「宣教70周年—2020— 
明日に向かって 「将来と希望」 パート5 
〜苦しみ。それは栄光への戦い〜」

2020年5月10日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ローマ人への手紙8章18節〜23節

『今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。』

 ハレルヤ!インターネットを通じて、このような形で礼拝が持たれるようになって早、一ヶ月以上過ぎました。非常事態宣言も延長され、五月末まではこのような形態で礼拝を持たなければならない状況になったわけですが、今、世界中の人たちが同じ苦しみを共にしています。なかなかこういう機会はないのではないかと思われます。

 聖書を読みますと、神が人類全体の方向を変える為に、人類に対して共通の苦しみを置かれ、考え直す機会を与えられるのが分かります。そして、その方法の一つが「疫病」です。かつてイスラエルにおいて、疫病が蔓延し、イスラエルが悔い改めて、もう一度神の手に戻った歴史があります。イスラエルの歴史は世界の歴史の縮図です。今、神が世界中の人たちに、一度、自分たちの行動を考え直すように、機会を与えておられるのではないかと思います。なぜなら人間には、自由意思が与えられているからです。自ら考えて、自らの方向を変えなければならないのです。

 苦しみは人生の中にも、突然、起こってきます。苦しみのない世界に行きたいと願うわけですが、人生に苦しみはつきものです。しかし時に苦しみは、神の栄光を現す道具として使われます。聖書を読むと、そのようなテーマは様々な箇所で発見できます。

 皆さんにお祈りしていただいているのですが、去年の十月、家内に重篤な病が発見されて、以来、私と家内の人生はすべて変わってしまいました。
 しかしそんなただ中で、主がみことばを与えて下さいました。それがペテロ第一の手紙五章十節です。

『あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。』

 時に人生の中に、青天の霹靂のように現れる苦しみは、決して無駄ではないということです。
 現在、世界中の人たちが苦しんでいる、新型コロナウイルス問題も、決して無駄ではなく、この機会を通して神は新しい何かを創造しようとされていると信じます。
 先ほど読んでいただきました箇所は、パウロが語った言葉です。ローマ人への手紙八章十八節、

『今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。』

 現在、人類は共通の敵、新型コロナウイルスと戦っています。コロナ後の世界は、どうなってしまうのだろうかと言われます。最近、「BC、AC」という言葉をよく耳にします。「Before Christ」、「キリスト以後」みたいな響きがありますが、「AC」とは「After Corona」だそうです。コロナが収束した後、どんな世界が形成されるのだろうかと、様々な議論がなされています。きっと今までのような生活は送れないだろうと言われます。生活スタイルを大きく変えなければならない、と言われています。
 しかし神はこのような機会を通して、根本から人類にメスを入れようとされているような気がします。

 苦しみに出会う時、人には非常時の電話が設置されています。最近は、スマホを誰でも使っていると思いますが、スマホの機能がほとんど壊れても、緊急電話の機能だけは残ります。警察とか消防に電話する機能だけは、最後まで残るようになっています。
 私たち人類もそうです。このまま行くと切れてしまう!オフになってしまう!というような時、出てくる画面が緊急事態の電話番号です。それは何かというと、「神への祈り」というアプリが起動するのです。
 今、世界中の教会の共通の祈りの課題は、新型コロナの収束です。そして新型コロナで苦しんでいる方々がいやされ、立ちあがるように真剣に祈っています。世界中が一つの祈りの課題を共有し、真剣に共有できる機会は、近年においては初めてです。この機会を十分に用いさせていただき、どうせ同じ苦しみを共に体験するならば、その後に神の栄光が残る苦しみを体験したいものです。

 今日、礼拝メッセージのタイトルを、「〜苦しみ。それは栄光への戦い〜」と付けさせていただきました。主はさまざまな戦いや苦しみを通して、栄光への戦いへと導いてくださいます。

