「主の前に富む者となる」

2020年8月16日(日)
新城教会主任牧師 岡本信弘
ペテロの手紙 第一 5章6節

『ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。』

 ハレルヤ! 主のみ名を心から賛美します。こうして久しぶりにこの場所に立つことができ、皆さんと共に主を礼拝できることを感謝します。
 まだ二部礼拝制が続いていますが、皆さんにお会いして、共に集まって主を賛美できることは、本当に感謝なことだと思っています。
 皆さんにいつも祈っていただいて、私も家族も守られていることを感謝します。孫が三人いますが、会うたびにいろんなことができるようになって成長していく姿をほほえましく思いながら、一方では自分を見て、「これもできなくなって、あれもできなくなって、これも忘れて」と歳を取ったなぁと思いますが、こうして守られていることを感謝します。

 また、プレイズのためにも、いつもお祈りを心から感謝いたします。
今回のコロナの影響下、印刷・出版部門は売り上げが落ちていて結構大変ですが、他の印刷会社の方に話を聞いたところによると、うちはまだまだ恵まれていると思います。
 飲食部門では、コロナの影響ということではありませんが、諸事情によってイタリアンレストランの「トラットリア雲の柱」を八月一日で閉店しました。五年間続けてきましたが、その間、多くの方に祈っていただき、来ていただき、感謝します。今は休業していて、九月から再スタートさせる予定です。
新しい店にするにあたっていちばん頭を悩ませたのは、店名です。形態を変えるので、新しい名前にしようと思い募集したところ、五十ほども案が出ました。いろいろ話し合ってもなかなか決まらず、「最後は社長が決めてください」と言われて祈っていました。そしてやっと、『サーム23』(Psalme23)に決まりました。一般の人からしたらなじみがなく分からないかもしれませんが、これは聖書の詩篇二十三篇という意味です。二十三篇は、『主は私の羊飼い、私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます』というみことばから始まります。来ていただいた方が、いこいを得、安らげる場所として、また主を賛美する所として用いられればと願って名付けました。
店名は決まったものの、どんなメニューを出すか、どんな雰囲気にするか、どこに何を置けばいいのかなど、考えなければならないことがたくさんあります。スタッフにも意見を聞きますが、家族にも相談しています。私には息子と娘がいるのですが、日曜日にそれぞれの家族が集まって、新しい店についていろいろ議論します。ただ、みな声が大きいので、「あの家の人はいつも喧嘩している」と思われそうですが、いろいろな意見を出してくれますし、集まれないときもlineで相談にのってくれるので、感謝です。
 これから新たなスタートをしていきます。良い店となるようぜひ覚えて続けてお祈りをお願いします。

 今年は新城教会宣教七十年、リバイバルミッション創立五十年、プレイズ設立三十年、付け加えて言うと私が結婚して四十年という節目の年であり、大きな期待を持って始まった年なのですが、大雨やコロナなど、思ってもみないほど大変な年になってしまいました。しかし、大変な中にも神さまの恵みはいつもその場、その場に、その時々にあることを感謝しています。

 八月十四日は、リバイバルミッションにおいて、「リモートdeリバイバル」という聖会がありました。十日の日には、キッズキャンプもリモートで行われました。私は主催者側なのですが、ほとんどお任せしている状態で、十四日の日も忙しくて、プレイズの仕事をしながら参加していたのですが、リモートでしかできない企画がいろいろと考えられていて、それを見ながら、「これを作るのは大変だっただろうな~」「作ってくれたスタッフの人たち、奉仕してくれた方々、お疲れさまでした」と心から感謝を申し上げたいわけです。本当にとても恵まれ、祝福をいただきました。
 一方、新城教会では七十年を振り返り、三月から毎週のように証し会が行われています。七十年を全部振り返ることができる人はほとんどいないですが、実は八月十四日は私の誕生日で、六十四歳になりましたので、大半をこの教会と共に歩んできたものとして、何ヵ月か前に、歴史を振り返って証しをしました。
また、いろいろな方が救われた時の証しや献身の証しをしてくださり、昔の写真も見せてくださったりしています。「あんなことがあった、こんなことがあった」と語られる中に私の名前が出てきたりするのですが、それを聞きながら、「そんなことあったかな?」とまったく覚えていなかったり、「ああ、そういえばそうだった。私も決起大会に行かせていただいたなぁ」などと懐かしく思ったり、恵みを思い出させていただいたりと、本当に楽しい時を持っています。今日も何人かの方々の証しとビデオレターがありますので、是非皆さんご参加いただきたいと思います。

