたたえよ」

2020年5月3日(日)
新城教会牧師 上條実
イザヤ書9章1節〜3節

『しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。』

 ハレルヤ!今日はこうして皆さんの前でみことばを語ることができますことを心から感謝します。恵みの中で、私も家族も守られていることを心から感謝します。特別お祈りいただいております家内ですが、毎日、守られて過ごすことができております。心から感謝します。
 こうしてインターネット礼拝になって、早一ヶ月が経ちました。皆さんのお顔を見ることができないことをとても寂しく思います。今朝、この会堂に入って席を見渡しながら、皆さんの顔をお一人おひとりを思い浮かべてお祈りさせていただきました。早く新型コロナウイルスが終息して、顔と顔を合わせて、ご一緒に主を賛美することができるようにと願っています。

 それではみことばを学んでいきたいと思います。今日はイザヤ書九章一節〜三節から「みことばを行う嵐よ、主をほめたたえよ」というタイトルで語らせていただきたいと思います。
 先ほどお読みいただいたイザヤ書九章一節〜三節は、今、毎日スタッフが交代で雁峰山に登って、新城、豊川、豊橋、また蒲郡、浜松市の各市を見渡して、早く新型コロナウイルスが終息するように、またこの地域の祝福のために、皆さんの為にお祈りさせていただいています。私もすでに三回ほど出かけて行き、お祈りしました。誰も他にいませんので、大声を出して賛美し祈り、「新城教会に、また日本に、今、必要なみことばをお与えください。」と主に求めました。すると主がこの箇所を読みなさいと語られた気がしてイザヤ書九章一節〜三節を開きました。そしてとても恵みをいただき、励まされましたので、今日は皆さんにお分かちしたいと願います。

 どんなところでお祈りしているか写真で撮ってきましたのでご覧ください。その日はとても良い天気で、きれいな景色を見ることができました。先ほど言いましたように、東三河地方や浜松市までよく見えます。

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 そして次の写真は、

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 この写真の真ん中辺に新城教会が写っています。お分かりになりますでしょうか? そしてその時大声で賛美をしていると、不思議なことがありました。それは鳶が私の周りを、上空ではなくて、目の前を何度も旋回しました。

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 この写真は私が撮ったわけではありません。これはイメージ写真です。突然の出来事で、感動しましたので写真を撮ることができませんでした。私たちは被造物もともに主を賛美するようにと宣言し、お祈りしていますが、まさに鳶もともに主を賛美することができたと思います。鳶は長い間、私の周りを旋回して賛美していました。「何か餌が欲しいのかなぁ」と、ふと思ったりもしましたが、そうではなくて絶対に主を賛美していると信じます。それが二週間前の出来事でした。

 また先週も山に向かいましたが、あの鳶が現れてくれたらうれしいのに、と少し期待しながら、主に「今日も良い出会いがありますように」と祈りつつ出かけました。すると、もっと大きな鳥に出会いました。

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 山の駐車場に到着しましたら、ひとりの方に出会いました。彼は今からパラグライダーで、飛び立とうとしていました。私はその方を含め数人が居られたので、今日は大きな声で賛美したりお祈りできないかなと思いました。彼に「どのくらいの時間、空中を飛ぶことができるのですか?」と聞きましたら、その方は「約三時間、飛んでいる」と言われていました。そして先ほどのの写真でお見せした人の前にも飛んで行ったのですが、その方はもっと上級の方で四時間以上、ずっと空を飛んでいるということでした。彼らが飛び立った後、彼らの守りを祈りました。そして私たちは主の権威をいただいている管理人ですから、なんでも祈ろうと思い、「彼らが三時間、四時間見下ろしている間、彼らは祈らなくても、主が彼らに十字架の血潮のタンクを付けて、見える所すべてに、十字架の血潮を注ぎ、主の守りが与えられるように。そしてこの地域に住んでおられる方々が新型コロナウイルスロナや病から守られるように」とお祈りしました。そのように、いつもとても恵みをいただく時となっています。その山で与えられたみことば、イザヤ書九章一節〜三節をリビングバイブルでお読みしたいと思います。