 先ほども大変懐かしい映像を交えた、「子どもの頃の思い出」を聞いていただきました。新城教会は、今年で七十周年です。私の母が東京でクリスチャンになったことをきっかけに、父と出会い結婚し、新城教会ができました。

 今日は母の日です。母のことを思い出すというか、「まだ私の母は生きていますよ。」という方も多くおられると思いますが、我々の年代となりますと、母親が生きている人は多くはいないと思います。母親がいなかったら、自分もいないわけですから、母親に心から感謝しなければいけないと思います。私の母は八人子どもを産みました。八人も子どもがいると、子どもに関して命に別状のある優先順位から世話をする感じで、とりあえずケージ中のブロイラーのように餌、みたいに育ってきました。
 新城教会、私の両親から始まったわけですが、七十年の歴史を振り返る時に、決して順調な歴史ではありませんでした。苦しみのほうが、はるかに多かったのではないかと思います。
 なぜ神を信じるにも関わらず、神は苦しみを与えるのかと、時々、混乱します。本来、天地宇宙を造った神を味方につけたら、順風満帆の人生を送れても良さそうなものです。しかし、そうでもなく、神を信じない時とさほど変わらない苦しみもあるわけです。
 しかしながら、私たちクリスチャンの苦しみは、「苦しみの後が違う」のです。その事を語っているのが、ローマ人への手紙の八章です。ローマ人への手紙八章十八節〜二十三節、

『今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。』

特に最後の二十三節、

『御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。』

と書かれています。
 聖霊さまが内側に住んでくださっている私たち自身にも、うめきが、苦しみがあると語っています。

 しかし、主を信じる者たち、聖霊をいただいている者たちのうめきや苦しみは、質が違うのです。何が違うのかというと、パウロは、普通では絶対に考えにも及ばないことを告げています。
 我々クリスチャンの苦しみは、なんと、「全被造物とつながっている」というのです。私たちがうめき苦しみながら、危機を脱していく時、私たちと一緒に、神が造られた被造物も危機から脱するというのです。主を信じる者たちのうめきは、全被造物とリンクし、同期し、連携しているのです。
 クリスチャンが苦しみ、祈る時、その管理下にある全ての被造物も、救われるのです。

 クリスチャンが、病の癒やしを真剣に祈る時に、また様々な問題でうめき苦しみながら祈る時、そのゴールは、「人間の体の完全な贖い」にあります。
 聖書のストーリーは、天地創造から始まり、新しい天と新しい地の創造でゴールします。やがてイエスさまがこの地上に帰って来られて、すべてを治める時がくるのです。その時、新しい天と新しい地が創造され、私たちの体は贖われて、永遠のいのちが始まるわけです。
 ですから私たちの病の癒やし、問題解決は、それだけで完結するものではなく、やがて来たるべき新しい天と新しい地にリンクするのです。
 同時にそれと同期しているのが、被造物のうめきと苦しみ、被造物の回復、被造物の完全な贖いです。ということは、我々は無駄に苦しんでいるわけではないのです。

 神さまは全知全能のお方です。なんでもご存じのはずです。なんでもできます。人間が祈ったりしなくたって、全てをご存じです。それなら、祈らなくてもいいじゃないかという意見もあります。
 しかし聖書は決してそうは告げていないのです。神は人に祈りを要請されるのです。それはどうしてかというと、神は全知全能のお方ですが、ご自分の持っている全地全能の権威を一部制限し、管理人たちに手渡しておられるからです。