 さて今日は、先ほど読んでいただいたみことばから、『主の前に富む者となる』というテーマでお話ししたいと思います。

 世の中の多くの人は、成功を夢見ていろいろな計画を立てて努力します。「一年後にはこうなる」また、「次にはこうする」など、いろいろ画策し忖度して、成功するために様々なことを考え実行します。私も事業をしていますので、ビジネス参考書などを時々読みますが、だいたい冒頭には、「あなたは、できる」「あなたには、能力がある」など、何の根拠もない、心を駆り立てるような言葉が出てきます。確かに、努力すれば金持ちになることもできるかもしれない、また高い地位を得られるかもしれない。でもそれが本当の成功といえるでしょうか。
 私たちは、あと何年生きられるか分かりません。三十年、四十年、若い人だったら七十年、八十年生きるでしょう。ある程度の成功を収めた人が、「私はこれをやって成功しました!」と言ったとしても、その人の人生がそこで終わりではないので、最終的に成功だったかどうかはわかりません。それは、「私は人生の成功者だ!」と自分で決めることではなく、その人の人生が成功であったか否かは、神の前に出て初めて神からジャッジされるからです。
 たとえば、試験を受けたあと、自己採点して八十点取れたと思っていても、答案用紙が返ってきたら五十点だった、ということもあるし、名前を書き忘れて、零点となることもあるかもしれません。結果が戻ってくるまでわからないのと同じで、私たちも今の時点、またこの先、人生がどうなるか分かりません。聖書は何と教えているでしょうか。

 ルカの福音書十二章二十~二十一節にこのようなみことばがあります。

『しかし、神は彼に言われた。「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。』

 「神の前に富む者」とは、金持ちになることでも高い地位を得ることでもありません。今、新型コロナの影響で経済よりいのちが大切だ、とみんなが気づき始めているといわれます。しかし、経済が成り立たなければ、経営者はやっていけません。「社員に給料が払えなくなったらどうする?」「会社が倒産したらどうしよう?」すごく不安があります。立ち行かなくなって自殺をしてしまう人も増えているといわれています。今までお金を儲けることだけに心を配ってきた人たち、お金がすべてだと思っている人たちは、頼るものを失ってしまい、行き詰まってしまうのです。寂しいものです。
 しかし聖書は、私たちが神によって生まれ、神によって生かされているということを知るときに、本当の祝福をいただくことができる、と言っています。

 『主の前に富む者となる』条件は幾つもあると思いますが、その中で、今日は三つを学んでいきます。
一つ目は、「すべてのことを主に委ねること」です。
 先日、昔の先生方のメッセージを読み返していたとき、滝元明先生がルツ記から「はからずも」というテーマでメッセージをされているのが目に留まりました。
 会話の中で、「はからずも」という言葉は普段あまり使わないと思いますが、自分で計画したり仕組んだりして事を進めるのではなく、自分の意図しないところで事が動く、予想もしなかったこと、思いがけなく、突然にという意味です。
 皆さんもルツ記を読んだことがあると思います。ナオミという人に二人の息子がいて、それぞれモアブの娘を妻にめとっていました。長男の嫁の名はルツ、次男の嫁の名前はオルパと言いました。しかし、ナオミの夫が亡くなり二人の息子も亡くなり、ナオミは二人の嫁と一緒にベツレヘムへ帰るとこにしました。その途中、ナオミは二人の嫁を不憫に思って、「あなたがたは、それぞれ自分の母の家へ帰りなさい」と勧めました。それを聞いて弟嫁のオルパは、泣く泣くそこを離れて自分の郷里であるモアブに帰って行きました。モアブは偶像礼拝が盛んな土地でしたから、それはただ自分の郷里に帰ったということだけでなく、あなたの地、あなたの所、つまり偶像の神に帰ったということを意味しました。しかし兄嫁のルツはナオミにすがりついてこう言いました。

『お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。』(ルツ記一章十六〜十七節)