『とはいうものの、この暗やみと絶望の時は、いつまでも続くわけではありません。 もうすぐ、ゼブルンの地とナフタリの地は神様からの辱しめとさばきを受けますが、将来は、海沿いの道、外国人の住むガリラヤ、ヨルダン川の東の地は、神様の栄光でまぶしいほどになります。暗がりを歩いていた人たちは大きな光を見ます。 それは、死の陰の地に住んでいた者を照らす光です。イスラエルはもう一度、偉大な民族となり、収穫期を迎えた農夫のような喜びにあふれ、分捕り物を山分けする者のように有頂天になります。』

 このみことばで私はとても励まされました。一節の前半の所をお読みしますと

『とはいうものの、この暗やみと絶望の時は、いつまでも続くわけではありません。 もうすぐ、ゼブルンの地とナフタリの地は神様からの辱しめとさばきを受けますが、』

とあります。このみことばの時代の歴史的な背景は、イスラエルが北イスラエルと南ユダと二つに分かれてしまったときでした。

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 紫色のほうが南ユダ、そして緑のほうが北イスラエルというように、イスラエルが二つに分裂してしまいました。そしてイスラエルはゼプルンの地とナフタリの地が最初に、そして次々とアッシリアという大国に捕囚されてしまいました。しかしイザヤ書九章一節の後半を読むと

『将来は、海沿いの道、外国人の住むガリラヤ、ヨルダン川の東の地は、神様の栄光でまぶしいほどになります。』

とあります。イザヤは「この暗やみと絶望の時はいつまでも続くものではない。」「神様の栄光はまぶしいほどになります。」と預言しました。そして二節を読みますと、こんなみことばがあります。九章二節~三節(リビングバイブル)、

『暗がりを歩いていた人たちは大きな光を見ます。 それは、死の陰の地に住んでいた者を照らす光です。 それは、死の陰の地に住んでいた者を照らす光です。イスラエルはもう一度、偉大な民族となり、収穫期を迎えた農夫のような喜びにあふれ、分捕り物を山分けする者のように有頂天になります。』

 暗闇と絶望を歩いている人たちは大きな光を見ると言っています。そしてそれは、死の陰の地に住んでいた者を照らす光であり、イスラエルはもう一度、偉大な民族となり、収穫期を迎えた農夫のような喜びにあふれ、分捕り物を山分けする者のように有頂天になりますと語っています。ちょうど今の日本、また世界中が暗闇の中に入っていますが、このみことばでは、死の陰の地に住んでいた者を照らす光がもう一度、偉大な民族となり、収穫期を迎えた農夫のような喜びにあふれ、分捕り物を山分けする者のように有頂天になると教えられ、私たちにも必ずこのようになると信じ、飛びあがるほどに喜びました。

続けてイザヤ書九章を読んでいきますと、六節には

『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。』

 先のみことばにある「大きな光」、それは救い主であられるイエス・キリストです。そしてあとのみことばには、「イエス・キリストがイスラエルから生まれる」という預言があります。今日私たちはイザヤ書九章一節〜三節のみことばを信じましょう。私たちは苦しんで辛い思いをしています。経済的にも大きな苦しみを味わっています。しかし私たちには大きな光なる方、イエスキリストがともにおられることを信じましょう。

 ルカの福音書一章三十七節、

『神にとって不可能なことは一つもありません。』

 私たちの信じているイエスさま。不可能なことは何一つないイエスキリストに期待して、祈り、待ち望んでいきましょう。
そして、ローマ人への手紙九章二十八節には、

『主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。』

とあります。アッシリア捕囚は約BC七〇〇年代です。その後イエスキリストが生まれるまで、長い年月がありました。しかし今回このみことばには、「みことばは完全に、しかも敏速に」とあります。早くというか速やかに、時を進めていただいて、今こんな状況の中にイエスさまによって光を照らしていただき、敏速にこのみことばがなるように、私たちは願っていきたいと思います。