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 祈りとは何かというと、神の全地全能性が制限され、欠けた部分を地上から満たす事に他なりません。神が制限された部分を祈りで満たす時、祈りの答えがこの地に実現するのです。
 なぜ祈らなければいけないのか、それは、地上に関しては、「神は管理人を通して働かれる」という法則を造られたからです。
 主を信じる者たち、すなわち被造物の管理人たちが、神の欠けた部分を満たす時に、天の答えが地上に現されるのです。先ほども「みこころが天でなされるように、地でもなされますように」と祈りました。祈りは必ず「聞かれ」ます。しかし祈りが「答えられる」においては、神がどの部分を、どのように制限されているのかを、聖霊に聞いて知る必要があります。そしてその欠けた部分を、祈りで満たさなければならないのです。
 シャドーボクシングをやっても、敵は倒れません。敵の顔面をしっかり捕らえないと戦いは敗北します。霊的戦いも同じです。何をどう祈ったらいいのか、主に聞いて、欠けた部分を満たす時、主の栄光が現されます。

 先ほど、ペテロ第一の手紙についてお話しさせていただいたのですが、五章十節の前に、何と書いてあるのかと言いますと、
 ペテロ第一の手紙五章八節〜九節、

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。』

 そして十節、

『あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。』

 様々な苦しみ、問題の背景には、悪しき力が関わっているのです。それに対しては霊的戦いが必要です。

 新型コロナウイルス問題も、ただ単なる医学的、疫学的な問題ではなく、死の力が働いています。
 私は「世界宣教」というLINEグループに、様々な祈りの課題を流しています。そこでも、皆さんが真剣に祈ってくださっています。最近、「水」というテーマを祈らなければならないと主が教えてくださって、水の源を勝ち取る祈りを多くの方々がしてくださっています。

 それには理由があります。なぜならば、聖書を見ると、神が最初に造られた物質が水であるからです。水は神が光りあれ、と言われる以前から存在したからです。物理学的にも、水は宇宙の始まりと同時にできたとされています。
 すべてのものを貫いている、ある意味で神のような「物質」が「水」です。聖書の世界観は、水はただ物質ではなく、一つの霊的概念でもあります。水のある所に神もおられます。そして新型コロナのウイルスの中にも水があります。
 また水は、生き物だとも言われます。水はもしかしたら、感情を持っているかもしれないとも言われます。そして良い水は人を生かし、悪い水は人を殺します。それは聖書も教えるところです。ということは、最初にできた物質、水に対して主をほめたたえるように命じたら、全ての物質と生命を貫いていますから、コロナの中の水も、主をほめたたえるはずです。そうしたら全ての問題の根源が勝ち取られるかもしれません。悪魔もそのことをよく知っていて、水の源を自分のものとしようとしています。

 かつてエリコという町に、死と流産が多く、住民は苦しんでいました。その原因を調べたら、水が悪かったのです。それでエリシャという預言者が来て、水の源に塩を投げ込んで祈りました。そうしたら、湧き水がいやされて、その町に二度と流産が起こらなくなったというのです。
 今でもイスラエルのエリコに行きますと、それを見ることができます。

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 これがエリシャが聖めたという水です。今でも流れています。ガイドさんが「飲んでみてください。」と言われて、ちょっと躊躇しました。この水で昔、大勢死んだのか・・・と思って。飲んでみましたが大丈夫でした。水が良くなったのです。エリシャが祈りによって、水を勝ち取ったということです。

 新型コロナウイルス問題は、世界的問題ですが、何を祈ったらいいのかという中で、水の源が聖められるように祈らなければいけない気がして、真剣に祈るようになりました。

 神がイスラエルを退けた二つの理由があります。一つは神さまから離れた事です。それは最も大きな理由です。しかし、もう一つの理由が述べられています。エレミヤ書二章十三節、

『わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。』

 ここに『水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。』とあります。それは水源を悪魔にささげた事を意味します。調べてみますと、エリコの町の水源には偶像が置かれ、この町では祖先崇拝が盛んでした。先祖の霊と呼ばれる悪霊に、水源が奪われていたのです。先祖の霊なんて、この地上にはいません。死後の世界に行ってしまっています。しかし何かの存在を感じるとしたら、それは死者の霊のふりをした、悪霊です。エリコの町は、それが原因で多くの死と苦しみが発生していたのです。エリシャは、その事を知って戦い、勝利を得たのです。