ルツが『あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です』とナオミにすがりついて固く決心をしているのを見て、ナオミはルツを一緒に連れて帰ることにしたのです。そしてルツは、ナオミに尽くし、まことの神である主に仕えたのです。
しかしその生活は、決して楽ではありませんでした。「落ち穂拾い」という絵を皆さんもご覧になったことがあると思いますが、ルツは刈り入れをする人たちの後について、畑に落ちた落ち穂を拾い集めて生計を立てていました。そしてそれは、はからずも、裕福な親戚のボアズの畑でした。人は、偶然と考えますが、そこには神さまのご計画がありました。
ルツが落穂拾いをしているちょうどそのとき、主人であるボアズが畑に来て、「あの女の人は誰か」と刈る者たちの世話をしている若者に聞いたところ、姑のナオミによく仕えているルツだとわかると、彼女のために束からわざと穂を抜き落として拾い集められるようにと若い者たちに命じ、ルツによくしてやったのです。そして最後には、このボアズがルツを買い戻し、妻としてめとり、ルツは子を産み、後にイエスさまの系図に入るという祝福をいただいたのです。これはルツが画策したわけではなく、偶像の地を離れ、主につくことを決断した故に、はからずも主の恵みをいただき、素晴らしい祝福を手にすることができたのです。これがルツの物語です。

 明先生はメッセージの中で、「はからずも」という言葉を、何回も何回も使っていました。「はからずも十九歳で信仰を持ち・・・」「はからずも見城さんの紹介でこの土地を坪千円で購入し・・・」など、これ以外にもたくさんの「はからずも」のことを語っておられたのですが、皆さんはいかがでしょうか。ご自分が救われたときのことを考えてみたら、「はからずも」起こされたことがたくさんあることに気づくと思います。
 私はクリスチャンホームに生まれたので、教会に来るのが当たり前のことでした。幼い時に日曜学校に通い教会に来るようになった人、家族が誘われて、いやいや連れてこられた人もいるかもしれません。しかし、私にしても、自分が計画したわけではなく、はからずも、神さまの恵みの中で教会に導かれたことは、紛れもない事実なのです。

 プレイズが始まって三十年になります。私は、会社を作りたいとか大きくしたいとか、社長になりたいとか思ったことは一度もありません。私は人間的には力のない者、何もできない者ですが、ただただ主に使っていただけることがあれば使っていただきたいという思いの中で、今日まで働いてきました。振り返るといろんなことがありましたが、主にゆだねたことにより、はからずも主の助けがあり、主の導きがあったことを、本当に心から感謝しています。
 目の前がどんなに暗く危機的な状況であったとしても、私たちがすべてのことを主にゆだねていくなら、「はがらずも」主は必ず助けてくださり、光を射し込んでくださいます。このように、主にゆだねていくとき、主の前に富む者とされていくのです。

 二つ目に、私たちが富む者となる条件は、「へりくだって主に仕えること」です。みことばをお読みします。マタイの福音書十一章二十九~三十節

『わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」』

私たちにへりくだりを教えるために、すべてを知っておられ、すべてができる神ご自身がこの世に来られ、へりくだりを実践してくださいました。
 私はクリスチャンホームで温室みたいな環境で育ち、「おまえほど甘やかされて、苦労していない男はいない」と兄や姉に言われるような者です。なので、時に人の苦しみを分かってあげられない、知らない間に人を裁いているかもしれないと思いますが、そんな中でも神さまのみことばを通して、自分の弱さを知り、少しずつ変えられているのかなぁと思います。
 クリスチャンになって、「自分って、なんて弱い者なんだ」と感じておられる方も多くいるかと思います。私たちはみな弱い者です。しかし、自分の弱さを認めてへりくだって主の前に出て力を求めるなら、強い者とされ、豊かな者とされるとのです。

 また、へりくだることは、「赦すこと」です。赦しについて、マタイの福音書の十八章二十一節〜二十二節に次のように書かれています。

『そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」』

 言い争ったとき、「どう考えたって俺のほうが正しいじゃないか」と自分が正しいと思っていると、なかなか相手を赦すことができないことがありますね。しかしイエスさまは、「七回を七十倍するまで赦しなさい」と言われました。これは「何度でも赦しなさい」ということを意味します。
 イエスさまがこの地上に来られ、私たちの罪を背負って十字架にかかられたとき、イエスさまは何と言われましたか。罪のないイエスさまを罪人呼ばわりした人々を、「父よ、彼らを赦してください」と祈っています。同じように、私たちも人を赦すとき、主と同じ者と変えられていくことができます。
 「へりくだる」と、言葉では簡単に言うことができるかもしれませんが、実践することは容易なことではありません。新城教会はこの七十年の間、神さまからたくさんの恵みを受けてきました。その要因は何かと考えた時に、明先生がいつも言われた「いつもへりくだって主に仕えなさい」ということではないかと思います。この教会が自分の教会の祝福だけでなく、日本を、そして世界のために出て行って祈り、とりなし、戦っている。これはある意味、へりくだって主に仕える者でなければできないことだと感じています。