 新型コロナウイルスによって私たちの生活が一変しました。コロナウイルスの感染拡大に伴い、各学校が休校となり、世界の経済にも大きな打撃を与えています。先が全く見えない時代に突入し、今まさに真っ暗闇の時かもしれません。しかし私たちクリスチャンは、救い主を信じることができています。その主がみことばで私たちを励まし、光を照らして下さいます。早くイザヤ書九章一節〜三節のみことばが、日本に、また世界に、そして皆さんの中に起きるように、今週は真剣に祈り、とりなしていきたいと思います。

 
ここで二〇二〇年の為に与えられたみことばを振り返ってみたいと思います。マルコによる福音書六章四十五節〜五十二節です。

『それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。夕方になったころ、舟は湖の真ん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。』

 二〇二〇年は新城教会七十周年を迎え、リバイバルミッションも五十周年を迎えるので、大きな希望を持って、これから大きく広がっていくような、祝福をいただけるようなみことばを私は願って祈り求めていました。しかしなぜかマルコ六章四十五節〜五十二節が与えられました。このみことばを読んだとき「いや、このみことばじゃない。主よ、祝福のみことばをください!」と祈りました。でもどうしても心から離れず、このマルコ六章四十五節〜五十二節のみことばを、二〇二〇年のためのみことばとして信じ受け取りました。昨年の十二月暮れの時は、新型コロナウイルスは中国では出ておりましたが、今の状況になるという事は全く考えてもいませんでした。

しかし今、このみことばを読み直してみると、とても恐ろしくなりました。ある意味、今日の、この事態の為に主が語って下さったと、わかりました。

 四十五節の、「それからすぐ」というのは、マルコ六章四十五節〜五十二節の前に書かれている有名な「二匹の魚と五つのパン」の奇跡のできごとのすぐ後です。少年が持っていた二匹の魚と五つのパンを、イエスさまが祝福してお祈りした時、男だけで五千人。女性や子どもたちを入れたら、二万人ほどだという人もいますが、その人たちに食べさせ、満足させ、さらに十二のかごにいっぱいのパンが残るという奇跡でした。「二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるのですか」と一人の弟子が言いましたが、今で換算すると「二百万円以上使ってもパンは足りませんよ」ということになります。二匹の魚と五つのパンが大きく増えたという奇跡を弟子たちにイエスさまが見せてくださいました。

 「その後、イエスさまは弟子たちを強いて舟に乗り込ませた」とあります。普通でしたら群衆を解散させる仕事は弟子たちがするしごとでしょう。しかしイエスさまはなぜか、弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、自分で群衆を解散させました。その目的は、イエスさまだけが一人残って祈るという目的もあるかと思いますが、「弟子を強いて舟に乗り込ませた」というのは、何か理由のある事だと思います。弟子達に、また私たちにイエスさまは教えなくてはならないことであるから、されたことだと信じます。もう一度四十七節、四十八節を読んでみましょう。

『夕方になったころ、舟は湖の真ん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。』

とあります。ガリラヤ湖の大きさは周囲53キロメートル、南北に21キロメートル、東西に13キロメートルの大きさであり、166平方キロメートルの面積があり、最大深度は43mあるそうです。そのガリラヤ湖に、イエスさまは強いて舟に弟子たちを乗せ、先に向こう岸のベツサイダに行かせました。夕方になったころ、弟子たちの舟は、湖の真ん中に出ていました。それから、イエスさまは群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれ、
「イエスさまは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。」とあります。夕方湖の真ん中にいながら、夜中の三時頃には、向かい風のために漕ぎあぐねていて、まだ向こう岸にたどり着けずに必死にもがいていました。夜中の三時頃ということです。夕方に湖の真ん中にいて、夕方が十八時と考えると夜中の三時は九時間経っています。必死に漕いでも進むことのできない最強の嵐に出会ったと思われます。イエスさまは水の上を歩きながら、弟子たちのそばを通り過ぎようとしていました。しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげ、おびえてしまいました。