 皆さんが様々な領域で祈ってくださる結果で、何か最近、日本のコロナの発生率も減少しています。これは愛知県のコロナウイルスの感染者数です。

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 見てください。多分、水テーマで祈り始めた頃から、めっきり減りました。
 日本はPCR検査が少ないので、どれだけ感染者がいるか分からないと言われます。しかし相対的に言えることは、ある時期を境に、感染者数が落ちたということです。もちろん水だけのことではなく、様々な理由がありますが、私は、祈りが関わっていると信じます。苦しみの中で真剣に祈るなら、神は祈りを受け取って、答えてくださるという証拠ではないでしょうか。

 私が前回ここに立たせていただいたのは、四月十二日のことでした。その朝、ちょっと心が重かったです。
 なぜかというと、私が住んでいるのは新城市ですが、新城市に新型コロナ患者が新たに四人みつかったというニュースがその朝流れたからです。新城市は人口四万人そこそこの、小さな町です。人が住んでいる地域はそんなに広くはありません。そこに四人の患者が発生し、全員、感染経路が分からないということでした。年代もばらばらでした。以前に一人の方がコロナに感染したのですが、その方はフランスからの帰国者でした。濃厚接触者も分かっているから大丈夫、みたいなコメントを市長さんがホームページに載せていました。しかし、新たな四人の患者については、市民の間に戦慄が走りました。
 おりしも四月十二日は、新城教会ニュースを全市民に発行した日でした。それも、新型コロナウイルスについて、「市民、みんなで祈りましょう!」というメッセージを新城教会ニュースに載せたところでした。
 内容の一つは「神さま助けてください!」と、救急車が必要な時は一一九と押したらレスキューが来るように、神に助けを求めることと。二番目は、「人間は被造物の管理人だから、被造物に対して、命じることができる。新型コロナも元々は神が造られた被造物だから、『これ以上広がってはならない!』と、宣言してください。」と、市民の方々に呼びかけました。
 新城教会ニュースは五万部くらい発行されていますから、ほとんどの方々がそれを読んでくださったと思います。しかし読んでいる最中に、四人の新しい感染者が見つかったと聞かされたのです。クリスチャンであろうと、クリスチャンでなかろうと、たぶんその日、市民は真剣に祈ったと思います。日本の八百万の神々はあてにならないので、教会が言うイエスさまに祈ってみよう。「イエスさま!助けてください!」と新城市民は叫んだわけです。
 そして、「新型コロナウイルスよ!もうこれ以上拡大するな!」と新城市民が宣言してくれたわけです。私も真剣に宣言しました。皆さんも宣言し、祈ったと思います。
 しかし四人とはきついなぁ・・・、市中感染じゃないかと思いました。

 さらに夕方になったら、ある方から連絡が来ました。「順先生!大変なことが起こっていますよ!」と。下手すると、教会も巻き込まれ、たいへんなことになると連絡がありました。それを聞いた時、本当に血の気が引きました。
 詳しいことは言えませんが、これからどうなっちゃうのかな・・・、みたいな可能性まで含むものでした。小さな町ですから、人が一人でも中に入れば、誰にでも到達します。本当に意気消沈しました。
 家内も病気だし、新型コロナも出てきて、新城市が最悪の町になったら、私は三重苦、四重苦、くらいの暗い気持ちになりました。もう、真剣に祈りました。「なんとかしてください!神さま!」その夜、あんまり寝られませんでした。
 月曜日に、みんなで真剣に祈り、火曜日の朝のことでした。突然、すごいニュースが飛び込んできました。

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 「陽性二十八人は誤判定、二十四人が陰性と判明 PCR検査で愛知県」
 なんと新城市の四人は「全員陰性」でした。誤判定だったのです。もう一度検体を検査したら、陽性の人は四人だけだったのです。二十四人は陰性だったわけです。えー!そんなことって起きるわけ!?