 今から二十七年前、全日本リバイバル甲子園ミッションが開催されました。一九九二年にここにいた人たちはご存じですが、その大会を行うためには、様々な困難があり、分裂が起こりました。
そんな中で、明先生は甲子園の本大会に出かける前、県民の森の山に登って、「主よ、このままでは行くことはできません。私に力を下さい」と祈られました。そのとき神さまは「すべての人を赦して祝福しなさい」と言われました。そう語られた明先生は、出て行った人たちを赦し、一人ひとりの名を挙げて祝福して祈ったそうです。そうすることによって大きな力を頂いて、甲子園ミッションに臨み、大きな祝福を得たという証しを皆さんも聞いたことがあると思います。
 
実は、まだ完成していませんが、今年中に一冊の本が出版されます。表紙だけ皆さんにお見せしたいと思います。
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 『はい、主よ、わかりました』という題のこの本は、どりあさんが編さんしています。
全日本甲子園リバイバルミッションは、三日間で述べ十二万四千人の方々が集まり、多くの方が救われ、多くの方が献身し、素晴らしい祝福、素晴らしい奇跡を見た集会でした。しかし、そこに至るまでには数々のドラマがありました。この働きのために、新城教会だけではなく、主に呼び出され、主に仕えた人々が大勢いました。甲子園ミッションを機に集められた人、また、そのことをきっかけに結婚に導かれた人など、ここに載っている人はほんの一部ですが、四十一人の方の奇跡の体験や、主への献身、その祝福の証しが綴られています。
 彼らは、何もできないけれども、「主が私を使ってくれるなら使っていただきたい!」という思いで集まり、主の前に自分自身をささげたときに、その働きの中で取り扱われ、そこでへりくだりを学び、素晴らしい働きをしたのです。
甲子園リバイバルミッション本大会は、本当に祝福されました。しかし、ただ大会が祝福されたというだけではなく、そこにかかわったすべての人たちが大きな財産をいただくことができたと思います。私もそこにかかわらせていただけたことを心から感謝しています。
 この教会がこれからも用いられるために、主が願っておられるこの地のリバイバルのために、私たちはどこまでもへりくだって主に仕え、富む者となってまいりましょう。

 そして、主の前に富む者となる三つ目の条件は、「忍耐を持って主を待つこと」です。ヤコブの手紙一章四節に、

『その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。』

とあるように、忍耐するなら完全な者となると教えています。

 「忍耐」という言葉は、明先生がサインを求められたときによく書いておられた言葉ですが、先週、午後の証し会で、一人の少年が語っていましたね(今はもう立派な青年ですが、私にとってはいつまでたっても少年です(笑))。「僕はへりくだることは教会で育ってきたことによってできているけど、まだできないことがある。それはおじいちゃん(明先生)が聖書に書いてくれた、忍耐、という二文字です」と言っているのを聞いて、「本当にそうだ」と思いました。それは、彼に忍耐がないと思ったのではなく、私自身がまだ忍耐の足りない者だと確認したということです。
私は皆さんが知っているとおり、話すのが早いです。「なんでこんな早くしゃべるの? もう少しゆっくりしゃべったら」とよく言われます。また、今は皆さんと一緒にカレーを食べることはできないですが、食事のときよく私の前に座る姉妹に「先生はなんでそんなに早く食べるの? もっとゆっくり食べないと健康によくないですよ」と、毎回のように言われていました。そんなときは、「早く食べないと美味しさがわからないんですよ!」と答えるのですが、とにかく食べることも、トイレも、お風呂も、何でも早いのです。そのようにせっかちなので、忍耐が足りないところもあると感じるわけです。

 聖書に出てくる人で、いちばん忍耐を強いられたのはヨブではないかと思います。ヨブ記を読んでいきますと、彼は裕福で、たくさんのものを持っていました。しかしあるとき、すべてを失いました。奧さんも家族も、財産も、すべてです。そして足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物ができてひどく苦しみました。しかし、そんな中でも彼は忍耐して忍耐して、主を仰ぎ見ました。それにより、主は彼の後の半生を前の半生に増して祝福されたことがヨブ記四十二章に書かれています。
 忍耐を強いられるとき、なぜ私だけこんなに苦しい目に遭うの? こんな苦難を乗り切ることができるのだろうか? と思うことがあるかもしれません。しかし、第一コリント十章十三節には、

『あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。』

と、神は脱出の道を備えていてくださっているとあります。正直、私はこれまで「耐えられないかもしれない」と思うような出来事に遭遇したことがありませんので、想像することはできても、あまりこのことを語る資格がないかもしれません。皆さんはいかがでしょうか? もう無理だ、と思うようなそんな苦しい試練を経験したことがあるでしょうか。

 昨年の十月に享子さんが病気になって、順先生が意気消沈しておられるのを見て、私は涙が出てきましたね。でも一方では、そこからこれまで忍耐して祈り、病と闘っておられる姿を見て、「順先生はすごいなぁ」と、感動すら覚えています。私だったらそこまで忍耐できなかっただろうし、いや忍耐できないから私はその境遇にならなかったのかもしれないとも思いますが・・・。今は、神さまが享子さんを癒やし、がんがなくなるという奇跡を起こしてくださいました。しかし、まだ治療中だということですので、完全な癒やしのために続けて祈ってください。
皆さんのうちにも試練の中にいる人がいるかもしれませんが、神さまはみことばにあるように、必ず脱出の道を備えてくださっています。そして、『しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。』(イザヤ書四十章三十一節)と、私たちを励ましていてくださいます。私たちがどんな状況になったとしても、私たちが喜んで主を待ち望み、忍耐を持って待ち望んでいきたいと願います。

 最後に少しまとめたいと思います。世のある人たちは、周りの人を蹴落としても自分さえよければいいと考えます。コロナ感染のニュースを見ると、なんであんな行動が取れるの? というような自分勝手な人もいますが、私たちはあくまでもへりくだる者、仕える者となりたいと思います。主は、そのような人を高くしてくださいます。忍耐を持って待ち望む者が主から祝福を頂くことができるのです。

 時に私たちは、物事を見た目で判断することが多くありますね。見て、良い悪い、と考えますが、神さまは違います。

『私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を受け継ぐ者とされたではありませんか。』(ヤコブ書二章五節)

ここに、主は、あえて「この世の貧しい人を選んで信仰に富む者と」した、とあります。貧しいというのは別にお金がないということではありません。マタイの福音書五章三節には、

『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。』

とあるように、私たちが自分の貧しさを知るなら、自分の足りなさを知るなら、あなたに富む者となる資格を下さるのです。
 
 初めに読んだみことばもう一度お読みします。

『ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。』(ペテロの手紙 第一 五章六節)

 私は今回のメッセージの準備が整ってもう一度読み直した時に、「あぁ、これって、私に神さまが語っている。あなたができていないことはこれだよ、と私に示してくださったみことばだ」と思って、本当に心から感謝してこれを受け取りました。
神さまは、何もない私たちを選んで、富む者としようしてくださっています。これからどんな時代になろうと、どんな試練が来ようとも、主を待ち望む者は力を得るとありますから、どこまでもへりくだって忍耐して、必ず主が祝福で満たしてくださり、富む者とさせてくださるということを信じて仕えていきたいと思います。そして、神の前に出たときに、「あなたはよくやった! これだけのものをあなたにあげよう」と言われるような者になりたいと思います。

 皆さんでお祈りいたしましょう。
主の前で富む者となるには、すべてを主に委ね、へりくだって主に仕え、忍耐を持って主を待ち望むことが必要だと、私が教えられたことを語りましたが、皆さんの中で、何か足りないものに気づいたら、そのことを今、主の前に悔い改め、私も主の前に富む者とさせてくださいとお祈りしましょう。


 お祈りします。
 愛する父なる神さま、み名をあがめます。今日、この小さき者がみことばを語らせていただきました。私たちがもう一度、主の前に出て、すべてを主のみ手にゆだね、どこまでもへりくだって主に仕え、患難があっても忍耐をもって主に従う時に、主が私たちを主の前に富む者とさせてくださることを信じます。ここに集まったお一人おひとりに主が触れてくださって、恵みと祝福、力で満たしてください。今日の恵みを心から感謝します。すべての栄光を主に返します。信じ感謝して、主のみ名によって祈ります。アーメン。