 皆さんは十二弟子の中の四人、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネは、どういう職業だったかご存じでしたか?彼らは漁師です。このガリラヤ湖で漁をして生計をたてていた人物でした。湖の地形、また気象環境、またどこに魚がいるとかを全部熟知していた人たちでした。その人たちが一生懸命向こう岸に渡ろうと思っても、夕方六時には真ん中にいたにも関わらず、九時間も進まず、苦しんで苦しんでいたわけです。そして湖の水上を歩くイエスさまを見て恐怖で叫んだのです。すると六章五十節を読んでみると、

『というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。』

 イエスを見て、みんながおびえたのです。先ほど二匹の魚と五つのパンによって奇跡をおこなったイエスさまにも関わらず、その姿を見て「幽霊だ!」と思い、叫び声をあげたのです。イエスさまはすぐに彼らに「しっかりしなさい。私だ。恐れることはない。」と、話しかけられました。

 この「しっかりしなさい」というのは、これはギリシャ語で、「サルセイテ」という言葉が使われているそうです。この「サルセイテ」というのは、「サルセオー」という言葉の命令形だそうです。これはどういう意味かというと、これは「おまえたち、しっかりしろよ!何してるんだ!しっかりしろ!」というような、叱りつけている言葉ではないそうです。このギリシャ語のサルセイテという言葉を、旧約聖書で一番最初に使われている所が創世記十九章十六節だそうです。

『しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。‐‐主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。』

ソドムに住むロトの家族を救い出すために、御使いたちが「ためらう彼らの手をつかんだ行為」を意味します。「自分の力でしっかりとやれ」という意味ではなく、神が共にいて手を握ってくださるという激励用語としてしばしば用いられているそうです。ちなみに、新共同訳では「安心しなさい」と訳しています。

 そして、「しっかりしなさい」の後、「わたしだ。」とあります。これはギリシア語の「エゴー・エイミ」で、自己宣言を表わしています。出エジプト記三章十四節で

『神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」』

「わたしは、『わたしはある。』という者である。」実に変な名前です。ですがこれは実に神ご自身の本質を表している名前です。あるというのは、言いかえれば、「存在している」ということです。確かに「存在している」しておられる方です。ヘブル人への手紙十三章八節、

『イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。』

いつも主がともにいてくださる。私たちはときどき苦しみのどん底にあると、見捨てられたような感じを持ちますが、「そうじゃない。いつもおまえと共にいるよ。」と教えています。

 そしてその後に、「恐れることはない。」とあります。幽霊と勘違いした時、大丈夫だ恐れるな!と励ましのことばをかけてくださったのです。その後マタイの十四章二十八節〜三十一節に、

『すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、怖くなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」』

ペテロはイエスさまに「来なさい」と言われ、なんと水の上を歩いたのです。しかし風を見て怖くなって沈みかけ、「主よ。助けてください」と叫びました。イエスさまはすぐに手を伸ばして、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と彼をつかんでくださったと書いてあります。風を見て恐れて沈みそうになった。私たちはイエスさまを信じていながら、苦しい現状にいると恐れ、怖くなり、沈みそうになってしまう時があります。
イエスさまはペテロに「信仰の薄い人だな。」と言われました。「あなたが信仰を持ったら助けてあげる」ではなく、「信仰の薄い人だ。」と言いつつ、すぐにペテロの手をつかんで、助けてくださったのです。そしてイエスさまとペテロが船に乗り込むとマルコ六章五十一節、

『そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。』

イエスさまがペテロと舟に入った時に、ぴたっと風が止みました。彼らは大変驚きました。今日、私たちがしなければいけないことは、イエスさまと舟に乗り込むことです。私たちは信仰が薄いかもわからないけれども、イエスさまにゆだねて、イエスさまに任せて、主とともに生活していくことが必要です。今日、私たちはしっかりとイエスさまの舟に乗り込ませていただきましょう。