 どうして起こったのかというと、新城保健所のお手柄でした。保健所は忙しいと思います。新城保健所は、四つの検体を県に送ったのでしょう。そうしたら四人とも陽性判定で返って来たわけです。しかし、新城保健所の人が「おかしいぞ。」と思ったらしいです。やっぱり患者とみられる人と、接触しますから、「この人は違うだろうな・・・。」と感も働くわけです。それが四人全員陽性とはおかしいぞ?と県にクレームをつけたのです。県も忙しいただ中で、再検査をしたら、陽性の検体が飛び散って、陰性の検体を汚染し、陽性者がいっぱい出た事がわかりました。
 それを見つけたのが、なんと「新城保健所」だったわけです。私は新城保健所に感謝状をあげたい気持ちです。新型コロナは病気と共に、もう一つ、特定感染症という法律的かせがつきます。陰性なのに陽性なんて判定されたら大変です。
 なんとセーフ!だったのです。新城保健所に、雲の柱から弁当でも届けていただきたいと思うくらいです。マルイチから何か届けて、「よくやってくれました!」と感謝し、拍手してあげたいと思います。新城の市民全員が感謝していると思います。

 しかし、この背後に、主のみ手がありました。新城教会でいつも、真剣にとりなしてくれる人たちが、「保健所のために祈りなさい!」という、主の声を聞いたというのです。医療機関も大変ですが、行政も今大変です。「新城の保健所に行って祈りなさい!」という声を聞いたそうです。どのように聞いたのか知りませんが。
 土曜日のことだったそうです。なんの情報もなかった時です。何人かの方々が、新城保健所に行って、外から祈ったというのです。「ここで働く方々、きっとお疲れだから、疲れを癒やしてあげてください。正しい判断ができますように。」と祈ったわけです。
 その結果、聖霊さまが保健所の中に働かれたわけです。「あれ?ちょっとおかしいぞ。」とね。普通ならベルトコンベアのように、流れ作業を、「ちょっとおかしいぞ・・・。」と、神の声を保健所の人が聞いたはずです。
 町のためにとりなして祈ることは大事です。町の為に祈っているただ中で、このような奇跡を起こしてくださるわけです。

 このような危機の中で、祈り、うめくことは決して無駄ではありません。神の栄光を見ることができます。
 今週も、祈りの手を緩めないで、真剣に祈りたいと思います。ちょっと感染者が減ったりすると、「やった!」みたいな感じで、すぐにハメを外すのが人間の常です。しかしアフターコロナが恐ろしいのです。こういう時にこそ、油断せずに、真剣に祈ったら、勝利が持続されると思います。

 主を信じる者たちが真剣に祈る時、神は答えてくださるのです。
 そして、この戦いは何のための戦いかと言ったら、それは栄光への戦いです。
 栄光とは何か。それは、やがてイエスさまがこの地上に帰って来られるという栄光の望みです。

 『初めに、神が天と地を創造した。』と、聖書は告げています。
 いつも話しているのですが、日本語は単数と複数が曖昧です。聖書の翻訳も、本来、原語では複数でも、それを一般化して単数のように訳してしまっているところが多くあります。特に、『初めに、神が天と地を創造した。』というこの箇所、「地」は単数ですが、「天」は複数形です。正確には、『初めに、神が緒天と地を創造した。』と訳さなければいけないです。
 聖書全体でも、そのことを支持しています。パウロはある時、地上から去って第三の天に行ったと記されています。それは少なくとも、天が三つあることを示唆しています。
 イエスさまの時代、ユダヤ教のラビたちは、天が幾つあるかで議論していたそうです。ある学派は「三つだ。」と言うし、「いや、七つある。」「十ある。」というように、いろいろな見解と意見があったようです。天は三つとは限定されていないのです。ですから、ある箇所では「諸々の天」という表現で、三つ以上を示唆している箇所もあるわけです。

 実は今の科学では、高次元が十一くらいあると設定しないと、宇宙を解き明かすことはできないと言われます。
 皆さん、考えられますか。私たちは時間と空間という制約の中に生きています。A地点からB地点までいくのに、時間がかかります。縦と横と長さと時間の世界ですが、それを超えるような、高次元と呼ばれる世界が実在するのです。今まででは、宗教的領域、もしくはSF、オカルトの領域なのが、今では科学の領域になりました。宇宙とは、広がりのある空間だけではなく、それを超える空間も含むのです。

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 「第三の天」とは死後の世界だと思われます。しかし神さまは、それ以上の天を造られているわけです。けれども第二の天と、第一の天は、神の支配ではないのです。第二の天には悪魔が君臨していて、地上は悪魔の支配下です。
 例えば十の天まであったとしたら、第十の天まで神は造られたのにも関わらず、第一と第二は悪魔の支配下になってしまったわけです。
 今まで「天国」というと、どこをイメージしていたのかというと、多くの場合、第三の天、死後の世界を「天国」と信じていました。これは間違いではありません。なぜなら、神の支配は天国であるからです。
 しかし第一と第二は悪魔が支配しています。これが永遠に続いたら、神さまの敗北です。神が創造した天の内、第一と第二の天という宇宙の土台が、悪魔の支配下では、神の国は立ちゆきません。常に土台が不安定であるからです。
 神は第二の天と第一の天を、ご自分の支配下に含めたいと、強く願っておられるはずです。その為の「必須事項」は、第二の天を支配している、悪魔・悪霊どもの王国を打ち破らなければなりません。そして天国は最終的には、地上に現れなければならないのです。死後の世界だけでは、中途半端です。この地上に新しい天、新しい地ができあがって、聖書のストーリーは完成するわけです。
 そして第一の天を、天国とするために誰が用いられるのかというと、私たちクリスチャンです。管理人として用いられるのです。
 今、第一の天に含まれている被造物は悪魔の支配下にあり、皆、うめきの中にあります。苦しみの中にあるわけです。クリスチャンでさえも、うめきの中にあるというのは、第一の天に住んでいればこそです。悪魔の支配のただ中ですから、苦しみやうめきがあるのは当然です。

 人だけでなく、すべての被造物に切実な一つの思いがあるのです。ローマ人への手紙八章十九節、

『被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。』

 この被造物とは、人間以外の被造世界を指します。新城は大変被造物が豊かです。一般では「自然」と呼ぶのですが、「自然」という言葉は、クリスチャンはあまり使わないほうがいいと思われます。それは「自ら然り」という意味で、極めて進化論的な言葉であるからです。山の木々も、花も、水も、動物たちも、土地も、何もかも、すべて神が造られた被造物世界です。しかし、悪魔の手に掴まれてしまっているから、うめいています。

 ヨブ記にはこんなことばがあります。ヨブ記の扱いには注意が必要ですが、これは神が教えたことであると思います。ヨブ記十二章七節〜十節、

『しかし、獣に尋ねてみよ。それがあなたに教えるだろう。空の鳥に尋ねてみよ。それがあなたに告げるだろう。あるいは地に話しかけよ。それがあなたに教えるだろう。海の魚もあなたに語るだろう。これらすべてのもののうち、主の御手がこれをなさったことを、知らないものがあろうか。すべての生き物のいのちと、すべての人間の息とは、その御手のうちにある。』

とあります。
 私たちの周りに広がる被造物に聞いてみろ、というのです。
「どうしてここにいるの?教えてくれる」と聞いてみろというのです。土地に聞いてみろ。『自然にできた。』とは言わないのです。『神が私を造りました。』
 動物たちにも話しかけてみろと。「どうして存在しているの?」『天の神さまが俺を造ってくれたんだ。』と。今週ぜひ、聞いてみてください。
 「花さん。なんでここに存在するの?」『天地宇宙を造った神さまが私を造ってくれたのですよ。』と答えてくれるのです。
 神が造られたものは、神とのチャンネルもあるし、管理人とも、なんらかのコミュニケーション手段が与えられていても不思議ではないです。