今回このみことばを学んでいるとき、イエスさまに教えていただいたことがもう一つあります。この教会では、最近強く教えられている事ですが、私たちは被造物を管理する者です。弟子たちはイエスさまから直接みことばを教えられていました。また様々な奇跡を見て、主の偉大さを見てきたでしょう。そして被造物に対しても管理人としての使命があることを教えられていたと思います。しかし弟子たちは、その使命を十分に理解ができていなかったのではないかなと思いました。特にペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネの四人は漁師であったわけですから、湖は自分たちの生活の場所であり、主から管理を任されていたはずですが、それを理解していなかったと思われます。

 先々週の礼拝でも引用していましたが、二〇一八年九月四日。台風二十一号が「非常に強い勢力」で徳島県南部に上陸し、近畿地方を通過し日本海へ抜けました。台風が「非常に強い勢力」で上陸したのは、二十五年ぶりのことで、記録的暴風と大規模な高潮をもたらしました。台風の接近、通過に伴い広範囲で強風となり、最大瞬間風速五十メートルを超える猛烈な風が観測されました。この風の影響で、各地で屋根や窓ガラスの破損、近畿地方や東海地方を中心に大規模な停電が発生する被害が発生しました。その時、私たちは真剣に、「みことばを行う嵐よ。主をほめたたえよ!」と宣言しました。詩篇百四十八篇に書かれていることばを宣言しました。するとここで度々語られていますが、不思議なことが起きました。

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 私たちの教会がある新城市だけ強い雨雲がかかりませんでした。そしてあの近畿地方から東側は全部暴風警報が出されました。しかしこの地域だけ、警報が出なかったのです。そのように守られたという事は、偶然だと言われるかも分かりませんが、聖書の中でカナの婚礼の時、水をぶどう酒に変えられた記事の中で、ヨハネの福音書二章に「しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた」とあります。私たちが被造物の管理人として、信じて宣言したことにより、奇跡と祈りの結果を見せていただいた、大きな祝福であったと信じます。

 しかし先ほどのペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネの元漁師たちを含む弟子たちは、始め湖の真ん中まで進みました。しかしその後激しい嵐に遭い、舟が進むことができず漕ぎあぐねていました。ここに大きな計画がありました。

「それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。」

先ほどお読みしましたが、この強いて船に乗り込ませた目的は、弟子たちに被造物の管理人だと教えるためにされたことではないかと思わされました。被造物の管理人として使命を果たしなさいと教えていると思います。マルコによる福音書六章五十二節、

『というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。』

とあります。これは何を言っているでしょうか?弟子たちは、イエスさまのすばらしい奇跡を体験しました。お腹がいっぱいになり、「イエスさまと一緒にいれば、これからの生活は大丈夫。そしてイスラエルの王になるに違いない」と考え、イエスさまと一緒にいる事に満足していたと思います。もし、一生涯パンに困らないことが保証されるならどう思いますか?もし、イエスさまを自分たちの王にしたら一生涯パンに困ることがないのではと期待すると思います。楽して食べることができ、「私たちはこれでこれからの生活が安心だ」と思ったと思います。そんな利益的な愛しかなかった彼らに、被造物の管理人としての使命を教えるために、強いて舟に乗り込ませて、「向こう岸に行け。」と言われたのです。私たちは弟子たちのように自己実現的な祈りにより、知らない間に被造物の管理人としての使命を目隠しにされてしまうのかもしれません。

 私たちは毎回のように被造物の管理人として主を賛美するように学んでいます。しかし自分の事を考えると、被造物の管理人としての祈りはしていますが、知らず知らずのうちに、自分の生活の事を中心に祈ってしまう。自己実現の祈りになってしまっていることに気がつきました。私たちの祈りは、あまり良い表現ではありませんが、主を信じることが、打ち出の小槌のような祝福だけをもらう信仰になってしまっています。

 今は新型コロナウイルスが流行し大変な時です。出口のないような生活、嵐の中での生活を送っています。今日、私たちは、ペテロとヨハネ、ヤコブとアンデレのように、自分のテリトリーを忘れていまい、管理権を忘れてしまってはいないでしょうか?