 キリスト教神学は、中世において、グノーシス派の影響を強く受けて、人間以外は、「すべて無機質な物」という考え方が入ったと言われます。それゆえ、このような感性が失われたのだと思われます。しかし問いかけてみたら、被造物は答えるのです。何を我々に訴えるのか。
 『被造物も、切実な思いで神の子どもたち…』、これ複数です。ということは、主を信じる者たちの現れを待ち望んでいるのです。「君はクリスチャンだろう。俺たちが贖われることも祈ってくれよ!今、君も苦しんでいるだろう。しかし君だけじゃないんだよ。俺たちだって、苦しいんだよ。だから君たちと一緒に贖われるように、祈ってくれ!」と、被造物世界はクリスチャンに期待をしているのです。

 皆さんに祈っていただき、家内も支えられています事を、心から感謝いたします。薬も飲んでいるのですが、最近、薬を飲む前に、聖餐式をしています。

 聖餐式をして、イエスさまが薬と一緒に働いて下さるように!と祈って飲んでいます。どういう結果が出るのか、楽しみにしています。だいぶ良くなったのですが、怖いような、楽しみなようなところがあります。続けて祈っていただきたいと思います。
 薬を飲むためには、絶対に水が必要です。水も、薬も、神の被造物です。最近、彼らは、どんな気持ちで我々に期待しているのだろうと考えました。
 きっと、「順、おまえ神の子だろ。俺たちのためにも、祈ってくれ。」と語りかけているのかな?と思いました。

 今、新型コロナの問題が起こって、被造物は息づいているという話をしました。コロナウイルスが現れて以来、被造世界は明るくなり、人間世界は暗くなっています。

 本来は、両方が明るくならなければならないはずです。しかし残念ながら、コロナによって、被造世界が明るくなり、人間世界が暗くなっている現実があるわけです。

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 人間が活動しなくなったから、被造世界はスモッグから解放され、中国なんかも空が青く見えるようになったわけです。そしてウミガメも、順調に産卵して、海に帰って、生態系が息づいているのです。
 彼らのうめき叫びが、神の前に届いたのではないかと思われます。
 しかし私たちは今暗くなっています。私たちの解放と共に、被造物も継続的に解放されるよう、祈らなくてはいけないと思います。
 コロナが収束すれば、また人が動き始めます。どうなるでしょうか。せっかく解放された被造世界も暗くなります。しかし人間は明るくなります。そうすると被造物うめきます。すると、人の中に問題が起こり、人が暗くなります。その繰り返しです。その繰り返しが、同時に人間の歴史かもしれないです。

 これではいけないです。両者が勝ち取られるためには何をしたら良いのでしょうか。ローマ書八章に述べられているように、「人のうめき・苦しみは、被造物のうめき苦しみと繋がっている」ことを理解するクリスチャンが現れなければいけないのです。
 人のうめき苦しみ、病の癒やしや問題解決が、やがて人間の体の完全な贖いに到達する。それとシンクロしながら、被造物のうめき苦しみも共にあり、被造物の贖いに到達するということが、ローマ書八章に記されています。
 特に二十二節、

『私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。』

 ここでパウロは「ともに」という言葉を繰り返しています。それは「産みの苦しみ」だというのです。お母さんが子どもを産む時、大きな苦しみがあります。
 私も長男が生まれる時、家内に付き添っていたのですが、途中で恐くなりました。「こんなにお産って痛いのか・・・。」家内が、ものすごく痛がって、苦しんでいるのです。女に生まれなくて良かったな・・・と思ったのですが、でも、男は精神的な苦しみが大変です。
 しかし産んでしまえば、新しい命に喜んで、苦しみは全く忘れるわけです。