 私たちのテリトリー、自分の生活の中で今嵐になっている所に対して、被造物の管理人として、さらにさらに、大胆に宣言して、祈っていくべきだと教えられました。
 
 「信仰の薄い人だ。」とペテロに言われたように、いやもっと信仰の薄いものですが、私たち一人ひとりに「しっかりしなさい。私だ。恐れることはない。」と、今日も神さまは語ってくださっています。最初にお読みしたイザヤ書9章1節〜3節

『しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。』

アッシリヤに捕囚となり、苦しみ、やみのなかにあったイスラエルに対して、イザヤが預言したように、私たちの国にも、教会にも、私たち自身の上にも大きな光であるイエスキリストを見せてくださり、死の陰の地に住んでいたような私たちに光が照らされます。そしその国民をふやし、その喜びを増し加えてくださった。私たちは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。とあります。リビングバイブルは「イスラエルはもう一度、偉大な民族となり、収穫期を迎えた農夫のような喜びにあふれ、分捕り物を山分けする者のように有頂天になります。」

 ですから今週、イザヤの預言を私たちにも語られていると信じ、また私たちは被造物の管理人としての権威をしっかり握って、今嵐の中にある、全く進まないような状況であるけれども、大胆に宣言していきたいと思います。「みことばを行う嵐よ。主をほめたたえよ!」あの詩篇百四十八篇にあるように、嵐に命じて、宣言していきたいと思います。

 既にあの二〇一八年の台風であのように奇跡を見せてくださったのですから、私たちは信仰をもって「嵐よ、静まれ!」と宣言し、被造物の管理人として宣言をして、まだ管理できていない所を回復していきたいと思います。

 私たちは今週一週間、自分のことを祈るよりも優先して、嵐の中にあるところに宣言していきたいと思います。あなたのテリトリーのなかで、主が祈れと言われている嵐の問題に、大胆に宣言して祈っていきたいと思います。私たちは被造物の管理人です。

 最後に、皆さんで宣言したいと思います。毎日「世界宣教のとりなし」のライングループに、「宣言しましょう」と滝元順牧師がメールを送ってくださっています。今日は皆さんで今一番の嵐となっている、新型コロナウイルスに宣言しましょう。皆さんで声を出して宣言し、祈る時を持ちたいと思います。

【新型コロナウイルスよ。私は被造物の管理人として命令する!これ以上、個人、家庭、町、都道府県、日本に、国々に感染、拡大してはならない。人や動物、被造物に危害を加えてはならない!
 回復された被造物と調和して、主を大声で賛美せよ!私は神に近づき、悪魔に立ち向かいます!
 新型コロナウイルスを使い、死に追いやっている死の霊よ。よく聞け!!私はお前の管理人として命令する。即刻、人々と、被造物、そして新型コロナウイルスの背後から手を引け。主のみ名により高らかに宣言する!!!!  アーメン】

 また新型コロナウイルス以外でも、この嵐の為に祈りなさいと主に教えられたことを、大胆に宣言しましょう。

 主にあっていつも気にかけてお祈りしている方、いつも気にかけて祈っている場所、国、様々な出来事があると思います。今週はその嵐に向かって私たちは宣言して、管理人の使命を果たしていきたいと思います。

 また自分の中で嵐のようになっていて、前に進まない所、その部分に対しても祈りましょう。皆さんが被造物の管理人の使命を果たすとき、嵐はやみます。最後に一言お祈りさせて頂きます。

 愛する天のお父さま、今日もう一度あなたを救い主であると信じます。私たちは知らない間に被造物の管理人としての使命を忘れてしまい、自分実現的な祈りばかりをささげてしまっていたことを赦してください。今日私たちは、再度私たちを被造物の管理人としてくださっていることを信じます。あなたから与えられた使命であることを信じます。その使命を今週は絶対に忘れることなく、果たしていくことができますように。また毎日の生活で優先的に大胆に祈り、宣言していくことができますように。特に今まで進まなかった嵐の場所に対して祈らせてください。あなたがこのことを祈れと言われたことを百パーセント祈りきることができる被造物の管理人とさせてください。そして被造物が回復され、本来のあなたが創造されたものとして回復することができますようにお願いいたします。主イエスキリストの聖名によってお祈りいたします。アーメン。