 コロナの問題も産みの苦しみです。新しい天と新しい地が生み出されるための、産みの苦しみであると信じます。この苦しみは、ただ単に苦しんで終わるものではありません。「栄光への戦い」です!
 またクリスチャンのただ中に起こる、様々な病や問題も、そこで終わるのではなく、新天新地につなぐプロセスです。被造物も一緒に勝ち取られているのです。その事を理解したら、人生も、世の中も変わっていきます。

 黙示録に、新天新地の模様が記されています。ヨハネの黙示録二十二章十四節、

『自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。』

 イエス・キリストを信じるならば、一度失ったいのちの木の実をもう一度食べることができるのです。そして新天新地の模様が記されています。二十二章一節〜四節、

『御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。』

 ここでは新天新地の模様を、垣間見させてくださっています。やがてイエスさまが帰って来られて新天新地になっても、そこには水があるのです。川が流れているのです。しかしその水はどんな水かというと、「水晶のように光る水」だというのです。それは『神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。』のです。
 家内が薬を飲む時に、「この水って一体、何をうめいて、私たちに何を伝えたいのかな・・・?」と思いました。そんなことを考えて祈っている時に、「水は新しい天と新しい地の、都の中央を流れる、いのちの水の川の水になりたい!」と願っているに違いないと思いました。
 また、毎日服用する薬も、何をうめいているのだろうと考えました。薬も神が人間のために用意してくれた物質です。根本的に物質は、人間に貢献しているわけです。いのちの川のほとりには、「いのちの木」が立っていて、その葉からできる薬は、諸国の民を癒やすのです。それは諸国の民を癒やす完璧な薬です。
 これは千年王国時代の描写だと思われます。そこにはまだ、病気が存在します。しかし、いのちの木の葉からできる薬は、すべての病をいやし、諸国の民を癒やします。飲んでみないと、効くのか、効かないのか分からないような薬ではなくて、完璧な薬です。
 ということは、薬として造られた物質は、「俺も、いのちの木から出来る薬になりたい。そうなるように、誰か祈ってくれないか?」と願っているに違いないと思いました。
 花も美しく咲きますが、寿命があって、しばらくすると枯れます。花は、「枯れない花になりたいけど。祈ってくれよ。」と。木も、だんだんと老木になって倒れますが、「永遠に朽ちない木になれるように祈ってくれ。君たちだって、永遠のいのちをもらって生きることができるでしょう。私の為にも祈ってくれ。」と、きっと神の子どもたちの現れを、切望しているのではないかと思います。

 家内の写真です。結構良い顔しているでしょう。そう祈っているせいか分かりませんが、聖餐式と共に薬を飲ませていただいています。これからどういう結果が出るのかは主に任せているのですが、本当に期待しています。

 私たちは被造物の管理人として、やがて来たるべき新天新地を目指しているのです。今の時の様々な苦しみは、産みの苦しみであり、被造物の贖いが関わっているということをよく理解し、苦しみ、悲しみに対抗していく時、しばらくの苦しみのあとで堅く立たせ、強くして、不動の者にしてくださるのです。
 それを阻む敵の力も関わっています。「霊的にも強くなって、悪魔と戦いなさい!」と聖書は教えています。

 今週私たちは、ローマ人への手紙八章に描かれている事柄をよく心にとめて、回復しつつある被造物のうめきを聞いて戦いたいです。
 コロナの問題を通してせっかく被造物も回復しましたから、「主よ帰って来てください!イエスさま帰って来てください。」と真剣に祈りたいです。

 被造物のうめきに合わせて、祈る時が来ているのではないかと感じます。一言お祈りして今日のメッセージに代えさせていただきます。一言祈ります。

 ハレルヤ、天の父なる神さま。み名をあがめて心から感謝をいたします。私たちは新天新地を求めて祈っています。今、苦しみ悲しみ、さまざまな叫びがありますけれど、これはやがて来るべき栄光への戦いです。聖餐式の中でイエスさまと一つになることができますように。主のみ名によって祈ります。アーメン。